第11編 宇宙の根本
第一章 宇宙の根本秩序
一、神様の二性性相の大展開
1.神様は二性性相の中和体
宇宙を観察してみれば、すべての存在において、陽性と陰性の二性性相が相対的関係を結ぶことによって存在していることを知ることができます。これは、鉱物という次元から始まって、すべての場合に適用されています。分子は、陽イオンと陰イオンの結合を通して形成され、植物の場合、生存と繁殖は雌雄を代表する雌しべと雄しべの結合を通じて成されます。このような二性性相は、動物の場合より一層明らかです。魚類、鳥類、ほ乳動物等、すべての動物は雄と雌によって存在します。最後に、神様の最高の創造物である私たち人間も、男性と女性で区分されています。最初の男性アダムと最初の女性エバは、人類の始祖です。このような二性性相の存在目的は、何ですか。神様は、なぜこのような方式によって創造されたのでしょうか。
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神様が男性と女性を造られて何をしようとされたのでしょうか。見ようとされたのです。神様は、女性ですか、男性ですか。女性にもなり、男性にもなられます。男性性稟だけをもっているとするなら、女性だけを見つめられるようになるのです。アダムは、陰で生きなければなりません。そのように、女性も見つめて男性も見つめることができる二種類の性稟を、共に備えていらっしゃいます。ですから、結局縦的な立場に立ち、男性も好まれ女性も好まれる、二性性相をもった中和的主体だというのです。それが神様でいらっしゃいます。男性も必要であり、女性も必要であり、どこへでも行って迎え入れ、いつでも主体の位置にいらっしゃるので主体格です。それゆえに、格位では男性格位です。そして、横的というものは女性格位をいうのです。
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神様はお一人でしょうか、お二人でしょうか。お一人です。お一人なのに、どのようにして二人の人に入っていくのでしょうか。この人に入ってからあの人に入っていき、あの人に入ってからこの人に入っていってと、そのようにするのですか。また世界には数多くの人々がいますが、数多くの人々にどのように入ったり出たり、出たり入ったりされるのでしょうか。これが問題になるというのです。それで、私たち統一教会の「原理」で、神様は二性性相の中和体であるという話が出てきたのです。ここには規則があります。神様は二性性相でいらっしゃる中和的本体です。これは真に素晴らしい結論です。
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神様は、二性性相の男性的主体だというのです。それでは、その神様は、誰に似ているのでしょうか。私たちに似ていて、私に似ていて、皆さんに似ているというのです。同じなのです。それゆえに、「主体格」という言葉は、必ず相対格位を介在させて成立するのです。そのような概念が含まれています。相対格というものを必要とするために、「主体格」という言葉が出てくるというのです。
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原理講義をする時、創造原理で「神様は二性性相の中和的主体としていまし給い、中和的存在になっている」と簡単に言います。中和的主体になっているというのですが、それはどういうことですか。座ってそのまま神様が男性と女性の中和的存在になって、何がおもしろいでしょうか。何を中心として中和するのですか。愛を中心として中和的存在だということを知らなければなりません。
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神様は何を願うのでしょうか。創造をされて、創造理想を完成して何をしようというのですか。神様御自身も愛をなそうというのです。神様御自身が願うことは何でしょうか。神様は、「原理」でいえば二性性相の中和的存在です。主体的存在です。このように、ぱっと一言で定立します。男性格を備えた主体的存在だというのです。
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何が統一的起源をもたらすのでしょうか。一人でいらっしゃる神様を、統一的位置で何が喜ばせてさしあげるのでしょうか。「原理」でいえば、神様は二性性相の中和的存在であり、格位においては男性格です。その男性格位というものが、どのようにして男性格位になるのかを知らなければなりません。男性格位ならば主体でありプラスですが、相対なくしてはプラスはありません。その概念の中で、なぜプラス格位にいらっしゃるのですか。愛ゆえにいらっしゃるのです。絶対的神様も絶対的に服従してみたいというのです。愛には絶対的に従順になりたい、絶対的に一つになりたいというそのような基台がなくなる時には、統一も融合も和合というものもありません。それは、根源がないために分散してしまいます。
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神様から造られた人間だという時、人間はどのようにしなければなりませんか。神様が愛の相対を造られた目的は、喜ぶためなのです。何を中心として喜ぶのでしょうか。愛を中心としてです。絶対者であられる神様も愛が必要だというのです。そうではないですか。
