堺から日本へ! 世界へ!

堺の歴史・文化の再発見、再生、創造、魅力情報発信!

心の中に生きている本-自分探し

2021-02-24 23:13:21 | キャリアデザイン

前田秀一 プロフィール

 私が、読書を意識したのは中学生の頃、当時としては珍しくなかった越境通学をしていた電車の中で、父から買ってもらった「偉人伝」を夢中になって読んでいた時のことでした。
 今につながる『親鸞聖人』は格別として、何故か、『渡辺崋山』が未だに印象が強く残っております。世界史観を持った芸術的知識人に憧れたということでしょうか。

 『親鸞聖人』は、その後、『出家とその弟子』(倉田百三著)に繫がり、『歎異抄』(唯円房著)、そして、1974年母の死を機縁として日常の聴聞に与っている恵日山 眞光寺若院・木村世雄博士(文学)からの『Ocean 真宗入門』(ケネス・タナカ著、島津恵正訳、2003年)ご紹介に繋がり信心を深めるに至っております。

 中学、高校時代に親友の兄上の感化を受けて大阪市立大学に進学し、同級の友人から『ナイロンの発見』(井本稔著、創元社百花文庫・初版本)を紹介され、「応用化学」を専攻したことに我が意を得た思いに浸りました。
 東洋文化の「華」ともいわれ、中世には世界的に商取引の貴重品であった「絹」糸を化学合成の力で創出するという壮大なテーマに挑戦して、「ナイロン」(ポリアミド繊維)を世に出したアメリカ・デュポンの若き化学者・カローザスの生き様が描かれていました。
 その結末は、さらに高強度の繊維、後の「テトロン」(ポリエステル繊維)の開発を目指して挑戦している最中、悩み、苦しみの果てに自ら命を絶つという壮絶な人生を送った偉人の物語でした。
 その著者・井本稔先生こそ、「高分子化学」専攻(井本研究室)⇒「大日本インキ化学工業株式会社」と私の人生の道の選択に大きく関わっていただくこととなった恩師でありました。

 当時、自称日本の「MIT(マサチュセッツ工科大学)」といわれた大阪市立大学に在籍したお陰で、教養部時代には気鋭の先生方による講義受講の機会に恵まれ、その後の我が人生に大きく影響を受けることになりました。

 梅棹忠夫(当時・理学部生物学科生物生態学専攻助教授 ⇒ 国立民族学博物館長)
   『日本探検』(1960)、『文明の生態学史観』(1967)、『知的生産の技術』(1969)
 川喜田二郎(当時・文学部地理学助教授 ⇒ KJ法本部・川喜田研究所理事長)
   『日本文化探検』(1961)、『発想法』(1967)

 2002年(平成14年)7月末、40年間在職したDIC株式会社を退職して娘の家族の招きに応じて「自分探し」の旅に出た時、北海道・旭川「三浦綾子文学記念館」で、『千利休とその妻たち』上・下巻に出迎えられ驚きました。
 最果ての地と思っていた旭川で「堺」の文化を発見したという驚きは、カルチャー・ショックとも言え、日ごろ無頓着でいた我が終の棲家・「堺」の歴史と文化の重みに気付かされました。

 その取り組みの方法を模索する中、立ち寄った旭屋書店の店頭に積み上げられた「NPO」のキーワードは、私に新しい人生観を与えてくれました。

 『やさしいNPO法の解説』(橘幸信、正木寛也、1998年)
 『NPO 起業・経営・ネットワーキング』今田 忠、2000年)

 想いを新たに、「堺」の再発見、再生、創造、魅力情報の発信をライフワークとして取組むことを心に決め、改めて視野を世界に向けた時、堺市と20年間に渡って友好提携関係にある中国・連雲港市との交流のあり方見えてきました。

