1959年に東京都立世田谷工業高等学校が附属中学校を設置、技術者志望の学生を中高一貫教育で育成しようとした。公立校における中高一貫教育の試みとしては先駆的なものではあったが、1973年に附属中学校を廃校している。
東京都立世田谷工業高等学校付属中学校
沿革 | ||
1959年 | 1月1日 | 世田谷工業高校附属中学校設立認可 |
4月1日 | 世田谷工業高校附属中学校開校 | |
1970年 | 世田谷工業高校附属中学校付属中学校の募集停止 | |
1973年 | 3月31日 | 世田谷工業高校付属中学校を廃校 |
学校統廃合の影響で来春、全日制が廃校になる都世田谷工(世田谷区成城9丁目)が、
最後の夏に挑む。23区内の都立高で最大級の野球専用グラウンドを持ち、そこで同
校野球部のほか、練習場の確保に苦しむ他校が連日のように訪れては汗を流してきた。
統廃合後の新たにスタートする高校でもグラウンドは残される予定だが、3年生だけ
14人の野球部員は、都世田谷工の歴史を大きく刻もうと、練習に励んでいる。
両翼約94メートル、外野部分には人工芝が敷かれているグラウンド。他校から
「練習に使わせて欲しい」と、ひっきりなしに頼まれる。土曜日曜や長期休暇は他校の
利用で埋まっている。シーズン中は、合同練習も入れて200ゲームは他校が使うとい
う。東京の球児の「サロン」的な存在だ。
99年、初めて東東京大会を制し夏の甲子園に出場した都城東は、東東京大会を前に
約40日間、このグラウンドを借りて練習を重ねた。「高校野球自体の底上げになれば、
それでいいと思って出来る限り貸してきた」。10年間、チームを率いてきた
長嶺(なが・みね)功監督は、こう話す。
昨夏、都世田谷工を引退する3年生たちが、残る2年生14人に「プレゼント」をした。
溶接の授業で、卒業製作として約3カ月かけて作った大きなスコアボード。イニングの上
には、白いペンキで「世田谷工業野球部」の名を、大きく書いた。
「多くの学校が愛したこのグラウンドに、世田谷工野球部の名前をずっと残したい」。
そんな思いのこもったスコアボードを、14人は先輩たちと一緒に穴を掘り、5日間かけ
てグラウンドのわきに立てた。
統廃合後、06年度春には、新たな都立高が開校することになっている。
「このグラウンドを通じて、色々な学校の野球部にいい友達がいっぱいできた」と主
将の小須田芳明君(17)は話す。「新しい学校で野球部が出来たら、部員たちが、
ここは世田谷工だったと誇りに思えるような、そんな結果を最後の夏に刻みたい」
世田工野球部の戦績をみると、4期生が3年生になった昭和26年夏の選手権大会は善
戦・健闘していることがわかる。
新東宝野球部と世田工野球部
これは、1946年~48年にかけて、東宝砧撮影所で勃発した東宝争議と無縁ではな
東宝の経営者側・争議側の双方に組しない十大スターが10人の旗の会を設立し、19
49年新東宝映画製作所が発足した。新東宝には社会人野球チームがあり、業務の傍ら
活動していたが、独自のグラウンドを持たず、練習できる場所を探していた。
一方、世田工野球部の中に、実家が新東宝と道路を挟んだところで中華料理店を営ん
でいる部員が居て、その店をよく利用していたのが、新東宝野球部の村山氏だ。世田
工野球部の指導をお願いしたところ、2年間という約束で指導を承諾してくれた。
(注:当時を知る関係者の証言では、4期・杉浦正晴氏のご家族が中華料理店を営んで
おられたそうである。)
新東宝野球部との合同練習も実現し、双方に望ましい関係が構築された。
新東宝映画と世田工野球部。一見、無縁に思える両者は、こうして不思議な糸で結ばれ
ていくのである。
村山氏の指導は厳しかったそうだが、練習後は連日成城学園駅近くの店で腹を減らし
た部員たちにごちそうしてくれたり、よき兄貴分のような存在。その後、新東宝が
解散し、野球部の活動もなくなってしまうのだが、何か監督にご恩返しがしたい…
