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巡りの星 (01〜10まとめ)はコチラ
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私は、その声の主に気がついた時、努めて慌てないよう、気を張った。冷静に、なるべく怪しまれないように、しかし注意深く、三芳ひかるを観察する。
三芳ひかるの二重で切れ長な目からは、特にどんな感情も読み取れないように思える。焦りも、怯えもなければ、特別好意もない。
口元に、緊張もないし、ただ、私の返事を待っている感じだ。
「話・・・?うん、大丈夫だよ。もし何なら、今でもいいけど。」
私は、海外出張のレポート作成の手を止め、話しかけてきた三芳ひかるに顔を合わせたままそう応えた。
どんな話があるというのだろう。
私には、自分と三芳ひかるの関係性、入社してから今までの経緯が、何一つ判らない。しかし、三芳ひかるには、それが判っている。
そんなアンバランスな関係に気づいているのは、恐らくこの私だけ。私は、どんな話をされても自然に返せるように、自分の感情をできるだけ冷静に保つべく、少し身構えて返事を待つ。
「そう?それなら、今ちょっといい?」
三芳ひかるは、そう言うと片手で手招きのジェスチャーをした。もう片方の手には、タブレットをもっている。進行中の案件の話かは知らないが、いずれにせよ少し席を離れた場所で話したそうだ。
「ああ、ここじゃなくて?わかった。」
私が席を立つと、三芳ひかるはオフィスの共用打合せスペースに向かって歩き出す。私はそれに続いた。
三芳ひかるの後ろ姿を眺めていると、その手足の白さに気づく。背は170cmの自分より10cm程低いくらいか。線の細い身体つきでも、姿勢が良く足取りに隙が無い感じで、どこか凜とした雰囲気が漂っている。
三芳ひかるは、私と同じ部だ。我々の上司にあたるアサダさんの席の傍を通りかかった際に、アサダさんは三芳ひかると私にちらっと目をやった。
それに気づいたかどうかは判らないが、三芳ひかるは歩きながら、少しだけ要件を口に出す。
「あのさ、例の神宮前のプロモーションイベントの件なんだけど、クライアントの担当者から送られてきた資料について、少し意見貰えないかなと思って。」
「あ、ああ、いいよ」
私の返事も含めて恐らくアサダさんの耳には入っただろうが、そのままアサダさんは気にすること無く自分のワークに集中していた。
我々はパーテーションに区切られた共用の打合せスペースの内、一番隅に入り、椅子に腰を掛けた。
「・・・で、どんな資料なの?クライアントから送られてきたのって。」
私は話を合わせて、ごく平静に振る舞いながら、同期で入社7年間目の間柄を装って言葉を発した。
「・・・」
三芳ひかるは、そんな私をじっと見つめているばかりで、返事をしない。
・・・何か、まずいことを言っただろうか。そんな心許ない思いを巡らせている今の自分の内心を悟られないように、もう一度冷静を装って聞く。
「どうしたの?何?黙ったままで。」
「・・・」
まだ三芳ひかるは、言葉を発しない。
「・・・な、なに?何か、俺、変?」
沈黙の間に耐えられなくなり、目の前に居るこれまで全く知らなかった女性に対し、さも、私はあなたを知ってますよ、という振る舞いで相手をしていることに対する、引け目のような申し訳なさを感じている心境から、自信の無い言葉が口からついて出てしまった。その様子がいよいよおかしく映ったのか、三芳ひかるは言った。
「・・・ヘンね。」
(・・・!)
内心で肝を冷やした私に、三芳ひかるはテーブルにやや身を乗り出し、続けざまに聞いてきた。その目は、鋭く、私の頭の中を捉えようとするかのようだった。
「イナダくん、あなたにとって、私ってどんな人?」
(・・・!?)
さっきまでの三芳ひかるとは、何だか様子が違う。何というか、冷たくクールで、ともすれば自分の心が分解されそうな静かな圧を感じた。
その様子に混乱し、さらには雰囲気に呑まれ、私は何も言葉を出すことが出来ない。
「ねえ、応えてみて。わたしって、何?」
(・・・こ、これって・・・まさか・・・また、あのパターン・・・!?)
私の頭の中で、一瞬、先日エレベーターの中で起こった、アサダさんとの関係性の発覚、つまり、上司と部下から、恋人同士への変貌を一夜にして遂げてしまった、あの一連のやりとりがフラッシュバックした。
(・・・そ、そんな、うそでしょ・・・!)
私は、半ば祈るような気持ちになりながら、やっとの思いで声を絞り出す。
「な、何って、同期の同僚でしょ?7年間一緒に働いている、三芳・・・ひかる・・・さん。」
「・・・」
それを聞いた三芳ひかるは、またしばし黙考している様子だった。
そして、次に三芳ひかるの口から放たれたのは、意外な言葉だった。
「ふうん、それ・・・調べたの?」
「・・・へえ?」
私は状況が飲み込めずに間抜けな声を出した。
「だって、イナダくん、あなたは、私を知らない筈でしょ。」
(・・・!!!)
