【継体天皇陵〗繋がりの副産物??将にそうなんです
6月9日,造幣局の帰りに茨木市の継体天皇陵〈太田茶臼山古墳〉に
ブログしている途中に高槻市の継体天皇陵〈今城塚古墳〉を知る
と云うわけで昨日6月14日に嫁さんの運転で行ってきましたよ~
最初は今城塚古墳と歴史館を予定していました・・・
先ず!駐車場の横にある立派な歴史館から見学することに
館内には、ボランティアの男性解説員が居られて、丁寧に解説を
この駐車場は無料なんです、30台も駐車可能です
石棺も模型で作ってあり、大変参考になりました 継体天皇の事も、解説員が得意とされていて納得でした
色んな埴輪が並んでいて、これらを作った工場を後で見学 ナント力士の
埴輪もまわしをしていますよ
外に出て「今城塚古墳」に向かいました。
地面にイラストで、高槻市周辺の古墳地図が そこで「阿武山古墳」の話を耳にしました
今度は今城塚古墳公園内に設けられている古墳群たちを写真撮影して回りました
この埴輪たちを、その当時作っていた工場が残っていると云うので先ずは埴輪工場へと
また詳しくは、次回に掲載いたします・・と云う事で本題の「阿武山古墳」に向かいます
急な坂道をグネグネと20分少々
、スマホのナビを頼りに辿り着きました
しかし車はここまで
この先は
歩きで900m
・・でも15分ぐらいでした
それでも結構高い所まで・・登って来ました でも!まだ半分も来ていません
漸く京都大学地震研究所まで来ました・・・ ここから左折して突き当りから道が狭くなります
狭くなった山道を一人黙々と進んで行きますと 向こうから降りてくる人が、学生さん?の様でした
阿武山古墳の表示が出て来たので・・もう直ぐでしょう
少し行くと・・石畳に代わりました 「史跡・阿武山古墳」の解説板が立っていました
しかし、ナント想像を絶する?
?古墳の前にたたずんで、ただ茫然でした
もっと立派な墓所を想像していたので・・
でもその原因が・・帰ってからネットで調べて分かりました
発掘されたのが、1934年私が生まれる9年前の昭和9年の偶然の出来事でした
京都大学の地震観測施設の建築中、瓦や巨石に突き当たって偶然に発見されたとか
下の写真は1934年に発掘された当時の貴重な資料
発見された時の状態は、 墓室は地表のすぐ下にあり、切石で組まれていて
内部は漆喰で塗り固められていて、上を瓦で覆われ、地表と同じ高さに埋め戻されていた
内部には棺台があり、その上に漆で布を何層にも固めて作られた外側を黒漆!
内側を赤漆で塗られた、夾紵棺〈きょうちょかん〉が日本で初めて発見された。
棺の中には、60歳前後の男性の、肉や毛髪、衣装を残存した状態のミイラ化した
遺骨がほぼ完全に残っていた。
鏡や剣、玉などは副葬されていなかったが、ガラス玉を編んで作った玉枕のほか、
遺体が錦を身にまとっていた事、胸から顔面、頭にかけて金の糸が沢山散らばっていた
この図のように地下に墓室があったのが
、現在は元に戻したので平地にある
これが藤原鎌足の頭蓋骨??なんでしょうか
最後に少し残念なことが起こっている・・・発掘にはトラブルがあったらしいのです。
京都大学理学部・地震観測所が観測所敷地内の「貴人の墓」発掘の主導権を握っていたが
考古学の知識に乏しく、遺跡に対する扱いが手荒とされていた。
最初に相談されただけで、以後立ち入り調査をさせてもらえない京都大学考古学研究所と
遺跡を管轄する立場であり、遺物の急速な劣化を憂慮する大阪府は、
遺跡の発掘の今後の方向に対し、地震観測所と対立を深めていくのである。
大阪府庁で文部省や宮内省なども出席して行われた関係者会議で、
被葬者がきわめて高位の人物であることは間違いなく、皇室につながる可能性もあるため
これ以上の調査は冒涜であるとの意見が出た。こうして「貴人の墓」は埋め戻された。
だから、平地の上に墓室の札が置いてあって傍には花が〈造花❓〉侘しく飾ってあった
まだまだ・・・中途半端な阿武山古墳ではあるが、今後の再調査を期待しよう
「貴人の墓」が果たして藤原鎌足の墓
なのか・・男のロマンは果てしなく
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