朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

〔父である神〕の御思いによって生きる生き方を

2018-05-26 10:32:38 | 聖書から
 主よ、
私の口に見張りを置き、
唇の戸を守ってください。詩141:3

 ただ、この自由を、
肉に罪を犯させる機会とせずに、
愛によって互いに仕えなさい。ガラテヤ書5:13

 使徒18:1~11
 ヘブル書11:1~7(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句5/26;土)

 心に満ちていることが口から出て来るのだそうですね。
だから、唇の戸を守ることが、
「私の心を悪いことに向けさせないでください」(詩篇141:4)
ということでもあるのでしょうね。

 そして、心の思いは、その奥にある霊から来ているのだそうです。
ここでパウロが言う「肉」とは、
この肉体のことではなく、
〔生まれたときからの私〕という霊のことを言っているのだそうです。

 その、私たちの〔生まれたときからの霊〕は、
最初、天の神、主、「『わたしはある(I AM)』と名乗られる方の、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」との願いによって
創造されたものなのだそうです(創世記1:26)。

 しかし、最初の人、アダムとエバは、
その、神のかたち、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊と呼ばれる神〕が、
愛において、自由意思で、自発的に一つになっておられる、
心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしておられる、
その神との一つの場にとどまることをせず、
もっと偉い者に、
神のようになり、善悪を知る者になろうとして(創世記3:5)、
「神のひとりのようになり、善悪を知るようになった」(3:22)のだそうです。

 それ以来、私たち人間は、
「神のひとりのようになり、善悪を知るようになった」者として生まれ、
生まれながらにして、天の神、主に背き、
かみに対立、対抗して、
自分を神よりも上のものにしようとする性質を持っているのだそうです。

 そして、この創造の目的からのズレ、「的外れ」の結果、
人間同士においても、
自分を他よりもえらい者、立派なものにしないと気が済まず、
そうなれないと劣等感に落ち込み、
人の上に立って権力を振り回したい者、
人を引きずり下ろし、
良いもののすべてを独占し、
77倍の復讐をしようとする者(創世記4:24)となり、
「人がその心に計ることがみな、
いつも悪いことだけに傾く」(創世記6:5)ようになったのだそうです。

 それで、私たち、
その、〔生まれたときからの私〕という霊から来る思いが心に満ち、
その心の思いが口から出て来る、ということなのだそうです。

 だから、律法、戒めや道徳によって、
口から悪い言葉を出さないように努力しても、
内にある〔霊〕は今までと同じで、
心を変えることは出来ないのですね。

 天の神、主、「『わたしはある(I AM)』という者と名乗られる方は、
その「的外れ」になっている私たちを、
ご自身と心を一つにする者に取り戻そうとして、
この人間の歴史の中で、ご計画を実行して来られたのだそうです。

 〔父である神〕は、〔御子である神〕を人間イエスとして人の世に派遣し、
この方を私たちすべての人間の身代わりとして立て、
この方がおよそ33歳の頃、
ユダヤ人の指導者たちの妬みを用いて捕らえさせ、
ローマ兵の手によって十字架刑で処刑し、
イエスの処刑が終わったことで
私たちの処刑が終わったことにしてくださったのだそうです。
私たち自身である〔生まれたときからの私〕という霊の死亡手続きを済ませて。

 そして、受け入れる者に、もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって私たちの心に、
私たち一人一人に思っておられる、ご自身の御思いを置いてくださり、
受け入れる者が、ご自身と一つ心になるようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28、ヨハネ17:21~24)。

 私たちが、〔生まれたときからの霊〕がしようと思うことをするのではなく、
イエスがそうであったように(ヨハネ8:28、12:50)、
ご自身がしようと思われることをしていく者に(ヨハネ14:12)。

 それで、パウロは、私たちが、
私たちに与えられている自由によって、

(死亡手続きが終わっている〔生まれたときからの私〕という霊)
から来る思いによって行動するなら、
自分が人の上に、人の前に出ようとし、
互いに批判し合い、さばき合い、引きずり下ろし合うことになるけれど、
〔聖である霊〕と呼ばれる方から来る
〔父である神〕の御思いによって行動するなら、
愛によって互いに仕え合うようになりますよ、と言っているようです。

 アテネを去って、コリントへ行ったパウロは、
神の御心に従って(マルコ7:27)、
ここでもまず、神の民として選ばれたユダヤ人に、
イエスがキリストであることを証ししたのですが、
ユダヤ人たちは受け入れなかったため、
異邦人にイエスを伝えることになり、
身の危険があったにもかかわらず、
神のことばに従ってコリントにとどまり続け、
1年半、ここに腰を据えて
神のことばを教え続けたのだそうです(使徒18:1~11)。
早く安全なところに行きたい
肉(〔生まれたときからの私〕という霊)の思いは
イエスの前に差し出し、ながめながら、
口を神に明け渡して、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が語らせられるままに。

