邪馬台国の玄関末盧国は宗像 第6回シンポジウムの報告です。
2018年9月29日土曜日の10時より、田熊石畑遺跡歴史公園「いせきんぐ宗像」にて「第一回いせきんぐむなかた歴史講座 邪馬台国研究の新視角 邪馬壹國への道宗像は末盧国」を行いました。
今回は宗像市郷土文化課との共同事業といった形で、いせきんぐ宗像歴史講座(全3回)の第一回として実施できるようになりました。定員が50名ほどで宗像市との共同事業のため、ボランティアガイドさんの多数の出席が見込まれますのでご興味がある方は、お早めにお申し込みくださいもあり、ほぼ満席となりました。
8/28火曜日より「海の道むなかた館」(宗像市郷土文化課)電話:0940-62-2600で受付となります。
同時に、10/13(土)10~12時予定の第二回歴史講座「土笛が奏でる宗像の歴史」、11/10(土)10~12時予定第三回歴史講座「水沼君と宗像君」の申し込みも受け付けられるとのことですので、そちらも是非ご参加いただければと思います。もちろん、どれか一つだけとかでも構わないそうです。
土笛は宗像と山陰地方との繋がり、水沼君は筑後地方と言うか有明海沿岸地域とのつながりといった内容になるのかな?こちらに関しては一般参加で講聴に行くのでよくは判りません。
今回は、講師も多く丸一日いせきんぐ宗像をお借りできるということで午前中は、国指定史跡 田熊石畑遺跡の解説と魏志倭人伝の解釈の通説・有力説の解説で、昼休みは多めに取り田熊石畑遺跡公園の見学(自由行動)、午後に宗像が末蘆国である!と言った内容の講義となります。
昼休みも楽しんでいただけるように宗像の昔話や観光案内の動画を流そうと考えています。
私の昼からの担当分(チラシには載っていませんが)おおまかな内容に付きましては前回の赤間西コミセンでの「邪馬台国の玄関末蘆国は宗像(宗像と魏志倭人伝その5 2018年3月シンポジウム)」がベースとなります。
参加費等は無料です。
司会は、10/7に新原・奴山古墳群で開催される「福津の古墳秋まつり」実行委員会の方が引き受けて下さいました。
こちらは人数制限等ありません。国道495号線沿いで実施されるので場所もわかりやすいかと思いますが、駐車場は国道から見て会場を挟んだ裏手にになりますので、新原・奴山古墳群展望所(案内所)北側交差点から入られた方が判りやすいかもです。
以下は、講演の動画です。ただ、webカメラで撮ったのと設置場所含めた設定が甘かったので音は聞き取りにくいわ画面もよく見えないわで…
いせきんぐ宗像歴史講座2018その1田熊石畑遺跡の調査報告
実際に田熊石畑遺跡を発掘された、宗像市郷土文化課の白木英敏様
いせきんぐ宗像歴史講座2018その2魏志倭人伝をひも解く
現在通説とされているものや有力説に対する疑問や矛盾点について考えていただくといった内容で、話者は私です。
いせきんぐ宗像歴史講座2018その3宗像は末盧国
常識と思われることも視点を変えると…。阿波古事記研究会副会長 三村隆範様
いせきんぐ宗像歴史講座2018その4距離を測って宗像
3世紀の人々が実際に距離や方位を正確に測ることが出来たのか?邪馬壹国研究会会長 土佐野治茂様
いせきんぐ宗像歴史講座2018その5京築に残る邪馬壹國の痕跡
豊の国に残る神話や神社の伝承・行事から見えてくるものは…。行橋(不弥国)邪馬壹国研究会会長 井下田清智様
いせきんぐ宗像歴史講座2018その6 古代のハイウェイ海の道は宗像が玄関
宗像を末盧国と比定できる材料、末盧国であるならその先はどうなるのか… 私二回目
続けて全部見ると4時間くらいかかりますww。
私の最後の分は前回の分に肉付けしたり省略したりといった内容なので前回の分をお読みしてから見た方が共感できる部分も多くなるかと思います。
質疑応答や直接聞かれた質問等
回答は私含めて発表者の中から回答したい方がしております。
Q.壱岐3,000の家で末盧国は4,000戸というのは宗像を末盧国とした場合に整合性があるのでしょうか?
