花山天皇も又、藤原氏の思うままに操られた悲運の天皇であった、そして天皇陵も衣笠の民家の中にポツンと寂し気に
同じ天皇でも、こうも格差があるのかと?天皇陵を巡るたびに感じるのです
やはり天皇在位中の権威が御陵にも影響があるのでしょうか?
第65代【花山天皇】は叔父の第64代円融天皇の即位と同時に立太子している、しかも生後10か月足らずであったとか
そして、17歳で即位するのであるが、有力な後ろ盾が無かった事で、僅か2年足らずで出家即譲位となられます
此れには、藤原兼家の陰謀が働いていたと云われています・・・兼家の外孫である懐仁親王〈一条天皇〉を即位させるため
結局藤原兼家が三男の道兼を動かして、言葉巧みに、最愛の人を亡くして悲しみに暮れる天皇に
「私と一緒に出家しましょう」と内裏から元慶寺〈花山寺〉に連れ出そうとします
天皇は「月が明るくて出家するのが恥ずかしい・・・」と内裏から出るのを躊躇します、その時雲が月を隠します・・
天皇は「やはり今日出家する運命にあったのだ」と自身を諭すのでした。
明治時代にその模様を月岡芳年が描いています
一緒に出家しようと云った藤原道兼は、親の兼家に事情を説明に行くと云って、そのまま二度と帰ってこなかった
そこで初めて花山天皇は騙された事に気が付くのですが・・・時すでに遅し出会ったのです、【寛和の変】と云われてます
それでは、花山天皇【紙屋川上陵】〈かみやがわのほとりのみささぎ〉を紹介しましょう
民家に囲まれているのが良くわかるでしょう・・・写真と撮っている後ろも民家です
制札までが、寂しそうに佇んでいますでしょう
この様に鎖がしてあって、残念ながら中へは入れないのです、望遠でここまでです
ナントかと思ってネットの力をお借りしましたのがこの一枚・・・植木の柵の向こうがこの様に
この【紙屋川上陵】を探すのに、結構時間がかかりました・・・夕方になってしまった事もあって中々見つかりません
梅津の我が家から自転車で【宇多天皇陵】を皮切りに七つの御陵と「等持院」を巡って最後が此処だったんです
「わら天神」から東へ入り、住宅街をぐるぐると・・・ェェ、と思うような場所に在りました
分からないはずです・・・住宅街のど真ん中、御陵の雰囲気なんか全く無い場所にあったのです
【紙屋川上陵】に関しての記録には「紙屋川の上、法音寺の北」と・・・法音寺は花山天皇の勅願寺で大きな寺だったのが
応仁の乱で焼失して、現在は天皇陵の北西に規模も小さくなって存続しているのですって
しかし、花山天皇が出家した「花山寺」と呼ばれる【元慶寺】は山科に在ります
だから今も山科の一角に花山と云う地名が残っているのでしょうか?
最後に有名な京都大学の天文台の写真を・・・花山天文台です
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