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神様が二性性相の主体としていらっしゃるといいましたが、二性性相の神様だとしても必ず愛の対象が必要なので、天地万物を創造されたのです。
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愛は、男性と女性だけではできません。男性と女性は、ただ二つの存在です。男性と女性だけを連結させては愛が成り立たないというのです。男性と女性を総合して、中心に立って動かすものが愛です。それでは、男性と女性が和合して愛を中心として動くことがどこから始まったのかといえば、神様の二性性相からなのです。男性性稟と女性性稟が和合したものを相対的に展開させたのです。それで神様は、自分の愛の相対が自分より優れていることを願われるのです。
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統一教会の文先生は知恵深い方なので、「神様は二性性相の中和的主体だ」と結論づけたのです。右側から見れば男性に見え、左側から見れば女性に見えるというのです。二性性相がそうではないですか。内外になっているので、上から見れば男性に見え、下から見れば女性に見えるというのです。それでこそ女性も「よし!」と言い、男性も「よし!」と言うのです。
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原因と過程と結果が明確な内容をもってくる、科学的論理のような論理をもってくる、そのような宗教人が出てこなければ、宗教世界を救うことができないのです。統一教会の「原理」がそうです。これこれこうだからこうだ、神様は二性性相で存在される、宇宙の存在が主体と対象である、ゆえにこの世界は、神様が愛の主体であり、人は愛のパートナーとして造られたという結論がぴたっと合うのです。それが歴史を超越して、愛によって、永遠の世界と結ぶことができる力の作用によって継続されるのです。その千年、万年続く愛の作用が始まったのですが、それが普通の力ならば弱くなるはずですが、弱くなりません。
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神様も愛を中心として一つになるのと同じように、統一教会もそのような観念をもっているために、世界を統一させることができるのです。キリスト教はそうではありません。「神様は絶対的な万能の神様だ。何でもすべてなさることができる」と考えています。しかし、それは誤りです。神様は何でもできますが、本来の原理原則においては、愛は二人で成すことができるようになっています。それゆえに、二性性相を成すようになっていて、愛もその条件の上で可能なのです。
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神様が二性性相の中和的存在としていらっしゃるならば、二性の中和的存在の中心は何ですか。愛です。神様も愛を中心として生きてきました。
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「原理」で論じている二性性相の主体としていらっしゃる神様は、いかなるお方ですか。二性性相の神様であると同時に、二性性相の中和的主体としていらっしゃるお方です。その主体の本質が愛です。絶対的愛だというのです。
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「原理」の総論は、神様に対してどのように表現しましたか。神様は、二性性相の中和的主体であると同時に愛的主体です。
「愛」というこの言葉も入れなければなりません。それを必ず入れなければなりません。
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神様がアダムとエバを造って二性性相を分立して中和的存在になろうとするなら、何を中心として中和的存在でなければなりませんか。愛を中心として中和的存在でなければなりません。それとともに、格位においては男性的主体格でなければなりません。
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なぜ神様が人間を創造されたのですか。このような根本問題、私がなぜ生まれたのかという根本問題をはっきり知らなければなりません。神様は愛の主体です。「原理」を見れば、神様が二性性相の中和的存在だというでしょう。中和的立場で愛を中心とした統一的存在だという話はまだしていなかったのです。そこに、愛を中心として統一的存在だということを添付しなければなりません。
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男性の愛と生命の起源はどこですか。神様でしょう。二性性相の中和的主体であると同時に愛の根本であるお方が神様です。『原理講論』に「真の愛の起源」という言葉を入れなければなりません。「真の愛の起源が神様だ」という言葉を入れなければならないというのです。『原理講論』を修正することができる主人公は私しかいません。それを知っていますか。