A.壱岐の面積は138.6㎢で、旧宗像郡は宗像市119.7㎢+福津市52.76㎢=172.46㎢で約1.25倍なので3000×1.25で3,750なので大体合います。ただ、壱岐より宗像の方が平野が少ないので若干足りない可能性もありますが周辺の宮若市北部や遠賀郡西部等も含まれている可能性も考えると逆に余裕はあるとも言えます。
(ここからは終わってから気付いたこと)
平安時代の物ですが和名類聚抄によると壱岐2郡11郷、宗像郡14郷。1郷当たりの戸(家)数を計算すると
壱岐3000/11=272.72
宗像4000/14=285.71
と結構近い数値になるので和名類聚抄の宗像郡の範囲が末盧国と考えると大体の整合性は取れると考えられます。ちなみにこれを1郷=280戸として当てはめると。
田河郡4郷×280=1120 伊都国1000余戸
京都郡4郷×280=1120 不弥国1000余戸
仲津郡から南の豊前33郷×280=9240
豊後-日高(日田)郡で43郷×280=12040
12,040+9,240=21,280 奴国20,000余戸と良い感じに魏志倭人伝の記述通りになりますが…奴国広すぎ。まぁ奴国自体が連合国家でさらに邪馬壹国連合に参加していると考えればまぁ有とは思えますが、問題はやはり投馬国。宮崎28郷+鹿児島76郷×280=29,120となり5万にはかなり遠いです。しかもこれ種子島とか屋久島とかも含んでの郷数。邪馬壹国の7万を達成するには250郷が必要。九州と同じような分布とすれば九州の半分ちょいくらい必要になりますね。
ん?四国って九州の半分くらいだよな…。数えてみると225郷なので63,000!近いちゃ近いね。淡路の13郷も足すと238×280で66,640なので7万くらいと言えますね。
畿内の場合はと言うと、奈良85郷+大阪147郷=232郷 280をかけると64,960
郷数は平安時代の物なので京都に流れた分を考えると7万余りでこれまた良い感じ。
で、仮定の九州邪馬台国連合の郷の数は、末盧(宗像)+伊都(田河郡)+豊前豊後全域(日高郡除く)+投馬国(宮崎鹿児島)+遠賀郡+嘉麻郡+志摩郡+松浦郡+小城郡+藤津郡+杵島郡+長崎県(-壱岐対馬)で256郷=71,680で見事に7万余!
大まかに書くと九州全域-狗奴国と壱岐対馬で、狗奴国は嘉瀬川以東の有明海沿い+肥後+筑後+日田郡+福岡市周辺(三郡山地以西菜畠遺跡までの甕棺文化圏)で256(251)郷×280=71,680(70,280)戸
まぁ志摩郡の5郷は狗奴国側と考えて-5の251郷×280=70,280でも良いかもですが、宗像の影響もかなり濃い地域ですし全部含めても誤差レベルといって差し支えないかなと思います。あと、鹿児島の島嶼部も含まれてるのでもう少し減る計算になります。)あと、対馬の上県・下県の両方足すと10なので2800となり対馬の1,000戸より大幅に多いのよね。上県だけの4郷なら伊都・不弥と同じく1,120戸で丁度良いし下県の6郷1,680なので千戸余と言えなくはないけど。下県は対馬国とは別国ってのもありだけど対馬と投馬のなんか似た名前のこの二つだけがしっくりいかないけど他はばっちりなのよね。
ちなみに伊都国とされることが多い怡土郡の郷数は3なので840。ちょっと少ないけどまぁ誤差の範囲でしょうかね平安時代にかけて人口減少とかもあり得るでしょうし。
ただ、早良郡7郷も伊都国の範疇の可能性を考えると多すぎになりますね。志摩郡5郷ってのもありますが、こちらは糸島水道で怡土郡と離れているし定説準拠だと斯馬国と考えたいので。
松浦郡は8郷なので2,240戸。これも4,000戸の末盧国と考えるのは苦しい。もちろん長崎県域の平戸や五島などの松浦郡も含めての数字。
あと、奴国にあたると思われる、那珂郡・早良郡・御笠郡・席田郡では14郷で宗像と同じなので2万には遠く及びません。糟屋郡4郷(志珂郷も含む)から取ると今度は不弥国が足りなくなります。
