朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

取るに足りない者、見下されている者をあえて選び、

2016-06-20 08:24:55 | 聖書から
主は高くいましても、

  低くされている者を見ておられます。詩篇138:6




 神は、

世の無に等しい者、

身分の卑しい者や見下げられている者を

選ばれたのです。Ⅰコリント1:28




    (ローズンゲン日々の聖句6/20;月))




 「下には永遠の御腕がある」(申命記33:27)。

どん底の者を、さらにその下から支えて下さる方。

いと高き方が、一番低いところまで降りて来て、支えて下さるのだそうです。




 この世の、師と呼ばれる人たちは、少しでも良い者、優秀な者、優れた者を弟子に選ぼうとするのでしょうね。

天の神、主は、この世の愚かな者、弱い者、取るに足りないと見下されている者、無に等しい者をあえて選んでくださる方なのだそうです。




 そして、御自身のいのちで贖い(あがない、代価を支払って買い戻すこと)をされ、

聖い者、取り分けられた者としてくださり、御自身の力と知恵と義と栄光で包んでくださるのだそうです。




 私たちが呼んだ日に、天の神、主は答えてくださり、たましいに力を与えて強くしてくださる。

私たちが生きる道、幸せになる道を心に思わせて下さって、一人一人に持って下さっている、幸せにする計画をすべて成し遂げてくださるのだそうです(詩篇138:3~8)。




 天の神、主から、このようにしていただいている者は、私たちに代わって十字架に架かって下さり、復活し、天の「父の右の座」に帰られたイエスが、受け入れる者に派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方が、受け入れる者の心に置いてくださる「父である神」の御思いのとおりに、もしだれかがあやまちに陥ったなら、柔和な心でその人を正してあげるようになるのだそうです。




 そして、自分も同じ誘惑に陥りやすい者であることを認めて気をつけ、互いの弱さ、重荷を負い合い、具体的な物質的な面でも良い物を分かち合うようになるのだそうです。




 天の神、主と、心を一つにし、思いを一つにしていく生き方を嫌い、自分一人の理性の判断のとおりをしていこうとする、「神のひとりのようになろうとし、善悪を知る者となった、「生まれたときからの霊」という私自身から来る思いによって生きるのではなく、「聖である霊」が心に書き付け、置いてくださる「父である神」の御思いを私の思いとして生きて行く者にしていただけるのだそうです。




 失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることにもなるのだそうですから(ガラテヤ6:1~10)。

今日も。


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天は私の王座、地は私の足台と言われる方が、

2016-06-19 08:13:19 | 聖書から
互いに重荷を担いなさい。

  そのようにしてこそ、

    キリストの律法を全うすることになるのです。ガラテヤ書6:2

        (6/19の週の聖句)




 主はこう言われる。

天はわたしの王座、地はわが足台。

あなたたちはどこに、わたしのために神殿を建てるか。イザヤ書66:1 




 そのとき、

「見よ、ここにメシアがいる」

「見よ、あそこだ」と言う者がいても、

信じてはならない。マルコ13:21




      (ローズンゲン日々の聖句6/19;日)




 わたしたちは、神のために何かをしてあげられる、と思っているのですね。

しかし、天の神、主は言われます。

「天はわたしの王座、地はわたしの足台。これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ」と。

私たち人間は、天の神、主が造られた、この方のものを管理している立場の者なのでしょうね。




 それで、天の神、主は言われます。

「わたしが心に留める者は、多くのもの、立派なものをささげる者にではない。

わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」(イザヤ66:2)と。




 心高ぶり、自分を何か立派な者のように吹聴し、「自分こそメイア(キリスト、救い主)だと言い、人々を惑わし、滅びに引き込もうとする者が起こるとイエスは言われます。

霊的な摩訶不思議、奇蹟を行って人々を惑わし、自分に付き従わせようとするのだそうです。

だから、気をつけなさいとイエスは言われるのですね。




 「だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象が揺り動かされます。

そのとき、人々は、人の子(十字架に架かられ、復活したあのイエス)が、偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見る」ことになるのだそうです。




 そして、この方は御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民(イエスの十字架刑での処刑による赦しを受け取った者)を集めてくださるのだそうです。(マルコ13:24~27)。




 だから、ほかのメシア(キリスト、救い主)を求める必要はないのだそうですね(ルカ7:19~23)。




 この方が来られるその日が来るのを待ち望みながら、

互いの弱さ、重荷を担い合いながら、

「聖である霊」と呼ばれる方が、一人一人の心に置いてくださる、「父である神」と呼ばれる方が、私たち一人一人を通してしようと思っていらしゃる御思いをさせていただきながら進むのですね。

この新しい週も。


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恵みと平和を受け取って欲しいのだそうです。私たちにも。

2016-06-18 08:40:46 | 聖書から
わたしがこの都に与える大きな恵みについて

  世界の全ての国々が聞くとき、

    この都はわたしに喜ばしい名声、

      賛美の歌をもたらす者となる。

 彼らはわたしがこの都に与える

   大いなる恵みと平和とを見て、

     恐れおののくであろう。エレミヤ33:9




 キリストは、

割礼のある者たちに仕える者となられたのです。

異邦人が神の憐れみをたたえるためです。ロマ15・8~9




      (ローズンゲン日々の聖句6/18;土)




 天の神、主は、エレミヤをご自分の預言者として立て、彼をとおして、エルサレムの住民が、ご自分に背き、何度も何度も、立ち返るよう勧めても、そのそむきを止めようとしないので、ついに、「彼らのすべての悪のためにわたしが顔を隠したので、エルサレムの家々と、ユダの王たちの家々が塁と剣で引き倒される」と宣告されたのだそうです。