 その想いの結果として、「徐福伝説」との出会いがあり、「徐福論」を学位論文テーマとして取組んでいる新進気鋭の学者・逵 志保博士(国際文化:愛知県立大学非常勤講師)との交流が始り、伝説のダイナミズムを学ばせていただきました。
 『徐福伝説考』(1991年)、徐福論-いまを生きる伝説(2004年)

 さらに、作家・池上正治先生との出会いに導かれ、ご薫陶をいただいて“徐福”の故郷・連雲港市「第5回カン楡県徐福祭」で我がまち「堺」の歴史と文化を紹介し、友好交流を市民のテーマと位置づける取り組みについてご紹介する光栄に恵まれました。
 『徐福-日中韓をむすんだ「幻」のエリート集団』(2007年)


 「徐福伝説」への取り組みの中で、堺市博物館長・角山 榮先生にご縁をいただき、初心に帰って「茶の湯」の文化を学ぶこととなり、その実践の方向づけとして、角山先生ご提唱の「CHAの心」に接し原点回帰いたしました。
  『堺-海の都市文明』(2000年)、『茶の世界史』(1980年初版)
     CHA:Communication、Hospitality、Associate

 そして今、「CHAの心」の実践の中から新たな出会いに恵まれ、“すずめ踊り”を絆として杜の都・仙台と都市間交流を目指す堺の“まち”文化の創造に取組む機会を得ております。
  『堺市史第7巻別編(堺市、1930年)
  『仙台市史第15回配本 全30巻 通史編3 近世1
              (仙台市史編さん委員会、2001年)

 マハトマ・ガンジー「変化を見たいなら、あなたがその変化になればいい」。
 “すずめ踊り”を通した仲間から、衝撃的な言葉を教えていただき、目からうろこがこぼれ落ちた思いになりました。
 そうだ、心に積み残していた原点に取り組もうと多くの先達の研究成果(文献)に導かれて、「十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図」に関する小論を発表しました。

          論文 「十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図」 

                                        註(引用文献)および参考文献 私の後世に豊かな示唆を与えていただいた論文

 
この小論の成果は、私を、さらに『山上宗二記』へ導き、その中に臨済禅の公案でもあるかのように茶湯者の覚悟十體として記されている「濃茶呑ヤウ」という言葉に釘づけになりました。その公案の意図するところを追い求めて、この度、「茶湯者の覚悟“濃茶呑ヤウ」を発表しました。

            論文 『山上宗二記』 「茶湯者の覚悟“濃茶呑ヤウ”」

 

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清も濁も併せ呑む大人の価値観

2021-02-24 23:12:33 | キャリアデザイン

前田秀一 プロフィール

 掛かり付け歯科医の待合室で、今、話題の姜尚中先生(東京大学大学院教授)の談話「清も濁も併せ含む大人の価値観を持とう」(『婦人公論』1月22日号)に出会い感動しました。あいにく、読んでいる途中で名前を呼ばれ、後ろ髪をひかれる思いがしたので、先生にお願いしてコピーを撮らせていただきました。ご存知かもしれませんが、“さわり”をご紹介します。
 昨年(2011年)、日本列島に住む人々はいまだかつて経験したことのない大地震、津波、それに人類史上例のない放射能禍に出会った。
 日本には人と自然の関わりが古層のように脈々と横たわっている。もともと、日本文学の底流には「無常観」というものが根強くあったが、今回、日本人のそれぞれが心の奥底に抱え込んでいた無常観に否応なく気付かされた。また、伝統的に日本人の幸福感の土台には「浄・不浄」の観念があるが、社会を支える大地が否応なしに見えざる膜(放射能)で覆い尽くされ、これまで、至上としていたイノセント(無垢)が存在しなくなってきた。
 もう元には戻れないが、むしろ、真の意味で成熟した幸せの感性と、それによって見出される成熟した美しさが現れて、今までとは全く違った幸せの形が見つかると期待している。
 「清濁併せ呑む」作法を身につけることにより、感性が研ぎ澄まされ目についた光景や人との何気ないふれあいが、ものすごく愛おしく感じられ、すべてを受け止めていく中で初めて見えてくる尊い幸せを確かめ、大人にしか感じられない幸せが得られていく。
 「今」と「ここ」についてずっと考えている人は、くじけないで生きている。世界は、今、誰一人として経験したことのない不確実な未知の時代に入っている。目の前の課題に真摯に取り組むべきでしょう。
 写真は、平成23年7月23日 仙台市立東六郷小学校にて 「東日本大震災」被災状況。

