私は『目を見てあいさつ』できないだろう。『目を合わせない人』って言われたことがある。そういってくれる人は、本当のことを言ってくれるだけ親切だ。自分は目を合わせているつもり。なのに、『目は口ほどに物を言う』で、目を合わせているのに、目をそらしたくてたまらないっていう本心も現してしまうために、相手はそう受け取ってしまう。だから、目を合わせてることにならない。
心のあり方は大事なのだろう。私は「利害を生む人間関係」では常に人に害を与える側になっているっていう意識が保育園の時から経験則としてずっとあって、だからなるべく人と関わらずに要領よく、うまく立ち回る方法を探してばかりで、人との関係なんかどうでもよい、というか、前向きになれない。大学の時は、偶然ラッキーな人間関係つかんだと思ったら、結局その思い上がりが転落の始まりで、ハシゴはずされて、自分だけが災難に遭ってた。その時ばかりははっきり身につまされた。それに、その時の逆境の対処の仕方も悪かった。彼女に激しい恨みを抱いてしまい、天に向かって唾するのと同じく、自分をさらに貶めただけだった。
そんな私が何を信じればいいかって、・・・。やっぱり、人の中へ戻っていくしかない。人の中へ、会社の中へ、利害の中へ。怖さって、逃げれば逃げるほどついてくるものでしょ。周りの友達は会社の愚痴なんか言わない。それはお互いのためだろう。口にしなくても感じているだろう。
毎日会社でヒドい目にあってる。前の会社でも同じだ。おそらくどこいったって自分の苦労からは逃げられん。逆に、信頼って、そういう「付きまとう苦難」を乗り越えたのを周りが認めてはじめて生まれるんだろう。
今の自分は今の苦難を文学にしてくれる『神聖喜劇』が好きだ。
・・・・・・私が「忘れました」を言いさえすれば、これはまずそれで済むに違いなかろう。これもまた、ここでの、現にあり、将来にも予想せられる、数々の愚劣、非合理の一つに過ぎない事柄ではないか。これに限ってこだわらねばならぬ、なんの理由が、どんな必要が私にあろうか。一匹の犬、犬になれ、この虚無主義者め。それでここは無事に済む。無事に。・・・・・・だが、違う、これは、無条件に不条理ではないか。・・・・・・虚無主義者に、犬に、条理と不条理との区別があろうか。バカげた、無意味なもがきを止めて、一声ほえろ。それがいい。
ここで東堂は「くちごたえ」をするけど、私の場合は徹底的に犬に徹して謝り続けている。「親(上司)の意見と茄子(なすび)の花は千に一つの徒(あだ)もなし」っていう言葉もあるから。