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宗像と魏志倭人伝 その2 末蘆国って宗像じゃないの?

2015年07月17日 | 宗像史

前に書いた宗像と魏志倭人伝の補完といった内容です。

まずは、魏志倭人伝における末蘆国の記述の復習。

資料として、2015/7/5の座談会「邪馬壹国に至る 海の玄関宗像」で使用したパワーポイントをPDFにしたものです。
座談会後に小呂ノ島についての記述を追加しています。

四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之
4000余りの家があり、山が海に迫る裾の浜に住んでいる。
草木が盛んに生い茂り前を行く人の姿も見えない。
ここの人達は皆、深い浅いにかかわらず海に潜って魚や鮑を上手に捕る。
 
★末蘆国に上陸した使者の感想の記述です。
田畑となっているような平地は目立たず、山裾のせまい浜(平地)で人々は暮らしている。
そして、潜水漁を得意としている人々。……鐘崎の海女、宗像海人族?
草木が盛んに生い茂り前を行く人の姿も見えない。
 
★その他に倭人の特徴として「男子無大小皆黥面文身」
男子は身分の大小(上下)に関わらず、顔や身体に刺青をしていた。
胸や肩に入れ墨を彫り込んだことから「胸肩(むなかた)」「胸形(むなかた)」 と呼ばれるようになったとの、宗像の語源の一つとされる金関丈夫氏の説とも一致する。
もっとも、この部分は倭人の風俗といった部分で述べられているので、魏志倭人伝の時期では末蘆国だけに限ったことではないようです。
 
ふと思ったのですが、そもそも「ムナカタ」と呼ばれるようになったのはいつからなの?
私の判る範囲では、宗形得善以降です。もちろんもっと前からこの地域の首長は「ムナカタ氏」ではあったと思いますが、ムナカタ氏が治めている地域ということからムナカタと言うようになったのであれば、その前は何と呼ばれていたのか?
 
宗像の地名の由来としては、他に
三女神の降臨・鎮座の際にその形代を奉納したから身の形(ミノカタ)→ムナカタ
沼などの湿地帯が多かったから沼潟・水潟(ミナカタ)→ムナカタ
などの説がありますが、いつからムナカタと呼ばれるようになったのかは謎のまま… 
個人的に好きな説で、マンガ海の民宗像でも採用されている刺青説を採用し、胸肩氏が治める地域なのでムナカタで話を進めます。 
 
倭人の特徴として「男子無大小皆黥面文身」から考えると、魏志倭人伝の頃は倭国の民は刺青がデフォなのでまだムナカタ氏ではなかった可能性が高くなります。このころからムナカタだと倭人はみんなムナカタだったり、倭国ではなくムナカタ国だったとかなりかねません(^_^;)
なので、この頃はムナカタではなく別の地域名だったと考えた方が自然です。
刺青の習慣は全国的に廃れていったのに、ムナカタ氏だけ?頑なに刺青を続けたのか…
なぜ入墨をしていたかを考えると廃れた理由も見えてきます。ハプログループD1b様の記事を読んで頂くと解りやすいと思いますが、鮫よけとか魔除けが主な理由だったようです。
稲作ははじめとする農業が盛んになるにつれ、漁業から農業へと転身する人が増えていきます。農業であれば海に潜る必要は無いため、魔除けの文身(入れ墨)をする必要はなくなります。私はやったことないのでわかりませんが、根性試しの面があると言いますし手間もかかるので必要がなければやらなくなるのが自然です。やがて農業に従事する人の方が漁業者よりも多数になり、刺青は流行らなくなり漁業を営む人々の間でも廃れていったんじゃないかと思います。

しかし、験担ぎの意味もあり、リーダーであるムナカタ氏や戦士といった立場の人の場合は刺青を入れ続けたのだと思います。戦功を上げればこの部位に入れることを許されるとか、一人前の戦士になれば入れられるとか、成人の儀式が済んだといった意味合いがあったんじゃないかと推測します。
谷川健一氏の説「これは海人特有の入墨であり、海底に住む龍神を自分たちの祖先と考え、身体に竜蛇の入墨をほどこして、自分たちの出自を誇ったと考えられる」と同じような感じでしょうか。
また、豊後の臼杵水軍を配下に置き豊予海峡を支配していた緒方氏は蛇の尾の刺青があり、そこから尾形→緒方となったとの説があります。胸のムナカタ、尾の緒方…
宗像には小方姓の方が結構居られますが何らかの繋がりはありそうです。 

