吹く風ネット

わたしゃ神様ですバイ

 以前、生きて何度も霊界に行ったというスウェデン・ボルグという人の本を読んだことがある。
 彼は元々は学者だったらしいが、ある時彼の前に神が現れた。それから自由に霊界に出入りできるようになり、現世の人たちのために霊界を紹介していったという。

 ぼくは、わりとこういう話が好きなのだが、ひとつだけ首をかしげる部分があった。それは、最初に神が現れた時の、神の第一声である。
「我は神なり」だ。

 文語体の訳だからこうなるのかもしれないが、何かうさんくさい。口語で言えば「私は神です」、軽いノリで言えば「はーい、神様でーす」、また九州の人の口調で言えば「わたしゃ神様ですバイ」となるのだから。

 だいたい神が「神」だと名乗って出てくるのがおかしいじゃないか。そういう神にはまったく威厳というものが感じられない。
 スウェデン・ボルグは一神教の世界の人だから、その神は創造者ということになる。スウェデン・ボルグが選ばれた人だったとしても、いち人間の前に、創造主がノコノコと現れるだろうか。しかも「神様ですバイ」などと言うだろうか。

 仮にぼくが一神教を国教としている国に生まれたとしても、そんな軽い神なら信仰しないだろう。
 結局その本の一巻は一通り目を通したのだが、そのことに引っかかって、続編は読まなかった。

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コメント一覧

しんた
非常に難しい問題ですね。きっとシンプルがゆえにそうなるのでしょうね。
ちなみに最近のぼくは、森羅万象は神の存在の中にあると思うようになっています。そう思うことで、すべてがシックリ来るものですから。

ありがとうございました。
tokinosekimori-kitai wahara
宗教関係のはなしに、すぐ反応してしまいます。
確かに、あまりもにあっさり、私は神ですなんて言われたら、興ざめしたということなのでしょうか?私もそんなふうに思ったこともありますので、わたしの考えを書いてみます。
私の勉強したなかでは、意外に神さまってシンプルに言ってくるような気がします。
うまく言えませんが、複雑な言い回しをすれば、そのほうが確かに威厳がありそうなのですが、実は
意味が限定されてしまいます。
限定されることの何がいけないかというと、人間というものは(限定してしまうと)、神が例えば、「ここにいますよ。」と言えば、ここ以外にはいないと思ってしまうものです。
本当は、ここにもあそこにもいるはずなのに、「神がこう言ったのだから、絶対ここにしかいない。」となります。
ですから、シンプルであれば、そんなことはなくなります。
キリスト教では、ヤーウェといいますが、ヤーウェとは「あってあるもの」という意味だそうです。
わたしの勝手な解釈ですが、「私たちがあると思っているものは、実は本当に実在しているのかどうか、判断が難しい(物理学的にも、哲学的にも)。
そんな中にも、本当にあるもの(が神である)。」
シンプルですけど、限定されることはありません。
ちょっとえらそうでしたら、お許しください。
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