 神への信頼において、
私たちは望んでいることの保証、
まだ目に見ていないものの確信をいただけるのですね。

 この世界が神の御思い、ことばによって造られたように、
見えるもの、
私たちの行動、口から出る言葉も、
見えないもの、
〔父である神〕の御思いから出て来ている(ヘブル11:1~3)、
その生き方を受け取るようにと。
今日も。

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悔い改めにふさわしい実、御霊の実を結ばせようと

2018-05-25 08:56:37 | 聖書から
 万軍の主の日が臨む、
すべて誇る者と高慢な者に、
すべて高ぶる者に
――彼らは低くされる――。イザヤ2;12

 洗礼者ヨハネの言葉:
悔い改めにふさわしい実を結べ、
「我々の父はアブラハムだ」
などという考えを起こすな。」ルカ3:8

 ガラテヤ書3:1~5
 ヘブル書10:32~39(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句5/25;金)

 万軍の主と呼ばれる方、
天の神、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方が来られるのだそうです。

 その日には、金や銀、富で満ち、自分の力、戦力を誇り、
偽りの神々、人間の手で造った物を拝み、
驕り高ぶっている者、自分を誇る者は
恥を見ることになるのだそうです。

 自分がアブラハムの子孫、イスラエル民族だ、ということも、
さらに言えば、
実際の生活は、神との関係を無視し、
自分の思いのままに生きていながら、
「私は洗礼を受けました。
クリスチャンと呼ばれる者になりました」ということも、
神の前に立てる足がかりにはならないということでしょうか。

 血肉のからだに属することは、
神の国を相続できないのだそうですから(Ⅰコリント15:50)。

 その日には、それぞれが、
生けるまことの神とどのような関係をもって生きるか、
ということだけに心を向けるようです。

 悔い改めにふさわしい実、
天の神、主は、私たちが、
〔生まれたときからの私〕という自分自身である霊が、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて、
創造の目的からずれ、
「的外れ」になっている者であることを認めるようにと
願っておられるようですね。

 そして、その私たち自身を
イエスの十字架刑での処刑に合わせて、
処刑が終わっている者、死んだものとしてくださり、

〔聖である霊〕と呼ばれる方を、
私たちの身代わりとなって十字架刑での処刑を受け、
墓に葬られ、
三日目に、死人のうちより、新しい霊のからだに復活し、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスを通して、
派遣しくださって、

 この方によって、
ご自身の思いを受け入れる者の心に置き、
私たちが、ご自身と思いを一つにし、
心を一つにし、
行動を一つにしていく、
その生き方を受け取ってほしいのだそうです。

 自分の力で、神のことばのとおりを生きようと努力する生き方、ではなく、
伝えられ、聞いた約束のことばに信頼し、
御霊、〔聖である霊〕と呼ばれる方の働きを
受け取る生き方をしてほしいと(ガラテヤ3:1~5)。

 だから、確信を持ち続けてほしいのだそうです。
神の御心を行なって、約束のものを手に入れるためには
忍耐が必要なのだそうですから。
期待して待つことが。

 もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。
おそくなることはない。
わたしの義人は信仰によって生きる。
もし、恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。

 天の神、主は、私たちを、恐れ退いて滅びるものではなく、
信頼して命を保つ者にしてくださっているのだそうですから(ヘブル10:35~39)。

ご自身と心を一つにして歩む者にと。
今日も。

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なんと幸いなことよ!

2018-05-24 08:44:36 | 聖書から
いかに幸いなことでしょう、
背きを赦され、
罪を覆っていただいた者は。詩32:1

 イエスの言葉:
この人が多くの罪を赦されたことは、
わたしに示した愛の大きさでわかる。
赦されることが少ない者は、
愛することも少ない。ルカ7:47

 Ⅱコリント3:2~8(9)
 ヘブル書10:26~31(通読箇所)
   (ローズンゲン「日々の聖句」5/24;木)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』と名乗られる方は、
私たちのそむきを赦し、
「的外れ」をおおい、
ご自分との正しい関係に連れ戻してくださる方なのですね。
最初から。天地の造られる前から。

