[種別:特急 中央西線 (ワイドビュー)しなの15号 名古屋14:00→長野16:50]
現在地:木曽福島
静岡まであと 115.5km(直線距離)
《木曽福島15:28発》
名古屋から続く市街地を抜けた383系は、速度を緩めることなく木曽の山中を突き進みます。20度が当たり前の平地から、雪も残る谷へと車窓が変化します。
カーブがあっても制御振り子でなんのその。和田山~福知山のS字カーブを60キロ前後で進んでいた183系と比べると、速いったらありゃしません。485系(北近畿の183系の種車)の登場から383系の登場までおよそ30年。時代の移り変わりをたった数時間で感じることになるとは。
およそ2時間で塩尻が近づいてきました。中央東線の乗換駅、そして、次なる目標・123系『ミニエコー』が待っているはずです。
現在塩尻駅の線路は、東京・名古屋双方から来た線路が駅で束ねられ、篠ノ井線へと続いています。このため、中央東線⇔篠ノ井線と中央西線⇔篠ノ井線の流れはスムーズにいくのですが、中央東線⇔中央西線は塩尻で一度スイッチバックする必要があります。
しかし、明治に開通した当時は中央東線と中央西線が繋がっていました。奥に211系が停まっている線路がそれです。本線系統の線路と合わせて、デルタ線を形成しています。松本や長野方面の直通を見込んで現在の位置に駅は移動しましたが、線路は写真の通り残され、留置線として使われています。
《塩尻15:58着》
現在地:塩尻
静岡まであと 132.9km(直線距離)
乗り換え階段を上がると、早速123系『ミニエコー』の横断幕を発見。橋上駅舎の改札の真ん前にあります。
2番ホームに降りると、長野色の115系に並んで、お目当ての123系がいました。
『15:57発の長野行1543M(2番線の列車)に駆け込もうとしたら『ミニエコー』が停まってたので急いで撮った人』風。
後ろから。『ミニエコー』はこのクモハ123-1の1両きりです。123系は少々変わった系列で、1両ごとに形が違うのが特徴です。
パンタグラフ。通常使用するものの他に、霜取り用のパンタがついています。
側面外観。
正面から。
別の115系とも並びました。
一通りの撮影を終え、『ミニエコー』の待つ3番線に移動。正面からの並びに挑戦するも、階段があって失敗。
栄光のトップナンバーを側面に持つクモハ123-1。
再び背後から。
先頭に掲げられた可愛らしいヘッドマーク。
乗り換え通路で見かけた横断幕がここにもあったので、バックに123系を入れて撮影。
塩尻駅は3面6線のホームに、中央東線(みどり湖経由/辰野経由)・中央西線・篠ノ井線の4方向の列車が発着し、列車によって発着ホームが異なる(特に松本方面は2・4・6番線を使用)ため、ホームごとではなく方向ごとの案内がなされています。
『ミニエコー』が任に着くのは、辰野方面の16:17発の162M(右から2番目)。中央本線の旧線経由の列車です。
LEDの表示に従って入ります。『ミニエコー』はワンマン列車のため後ろ乗り前降りですが、始発駅の塩尻ではどちらからも乗れます。
乗り込んだ時点で既に座席の残りは少ない状態でしたが、発車間際になってさらに増加。結果、クモハ123-1の車内は、最早身動きが取れないほどの大混雑となりました。その殆どは10代(私も一応ここに入ります)・20代。予想外の混雑に、誰もが目を丸くしています。
満杯の状態で、クモハ123-1は塩尻を後にしました。
[種別:普通 中央東線(旧線) 162M 塩尻16:17→辰野16:37]
《塩尻16:17発》
123系の話をする前に、中央東線の旧線について触れておきます。