「東日本大震災」支援活動 詳しくは こちらから

 

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お陰様で50年! 金婚の旅 ハイサイ”沖縄”

2021-02-24 23:11:43 | キャリアデザイン

お陰様で50年! 金婚の旅 ハイサイ“沖縄”
平成29年1月15日(日)~17日(火)
関西空港 ~ 那覇空港

前田秀一 プロフィール

 結婚以来50年間、郷里九州(熊本県)はもとより、現住地・関西一円、さらに延べ15年にわたる関東地区単身赴任の期間を利用し、妻とともに北は北海道まで46都道府県の旅行を楽しんできました。
 残るは沖縄、就職した当初、入社同期の同僚がパスポートの悲哀を語っていたイメージが強く、近くて遠い“沖縄”でした。しかし訪ねてみたい、一種の憧れを募らせて今日この時まで温めていた“沖縄”でもありました。
 沖縄をよく知る人々から、1月の季節感を勧められ、旅行案内書にある説明はともかく、年代のせいかやはり「首里城」と「ひめゆりの塔」へ格別なる思いを胸に飛び立ちました!

 

 
いたるところでシーサーの歓迎!

 沖縄の地を一歩踏み込むと、いたるところでシーサーの目線を感じ、若者が演じる伝統舞踊エイサーの歓迎を受けました。
 「シーサー」は、沖縄の方言で「獅子」。「家の守り神」、「魔除け」、「福を呼ぶ縁起物」として沖縄では大事にされているそうです。
 一見、私たちの身近にある「狛犬」のようでもあり、口を開けた方が「オス」、「福を招き入れる」、「魔を吸い込む」といわれ、口を閉じた「メス」は「福を逃がさない」と伝えられているそうです。
 

   
エイサー 歓迎の舞(国際通り)

 「エイサー」は、慶長8年(1603)、まだ日本へ渡来していない経論を求めて明国(中国)へ渡航した磐城国(福島県)の浄土宗僧・袋中上人(たいちゅうしょうにん)が、その目的を果たせずに琉球に漂着して伝えた念仏踊りに源流があるといわれています。
 お盆の時期に現世に戻ってくる祖先の霊を送迎するために、主に、旗頭、太鼓踊、手踊、チョンダラー、地謡で構成され、若者たちが踊りながら地区を練り歩くそうです。

 
 国際通り散策 意外や、吉本・沖縄拠点発見!       「めんそ~りよ~」 牧志公設市場

 少子高齢化の世相に慣れた目から見て、沖縄のまちの雰囲気は全体的に本土より平均年齢が低いように見受けられました。
 平成27年度の国勢調査によると沖縄全島の人口は144万人(前回比+2.3%:全国4位))、出生率1.87人/世帯:全国1.39人)、平均年齢40.7歳(全国47位:最下位)、14歳以下17.8%(全国1位)、65歳以上17.4%(全国47位:最下位)、だそうです。
 人口増加は、中南部に集中しており、離島などは減少の傾向かあるそうですが、基本的には出生率が高いことが挙げられ、以下の背景が指摘されております。
  1.親族や地域同士とのコミュニティの結び付きが強く、相互扶助の精神が残っている。
  2.男系子孫を重んじるため、男児を産むまで出産を制限せず、結果的に多産する。
  3.本土から移住者の増加(例、東日本大震災後福島県など被災者の移住、比較的若い世代)
                                       引用資料:フリー百科事典『ウィキペディア』「沖縄県の人口統計」