私は、文字通り、目を見開いて、固まってしまった。
「今は演技をしないでちょうだい。話がややこしくなるから」
三芳ひかるは、続けざまに声のトーンを抑えながら早口でそう言った。
私は、昨日、今日と、自分の記憶と現実とが一部結びついていない周囲の状況に、懸命に同調しようとしていた。そうでなければ、自分が自分であるという確証が揺らいでしまうような気がしていた。まるで、周囲の環境に合わせて自分の体の模様を変えて敵から身を守る、擬態するカメレオンのように、本能的に、懸命に自分自身を周りの目から守っていたのだ。
三芳ひかるのその一言は、そんな、寄る辺のない不安や寂しさから一瞬だけ救い出してくれる女神の一言にも聞こえた。
しかし、同時に疑問なのは、なぜ、三芳ひかるはその事実を、知っているのだろう。いや、それにも増して頭を大きく占める、素直な疑問が再び浮かび上がる。
—— キミは、一体、何者なんだ。
「驚くのも無理ないわね」
固まり続ける私の様子を見て、三芳ひかるは続けた。
「ここではあまり詳しく話せないけど、私はヒカル。職場では、あなたは私をヒカルちゃんと呼ぶの。そういう設定だから、よろしくね」
ヒカルという名の女性は、表情を一つ変えず続ける。
「イナダくん。あなた、量子テレポーテーションしてから、世界がおかしいことに気づいてる?」
そう問いかけられ、いよいよこの混乱した現実の謎に迫っていることに期待が膨らみ、心がはやる。同時に、ヒカルは、全てを判っていることを確信し、私はカメレオンではある必要が今は無く、本来のイナダトモヤになって、言葉を返すべきことを悟った。
「そ、そうなんだ。・・・あの、橋爪部長とか、アサダさんとか、明らかに様子が違うし、会社はやっぱり17階のはずなのに!・・・それに、君は一体、誰なんだ・・・!?」
私は声がつい大きくなり、ヒカルから「シッ!」とたしなめられる。
「まず最初に、言っておきたいことがあるの。それは」
私は身をかがめて耳に神経を集中する。
「この世界の“巡り”が、少し変わってしまったの。」
「めぐり・・・?」私は首をかしげた。
「そう、この世界の全ての現実は、人と人の“巡り”の糸がつながり、幾重にも紡がれることで、現象化している」
いまいち判らないでいる私に、ヒカルは続けた。
「まあ、巡りは、“めぐりあわせ”ということで、ひとまず理解してもらっていいわ。今の状況をより断片的な言いかたで表せば、歴史が変わってしまった、ということ」
私は、小さく頷いた。
「でも、あなたの中では“巡り”が以前の状態まま、固定化されてしまっている」
ここで私は、自分の理解のためにも、簡単な言葉を選んで聞いてみる。
「えっと、・・・それって、つまり、自分だけは変わった新しい世界についていけてない、ということ?」
「つまりはそういうこと」
にわかには信じられない話に聞こえるが、昨日、今日と過ごしてみて、自分の中ではそれは充分に頷ける事実だった。
「だとしたら、ど、どうすればいいの?」
「あなたの中で途切れた巡りを、あなた自身で、つなぎ合わせるの」
ヒカルにまっすぐ目を合わせられながらそう言われた時、私はヒカルの瞳の中から、はじめて隠しきれない緊張を感じ取った。
「わたしは、それを速やかに促すため、この世界の巡りに強制干渉をして、今ここに居る」
私は、素直に浮かんだ疑問を口にする
「何だか判らないけど・・・それって、簡単にできることなの?」
ヒカルは、言葉を選んでいるように、考えた後、口を開いた。
「あなたになら、多分できる」
そう言ってからヒカルは一呼吸おいて、より断定的な言い回しで続けた。
「いえ、やってもらわなければいけない」
その語気に少し呑まれつつ、返す。
「・・・いつ、それをすればいいの?」
「今晩。すぐにでも」
そう聞いた瞬間、ミキからもらったメールの♥マークが頭をよぎる。
「え、今晩?それは絶対無理!大事な用があるんだ・・・」
それを聞いたヒカルは呆れ顔でため息をつく。
「アサダさんが家に来るというんでしょ」
私は再び固まった。「な、なぜそれを・・・」
「巡りを見ればわかる」
そして、冷ややかな目のまま続ける。
「そのスケベ根性のせいで、この世界を消滅させてもいいわけ?」
私は動揺を重ねて、大きく慌てた。
「す、スケベだなんて、そんなつもりは無い・・・っていうか、世界が消滅って、何!?」
ヒカルは構わずに続ける。
「いい?アサダさんとの予定は無くしておく。とにかく、今夜。私はあなたの家に行く。そこで詳しく説明する。ここではこれ以上話せないから」
そう言って、ヒカルは席を立って、さっさとデスクに戻って行ってしまった。
アサダさんとの予定を無くしておくって、何だよ!今夜のことを楽しみにしながら、今日の仕事を頑張っていたというのに!
それに、世界が消滅するなんて、いくらなんでも大げさな・・・。
割り切れない感情に巻かれている最中、私の携帯にメールが入った。ミキからだった。
『・・・ゴメン、今夜、急に得意先との食事会が入っちゃった。遅くなりそうだし、家に行くのまたにするね、アーン残念。(´・ω・`)』
!・・・これって、・・・ヒカルの仕業なのか!?それにしたって、こんなすぐに、どうやって?