塩尻から岡谷までのルートは、みどり湖経由の新線と辰野経由の旧線があります。1906年に岡谷‐塩尻間が開業した時、中央本線は伊那谷沿いにある辰野を通るように建設されました。
地図を見ればわかりますが、旧線は岡谷からかなりの大回りをしていることが分かります。このルートを誘致したといわれる伊藤大八の名前から「大八廻り」とも呼ばれますが、当時は技術的に現在のみどり湖ルートを採るのは難しかったと考えられています。そうでなくとも、岡谷から塩尻峠を越すつもりでいたのなら、1905年の岡谷開業時点で駅をもっと北(現在の岡谷市役所付近など)に作られていたはずです。後生の作り話とみていいでしょう。
とはいえ、単線で大回りの旧線が中央本線のネックだったことに変わりはありません。特急「あずさ」(新宿‐松本)の本数が増え、中央東線全体の高速化の必要が迫ってきてからはなおさらでした。
こうして、1983年、みどり湖経由の新線が開業。塩尻峠の下を複線のトンネルで貫くことで輸送のネックを改善しました。
同時に、岡谷‐辰野‐塩尻の旧ルートは一夜にして幹線から一ローカル線へと転落。1965年に電化はされていたものの、当時の電車は最短でも3両(国鉄では電動車が2両一組なのでTc-M'-Mcが最短だった)。人家の少ない旧線ではサービス過剰で、1両でも運行できる電車が望まれていました。しかし、財政の苦しい国鉄に、新車を用意する体力は残っていませんでした。
時を同じくして、1986年に列車による荷物輸送が廃止。長野県内では80年代前半に郵便や荷物を運ぶ専用の電車(クモニ143形など)が新製されていましたが、登場後わずか5年足らずで行き場を失ってしまいました。
そんな中、役目を終えたクモニ143-1が目をつけられました。クモニ143形に限った話ではないのですが、郵便/荷物電車は他の列車に連結するだけでなく、単行運転ができるよう作られています。新製間もないクモニ143形は、まさに旧線に望まれた車両でした。
そうして、1986年、元クモニ143-1は、座席取付などの改造を受け、クモハ123-1『ミニエコー』としてデビューしたのでした。
派手なペイントをまとったクモハ123-1は、1両で塩尻と辰野を往復する日々(1日1往復だけ、車庫のある松本まで運転されていた)を続けてきました。しかし2013年3月をもって、クモハ123-1は引退。E127系が引き継ぐことになりました。
塩尻を出発後、中央西線を分け、中央西線につながるデルタ線と新線と並行して走ります。ここはかつての塩尻駅があった場所です。
やがて新線が左に分かれると、123系はゆっくりと標高を上げていきます。この先に控える善知鳥(うとう)峠は、塩尻峠程ではないですが、全長1.7キロの善知鳥トンネルを要求されるほどに険しい場所です。不自然なカーブを繰り返すのはそのためです。
茂みに東塩尻信号所の跡を見ると、善知鳥トンネルに突入します。
谷を越えれば天気が変わるといわれる長野県。善知鳥トンネルを抜けた先は、天気こそ変わらないものの、リンゴ畑が広がるローカルな車窓に変わりました。
最初の停車駅・小野に到着。10両は余裕で入れそうな構内に、123系は1両だけで入ります。もちろん、対向列車はありません。
ここからはもう山が迫ることはありません。続いての信濃川島は川の上にホームがかかります。
夕暮れが近づいてきました。
飯田線の線路が見えてくれば、終点の辰野はもうすぐです。
《辰野16:37着》
飯田線との乗換駅・辰野に到着。3番線に到着というだけでも、旧線の不遇ぶりが分かります。
乗客は途中駅でもほとんど変わらず、辰野に着いた瞬間蜘蛛の子を散らすかのように列車からいなくなりました。