ということで、世田工野球部三羽ガラス(世田工卒業後、加藤氏・木澤氏・白江氏
は新東宝に入社)が発起人となり、軟式野球部「村山球団」の発足につながる。
当時一世を風靡していた鶴田浩二ひきいる野球チーム、ヤンガーズを、かなり意識して
いたとのこと。
一期先輩の今井、田中、両氏も加わり、新東宝のみなさんも参加して、たちまち
世田谷区の大会で優勝するノンプロ上がりの最強球団が誕生した。
彼らはとにかく強かった。世田谷区の軟式野球チームは当時たくさんあって、ど
んなに強くても最初はCクラスから入るという決まりだった。毎週日曜日出かけて
は、圧勝(20-0)などという点数差だったそうで、たちまちAクラスまで上りつめた。
当時野球帽の、m( Mではない、murayamano m? )を、かなり大きくしたものを作
って、目立つ軍団だった。
新東宝三羽烏の他に、同期の鈴木啓太郎氏も映画界に進まれて、こちらは、東映
撮影所のオーデションを受け、「あれが港の灯だ」「居酒屋兆治」などに出演、
活躍されてる。
日大三高戦秘話
昭和26年夏の4回戦で日大三高と対戦することになり、勝てば準々決勝と
意気が上がっていた。日大三高戦は激戦だったと、伝え聞いている。
強豪相手に敗退したものの、ベスト16は見事といっていいだろう。
昭和26年夏 | 1回戦 世田工6-5豊多摩 |
2回戦 世田工7-3独協学園 | |
3回戦 世田工6-0都立短大付 | |
4回戦 世田工2-7日大三高 |
4回戦・日大三高戦は4回まで2-0で世田工がリードしていた。
日大三高の攻撃。無死1・2塁で、そのアクシデントは起こった。
日大三高打者の打球は三塁ゴロ。捕球した三塁手は二塁へ送球。
ベースカバーの二塁手と日大三高走者が接触。判定は日大三高の
インターフェアーとなるのだが、二塁手はアキレス腱を切って、
負傷交代を余儀なくされる。交代した選手は守備に不慣れで、そこ
をついて打球を二塁手に集中されて逆転され、準々決勝進出はなら
なかった。
今回、当時を知る関係者から得た情報では、三塁ゴロは当たり損ない
で、ダブルプレーは無理と判断した二塁手は一死を確実に取りに行って、
そこへ走者の接触となったようだ。ダブルプレーが見込める打球で
あれば二塁手はベース端を踏んで一塁送球となり、一連の動きの中で
接触は免れることができたかもしれない。日大三高走者としても、併殺
は阻止したいところで、強豪を本気にさせた熱戦が目に浮かぶ。
世田工のエースピッチャーは鈴木利治氏であったが、指の負傷で投げられず
今井謙三氏がマウンドに立った。
日大三高の投手・若杉はのちに近鉄バッファローズに入団していることから
このときの日大三高の強さは想像できるであろう。
世田工野球部5期OBの白江隆夫氏は自動車科であったが、その御生涯を
映画編集に尽くされた。きっかけは、この新東宝にあったようだ。
世田工野球部OB・新東宝野球部で活躍
第6回映画人オールスター野球大会・新東宝チームに
世田工野球部OB・加藤、木澤、白江、戸塚各先輩のお名前があります
第8回映画人オールスター野球大会・新東宝チームにも
世田工野球部OB・加藤、木澤、白江、戸塚各先輩のお名前がありました
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灰田勝彦も世田工グランドでプレーしていた
灰田勝彦と言えば人気の野球俳優であった。
世田谷工業高校野球部第5期OB白江隆夫氏がご逝去されました(2020年5月21日享年85歳)。
その後、ご遺族様より、ご遺品の中から資料のご提供をいただきました。
謹んで、白江先輩のご冥福をお祈りさせていただくとともに、
氏のご生前の足跡と併せ、「世田工今昔物語」として上载させていただきます。
1953年当時の母校正門
教職員の先生
機械科程1組
機械科程2組
自動車科程
電力科程1組
電力科程2組
電気通信科程
世田谷工業高校野球部OB会
世田工今昔物語ー2 5期OB白江隆夫氏の足跡