さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【破戒と無戒】

2020-07-08 19:48:36 | 仏教講座
前回、「戒律」の話が出ましたので、本日は、そのあたりをテーマにしたいと思います。


「戒律」という言葉は聞いたことありますよね?
仏教徒が守らなければならない「決まり事」だと思ってください。
「戒」と「律」には若干違いがありますが、同じようなものです。


「戒」は仏教僧侶にあるのはもちろんですが、出家者でないただの仏教徒にもあります。
出家用、在家用、それぞれに「戒」があり、その決まりを守るという約束をして、僧侶になり、仏教徒になるのです。
それを「受戒」と言います。
原則としては、僧侶は全員「受戒」しているはずです。
それが、昨日も言いましたが、仏教界の常識です。


「受戒」した者が「戒律」を破ることを「破戒」と言います。
守るべき約束事(戒律)を持っているからこそ、できることだと言えますね。


一方、守るべき約束事を持っていなことを「無戒」と言います。
当然、約束事が発生する「戒律」は授けられていません。
「無戒」の者は、はじめから、守るべき約束事がないため、「破戒」はできません。
また、原則に従えば、「受戒」が僧侶の前提ですから、「無戒」の僧侶は存在しません。


「破戒僧」という言葉は、たまに聞く言葉だと思いますが、「破戒僧」という言葉は存在しますが、「無戒僧」という言葉は存在しません。
「無戒」であれば、「僧侶」ではないのです。
それが、仏教の原則であり、常識です。
その常識は現在でも常識です。
だから、「無戒」である浄土真宗僧侶は、日本を一歩出れば、僧侶として扱われることがありません。


親鸞聖人は「破戒僧」でした。
正確に言えば、「破戒僧」から、流罪により「僧」の身分を奪われたため、一旦「無戒」の一般人に戻りますが、罪が許され、「僧」の身分が回復されて、再び「破戒僧」となられたわけですね。
しかし、「無戒の僧侶」だったことはありません。


親鸞聖人の師である法然上人は、「持戒堅固(戒律をきっちり守り破ることが無い)」の僧として高名でした。
「生涯不犯(ふぼん)」と伝えられています。
そればかりではなく、法然上人は当代随一の「戒師」として、大勢の人々に「戒」を授けていらっしゃったのです。
親鸞聖人は法然上人の弟子だったわけですから、恐らく、法然上人からも「受戒」されていたのではないかと想像します。
そんな親鸞聖人が、敬愛してやまない師匠のスペシャリティーである「戒律」というものを疎かに考えられていたとは、到底思えません。
しかし、親鸞聖人は、その大切な「戒律」を自ら破り、確信犯として「破戒僧」となられたのです。
「持戒堅固」で「生涯不犯」であられた、大好きな師匠とは、真逆の「破戒僧」に、敢えて身を落とされたのです。


何故か?
それは、
「私は、到底、戒律を守り通せるような人間ではない。」
と、自覚されたからです。
そして、高潔を装うこと嫌って、裸で、恥ずべき「破戒僧」という境涯に立たれた。
と、いうことです。


でも、そこのあなた!
「そうだよね、守れないよね。」
などと軽々しく思わないでくださいよ。
レベルが違いますからね、レベルが!


「あー、もう我慢できない、酒飲みたい、でも我慢しよ。んー、やっぱりできない。えーい、飲んじゃえ。ふーっ!俺って、弱い人間だよな。」
なんてことではないんですよ。
我慢できるかどうかという、低レベルな話ではないんだからね?


テレビCMの中の涼し気なジョッキの泡が眼に入り、
「あ、美味そ。」
と、思ったら、もうアウトなんだからね。
ウナギ屋の前を通ると漂う、あの香りに心惹かれたら!
もう、アウトなんですよ、それは。


我慢する、しない、なんてところまで来てたら、それはもう、論外ですよ。
戒律を破ることに繋がる思いが、少しでも心に浮かんだら、それがもう、立派な「破戒」なんですよ。
だから、できないんです。
我慢すればいいだけなら、誰にでも我慢はできます。
私には無理だけど。