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問題の出発点は、神様がいるかいないかということなのです。神様がいらっしゃるならば、人間とどのような関係にあるのですか。神様が人間と関係を結ぶためには、人格的神でなければなりません。人格的な神だということをはっきり悟ったのです。人格的神になろうとすれば人間のようでなければなりません。人間には心があって体があるように、このような素性があるので、人間を造られた神様も、人間と共に共同目的をもつことができるその本体ならば、人間に似ていなければなりません。二性性相という概念は、ここから出てくるのです。
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神様が人格的な神であるように、神様は誰に似ているのでしょうか。神様は、アダムとエバを一つにしたそのようなお方なのです。二性性相の主体は神様です。男性と女性を雑然と一つにしたようなものではありません。一つに合わせたものですが、主体格を備えたそのようなお方です。この主体格の無形の神様の前に、主体格を身代わりして男性と女性が一つになり、その無形の神様の前に相対格位を備えて結ばれることが神様の創造理想を完成することであり、私たち人間、アダムとエバの理想を完成することになるのです。それ以外にはありません。
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東洋哲学では人格的神を知らなかったのです。人格的神がいるということを知りませんでした。陰陽といいますが、漠然とした陰陽では人格的起源となることができないのです。それではいけないというのです。根のすべてのものを備えなければなりません。人がこのようになっているならば、男性と女性のすべての神性を備えることができるそのような根にならなければなりません。そのような意味で、統一教会で教える二性性相、この論理は偉大な論理です。
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2.被造世界は神様の二性性相に似て出てきた
宇宙の根本である神様がいらっしゃるなら、その神様は、主体と対象的な観念をもった存在だというイメージが出てきます。それゆえに、私たち統一教会の「原理」でいう二性性相は偉大な言葉だという結論に到達するのです。主体と対象が作用し始めるところから存続が展開するのです。生まれ始めるというのです。このような根本のもとでなされているので、すべての宇宙は二重的です。二重的になって、授け受ける相互作用をするのです。
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被造世界は神様の性相に似ています。すべての被造物は、二性性相の分立体として展開されているということを知っています。主体と対象の関係、それから上下関係、前後関係、左右関係の相対的関係によって連結しているということを私たちは知っています。そのような環境的制度の条件をもった目的とは何でしょうか。愛を目的として動くのです。
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主体と対象はどこから出てくるのですか。これが出てくることのできる基台がなければなりません。統一教会では、これを二性性相といいます。この主体と対象は、人間自体からつくられた主体と対象ではありません。ここにその基台が必要なのです。その基台が二性性相であり、二性性相の中には本性相と本形状がなければなりません。
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主体と対象があって、お互いに作用しなければ力が生じないのです。力は、一人で出てくるものではありません。力は、必ず主体と対象があって初めて生じるのです。私が対象である時、私が心に悪いと感じても主体がなければならず、良いと感じても良いと言うことのできる主体がなければなりません。それで、統一教会の「原理」に、「二性性相」という言葉があるのです。
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「原理」で見ると、神様は二性性相の中和的主体です。主体というものは、何を中心として成立するのですか。愛を中心として成立します。ですから、横的な基盤が必要なのです。刺激的な基盤を多方面にもちたいと思って拡大展開させたのが被造世界です。
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どのような種でも、二つのかけらで一つになっています。豆のようなものも二つのかけらです。神様が宇宙の根本なので、神様の形状に似なければ根本の種になり得ないのです。
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生命の種は必ず二つになっています。これは天地の道理です。神様は、二性性相としてお一人の人格になっています。種の根本を象徴するのです。種には胚芽があるのですが、胚芽には、根になる部分、芽になる部分があります。自らが存続することができる内容をすべてもっているのです。そのまま置いておいても、完成した実体を構成できるようになっているのです。
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神様が二性性相になっているので、私たち人間も二性性相になっているというのです。万物もプラス・マイナスの二性性相になっています。神様と人間と万物を合わせて連結させれば七数になります。これは、段階で見れば三段階であり、広げれば四位基台です。この三数と四数が調和をなして統一されれば七数になります。七数は、創造目的完成数です。