 

 
名勝 万座毛 東シナ海の荒波    沖縄版「アダムとイヴ伝説の島」古宇利島


 


大家(ふうやー) 百年古民家パーク


    
        古民家 重要文化財                    シーサーも目を見開いて歓迎

 沖縄では、まち中で木造建築物を見かけることが少なく、遺産として保存され文化伝承の対象となりつつあるように思えました。民家をはじめ、まち中の建築物のほとんどが鉄筋コンクリート造(RC造)でまち全体が白っぽく見えたのが印象的でした。
 その背景は、台風や湿度(シロアリ被害)対策など気候対応によるものだそうですが、米軍の占領下で米軍が使用する建物(米兵の住宅含む)が鉄筋コンクリート造(RC造)で建てられ、その影響を受けて一般の住宅もRC造のものが多くなったそうです。
 


那覇のまち並み
 

  
沖縄国際海洋博覧会(昭和50年)を記念して設置された国営公園

 沖縄本土復帰記念事業として1975年(昭和50年)沖縄国際海洋博覧会が開催され、海洋生物園が出展されました。
 1979年(昭和54年)8月、博覧会跡地に国営沖縄海洋博覧会記念公園が開館しました。
 2002年(平成14年)11月、沖縄本土復帰30周年に合わせて新館を開館させ、名称を「沖縄美ら海水族館」(おきなわチュらうみすいぞくかん)に改称されました。「チュらうみ」とは沖縄の方言で「清〔きよ〕ら(しい)海」という意味だそうです。
 開館当時、水量1,100トンの水槽は世界最大でしたが、2005年(平成17年)にアメリカのジョージア水族館が開館されその座を譲りました。

「沖縄美ら海水族館」詳しくは、こちらから
  

 



首里城 港と領地を一望できる高台にそびえる


    
世界遺産 園比屋武御嶽石門〔国王が外出の際に礼拝する「御嶽(うたき)」の門〕 詳しくはこちらから

  

14世紀末に創建された中国や日本文化も混合する琉球独特の城
1945年の沖縄戦で消失したが、1992年11月に正殿ははじめ一部が復元
2000年12月、首里城跡として世界遺産に登録

「首里城」詳しくは、こちらから

 
中世から近世初頭の琉球王謁見儀式模型                  石垣旧跡

 

 

 1372年、琉球では中山(ちゅうざん)王察度(さっと)が初めて明(みん)国に入貢し、進貢貿易(朝貢貿易)を開始しました。明は、商船の自由な海外渡航を禁止する海禁政策をとっていたため、中国商人の活躍舞台は大幅に狭められていました。
 1429年、琉球を統一して琉球王国を樹立した尚巴志(しょうはし)は、中国との進貢貿易を主軸に、日本、朝鮮および東南アジア諸国との貿易を飛躍的に発展させました。
 那覇は博多、堺などの日本商人やその他の外国商人も来航してにぎわいましたが、やがて16世紀中ごろになるとポルトガル、スペインの進出、中国商人や日本商人の海外発展などが琉球の優位性を奪い始めたため琉球の貿易もしだいに衰え始めましたた。
    引用資料:高良倉吉・福島 清・平良 慶監修 1992『首里城 蘇る琉球王国』6~9頁(財)海洋博覧会記念公園管理財団

 

ひめゆりの塔

沖縄戦で亡くなったひめゆり学徒・教師の鎮魂のための慰霊碑
「ひめゆり」とは、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の愛称。
沖縄戦で、沖縄陸軍病院に動員された女子学生たちの総称を、戦後「ひめゆり学徒隊」と呼ぶ。

積年の思いを花に託してお供えし祈りをささげました

「ひめゆりの塔・平和祈念資料館の巡り方詳しくは、こちらから
  
 

