お父さんの背中だけでおばあちゃんの姿はあまりよく見えなかったけれど、お父さんのあわて方でおばあちゃんのみに何か大変な事がおこっていることが判った。
「痛むのか?」というお父さんの声に、小さく「・・・大丈夫」というおばあちゃんが応える声が聞こえた。
「・・・手も足もすごく冷たいじゃないか・・・!」驚くようなお父さんの声。「・・・薬を」というおばあちゃんの声にすぐ反応して、お父さんは近くにおいてあったお薬の袋をとった。
僕はあまりの突然のできごとに、さっきトイレの中で起きた不思議な出来事を忘れていた。それに、お父さんとおばあちゃんの様子を、ただ扉の隙間から見ていることしか出来なかった。
お父さんはお薬の袋の中からカセットみたいなものを、おばあちゃんの腕に付けられた点滴の箱のような機械にセットした。
少しすると、おばあちゃんの「はあ」というため息のような声を聞いた。
少ししてから「薬、効いてる?」とお父さんがおばあちゃんに聞く。
「・・・うん、もう大丈夫・・・」
そのおばあちゃんの小さな声が聞こえて、僕はほっとした。
「ありがとう、ごめんねタカシ」とおばあちゃんはつづけて弱々しい声で言った。タカシはお父さんの名前。
「ごめんとか、言わないでいいよ」お父さんはおばあちゃんの背中をさすりながら言った。
「・・・ううん、わたしはね、ずっとタカシに謝りたかったの」
「なんだよ、それ。そんなことより、しゃべると疲れるから横になった方がいいよ」
「・・・ありがとう。でも、言わせて。でなきゃ、もう、言えないままあの世にいくことになっちゃう」
おばあちゃんのその言葉が聞こえたとき、僕は全部わかっちゃったんだ。
・・・おばあちゃんは、病気がよくなってお家に帰ってきたんじゃない。
「・・・」
お父さんは何も言い返さなかった。できれば、おばあちゃんの言っていることは全部冗談で、お父さん笑ってくれたらよかったのに、だまっちゃった。だから、本当に、おばあちゃんは・・・。
病気が悪くて治らないのに、お家に帰ってきたのは、たぶん、死んじゃうときは、お家がいいって、それで帰ってきたんだ。そういうの、テレビで観たことある。
「・・・タカシがまだ小学生だった頃、お父さんの仕事が一番上手く行ってない時で、私も外に働きに出てたでしょ」
おばあちゃんが昔の話をしだした。
「慣れない仕事で疲れてたし、今思えば随分余裕がない暮らしだった。他のお家の人は、家族みんなで旅行に行ったり、遊園地に行ったり、外食で美味しいもの食べたり・・・。そういうの、全然できなかった。それなのに、あなたは文句一つも言わずに、親がいない家でお姉ちゃんと一緒に家事の手伝いなんかしてくれた」
お父さんが小さく頷いている。おばあちゃんが続けた。
「そんなタカシが、一度だけ駄々をこねて大泣きした日、覚えてる?」
おばあちゃんは少し顔をふせながら言った。
「あれはとっても暑い夏だった。近所の河川敷の花火大会が何十年かぶりにやるから、どうしても家族4人で行きたいって、あなたが言いだして、私が仕事から帰ってきたらみんなで行くことになってた」
お父さんはまた頷く。
「でも、わたしが仕事先でへまやらかしてずっと帰れなくって、結局家に帰ってきたときは花火大会はもう終わっちゃってた」
それを聞いた僕は、自分の事のように残念な気持ちになった。
お父さんは黙って聞いてる。
おばあちゃんは、息を整えるようにして、少しだけ時間をおいた。
「あなたはずっと玄関にいたみたいで、帰ってきた私の顔を見るなり、顔を真っ赤にして怒りだして、大泣きしたわ」
お父さんが?子どもみたい。そっか、お父さんも子どもだったんだと僕は思った。
「いつまでも泣き止まないから、しまいに私も仕事のストレスをあたるようにして、あなたに怒ってしまったね。それを止めようとしたお父さんに対しても、ひどくきついことを言ったのを覚えてる。『あんたがしっかりしないからよ!わたしだってこんな遅くまで仕事しないで花火見たかったわよ!』って・・・。それから、夫婦げんか、はじめちゃって・・・」
一気にしゃべって、おばあちゃんは息を少し切らせてつかれたみたい。
お父さんがおばあちゃんの背中をさする。
「ごめんね、わたしあの時、何てことをしてしまったのかしら。タカシはきっと、花火の音がどーん、どーんて近くに聞こえるのを玄関で聞くしかなくって。それに、わたしをおいて3人で見に行ったっていいのに、ずっと待っててくれたのにね」
