戸惑い驚きながら掠れかけた声を何とか絞り出した私の顔を見て、アサダさんは不満そうに口をとがらせた。
「ちょっと!今は“ミキ”でしょ。ちゃんと下の名前で呼びなさいよお。」
ミキはアサダさんの下の名前だ。相変わらず身体が密着したまま、私の頭はぐるぐるとしながら何とか状況の整理に努めた。
その答えは、どうやっても一つしか思い浮かばない。
そう、今この状況の私たちは、付き合っている男女なのだ。しかも、社内の誰にも知られないように。普段は上司と部下の関係を崩さずにいながら、人目が無いところではトモくん、ミキとお互いを呼び合う、いい大人の仲良しカップルなのだ。
(・・・って、一体どうしたらそうなるの!?)
状況を飲み込めずに言葉を失った私の様子を見て、アサダさん、いやミキは、なんだか興を覚えたらしく、もっと近くまで、顔を寄せてきた。
服を通して伝わってくる温かい肌の温もりが、髪の毛のいい香りと共に脳を刺激する。密かにずっと憧れてきた人の潤んだ瞳と唇が、もう目の前にある・・・。
丁度その時、エレベーターは1Fに着いた。ミキは私の身体からさっと離れ、上司のアサダさんの顔に戻った。いたずらっぽい目だけを残して。
エレベーターの扉が開く。そこには、別の会社の男女が数人、到着したエレベーターを待っていた。アサダさんは、何事も無かったようにエレベーターから降りて歩き出す。私も、あわてて、エレベーターの外に出る。
「イナダくん、今日はなんだか変よ。大丈夫なの?」
上司の顔のアサダさんは私に振り返って言った。
「え、ええ、ちょっと・・・何だかまだ大分混乱しているようです・・・」
話ながら会社のビルから出て、少し歩く。
そして、大通りから一つ細い路地に入ったところで、アサダさんは周りを伺ってから、そっと私の手をとり、小声で言った。
「大丈夫?今日、家いこうか?」
そこには、もういたずらっぽい瞳はなく、本当に心配そうに私を気遣うミキの眼差しがあった。思わず、つばを呑む。
「い、いや、今日は、その・・・」
頭の中で、いよいよ暴走しそうな自我の欲求を懸命に抑えながら、言いよどむ自分がいた。
「まあ、今日ヨーロッパから帰ってきたばっかりだもんね、今日は早く帰って、寝た方がいいわね。」
心配からそう言ってくれたミキに、邪な自分の欲望を感じたことに、何だか申し訳なく思った。
「ごめん・・・。あ、ありがとうね、心配してくれて。」
その言葉を聞いて、可愛い笑みを顔に湛えたミキは、不意に背伸びをして顔を近づけて来た。
柔らかなミキの唇が、頬に触れる。
「謝る必要なんてある?じゃあ、気をつけて帰ってね。また、明日。」
手を振りながら、私とは別の地下鉄の駅の階段へと歩いて行くミキ。その姿を、私はこれまで、頭の中の妄想で、どんなに求めた事だろう。
今は、現実のものとなって、目の前にある。夢では無かろうか。いや、夢では無い。私は、手を振り返し、ミキが階段を降りて見えなくなるまで、ただ呆然と見守っていた。頬に感じた、温かく柔らかな感触の名残を確かめながら。
・・・つづく
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