光格天皇は閑院宮典仁親王の第六皇子として明和八年〈1771〉に生誕
誕生後まもなく聖護院宮忠誉入道親王のもとに預けられ、
末は聖護院門跡を継ぐべく出家することが期待されていた。
ところが安永八年〈1779〉に後桃園天皇が崩御すると、
親王は天皇の養子とされ、まもなく践祚、即位されることに
これには、天皇家と血筋が近いこともありますが、
後桃園天皇の皇女を娶るという条件と独身で年齢も近かった為
この頃の天皇は、後水尾天皇、霊元天皇以後は三代続いて三十台で崩御
更に、中継ぎの後櫻町天皇を挟んで、二十二歳での崩御としだいに
天皇家も生命力が弱まったかのように思えたのですが、光格天皇は
六十代まで生きられ、子女も20人以上設けました。
しかし即位から2年後には、京都の大火で御所が焼失
さらには、天明の大飢饉が西日本まで及び、飢えた庶民が
御所に請願に訪れる騒ぎになります、光格天皇は幕府に領民救済を申し入れる。
しかしこれは幕府の政治に注文を付けることになるので本来なら
幕府が激怒してもおかしくなかったが、幕府も米を贈るなど救済に応じる
この事が幕末に朝廷の発言力が高まる下敷きになったとされています。
当時の宮家当主は摂関家より身分が低いとされていたため・・・
光格天皇は父の典仁親王に「太上天皇」の称号を贈ろうとしました。
しかし、幕府老中の松平定信による強硬な反対で断念せざるを得なかった
この事が・・のちに【尊王倒幕論】を巻き起こす原点の鳴るのです。
尚御陵は【後月輪陵】〈のちのつきのわのみささぎ〉と、
なっていますが、【月輪陵】と同じ場所にあります
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