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宇宙は、すべてプラス・マイナスになっています。分子を見ても、プラスイオンとマイナスイオンになっています。すべて相対圏になっているというのです。原子を見ても、陽子と電子になっています。宇宙構成の根本がそのようになっているのです。植物は雄しべと雌しべ、動物は雄と雌、人は男性と女性になっています。すべてが相対的になっています。そのように相対的になり、一つの体制圏に収拾されなければなりません。神様が主体なので、神様を中心として収拾されなければなりません。その創造の意志に一体化した相対圏がつくられなければ、神様の創造の喜びはあり得ないのです。
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統一教会で神様を二性性相の主体としていらっしゃるお方だというのは、すべて科学的な分析結果によって、間違いなくそのようにいらっしゃるという事実を知っていうのです。ですから、主体と対象が完全に一つになれば、神様の力がそこに永遠に存在するのです。主体がなく対象がないところには力は存在しません。それでは、神様はどのように存在するのでしょうか。神様自体内にある主体と対象の力が授け受けすることによって永存します。
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「原理」は二性性相を言っています。二性性相は、なぜ必要ですか。二性性相がなければ創造の調和をつくり出すことができないのです。二性性相があるのでお互いに授け受けできるのであり、その一つは骨と同じで、一つは肉と同じなので、授け受けすることによって新しい形態が展開できるのです。神様が二性性相それ自体なので、神様を中心としてその相対世界が生まれざるを得ないというのです。このように二性性相は、創造的妙味を成し遂げるために必要なのです。
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「原理」でいえば、全体を連結するものが万有原力です。すべてのものに神様の二性性相が入っていって、それがすべて万有原力になっているのです。核心は同じです。
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男性には女性の性相があります。女性も男性の二性性相の要素をもっているために、男性が暮らすことのできる場所があるのです。神様は二性性相なので、女性とも男性とも暮らすことができます。それと同じように、一つの相をもった夫も、女性が二性性相の要素をもっているために夫人の胸の中にとどまることができます。女性も男性の心の中にとどまることができます。一つです。離れることができないのです。
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アダムとエバ、男性の先祖、女性の先祖です。男性の種、女性の種です。半分の種なのです。すべてのものが一つの殻の中で二つになっています。それで、神様と宇宙を象徴するのです。神様が統一された中には二性性相があるのですが、その二性性相には胚芽があります。種があって核があるのです。
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神様も無形の主体でいらっしゃるために、実体相対圏、絶対的な有形の実体を必要とせざるを得ないということが理論的な結論です。それゆえに、神様も二性性相をもっているのです。それは、無形の性相を有形の実体として展開する創造のためのものです。それを中心として宇宙の被造世界を考えてみれば、鉱物世界もすべて主体と対象の関係をもって運動をしています。分子で見るときはプラスイオンとマイナスイオンが主体と対象の観念であり、原子で見るときは陽子と電子が主体と対象の観念です。
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神様は、女性性稟もあって男性の性稟ももっている二性性相によって成されています。神様は、神様の中にある男性の性稟を集めて男性を造られ、女性の性稟を集めて女性を造られたのです。このようになれば自然に主体と対象に分かれ、この主体と対象がお互いに授受作用をすれば、これが再び一つになって作用するようになります。これが正に統一教会の「原理」でいう正分合作用だというのです。この偉大な統一教会の「原理」が、今後哲学において、宗教において問題になるはずです。
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愛のみ旨を成していくためのものですが、愛を成すことができる存在は誰ですか。神様の中にあるものをそのまま表したような、一つ残らず自分に似た同じ姿の息子と娘を造られたのです。それゆえに、統一教会でいう「二性性相」という言葉は、この地球上で初めて聞く驚くべき内容だというのです。二性性相の中和的主体、これはどういうことでしょうか。天地の道理がすべて入っている言葉です。