 

 世界遺産登録「園比屋武御嶽」に代表されるように沖縄は歴史的に「御嶽(うたき)」と称する自然崇拝や祖先崇拝が広く浸透し、仏教やキリスト教など日本本土古来の宗教信仰の慣習は低く(観光ガイドの説明では高々20%程度とのこと)、むしろ生活慣習の一部としているそうです。
 仏教宗派としては、臨済禅宗(天徳山円覚寺)、浄土宗(奥武山袋中寺)、真言宗(智山派雄翔山大願寺)など沖縄の歴史にまつわるお寺があり、それぞれの宗派の信徒がおられるそうです。その他では米軍基地が多いためキリスト教徒もおられ、沖縄のおかれた社会環境を反映して新興宗教信者もおられるそうです。
 家系の長男の家には崇拝の対象とする位牌を置く沖縄独特の仏壇があり、年中行事として一族が集まって拝んだりしているそうです。
 お墓も、家系の長男を中心とし集合墓で本土の場合よりははるかに大きく、亡くなったら母親のお腹の中に帰ることを想定し、子宮をかたどった独特のものがあり、建設費用も1基2,000万円ほどもするそうです。
 このような死生観の違いが、本土に住む私たちとの間で、ものの見方、考え方においてどのような影響を与えるのか、今後の課題として考える余地があるように思いました。

 

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紀行記  夏の日の思い出 宮島 萩 津和野 家族旅行

2021-02-24 23:10:57 | キャリアデザイン

「紀行記・風物詩」シリーズはこちらから(トップページ左覧参照)
    美しきドナウへの旅 フランス・ホームステイ 
    中国・長江文明 高句麗・前期都城 清朝建国の歴史 遼東半島・旅順博物館
    アンコール遺跡 生れ故郷ソウル
    再会・京都楽日 大阪天神祭“船渡御” DIC・川村美術館

前田秀一 プロフィール

 家族! その「絆」を再確認する「旅」をしました!
 本来なら、父親と夏休みの思い出と宿題のネタ作りのための旅行になるはずでしたが、図らずも、昨年11月初めに膵臓がんという大病に見舞われ“思い”を残して急逝したため、残りの人生を少しでも父親代わりになればと、NHK大河ドラマゆかりの地・世界遺産・安芸の宮島と明治維新胎動の地・松下村塾(山口県萩市)へ旅行をしました。
 お迎え火、初盆供養、送り火、経木供養・・・。浄土真宗(本願寺派)の我が家にとって初めて経験する真言宗のお盆供養を済ませ、あわただしかって日々をねぎらうための旅行でもありました。
 奇しくも、「家族旅行やね!」と新幹線の中で呟きが・・・、思わず心の中を垣間見た思いがしました。健やかに育ってほしい!あらためて家族の絆づくりのありようを求めて、夏の思い出づくりの家族旅行をしました。
 さらに足を伸ばした津和野では、文豪・森鴎外(本名・森林太郎)の生きざまに触れ、明治新政府によるキリスト教禁止通達に伴う殉教の悲話に驚き、殉教者の遺徳を偲んで建てられた津和野カトリック教会の正面に堺にゆかりの深いイエズス会のレリーフを発見し、礼拝堂には十六世紀に来日した巡察師・アレサンドロ・ヴァリニャーノが「礼法指針」に書き著した茶室を想起させる畳が敷かれていることに感動しました。

 

世界遺産 国宝(平安時代) 厳島神社(広島県安芸市)

国宝(平安時代) 本殿遠景

 

             神 殿                       重要文化財(江戸時代) 能舞台

 

重要文化財 本社火焼前(ひたさき)より88間の海面にそびえる朱塗りの大鳥居

 奈良の大仏とほぼ同じ高さの16m、重量は約60t。主柱は樹齢500~600年のクスノキの自然木。
根元は、松材の杭を打って地盤を強化し、箱型の島木の中に石を詰めて加重し鳥居の重みだけで立っている。