和名類聚抄での郡や郷の数は千年村プロジェクトから数えました。
千年プロジェクトさんの分をよく見るとどうも載ってない郷がいくつかあるようですので、国立国語研究所の日本語史研究用テキストデータ集二十巻本和名類聚抄[古活字版]をエクセルに入れて集計しなおしました。そんなに大きくは変わらないと思いますが集計し直して近いうちに公開します。
Q.勝浦は三韓征伐で付いた地名とのことですが、勝は神功皇后がらみで色々な所に多数あり珍しくもないのでそれが「まつうら」の根拠としては弱いのでは?宮地嶽神社の勝村大神、壱岐の勝本とか、志賀島の勝馬とか
A.当然ながら神功皇后伝承がある地域には「勝」が付いている地名が多いですが、宮地嶽神社も宗像ほどではないですが松浦地方に多く分布しています。そして、西の方では祭神は勝村大神・勝頼大神ではなく勝門比売が祭神となっています。宮地嶽神社を祭る人々マツラ族がこの辺りから移住しているといった話もあります。今回触れた永嶋文書や國郡全圖の松浦潟だけでは決定的な根拠とは言えないとは思います。(ここまでシンポジウム内)
後ほど質問者様とやりとりした際に、永嶋文書の記述の件を以下のように説明したら勝浦=まつうらの根拠の一つとして納得できるとのことでした。ただ、もっとこういった材料の発見がないと現状の定説を覆すのは厳しいでしょうとも。私もまだまだ探す必要はあると思います。距離が記述と合っているというだけではよほど好意的な方でない限りは説得力は無いと思ってます。(だからこそこんな記事書くんですけどね)
「まつうら」が宗像にあったといった資料は午前の部の資料の最後の永嶋文書の万津浦くらいです。
この「万津浦が三韓征伐の折に勝浦となった」と解釈しております。勝浦という地名は三韓征伐の勝利で付いた地名です。という話はご存知の方は多いのですが、それ以前は何と呼んでいたのか?となると「なんだろう?」となります。永嶋文書には「勝浦ト名付ケ…」の先に、以前の地名として止志母、万津浦、岩瀬、京泊、勝山…と書いてありますが、万津浦という地名だけが現在周辺には残っておりません。
追記…福津市渡に梅津という小字がありました。江戸時代の塩田開発前は梅津浦という漁師集落だったようです。正味行脚 梅津と梅津天満宮の由来(2)福津市
年毛神社と岩瀬の中間辺りですので永嶋文書の万津浦のことかもしれないですね。
余談…宮地嶽神社と言えば松ヶ枝餅。神紋は三階松。勝と松のつながりか?あんまり関係ないとは思うけど。
Q.当時の人が方位を知る方法として、磁石を水に浮かべるとか日の出の方向などもあると思いますが、例えば夏至の日の出の方向を真東とすれば魏志倭人伝の方位の記述の整合性も上がるのでは?
渾天儀が紀元前に実用化されており、当時の人は正確な方位を知っていた。また、周髀算経・九章算術を読むと計算や測定での誤差は極小さいので方位の誤差は無いと考えて良いでしょう。
質問と回答がかみ合ってなかったようなので補足と言うか私の考えとしては、方向に関しては結構アバウトな面はあると思います。例えば東南方向は東の方なのか南の方なのかは人によって変わります。昼の分でも来場者の皆さんに聞いてみたのですが「福岡市は宗像から見てどの方向にあると思いますか?」殆どの方は西とお答えになりました。地図を見ると南南西なので西よりも南の方が正解なんですが感覚と言う物は環境で変わります。実際に朝鮮半島から壱岐までもあくまで南の方であって真南ではないですし、質問者様が言われた通り夏至の日の出の方向を真東とすると実際よりも真南に進んでいるように見え、記述上の東も実際には東北方向と置き換えることはできます。
ただ、この場合も方角の整合性は上がっても距離の点では何も変わりません。中心地と想定している場所がそもそも違うとすればまた別の話になりますけども。
Q.やはり唐津の方が壱岐からなら圧倒的に近いので上陸地点は唐津では?