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愛といっても、一人でいる所には通じません。二つが和合する基準を中心として、より高い次元に引き上げるために作動するのです。これが愛の力です。愛が作動する時は、相対という橋がなくてはならないので、万有のものは愛の理想に和合することができるようになっているのです。神様がさらに愛の理想を実践するためには、相対になるようにせざるを得なかったという事実を知らなければなりません。それで、「二性性相」という名前をつけたのではないですか。
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全体を糾合して一つの原則的な基本を明らかにしてみれば、主体と対象の関係、ここから存在と作用を起こすのです。主体と対象によって存在し作用すると見るのです。私たち統一教会は、これを中心として二性性相という概念をキャッチしました。それでは、二性性相がただそのままいるのでしょうか。ストップしているのでしょうか、動いているのでしょうか。ではどうして動くのでしょうか。なぜ動くのかというのです。損をするために動くのでしょうか、利益を得るために動くのでしょうか。作用して運動するのに、損をするために運動するという法則があるならば、私たちの理想の作用や希望に向かって前進する作用はあり得ないのです。損をするならば、これがますます小さくなっていくというのです。小さくなってストップしてしまうというのです。しかし、この小さいものが利益のために動くならば、ますます大きくなっていきます。
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神様御自身は一つの体です。二性性相の主体としていらっしゃるために自体内で愛するといいますが、思考では「男性的主体の位置だ、女性的対象だ」といって愛を感じることができるのかもしれませんが、男性と女性が分立された立場では刺激的な衝撃を感じることができないというのです。
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したがって、アダムとエバが神様御自身をさて置いて、自分たちの間でもっと衝撃的に愛するのを見る時、愛の主体であられる神様は悪く思われないというのです。なぜですか。その二人が一つになったその場を相対として喜びを感じることができる主体者でいらっしゃるために、その相対がより価値的な愛を感じるようになる時、神様も幸福を感じられるようになるというのです。それが神様の人間創造を中心とした愛の第一法度ではないかというのです。したがって、そのような愛の教育を受けることなくしては、その場に行くことができないのです。
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本来力とは、作用すれば減少するのですが、愛の力だけは作用すれば強くなります。無限に拡散したものは、その中に無限に集約された力があるために引き寄せるのです。
ですから、循環作用の内的力を自分自体がもっているということを知らなければなりません。そのような論理を適用しようとするので、私たち統一教会では二性性相の論理がどこにでも適用されるのです。文先生に知恵があるので、それをすべてキャッチしておきました。
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真の愛がどれほど良いかというのです。神様も愛ゆえに生まれました。愛ゆえに生まれました。気分が良いでしょう? 「ああ、文総裁が言うには、神様は愛ゆえに生まれたそうだ!」。神様を捕まえて分析してみてください。神様の二性性相まで先生が分析しました。その二性性相にも、また二性性相があるでしょう? 皆さんもすべて男性ホルモンと女性ホルモンが出てきますね。分からなければ病院に行って診察してもらってください。それゆえに、すべて通じるようになっています。
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創造原理の二性性相がなぜなければならないか、どのようなものが主体でどのようなものが対象かという問題を根本的に解いて、解いて、これ以上解くことができない時、戻ってくるというのです。いくら掘り下げても戻ってくるというのです。これが千年、万年そのようになるので、仕方なく「ああ、この道しかないな。これ以上探す必要はない」という時、「原理」という言葉が成立するのです。それで、原理というものは変わらないのです。
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3.神様の宇宙創造の動機は愛
天と地自体も、自ら存在したくて存在するようになったのではなく、ある力の源泉に立脚して生まれたということを考える時、ここよりも一段階上がって、中心的な主体を備えて天地を動かすか、あるいはここに創造をするという力の作用体、根本の作用体が必ずなければなりません。このような立場にいるそのお方を私たちは「神様」と言いますが、民族が違い、言語が違うことによって異なった表現をします。しかし、その名詞が問題ではありません。この宇宙の中心がなければならないというのです。その中心は、この存在世界全体の前において、存在が作用して移動してもその移動するところについていって移動せず、動く相対的な世界の中心において億千万年動かない中心的な本体がないといけないというのです。
