何故??【桜町天皇】は「聖徳太子」の再来とまで言われたのでしょう
桜町天皇は、中御門天皇の第一皇子として享保五年〈1720〉に生誕される
生誕された年に、親王宣下を受けられ、享保十三年に立太子
同・二十年に父・中御門天皇の譲位により即位されている
さて聖徳太子の再来と云われている根拠は・・・
まずは、五歳で読書始めを行い、天子の学問を修めたとあります
しかし即位直後は朝遅く起きて、昼近くに朝食を召し・・
夜遅くまで起き、学問よりも「和歌」や「蹴鞠」を好んだと、
右大臣・一条兼香を嘆かせている〈『兼香公記』より〉
だがこの後、関白となった一条兼香の補佐や暴れん坊将軍??
いやいや、徳川吉宗の助力を得て、朝廷儀式の復活に力を入れた
肝心の聖徳太子の再来の件ですが、随筆集【翁草】に書かれている
江戸時代のさまざまな事柄を記したのが、神沢杜口の【翁草】です
ここには、天皇が元旦の生まれであり、その際に火事が起こった事
様々な点で、聖徳太子との共通点が多いと云う事・・
尚!神沢杜口は桜町天皇の在世中に、京都町奉行所の与力を務めていた
この噂は朝廷でもあったらしく「延喜・天暦の治以来の聖代である」・・
と、歴史家としても知られている公家の柳原紀光も評している
桜町天皇は孝心も大変に深く、中御門天皇の七回忌には、
七日間にわたり清涼殿で法講を行っていし、命日には追善の為に・・
紫紙に金泥で般若心経を書写し、仁和寺に納めています
即位から12年目で【桃園天皇】に譲位して院政を行いますが
その3年後、脚気が原因で突然の崩御でした・・・31歳の若さでした
「桜町」の諡〈おくりな〉は退位した天皇の住まいの【仙洞御所】の
宮名である「桜町殿」に因んで「桜町院」と追号された
葬られたのは、泉涌寺にある【月輪陵】〈つきのわのみささぎ〉
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