 だから、自分のそむき、「的外れ」の大きさに気づき、苦しんでいる者は
この方のもとに来て、言い表し、赦しを願うのだそうです。

 ダビデが、
「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、
私の骨々は疲れ果てました。
私は、自分の罪を、あなたに知らせ、
私の咎を隠しませんでした。
私は申しました。
『私のそむきの罪を主に告白しよう。』
すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」(詩篇32:3、5)
とうたっているように。

 自分の赦されなければならない罪が、少し、と思っている人は、
少しの感謝、少しの愛ですが、
多く赦される必要があると分かり、
その多くの罪を赦していただいた者は多く愛するのだそうです。
500デナリ(例えば500万円)の借金を返すことができなくて
赦してもらった人と、
50デナリ(例えば50万円)の借金を赦してもらった人の違いのように。

 あるパリサイ人
(自分は神に熱心で、律法を守っており、一般の人たちのようではないと自負していた人)が
イエスを食事に招いたのだそうです。

 彼は、食事に招くこと自体で
イエスに対する尊敬を充分に表していると思っていたのでしょうね。
それで、大切な客にはする、
家に入って来た時に出す足を洗う水を出さず、
口づけもせず、頭に油を塗ることもしなかったのですね。

 ところが、その町で罪深い女と知れ渡っている人が、
香油の入った石膏のつぼを持ってそのパリサイ人の家に入って来て、
イエスのうしろで御足のそばに立ち、
涙でイエスの足をぬらし、
髪の毛でぬぐい、
イエスの足に口づけして、
香油を塗ったのだそうです。

 これを見たパリサイ人は、心ひそかに、
「この方(イエス)がもし預言者なら、
自分にさわっている女がだれで、
どんな女であるか知っておられるはずだ。
この女は罪深い女だから」と思ったのだそうです。

 しかし、イエスは言われたのだそうです。
「わたしは言います。この女の多くの罪は赦されています。
彼女は多く愛したのですから。
赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」

 そして彼女に、
「あなたの罪は赦されています。
あなたの信仰(神への信頼)があなたを救ったのです。
安心して行きなさい」(ルカ7:36~50、一部、新改訳2017)、と。

 モーセを通して結ばれた最初の契約は、
天の神、主の御思いが石の板に書かれ、
私たちは、自分の努力でこのことばのような生き方をしようとするもの、
文字に仕えるものでした。

 その結果は、このパリサイ人のようであり、
私たちの罪を確定し、死に導くものでした。

 新しい契約は、
イエスの十字架での処刑により、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑済み、死んだものとし、

 墓に葬られ、
三日目に、死人のうちより、新しい霊のからだに復活し、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
私たちの心に
〔父である神〕の御思いを置き、書きつけて、
受け入れる者の心を一新し、
受け入れる者が〔父である神〕と同じ思いを思い、
一つ心になって生きる、
私たちを「御霊に仕える」生き方をする者に(Ⅱコリント3:6)、
新しく生まれさせる(ヨハネ3:3~6)もの、なのだそうです。

 私たちは、人となられた神の御子、イエスが、
十字架刑での処刑においてささげてくださった血によって締結された
この新しい契約(ヘブル10:29)に生きる者にしていただけるのだそうです。

 大きなそむき、「的外れ」を赦していただきながら、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いの中、
私を通してしようと思っておられる栄光の御業の中に。
今日も。

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怒りを遅くし、自分の心を治め、互いの向上に役立つことを求める思いが心に来て

2018-05-23 07:01:13 | 聖書から
 忍耐は力の強さにまさる。
自制の力は町を占領するにまさる。箴言16:32

 平和や
互いの向上に役立つことを
追い求めようではありませんか。ロマ書14:19

 エフェソ書3:11~14
 ヘブル書10:19~25(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句5/23;水)

 忍耐し、怒りを遅くする者は
力の強い勇士にままさり、
自制し、自分の心を治める者は
町を攻め取り、占領するのにまさるのだそうです。

 その怒りや自分で治めることが困難な思いは、
私たちの「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている
〔生まれたときからの私〕という霊から出て来ているものなのですね。

 それで、この〔生まれたときからの私〕という霊をを、
イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて
死んだものとしていただき、
この私自身である〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いを、
死んだものから出て来た思いだと認めて、
これを横に置き、横に見て行きながら、

 十字架刑での処刑を受けて、墓に葬られ、
三日目に死人の中から新しいからだに復活し、
天の父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いによって生きるなら、
私たちも、〔父である神〕の忍耐、怒りを遅くする心で生きることになり、
自制、自分の心を治め、
平和に、互いの向上に役立つ生き方をするようになるのだそうです。

