ノグチサトキ

名もなきギタリストの物語

悪評について

2015-07-30 | 自分史

練習後に帰宅、一息ついて遅い食事を採ろうとしたら、

久しぶり、古い友人から電話がありました。

どうやら、私の悪評、あちこちから聞かされてのことらしい。

やさしい彼は、言葉を選びつつ、世間話を交え助言をくれました。

 

助言と言えば、他にも、私に連絡していることを内緒にしてまで、

色々、気に掛けてくれる人がいたり、 

片や全くもって、ありがたいことだと思ってます。

 

さて、こんなことを書けば、益々、反感を買うかも知れませんけれど、

実は、不評、悪評が立ってるかと思うと、なぜか妙な安心感を覚えるのです。

 

間違っても、強がりと言う訳ではありません。

 

一般的には、自分の正当性を主張して、

出来うる限りの同意を得ようとするところ、

我ながら、とても不思議に思え、これを機に考えてみることにします。

 

もちろん、反省すべきところは反省するとして。

 

振り返れば、常々、もしかしたら物心ついた時からか、

無意識なんだと思います、いつも人の顔色ばかり伺って生きてきたように思います。

 

加藤なんとか先生や、斎藤なんとか先生の本にありがち、

「嫌われることをおそれず生きたら、楽になれる」みたいなのも、

ほんとたくさん読みましたけども、そもそも、それができれば苦労しない、

いつもそんな風に思っておりました。

 

頭では、別に嫌われてもどうってことないと思いつつも、

なぜか、行動は、いつもそこに人の顔色を伺っている自分がいるのです。

まるで、体にプログラムされてるかのように。

 

そんな日常、自分が自分に疲れては、 

自己嫌悪をずっと引きずり生きているものですから、

これら一連、その方法に問題があったとしても、

自己主張が出来た、という満足感は得られたのだと思います。

 

先生方の言葉を借りるなら、結果として

「嫌われて(自己主張できて)、楽になる(肩の荷が降りた)」という、

感じがするのでしょうか。

 

ただ、その方法について、

結局、その反動、或いは、無理を重ねた結果、

極端な行動として顕れたのは、やはり、問題があったとは自覚しています。

 

要は、バランスの問題でもあるかとは思いますが、

いずれにしても、自分を見直すいい機会にはなりました。

ご迷惑をお掛けした人には、お詫びを、

また、気に掛けて頂いてる方にはお礼を、この場を借りて申し上げます。



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