この不思議な現象を目の当たりにし、謎めいたヒカルに対する畏敬の思いと、ミキに対する、ただ、ただ、残念な気持ちが入り交じり、深いため息をつく。そして、観念する気持ちでメールでしぶしぶ了解の返事を送った。
その日の夜。自宅に約束の来訪者がやってきた。
やってきたのは、愛しの彼女、ではなく、謎の女性、ヒカル。
今日初めて会うまで全く見知らぬ人物なのに、今の私が置かれる状況を、一番良く理解してくれている。
なぜか?それは未だに判らない。
彼女は今、相変わらず涼しい顔をして、私の目の前に居る。玄関で簡単な挨拶を交わした後、部屋の中に上がってもらってから、特段会話が無くても、変に取り繕うことはしない。私がコーヒーメーカーで煎れた温かい珈琲を、今は静かに飲んでいる。
・・・どうやら、アンドロイドではなさそうだ。
しげしげと観察する私の目線に気づいたのか、眉を少しだけ上げ、こちらを見て言った。
「不思議そうね」
私は、うなずき「不思議だね」と正直に返した。
こちらも気を遣ってなるべく体の良い言葉を返す気は、さらさら起きなかったし、その必要も無かった。それは、今の自分には、とても楽なことだ。自分は相手の事を何も知らないが、相手は、私の事を何から何までお見通し。少なくとも、自分は混乱した自分のままでいればいい。訳もわからず一生懸命相手に話を合わせる必要は無い。
「キミは、一体何者なの?」
私の質問に一呼吸置いてヒカルは応えた。
「・・・ヒカルよ。今は、あまり詳しいことは言えない」
どうやら、この辺りの質問については、あまり取り付く島がなさそうだ。でも、もう少し食い下がってみる。
「じゃあ、何で俺だけキミのことを知らないの?」
この質問に応えるべきか、否か、少し考えてから口を開くヒカル。
「その質問は少し間違えている。それを聞くなら、なぜ、皆が私の事を知っているのか?、と聞く方が正しいわ」
頷く私にヒカルは続けた。
「本来、私はこの世界の、この時代には存在しない人間」
「・・・?」
「でも、会社でも話したように、あなたの中の“巡り”が途切れたことで、必然的に、私がここに存在する必要が生じたの。世界の消滅を防ぐためにね」
・・・世界の消滅。その言葉を今日ヒカルから聞くのは二度目だが、それが本当に意味するところを測りかねていた。
「えっと、まず、世界の消滅って、何のことなの?」
ヒカルは少しだけ沈鬱な表情になったが、努めて淡々として応える。
「だから、この宇宙が無くなってしまう、という事」
いよいよその意味するところをはっきり認識できたものの、当然納得がいく話では無い。
「何でそうなっちゃうの?」
ヒカルは小さな肩でため息をついた。そして、静かに語り出す。
「この宇宙で起こる全ての事象は、トータルで見ると完全に調和している。生と死。プラスとマイナス。光と闇。善と悪。それぞれは異なる意味や表情を見せながらも、全体では一つの宇宙として完全につながっている」
ヒカルは、この話を続けていいか、目で聞いてきた。
私は小さく頷く。
「その完全なる宇宙の調和は、いくつかの次元をまたがって成り立っているの。人間にとって、それらの次元は、見えない世界とも言う」
私は、口を挟みたくなるのをぐっと我慢して、眉間にしわを寄せながら、かろうじて頷く。それを見てヒカルはさらに続ける。
「人類は量子テレポーテーションを実用化することで、知らずに見えない世界への次元干渉を生じさせてしまった。あなたの場合はその中でも超レアケースで、見えない世界とこちらの世界との間にほんの小さな時空の穴を開けてしまったの」
私はたまらず口を挟む。
「・・・ゴメン、全然、判らない。」
目を瞑りながら、まあそうでしょうね、と言わんばかりに肩をすくめるヒカル。少し考えてから目を開けて話し出す。
「まあ、要するに、量子テレポーテーションであなたの意識が他次元にアクセスし、それが原因で、完全に調和する宇宙にごくごく小さな穴を開けてしまった、ってな感じ」
なんだか、少し判ってきた気がする。
「でも、小さな穴が開いただけで、この宇宙が消滅するっていうの?」
そこに疑問を持たれるということ自体が意外だったようで、ヒカルは不思議そうにしながら応える。
「そうよ。風船を想像してみて。どんなに小さな穴でも、風船は破裂してしまうでしょ」
私は、その判りやすい例えを聞いて、はじめて、心底ぞっとした。
「そんな・・・!じゃあ宇宙の消滅は、もう始まっているの?」
慌てて問う私に、ヒカルははじめて、少しだけ焦りの色を隠せずに返す。
「巡りの影響が宇宙にフィードバックされるまでまだ少し猶予があるみたいだけど、恐らくそんなに時間は残されていないでしょうね」
私は安堵する間もなく、次の質問が頭をよぎる。
「・・・で、どうすればいいの?」
ようやく本題に入れることになり、ヒカルは一区切りつけるように息を深めに吸ってから、ふうと一気に吐いた。そして、小さく頷き、更に続ける。