 けれども、それと同時に、「見よ。わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。

わたしはユダとイスラエルの繁栄を元どおりにし、初めのように彼らを立て直す。

わたしは、彼らが犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしに背いたすべての咎を赦す。

この町は世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる。彼らはわたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの町に与えるすべての祝福と平安のために、恐れおののこう。

あなたがたが『人間も家畜もいなくて廃墟となった』と言っているこの所、人間も住民も家畜もいなくて荒れすたれたユダの町々とエルサレムのちまたで、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、『万軍の主に感謝せよ。主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで』と言って、主の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの喜びの声が再び聞こえる。

それは、わたしがこの国の繁栄を元どおりにし、初めのようにするからだ」と言われたのだそうです。




 また、「見よ。その日が来る。――主のみ告げ―― その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみのことばを成就する」と(エレミヤ33:1~14新改訳より)。







 そして、このいつくしみと祝福は、「割礼のある者たち」、選民イスラエルの民たちだけではなく、イエスが十字架刑での処刑を受けてくださったことによって、異邦人に、すべての国々の人々に及ぶことになったのだそうです。







 紀元前750年ほど前のこと、異邦人であるアッシリア帝国の首都ニネベの人々が、天の神、主から遣わされら預言者ヨナを通しての「もう40日すると、ニネベは滅ぼされる」との言葉を聞いたのだそうです。




それで、アッシリア帝国の王は、「人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行いから立ち返れ。もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない」と命令したのだそうです。

それで、天の神、主は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になって、下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかったのだそうです(ヨナ3:1~10)。




 天の神、主が怒られるのは、憎いからではなく、立ち返って欲しいからなのですね。

私たちに、恵みと平和を受け取って欲しいのだそうです。

今日も。


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もみ殻ではなく、穀物のような、ずっしりと中身の詰まった人生を

2016-06-17 08:18:44 | 聖書から
夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。

 しかし、わたしの言葉を受けて者は、

   忠実にわたしの言葉を語るがよい。

 もみ殻と穀物が比べものになろうかと、

    主は言われる。エレミヤ書23:28




 愛する者たち、

どの霊も信じるのではなく、

神から出た霊かどうかを確かめなさい。Ⅰヨハネ4:1




      (ローズンゲン日々の聖句6/17;金)




 預言者エレミヤに対抗して、「私は夢によって神の示しを受けた」と言って、預言する者もたくさんいたようですね。

 天の神、主は、その者たちに対して、「わたしは彼らを遣わさず、彼らに命じもしなかった」と言われたのだそうです。

彼らは「もみ殻」のよう、彼らが預言する言葉には中身がない、と。




 天の神、主の預言者に求められることは「忠実」なのだそうです。

自分の理性の判断で付け加えず、また、差し引くことをせず、示されたとおりを、「神はこう言われる」と取り次ぐ。




 私たち、霊的なものに弱いものですね。

つい、心を惹かれてしまう。

けれども、この世にはいろいろな霊が働いているようです。

だから、その霊が、天の神、主から遣わされた者かどうかをよく見極める必要があるようです。

摩訶不思議を行って力ある者であるかのように見せかけ、先の事を予言して、あたかも、全知であるかのように見せかけ、信じる者の心を縛り、自由を奪い、支配して、ついには滅びにいたらせる霊も多いのだそうですから。







 私たちの身代わりになって、私たちのそむきの罪の全部を引き受けて十字架刑での処刑を受けてくださり、三日目に墓より復活し、天の父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方。

この方が、受け入れる者の心に起こして下さる、御自身の、「父である神」、「御子である神、イエス」に対する愛の思い。

そして、受け入れる者の心に置いてくださる「父である神」の私たち一人一人に対する御思い。

その御思いについていく者は、生きるのだそうです。

もみ殻のような人生ではなく、穀物のような中身のある人生を。

「義人は信仰によって生きる」(ガラテヤ3:11)のだそうですから。

今日も。


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自分を賢いと思っているのですね。私たち、人間は。

2016-06-16 07:54:34 | 聖書から
主は知っておられる、

 人間の計らいを、

  それがいかに空しいかを。詩編94:11




 自分を賢いとうぬぼれてはなりません。ロマ12:16




      (ローズンゲン日々の聖句6/16;木)




 多くの人は心に思うのですね。

神なんかいない、あるいは、神は死んだ、神は見ることがない。気づかないと。




 「耳を植え付けられた方がお聞きにならないだろうか。

目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。

人に知識を教え、国々を戒めるお方が、お責めにならないだろうか」と詩編の作者は謳います(詩篇94:9~10)。




 天の神、主を愛し、この方と一体となるあり方(創世記1:26)を捨て、自分をもっと素晴らしいものに、神のひとりのようになり、善悪を知るようになろうとしている(創世記3:4~6、22)私たち人間は、自分を賢いとし、自分の理性に絶対的信頼を置き、その理性の判断によって生きようとする者なのですね。

けれども、天の神、主は、それを「うぬぼれ」だとおっしゃる。




 すべてのことは、「父である神」と呼ばれる方の御思いから発し、御思いのとおりに成り、御思いのとおりに支えられて存在しているのだそうです(ロマ11:36)。




 一つのからだに多くの器官があって、それらは、それぞれ別の働きをしているように、私たち人間は大勢いて、それぞれ異なっていますが、一つのからだの器官のように、「父である神」のご計画のとおりに、その分に応じて、それぞれがなくてはならない働きをしているのだそうです(ロマ8:4~5)。




 私たち、人間は、イエスの十字架の死を通して来てくださる方、「聖である霊」と呼ばれる方によって、一人ひとりに思っていてくださる「父である神」の御思いを心に置いていただいて、その御思いのとおりに、一人ひとり、みんなちがっていて、一人ひとり、なくてはならない働きをしていくのだそうです。

今日も。