近いから行きやすいわけではないですし、呼子と同距離に小呂島があります。壱岐からであれば潮流の関係で小呂島の方が行きやすいです。鐘崎の漁師は壱岐はすぐそこと言いますし、地図を見るだけと実際の現場では感覚は違います。時間の都合でこの辺りまで。
本当によくある質問なんですが、これは必ずといっていいほど平行線で終わります。距離の整合性よりも自分の感覚を優先してしまうと何のために魏志倭人伝を解読するのだろう?確かに小呂島と呼子だと距離はほぼ同じとしても的が大きい呼子の方に行きたくなるのはわかります。ただ、今まで述べたように壱岐海峡の横方向からの潮流、それも時間によって向きはちょこちょこ変わる面倒な潮流です。小呂島や直接宗像を目指すのであれば広い沖合ですので潮流の変化は大きくありません。ましてや国賓とも言える使者を案内する船頭や水先案内人といった人が危険のある方を選ぶでしょうか?
自分で操作できる小さな船ならともかく外洋を航行する船ですから漕ぎ手も多くなかなか指示通りとはいかんかったでしょう。例えば秀吉が関門海峡で座礁した時は、秀吉の船の船頭なので当時一番の船頭といって良い人物が操船していたと思われますが、それでも座礁しています。ただ、秀吉が乗っていたから逆に事故がおきたのでは?とも思えます。船頭が「この時間に行くのは危険なので少し待ってから行きましょう」と言ったとしても、秀吉が「急いでいるから早く行け!お前もプロだろ、いいから言う通りに動け!」といったようなことを言えば逆らえませんよね。
ただ、魏使の場合はそこまで急ぐ必要はありませんし、プロが勧める安全な方を選ぶでしょう。
そして、毎度のことですが呼子に行くと30~40km険しい道を歩かざるを得なくなります。ほとんどの部分を船で行けるのに。その後も舟で行けるところをまた歩かされるならむしろ寄らずにまっすぐ怡土、奴国に行けばいいじゃない。
一応補足として、私は甘木・朝倉等のいわゆる北部九州説も否定はしません。ただ、納得できるだけの解説が無いだけですので。極論を言えば、本居宣長説の「邪馬台国が大和と名乗り魏使をだました」とかは逆に有りと思いますし、それに付随して「魏使は倭人の言うがままに距離や方位を記した」でも納得はできます。ただ、それであってもしつこいですが末盧国~奴国(唐津~糸島~那珂川沿)を船で行かず歩かせたのか伊都国に寄らないといけないのはわかるけども、それなら何故唐津なり呼子どちらでも構いませんがそこから船で糸島を目指さないのか、街道が整備された江戸時代以降ならともかくとして弥生時代に陸で行く不合理。
宗像と唐津や呼子なら近い方に行きたいだろうからという考えがまったく理解できません。魏使が自分で進路を選択しているならともかくちゃんと案内人がいるならそれに従ったルートで行くのが普通です。「あっちに陸があるからあっちに行ってくれ」とは言わないでしょう。
もちろん案内人が唐津の方を目指すことも考えられますが、それであれば距離・方位の問題にもどってしまいます。
硯が出たからとか、桃の種が出たからこことかではなく、もっと具体的にそれで間違いない!ってのが出てくれればすっきりするんですが。
2019.06.02 「末盧国―宗像説」 高橋誠也, 福永晋三
福永晋三先生と2019年6月2日に田川市で行った講演の動画です。
「宗像と魏志倭人伝 その1」
「その2 末蘆国って宗像じゃないの?」
「その3永嶋文書」
「宗像と魏志倭人伝 その4 座談会しました」
「邪馬台国の玄関末蘆国は宗像(宗像と魏志倭人伝その5 2018年3月シンポジウム)」
海の民宗像 ―玄界灘の守り神 改訂増補版 クリエーター情報なし 梓書院
