朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

御思いについて行き、栄光を受ける、その時を

2017-11-19 07:56:12 | 聖書から
私たちは皆、
キリストの裁きの座の前に立たなければなりません。Ⅱコリント5:10(11/19の週の聖句)

 あなたの神、主は、
あなたの手の業をすべて祝福された。申命記2:7

 ですから、大切なのは、
植える者でも水を注ぐ者でもなく、
成長させてくださる神です。Ⅰコリント3:7

 マタイ25:31~46
 詩63(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句11/19;Ⅲ日)

 私たちは皆、死んだ後、復活して、キリストの裁きの座に現れて、
善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて
報いを受ける時が来のだそうですね。

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、モーセを通して言われます。
「あなたがたは、エジプトを出た後の、荒野での40年の旅で、
天の神、主がイスラエルの民がしたすべてのことを祝福し、
この広大な荒野の旅を見守り、
共にいたので、
何一つ欠けたものはなかった。
だから、同族、エサウの領土内を通るとき、争いを仕掛けてはならない」、と。

 使徒パウロは、コリントの信徒たちに書き送っています。
「あなたがたは、私はパウロにつくとか、私はアポロにつくとか言い合って、
ねたんだり争ったりしています。
私が植えて、アポロが水を注ぎました。
しかし、私たちは神に用いられ、
天の神、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのであって、
大切なのは、成長させてくださる神です」と。

〔父〕である神は、〔御子〕である神を人間イエスとして、人の世に遣わされ、
この方がおよそ33歳のころ、
私たち、すべての人間の身代わりとして、
ユダヤ人の指導者たちのねたみとローマ軍の手を用いて、
十字架刑で処刑されました。

 そして、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって、
神にそむいている私たちの〔生まれた時からの私〕という霊を、
この、イエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、
処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 そのうえで、受け入れる者に、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣し、
この方によって、私たちの心にご自身の御思いを置いてくださり、
私たちが、ご自身と思いを一つにし、心を一つにして、
ご自身がしようと思われることをしていく、
新しい生き方を生きるようにしてくださるのだそうです。

それで、パウロやアポロが用いられ、
御思いのとおりをしていったように、
私たちも用いていただけるのだそうです。

 神が私たちを祝福し、与えていてくださるものを用いて、
空腹の人に食べる物与え、
渇いている人に飲ませ、
旅人に宿を貸し、
裸の人に着る物を与え、
病気をしている人を見舞い、
牢にいる人を訪ねるように、と(マタイ25:31~46)。

 そして、与えられている(預けられている)ものを御思いのとおりに用いたか、
清算される時があるのだそうですね(マタイ25:14~30)。
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に置かれた御思いについて行き、
与えられているもの(預けられているもの)を御思いのとおりに用いていって、
御国を受け継ぐ分と、
〔生まれた時からの私〕から来る思いでやっていって、
外の暗闇に放り出される分とが切り分けられる、
そのような時が。

私たちも、〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる御思いについて行き(ガラテヤ5:24~25)、
ダビデのようにうたいたいですね。
「神よ。あなたは私の神。
私はあなたを切に求めます。
水のない、砂漠のおとろえ果てた地で、
私のたましいはあなたに渇き、
私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。
私は、あなたの力と栄光を見るために、
こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。
あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、
私のくちびるは、あなたを賛美します。

それゆえ私は生きているかぎり、
あなたをほめたたえ、
あなたの御名により、両手を上げて祈ります。
私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、
私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。
ああ、私は床(とこ)の上であなたを思い出し、
夜ふけて私はあなたを思います。
あなたは私の助けでした。
御翼の陰で、私は喜び歌います。
私のたましいは、あなたにすがり、
あなたの右の手は、私を支えてくださいます(詩篇63:1~8)、と。
この新しい週も。
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輝く光の中を

2017-11-18 09:46:58 | 聖書から
闇の中を歩む民は、大いなる光を見、
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。イザヤ書9:1

 キリストが私たちのためにご自身を献げられたのは、
私たちをあらゆる不法から贖い出し、
良い行いに熱心な民を
ご自身のものとして清めるためだったのです。テトス書2:14

 マルコ13:1~8
 エゼキエル書47:1~12(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句11/18;土)

