私の救いと栄えは
神にかかっている。詩62:8
私のためにののしられ、迫害され、
身に覚えのないことで
あらゆる悪口を浴びせられるとき、
あなたがたは幸いである。マタイ5:11
コロサイ書3:(5~7)8~11
Ⅰコリント12:1~11(通読箇所)
(ローズンゲン日々聖句2/27;木)
私たちの救いと栄え、栄光は、
私たちの側にあるのではなく、
ただ、神の側の働きにある、というのですね。
だから、私たちは、
イエスのためにののしられ、迫害され、
ありもしないこと、身に覚えのないことで悪口を浴びせられても
いいのですね。
天において、神の御前で
私たちが受ける報いは大きいのだそうですから。
〔古い人〕、
「神の一人のようになり、
善悪を知る」者となって(創世記3:5、22)、
「天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」
と名乗られる方(出エジプト3:14)から、
「われわれのかたちとして、われわれの似姿に」(創世記1:26)と、
「わたしたちが心を一つにしているように、
私たちと心を一つにする者を」(ヨハネ17:21~23)
との願いをもって造られていながら、
その創造の目的から「的外れ」になっている
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊。
その〔古い人〕、私自身を、
イエスの十字架刑での処刑に合体させていただいて
処刑された者、死んだものとしていただいている私たち。
そして、三日目、日曜日の早朝、
新しい霊のからだに復活し、
40日にわたって何度も弟子たちに現れ、
ご自身が生きていることを示し、
神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
天の【父である神】の右の座に復帰されたイエス。
そのイエスを通して来て下さる【聖である霊】と呼ばれる方。
その方によって【父である神】の御思いを心に置いていただき、
【父である神】と思いを同じくし、
心を一つにしながら生きるようにしていただいている私たち。
その、〔新しい人〕を着た私たちは、
淫(みだ)らな行い、汚(けが)れ、情欲、悪い欲、貪欲、怒り、憤り、悪意、ののしり、恥ずべき言葉を、
イエスの処刑とともに処刑された
〔生まれたときからの私〕という霊、
〔古い人〕、死んだものから出て来た思いであるとして、
イエスの御前に差し出し、受け取っていただきながら、
いよいよ、【聖である霊】と呼ばれる方によって
【父である神】の御思いを心に置いていただき、
新しくされ続けていく(コロサイ3:5~11)のだそうです。
【聖である神】は、
私たちに「イエスが主」であることを分からせ、
【父である神】が思われるとおりに、私たち一人ひとりに働いて、
ある人には知恵のことば、
ある人には知識のことば、
ある人には(特別な)信仰、
ある人には癒(いや)し、
ある人には奇跡を行う力、
預言、霊を見分ける力、
種々の異言、異言を解き明かす力として
現れて下さるのだそうです。
皆の益となるようにと。(Ⅰコリント12:1~11)
そして、【父である神】は、
ご自身と思いを一つにして歩んだ者として、
「わたしが天から下って来たのは、
自分の思いを行うためだはなく、
わたしを遣わされた方のみこころを行うためです」(ヨハネ6:38)
と言われるイエスと同じ栄光を与えてくださるのだそうです。
私たちの側の何かによらず、
ただ、一方的な神の側の働き、恵みによって。
今日も。
(近くの教会を知りたい等、
また、教会に行っていないけれど、
葬儀をキリスト教でしたい、
また、婚活で広く出会いを求めたい、
等のお問い合わせは
shkhknsyg4@yahoo.co.jpへどうぞ。)
〈(復活社 http://www.sougi8849.jp/index.html 〉
〈日本仲人協会 https://www.omiaink.com/ 認定〉
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神にかかっている。詩62:8
私のためにののしられ、迫害され、
身に覚えのないことで
あらゆる悪口を浴びせられるとき、
あなたがたは幸いである。マタイ5:11
コロサイ書3:(5~7)8~11
Ⅰコリント12:1~11(通読箇所)
(ローズンゲン日々聖句2/27;木)
私たちの救いと栄え、栄光は、
私たちの側にあるのではなく、
ただ、神の側の働きにある、というのですね。
だから、私たちは、
イエスのためにののしられ、迫害され、
ありもしないこと、身に覚えのないことで悪口を浴びせられても
いいのですね。
天において、神の御前で
私たちが受ける報いは大きいのだそうですから。
〔古い人〕、
「神の一人のようになり、
善悪を知る」者となって(創世記3:5、22)、
「天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」
と名乗られる方(出エジプト3:14)から、
「われわれのかたちとして、われわれの似姿に」(創世記1:26)と、
「わたしたちが心を一つにしているように、
私たちと心を一つにする者を」(ヨハネ17:21~23)
との願いをもって造られていながら、
その創造の目的から「的外れ」になっている
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊。
その〔古い人〕、私自身を、
イエスの十字架刑での処刑に合体させていただいて
処刑された者、死んだものとしていただいている私たち。
そして、三日目、日曜日の早朝、
新しい霊のからだに復活し、
40日にわたって何度も弟子たちに現れ、
ご自身が生きていることを示し、
神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
天の【父である神】の右の座に復帰されたイエス。
そのイエスを通して来て下さる【聖である霊】と呼ばれる方。
その方によって【父である神】の御思いを心に置いていただき、
【父である神】と思いを同じくし、
心を一つにしながら生きるようにしていただいている私たち。
その、〔新しい人〕を着た私たちは、
淫(みだ)らな行い、汚(けが)れ、情欲、悪い欲、貪欲、怒り、憤り、悪意、ののしり、恥ずべき言葉を、
イエスの処刑とともに処刑された
〔生まれたときからの私〕という霊、
〔古い人〕、死んだものから出て来た思いであるとして、
イエスの御前に差し出し、受け取っていただきながら、
いよいよ、【聖である霊】と呼ばれる方によって
【父である神】の御思いを心に置いていただき、
新しくされ続けていく(コロサイ3:5~11)のだそうです。
【聖である神】は、
私たちに「イエスが主」であることを分からせ、
【父である神】が思われるとおりに、私たち一人ひとりに働いて、
ある人には知恵のことば、
ある人には知識のことば、
ある人には(特別な)信仰、
ある人には癒(いや)し、
ある人には奇跡を行う力、
預言、霊を見分ける力、
種々の異言、異言を解き明かす力として
現れて下さるのだそうです。
皆の益となるようにと。(Ⅰコリント12:1~11)
そして、【父である神】は、
ご自身と思いを一つにして歩んだ者として、
「わたしが天から下って来たのは、
自分の思いを行うためだはなく、
わたしを遣わされた方のみこころを行うためです」(ヨハネ6:38)
と言われるイエスと同じ栄光を与えてくださるのだそうです。
私たちの側の何かによらず、
ただ、一方的な神の側の働き、恵みによって。
今日も。
(近くの教会を知りたい等、
また、教会に行っていないけれど、
葬儀をキリスト教でしたい、
また、婚活で広く出会いを求めたい、
等のお問い合わせは
shkhknsyg4@yahoo.co.jpへどうぞ。)
〈(復活社 http://www.sougi8849.jp/index.html 〉
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