突然、話は下(しも)へ降ります。
下だからと言って、宮本さんの話ではありません。
真面目な話です。


男の分身は、時として、意味なく起き上がります。
若ければ、猶更、コントロールは不能です。
朝目覚めると、自分よりも先に起き上がっていたりもしています。
それが許せない!
そうなる自分が許せない!
と、自分の分身を切り落としてしまったというお坊さんが、タイなどにはいらっしゃいます。
近年もいらっしゃいました。


そういうレベルで、それほどの覚悟で、ギリギリのところまで己が煩悩と向かい合い、その結果としての、
「私には守れない」
ですからね。
簡単に共感しないでね。
できる我慢もしたくないから、って、「無理」だと言ってるわけではありませんよ。


で、そんな「戒律を守ることさえできない自分」を、親鸞聖人は、
「愛欲に深く沈み、名誉ばかり欲しがる自分である」
と、悲しみ、恥じ、痛み続けられたのです。
死ぬまでね。


何故か?
「破戒」だからです。
僧侶にあるまじき「破戒」を犯していたからです。
「無戒」ではないんです。
「無戒」だと、恥じる必要がないのです。
「無戒」だと、痛くないのです。
そもそも、「無戒」には、守るべき「何か」がないのです。


それでいいの?


というわけで、次回に続きます。



【神様、お金をください!】改め【私は考える】

2020-07-06 22:13:51 | 仏教講座
折に触れというか、ことあるごとに、私、浄土真宗と他宗(神道を含む)は断絶しているという話をしてきたと思いますが、浄土真宗が他宗のどんなところを否定しているのか、ということを、もう少し細かく考えてみたいと思います。
まず、浄土真宗が認めないあれこれを列挙します。
ちなみに、僧侶信者共通です。


1 阿弥陀如来以外の仏様(お釈迦様を含む)、菩薩様、神様等をお祀りすること
2 ↑を拝むこと
3 神仏にお願い事をすること
4 加持祈祷・おまじない・お祓いなど
5 先祖供養(現場では普通にやってる)
6 占いなど
7 戒律
8 修行


こんなところ?何か忘れてますかね?
ま、いいや。
次に、他宗では認められていないけれど、真宗では認められていること。


① 僧侶の肉食(今は他宗の人も普通に食べてる)
② 僧侶の妻帯(今は他宗でも認められている)
③ 寺院の世襲(今は他宗でも多い)
④ 僧侶の有髪(今は他宗でも生やしている人いる)


これ、一般的な感覚で見ると、ちょっとびっくりしませんか?
私、自分で並べてみて、びっくりしました。
1~8って、普通の人が思い浮かべる、いわゆる宗教的行為じゃないですか?
1~8で「信者」の宗教行為を否定して、①~④で、坊さんだけを甘やかす、と。


ちょっと待って、ほんとに、私、今、マジで戸惑っています。
私は、またしても地雷を踏んでしまったようです。
どうしよう?闇だ、これ。


・・・・・・・・・・混乱のあまり、とりあえず寝ることにしました。


で、起きて再開です。
昨晩、この続きを書いてはいたのですが、ボツにすることにしました。
でも、浄土真宗のお坊さんには、この問題、深刻に考えてみていただきたいと思いますので、簡潔にまとめてみます。
楽しくないので、ごめんなさい。


まず、親鸞聖人は「1~8」に対して寛容であるということが前提となります。
それを前提として考えると、「1~8」を否定する目的は、他の宗教的行為から「信者」を遠ざけることだと言えると思います。
何のために?
「信者」の気持ちを逸らさせないようにするためですね。
隔離政策です。
洗脳の常套手段ですね。


次に、「①~④」ですが、これ、僧侶の「特権」と考えることができます。
なぜかと言えば、信者は「1~8」で縛られるだけなのに対して、僧侶には、「①~④」ですが、他宗の僧侶には許されないことが許される、という役得があるからです。


その根拠となるのが、「7」ですね。
「戒律」が否定されている、つまりは、「戒律」が無い、「無戒」であるということですね。
しかし、仏教界の常識では、「受戒」していない、「戒律」を授けられていない僧侶は、存在しません。
「無戒」と「僧侶」は両立しないのです。


