文鮮明先生御言葉選集 7 - 9. 二つの世界を扱っている私 (1959年9月20日)
二つの世界を扱っている私
1959年9月20日(日)、元本部教会。
ローマ 7:15-25
1
<祈り>
お父様! 人生が行かなければならない道を私たちはしっかり歩かなければならないことを知りながらも、その行くべき道を知らないまま歩いている自分であることをこの時間悟らせてください。
体を中心に生きる人もいて、心を中心にして生きる人もいて、さらに進んでは身体でもいいし、心でもない天を中心に生きる人々もいることを知っています。今日この時間参謀した私たちはどの類に属しているかを明らかにしなければならないことをもう一度感じさせてください。
私が極めて大切で、万事の喜びと悲しみを解決できる中心体にならなければならないということも心の中では感じています。 「私」を回復するために、これまで勇敢に来てくれて戦ってきたさおな、まだこの戦いが終わらず、今日この時間もまた一生を歩いて戦わなければならない運命に瀕している自分であることを知らせてください。
お父様! 穏やかな中で私たちを見つけてください。お父様! 私たちに命じてください。あなたの声に魅了されるその瞬間、あなたと同行するその瞬間、あなたと一緒に楽しむことができるその瞬間を探していくことが人生の中心であり目的であることを知らせてください。歴史の路線で、あなたが私たち一人一人と楽しむことができ、私たちと楽しむことができます。
2
お父様、私を回復するためにひざまずいて双樹を合唱して天城門の前にこぼれた私たち、ほのかなお父様の心情に染み込める姿になってくださり、お父様が自分も知らないうちに私の手を握って「あ!愛する私の息子娘よ」とし、勧告できるこの時間になるように許してくださるようにお父様、切に願って来てほしいと思います。
世界で信じて生きるすべてはしばらくの間、心を信じて戦い、心を中心に歌い、心でお父様を結びつけて考えるその世界は、無限のムグンであることを私たちが感じています。わたしを立てて誇れる価値の姿を、いつの間に終結するのかと尋ねられる時、自分がいない私自身になる割振台の空はどれほど悲しいでしょうか。
この天地万物満像の前に、天の地の前に自分の姿を表すことができない凄惨な姿が来ます。これまで目的もなく感じもなく生きてきた過去を清算し、私たちの心が父の心と付き合うことができ、お父様の心情と私たちの心情が通じるこの時間になるように許してくださるように、お父様、切に願っております。
世の中で感じて生きる体験はみんなあるし、お父様を中心として感じ、生活した体験がなく、これを望んでいた私たちだったので、お父様の場中に移して再創造の歴史を起こしてくださるのを、愛するお父様、切に願っております。
みことばを通さなければ事情を知ることができないのです。ハオニ事情を通して心情を起こすことができる一つの御言葉を許してくださり、その御言葉を通して心情がひとつに導いてくださるように、愛するお父様、切に願っております。
3
穏やかな中、お父様が歌うほのかな声を聞いて楽しくて崇拝することができるこの時間が戻ってきて、みことばを聞いて心情が湧き上がるこの時間になることを許してくださるように願います。
この日、本当に空を扱う各所ごとにお父様の手先を一緒にいただき、さらに地方に広くお父様の前に崇拝する寂しい家族たちもいるので、全ての方に手を差し伸べてください。
最初の時間から終わりの時間までお父様に委ねますので、親しく主管してくださり、伝える者の心と受け手の心が一つになるように許してください。
天が動することに私たちが動いて、天が靜することに私たちが定めるこの時間になるように許してくださるように願いながら、すべての御言葉を主の名で惜しました。アーメン。
<御言葉>
地上の人間がどれほど喜びと幸福を享受しながら生きているとしても、その中には心が喜び、心が楽しみ、心が幸福だと言える立場で生きた人がいないということを、私たちは知っています。
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このように私の心が喜びと幸福を感じることができないために、私を導いている天や、あるいは何らかの天倫といった主体的な存在もまた、喜びと幸福を感じることができないと断定することができるのです。
私たち一人ひとりが、自分を中心に据えてこの世で生きているのだと考えているならば、それは大きな誤解です。私たちの心は、生きる目的を追求し、理念としては生きたいと願う何らかの目的地を追求していることを、私たちは生活を通じてはっきりと知っています。
こうしてみると、「私」という一つの存在は、他の何らかの目的の世界と関わりを持っているという事実を否定することはできません。したがって、この「私」は、自らの目的のために、自分自身のために生きるのではなく、何らかの別の目的のために生まれ、生きなければならないということを、はっきりと理解するべきです。
このような理由から、私一人を見たとき、それが小さいといえば極めて小さい存在であり、大きいといえば極めて大きな存在なのです。そのような関連性を持って歴史が織り成されてきたことを、私たちは知っています。
