朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

言葉だけでなく、力強い御業の事実によって

2016-06-22 22:27:51 | 聖書から
あなたは救いの盾を私に授け、

   右の御手で支えてくださる。詩編18:36




 神の国は言葉ではなく

力にあるのです。Ⅰコリント4:20   




      (ローズンゲン日々の聖句6/23;木)




 詩編の作者は謳います。

「神、その道は完全。

主のみことばは純粋。

主はすべて彼に身を避ける者の盾。




まことに、主のほかにだれが神であろうか。

私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。

この神こそ、私に力を帯びさせて、私の道を完全にされる。

彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。

戦いのために私の手を鍛え、

私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる」(詩篇18:30~34)と。







 神の国のことは、人の思考の産物、単なる考え方や理論ではなく、力強い御業の現れなのだそうです。




 イエスは、「父である神」の御思いに従って、ガリラヤのカナでの婚礼で、ぶどう酒がなくなってしまったとき、母親の願いを受け入れ、水を最上のぶどう酒に変えて花婿が恥を受けることから救い(ヨハネ2:1~11)、




 ガリラヤのカペナウムの王室の役人の願いを受け入れて、死にかかっていた息子の病気をいやし(ヨハネ4:46~53)、

 エルサレムのベテスダの池の回廊で38年もの間、病で伏せっていた男に「床を取り上げて歩きなさい」と声をかけていやし(ヨハネ52~9)、ガリラヤ湖の向こう岸までついて来た多くの群衆を、そのまま帰らせたら途中で弱ってしまうとかわいそうだからと、少年が持っていた5つのパンと2匹の魚で、男だけで5千人の人々に食べさせ、満腹にさせて帰らせ(ヨハネ6:1~13)、




 道の途中で出会われた生まれつきの盲人を「この人が盲目に生まれついたのは、この人の罪でも、その両親の罪のせいでもなく、神のわざがこの人に現れるためです」とおっしゃられて、その目を見えるようにされ(ヨハネ9:1~7)、多くの病人をいやし、悪霊に捕らわれている者を解放されたのだそうです。




 それで、イエスは、自分を石打ちの刑で殺そうとしている人たちに対して、「もしわたしが、私の父のみわざを行っていないのなら、私を信じないでいなさい。

しかし、もし行っているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい」(ヨハネ10:37~38)と、言葉が信じられないのなら、事実として現れたわざによって信じなさいと言うことができた方なのですね。




神の国、神の御支配は、言葉の上だけのことではなく、力強い御業として、事実として現れるのだそうです。







 過ぎ越しの小羊として(出エジプト12:21~33、51)私たちのお身代りとなって十字架に架かって下さり、復活し、天の父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方が来てくださるとき、この方は受け入れる者の心に、「父である神」が一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるので、一人一人は、「父である神」が思っておられるとおりの、それぞれ、ちがった働きをし、一人ひとり違っていながら、一つからだを構成する肢体として、調和し、お互いを認め合い、大切にし合い、いたわり合う思いが来るようになるのだそうです。




 もし、一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶようになるのだそうです(Ⅰコリント12:19~26)。

 

古い、「生まれたときからの霊」という私自身からは出て来るはずのない、そのような思いが。

今日も。


イメージ 1











[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]









<ahref="http://www.blogmura.com/point/00697809.html" ><imgsrc="http://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/>









[269RANKのランキングサイト]









"哲学・思想 ブログランキングへ"

愛し合い、心を一つにする、幸せなものになってほしいのだそうです。私たちにも。

2016-06-22 08:22:08 | 聖書から
今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。
 ただ、あなたの神、主を畏れて
  そのすべての道に従って歩み、
  主を愛し、
  心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、
   あなたが幸いを得ることではないか。申命記10:12

 神の言葉を守るなら、
まことにその人の内には神の愛が実現しています。
これによって、
私たちが神の内にいることが分かります。Ⅰヨハネ2:5

      (ローズンゲン日々の聖句6/22;水)

 天の神、主は、恋い慕ってくださっているようですね。
私たちのことも(申命記10:15)。
愛し合い、心を一つにし、思いを同じにする間柄になりたいと。

 だから、心の包皮を切り捨て、うなじのこわい、自分の理性の善悪の判断を優先させる「生まれた時からの霊」という自分自身をイエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて処刑されてしまっているものと認めて(計算して、帳簿につけて)、
三日目に墓より復活し、40日にわたって何度も弟子たちに現れて、ご自身が確かに生きていることを数々の確かな証拠で証明したうえで、弟子たちの見ている前で雲に迎えられ、天の「父である神」の右の座に帰られたイエスが、派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方、
この方を受け入れ、この方の働きによって、「父である神」と呼ばれる方が私たちひとりひとりに思っていてくださる御思いを、心に書き付けていただき、同じ思い、一つ心になりながら歩む。
その幸いを得る道を歩んでほしいと願っていてくださるのだそうですね。

 「聖である霊」と呼ばれる方の、「父である神」、「御子である神」に対する御愛が受け入れる者に来るとき、私たちにも、この方の天の神、主を愛する心が来て、愛する方と思いを一つにしたい、心を一つにしたい、御思いの中にいたいと願うようになり、お言葉のとおりに、御思いのとおりに生きたいと願うようになるのだそうです。

 これは、願っていくなら、求めていくなら、必ず実現する生き方なのだそうです。
うらみのある者を赦す心にも(マルコ11:20~26)。
今日も。
イメージ 1

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

<ahref="http://www.blogmura.com/point/00697809.html" ><imgsrc="http://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif" alt="PVアクセスランキング にほんブログ村" />

[269RANKのランキングサイト]

"哲学・思想 ブログランキングへ"