ということは、「無戒」である浄土真宗の僧侶は、常識的には「僧侶」ではない、ということになります。
実際、世界的仏教社会においては、浄土真宗の僧侶は「僧侶」ではなく「居士(在家信者)」と見做されているんですよ。
ちなみに、僧侶が戒律を破ることを「当たり前」だと気にしないのは、日本人だけです。
まあ、それだけ信用も尊敬もされていない、ということですが。
僧侶の皆さん、パッポンやアンヘルスや林森北路で、間違っても、「自分は僧侶だ」と、言わないようにしてくださいね。


では、常識的には「僧侶」ではない浄土真宗「僧侶」なるものが、なぜ存在してしまうのか?
それは、教団という閉ざされた社会の中だけで流通する特殊用語、つまりは「団体」における「役職名」としての「僧侶」という用語が発明されてしまったからですね。
「僧侶(一般社会)」≠「僧侶(浄土真宗)」
浄土真宗の所為で、日本には、定義が真逆である二種類の「僧侶」が存在してしまっている、ということですよ。
ややこしくなるわけです。
日本という土壌が、それを許したんでしょうね。


さて、それでは、「僧侶(浄土真宗)」即ち「役職名僧侶」とは、どんな役割を担う人々なのでしょうか?
「教団」→「僧侶」→「信者(門徒)」
という、教団内ヒエラルキーの中で、「信者」に対して指導的立場にあるのだということは、明らかです。
むしろ、指導的立場を担う人々に対して、「①~④」のまま、つまり、「無戒」であるにもかかわらず、「僧侶」と名乗ることが許された、「僧侶」であると名乗る「特権」が付与された、と、考えた方がいいかもしれませんね。


ここからは、すごくイヤ~な話をします。
いったい、なぜ?
指導的立場を担う人々に対して「特権」が与えられたのでしょうか?
教団は、信者の孤立化を図り、積極的洗脳政策に邁進しております。
ということは、指導的立場とは、
「信者を洗脳する」
「非信者を洗脳して信者にする」
という役割を確信犯として担う立場だということになります。
汚れ仕事です。
だから、代償として、「僧侶」という勲章を手に入れることができた。
と、考えるのが妥当ではないですか?


教団(元締め)→僧侶(洗脳された人∧洗脳する人)→信者(洗脳される人)
というよりは、
教団(元締め)→僧侶(確信犯として騙す人)→信者(騙される人)


これ、どっちだと思いますか?
「∧」は「かつ」です。


いずれにせよ、これからの浄土真宗は、
1「カルトであることを自覚して、確信犯としてカルト(洗脳)道を貫く」
2「カルト化した教義を捨て、カルトから脱却して、仏教として出直す」
どちらかを選ぶ必要がありますね。


「1」を実践しているのが、「S鸞会」さんとか、「D朋会運動」とかですね。
まあ、今となっては、「洗脳力」のある坊さんなんて、ほとんどいないんだから、私としては「2」の方向性が好ましいと思うのですが・・・・・。
皆様は、それぞれ、お好きな方へ。


親鸞聖人の「御同朋」「御同行」は世界人類すべてですからね。



【すべて仏説 その2】

2020-07-03 18:32:16 | 仏教講座
前回は、浄土真宗というものが、他の仏教諸派から見た場合、非常に異質なグループとして存在しているということと、その原因が信仰の課題が「仏中心」ではなく、「人(自分)中心」になってしまったことにあるというお話をしたと思います。
「念仏為本(念仏が一番大切)」から「信心為本(信心が一番大切)」へのすり替えですね。


その結果、現在、日本の仏教界では、
「通仏教(普通の仏教)」と「浄土真宗」
というカテゴリー分化がなされています。


これ、一般の方はご存じないかもしれませんが、仏教界では常識となっています。
要するに、日本仏教界において、「浄土真宗は普通の仏教ではない」と認識されているということです。
私などは、これ、「どう考えても、親鸞聖人は仏教の王道を歩んでいらっしゃる」としか思えないので、非常に遺憾とするところなのですが、一般的な浄土真宗の皆さんは、むしろ喜んで、「普通でないこと」を受け入れているようなのです。


実際、こんな感じでお互いのことを認識していると思います。
浄土真宗 「他宗の坊さんたちは、前近代的でくだらないことをしている迷信詐欺」
他宗 「あいつら、き〇〇い」