多くの乗客は隣の2番線に来る飯田線の列車を待ちます。
辰野駅にもあった横断幕。登場から17年。1両きりだろうと、沿線の人からクモハ123-1は愛されていました。
辰野駅の留置線はガラガラ。かつてここが本線だった証です。
飯田線からJR東海の313系が到着。次いで、211系の飯田線直通豊橋行きがやってきました。残る旧線区間のうち、岡谷~辰野間は飯田線の直通列車が多数を占め、飯田線の一部と化しています。JR東日本の路線なのにJR東海の車両ばかりが走る、不思議な区間です。
2本の列車が去り、閑散とした辰野駅にぽつりと残るクモハ123-1。哀愁が漂っています。
日が陰り、ホームにできる影が長くなってきました。
『長モト』とは、クモハ123-1の所属する松本車両センターのこと。
通常なら妻面に表示する情報も、1両編成の123系では前面の隅に書かれています。
運転準備をする運転士。
プレートが示す改造遍歴。
『ミニエコー』の運転する小野・信濃川島は無人駅。その利用者のためだけの運賃表がこちら。
『ミニエコー』の塩尻寄り出口にある時刻表。丁寧な仕事が光ります。
こちらは辰野寄りの出口にある時刻表。芸が細かいです。
夕日を受けて輝くクモハ123-1。夕日を望めるのは、あと2日です。
塩尻までもう一乗車して、『ミニエコー』との別れを惜しむこととしましょう。
[種別:普通 中央東線(旧線) 165M 辰野17:01→塩尻17:23]
わずか1時間余りのミニトリップは、あっという間に終わりました。115系に、313系とも顔合わせ。ここ10年近く変わらなかった顔ぶれは、2013年3月から123系がE127系になることで変わります。
変わるのは123系ではありません。長らく長野のボス的存在だった115系も、一部が元千葉支社の211系で置き換えられることになっています。爽やかなブルーの帯を巻く211系の登場で、塩尻の顔ぶれはまた違ったものになるでしょう。
もう少し乗っていたいところですが、この後「あずさ30号」(右上の見切れている列車)に乗り継ぎます。
[種別:特急 中央東線 あずさ30号 松本17:18→千葉20:50]
《塩尻17:27発》
塩尻峠をあっという間に抜け、「あずさ」は諏訪湖をぐるりとめぐるように走ります。線路自体は湖に近いのですが、ほとんどが地平区間で、車窓から湖を見ることができるのは、高架の岡谷駅発車後のわずかな間だけです。
下諏訪を過ぎるまでに、太陽の姿は山際の向こうに消えていきました。
「あずさ30号」は1日1本しかない千葉行きです。11両中3両しかない自由席なので混んでいることも想定していましたが、県境を越えた小淵沢での乗車率はほぼ5割。
このまま快適かと思いきや、甲府から一気に急増。あっという間に満席になりました。
都内に入っても乗客は変わらず。立川から乗り込んできたのには驚きました。夜の闇に光るネオンサインが増えていくのを眺めているうちに、下車駅の新宿が近づいてきました。
1号車が初番だったので記録しました。
《新宿20:07着》
世界一のダンジョン……じゃなかった、世界一の乗降客数を誇る駅・新宿に着いたのは、20時を過ぎてからのことでした。福知山を経ってから11時間。その間に城崎を経て、長野も通っています。乗りたい列車があったとはいえ、とんでもないルートになってしまいました。
「あずさ」を降りた私は、山手線内回りの使う13番線に向かいました。
20時を過ぎているというのに、ホームはどこもかしこも人だらけ。数分おきに発車する列車に駆け込む乗客は少なくありません。東京の人はこの光景を「正常」だと心から思っているのでしょうか?