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方が、
天地を創造されたときも、
最初、地は闇が覆っていたのだそうです。
そして、神が「光があれ」と仰せられると光があるようになったのだそうです(創世記1:1~4)。

 私たちは、行く先もわからず、暗やみの中を手探りしながら歩いているようなもの。
その私たち人間の世界に、
永遠の初めから「父である神」とともにおられ、
この天地万物を創造された〔御子である神〕が、
人の光として、人間イエスとして、
私たち人間の世界に来て下さったのだそうです(ヨハネ1:1~14)。

 この方は、人の罪を負い、身代わりとなって献げられる犠牲の小羊として、
私たちすべての人間の身代わりとなり、
私たちすべての人間が受けるはずの刑罰をご自身に背負って、
十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。
私たちをあらゆる不法から贖い出し、
〔父である神〕と心を一つにし、
行動を一つにする
ご自身の民とするために。

 私たちは、このイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
〔父である神〕の御思いを心に置いていただいて、
その御思いによって生きる者に、
聖さと光の中を歩む者にしていただけるのだそうです。

 この世界は、いよいよ、
「私こそキリストだ」と名乗る者が現れ、
戦争のうわさを聞くようになり、
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、
方々に地震があり、ききんも起こるようになるのだそうです(マルコ13:1~8)。
しかし、イエスとともに生きる者は光の中を歩むのだそうです。
今日も。
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幸いな死、というものもある?

2017-11-17 07:59:56 | 聖書から
あなたの死者は命を得る。イザヤ書26:19

 今からのち、
主に結ばれて(主にあって、新改訳)死ぬ人は幸いである。
“霊”も言う。
然り。
彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。黙示録14:13

 Ⅱコリント6:1~10
 エゼキエル書42:15~43:12(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句11/17;金)

今は、イエスが、私たちの身代わりになって、
私たちの「的外れ」の責任をご自身に負って、
十字架刑での処刑を受けてくださっているのだそうです。

 〔父である神〕は、
「さあ、人を造ろう。
われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)
と思われて
私たち人間を創造されたのだそうです。

 けれども、最初の人、アダムとエバは、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になる道を選択して(創世記3:5、22)、
その、創造の目的からズレてしまったのだそうです。
 そして、このアダムとエバから出た私たち人間のすべてが、
この「的外れ」を引き継いで生まれて来ているのだそうです。

 〔父である神〕は、その「的外れ」になっている私たち自身、
〔生まれた時からの私」という霊を、
この、イエスの十字架刑での処刑に合わせて、
死刑を受けた者、死んだものと手続きしてくださっているのだそうです。

 そして、受け入れる者に、
もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣し、
この方によって、
私たちの心にご自身の御思いを置いてくださり、
受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、
一つ心になり、
ご自身が私たちを通してしようと思われることを私たちがしていく、
私たちが、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって生きていく、
新しい生き方を生きていく者にしようとしていてくださるのだそうです。

 イエスが〔父である神〕と一つになっておられたように、
わたしたちの思いが〔父である神〕の御思いの中にあり、
〔父である神〕の御思いが私たちの心にある、
一つ心にしてくださって。

血肉のもの、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている
〔生まれた時からの私〕という霊でしてきたことは、
神の国を継ぐことはできないのだそうです(Ⅰコリント15:46~50)。

 しかし、〔父である神〕の御思いの中にあってしていくことは、
そのまま、天の御国につながっているのだそうです。
天に積まれた貯金のように(マタイ6:19~21)。

だから、今からのち、
主の中で生きて来た者の死は、幸いだと言われるのでしょうね。
労苦を解かれ、
安らぎを得、
命を得るのだそうですから。
神の子の栄光に包まれて。

〔父である神〕は、すべての人に、これを受け取ってほしいと、
ご自身と心を一つにして、
天の御国にそのままつながっている生き方を生きて行ってほしいと願っていてくださるのだそうです。
幸いな死を死ぬ者に。
確かに、今は恵みの時、今は救いの日、なのだそうですから。
今日も。
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光に向かって

2017-11-16 08:50:37 | 聖書から
国々はあなたを照らす光に向かい、
王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。イザヤ書60:3

