さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【二種回向論 その1】

2020-07-22 16:04:50 | 仏教講座
イヤな題ですねえ。
でも、なんか、このネタやれと、M本和尚に脅されてるような気がするので、嫌だけどお話ししてみようかと思います。


「回向(えこう)」って、聞いたことありますか?
仏教では、自分が積んだ功徳を、他の人に「振り向ける」ことを「回向」と言います。
お坊さんに読経してもらって、その功徳をご先祖様に振り向ける(回向する)と、「先祖供養」になります。
この世で積んだ功徳をあの世に振り向けて、地獄の御先祖様を救出したりするわけですよ。


ところが、親鸞聖人は、
「我々には、功徳など、ろくすっぽ積めやしない。」
と、仰っておられます。
ですから、親鸞浄土教では、阿弥陀様や、仏様方から、仏の功徳というか、仏力が、我々に振り向けられているということを、「回向」と考えます。
「回向」の主体は、というか、「回向」の主体も、やはり、仏様、阿弥陀様です。


私たちは、仏様には、助けていただくだけで、何のお返しもできない、ということですね。
それは、その通りです。
私が読経したって、誰に対しても、何の功徳にもなりません。
私の読経で、迷ってらっしゃるご先祖様に極楽へ行っていただける、なんてことは間違ってもありませんから。
まあ、そもそも、ご先祖様は、一人残らず成仏してらっしゃるので、私の功徳なんて、当てにされてはおられませんね。
賢明ですね、ご先祖様。
私なんかを当てにしてたら、永遠に成仏できませんからね。


それはそうとして、仏様から、私たちに振り向けられてくる働き、それを「回向」と考えます。
それは、主体が「仏」である「回向」なので、「他力回向」と言われます。


その「他力回向」は二つの姿(相)を持っている。
というのが、「二種回向」と言われる、親鸞聖人の「回向観」なのです。
ちょっと念のために確認だけしておきますが、「二種」というと、二種類の「回向」があると思い込む人が多いのですが、「回向」は「仏様から私たちに振り向けられているはたらき」があるだけなので、一つです。
あくまでも、その一つの働きに、二つの側面(相)を見ることができる、ということですからね。


二つの側面(相)とは、
「往く姿(相)」=「往相」
「還る姿(相)」=「還相」
という二つの姿(相)として説明されます。


何処に往くんでしょうねえ?
「浄土」ですねえ。
何処から行くんですか?
この世、つまりは「穢土」からですね。


何処から還ってくるんでしょうねえ?
「浄土」ですねえ。
何処に還ってくるのでしょうか?
「穢土」ですよね。


ここで再び注意です。
行くと還るで「往還」とか言うものだから、「往復」みたいに思うせっかちな人が多いんです。
誰かが往って、還ると。
なので、
人が死ぬ→浄土へ往く→成仏する→穢土に還る→人を救う
と、こう考えるわけです。
が、浄土に往復できますか?
浄土から還ってきた人と、会ったことありますか?


現実的に考えましょうよ。
仏教は理性の宗教です。
オカルトじゃないんですよ。
神秘主義でもありません。
現実主義です。


私、死んだ爺さんに、いきなり還ってこられたりしたら、びっくりして、しっこちびるか、殴るかしますからね。
「あ!そうか!還相回向だ‼爺さん、俺を救いに来てくれたんだ‼」
て、ことに気が付くのは、数十発殴った後ですよ、きっと。
気が動転してますからね。
血の海に沈んだ爺さんを見て、後悔しても遅いんです。


危険ですから、間違っても「二種回向」というのは、
「人が死ぬ→浄土へ往く→成仏する→穢土に還る→人を救う」
ってことなんだよ、なんて説明はしないでくださいよ。


そもそも、これだと「他力回向」になりません。
自分が仏に成って、還ってきて人を助けるんだから、自己完結できるでしょ?
仏様からの「回向」は必要ありません。
俺が「回向」です。


思い込みで順序を間違えるから、そうなるのです。
一人の人間の上で考えるなら、次第は「還相」が先です。
「往還」ではなく、「還往」です。


従って、還ってきて往く、というような話ではありません。
「おう、帰ったら行くわ!」
って時は、A点、B点、C点が必要だからね。
「あの世」と「この世」、「浄土」と「穢土」の二地点しかないんですから。


「浄土から還る姿(相)が先にある」
と、覚えておいてください。
次回に続きます。

(見真塾サルブツ通信Vol.0038より)


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