2018年9月29日土曜日の10時より、田熊石畑遺跡歴史公園「いせきんぐ宗像」にて「第一回いせきんぐむなかた歴史講座 邪馬台国研究の新視角 邪馬壹國への道宗像は末盧国」を行いました。
今回は宗像市郷土文化課との共同事業といった形で、いせきんぐ宗像歴史講座(全3回)の第一回として実施できるようになりました。定員が50名ほどで宗像市との共同事業のため、ボランティアガイドさんの多数の出席
8/28火曜日より「海の道むなかた館」(宗像市郷土文化課)電話:0940-62-2600で受付となります。
同時に、10/13(土)10~12時予定の第二回歴史講座「土笛が奏でる宗像の歴史」、11/10(土)10~12時予定第三回歴史講座「水沼君と宗像君」の申し込みも受け付けられるとのことですので、そちらも是非ご参加いただければと思います。もちろん、どれか一つだけとかでも構わないそうです。
土笛は宗像と山陰地方との繋がり、水沼君は筑後地方と言うか有明海沿岸地域とのつながりといった内容になるのかな?こちらに関しては一般参加で講聴に行くのでよくは判りません。
今回は、講師も多く丸一日いせきんぐ宗像をお借りできるということで午前中は、国指定史跡 田熊石畑遺跡の解説と魏志倭人伝の解釈の通説・有力説の解説で、昼休みは多めに取り田熊石畑遺跡公園の見学(自由行動)、午後に宗像が末蘆国である!と言った内容の講義となります。
昼休みも楽しんでいただけるように宗像の昔話や観光案内の動画を流そうと考えています。
私の昼からの担当分(チラシには載っていませんが)おおまかな内容に付きましては前回の赤間西コミセンでの「邪馬台国の玄関末蘆国は宗像(宗像と魏志倭人伝その5 2018年3月シンポジウム)」がベースとなります。
参加費等は無料です。
司会は、10/7に新原・奴山古墳群で開催される「福津の古墳秋まつり」実行委員会の方が引き受けて下さいました。
こちらは人数制限等ありません。国道495号線沿いで実施されるので場所もわかりやすいかと思いますが、駐車場は国道から見て会場を挟んだ裏手にになりますので、新原・奴山古墳群展望所(案内所)北側交差点から入られた方が判りやすいかもです。
以下は、講演の動画です。ただ、webカメラで撮ったのと設置場所含めた設定が甘かったので音は聞き取りにくいわ画面もよく見えないわで…
いせきんぐ宗像歴史講座2018その1田熊石畑遺跡の調査報告
実際に田熊石畑遺跡を発掘された、宗像市郷土文化課の白木英敏様
いせきんぐ宗像歴史講座2018その2魏志倭人伝をひも解く
現在通説とされているものや有力説に対する疑問や矛盾点について考えていただくといった内容で、話者は私です。
いせきんぐ宗像歴史講座2018その3宗像は末盧国
常識と思われることも視点を変えると…。阿波古事記研究会副会長 三村隆範様
いせきんぐ宗像歴史講座2018その4距離を測って宗像
3世紀の人々が実際に距離や方位を正確に測ることが出来たのか?邪馬壹国研究会会長 土佐野治茂様
いせきんぐ宗像歴史講座2018その5京築に残る邪馬壹國の痕跡
豊の国に残る神話や神社の伝承・行事から見えてくるものは…。行橋(不弥国)邪馬壹国研究会会長 井下田清智様
いせきんぐ宗像歴史講座2018その6 古代のハイウェイ海の道は宗像が玄関
宗像を末盧国と比定できる材料、末盧国であるならその先はどうなるのか… 私二回目
続けて全部見ると4時間くらいかかりますww。
私の最後の分は前回の分に肉付けしたり省略したりといった内容なので前回の分をお読みしてから見た方が共感できる部分も多くなるかと思います。
質疑応答や直接聞かれた質問等
回答は私含めて発表者の中から回答したい方がしております。
Q.壱岐3,000の家で末盧国は4,000戸というのは宗像を末盧国とした場合に整合性があるのでしょうか?