 神の国では、
後の人で先になる者があり、
先の人で後になる者がある。ルカ13:30

 Ⅰヨハネ2:18~26(27~29)
 エゼキエル書40:1~16(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句11/16;木)

 人々は、私たちを照らしてくださる天の神、主の光を求め、
国を指導する立場にある人たちも神からの光を求めるようになるということでしょうか。

 私たちの「的外れ」の責任を負って、
私たちの身代わりになって、
十字架刑での処刑を受けてくださったイエスを通して来て下さる
〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
〔父である神〕の御思いを私たちの心に置き、
進むべき道へと導いてくださるのだそうです。

 それで、その導きについて行く人が先になり、
自分は先にいると思っている人も、
自分の善悪の判断を先立てていくと、
後の者になってしまうようです。
今日も。
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ひとりの王、一つ心になって

2017-11-15 08:23:35 | 聖書から
あなたたちは
私たちの神、主と
心を一つにしなければならない。列王記上8:61

 主に結び付く者は
主と一つの霊となるのです。Ⅰコリント6:17

 ヘブル書13:1~9b
 エゼキエル書37:15~28(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句11/15;水)

イエスは言われました。
「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30)。

 「その時、あなたがたはわたしが何であるか、
また、わたしが自分からは何事もせず、
ただ父がわたしに教えられたとおりに、
これらのことを話していることを、知るようになる」(ヨハネ8:28)。

「わたしが話していることは、
父がわたしに言われたとおりを、
そのままに話しているのです」(ヨハネ12:50)。

「御霊は自分から語るのではなく、
聞くままを話し、わたしの栄光を現します。
わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです」(ヨハネ16:13~14)。

「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、
わたしがあなたにいるように、
彼らもわたしたちにおるようになり、
わたしたちが一つであるように、
彼らも一つであるためです」(ヨハネ17:21~22)、と。


〔父である神〕は、考えられたのですね。
「さあ、人を造ろう。
われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、
わたしたちが一つであるように、
わたしたちと一つになるものを造ろう、と。

 そして、「人が、ひとりでいるのは良くない。
男はその父母を離れ、妻と結び合い、二人は一体となる」(創世記1:18、24)、と。

それゆえに、わたしたち人間が、
神である主と、心を一つにして生きることは、
創造の目的にかなっていること、正しいことなのですね。

 それで、神である主に背を向け、
神と心を一つにすることを止め、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」、自分の理性を神とし、
自分を自分の王とし、
自分の理性の、善し悪しの判断によって生きる者になっている(創世記3:5、22)、
わたしたち自身である〔生まれた時からの私〕という霊を、
〔父である神〕は、
御子イエスが受けられた十字架刑での処刑に合わせてくださって、
処刑済みのもの、死んだ者とし、

受け入れる者に、もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
受け入れる者が、「主と一つの霊」から来る思いで生きるようにしてくださるのだそうです。

 夫と妻が、本来的には一つ心になるように。
それで、言われるのですね。
「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。
寝床を汚(けが)してはいけません」(ヘブル13:4)、
一人の男と一人の女が結婚によって一体となっている、
それをこわしてはいけません、と。


天の神、主は言われます。
「神である主はこう仰せられる。
見よ。わたしは、北王国、イスラエルの諸部族と、
南王国、ユダ部族を合わせて、
わたしの手の中で一つの国とする。

 わたしはイスラエル人を、その行っていた諸国の民の中から連れ出し、
彼らを四方から集め、彼らの地に連れて行く。
わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、
ひとりの王が彼ら全体の王となる。
彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。

 彼らは二度と、その偶像やいまわしいもの、
またあらゆるそむきの罪によって身を汚(けが)さない。
わたしは、彼らがかつて罪を犯したその滞在地から彼らを救い、
彼らをきよめる。

わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。
これは彼らとのとこしえの契約となる。
わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、
わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。
わたしの住まいは彼らとともにあり、
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エゼキエル37:15~27)、と。

 私たちにも、
神に対抗して、自分で自分の王になっている、
〔生まれた時からの私〕という霊を、
イエスが受けてくださった十字架刑での処刑に合わせていただいて、
死んだものとしていただき、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
天の神、主と一つの霊になり、
〔父である神〕と一つ心になって生きる者が受け継ぐ
御国の約束があるのですね(黙示録21)。
今日も。
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