 この、神と心を一つにして生きるという新しい生き方は、
神の永遠のご計画、天地が造られる前からのご計画であって、
イエスにおいて成し遂げられたものなのだそうです。

 この生き方をしている者は、
イエスに合わせられたものとして、
大胆に確信をもって神に近づくことができるのですね(エペソ3:11~12)。

 イエスは、ご自分の肉体をもって
十字架刑で処刑を受けることによって
この新しい生ける道を設けてくださり、
神の家をつかさどる大祭司として、
〔父である神〕の右の座にいて、
私たちを執り成し、弁護していてくださるのだそうです。

 だから、勧められているのですね。
私たちは、心にイエスの血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、
からだをきよい水で洗われたものとして、
全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

 約束された方は真実な方ですから、
私たちは動揺しないで、
しっかりと希望を告白しようではありませんか。

 また、互いに勧め合って、
愛と善行を促すよう注意し合おうではありませんか。
ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、
かえって励まし合い、
かの日(イエスが二度目に来られる日)が近づいているのを見て、
ますますそうしようではありませんか(ヘブル10:19~25、新改訳)、と。

 いよいよ、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方が、心に置いてくださる御思いについて行き、
〔父である神〕の忍耐、怒りを遅くする心、
自制、自分の心を治め、
平和に、互いの向上に役立つ生き方に進めますように。
今日も。

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行き詰り、弱り果てた場に

2018-05-22 07:58:27 | 聖書から
 主は、
弱り果てた私を救ってくださる。詩116:6

 パウロの手紙:
キリストの力が私の内に宿るように、
むしろ大いに喜んで
自分の弱さを誇りましょう。Ⅱコリント12:9

 Ⅰコリント14:1~5、27~40
 ヘブル書10:1~18(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句5/22;火)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
弱り果てた、おとしめられた私たちを救ってくださる方、
「わたしの力は、
あなたの弱さのうちに完全に現れる」と言われる方(Ⅱコリント12:9)。

 それで、パウロは言うのですね。
「キリストの力が私をおおい、
私の内に宿るように、
むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」、と。

 天の神、主との関係にあっては、
私たちは弱くていい、弱いほどいい、ということでしょうか。

 私たちの、その、弱さの場所に、
天の神、主は来てくださり、
御力をもって覆ってくださるのだそうですから。

 だから、神様との関係においては、
心(霊)の貧しい者、
悲しんでいる者、
自分には義がなくって、義に飢え渇いている者は
幸いだって言われるのでしょうね(マタイ5:3~6)。

 イエスは、私たちが、
この、神との正しい、あるべき関係に回復されるために、
ただ一度、十字架刑での処刑を受けて、
永遠のいけにえとしてご自分をささげてくださったのだそうです。

 そのご自分の死によって、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている」(創世記3:5、22)
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑済み、死んだもの、としてくださっているのだそうです。

 そのうえで、新しい霊のからだに復活し、
天の父である神の右の座に帰られ、
受け入れる者に、もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださるのだそうです。

 この方は、私たち一人一人に対する
〔父である神〕の御思いを、
それぞれの心に置き、書きつけてくださって、
受け入れる者が〔父である神〕と同じ思いを思い、
一つ心になるようにし、
私たちを、イエスのからだ、肢体とし、
からだがその人の思うとおりに動くように、
私たちが、〔父である神〕がしようと思われることをしていく者に
してくださるのだそうです(ヘブル10:1~18)。

 それで、受け入れる者には、
〔父である神〕の愛の思いが来るようになり、
その愛において、
〔聖である霊〕と呼ばれる方がされるとおりに(使徒2:4)、
異言でもって人々に語るようにもなり、
預言をするようにもなるのだそうです。

 けれども、
「神のひとりのようになりたい」私たちの〔生まれたときからの霊〕は、
その〔聖である霊〕と呼ばれる方の働きの現れである
異言や預言をもってさえも、
自分が他の人よりも霊的になった、
神のひとりに近くなったと誇り、
これ見よがしに人に誇示するようになってしまうのですね。

 パウロは、そのようになり、混乱しているコリントの集まりに対して、
〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
愛をもって、お互いの徳を高めるよう、
適切に、秩序をもって働いてくださる方ですよと、
諭しているのですね(Ⅰコリント14:1~5、27~40)。

 そのような、
神様の働きを自分の栄光にすり替え、
受け取り違いをしてしまう私たちですが、
それでも、〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
私たちの心に〔父である神〕の御思いを置き、書きつけて、
私たちが〔父である神〕と一つ心になって歩むよう、
働いてくださるのだそうです。
私たちの弱り果て、自分の死を受け取っている場に。
今日も。

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