A.壱岐の面積は138.6㎢で、旧宗像郡は宗像市119.7㎢+福津市52.76㎢=172.46㎢で約1.25倍なので3000×1.25で3,750なので大体合います。ただ、壱岐より宗像の方が平野が少ないので若干足りない可能性もありますが周辺の宮若市北部や遠賀郡西部等も含まれている可能性も考えると逆に余裕はあるとも言えます。
(ここからは終わってから気付いたこと)
平安時代の物ですが和名類聚抄によると壱岐2郡11郷、宗像郡14郷。1郷当たりの戸(家)数を計算すると
壱岐3000/11=272.72
宗像4000/14=285.71
と結構近い数値になるので和名類聚抄の宗像郡の範囲が末盧国と考えると大体の整合性は取れると考えられます。ちなみにこれを1郷=280戸として当てはめると。
田河郡4郷×280=1120 伊都国1000余戸
京都郡4郷×280=1120 不弥国1000余戸
仲津郡から南の豊前33郷×280=9240
豊後-日高(日田)郡で43郷×280=12040
12,040+9,240=21,280 奴国20,000余戸と良い感じに魏志倭人伝の記述通りになりますが…奴国広すぎ。まぁ奴国自体が連合国家でさらに邪馬壹国連合に参加していると考えればまぁ有とは思えますが、問題はやはり投馬国。宮崎28郷+鹿児島76郷×280=29,120となり5万にはかなり遠いです。しかもこれ種子島とか屋久島とかも含んでの郷数。邪馬壹国の7万を達成するには250郷が必要。九州と同じような分布とすれば九州の半分ちょいくらい必要になりますね。
ん?四国って九州の半分くらいだよな…。数えてみると225郷なので63,000!近いちゃ近いね。淡路の13郷も足すと238×280で66,640なので7万くらいと言えますね。
畿内の場合はと言うと、奈良85郷+大阪147郷=232郷 280をかけると64,960
郷数は平安時代の物なので京都に流れた分を考えると7万余りでこれまた良い感じ。
で、仮定の九州邪馬台国連合の郷の数は、末盧(宗像)+伊都(田河郡)+豊前豊後全域(日高郡除く)+投馬国(宮崎鹿児島)+遠賀郡+嘉麻郡+志摩郡+松浦郡+小城郡+藤津郡+杵島郡+長崎県(-壱岐対馬)で256郷=71,680で見事に7万余!
大まかに書くと九州全域-狗奴国と壱岐対馬で、狗奴国は嘉瀬川以東の有明海沿い+肥後+筑後+日田郡+福岡市周辺(三郡山地以西菜畠遺跡までの甕棺文化圏)で256(251)郷×280=71,680(70,280)戸
まぁ志摩郡の5郷は狗奴国側と考えて-5の251郷×280=70,280でも良いかもですが、宗像の影響もかなり濃い地域ですし全部含めても誤差レベルといって差し支えないかなと思います。あと、鹿児島の島嶼部も含まれてるのでもう少し減る計算になります。)あと、対馬の上県・下県の両方足すと10なので2800となり対馬の1,000戸より大幅に多いのよね。上県だけの4郷なら伊都・不弥と同じく1,120戸で丁度良いし下県の6郷1,680なので千戸余と言えなくはないけど。下県は対馬国とは別国ってのもありだけど対馬と投馬のなんか似た名前のこの二つだけがしっくりいかないけど他はばっちりなのよね。
ちなみに伊都国とされることが多い怡土郡の郷数は3なので840。ちょっと少ないけどまぁ誤差の範囲でしょうかね平安時代にかけて人口減少とかもあり得るでしょうし。
ただ、早良郡7郷も伊都国の範疇の可能性を考えると多すぎになりますね。志摩郡5郷ってのもありますが、こちらは糸島水道で怡土郡と離れているし定説準拠だと斯馬国と考えたいので。
松浦郡は8郷なので2,240戸。これも4,000戸の末盧国と考えるのは苦しい。もちろん長崎県域の平戸や五島などの松浦郡も含めての数字。
あと、奴国にあたると思われる、那珂郡・早良郡・御笠郡・席田郡では14郷で宗像と同じなので2万には遠く及びません。糟屋郡4郷(志珂郷も含む)から取ると今度は不弥国が足りなくなります。
