南北朝もやっと合一になり、北朝方の【後小松天皇】が歴代・第100代に
これから後の御陵は最初【深草北陵】に7名の天皇が続いて葬られ
その後は【月輪陵】に13名の天皇が連続で葬られることになる・・が
第102代後花園天皇だけが北朝第一代光厳天皇の御陵に葬られている
南北朝が五十数年ぶりに統一したといっても、世の混乱は収まる事がなかった
後小松天皇の次の【稱光天皇】は12歳で即位したものの、生来病弱であった
そこへもって!皇子にも恵まれず皇位継承が危ぶまれていた
この後継者問題に乗じて、南朝の残党や大覚寺統が再び蜂起してくると・・
後小松上皇は持明院統の伏見宮から孫にあたる彦仁を御所に迎え猶子〈養子〉とし
稱光天皇の崩御と共に、親王宣下も無いまま永享元年〈1439〉即位させている
天皇の在位中〈治世中〉には土一揆や乱がおこり、依然南朝の残党も蜂起し続ける
一方では、将軍足利義政は遊興にふけり、天皇から諫言を加えられるありさま
天皇は、後小松上皇が亡くなると30年以上の長きにわたり親政を続け
寛正5年〈1464〉皇子の成仁親王〈後土御門天皇〉に譲位する
上皇は応仁の乱の最中に出家し、文明2年〈1470〉12月中風の為の崩御している
崩御の際には、足利義政・日野富子夫妻がその最後を看取っている
又、義政は戦乱中の外出に反対する細川勝元の意見を押し切って・・・
葬儀から四十九日の法要まで全てに参列したと、記録に残っている
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