で、宗像以前は何だったのか?と思い立ったのはフェイスブックでのこの画像です。以前にも年毛神社の永島文書の存在は書いたのですが、いわゆるムナカタが勝浦=万津浦=末蘆と考えるのは有りだなと感じました。(永島文書自体は福津市教育委員会が調査し、写しを県が保管しているようです。原本はかなり痛んでいるので非公開と聞きました。)
浅学なのと、文面全体が見えないので山上智氏の解読通りに「古来この辺りは万津浦と呼ばれていた」とします。 で、その後岩瀬、長崎、京泊、白石、…とこの辺りの地名が続きます。
最初に山上氏の記事を読んだ時には、文書として残ってるのだからそんなに古い物ではないだろうからとあまり気にしなかったのですが(1788年以降に書かれたようです)、この頃の人がこの辺りを「まつうら」とするメリットってあるのかな?
との疑問が浮かび、まぁ特にはないんじゃなかろうかと思ったこと、そして「勝浦発祥の地の看板」(以前は鬼塚観音の境内だけにあったそうですが、現在は桂岳登山口にもあります)の内容から、松浦(呼子あたり~長崎県の玄界灘沿岸)と宗像含めて「末蘆国」だった可能性はどうなんだろうに行き当たりました。まぁ、無理のある話とは思いますが(^_^;)

では、宗像と松浦の関連性を探して見ます。
①神功皇后の三韓征伐…松浦の君、宗像の君がそれぞれ軍団の長として出陣している。 
②呼子以西では潜水漁が盛んだった。同様に鐘崎をはじめ宗像の沿岸部をはさむ東は波津、西は志賀島まで江戸時代に盛んであった記録がある。
③江戸期に大島、地の島近海で鯨漁が盛んだった時期は、松浦、平戸の漁師を招いて一緒に漁をしていた。
④松浦党の由来… 筑前大島に葬られた安倍宗任は、奥州安倍氏の出で、前九年の役で敗戦後伊予を経て1067年に大島に配流され宗像の家臣となり、その後大島の頭領となる。三男の季任は肥前国の松浦に行き、松浦氏の娘婿となり松浦三郎大夫実任と名乗る。その子孫は北部九州の水軍松浦党を構成する一族になったともいわれている。

田嶋神社(呼子沖の加部島所在)…肥前の国一ノ宮だっと言われる神社で、祭神は宗像三女神。ただし、こちらは一社で三柱を奉る。 
⑥甕棺が少ない…福岡地区で見ると甕棺がない宗像が特異に見えるが、北部九州全体で見ると逆に福岡平野-糸島-菜畑と佐賀、熊本に至るラインの甕棺の集中地域を甕棺の少ない宗像、西北九州が挟んでいるととれる。菜畑以西松浦方面は呼子の大友遺跡の5基があるくらいで甕棺の出土は無いようです。九州の甕棺様を参照されると分布図も有り、わかりやすいです。

①~③は地勢が似た地域であれば共通点としてありがちとは思いますが、④の安倍宗任の三男を婿に迎え一軍を任せるのは単に仲が良いだけではいくら優秀な方でも難しいんじゃないかと思います。それ以前から交流が深く、婚姻関係などは何度もあったでしょうけども、一族ではなく配下の人物を婿にとるのは、やはり深い繋がりがあり同族意識があったのでは?と思います。
⑤の田嶋神社は、宗像に昔から住んでいる方であればその名前だけでピンと来ると思います。宗像大社辺津宮の所在地は宗像市田島であり、古くからの人は田島様とよんでいおり、古代に祭祀が行われていた高宮は辺津宮の南西の高台にあります。 呼子港と田嶋神社の位置関係は、弥生海退前の釣川が入り江であったころの田熊と高宮とよく似ていると感じます。
⑥は強引な気はしますが、①~⑤と一緒に考えるとまぁ有りかなとも思えてきます。他には宗像系の神社が福岡(甕棺)地区に少ないなんてのもあります。合祀されているところはわからないので省きましたが博多区美野島の市来島姫神社、西区太郎丸の厳島神社の2社、唐津市内(菜畑遺跡辺りまで)に1社くらいしかないようです。ところが、菜畑以西の旧東松浦郡に入ると唐津市内でも10社と激増し、玄海町1、伊万里市8、松浦市3と東松浦半島には宗像神社系列の神社が多数有ります。田嶋神社のお膝元ということもあるのでしょうけども古賀-菜畑遺跡のラインと比べると異常な密度、いや古賀-菜畑に少なすぎるのか?
一方宗像周辺の状況は、宗像市内5社(三宮含む)、福津市1社、宮若市3社、岡垣町2、芦屋町1、遠賀町鞍手町0と意外と少ない。
神社はこちらの神社検索で探してみましょう様から数えました。もちろん、収録されていない神社もあるでしょうし時代を経て祭神が変わった所もあると思いますので正確な数ではないでしょうが、指標にはなるかと思います。

福岡平野、筑後平野、佐賀平野は志賀大神を中心とした海神を祭る安曇系だろうといった話があり、宗像とは別系統との認識も有るようですし、福岡地区での宗像の特異性は以前から知られていたと思います。いわゆる松浦の中心が唐津のような状況ですし、菜畑遺跡をはじめとした遺跡群もあるので唐津に大きな勢力があったのは間違い有りませんが、元々のマツラ族は唐津平野よりも西と宗像に住んでいたのでは?
むしろ、宗像がマツラ族の本拠地であったと考えるのが自然じゃなかろうか…


宗像と魏志倭人伝 その1
宗像と魏志倭人伝 その3 永嶋文書 宗像と魏志倭人伝 その4 座談会しました2016_9いせきんぐ宗像

 

※この記事は筆者の願望と妄想が主成分です。 


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