さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【恥ずべし痛むべし】

2020-07-10 11:42:23 | 仏教講座
「無戒」は困るんです。
特に、私のような、やんちゃ坊主には、何か戒めがないとダメなんです。
無意識に、とんでもないことをしでかしたりもします。
「破れない」のは困るのです。


最初からルール無しだと、獣以下なんです、私。
破った時には、破ったんだとわかる、そんなルールが必要なのです。
すっかり忘れて、破ってしまうとは思いますが、思い出した時に、
「うわっ!しまった!やっちゃった!」
と、思えるように、ルールが必要なのです。


忘れてなくても、破る時は破ると思いますが、
「しょうがない、やるしかない」
「それでも、俺は、やる」
という、覚悟ができないと、後で困るんです。
反省できないんですよ。


どうか、私を縛ってください!


と、こんな風に思うことないですか?
私だけ?そんなことないよね?
いや、あるかもしれません。


何も「戒律」がなくたって、色んなものに縛られているというご意見もあるかもしれませんね。


法律があるでしょ?
それは、もっとも危険な考え方ですよ。
法律だけが問題だということになると、
「捕まらなければ、何したってかまわない」
という社会になることは、某国などで実証済みです。
そういう社会、お好きですか?


大人なんだから、常識というものがあるでしょ?
「盗んだ奴が悪い」と考える国と、「盗まれた奴が馬鹿だ」と考える国と、常識が同じだと思いますか?
平和ボケが標準装備の常識と、日々サバイバルを生き残る常識と、同じだと思いますか?
処変われば常識も変わりますが、それどころではありません。
今、あなたの隣にいる人と、あなたと、同じ常識を生きていると断言できますか?
常識というものは、実は存在していません。
自分の常識に従ったせいで死んじゃう人、少なくありません。


それでも、人間なんだから、悪いことくらいわかるでしょ?
と、考える人道主義者がいらっしゃるなら、聞いてください。
そんなこともわからないから、仏教を学んでいるんです。
全人類に共通する倫理観なんて、存在しませんよ。
常識と同じです。


A「人を殺しちゃいけないよね?」
B「うん、いけない。」
A「じゃあ、何で殺したの?」
B「異教徒は人じゃないから。」
これ、実話ですよ。
通じ合えてますか、これ?


自分が思ってるんだから、皆も思ってるはず。
これ、ありがちですが、あり得ません。
皆、バラバラです。


倫理観も、道徳観も、学習しなければ育ちません。
だから、多くの場合、倫理と宗教が直結しているのです。
人間側からは育ちようがないので、神様からルールブックを与えられるのです。
その、神様から与えられたルールブックが、そのまま「法」となっていることも珍しくはありません。
だからこそ、信仰を持つことの重要性が認識されているのです。


このあたり、日本人は無頓着というか、ほとんどのお坊さんは、まったくわかってないと思います。
宗教が必要かどうかはわからないけれど、宗教嫌いが増えると収入が減るから困る。
と、言う程度の認識しかないんじゃないですかねえ、だいたいは。


信教の自由、信教の自由と言うけれど、「信教の自由」の中に「信仰を持たない自由」は含まれていない社会が多いということは御存知ですか?
わかり易いのはインドネシアなので、それを例に説明します。
インドネシアは世界最多のイスラム教徒を擁する国ですが、世俗主義を採っているため、「信教の自由」が憲法で保障されています。
しかし、憲法より上位の「国是(パンチャシラ)」に定められた五つの原則の筆頭に挙げられているのは、次の一文です。
「唯一神への信仰(KeTuhanan yang Berkebudayaan)」
これ、「Tuhanan」を翻訳者がイスラム教の神「Tuhan」を意識して「唯一神」とか「唯一絶対神」とか翻訳してるんだと思いますが、「特定の神性」と訳した方が良いと思うんですけどね。
仏教、道教、ヒンドゥー教等が含まれてますからね。
それはどうでもいいですね。


ここで確認していただきたいのは、インドネシアには「信教の自由」はあるが、「信仰を持たない自由」は無い、という事実です。
「無宗教」「無神論」は逮捕されます。


なぜそうなるのか?
簡単なことです。
「神(仏も可)を信じていない人」=「倫理観がない・野蛮人」→「人間とは認められない」
と、彼らは考えるからです。
インドネシアの法律がわかり易いので例に挙げましたが、こういう感覚の社会、国外では普通にありますよ。
先進国ならそんなことないなんて、考えが甘いですよ。
保守的な人はどこにでもいます。
アメリカ合衆国大統領は「神」に宣誓しなければ就任できない、ということを忘れないようにしてください。


こういうことを知らずに、非常に得意気に「私は無宗教です」と答えるインテリぶった日本人、けっこういるんですけど、危ないですからね。
まともに相手にしてもらえなくなる可能性が、かなり高いです。
宗教に対して無頓着だと「アホ」だと思われますよ。
「宗教団体に帰属していない」=「無宗教(無信仰)」ではないのに、勘違いしている人が多いんだよね。
危険はそれだけではありません。
神に守られている人を騙すのと、神に守られていない人を騙すのと、どちらが、より罪の意識を感じると思いますか?
「騙す」「盗む」くらいで済めば良いんですけど、どこの国でも、組織犯罪者の皆様とか、スラムの方々、わりと信心深い方が多いんですよ。
やんちゃな彼らも、死ぬのは怖いんでしょうね。


なんだか「地球の歩き方」みたいになってきましたが、そういうことなんですよ「無戒」って。


あ、今、?ってなりましたか?
説明します!
「信仰を持つ」ということは、取りも直さず、「神仏に縛られる」ということなんですよ。
だから、「無戒」であるということは、「信仰を持たない」のと同じことなんです。
「破戒」は違います。
信仰を持っていなければ、その戒めを破ることもできないからです。
信仰があるからこその「破戒」です。
だから「破戒」は痛いのです。


ところが、仏教が育んできた倫理観が「戒律」となっているとしたら、その知恵を放棄するのが「無戒」です。
放棄するというよりは、存在そのものに触れない、知りもしない、と言うのが適切かもしれません。
「破戒」と違って、破るものがありません。
「破った」という自覚が生まれなければ、「痛み」も感じません。
痛くないので、反省することもありません。
それでは、「信仰を持つ」利点が何もないのではないか?
信仰を持っていない、つまりは「無宗教」であることと、何も変わらないのではないか?
と、私は思うのです。


ま、「無戒」で「宗教者」が気取れることに甘えていたいだけの人たちには、それでいいのかもしれませんが、そんなの意味ないよね?


それはそうとして、浄土真宗の僧侶が「受戒」していない問題については、形式的なことも含めて、改めて考えたみた方が良いと思いますよ。


そういう業務上の問題は別として、実は、阿弥陀様は、私たちに、「戒律を守る」なんてことよりも、ずっと重い、非常に厳しい縛りをかけておられます。
「戒律」なんて、そのほんの一部に過ぎない、と、言っても過言ではないかもしれません。
それはもう、「戒律」というよりは、「呪い」とでも言うべき、恐るべき「拘束」です。


それでは、皆様、ゆっくりとお考え下さい。


(見真塾サルブツ通信Vol.0033より)


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