和名類聚抄での郡や郷の数は千年村プロジェクトから数えました。
千年プロジェクトさんの分をよく見るとどうも載ってない郷がいくつかあるようですので、国立国語研究所の日本語史研究用テキストデータ集二十巻本和名類聚抄[古活字版]をエクセルに入れて集計しなおしました。そんなに大きくは変わらないと思いますが集計し直して近いうちに公開します。
Q.勝浦は三韓征伐で付いた地名とのことですが、勝は神功皇后がらみで色々な所に多数あり珍しくもないのでそれが「まつうら」の根拠としては弱いのでは?宮地嶽神社の勝村大神、壱岐の勝本とか、志賀島の勝馬とか
A.当然ながら神功皇后伝承がある地域には「勝」が付いている地名が多いですが、宮地嶽神社も宗像ほどではないですが松浦地方に多く分布しています。そして、西の方では祭神は勝村大神・勝頼大神ではなく勝門比売が祭神となっています。宮地嶽神社を祭る人々マツラ族がこの辺りから移住しているといった話もあります。今回触れた永嶋文書や國郡全圖の松浦潟だけでは決定的な根拠とは言えないとは思います。(ここまでシンポジウム内)
後ほど質問者様とやりとりした際に、永嶋文書の記述の件を以下のように説明したら勝浦=まつうらの根拠の一つとして納得できるとのことでした。ただ、もっとこういった材料の発見がないと現状の定説を覆すのは厳しいでしょうとも。私もまだまだ探す必要はあると思います。距離が記述と合っているというだけではよほど好意的な方でない限りは説得力は無いと思ってます。(だからこそこんな記事書くんですけどね)
「まつうら」が宗像にあったといった資料は午前の部の資料の最後の永嶋文書の万津浦くらいです。
この「万津浦が三韓征伐の折に勝浦となった」と解釈しております。勝浦という地名は三韓征伐の勝利で付いた地名です。という話はご存知の方は多いのですが、それ以前は何と呼んでいたのか?となると「なんだろう?」となります。永嶋文書には「勝浦ト名付ケ…」の先に、以前の地名として止志母、万津浦、岩瀬、京泊、勝山…と書いてありますが、万津浦という地名だけが現在周辺には残っておりません。
追記…福津市渡に梅津という小字がありました。江戸時代の塩田開発前は梅津浦という漁師集落だったようです。正味行脚 梅津と梅津天満宮の由来(2)福津市
年毛神社と岩瀬の中間辺りですので永嶋文書の万津浦のことかもしれないですね。
余談…宮地嶽神社と言えば松ヶ枝餅。神紋は三階松。勝と松のつながりか?あんまり関係ないとは思うけど。
Q.当時の人が方位を知る方法として、磁石を水に浮かべるとか日の出の方向などもあると思いますが、例えば夏至の日の出の方向を真東とすれば魏志倭人伝の方位の記述の整合性も上がるのでは?
渾天儀が紀元前に実用化されており、当時の人は正確な方位を知っていた。また、周髀算経・九章算術を読むと計算や測定での誤差は極小さいので方位の誤差は無いと考えて良いでしょう。
質問と回答がかみ合ってなかったようなので補足と言うか私の考えとしては、方向に関しては結構アバウトな面はあると思います。例えば東南方向は東の方なのか南の方なのかは人によって変わります。昼の分でも来場者の皆さんに聞いてみたのですが「福岡市は宗像から見てどの方向にあると思いますか?」殆どの方は西とお答えになりました。地図を見ると南南西なので西よりも南の方が正解なんですが感覚と言う物は環境で変わります。実際に朝鮮半島から壱岐までもあくまで南の方であって真南ではないですし、質問者様が言われた通り夏至の日の出の方向を真東とすると実際よりも真南に進んでいるように見え、記述上の東も実際には東北方向と置き換えることはできます。
ただ、この場合も方角の整合性は上がっても距離の点では何も変わりません。中心地と想定している場所がそもそも違うとすればまた別の話になりますけども。
Q.やはり唐津の方が壱岐からなら圧倒的に近いので上陸地点は唐津では?