「まず、あなたが睡眠状態になること。そしたら私はあなたの深層意識に干渉を開始する。すると、あなたは夢の中で、巡りの補正を行うことになる。もちろん、その時はそれが夢と言うことも、私の存在も忘れてしまっているわ」
私はヒカルの言葉に頷きつつ、先を促す。少し間を置いて、ヒカルは続ける。
「開いてしまった時空間の穴というのは、この世界でいう、およそ3秒間程の空白。あなたの深層意識が量子テレポーテーション中に彷徨ってしまったために生じてしまったもの」
その時、私は不意に、量子テレポーテーション中にただ歩きつづけていた自分のことを思い出した。そして、その道から逸れるように諭してきた、見知らぬ女性の声も。そして、その声は、今、自分の目の前にいるヒカルの声と、同じである事にも気づかされる。
「あ・・・!」
「・・・思い出したようね。そう、あなたはあの時、そのまま歩きつづけていたら、この次元から存在そのものが消えていた」
私は再び、息を呑む。
「でもそうなる直前に、何とかこの次元に戻ることができた。でも、少しだけ遅かった。そして、およそ3秒という時空の空白を生んでしまった」
私はヒカルの話す内容に、少し釈然としない思いが湧く。
「3秒間?」
「そう。その3秒のズレによって生じた、巡り・・・いえ、歴史の変化を、あなたの深層意識がしっかり自分の体験として昇華しなければならない」
やはり素直に飲み込めず、思わず聞き返す。
「たった3秒間が、なんでこんな大ごとになるわけ?」
その問いに、ヒカルは再び小さくひと息をついて、話し出す。
「・・・例えば、ある人が不慮の交通事故に合ったとする。でも、その人の直前の行動が3秒間でもズレていれば、事故に合うことは無かったはず」
その話に私はようやく合点がいき、理解した旨を大きな頷きで返す。
それを見て、ヒカルは少し満足そうにして、話を続ける。
「わかった?人は、奇跡のような一瞬一瞬の巡り合わせによって、生かされているの。そして、あらゆる人との縁を築いている。ほんの少しのズレで、人生は変わってしまう。そして、人の巡り合わせというのは、この世界の全てに連動している。つまり、それが“巡り”よ」
およそのことは判った気がする。多分、自分の過去から今までの時間軸のどこかで、何かのタイミングがたった3秒ズレたことで、橋爪部長や、アサダさんとの関係性が劇的に変わってしまったということだろう。
そのように思いを巡らせていた私の目を見て、ヒカルは、私がおよその事情を飲み込んだ様子を、どうやら感じ取ったようだ。
「そう、だからあなたには、自分の歴史を知らずに変えることになった3秒のズレ・・・巡りの大きな変化の瞬間を、夢の中で体験してもらう。その時、あなたがとる行動が、今のこの世界の巡りに見事符号すれば、世界は無事よ」
その言葉の内容が理解できるのならば、聞くまでもないことだったが、聞かずには居られなかったので、恐る恐る、もう一つ質問をしてみる。
「もし、違う行動をとってしまったら・・・?」
一瞬、ヒカルの瞳がはじめて揺れて見えた。やはり、怖いのだろう。ヒカルはそれを悟られまいと、目を瞑って応える。
「・・・ゲームオーバー。この宇宙は一度リセットされて、ゼロに戻る」
私は、沈黙した。
少しの間、言葉を発する気が起きない。
あまりの事の重大さに、脳のヒューズが飛んでしまった、そんな感じかもしれない。
なぜ、自分の選択一つで宇宙が消えなくてはならないのか。未だ釈然としない。
かといって、目の前のヒカルや、変わってしまった橋爪部長やアサダさんが、こぞって自分をからかっているとも思えない。
ヒカルから聞いた話は、全て事実として受け止めなければならないのだ。
・・・現実逃避はしていられない。宇宙の運命を、私が握っているのだ。ヒカルも怖がっている。さっき、目が恐れに揺れていた。
宇宙の一大事を前に、一生懸命、この私にコンタクトをとってきているのだ。よくわからないけど、次元を越えてまで。
努めて冷静に振る舞おうとしているのは、ひょっとしたら、私への気遣いではないだろうか。
私が情けなく取り乱さないように。そして、私を責めないように。
何だか、とても申し訳なく思えてきた。言うならば、今の自分という存在が、世界を消滅の危機に追いやっているということだ。でも、それはヒカル以外、誰も知らない。
そう思った時、私の脳裏に、アサダさんや橋爪部長、会社の同僚や、母親、父親、友達、電車の中で見かけたカップル、子どもたち、色んな人たちの笑顔を見た気がした。
最近つらいニュースばかり見て、世の中に少し嫌気がしていたけど、自分が目にした笑顔も沢山あった。
悔しい思いをしたし、腹が立つこともあるけど、たまたま入ったお店の料理がおいしかったり、ついこの間は綺麗な桜の花を見たり、空が綺麗だったり、すごく嬉しい気持ちになったことも沢山あった。
この世界の人たちの喜怒哀楽、丸ごと、自分が責任を持って守らなければいけない。
早くこんなシリアスな状況から抜け出して、くだらない冗談でも言って、目の前のヒカルを笑わせてあげられるようにしないと・・・。