 

世界遺産を目指す 錦帯橋(山口県岩国市) 完成:延宝元年(1673)10月1日

 岩国藩主・吉川広嘉が、明の帰化僧・独立(どくりゅう)から聞いた『西湖志』の絵にヒントを得て、小島のような頑強な橋脚を築き川の増水にも流されない橋として完成した。

  

長門湯本 温泉旅館 大谷山荘(ホームページより引用)

 長門市にある曹洞宗・瑞雲萬歳山 大寧護国禅寺の住職が、住吉大明神のご神託によって発見し、1427年に開湯したとされる温泉郷。開湯時に発見した源泉は現在も湧出し、所有も同寺のもの。

 

大谷山荘 尾崎 保料理長 もてなしの夕食献立

 

萩焼 体験(指導:盤石窯・金本明夫氏) <夕食後のくつろぎのひと時> ナイト・バンドショ-

 

        松陰神社 〔主祭神:吉田寅次郎藤原矩方命(吉田松陰)〕           「明治維新胎動の地」碑

国指定史跡 松下村塾 (幕末期に吉田松陰が主宰した私塾)

 

       熟 舎                                講義室

 久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文(初代内閣総理大臣)、山縣有朋、山田顕義、品川弥二郎ら、明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍した多くの逸材を育てた。

 

曹洞宗 覚皇山 永明寺ようめいじ) 文豪・森鴎外菩提寺                森鴎外(本名:森林太郎)遺言

動画 津和野の四季

 

     津和野カトリック教会              礼拝堂は珍しく畳敷で、鮮やかなステンドグラスが印象的

 この聖堂は、明治新政府が発令したキリシタン禁止令〔1868年4月7日(慶応4年3月15日)、明治政府太政官通達「五榜の掲示」〕により長崎から流罪に処せられ連れて来られ、廃寺・光淋寺(津和野町乙女峠)で津和野藩による拷問により殉教したキリスト教信徒36人の遺徳をしのび、1931年(昭和6年)に建てられた。
 建築様式は、新ゴチックにして正面レリーフ(紋)はフランシスコ・ザビエルの属していた修道会(イエズス会)が十六世紀から使っている紋をかたどっている。
 毎年5月3日には殉教者を偲ぶ、乙女峠祭が行われ、町内の幼稚園児や関係者等県内外から約2000名による幻想的なミサが行われる

「明治新政府のキリスト教禁止令と弾圧」について
 江戸幕府が瓦解すると、1868年4月7日(慶応4年3月15日)に明治政府から太政官通達「五榜の掲示」が示され、その第3条で再びキリスト教の禁止が確認された。
 明治政府におけるキリスト教禁止令通達の背景は、かつて尊皇攘夷運動の活動家であった政府内の保守派は、廃仏毀釈に加えて「神道が国教である(神道国教化)以上、異国の宗教を排除するのは当然である」、「キリスト教を解禁してもただちに欧米が条約改正には応じるとは思えない」とキリスト教への反発を隠さず、禁教令撤廃に強硬に反対し、また長年キリスト教を「邪宗門」と信じてきた一般民衆の間からもキリスト教への恐怖から解禁反対の声が上がったためであった。
 長崎裁判所総督を命じられた沢 宜嘉と外国事務係・井上 薫は、問題となっていた浦上の信徒たちを呼び出して説得したが、彼らには改宗の意思がないことがわかった。沢と井上から「中心人物の処刑と一般信徒の流罪」という厳罰の提案を受けた明治政府は御前会議を開いてこれを討議、諸外国公使からの抗議が行われている現状を考慮して「信徒の流罪」を決定した。
 1968年7月9日(5月20日)、木戸孝允が長崎を訪れて処分を協議し、信徒の中心人物114名を津和野、萩、福山へ移送することを決定した。以降、1870年(明治3年)まで続々と長崎の信徒たちは捕縛されて流罪に処された。
 彼らは流刑先で数多くの拷問・私刑を加えられ続けたが、それは水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなどその過酷さと陰惨さ・残虐さは旧幕時代以上であった。
 長崎・浦上村のキリスト教信徒153名を収容した廃寺・光淋寺(島根県津和野町乙女峠)では、津和野藩により信徒に対して酷い拷問が行われ、そのすさまじさから36名の殉教者を出した。その際、日本国内ではじめて聖母マリアが顕現した地とされている。
 1871年12月23日(明治4年11月12日)から1873年(明治6年9月13日)まで、日本から岩倉具視を正使としてアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣した大使節団(政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成)一行が、訪問先で禁教政策を激しく非難され、明治政府のキリスト教弾圧が不平等条約改正の最大のネックであることを思い知らされることになった。
 1873年(明治6年)2月24日、日本政府はキリスト教禁制の高札を撤去し、信徒を釈放した。配流された者の数3394名、うち662名が命を落とした。生き残った信徒たちは流罪の苦難を
「旅」と呼んで信仰を強くし、1879年(明治12年)、故地・浦上に聖堂(浦上教会)を建てた。