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宇宙の根本を掘り返してみた時、神様はなぜ生まれたのかという問題は根本に入ります。神様はなぜ生まれたのか、何のために生まれたのか、神様は何をするのか、このようなことが問題なのです。今日、キリスト教の盲目的な信仰時代は過ぎました。むやみに神様を信じる時代は過ぎました。このような推理的な結論に続いて、適切な神様に対する内在的性稟、外向的なみ旨に対する世界との関係、神様における内外との関係、この関係というものが問題です。
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人間が第一の存在になることはできないのです。いくら優秀だとしても原因的存在になることはできないというのです。私たちは、あくまでも第二の存在です。結果的存在です。それでは、この宇宙の原因的存在とは何ですか。神様がいるならば、神様自体が原因的存在であり絶対者です。そのような絶対者がいるとするなら、絶対者自身が何を必要とするでしょうか。何を中心として人間や被造物と関係を結ぼうとされるでしょうか。これが根本問題です。神学で取り扱わなければならず、哲学で取り扱わなければならない重要な問題です。神様と人間、原因と結果を連結できる内容は何なのかというのです。
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神様は何のために、どのように生まれたのでしょうか。愛によって生まれました。宇宙の根本はどのようになされたのでしょうか。愛の種があり、それが相対を中心として吸収してみたところ、神様自体が性相と形状によって構成されるようになりました。何を中心としてそのようになっているのでしょうか。愛を中心として形成されています。皆さんと同じです。父母の愛によって受けた皆さんの生命の種、一つの細胞が大きくなって今の皆さんが生まれてきたのと同じように、神様もそのように大きくなったというのです。神様も、目が生じ、鼻が生じてこのように生まれました。全く同じだというのです。
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真の愛というものは、最も深いところから出発します。では、真の愛の起源は何ですか。神様、ゴッド(God)です。「ゴッド」という発音を韓国語で言えば、昔の人々が使った帽子のことを表します。帽子は、てっぺんに使うものを言います。同じ意味だというのです。ここにおいて、性相と形状がなぜ分かれるのでしょうか。問題になります。宇宙の根本とはどこでしょうか。宇宙の根本はどのように生まれたのでしょうか。これが問題です。神様がどのように生まれたのかというのです。神様を見ましたか。それはどのように生まれましたか。皆さんはどのようにして生まれたのですか。宇宙のすべての要素の津液を取って、総合して生まれたのが正に「私」です。
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愛の中心は神様なのです。宇宙生成以前からいらっしゃる、唯一的であり、永遠的であり、不変的な存在なのです。ところで、愛は心情の流れです。内的な心情が外的に流れるものが愛です。ゆえに神様の本質は心情です。このような神様が、正に存在論的に扱った宇宙生成の根本原因である統一的存在だったのです。この根本原因からの宇宙の生成が、正に神様の宇宙創造だったということは言うまでもありません。
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それでは、神様は、どうして宇宙と人間を創造することができたのでしょうか。それは、神様が心情をもっていらっしゃるからです。心情があるところにおいてのみ生命が現れることができ、生命があるところに発展運動(創造)が展開するためです。ところが、その創造には必ず目的があるのですが、その理由は、本来心情というものは目的を指向するものだからです。ですから、創造目的は、心情を充足させる喜びであるといわざるを得ません。そして、この喜びは、被造物、特に人間が神様に似た時に訪れるのです。
ゆえに神様の愛と創造性に似た人間と国家が、神様が創造しようとされた目標だったのです。これは、人間の理想がそれを追及することを見ても知ることができます。理想とは、当然享有するようになっている世界を追及する熱望なのです。
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宇宙の根本とは何でしょうか。この宇宙が生まれる前には何があったのでしょうか。神様ですか。神様だけいましたか。愛が見えますか。愛は実体がありませんが、愛はどこにありますか。愛はコンセプト(概念)です。神様においても、愛はコンセプトなのです。神様にとっても、愛はコンセプトだということを知らなければなりません。
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神様は、なぜ創造をされたのでしょうか。愛のためにされました。愛は、一人ではできないのです。相対がいなければなりません。一人でいる愛は縦的な愛なので、環境的条件がありません。
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神様は絶対者ですが、何が慕わしくて人を創造されたのでしょうか。黄金も何の知識も必要ない全知全能の神様が、もっていないものは一つもない神様が、何が必要で人を造られたのですか。
