今日はひどい一日だった。
仕事で何度も殴られた。もう、何度も殴られると、イヤだと感じる自分がイヤになるね。なんか、こんな世界でこんな風に生きなけりゃならないのがバカバカしい。けど、続けなくちゃならない。自分の感じ方も、タイミングの悪さも、勘の悪さも、偶然の災難の数々もあらゆるものが、自分を神の仕組んだプログラムに引きづり込もうとする。
何も今日だけのことじゃない。
何もこの会社だけのことでもない。
何もこの歳だからって事でもない。
利害関係が強いことを人と協力してやろうとすると、すぐに私の側にトラブルが発生する。そして誰でも、どこでも、皆口を揃えたように同じ事を言って非難する。言われていることの原因を直せば解決するだろう。けれど、それができない。利害の生まれるような人付き合いはなるべく避けたいのが本音。
だから、新規まき直しで一からやり直そうとしても、結局いつも同じパターン。呪われた神の法則である。どこへ行こうと、何をしようと所詮神の食卓の皿の上でじたばたすることになっとる。神聖なコメディを自分で演じさせられてる。
杜甫の詩があった。韋左丞丈に贈り奉る、二十二韻
丈人(じょうじん) 試(こころ)みに静かに聴け 《おじさん、静かに聴いてください》
賤子(せんし) 請(こ)う 具(つぶさ)に 陳(の)べん 《詳しくその次第を述べましょう》
これは負け犬のつぶやき?かどうか、
甫(自分のこと)は昔 少年の日
早くも観国の賓(かんごくのひん)に充(あ)てらる 《早くも科挙の受験者に擬せられた》
とつづく。大きすぎる不幸を予感させる詩。