観念した私は、自分がこれから行うべき事に向き合うことにした。
何か今から準備できることは無いのだろうか。そう思って、ヒカルに聞く。
「・・・その、夢の中で、俺は何処にいるんだろう」
これから自分はどんな状況に置かれるのか、少しでも想像することが出来れば、心の準備もできるというものだ。
だが、ヒカルは首を振って応えた。
「それは判らない。とにかく、変化してしまった巡りの内、特に影響の大きないくつかの場面をかいつまんで体験する事になる筈。その前後の脈絡自体はあいまいで、途切れ途切れに場面が変わってしまう、気まぐれな夢のように」
「そうか、キミにも、判らないことなんだな」
「・・・」
「ねえ、もう一回聞くけど、キミは一体何者なの?」
ヒカルはさっき同じ質問した時と同じ表情を崩すこと無く言う。
「・・・それは言えない。もし言えば、あなたの巡りに強く影響して、私の存在がそのものが消えるかもしれない」
「・・・えっ」
私はハッとした。うかつだった。そんな危険を犯して、ヒカルは今ここにいてくれているのに、それに気づいてやれなかった。
それなのに、怯えるでも、怒るでもなく、冷静に諭すように、私に一つひとつ、言葉を掛けてくれる。
「でも、いずれ自然と判る時が来る。その時まで待っていて」
・・・もう、いい、わかった。キミは、ヒカルだ。他の誰でも無い。とても勇敢で、賢くて、きっと、すごく責任感が強くて優しい人なんだ。
「うん、わかった。・・・ゴメン、もう聞かない」
ふと、時計を見ると、22時を回っていた。
私の目線を追って、ヒカルも時計を見る。
少しの間を置き、私たちはヒカルと目が合う。
「・・・ところでさ」
何?という表情でヒカルが眉を上げる。
「その・・・中々眠くならないんだけど、どうしたらいいのかな。夢を見ないといけないんだよね」
「うん。仕方がないわ。自然と眠くなるのを待つしか無い」
「あ、やっぱりそうなの?じゃあさ・・・」
状況が状況だけに、何となく言い出しづらかったが、聞いてみる。
「ビール、飲んでもいいかな?」
「・・・どうぞ」
意外にも簡単にOKがでたので、さっそく立ち上がって、冷蔵庫の前まで行くと、ヒカルからもう一声掛けられた。
「わたしにももらえない?」
さらに意外に思い、少し驚きつつ、ビールを2缶取り出し、一つをヒカルに渡す。
「はい、どうぞ」
ヒカルは「ありがとう」といいながら缶を受け取ると、すぐにプシュッと開けた。
「お酒好きなの?」
そう聞きながら、私も缶を開けて、冷たいビールを一口先に飲んだ。
「わたしは新入社員歓迎会で、同期の誰よりも多く飲んで、皆を驚かせた。そういう、設定」
そう言うと、ヒカルはゴクリといい音を立ててビールを飲んだ。冷たい炭酸がノドに沁みたようで、片目を瞑る。ようやく若者っぽい所を見た気がする。
「へえ、意外だね」
私の知らない、皆の記憶の中では、きっとそうなのだろう。ヒカルは次元への強制干渉をして『三芳ひかる』という名で、7年前から同じ会社の同期の同僚として存在している事になっている。会社の誰もが、それが既定の事実であることを、あたり前の現実として認識していた。
でも、私には、その記憶は無い。どちらが本当の現実なのかは、もう自分にはさっぱりわからない。
そう思った時、ふいに疑問が湧いたので、聞いてみる。
「あのさ、俺の中で無事に巡りがつながったら、その時、キミは・・・ヒカルは、どうなるの?」
ヒカルは、再びゴクリといい音を立ててビールをノドに通し、間を開けずに答える。
「私は・・・」
ビールがノドを通り過ぎてお腹の中に落ち着くまで、少しだけ間を置いて続きを話す。
「消えるわ」
思わずビールを吹き出しそうになるのを、こらえた。
「えっ!?」
私はビールの缶を握りながら身を固める。その様子を見て、何でも無いようにヒカルは話を続ける。
「わたしの存在の痕跡や皆の記憶も含めて、綺麗さっぱり、この次元の時空間からは消える」
私は慌てて確かめる。
「えっと・・・それって、し、死ぬってことじゃ・・・無いよね」
少し考えて、ヒカルは応える。
「死・・・、では無い。・・・ていうか、まあ、『死』も人の終わりという訳じゃないんだけどね」
「・・・あ、ええ〜と?あれかい?死後に、あの世に行くとかって、そういう話?」
あの世と聞いて、ヒカルはふふっと笑い、頷く。
「まあ、そんなところね。詳しく言ってもきっと判らないわ」
きっと、そうなんだろう。私は素直に思った。
「・・・そうか。じゃあ、この話やめよう」
「じゃあさ、この会社に入ってからの7年間て、ヒカルは本当に過ごしているの?」
「厳密に言えば、この次元の時空間では、過ごしていない」
「?」
「でも、その7年間を、私の思念の中で仮想的に経験している。ちょうど、あなたがこれから夢の世界を体験するような感じね」
なるほど、少し判ってきた。思念、つまり、考えたことや思い浮かぶこと、わかりやすくいうと、つまり心だ。心がこの身体を離れて色んな次元にアクセスできるということなのか・・・。タマシイと言えるのかもしれない。
