練習後に帰宅、一息ついて遅い食事を採ろうとしたら、
久しぶり、古い友人から電話がありました。
どうやら、私の悪評、あちこちから聞かされてのことらしい。
やさしい彼は、言葉を選びつつ、世間話を交え助言をくれました。
助言と言えば、他にも、私に連絡していることを内緒にしてまで、
色々、気に掛けてくれる人がいたり、
片や全くもって、ありがたいことだと思ってます。
さて、こんなことを書けば、益々、反感を買うかも知れませんけれど、
実は、不評、悪評が立ってるかと思うと、なぜか妙な安心感を覚えるのです。
間違っても、強がりと言う訳ではありません。
一般的には、自分の正当性を主張して、
出来うる限りの同意を得ようとするところ、
我ながら、とても不思議に思え、これを機に考えてみることにします。
もちろん、反省すべきところは反省するとして。
振り返れば、常々、もしかしたら物心ついた時からか、
無意識なんだと思います、いつも人の顔色ばかり伺って生きてきたように思います。
加藤なんとか先生や、斎藤なんとか先生の本にありがち、
「嫌われることをおそれず生きたら、楽になれる」みたいなのも、
ほんとたくさん読みましたけども、そもそも、それができれば苦労しない、
いつもそんな風に思っておりました。
頭では、別に嫌われてもどうってことないと思いつつも、
なぜか、行動は、いつもそこに人の顔色を伺っている自分がいるのです。
まるで、体にプログラムされてるかのように。
そんな日常、自分が自分に疲れては、
自己嫌悪をずっと引きずり生きているものですから、
これら一連、その方法に問題があったとしても、
自己主張が出来た、という満足感は得られたのだと思います。
先生方の言葉を借りるなら、結果として
「嫌われて(自己主張できて)、楽になる(肩の荷が降りた)」という、
感じがするのでしょうか。
ただ、その方法について、
結局、その反動、或いは、無理を重ねた結果、
極端な行動として顕れたのは、やはり、問題があったとは自覚しています。
要は、バランスの問題でもあるかとは思いますが、
いずれにしても、自分を見直すいい機会にはなりました。
ご迷惑をお掛けした人には、お詫びを、
また、気に掛けて頂いてる方にはお礼を、この場を借りて申し上げます。