~青い目をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド
日本の港に着いた時 涙を一杯浮かべてた
私は言葉が分らない 迷子になったら何としょう
優しい日本の嬢ちゃんよ 仲良く遊んでやっとくれ
仲良く遊んでやっとくれ~
皆さんよくご存じの童謡で、今から97年前の作品です
野口雨情の「青い目のお人形」が発表されたのが雑誌「金の船」で
大正10年〈1921〉の12月号だったんです
この歌は日本国内だけでなく、アメリカでも歌われたのです
その切っ掛けが・・2年後に起きた「関東大震災」だったのです
世界中が救援のための募金を行いました、
中でもアメリカからの金額が一番多かったのです・・そして
募金を呼びかける時に歌われたのが「青い目のお人形」だったんです。
切っ掛けは、大恩人の宣教師:シドニー・ルイス・ギューリック博士でした。
博士は明治20年〈1888〉から25年に渡り日本で過ごした親日家です
その博士が心を痛めたのが「移民制限」「排日暴動」などで・・
日に日に悪化していく日米関係でした『このままではいけない』と
考えた博士の耳に聞こえてきたのが【青い目のお人形】だったんです
この曲を耳にした、日米友好のため奔走していた「ギューリック博士」は・・
子供の頃から有効の心を持っていれば、大人になっても仲良くできる・・
と考えていた博士は、この曲によりお人形を贈ろうと・・・
それも「青い目のお人形」を贈ろうと考えたのです、その結果は
昭和2年〈1927〉のひな祭りに間に合うようにと贈られてきたのが
ナント 13000体にも及ぶ【青い目のお人形】が贈られてきて
その受け入れ窓口となったのが、渋沢栄一だったのでした
経済人としての現役を退いて10年86歳の渋沢は受け入れのため東奔西走します
この子供たちが大人になった頃に大変な事が起こるのです
昭和16年〈1941〉、真珠湾の奇襲攻撃が勃発しアメリカとの戦争が始まったのです
その影響を諸に受けたのが他でもない【青い目のお人形】たちでした
『敵国のスパイだ】として、焼かれたり、竹槍で突かれたれしたのです
受難は人形だけではありませんでした、野口雨情にまで及んだのです
「青い目をしたお人形は」や「赤い靴履いてた女の子」は歌うのが禁止されます
その上・・・雨情は昭和19年〈1944〉軽い脳溢血で倒れてしまいます
そして妻と八人の子供と共に、栃木県河内郡に疎開します
その後も、雨情は日に日に弱り、翌年1月27日にひっそりと世を去ります
63歳で亡くなった雨情の遺体は荷車で火葬場に運ばれたのですが
家族には、葬儀代も残っていませんでした。
既に忘れ去られていた野口雨情の死は、ほとんど伝えられませんでした。
この【青い目のお人形】の曲を作った「本居長世」とのコンビは他にも・・・
「赤い靴」「七つの子」「雨降りお月さん」などを残しています
ところで、【青い目のお人形】の曲ですが、大正時代の曲と云った感じ
最初の「青い目をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド」で
「アメリカ生まれの・・・」をメロディーで繰り返していて、曲も明るい
次の「日本の港に着いた時 涙を一杯浮かべてた」から
「私は言葉がわからない迷子になったら何としょう」は同じ曲の繰り返し
ここはお人形が日本に着いて涙を浮かべ、言葉も分からない不安感を
見事なメロディーに乗せている、明るさから一変するあたり・・さすがですね
次の段階「優しい日本の嬢ちゃんよ 仲良く遊んでやっとくれ・・・・」で
お願いの意味を込めての、テンポをアップにしてお願いと期待で閉じています
いま改めて・・・日米友好や、真珠湾攻撃を織り交ぜて聞くと、感無量です
野口雨情と本居長世、両名に拍手をおくりながら・・・終わります
I always use url shortener
It is very helpful.