月のたび

日々の日記

再会

2008-02-25 22:16:17 | 今日の出来事(重要性低)

今日、高校時代の友人に会った。偶然の再会。高校では同じ部活で毎日一緒であったが、大学入学以来、会ってもいないし連絡も取っていない。

それが、給料日で年金の追納と銀行の預け入れにセブンイレブンにわざわざ行って、レジに並んで待っていたら、自分の前の人がそうだった。

 何年ぶりだろうか。12年ぶりくらい。

よく、その友人のこと思い出してた。教師になるって言ってた。そして、小学校の教師になってた。スーツ姿と昔のままのメガネで、そして何かしらおしゃれだった。

でも、そいつのこと思い出す時はいつもいくらか悔恨の情を感じる。

 私は高校でその友人に冷たくしたり、疎ましいと思って、遠ざけたりしたことがあるからだ。今、よくあの時のこと思い出して後悔する。そういう記憶って、自分が逆の立場になると、何度も何度も思い出され、その都度心が辛く感じる。

一体、彼は当時のことをどう思っているのだろうか。

 今の私はいじめられていないけど、長い時間が経ってから、過去を振り返って、その時のことを吟味すると、私は間違っていたと思う。当時は、当時の信念があっていじめていたのに、今では絶対間違っていたと思う。

だから、今日わかれる時に「今度会おう」といえなかった。性格の悪さを直したい。小学校、中学校、高校、大学、と友人はいたけど、自分がひどい目に合わせてそれ以来連絡なくなったというパターンがあるので、それは直さなきゃ生きられないぞ。

旧友のこと思い出すと、にがい感じがするのはそのためだ。私に友人なんていない、のが本当かも。


「目を見てあいさつ」

2008-02-19 22:34:12 | しみじみ(滋)

私は『目を見てあいさつ』できないだろう。『目を合わせない人』って言われたことがある。そういってくれる人は、本当のことを言ってくれるだけ親切だ。自分は目を合わせているつもり。なのに、『目は口ほどに物を言う』で、目を合わせているのに、目をそらしたくてたまらないっていう本心も現してしまうために、相手はそう受け取ってしまう。だから、目を合わせてることにならない。

心のあり方は大事なのだろう。私は「利害を生む人間関係」では常に人に害を与える側になっているっていう意識が保育園の時から経験則としてずっとあって、だからなるべく人と関わらずに要領よく、うまく立ち回る方法を探してばかりで、人との関係なんかどうでもよい、というか、前向きになれない。大学の時は、偶然ラッキーな人間関係つかんだと思ったら、結局その思い上がりが転落の始まりで、ハシゴはずされて、自分だけが災難に遭ってた。その時ばかりははっきり身につまされた。それに、その時の逆境の対処の仕方も悪かった。彼女に激しい恨みを抱いてしまい、天に向かって唾するのと同じく、自分をさらに貶めただけだった。

 そんな私が何を信じればいいかって、・・・。やっぱり、人の中へ戻っていくしかない。人の中へ、会社の中へ、利害の中へ。怖さって、逃げれば逃げるほどついてくるものでしょ。周りの友達は会社の愚痴なんか言わない。それはお互いのためだろう。口にしなくても感じているだろう。

毎日会社でヒドい目にあってる。前の会社でも同じだ。おそらくどこいったって自分の苦労からは逃げられん。逆に、信頼って、そういう「付きまとう苦難」を乗り越えたのを周りが認めてはじめて生まれるんだろう。

今の自分は今の苦難を文学にしてくれる『神聖喜劇』が好きだ。

・・・・・・私が「忘れました」を言いさえすれば、これはまずそれで済むに違いなかろう。これもまた、ここでの、現にあり、将来にも予想せられる、数々の愚劣、非合理の一つに過ぎない事柄ではないか。これに限ってこだわらねばならぬ、なんの理由が、どんな必要が私にあろうか。一匹の犬、犬になれ、この虚無主義者め。それでここは無事に済む。無事に。・・・・・・だが、違う、これは、無条件に不条理ではないか。・・・・・・虚無主義者に、犬に、条理と不条理との区別があろうか。バカげた、無意味なもがきを止めて、一声ほえろ。それがいい。

ここで東堂は「くちごたえ」をするけど、私の場合は徹底的に犬に徹して謝り続けている。「親(上司)の意見と茄子(なすび)の花は千に一つの徒(あだ)もなし」っていう言葉もあるから。


ある日本人残留孤児の運命

2008-02-07 21:58:10 | 読書(興)
とても良い体験記がありました。リンクしました。

私の祖父は戦前張家口というところで車掌をしていたそうです。そのおじいさんは私が幼いときなくなりましたが、後で人づてに聞いたけど、「女にモテるから車掌になった」そうです。おじいさんの人柄がわかるような気がします。

それでも終戦後、子供を皆連れて日本に戻ってきました。だから、今の自分があるのだろう、と思います。日本人残留孤児を聞くとき、よくそういうこと思います。たとえば、北朝鮮地域に取り残された人々は日本に帰るあてもないまま、帰国の日を待ち続け、そうして忘れられてしまおうとしているんでしょ?・・・。帰りたいって気持ちのまま時間が止まって、それでも生きなきゃならない。そういう人々がいるわけで、彼らのことを忘れては、円満な幸せとは言えない。なぜって、自分だっていつ貧乏籤を引かされるか知れたものじゃない。たまたまの偶然が今生の別れになるリスクは長く生きていれば、いくらでもあるだろうから。

日本人残留孤児の運命
http://jp.epochtimes.com/jp/2007/12/html/d37663.html
http://jp.epochtimes.com/jp/2008/01/html/d68246.html
http://jp.epochtimes.com/jp/2008/01/html/d59081.html
連載は以後もっとつづく

ひどい一日

2008-02-05 21:52:06 | ひとこと(重要性無)

今日はひどい一日だった。

 仕事で何度も殴られた。もう、何度も殴られると、イヤだと感じる自分がイヤになるね。なんか、こんな世界でこんな風に生きなけりゃならないのがバカバカしい。けど、続けなくちゃならない。自分の感じ方も、タイミングの悪さも、勘の悪さも、偶然の災難の数々もあらゆるものが、自分を神の仕組んだプログラムに引きづり込もうとする。

何も今日だけのことじゃない。

何もこの会社だけのことでもない。

何もこの歳だからって事でもない。

利害関係が強いことを人と協力してやろうとすると、すぐに私の側にトラブルが発生する。そして誰でも、どこでも、皆口を揃えたように同じ事を言って非難する。言われていることの原因を直せば解決するだろう。けれど、それができない。利害の生まれるような人付き合いはなるべく避けたいのが本音。

だから、新規まき直しで一からやり直そうとしても、結局いつも同じパターン。呪われた神の法則である。どこへ行こうと、何をしようと所詮神の食卓の皿の上でじたばたすることになっとる。神聖なコメディを自分で演じさせられてる。

杜甫の詩があった。韋左丞丈に贈り奉る、二十二韻

丈人(じょうじん) 試(こころ)みに静かに聴け 《おじさん、静かに聴いてください》

賤子(せんし) 請(こ)う 具(つぶさ)に 陳(の)べん 《詳しくその次第を述べましょう》

これは負け犬のつぶやき?かどうか、

甫(自分のこと)は昔 少年の日 

早くも観国の賓(かんごくのひん)に充(あ)てらる 《早くも科挙の受験者に擬せられた》

とつづく。大きすぎる不幸を予感させる詩。