「じゃあ、ヒカルのその顔や姿形も、仮のものってこと?」
「・・・この顔や身体は、きちんとしたソースから生まれた、私の個性」
「ソース?」
「つまりDNAよ」
「そうか、じゃあ、親御さんがいるんだね」
ヒカルは、頷いた。それまで目を合わせて会話していたのに、何故かこの時は目をあえてそらしたように思えた。気のせいだろうか。
「お父さんと、お母てさんて、どんな人?」
ヒカルは、また目を合わせてはっきりと言う。
「ごめんなさい、それは言えないの」
・・・何だろう、言葉でははっきりとした拒否をしてきたものの、ヒカルは少し、この状況を楽しんでいるような、そんな感じがした。
そう思って、少しヒカルの表情を興味深く観察していると、不意にまたその瞳が揺れたように見え、それをごまかすかのようにヒカルは缶ビールに視線を落とした。
ひょっとしたら、ヒカルは両親のどちらかを亡くしているのかもしれない。あるいは、何かしら事情があって会えないとか。いずれにしても、何か話しづらい事情があるのだろう。この話についても、私からはこれ以上しないことにした。
その代わりに、ヒカルが会社に入ってからの7年間という、私の記憶には無い経過について話を聞いた。
新入社員歓迎会での酒豪伝説に始まり、同じく同僚の島田と一緒に3人で、新人研修という名の下、山奥のお寺で泊まり込みで精神的な鍛錬を行ったことの記憶。そこでの作務と座禅のカリキュラムで、島田が手を抜いて作務を適当にサボろうとしたところを住職に見つかり、座禅中に警策で思いっきり肩を叩かれ悶絶しているのを横目に背筋を凍らせた記憶。
はじめて新人の3人で現場を任された新商品発表のイベントで、ケータリングの手配日時が一日ズレている間違いが前日に発覚し、慌てて業者さんの厨房に手伝いに入り、何とか本番までに手配を間に合わせた記憶・・・などなど。話は尽きない。
これらの話は、ヒカルが存在しない私の記憶にある内容とも、結構な部分で重なり合っていた。ヒカルがいることによって、私の記憶にある内容と大きく異なる結果を招いた事柄はあまり無いように思えた。私が留める記憶になぞって、ヒカルもその場その場で自分と同じ喜怒哀楽を一緒に味わったという事を知り、話は自然と盛り上がった。
気がつけば、私とヒカルは缶ビールをもう2本ずつ空にしていた。ヒカルは全くと言っていいほど、酔っている感じはしなかった。流石、同期で一番の酒豪である。一方の私は、酒にはそんなに強くないので、良い感じで酔いが回ってきており、同時に大分眠気を覚えてきていた。
私は、ヒカルに断ってから一人シャワーを浴びて寝間着に着替え、ベッドに横たわることにした。
「俺が寝たら、ヒカルはどうするの?」
私はベットの傍らに用意した椅子に腰を掛けたヒカルに問いかける。部屋の全体の明かりは落として、ベットの脇のスタンドの明かりだけが、私とヒカルの姿をぼんやりと優しく映し出していた。
「あなたの睡眠が深まったところで、あなたの心の振動数と同調して深層意識に干渉を行う。時間にしたらほんの数秒のことよ。あとはあなた自身が観る夢の中での出来事に委ねるしか無いから、私は家に帰る。」
私は、心に引っかかっていることを、恐る恐る聞いてみる。
「もし、夢の中で巡りの補正が上手く行ったのなら・・・」
その先の言葉を少し言い淀んでしまいそうになり、少し詰まらせながら言葉を絞り出す。
「・・・その時にヒカルは・・・もう消えるの?」
「・・・そうよ」
ヒカルは小さく頷き、答えた。それに対して、私は言葉が出せなかった。
私のその様子を見て、ヒカルは言った。
「勘違いしないでね。私はそれを悲しまないし、むしろ、私は巡りを補正するためにこの次元世界に来たのだから。私が消えるということは、私の望みが叶ったということになる」
理屈では判ってはいた。そもそも、ヒカルとは今日初めて会ったばかり。昨日まで、私の中には存在しないはずの人だった。それなのに、今では不思議な親近感が私の心の真ん中に芽生えて、いつの間にか根を張っているかのようだった。もしも自分に女のきょうだいがいたら、こんな感じだったりして。
「その時は、俺の記憶からもヒカルのことは消されるの?」
それは、自分にとって良いことなのか、嫌なことなのか、自分でも判らなかった。
でも、聞かずにはいられなかった。
ヒカルは私の頭の少し上の方を観ながら言った。
「今は、私にも判らない。消されるかもしれないし、消されないかもしれない」
私はその言い方が少し気になった。
「消される、消されない・・・って、どこかの誰かに?」
ヒカルは相変わらず、目線を私の頭上に置いたまま答えた。
「そう。巡りの生みの親に」
・・・巡りの、生みの親。
「・・・ごめん、全く判らない」
ヒカルは目線を戻して、私の顔を見ながら言った。
「判らなくても、問題はないわ。大丈夫。それに・・・」
ヒカルは何かを言いかけて、言葉を止めた。
「それに・・・なに?」
ヒカルは少し考えた後、言葉を続けた。
「ううん、何でもない」
