『山上宗二記』 茶湯者の覚悟 「濃茶呑ヤウ」その一考察
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前田秀一 プロフィール
はじめに
「日本の茶の湯と、私が長年親しんできたカトリックのミサが大変よく似ているという感じは、茶会を体験した当初からずっと頭にあった。イギリスのアフタヌーン・ティーとミサが似ているなどとは思ったこともなかったのに、日本の茶の湯とミサの間には一見して明らかな共通性が確かに感じられた。」1)(8頁)
ロンドン生まれでオックスフォード大学卒業後来日し、1960年よりカトリック司祭として上智大学文学部教授を経て東京純心大学教授であったピーター・ミルワード師の言葉である。特に、茶道で点てられた濃茶(スイ茶)の一つの椀が会席者の間で飲みまわされる作法が、カトリックのミサで一つの聖杯にそそがれた赤ぶどう酒をイエスの血として飲みまわす作法と似ていると挙げている点が注目される。
キリスト教におけるパンとぶどう酒による共同飲食行為の儀式のルーツは、レオナルド・ダ・ヴィンチ作「最後の晩餐」に遡るといわれている。イエスが十字架につかれる前夜、エルサレムのある2階座敷で弟子たちとともにもった記念の晩餐会のことであった。
イエスは、パンをとり、祝福してこれをさき、弟子たちに与えていわれた「とって食べよ、これは私のからだである」。また、杯をとり感謝して彼らに与えていわれた「みな、この杯から飲め、これは、罪のゆるしを得させるようにと多くの人のために流す私の契約の血である」
ミサでは、信者たちの平和の賛歌が唱和される中、司祭はパン(現代ではウエハー)を拝領し、次いでぶどう酒を飲み干す。助祭は次に杯をいただき飲みまわす。そして聖体拝領の歌のなか、信者たちの拝領の儀式が行われる。2)(117頁)
一方、茶道は禅の思想を規範とするが宗教ではない。点前と称する作法は極めて厳格かつ複雑で、これは一種の儀式と言える。山上宗二は、「茶湯者覚悟十體」の「又十體(追加の十体)」の一つとして「濃茶呑ヤウ(飲み様)」を挙げている。3)(92頁)
濃茶の飲みまわしについては、天正14(1586)年9月28日朝、豊臣秀長の茶頭・曲音の郡山の屋敷で秀長を迎えて山上宗二がスイ茶(濃茶)を差し上げた記録が初見と思われる。
「・・・茶は極ム、イカニモ如何ニモタフタフトスクヰ、四ツ五ツ入、湯一柄杓、スイ茶也、初口(松屋)久政、次(豊臣秀長)也、(山上)宗二取テ参ル、又圍ヘ返シ、呑間ニ壺キンシテ出サル、見ル間ニ何モ水指マテ入ル・・・」4)(124頁)
天正14年は、千利休が65歳のときで、前年、利休居士号を勅賜され、天下一の茶人として絶頂期にあり、茶の湯が大成していった時期であった。5)(761頁)
ピーター・ミルワード師が指摘されたミサにおけるぶどう酒と茶の湯における濃茶の飲みまわしの共通性に関しては確たる論拠を見出せているわけではなく、相互の慣習の中に見られる形式上の相似性から類推しているように思われる。茶の湯の大成の背景を追って『山上宗二記』に見る茶湯者覚悟「濃茶呑ヤウ」について考察してみる。
目 次
1.ジョアン・ロドリーゲスが見た「濃茶」運びの手前 本文はこちらから
2.『茶会記』における「御茶(茶)-薄茶」二服おもてなしの事例 本文はこちらから
3.茶の湯大成の背景 本文はこちらから
4.「濃茶呑むヤウ」考察 本文はこちらから
5.まとめ 謝辞 本文はこちらから
註 および参考文献 詳しくはこちらから
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