                                                                引用資料:ウィキペディア

 

           広島 原爆ドーム(平和公園)                   広島駅新幹線ホーム JR500 カンセンジャー

 

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大谷探検隊-仏教原典を求めて

2021-02-24 23:10:08 | キャリアデザイン

 前田秀一 プロフィール


 龍谷ミュージアム(京都)で開催されている特別展「仏教の来た道-シルクロード探検の旅」(平成24年4月28日~7月16日)を見学してきました。
 併せて、龍谷大学・清和館ホールで開催された特別講演「大谷探検隊の意義」龍谷大学元学長・上山大峻先生の講演を拝聴しました。
 明治の初め、廃仏毀釈とヨーロッパ文明到来の危機感の中、仏教の原典を求めて、奇しくも機を同じくして日本から、河口慧海師(東洋大学前身「哲学館」講師、堺出身)と大谷光瑞師(本願寺第22世門主)の二人が、ヒマラヤ山脈超えとシルクロードと道は異なったがチベットへ...向かったというドラマティック探検の感動を求めて参りました。
 特に、大谷探検隊に関しては、中国・旅順博物館を訪ねていましたので、国内にある収集品に関心を持ち、心ときめかして聴講しました。

     大谷探検隊文物 in 旅順博物館

     河口慧海 単独ヒマラヤ超えチベット探検行

 仏教の精神は、聖徳太子の言葉に代表されるように「和を以って尊し」を基本理念としているというお話に改めて重みを感じて帰りました。

 

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巨匠と出会う名画展ー川村記念美術館巡回展(神戸)

2021-02-24 23:09:14 | キャリアデザイン

前田秀一 プロフィール

DIC川村記念美術館について詳しくは、こちらから

 大日本インキ化学工業株式会社創業100周年記念事業の一環として、兵庫県立美術館で開催されています川村記念美術館収蔵名画巡回展「巨匠と出会う名画展」(2007年7が28日~10月8日)を鑑賞しました。
 私にとっては、2000年までの過去40年間在職し、その間在京勤務(14年)中に何回となく訪れ、社員の一人として誇りにしていた美術館でしたので大変懐かしい思いがありました。
 むしろ、帰阪(堺市在住)した現在は、二度と観れないかもしれないと思っていましたので、再会をなによりも楽しみにしておりました。

