八王子市元八王子町3丁目にある宗関寺に、北条氏照公の医師であつた西川信濃守の墓石もあったのですが、直系の子孫が絶えその一角だけ跡形もなくなっています。此のお墓は、私の墓所の一つ手前(中宿の線で、宗関寺寄り)にあったのです。母方の志村氏は、本家(北条氏照公の家臣、志村将監)から分家した先祖で伴七の父に当たる人で上の境の隠居(カサンキョウ)と呼ばれる家から更に、分家した志村嘉十郎(母の祖父)夫婦・勘蔵夫婦・を母タツが、墓石を建てたのが縁となり私が、管理して志村・清水家の共同の墓所となった経緯があるのです。時の移り変わりは激しい、永遠という言葉も虚しく聞こえる今日この頃なのです。其の西川信濃守屋敷跡の石垣の写真を、友人の伊藤さんの記録から紹介して置きたいと思います!見事に残された石垣の遺構なのです、八王子城が築城されたと私が推定している?天正6年前以前のものと思われます。現在も開戸に居住して八王子城を定める時に案内を務め、氏照公から城定(じょうじょう)」の名前を頂いた城定家のご先祖も多分、此の石垣や八王子城の石垣造築に関わっものと思われます?遠戚に当たる中島家と縁の深いお宅の墓所の石垣も古い物では有りませんが、見事な造りとなっています!中島家の井戸の内部の石垣は、城定家の方が据え付けたのです。「城定さんの石垣は崩れない!」と人々が言い伝えて居ますが?大正大地震の際にも中島家の井戸の石垣は、崩れなかったと現当主の方から教えて頂きました。城定家の先祖が、関わり築かれた石垣は、各地に遺されてと思われます。石工の家「城定氏」についての役割を更に調査して記録に残したいと思います。(清水中世史研究所 清水太郎)
