ひところもてはやされた携帯端末。代表的なものがiPadだ。自分もiPadは週の内で2日ほど持参する。会社では支給されていないので、登録して個人所有のものを仕事で利用している。
Macbook Airもそうだ。この両方を使うということは広い意味でBYODと言えるだろう。外出先で何かを書いたり、パワポをチェックして修正したり、計算したりする作業がある時はMacbook Airを持ち歩く。ネットやメールの閲覧、顧客への資料(動画などの)を見せる時はiPadを持ち歩く。
こうして2種類の道具を使い分けているのだが、最近はMacbook Airの方が多くなってきた。実務に適した道具はやはりパソコンかもしれない。
毎年、季節の花は変わらずに咲き出す。写真のマリーゴールドも夏から秋に咲く。花そのものにはその季節に咲かなければならない自然の時計のようなものが備わっているのだろう。咲いて散ること自体がほかの連鎖と繋がっているのだろう。
人間の仕事という営みも、考えてみれば毎年同じようなことを繰り返しているのかもしれない。業績を前年同期比と言う指数で表し、その成長に一喜一憂する。パソコンのような便利な道具で事務処理の生産性は格段に上がったことだろう。しかし、そのことがどれだけ富をもたらしたのだろうか。デフレの社会で給料は上がらず、ITなどの道具や世の中を流れる情報は格段に量が増えその処理速度も早くなった。しかし、給料は上がらない。
そもそもITとはワークスタイルの変革と叫ばれ注目を集めてきた。しかし、そのことだけが取り上げられて、その目的が忘れられているのではないだろうか。その目的とは、我々の生活を豊かにし、ゆとりを持ち、より人間らしく幸せに生きることではなかったか。
時間は限られている。外に出てまでコンピュータを持ち歩き、計算し、情報から離れることなく神経をとがらし、すかさず返事を発信する。
何のだろうと思う。そのことで空気を吸って生きているのなら必死でやらなくてはいけない。
世の中の進歩は便利さという恩恵をもたらしてくれる。しかし、その恩恵を我々ははたしてどこに享受しているのだろうか。
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