スタンドの明かりが瞳に映り込んでいるせいか、その時のヒカルの目がこれまでに無いくらい、優しく親しみが込めらているような気がした。
私はその眼差しに少しだけ甘えるかのように、自分の心をヒカルに向かって開きながら、少々しつこく食い下がってみた。
「気になるじゃないか、話してよ」
その様子に、ヒカルは応えてくれるように、少しだけ言葉を紡いだ。
「・・・まあ、もし私が消えていたとしても、いつかまた何処かで会える可能性はあるわ」
その言葉を聞いた時、思った以上に私の心が喜んだ。不思議と心が温かく染み渡るような感覚を覚えた。
「・・・そうか」
ヒカルはこれ以上は話せないとばかりに、話題を区切った。
「はい、じゃあ、そろそろ眠りに意識を向けて目を瞑ってね」
「判ったよ。・・・そんな簡単に眠れるかな」
そう言いながら、目を瞑った私は、隣にいるヒカルの気配を心地よく感じ取りながら、いつの間にか安心感に包まれながら、徐々に呼吸が楽に、深くなっている感覚を、すぐに感じはじめていた。
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ヒカルは、ベッドに横たわり目を瞑るイナダトモヤの傍らで、椅子に座りながら目を細め、しばしの時を静寂の中で過ごした。
程なくして、イナダの小さな寝息の音が聞こえはじめる。その呼吸のリズムは次第に安定し、腹の膨らみで布団が上下しているのが見て取れた。
ヒカルが額に意識を集中し、イナダの表層意識の微細な振動を感じとろうとしても、その反応は受け取れなかった。イナダの意識はこの次元から離れている。それはすなわち、睡眠状態にあることを意味した。
ひとつ深く息を吸い、細い息を口から長く吐き切ると、ヒカルは椅子に深く腰掛けながら力を抜き、リラックスした状態で目を瞑る。そして、自分の心と身体の中心に向けて深く意識を降ろしていった。
とても深く、光の届かない暗い海の中を、ただ一人どこまでも沈んでいくような意識の沈着。
深く沈んでいくほどにヒカルの意識はより微細になって、あらゆるものを取り巻く空気のような偏在性を増しながら、同時に自身の身体性の感覚を失っていく。
孤独や恐怖、あるいは、高揚や好奇といった感情の揺らぎは、とうに存在しえない深遠な世界をさらに進んでいく。
やがて、時間という流れをもすり抜けて漂うほどの精細な意識となって完全に暗闇と同化した時、あらゆるつながりから遮断された虚空のニュートラルポイントに辿り着く。
そこには、完全な無がひろがっていた。
一瞬と永遠の区別も無く、全ての中心であり、最果てでもある場所。
静寂に満たされたその虚空に、一点、完全に留まったヒカルの意識。
その点を、その虚空で新たに生まれたヒカルのもう一つの意識が、観察した。
その瞬間、突如と光の波紋が幾重もの輪となって広がっていく感覚と、ブーンという振動の高鳴りがヒカルの内面世界に響き渡る。
イナダが眠るベッドの横で、微かな青白い光を放ち出したヒカルの意識は、今、臨界点を超え、いくつもの次元を跨がった宇宙の特異点に浮遊していた。
そこは、上下左右の感覚が意味を成さない無重力の空間。
何処までも続く果ての無い闇の中に、星のような点の煌めきが縦横無尽に数え切れないほど浮かんでいる。その光はゆっくりと揺らめき、闇の空間全体がまるで静かに呼吸をしているかのように見える。
ヒカルは今、その光の全てが自分の知性や感覚として、直接つながって感じ取れた。
無数の光の海は、有るところでは互いに引き合い、また別の所では反発し合う様相が見て取れる。
それらは無数の“情緒”とも言え、あるいは、エネルギーを生み出す極小粒子の海とも言えた。
つはりは、光の一つひとつはつながり、生きているのだった。
しかし、光の全てを感じ取ることが出来る今のヒカルにとっては、個々の作用の全ては打ち消し合い、全体で絶対的な一つの不動のものとして、そこにただ在る状態だった。
・・・一点を除いては。
それは、イナダトモヤが次元をまたがってこの光のつながりに生じさせた小さなズレ。
幾重にも縦横無尽につながり合い、完全に調和する光の海の中に生まれた、一点の偏り。
それが、イナダトモヤに空いた、“巡り”の穴だった。
その穴を埋めようとする作用が、穴の周囲に微弱な流れを生み出している。
今はまだ微かな動きであったとしても、それを放っておくと、いずれは全てを飲み込む渦となり、宇宙そのものが消滅してしまう。
ヒカルは、今は微弱なその流れを生み出している小さな穴を、自分の心の穴のようにして感じ取ることができた。わずかな騒めきの様な、心のひだとして。
ヒカルはそのポイントに意識を集中させる。そして、小さな穴の中心点を捉えた瞬間、何処からともなく生み出された光の輪のさざめきが生まれ、徐々に輪を小さくしながらその点に向かって収束していく。
意識の世界の外では、ヒカルの身体を包んでいる青白い光が、横で寝ているイナダの身体にも広がり、明るさを増していた。