これから山手線内回りに乗れば、品川で新幹線に乗り換えて、静岡には22時過ぎに帰れます。そういう意味では便利な世の中になったと思います。
が、帰りません。
むしろ、ダイヤ改正が明日なのに、ここで帰る馬鹿がどこにいるのかと。
そんなわけで、帰省旅行はまだまだ続きます。
2日目の旅も、もう少しだけ続きます。
現在地:新宿
静岡まであと 143.5km(直線距離)
現在地:木曽福島
静岡まであと 115.5km(直線距離)
《木曽福島15:28発》
名古屋から続く市街地を抜けた383系は、速度を緩めることなく木曽の山中を突き進みます。20度が当たり前の平地から、雪も残る谷へと車窓が変化します。
カーブがあっても制御振り子でなんのその。和田山~福知山のS字カーブを60キロ前後で進んでいた183系と比べると、速いったらありゃしません。485系(北近畿の183系の種車)の登場から383系の登場までおよそ30年。時代の移り変わりをたった数時間で感じることになるとは。
およそ2時間で塩尻が近づいてきました。中央東線の乗換駅、そして、次なる目標・123系『ミニエコー』が待っているはずです。
現在塩尻駅の線路は、東京・名古屋双方から来た線路が駅で束ねられ、篠ノ井線へと続いています。このため、中央東線⇔篠ノ井線と中央西線⇔篠ノ井線の流れはスムーズにいくのですが、中央東線⇔中央西線は塩尻で一度スイッチバックする必要があります。
しかし、明治に開通した当時は中央東線と中央西線が繋がっていました。奥に211系が停まっている線路がそれです。本線系統の線路と合わせて、デルタ線を形成しています。松本や長野方面の直通を見込んで現在の位置に駅は移動しましたが、線路は写真の通り残され、留置線として使われています。
《塩尻15:58着》
現在地:塩尻
静岡まであと 132.9km(直線距離)
乗り換え階段を上がると、早速123系『ミニエコー』の横断幕を発見。橋上駅舎の改札の真ん前にあります。
2番ホームに降りると、長野色の115系に並んで、お目当ての123系がいました。
『15:57発の長野行1543M(2番線の列車)に駆け込もうとしたら『ミニエコー』が停まってたので急いで撮った人』風。
後ろから。『ミニエコー』はこのクモハ123-1の1両きりです。123系は少々変わった系列で、1両ごとに形が違うのが特徴です。
パンタグラフ。通常使用するものの他に、霜取り用のパンタがついています。
側面外観。
正面から。
別の115系とも並びました。
一通りの撮影を終え、『ミニエコー』の待つ3番線に移動。正面からの並びに挑戦するも、階段があって失敗。
栄光のトップナンバーを側面に持つクモハ123-1。
再び背後から。
先頭に掲げられた可愛らしいヘッドマーク。
乗り換え通路で見かけた横断幕がここにもあったので、バックに123系を入れて撮影。
塩尻駅は3面6線のホームに、中央東線(みどり湖経由/辰野経由)・中央西線・篠ノ井線の4方向の列車が発着し、列車によって発着ホームが異なる(特に松本方面は2・4・6番線を使用)ため、ホームごとではなく方向ごとの案内がなされています。
『ミニエコー』が任に着くのは、辰野方面の16:17発の162M(右から2番目)。中央本線の旧線経由の列車です。
LEDの表示に従って入ります。『ミニエコー』はワンマン列車のため後ろ乗り前降りですが、始発駅の塩尻ではどちらからも乗れます。
乗り込んだ時点で既に座席の残りは少ない状態でしたが、発車間際になってさらに増加。結果、クモハ123-1の車内は、最早身動きが取れないほどの大混雑となりました。その殆どは10代(私も一応ここに入ります)・20代。予想外の混雑に、誰もが目を丸くしています。
満杯の状態で、クモハ123-1は塩尻を後にしました。
[種別:普通 中央東線(旧線) 162M 塩尻16:17→辰野16:37]
《塩尻16:17発》
123系の話をする前に、中央東線の旧線について触れておきます。