すなわち、創造の根本動機は何ですか。それは権力でもなく、知識でもなく、所有でもないのです。神様には愛の基盤がなかったのです。神様も一人では愛を成し遂げることができないのです。それゆえに、天地創造の動機が愛だというのです。
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神様は、なぜ天地を創造されたのでしょうか。その全知全能の絶対者が、何がなくて人を創造されたのでしょうか。愛のために創造されました。愛は相対がなくては現れません。相対がいないのに作用するようになれば損をします。すべて自分を保護するようになっています。損をするところでは絶対に動きません。愛は、相対が現れれば、ないようですが、飛び出してきます。
神様にも愛がありますが、男性的な神様が静かに一人でいる時には、その愛が現れません。これを現してみせることのできる相対が、正に人です。
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全知全能の神様、遍在する神様が、何が不足で人を造られたのでしょうか。神様にお金が必要で、金の塊が必要で、ダイヤモンドが必要ですか。そのようなものはいくらでもあります。それでは、知識が必要ですか。神様は知識の王なので、知識はいくらでもあります。それならば権力が必要ですか。権力とは、神様にとってあってもよく、なくてもよいものです。神様に不足だったのは愛です。愛というものは相対的関係においてのみ成立するものだからです。神様も、愛を必要とする神様にならずしては、この創造世界と人間世界が関係を結ぶことができないのです。ですから、愛をもって訪ねてこなければ存在世界とは関係ないという結論が出てくるので、神様は愛を標準として定めてこられたのです。
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神様がなぜ天地を創造されたのでしょうか。いくら絶対者だといっても一人では喜びを感じることができず、仮にうれしいと思っても喜びの刺激を感じることができないので創造されたのです。絶対者がいくら、「私は絶対者だ。私は愛の主人公だ。生命の主人公だ」と言ったとしても、絶対者一人では愛の刺激を感じることができませんし、天地が私の体の中にあるという生命の刺激を感じることができないのです。
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神様が自分自身だけを考えたとするなら天地創造をされたでしょうか。創造とは、力の投入をいうのです。芸術家は、最高の傑作品をつくることが願いです。芸術家は、傑作品をつくるためにあらゆる精誠を投入します。すべてを投入するところにおいてのみ完全な傑作品が出てきます。これ以上できないという時に、初めて傑作品が生まれます。
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創造は、投入するところから始まります。力を投入してこそ創造が可能です。力を投入しなくてはいかなるものも生まれません。完全な投入をするところから完全な対象が成立するという原則をおいて見る時、神様は主体として対象を造るために完全に投入されました。神様御自身が、自分自身のためにではなく、対象のために生きるといって運動を始めたのが創造です。
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創造するということは、力の投入をいうのです。投入をしたのですが、どれほど投入したのでしょうか。神様がみ言によって造られる時、「このようになれ、あのようになれ」といたずらに創造したかのように理解しています。違います。そうではありません。ここには真の生命を完全に投入して、真の愛を完全に投入して、真の理想を完全に投入しました。私たちも精誠を尽くさず、血と肉を投入しないものは愛しません。
それゆえに、創造する前と創造したあとが違います。創造する前には自分のことを考えましたが、創造を始めてからは対象のために生きました。私がいるのは自分のためではなく相対のためだ、息子、娘のためだ、このようになっています。
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神様が人間を創造される時、自分よりももっと立派な愛の相対を造ろうとされたので、神様のすべての要素、見えない無形の要素を一〇〇パーセント実体化させるために投入しても、もっと投入しようとされたのです。そのことが意味するのは、投入して忘れてしまうことができるその場においてのみ、真の愛の起源を発見することができるというのです。簡単な内容です。正にこれが、宇宙の根本原理です。
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愛を占領しようとするなら、投入して忘れ、投入して忘れてしまわなければなりません。なぜそのような愛をもたなければならないのですか。愛は、動けば動くほど小さくなるのではなく、大きくなっていくものだからです。力学世界での自然現象は、動けば動くほど、作用すれば作用するほど小さくなるでしょう? 自然世界は、動けば動くほど小さくなるのですが、真の愛の世界は、動けば動くほど大きくなっていきます。神様がそれを御存じだったので、真の愛を中心として創造を始めることができたのです。
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