近いから行きやすいわけではないですし、呼子と同距離に小呂島があります。壱岐からであれば潮流の関係で小呂島の方が行きやすいです。鐘崎の漁師は壱岐はすぐそこと言いますし、地図を見るだけと実際の現場では感覚は違います。時間の都合でこの辺りまで。
本当によくある質問なんですが、これは必ずといっていいほど平行線で終わります。距離の整合性よりも自分の感覚を優先してしまうと何のために魏志倭人伝を解読するのだろう?確かに小呂島と呼子だと距離はほぼ同じとしても的が大きい呼子の方に行きたくなるのはわかります。ただ、今まで述べたように壱岐海峡の横方向からの潮流、それも時間によって向きはちょこちょこ変わる面倒な潮流です。小呂島や直接宗像を目指すのであれば広い沖合ですので潮流の変化は大きくありません。ましてや国賓とも言える使者を案内する船頭や水先案内人といった人が危険のある方を選ぶでしょうか?
自分で操作できる小さな船ならともかく外洋を航行する船ですから漕ぎ手も多くなかなか指示通りとはいかんかったでしょう。例えば秀吉が関門海峡で座礁した時は、秀吉の船の船頭なので当時一番の船頭といって良い人物が操船していたと思われますが、それでも座礁しています。ただ、秀吉が乗っていたから逆に事故がおきたのでは?とも思えます。船頭が「この時間に行くのは危険なので少し待ってから行きましょう」と言ったとしても、秀吉が「急いでいるから早く行け!お前もプロだろ、いいから言う通りに動け!」といったようなことを言えば逆らえませんよね。
ただ、魏使の場合はそこまで急ぐ必要はありませんし、プロが勧める安全な方を選ぶでしょう。
そして、毎度のことですが呼子に行くと30~40km険しい道を歩かざるを得なくなります。ほとんどの部分を船で行けるのに。その後も舟で行けるところをまた歩かされるならむしろ寄らずにまっすぐ怡土、奴国に行けばいいじゃない。
一応補足として、私は甘木・朝倉等のいわゆる北部九州説も否定はしません。ただ、納得できるだけの解説が無いだけですので。極論を言えば、本居宣長説の「邪馬台国が大和と名乗り魏使をだました」とかは逆に有りと思いますし、それに付随して「魏使は倭人の言うがままに距離や方位を記した」でも納得はできます。ただ、それであってもしつこいですが末盧国~奴国(唐津~糸島~那珂川沿)を船で行かず歩かせたのか伊都国に寄らないといけないのはわかるけども、それなら何故唐津なり呼子どちらでも構いませんがそこから船で糸島を目指さないのか、街道が整備された江戸時代以降ならともかくとして弥生時代に陸で行く不合理。
宗像と唐津や呼子なら近い方に行きたいだろうからという考えがまったく理解できません。魏使が自分で進路を選択しているならともかくちゃんと案内人がいるならそれに従ったルートで行くのが普通です。「あっちに陸があるからあっちに行ってくれ」とは言わないでしょう。
もちろん案内人が唐津の方を目指すことも考えられますが、それであれば距離・方位の問題にもどってしまいます。
硯が出たからとか、桃の種が出たからこことかではなく、もっと具体的にそれで間違いない!ってのが出てくれればすっきりするんですが。
2019.06.02 「末盧国―宗像説」 高橋誠也, 福永晋三
福永晋三先生と2019年6月2日に田川市で行った講演の動画です。
「宗像と魏志倭人伝 その1」
「その2 末蘆国って宗像じゃないの?」
「その3永嶋文書」
「宗像と魏志倭人伝 その4 座談会しました」
「邪馬台国の玄関末蘆国は宗像(宗像と魏志倭人伝その5 2018年3月シンポジウム)」
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