『Perfect Days』(パーフェクトデイズ)を観てきた。役所広司さんが第76回カンヌ国際映画祭で男優賞を受賞した作品。監督はヴィム・ヴェンダースさん。ヴィム・ヴェンダース?何だっけ、この聞き覚えのある感じはと思ったら、『ベルリン・天使の詩』の監督さんだった。こちらも名作で好きな作品。
さて、まだパーフェクトデイズを観ていない方は、ここから先はあらすじと個人的な解釈であるため、ご留意ください。
主人公の平山は大変寡黙な男。独身。公共トイレの清掃員で、仕事を丁寧にこなし、昼休みには木漏れ日の写真を撮り、仕事後は銭湯へ行き、夜は行きつけの店で食事をし、朝は自ら鉢に植えた植物を愛でる。休みの日にはコインランドリーに行き洗濯をし、ルーティンをこなす。
作中の日々のルーティンだけを観ると、地味で大変孤独で何だか可哀想な人に見えてしまうのだが、これは彼のPERFECT DAYSなのだ。つまり、完璧な日々。どうしてか?
私は一時期仏教に凝ったので(いまも好きだが)、もし私が本当に悟って煩悩を滅尽し、いまここに集中して生きる日々を楽しめるのならば、彼のように生きる可能性もあると思った。実際のところ、私がいままでお世話になったスリランカのお坊さんも、曹洞宗のお坊さんも、口々に私に言ったのは、『欲が不幸せの原因だ。ニンジンを追いかけて、レールの上を走るのは違う、降りたほうがいい』、『久しぶりに(通勤時間の)満員電車に乗ったら、地獄の匂いがした。なんでみんな、あんなに不安そうな顔してるの?』だった。
レールを降りたらさぞかしラクになるだろう。そんなことは百も承知である。だが、それを決行するのは大変に勇気がいることだ。まずは、それまでの人間関係が消える。それまでの環境が消える。それまで築いたものの価値が逆転する。家出をして平山を訪ねてきたニコ(姪)を、連れ戻しに来た母(平山の妹)の運転手付き高級車をみれば、平山が何を捨てたのかが見えてくる。平山の父親の状況を聞き、涙を見せる平山。悟ったから(レールを降りたから)といって、感情が消えるわけでも愛情が消えるわけでもない。むしろ、今まで以上に鋭く感じることが出来るだろう。ニコが叔父(平山)を訪ねてきた事実からも分かる。彼は元々愛情深いのだ。妹が平山の好物をお礼として持って来たことからも分かる。彼は元々愛されているのだ。
いい大人二人が(平山と、平山が通う小料理屋の女将さんの元旦那)影踏みをして遊ぶところは、「今を楽しむ」いい例だ。ニコに言ったセリフ「今度は今度。今は今。」も未来に期待しない生き方の好例である。瞬間、瞬間を生きることを選択した平山なのだ。過去を振り返らず、未来を煩わない。
ラストシーンで、ハンドルを握りながら平山が見せる表情。私には、喜びも悲しみも両方が見えた。彼はもう、レール通りに走る、勝ち組負け組が分かれている乾いた世界には住んでいない。彼にとってのエンターテインメントは彼の中に沸き起こる感情であり、それが時には二度と会うことがない父親との別れのように身を切るような辛い哀しみであっても、一瞬一瞬ごとに浮かんでは消えていく、美しくて完璧な瞬間の一つなのだ。
今年は帰省中、実家で元旦から震度6の地震を経験した。(一昨年の与板祭りで、なまず号に乗って震度8を経験しておいて良かった。おかげで慌てなかった。)
地震で揺れて壊れたモノのように、全ての物質は壊れる。細胞の一つ一つも壊れてはまた再生を繰り返す。生きている時間は瞬間の連続であり、この、今の、パッというこの瞬間は本当に大事なことに使いたい。そして、これが煩悩なのは百も承知である。この瞬間の連続が続いていく2024年も、どうか、一切の生命が幸せでありますように。