この時既に、ヒカルとイナダは、一つの青白い光の塊になりつつあった。
さらに光の強さが増すほどに互いの生命エネルギーと潜在意識の振動数はどんどん高まっていく。
二人の振動の同調がさらに強い光を加速度的に生み出していった。
ヒカルとイナダの潜在意識が、求め合い、与え合いながら、共に満たされていく。
融合の歓喜が激しい渦となって一点に収束していく意識世界の過程が、現実世界のマンションの一室に、強烈な光のまぐわいとして現れていた。
部屋の窓のカーテン越しに、外にも光が強く漏れ始めた頃には、ヒカルの身体は光となってイナダの身体へと入りはじめる。
そして、意識世界で光の渦が中心点に収束すると同時に、ヒカルとイナダはも光のピークを迎えて、完全に一つとなった。
2人の身体と深層意識は細胞よりもずっと細やかな粒子のレベルで、交わった。
その瞬間を迎えると、突如、光は果てるように消えた。
ヒカルはその場から消えていた。
部屋に残ったのは、変わらずに眠り続ける、イナダトモヤ一人だけだった。
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眠りがやってきたと同時に途切れた私の意識は、それまでとは脈絡の無い、忽然と現れたシーンの中に居た。
私は、かつて自分が通っていた地元の大学の構内にある食堂にいる。
まだ昼前だったが、その時間に履修している講義も無く、同じように講義がない(あるいは、意図的にサボり)時間を持て余した軽音サークルの仲間と他愛もないおしゃべりをしている。
そんな、10年前の日常の光景が、いま目の前にあった。そして、私と向かい合っているのは友人の高橋智也。サークルで同じバンドを組んでいる高橋と私は、いつもここで好きな音楽やサッカー、あるいは、身のまわりの色恋の話などを気ままに話しては、大学生という、青春と社会の狭間の人生のニュートラルポイントとも言うべき、仮初めの自由時間を楽しんでいた。
私は、この時、未だ自分が大学生であることに、不思議と疑問を抱くことは無かった。
「そう言えばイナダ、その後バイトはどう?」
高橋のその一言で、半分懐かしみながら、新鮮な学生気分を味わい楽しんでいた私の気持ちは、瞬間的にどん底にたたき落とされた。
「・・・はあ〜」と私は深いため息をつく。そして、次々と脳裏に、バイト先の居酒屋の店長の怒鳴り声と、厳しくて怖くて、眉間に深くしわを寄せた鬼のような形相が浮かび上がり、胸の真ん中が締め付けられるように息苦しくなり、胃腸がぞわぞわとする感覚が蘇っていた。
この時代、量子コンピューターが人間の脳を超えたと言われたての頃で、どこもかしこも企業ではアルバイトの教育にAIトレーナーを採用し、人工知能がその業種ごとの最適なトレーニングプロセスを構築することで、現場に合わせたアルバイトへのトレーニングを効率化することが、あたり前のようになっていた。
最初はAIが人に仕事を教えるということに抵抗を感じていた世の中も、それぞれの人の性格や特性にあわせてAIがきめ細やかな指導をしてくれるし、何より、パワハラだのセクハラだの前時代的な職場の問題は起きないという事で、徐々に歓迎されはじめ、企業も喜んで採用しはじめていた。
私が働いている居酒屋も大手のチェーン店なのでAIトレーナーによるトレーニングを経て、店のホールや調理場で働き出したのだけれど、いくらAIトレーナーの言うとおりに自分ではちゃんと接客が出来たと思っていたことも、後になって店長に呼び止められ、裏で説教を受けるという責め苦にあっていた。
そんな店長の口ぐせは「空気を察しろ」。
お客さまの気持ちに真剣に意識を向ければ、それが空気を伝わって自分の心で感じ取れる、と言うのだから、AIトレーナーがその方法を教えてくれる筈も無く、それどころか、AIトレーナーが最適な答えとして導き出した指導プロセスに対して、店長が本気で意義を唱えている所を、バイトの皆は何度も目撃している。
“今日も、午後の講義が終わったら、バイトにいかなければならなかった。”その思いが去来して、瞬間的に心が重たく凍り付いてしまったのだった。
前からそんないきさつを高橋には話していたので、私の様子を察し、高橋は顔は笑いながらも少し申し訳なさそうに言う。
「あ、わりいわりい、思い出させちゃった?例の怖ーい店長のこと」
「・・・そね。」
私のノドから、低く小さい声が出た。
「まあ、その店長もイナダが社会に出た時の事を思って、厳しくしてくれてるんじゃないの?」
私の様子が気の毒に映ったのか、情けない奴と見えたのか、判らなかったが、高橋はもっともらしい慰めの言葉を掛けてれた。
確かにそうかもしれない。しかし、若い今の自分の心には、まだそのように柔軟に誠実に受け止め飲み込む度量も、仕事に対する自身も無かった。
すごく心許ない、19歳の若者の自分の心象が、今の自分を構成する全てだった。
・・・つづきの
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