これ、どっちも誇張じゃないです。
浄土真宗の偉いお坊様たちは、他宗だけじゃなく、神道だとか他宗教に対しても同じスタンスであることが多いです。


以前、こんなことがありました。
某「若手の研修で伊勢神宮行ってきました!」
私「お、良いじゃないか。勉強になったろ?」
某「はい。」
私「で、お参りしてきたか?」
某「(誇らし気に)いいえ。鳥居は避けて横から回り込みました、本殿でも参拝はしませんでした!」
私「は・・・・・・・・?」


意味不明過ぎて言葉が出なくなってしまったのですが、とりあえず、「こいつら殺した方が良いな」と思いました。
文化大革命時代の紅衛兵って、こんなやつらだったんだろうな、とも思いました。


いったいぜんたい、彼らは神社に何をしに行ったというのでしょうか?
本気で理解に苦しみました。
そもそも、神社仏閣を訪れたら、そこにいらっしゃる神様仏様に手を合わせ、頭を下げるのは、人として最低限の礼儀です。
マナーです。
それに何より、敬虔な気持ちで神様と向きあわない、というのは、真面目な気持ちで神様に向かって手を合わせていらっしゃる、正常な参拝者に対する冒涜です。
「くだらない迷信に惑わされてる馬鹿ども」だと、見下しているのでしょう。


これでは、「あいつら、き〇〇い」という、他宗の皆さまの評価が正しいと言わざるを得ません。
排他的かつ横柄な自称エリート集団という、勘違い集団ですよ。
あ、これ、怒って言っているわけじゃなくて、フラットに見た評価ですからね。


なぜ、こんな浄土真宗になってしまったのでしょうか?
だれが、こんな浄土真宗にしてしまったのでしょうか?
だから、「人(自分)中心」だとカルトになるって、言ってるの!


私、この問題については、割と細かく分析できているのですが、話題が大きくずれておりますので、元に戻します。


親鸞聖人は、こんなじゃありません。


親鸞聖人は、
「道はいろいろとあるけれど、私が行けるのは、この道だけだから」
と、お念仏の道を歩まれたのであって、他の道(他宗の方法論)を否定されてはおられません。
自分の歩んでいる道が「普通の仏教」でないなどとは、これっぽちも思っておられません。
普通に仏教を学んでいたら、阿弥陀如来に行き着いたというだけで、仏教の外に出たわけじゃないんですから。
神社に参拝もされたし、阿弥陀様以外の仏様を拝んでもおられました。
それになにより、親鸞聖人の論理は、仏教という枠組みの中で組み立てられた、仏教論理です。


「普通の仏教じゃない」なんて言われたら、顔を真っ赤にして怒り出すんじゃないでしょうか、親鸞聖人。


「すべて仏説、でも、私には阿弥陀様」
「神仏はすべて大切に、敬いましょう」
というのが、親鸞聖人のお考えです。
だから、普通の仏教として、他宗と通じ合うことのできる仏教、「すべて仏説」と言える仏教が、親鸞聖人の仏教なんですよ。
これ、覚えておいてくださいね。

(見真塾サルブツ通信Vol.0030より)

【すべて仏説 その1】

2020-07-02 11:29:41 | 仏教講座
※注意 誤解を招きやすい表現を含んでおりますので、理性でご対処下さい。戯論はお断りさせていただいております。仏教は争わない教えですから※


そもそも仏教というのは「争わない宗教」だと言われています。
そりゃそうですよねえ、「欲」や「執着」を否定するんですから、戦う理由が出てきません。
ましてや、仏教同士が争うなど、論理的にあり得ないことです。


その割に色々やって来たではないか!
と言われると、その通りではあるのですが、論争の枠を超えた思想的争いというのは、それ程あるものではありません。
ほとんどは、権力闘争であるとか、境界線争いであるとか、政治的、経済的理由で起こった争いでしかありません。


そもそも、日本では、宗派という概念などなかったんですから、論争にすらなりようがなかったわけです。
色々な入り口はあるけれど、「すべて仏説」なんだから、目指すところは同じ(成仏)だということで、折り合いがついたんでしょうね。
どっちが正しいとか、あまり、そこまで行かないのです。
「宗」というと、今では「セクト」「教団」を意味するようになってしまいましたが、同じ学部の中でゼミが違う程度の感覚だったのだと思います。


