本はつい書名に釣られて買ってしまいがちなあっしは、読み始めてみて失敗に気付く事が多々。
どこか途中でリカバリーが来ないかと期待しつつ、おまへんでしたナ。という今回もそのパターンだった。😭
漢字は面白いなあと、いつも密かに考えながら暮らしている。
密かにじゃ。
日本人である以上、日々何かしら漢字を目にするワケだから、そこで留まって見るか否かの差ではあると思うのだが、奇妙奇天烈な字や表現を見つけては、あっしはいつも何だ?と留まってしまう。
そんなワケで、漢字に関する物かなと思えば、どんな本でも一応は手にしてみたくなる。
閑話休題。
とある何時か、社会学の先生が日本について語った「げんきな日本論」(講談社新書)という本を読んだ。
その中で漢字の事を語っていた。
訳語には熟語が多いとやら。
明治の初め外国の文書を訳すため、いろいろな熟語が造られたとやら。
余談でリバティを自由と訳したのは、福沢諭吉じゃ。
しかし、ディファレントを差異、バトルを戦闘と訳す様に、何故か熟語の中には同じような意味の漢字を並べる物が多いとやら。
外国語には、もともと日本には概念としてなかった言葉も多かったので、かの偉人達は翻訳には相当苦心された様ですな。
しかし、どうして存在だ、道路だ人民だと、考えれば考えるほど似た現象の熟語がいくつも出来たのだろうか?
さっきの社会学の先生も、本の中で一応はこうなんじゃない?と語っているが、あくまで推測じゃ。
あっしは、この素朴な疑問を解決してくれる本(でも人でも)に出会う事を待ち望んでいる。
そもそも造った方々がもうこの世にいないので、無理だという説もある。
どこかの好事家がいたら研究してもらいたいワん。