塩尻から岡谷までのルートは、みどり湖経由の新線と辰野経由の旧線があります。1906年に岡谷‐塩尻間が開業した時、中央本線は伊那谷沿いにある辰野を通るように建設されました。
地図を見ればわかりますが、旧線は岡谷からかなりの大回りをしていることが分かります。このルートを誘致したといわれる伊藤大八の名前から「大八廻り」とも呼ばれますが、当時は技術的に現在のみどり湖ルートを採るのは難しかったと考えられています。そうでなくとも、岡谷から塩尻峠を越すつもりでいたのなら、1905年の岡谷開業時点で駅をもっと北(現在の岡谷市役所付近など)に作られていたはずです。後生の作り話とみていいでしょう。
とはいえ、単線で大回りの旧線が中央本線のネックだったことに変わりはありません。特急「あずさ」(新宿‐松本)の本数が増え、中央東線全体の高速化の必要が迫ってきてからはなおさらでした。
こうして、1983年、みどり湖経由の新線が開業。塩尻峠の下を複線のトンネルで貫くことで輸送のネックを改善しました。
同時に、岡谷‐辰野‐塩尻の旧ルートは一夜にして幹線から一ローカル線へと転落。1965年に電化はされていたものの、当時の電車は最短でも3両(国鉄では電動車が2両一組なのでTc-M'-Mcが最短だった)。人家の少ない旧線ではサービス過剰で、1両でも運行できる電車が望まれていました。しかし、財政の苦しい国鉄に、新車を用意する体力は残っていませんでした。
時を同じくして、1986年に列車による荷物輸送が廃止。長野県内では80年代前半に郵便や荷物を運ぶ専用の電車(クモニ143形など)が新製されていましたが、登場後わずか5年足らずで行き場を失ってしまいました。
そんな中、役目を終えたクモニ143-1が目をつけられました。クモニ143形に限った話ではないのですが、郵便/荷物電車は他の列車に連結するだけでなく、単行運転ができるよう作られています。新製間もないクモニ143形は、まさに旧線に望まれた車両でした。
そうして、1986年、元クモニ143-1は、座席取付などの改造を受け、クモハ123-1『ミニエコー』としてデビューしたのでした。
派手なペイントをまとったクモハ123-1は、1両で塩尻と辰野を往復する日々(1日1往復だけ、車庫のある松本まで運転されていた)を続けてきました。しかし2013年3月をもって、クモハ123-1は引退。E127系が引き継ぐことになりました。
塩尻を出発後、中央西線を分け、中央西線につながるデルタ線と新線と並行して走ります。ここはかつての塩尻駅があった場所です。
やがて新線が左に分かれると、123系はゆっくりと標高を上げていきます。この先に控える善知鳥(うとう)峠は、塩尻峠程ではないですが、全長1.7キロの善知鳥トンネルを要求されるほどに険しい場所です。不自然なカーブを繰り返すのはそのためです。
茂みに東塩尻信号所の跡を見ると、善知鳥トンネルに突入します。
谷を越えれば天気が変わるといわれる長野県。善知鳥トンネルを抜けた先は、天気こそ変わらないものの、リンゴ畑が広がるローカルな車窓に変わりました。
最初の停車駅・小野に到着。10両は余裕で入れそうな構内に、123系は1両だけで入ります。もちろん、対向列車はありません。
ここからはもう山が迫ることはありません。続いての信濃川島は川の上にホームがかかります。
夕暮れが近づいてきました。
飯田線の線路が見えてくれば、終点の辰野はもうすぐです。
《辰野16:37着》
飯田線との乗換駅・辰野に到着。3番線に到着というだけでも、旧線の不遇ぶりが分かります。
乗客は途中駅でもほとんど変わらず、辰野に着いた瞬間蜘蛛の子を散らすかのように列車からいなくなりました。
多くの乗客は隣の2番線に来る飯田線の列車を待ちます。
辰野駅にもあった横断幕。登場から17年。1両きりだろうと、沿線の人からクモハ123-1は愛されていました。
辰野駅の留置線はガラガラ。かつてここが本線だった証です。