ところが、鎌倉時代以降、他宗は駄目だと敵視する集団が出てきます。
日蓮宗と蓮如上人以降の浄土真宗ですね。
「他宗は駄目だ!」という攻撃性に関しては、日蓮宗の方が激しいと思うのですが、他宗のやっていることを悉く否定した、という点では、蓮如上人以降の本願寺教団の方が尖がっていたと言わざるを得ません。


「すべて仏説」だと折り合いがつくことを、仏説だろうが何だろうが、知ったことか!という集団ができてしまったのですね。
日蓮宗については、それほど詳しくもないので語れませんが、浄土真宗の場合、
「弥陀一仏」
「神祇不拝」
「現世利益全否定」
「仏ほっとけ、神かまうな」
という「本願寺教団」が出来上がってしまったのですね。


浄土真宗他派は、本願寺ほど先鋭的では無かったように思われますし、蓮如上人以前の御歴代も、覚如上人を除けば、他宗と適当に折り合いをつけておられたというか、そんなに宗門意識を持たれてはいなかったと考えています。
まあ、実質的に宗門化なんてしていなかったわけですよ。
それが、蓮如上人の驚異的な布教力(洗脳力?)によって、ほんの数十年で日本一の勢力を誇る本願寺教団が出来上がる過程で、どんどん尖っていったのだと推測します。


もちろん、表向きには、蓮如上人が他宗との対立を煽っていたとは言えません。
蓮如上人は、繰り返し繰り返し、「他宗の方が偉い」だとか、「他の仏様も神様も敬いなさい」という趣旨の注意を門徒に与えておられます。


が、しかし、蓮如上人がお示しになられた、
「お前ら、信じろ!信じられたか!阿弥陀さん、最高じゃ!」
という、「本願寺」の浄土真宗教義は、必然的に、
「他の神様や仏様はいらない、阿弥陀さんだけいればいい!」
という空気を作り上げていったわけです。


解説書に、当たり前のように、
「浄土宗は念仏為本(念仏が一番大切)」
「浄土真宗は信心為本(信心が一番大切)」
と、浄土宗(法然上人)と浄土真宗(親鸞聖人)との違いが説明されていますが、これ、間違ってますからね。
親鸞聖人は「信心為本」なんてこと仰ってませんから。
だって、親鸞聖人は、
「私は、まだ、(阿弥陀様が)信じられないんだ」
と、告白なさった方ですよ?
人間には、確かなものを信じることさえままならない。
という立場を貫かれた方ですよ?
そんな方が「信心が一番大切」なんてことを、仰ると思えますか?


親鸞聖人は「念仏為本」です。
従って、
「浄土宗(法然上人・親鸞聖人)は念仏為本(念仏が一番大切)」
「浄土真宗(本願寺・蓮如上人)は信心為本(信心が一番大切)」
が正解です。


ところが、教科書に「浄土真宗(親鸞聖人)は信心為本」と書いてあって、試験でも、そう答えることを求められたりとしているうちに、これが正解だと思い込み、本当にそれが正しいのかどうか検証してみよう、という気にもならない人が多いんでしょうね。


なぜ、こんなところに話が飛んでいるかというと、「念仏為本」であれば他宗派を全否定する必要が無くなるんですよ。
浄土宗だけでなく、天台宗や禅宗、その他の宗派でも、お念仏されてますから。
中国仏教系のお坊様方なんて「阿弥陀仏」が挨拶ですよ。
つまり、「念仏為本(念仏が一番大切)」というところに立つと、前に出るのは「阿弥陀如来」ということになりますが、阿弥陀様は、浄土真宗だけの仏様じゃありませんからね。
「阿弥陀如来」の解釈は様々であったとしても、それ以前に、同じ仏様を拝んでいるという共通項を持つことになるのです。


