ひるみなき幽閉11年の道
「08憲章」劉暁波氏、民主化の闘い
中国共産党の独裁体制を批判、民主主義体制への移行を訴えた「08憲章」の起草者、劉暁波(りゅうぎょうは)氏に対する懲役11年の刑が確定した。中国最大の祝日である春節3日前の今月11日のことだ。過去何度も獄中で春節を迎えた劉氏だが、11年の幽閉は54歳の彼にとって絶望的な長さに思える。しかし劉氏はひるんではいまい。その底には1989年の天安門事件で、民主化を求め犠牲になった若者らへの責任感があり、自ら捨て石になる覚悟で08憲章を起草したからだ。劉氏の裁判は、共産党の非民主性を暴露し、内外の関心を集めた。劉氏の闘いは始まったばかりだ。(中国総局長 伊藤正)
2年前、劉暁波氏と愛妻の劉霞氏を北京の日本料理店に招いた。劉氏は「この人は酒豪です」と緊張気味の夫人を紹介、夫人は熱燗(あつかん)をぐいぐい飲んだ。劉氏の刑確定後、夫人に酒を差し入れようとしたが、電話はつながらなかった。劉氏収監後も夫人への監視は続いているのだ。
その会食の際、劉氏は、胡錦濤政権になってから当局の監視や言論統制が年々強まっていると話した。それは共産党が国民の支持を失いながら、なお支配階級の特権を守るため一党独裁維持に躍起になっている表れにほかならない。
劉氏は当時、08憲章の構想を温め、作家の余傑氏ら少数の知識人に相談していたようだ。天安門事件以降、経済発展の一方で政治改革も民主化も停滞し、矛盾や問題が山積、社会に不公平感が広がる中で、民主主義体制以外に道はないと考える知識人は多かった。
しかし、当局の弾圧を恐れ声を上げる人はごく少数だった。90年代以降、共産党批判の言動は取り締まり対象になり、3年間の労働矯正所送りになった劉氏はじめ多数の知識人が迫害を受け、著作や刊行物の摘発が相次いだ。
そうした中で、2008年12月10日の世界人権デーに合わせてインターネット上に発表されたのが08憲章だ。自由、人権、平等などの基本理念に立ち、直接選挙による憲政、三権分立、言論の自由、人権の保障など19項目の要求を掲げ、303人の学者、弁護士、作家らが署名していた。
ネット上で賛同の署名を呼びかけた憲章を、共産党指導部が党への挑戦と受け止めたのは当然だった。この動きを事前に察知した治安当局は憲章発表予定の前々日、中心人物の劉氏を自宅から連行、拘束した。
劉氏は拘束を予測し身の回り品を用意していたという。起訴され重刑を科せられるのも覚悟していたに違いない。それでも、劉氏があえて公然と行動に出たのは、経済発展をバックに一党独裁が絶対化し、民主化が後退することへの危機感だったろう。
劉氏の行動の原点は、天安門事件を抜きに語れない。彼は1980年代半ば、北京師範大学大学院時代から、中国の封建制批判など、鋭い評論で注目され、オスロ大学やハワイ大学から招聘(しょうへい)されたのに次ぎ、89年には米コロンビア大学の客員研究員として渡米した。
その年の春、北京で始まった学生らの民主化運動が過激化し迷走しだした5月中旬、劉氏は急きょ帰国した。彼は党がいずれ鎮圧に出ると予測し、知識人が結束して学生らを天安門広場から撤退させる必要を説いたが、失敗。6月2日には、他の3人とともに広場でハンストに入った。
その目的は、自ら運動に参加し、学生らに撤退を促すことにあった。しかし党は翌3日夜から武力鎮圧を開始、4日朝まで広場にとどまっていた数千人の学生に武力行使の危険が迫る中で、劉氏らは必死の説得を続け、広場での流血を食い止めた。
08年6月、劉氏は天安門事件を回顧し「この19年間、私は大虐殺の生存者として闘い続け、(犠牲になった)若い魂に恥じない尊厳ある生き方をしてきたつもりだが、あの世から見れば、依然私は恥辱の中にいる」と書いた。
天安門事件後、逮捕され1年半の刑期を終えた後の劉氏は、海外のメディアやネットに評論を精力的に発表、国外に出ることを拒否してきた。彼はそれを「歴史への責任」「知識人の道義」と言う。
劉氏は、現実主義者である。天安門事件当時も、民主化には長い時間を要し、無駄な血を流すなと学生らを説得した。その劉氏が08憲章で行動に出たのは、単に危機感によるものではなく、現実社会の変化が味方すると読んでのことだったろう。
社会の変化は情報革命がもたらした。4億人のネットユーザー、7億台を超えた携帯電話など、情報伝達手段の発達は、政府の情報管理、宣伝能力を大きく殺いだ。特にネットが普及したこの10年間、ネットは最大の世論構成力を持つようになり、政府の政策や人事をしばしば動かしてきた。
劉氏はネットの発達で、民間がかつてない社会変革の力になったと数年前から唱えている。情報を政府やその宣伝機関が独占していた天安門事件当時には考えられない事態だ。
08憲章は、ネットで瞬時に全中国、全世界に流れ、最初の5日間に約7000人の署名を得た。この間の中国国内からのアクセス数は500万を超えた。当局は慌てて規制、中国国内から検索は不能になり、劉暁波氏がらみのニュースは中国メディアではタブーになった。
08憲章事件では、当初の署名者だけではなく起草に関与した数人の知識人も弾圧されなかった。中国当局が劉氏1人を摘発したのは、事態の拡大を避ける狙いに加え、1人の主張が拡大、普遍化するネット空間では、「首謀者」を、他の見せしめにすることが有効とみているからだ。
劉氏への有罪判決は、中国が自らの憲法で規定している「言論の自由」や、中国も調印している「市民的及び政治的権利に関する国際規約(B規約)」に反しているとの批判が起こった。経済大国、中国は劉氏の抹殺に成功したかに見えるが、劉氏の存在はかつてなく大きくなり、中国政府への重圧になろうとしている。獄中の劉氏の笑みが浮かぶ。
産経
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http://blogs.yahoo.co.jp/heratri_topics/folder/858963.html
抜粋
詩人でもある彼は、
「自由を失った日々、体は暗闇に落ちたが、
魂は、霊魂と対話する時間ができた。
僕の魂の眼が開かれ、亡くなった将君の両親が、
涙を流して蝋燭の火を燈す姿が見えた。
自由を渇望した人は死んだが、彼の霊魂は、生き続けている。
自由から逃避した人は生きているが、
彼の魂は、恐怖の中で死んでいる」
と、詠んでいます。
また彼は、「信教の自由に干渉することは、人間としての
一線を越えてしまうことである。
信者の礼拝に嫌がらせをすることも、一線を越えることである。
それは本来、法の追求と裁きを受けなければならない
ことなのだ」と、はっきり述べています。
事実、彼が中心になって起草した「2008憲章」は、冒頭が
「信仰と言論の自由」から始まります。(その後に、主権在民と民選政府が続く。)
後段に出てくる「宗教の自由」の項には、
「現在行われている“宗教団体の事前登録・許可制度”の廃止」
が唱われています。
そして、「“情報公開”(報道の自由)こそが、
すべての鍵であり、これさえあれば、自由な中国は、
必ず訪れるのだ!」と主張している点が、注目されます。