 川村記念美術館には主に以下の収蔵作品があります。
1.フランス印象派に始るヨーロッパ近代美術
  レンブラント、モネ、ルノワール、マティス、ボナール、
  ピカソ、シャガールなど
2.1910~1930代抽象芸術
  カンディンスキー、マレーヴィッチ、エルンスト、ミロ
  などのダダ、シュルレアリズムの作品、コーネルなど
3.戦後アメリカ絵画
  ボロック、ニューマン、ラインハート、ルイス、ロスコ
  ステラなど
 中でも、7点の大作を展示するロスコ・ルームは世界屈
  指の展示といわれております。
4.日本美術
  長谷川等伯、俵屋宗達、尾形光琳、円山応挙
  酒井抱一、橋本関雪、横山大観、加山又蔵
  滝口修造、桑山忠明、若林 奮など
 
 来館者には、神戸という土地柄のせいか若いカップルが多く、久しぶりに再会して感じたことは、今回の展示会では、当然の事ながら音声ガイドが準備されていて、自分のペースで、とことん作品の奥行きまで鑑賞(観て味わう)することが出来たことでした。
 かつて、在職中に訪問した時には、自分なりの解釈で観賞(観て楽しむ)しましたが、それでもなお、理解できない作品がたくさんあり、正直なところ我ながら不思議な美術館だと思っていました。

 「見る人が居て絵は生きていける」、「貴方が観ているもの、それが全てです」という解説が大変新鮮で、心を満たしてくれました。

 兵庫県立美術館(平成19年7月28日~10月8日)へは、阪神電鉄「岩屋」、JR「灘」下車車・海側へ徒歩10~20分です。また、
 その後は、島根県立石見美術館(10月19日~12月16日)および松坂屋美術館(12月29日~1月22日)で巡回開催されます。
 

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16世紀後半~17世紀初頭、南蛮文化渡来の軌跡

2021-02-24 23:08:15 | キャリアデザイン

前田秀一 プロフィー

<関連情報>
  十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図 詳しくは こちらから


 4月21日(土)から神戸市立博物館で開催されている「南蛮美術の光と影」展へ行ってきました。
この展覧会の開催を予測したわけではありませんが、1年間をかけて「十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図」をまとめたところでしたので、非常にタイミングがよく、改めて復習の機会を得た思いがしました。
 16世紀半ばから17世紀初頭にかけて、ポルトガルやスペインからいわゆる南蛮船が来航し、西欧の地や中継の港で荷積みされた貴重な文物を日本にもたらしました。また南蛮船に乗船した宣教師がキリスト教を日本に伝え、いわゆる南蛮美術や文化が花開きました。
 南蛮美術の中でも重要文化財「泰西王侯騎馬図屏風」は、桃山時代から江戸時代初期の初期洋風画の傑作として世に知られ、描いたのはイエズス会の神学校であるセミナリオで、キリスト教とともに西洋画法を学んだ狩野派など日本人の絵師と推定されており、それを描かせたのもイエズス会の宣教師とみなされています。その画面描写には、当時の西欧の画家たちが身につけていた遠近法や陰影法を、積極的に学んだ跡が見受けられます。
 一方、宣教師は蒔絵など日本の伝統工芸にも注目し、それら工芸品を輸出して、例えば花鳥蒔絵螺鈿聖龕(聖母子像)などヨーロッパの絵師による聖者図と組み合わせ、東西技能の融合による新たな文化の醸成も行っていました。
 見どころは、華やかな南蛮屏風など絵画作品や蒔絵工芸品など多種多様の南蛮美術ですが、圧巻は豊臣秀吉や徳川家康による伴天連禁教令を耐え忍び、隠れキリシタンとして代々永年にわたり母屋の屋根裏の梁にくくりつけて守り伝えた聖フランシスコ・ザビエル像(1920年、茨木市千提寺地区にて発見)でした。その他、隠れキリシタン辛苦の伝承の家宝として、織田信長に背いた荒木村重に従った高山右近の父・ダリヨ飛騨守が織田信長の命により柴田勝家に預けられた福井県北ノ庄の旧家から発見された絵画、メダル、刺繍マリア聖牌など高山右近の存在感を強める遺品がありました。

 

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