ところが、「信心為本(信心が一番大切)」という立場に立つと、何よりも「自分」が前に出てしまうのです。
だって、「信心」の主体は「自分」でしょ?
いや、違う、「信心」の主体は阿弥陀さんだ、というのは正論ですが、ここ、混同しないで下さいね。
親鸞聖人のお考えに立てば、「信心」の主体は「阿弥陀如来」です。
「大信心」です。
前に、お話ししましたよね?
しかし、蓮如上人が「信心為本」だと仰る「信心」の主体は、明らかに「人間」なのです。
蓮如上人は、(恐らく)意図的に、阿弥陀様のお心である「大信心」を、人間の「(成立し得ない)信心」へと、すり替えてしまわれたのです。
何のために?
洗脳のため、ですよ。


「信じられなくても救われるんだよ(救われているんだよ)」
という、親鸞聖人の真骨頂は、かくして、
「信じる者は救われる」
「信じなければ救われない」
という一般則に引き戻されてしまいました。
それから600年ですよ・・・・・。


自分の「信じる」気持ちが問われる、というのは、大変なことなんですよね。
仏様に向かう前に、自分の心が問われるんですよ?
「お前、信じてるのか?」
「お前の信心は本物か?」
「お前に仏を拝む資格(信心)があるのか?」
信心、信心、信心信心、信心信心信心、うぎゃあ!ですよ。


果たして、「信心モンスター」の出来上がりです。
「自分の信じている阿弥陀様だけが、本当の阿弥陀様だ!」
「自分のしている念仏だけが、本当の念仏だ!」


心当たりある人いるでしょ?
「他力念仏」だの「自力念仏」だの言ってる、あなたですよ。
心当たりのない方は幸いです。
根拠のない自信は洗脳の証ですから。


仏様(「神」)が中心である信仰観と、自分(自分の分身的延長線上にあるセクト)が中心となる信仰観とは、まったく異質の信仰観となります。


現在の宗教界を見てみると、わかり易いと思います。
信心、信心と騒いでいるのは、浄土真宗と、カルトとも言われる新宗教、新新宗教くらいのものですよね?
ネットには、浄土真宗のことを「真宗カルト」と呼ぶ人が少なからずいますが、概ね、まっとうな分析だと思います。
親鸞聖人は違うのにね。

(見真塾サルブツ通信Vol.0029より)

【あなたは、仏を信じられますか?】

2020-07-01 22:37:10 | 仏教講座
ここ数年、浄土真宗用語にまったく興味が無かったので、忘れかけていましたが、久しぶりに「二種深信」という言葉を聞き、色々と考えてしまいました。
なので、本日は、宗教とは切り離せない「信心」というか、「信じる」ということについて考えてみたいと思います。


ちなみに、「二種深信」というのは、「信じる」ということには、「機(人間)」についての「信心」と「法(阿弥陀如来)」についての「信心」と二種類ある、ということです。
「深信」=「信心」です。
「自分はダメ人間だから、成仏なんてできるわけがないと深く知れ」(機の深信)
「そんな自分でも成仏させてくださるという、阿弥陀様を深く信じろ」(法の深信)
もっと簡単に言えば、
「南無」(機の深信)
「阿弥陀仏」(法の深信)
「南無阿弥陀仏」(機法一体)
ということです。
結論から言えば、「一体になるなら分けるんじゃねえ!」と、いうことになります。


これは、本願寺を一代で日本最大の教団にしてしまった怪物、蓮如上人が好んだ考え方ですね。
蓮如上人の手法は、はっきり言えば、洗脳だったと考えるべきです。
日本全カルトの祖とも揶揄されていますが、まさしく、そうだと思います。


「お前はダメな奴だと心を折る」(機の深信)
「それでも阿弥陀様だけはお前を見捨てない、と刷り込む」(法の深信)


この手法、今でも東本願寺系に残っています。
まあ、宗教は須らくカルトで、洗脳は主たる布教手段ですから、蓮如上人が悪い人だとは思いません。
が、本願寺の拡大という目的には忠実でも、親鸞聖人の教えには忠実でなかったのだと思います。
それは、「信心決定」という言葉が大好きだというところに、如実に表れています。


「信心決定」とは、信心が定まった、ということですから、つまりは、
「(阿弥陀如来を)信じることができた!」
と、いうことです。
これ、言い方を変えると、「信者になった」ですよね?
結局、
「お前も、ようやく信じられたようじゃのう。これで、一人前の信者じゃ!」
と、丸め込んでいったわけです。


