朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

いつも善を行いたい思いが心に来て

2017-05-23 06:16:42 | 聖書から
友を侮ることは罪。
貧しい人を憐れむことは幸い。箴言14:21

 だれも、
悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。
お互いの間でも、すべての人に対しても、
いつも善を行うよう努めなさい。Ⅰテサロニケ5:15

 ルカ18:1~8
 使徒3:1~10(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句5/23;火)

 天の神、主のお心からすれば、兄弟に向かって「能なし」と言うような者は、殺人罪で最高議会に引き渡され、
「ばか者」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれるようなことなのだそうです(マタイ5:21~22)。

 それで、使徒パウロを通して、「あなたはいったいだれなので、神が受け入れてくださった、他人のしもべをさばくのですか。
しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。
このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです」(ロマ14:4)とおっしゃられるのですね。

 〔聖である霊〕と呼ばれる方によって受け入れる者の心に来る〔父である神〕の御思いは、復讐は天の神、主にお任せして(ロマ12:19~21)、悪に対して善をもって報い、すべての人に善を行いたい思いのようですね。

 イエスは、私たちが、いつでも〔父である神〕に心の願いを明かし、失望せずに御心が実現することを待ち望むようにと、不正な裁判官のたとえを語っておられます。

神を恐れず、人を人とも思わず、自分の都合のいい裁判をするような不正な裁判官も、
ひっきりなしにやって来て裁判をしてくれるように頼むやもめのために、うるさくて仕方がないから裁判をしてやることもある(ルカ18:1~8)。
まして、神は、夜昼神を叫び求めているご自分の民のために裁きをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか、と。

 イエスが、十字架刑での処刑を受けられ、
三日目の日曜日の早朝、死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国のことを語り、
「エルサレムから離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
もう間もなく、あなたがたは聖霊のバブテスマを受けるからです」と言い残して、
オリーブ山から天の父の右の座に帰られ、

それから10日後の、モーセによる旧約律法締結の記念日であるペンテコステ(五旬節)の祭りの時、
その約束の〔聖である霊〕と呼ばれる方が弟子たちのところに来られて、
この〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、弟子たちの心に〔父である神〕の御思いが来て、
弟子たちが、この、心に置かれた〔父である神〕の御思いによって行動するようになった(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28、使徒2:1~4)後のこと、
生まれた時から足がなえていて、エルサレム神殿の「美しの門」に運ばれ、置かれて、物乞いをして生活をしていた40歳余りの男性が、宮に入ろうとするペテロとヨハネを見て、施しを求めたのだそうです。

ペテロとヨハネが「私たちを見なさい」と言ったので、その男性は何かもらえると思って二人に目を注ぐと、
ペテロは、「あなたが期待している金銀は私にはない。
しかし、私にあるものを上げよう」と言って、
「ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」と命じ、彼の右の手を取って立たせると、たちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩き出し、歩いたり、はねたりしながら、神を賛美し出したのだそうです。

 天の神、主は、私たちの願いのとおりにではなく、ご自身の御思いのとおりに答えてくださる方のようですけれど、
その答えは、この男性の時のように、私たちの願いとはかけ離れた、素晴らしいものになるようです。

 〔聖である霊〕と呼ばれる方は、私たちにも、自分の願いや、友を侮る思い、貧しい人を軽く見る思い、自分で復讐をしたい思いも、そのままに〔父である神〕と〔御子である神・イエス〕の御前に差し出し、知っていただきながら、

〔父である神〕の、隣人を尊重し、貧しい人を思いやり、すべての人に善を行いたい、その御思いが成ってほしいと願う、〔父である神〕への愛の心に満たして下さるのだそうです。
今日も。
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