飯田線からJR東海の313系が到着。次いで、211系の飯田線直通豊橋行きがやってきました。残る旧線区間のうち、岡谷~辰野間は飯田線の直通列車が多数を占め、飯田線の一部と化しています。JR東日本の路線なのにJR東海の車両ばかりが走る、不思議な区間です。
2本の列車が去り、閑散とした辰野駅にぽつりと残るクモハ123-1。哀愁が漂っています。
日が陰り、ホームにできる影が長くなってきました。
『長モト』とは、クモハ123-1の所属する松本車両センターのこと。
通常なら妻面に表示する情報も、1両編成の123系では前面の隅に書かれています。
運転準備をする運転士。
プレートが示す改造遍歴。
『ミニエコー』の運転する小野・信濃川島は無人駅。その利用者のためだけの運賃表がこちら。
『ミニエコー』の塩尻寄り出口にある時刻表。丁寧な仕事が光ります。
こちらは辰野寄りの出口にある時刻表。芸が細かいです。
夕日を受けて輝くクモハ123-1。夕日を望めるのは、あと2日です。
塩尻までもう一乗車して、『ミニエコー』との別れを惜しむこととしましょう。
[種別:普通 中央東線(旧線) 165M 辰野17:01→塩尻17:23]
わずか1時間余りのミニトリップは、あっという間に終わりました。115系に、313系とも顔合わせ。ここ10年近く変わらなかった顔ぶれは、2013年3月から123系がE127系になることで変わります。
変わるのは123系ではありません。長らく長野のボス的存在だった115系も、一部が元千葉支社の211系で置き換えられることになっています。爽やかなブルーの帯を巻く211系の登場で、塩尻の顔ぶれはまた違ったものになるでしょう。
もう少し乗っていたいところですが、この後「あずさ30号」(右上の見切れている列車)に乗り継ぎます。
[種別:特急 中央東線 あずさ30号 松本17:18→千葉20:50]
《塩尻17:27発》
塩尻峠をあっという間に抜け、「あずさ」は諏訪湖をぐるりとめぐるように走ります。線路自体は湖に近いのですが、ほとんどが地平区間で、車窓から湖を見ることができるのは、高架の岡谷駅発車後のわずかな間だけです。
下諏訪を過ぎるまでに、太陽の姿は山際の向こうに消えていきました。
「あずさ30号」は1日1本しかない千葉行きです。11両中3両しかない自由席なので混んでいることも想定していましたが、県境を越えた小淵沢での乗車率はほぼ5割。
このまま快適かと思いきや、甲府から一気に急増。あっという間に満席になりました。
都内に入っても乗客は変わらず。立川から乗り込んできたのには驚きました。夜の闇に光るネオンサインが増えていくのを眺めているうちに、下車駅の新宿が近づいてきました。
1号車が初番だったので記録しました。
《新宿20:07着》
世界一のダンジョン……じゃなかった、世界一の乗降客数を誇る駅・新宿に着いたのは、20時を過ぎてからのことでした。福知山を経ってから11時間。その間に城崎を経て、長野も通っています。乗りたい列車があったとはいえ、とんでもないルートになってしまいました。
「あずさ」を降りた私は、山手線内回りの使う13番線に向かいました。
20時を過ぎているというのに、ホームはどこもかしこも人だらけ。数分おきに発車する列車に駆け込む乗客は少なくありません。東京の人はこの光景を「正常」だと心から思っているのでしょうか?
これから山手線内回りに乗れば、品川で新幹線に乗り換えて、静岡には22時過ぎに帰れます。そういう意味では便利な世の中になったと思います。
が、帰りません。
むしろ、ダイヤ改正が明日なのに、ここで帰る馬鹿がどこにいるのかと。
そんなわけで、帰省旅行はまだまだ続きます。
2日目の旅も、もう少しだけ続きます。
現在地:新宿
静岡まであと 143.5km(直線距離)
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