なぜ、こんなことを言うのかというと、それは、親鸞聖人は、
「ダメ人間(機)に、阿弥陀様(法)が信じられる(深信)わけがないだろ!あ!」
というお考えに立たれているからです。
最初に話題にした「二種深信」ですが、成立不可ですね。
「信心決定?お前、馬鹿?」
というお立場だと、ご了解ください。


「人間の心(信を含む)は定まることが無い」
親鸞聖人の立ち位置は、常にここです。
阿弥陀如来を信じることはできないし、できなくても構わないのです。


私は、宗教言語を「相対語」と「絶対語」の二種類に分けて考えています。
例えば、「勝」「負」は相対語です。
「勝者」がいれば、必ず「敗者」が存在します。
「大小」もそうですね、比べる対象があるから、「大」があり「小」があります。
一方、例えば、「真偽」はそうではありません。
「真」であるならば、「偽」ではないのです。
「偽」であるならば、「真」ではありません。
両立しない言葉が絶対語です。
「信」も絶対語です。
「信」と「疑」は両立しません。
「半分信じてる」は「疑っている」です。
「ほとんど信じてる」も「疑っている」です。
「99%信じていたのに」は「疑っていたよ」です。


ほんのわずかでも「疑い」があれば、それは「信」ではなく「疑」でしかないのです。
「信」は100%「no doubt(by Sex Pistols)」です。
と、ふざけて良い場面ではないかもしれません。


例えば、
「こいつは俺の味方だ!俺は信じてる!」
その人が手にした匕首が、あなたの腹の肉を突き破り、内臓に届きそうな時に至っても、それでも、そう言えますか?
親鸞聖人がお考えになられた「信」は、それ程の、いや、それ以上の「信」なのです。
「ブルータス、お前もか」
と、なるなら「信」は成立しないのです。


そこまで厳しく、自らの「信」を問い詰められた親鸞聖人は、終に、
「人間を主体としての「信」は成立しない」
という結論に至られたということです。
従って、人間の「信心」が「決定」することは、間違ってもありません。


「決定」しているのは、阿弥陀如来が、
「お前たちは、一人残らず、必ず成仏できるんだよ」
と、私たち人間を信じてくださっているという、その「信心」なのです。
要するに、私たちが阿弥陀さんを信じているのではなく、阿弥陀さんが、私たちを信じてくださっているのです。
私たちは、「信じられている」んですよ。
誰も信じてくれなくても、阿弥陀様には「信じられている」んですよ。
と、いうのが、親鸞聖人の「信心」です。
それは、阿弥陀さんのお心なので「大信心」と表現されています。


「信じなくても救われる」
という信仰は、非常に珍しいのではないかと思います。
普通は、「信じる者は救われる」ですよね?
「信じなくてもいいよ」
と、仰ってくださる阿弥陀様は、なんてご奇特なお方でしょう、と、私、「仏説無量寿経」というお経を読む度に感心しているのですが、考えてみると、しょうがないことなんですよね。


だって、私たち、人間だから。
「信じる」という能力が無いんですよ。
もし、成仏するのに「信じる」という条件が付いていたら、阿弥陀様、誰も成仏させられなくなってしまいます。
阿弥陀如来の目標は「すべての人間を成仏させる」ということですから、それでは困ります。
だから、目標達成のためには、成仏させるしかないんですねえ、信じてくれない奴らでも。


もちろん、私に阿弥陀様を信じることができたならば、より、幸せな人生が送れるのではないかと想像はしています。
でも、無理なんです。
信じられないように、作られてしまっているから。
疑うように、出来ちゃっているから。
「疑う」というのは「自己防衛本能」ですからね。
信じられなくとも、仕方のないことなのです。


ま、でも、それでも、「信じたい」と願うこと、「信じよう」と頑張ることは、悪いことではないですよね、仏様のことも、他人のことも。
ちなみに、私が妻に疑われているのは、妻の防衛本能が働いているからではなく、私の行動が明らかにおかしいからだと思います。


本日の結論
1 信じられるなんて思うなよ。
2 信じていると思う自分がいたら、その自分を疑え。
3 仏様には、信じられているんだよ。

(見真塾サルブツ通信Vol.0028より)