朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

私たちを救おうと定めてくださって

2020-04-16 22:54:39 | 聖書から
主よ、常に身を避けるための住まい、
岩となり、私を救おうと定めてください。
あなたは私の大岩、私の砦。詩71:3



主は私をすべての悪い業から助け出し、
天にある御自分の国へ
救い入れてくださいます。Ⅱテモテ4:8



 ルカ24:36~47
 Ⅰコリント15:29~34(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句4/17;金)


 天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」
と名乗られる方(出エジプト3:14)が、
私たちの避け所、岩となって、私を救ってくださるのだそうです。
どんな悪しき業からも助け出し、
天にある神の御国に救い入れてくださって。



 そのために、神の独り子であられる方が、
人間イエスとして人の世に来られ、
私たちすべての人間の「的外れ」の責任を自分の身に負い、
私たちの身代わりとなって
十字架刑での処刑を受けられたのだそうです。


 そして、死んで墓に葬られたイエスは、
三日目、日曜日の早朝、
死人の中から新しい霊のからだに復活なさったのだそうです。



 そのイエスが、集まっていた弟子たち、
11人とその仲間たちの真ん中に立ち、
「平安があなたがたにあるように」と言われたのですね。
弟子たちは、
幽霊を見ているのだとおびえて震えあがったのですが、
イエスは言われたのだそうです。
「なぜ取り乱しているのですか。
どうして心に疑いを抱くのですか。
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。
わたしにさわって、よく見なさい。
幽霊なら肉や骨はありません。
見て分かるように、わたしにはあります。」
こう言って、イエスは彼らにと足を見せられたのだそうです。


 そして、「ここに何か食べ物がありますか」と言われ、
弟子たちが差し出した
焼いた魚一切れを食べて見せたのだそうです。(ルカ24:36~47)



 パウロは言います。
「もし死者がよみがえらないのなら、
『食べたり飲んだりしようではないか。
どうせ、明日は死ぬのだから』ということになります。
惑わされてはいけません。
『悪い交際は良い習慣を損なう』のです。
目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい」、と。(Ⅰコリント15:32~34)



 天の神、主は、私たちを救おうと定めていてくださり、
たとえ、死んでも
新しい霊のからだ、復活のからだを着せてくださって、
天のご自分の御国に救い入れてくださるのだそうですから。



 その希望の中を。
今日も。



(近くの教会を知りたい等の方、
また、婚活で広く出会いを求めたい、

教会に行っていないけれど、
葬儀をキリスト教でしたい、等の方、
お問い合わせは、
shkhknsyg4@yahoo.co.jpへどうぞ。)



〈日本仲人協会 https://www.omiaink.com/ 認定〉
〈(復活社 http://www.sougi8849.jp/index.html 〉





イメージ 1

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

自分の目には、「自分には、知恵がある]と見えるけれど

2020-04-16 08:21:58 | 聖書から
災いだ、
自分の目には知者であり、
うぬぼれて、賢いと思う者は。イザヤ書 5:21



私たちは世の霊ではなく、
神からの霊を受けました。
それで私たちは、
神から恵みとして与えられたものを
知るようになったのです。Ⅰコリント2:12



 ヨハネ21:1~14
 Ⅰコリント15:20~28(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句4/16;木)


 「神の一人のようになり、善悪を知る」ようになっている私たちは、

心のどこかで、自分は知恵ある者、賢い者、
悟りのあるものだと思い、
自分の理性の善悪の判断に頼っている者のようです。



 それはうぬぼれであり、わざわいだと
天の神、主は、おっしゃるのですね。



 そのような知恵は過ぎ去って行くものであり、
その知恵によっては、だれ一人、
神の独り子である方が、人となって人の世に住まれ、
すべての人の身代わりとなって、神に呪われた者になり、
人の手によって十字架刑での処刑を受ける、などということは
理解の出来ないことですから。



 それで、【父である神】は、
自分を知恵ある者、善悪の判断の出来る者だと思っている
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を
イエスの十字架刑での処刑に合体させて、
処刑された者、死んだものとしてくださり、

 その私たちに【聖である霊】と呼ばれる方を派遣してくださって、

私たちを神からの霊を受けた者とし、
私たちがこの世の霊、
自分の〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る知恵によってではなく、
神からの霊による知恵で生きるようにしてくださるのだそうです。



 神は、この知恵によって私たちが、
神が恵みとして提供していてくださっているものを
知ることができるようにしていてくださるのだそうです。


 あの金曜日の朝の9時ころ、
エルサレム郊外で、
ローマ兵によって十字架にかけられたイエスは、
午後3時ころ「完了した」と言われて息を引き取られ、
日没直前に、
近くにあったアリマタヤのヨセフが自分のために掘ってあった墓に葬られたのですが、
三日目、日曜日の早朝、
墓の中から、新しい霊のからだに復活し、
何度も弟子たちにご自身を現されたのだそうです。



 三度目に、
復活されたイエスが弟子たちにご自身を現わされた次第は
次のようだったそうです。

シモン・ペテロとほかの弟子たちがガリラヤに帰り、
ガリラヤ湖で小舟に乗って漁に出たとき、
その夜は何も取れなかったのだそうです。



 夜が明け始めていたころ、岸に一人の人が立っていて、
「舟の右側に網を打ちなさい」と言ったのでそうしてみると
おびただしい数の魚が網にかかったので、
網を引き揚げることができなかったのだそうです。



 ヨハネがペテロに、「主、イエスだ」と言ったので、
ペテロは、裸に近かったので
上着をまとい、湖に飛び込んで岸へ向かったので、
ほかの弟子たちは
魚の入った網を引いて舟で岸に戻ったのですね。



 陸地に上がると炭火がおこされていて、
その上には魚とパンがあり、
イエスは、「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われ、
パンを取り、彼らにお与えになり、魚も同じようにされたで
弟子たちは復活されたイエスと朝食を共にしたのだそうです。(ヨハネ21:1~14)



 このように、イエスは、眠った者の初穂として、
死者の中から新しい霊のからだによみがえられました。
死が一人の人を通して来たように、
死者の復活も一人の人を通して来たのだそうです。
アダムにあってすべての人が死んでいるように、
イエスにあってすべての人が生かされて。



 しかし、それぞれに順序があるのだそうです。
まず初穂であるイエス、
次に、イエスが二度目に天の雲に乗って来られるとき、
イエスによる神からのプレゼントである救いをもらっている人たち、

それから、世の終わりにそのほかに人たち、と。(Ⅰコリント15:20~28)



 この世の知恵では、愚かな作り話、
たわごとのようにしか思えないこのようなことですが、
自分を知恵ある者とするのはうぬぼれでしかないことを認めた人は、
神からの霊から来る知恵によって、
これが事実であることを知るのですね。



 そして、このことが自分の身にも完全に実現することを
待ち望みながら。
今日も。



(近くの教会を知りたい、
教会に行っていないけれど、
葬儀をキリスト教でしたい、
婚活で、広く出会いを求めたい、
等のお問い合わせは、
shkhknsyg4@yahoo.co.jpへどうぞ。

〈(株)プレス・ ユア・ ホーム https://christ-sougi.com/ 所属〉)
〈日本仲人協会 https://www.omiaink.com/ 認定〉

イメージ 1

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]