お父さんは、首を小さく横に振った。
「それっきり。それ以来、わたしはタカシが泣くところを一切見なくなった。何があっても『別に』っていう冷めた子になってた・・・。たぶん、すごく傷つけちゃったんだと思って、心の片隅でずっと後悔してきたの。だからといって、生活は何も変わらない。相変わらず、仕事に追われて張り詰めたような生活で、しばらくは余裕ないまんまだった」
お父さんは、また首を横に振っている。
おばあちゃんは小さな声で何度も謝った。
「本当にだめな母親ね、ごめんね、ごめんね・・・」
ずっと黙って聞いてたお父さんは、ますます大きく首を横にふって、少し大きな声で言葉を出した。
「ちがうんだ、ちがうんだ・・・!」
おばあちゃんの動きが止まる。
「謝りたいのは俺なんだ!」
おばあちゃんは、ゆっくりとお父さんの方を見た。
おばあちゃんと目があったお父さんは話し出した。
「俺はあん時、母さんも花火が見たかったって聞いて、はじめてわかったんだ」
今度はおばあちゃんは、黙って聞いている。
「母さんが自分のしたいこと我慢して働いるってこと、やっとわかったんだ。
そんな母さん困らせるように駄々こねて、泣いて、だから、謝りたいのは俺だったんだ・・・!」
お父さんは大きくなりそうな声をいっしょうけんめい抑えているようだった。
「ずっと、ずっと、たまに母さんが怖い顔もしながら仕事してるのは、家族のためなんだって、だから・・・」
お父さんは息を吸ってまた続けた。
「・・・だから、俺は決めたんだ。もう泣かないって」
お父さんの声は震えていた。
おばあちゃんは小さくなった眼を一生懸命見開いて、お父さんを見ていた。
「だから、こうして立派な大人になれたんだ。ありがとう、母さん、育ててくれてありがとう」
そういいながら、お父さんは泣いていた。
僕は、お父さんが泣いているところをはじめて見た。
おばあちゃんも、泣いちゃった。
少しの間、2人はそうしていた。
「それに、忘れたの?」
少しおちついて、お父さんが涙を拭いながら言うと、おばあちゃんは小さく「え?」って言った。
「次の日、母さんは仕事帰りに花火を買ってきてくれたんだよ」
おばあちゃんは何かを思い出したようだった。
「あっ」
お父さんは泣きながら笑顔になっていた。
「家族みんなでこの庭でやってさ。すごく綺麗だった。父さんも母さんもいつのまにか仲直りしてて、姉ちゃんも一緒にみんなでやってすごく楽しかった」
それを聞いて、おばあちゃんの顔が、なんだかちょっと元気になったみたい。
「おもいだした」
お父さんがうなずきながら、つづけた。
「最後の線香花火で、今日トモヤに言ってたのと同じ事、母さん言ってたよ」
あ、線香花火がキレイって、言ってたやつだ。やっぱりずっとおばあちゃん線香花火がすきなんだ。
「あら、そうだったかしらね、いやだわ、年をとるって」
おばあちゃんも笑顔になって、指で涙をふいてた。
「トモくん、あの子は本当に良い子。あたし死んだらずっとトモくんを見守るの」
それを聞いて、お父さんは少しだけ黙っていたけれど、頷きながら言った。
「・・・ああ、そうしてくれ。親父と一緒にな」
おばあちゃんは、とぼけた感じになって言った。
「あら、そうだった。あの人のことすっかり忘れてたわ」
2人は思わず笑い出した。
泣いていた分、なんだかかえって面白くなってるみたい。
少しして、大きく息を吐き出すようにして、おばあちゃんは言った。
「人は、涙を忘れてはいけないのね。ありがとう。タカシのおかげですっかり心が軽くなったわ」
「うん、俺も。ありがとう。さ、もう寝よう」
「うん」
横になろうとするおばあちゃんをお父さんがゆっくり手で支えている間に、僕はその場から離れて急ぎながら、でも音を立てないように階段を大急ぎで昇った。まだ起きてるってこと、お話しを聞いてたことを、お父さんになんとなく知られたくなかったんだ。
もうさっきの、水が止まったりしたヘンな出来事のことは、すっかり怖くなくなっていた。
僕もちょっと、大人になったのかもしれない。
・・・つづく
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