この「私」が感じる感情、この「私」が観察する世界観、そしてこの「私」が営んでいるすべての社会生活には、対応するものと相反する現象が存在しており、これを私たちは無視することはできません。
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つまり、何らかの目的のために生きる中でも、相克的であり対立する側面がある一方で、それに対応しながら生きている側面も存在することを否定することはできないでしょう。それこそが社会の現象であり、今日の世界的な潮流であり、天の何らかの摂理の現象であると見ることができます。
天倫と天的な世界観を分析するとき、それは私の観念によって感じるものではなく、また、私一人の考えによって動くものでもなく、私の観念を超えたところで、細部にわたり私を明示してくれる何らかの別の存在があるということを、私たちは否定することはできないのです。
このような観点から見れば、私が立っているこの場所、私がとどまっているこの立場は、単に一つの世界に限定されたものではなく、二つの世界にまたがる位置にあるということを、はっきりと理解する必要があります。
心が願う世界と身体が求める世界、この二つの世界が私の中で展開されているのです。したがって、私の心は喜びと幸福、そして何らかの理念を求める欲望を持っている一方で、私の身体は五感を通じて実体的に感じられる快楽や触感を求めるという事実を、否定することはできないのです。
私たちはよく、人には心があると言います。人心があると言います。さらに進んで、天心があるとも言います。
6
人心と天心に対応し、天倫の法則とその秩序を持って自らの生活を明らかにする人間でなければなりません。しかし、人心と天心が調和する生活の基準を明確にする秩序を持つことができませんでした。これこそが堕落であり、嘆きの源なのです。
人心を離れ、さらにそこに天や善なる良心を背くことを、私たちはしばしば「悪心」あるいは「物心」と呼びます。
私という存在を見つめるとき、心を中心にすれば天心が私に入り、また身体を中心にすれば悪心が私に染み込んでくるのです。古今東西のすべての聖人・賢人たちは、この葛藤の中にある自分を見て嘆いたという事実を否定することはできません。
パウロもまた、心の法と身体の法が争う中にいたため、「ああ、私はなんと惨めな人間なのか!」(ローマ7:24)と叫びました。
それでは、これまで私たちが楽しみながら生き、そしてこれからも生きようとしているこの世界は、一体どのような世界でしょうか?
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私の心と身体が共に楽しみながら生きられる世界ではなく、私の心の理念と調和できる世界でもないということを、皆さんは否定することはできないでしょう。そうした環境の中で、苦悩し、もがき続ける私たち自身がいます。
このことを考えてみると、本来、天心が人心を動かすべき原則があるにもかかわらず、今日に至るまで、この天心が私たちの真の人心と一体となって生活の中に現れたり、私たちの人生の道のりの中で喜びとして表れた瞬間が、一度たりともなかったと断言することができます。
もし天が存在するとするならば、私たちの心を中心にして、ただ一日だけ生きたいと願うでしょうか? 私たちの心を中心にして、永遠にともに生きたいと願うはずです。しかし、現実には心と体が争うこの混乱の中に置かれているのが、まさに私自身なのです。
このような心を中心に据えて、天が共に生きることができるのかと問うならば、それは不可能だという結論に至ります。
天は善です。善は永遠であり、唯一であり、不変です。しかし、私たちは不変であり、唯一であり、永遠なる生活観念を持つことができなかったため、善に向かって進んでいこうとする心に、絶え間なく入り込むことができないのです。
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このため、天は私たちの良心を通じて作用することはできても、私たちの生活観や人生観には直接作用することができません。宇宙的な理念のもとで人間を導くことができなかったために、これまでの歴史は悪によって支配されてきたのです。したがって、この世界は天倫と永遠の関係を結ぶことができる世界だと断定することはできません。
このような理由から、この世は裁きを受けなければなりません。そして、この世に生きる人間もまた、裁きを受けるべきなのです。人心を超えて天心を求めて進んでいく運動があります。それは何か? それが 宗教 です。宗教こそが、この天心をつかもうと努力し続けてきたのです。
人類の文化史において、宗教は偉大な功績を築いてきました。人々の良心を刺激し、天心へと向かわせる運動を起こし、新たな革命、新たな歴史を展開してきたのです。しかし、人心を中心にして悪心と物心が結びつき、天心を抑えつけようとすると、それが堕落し、破壊されてきました。このような歴史的事実を、私たちは否定することはできません。
だからこそ、「人は良心的に生きなければならない」という普遍的な言葉があります。しかし、それだけで万事が解決するのでしょうか? たとえ良心的に生きたとしても、その良心を基盤として、宇宙全体とともに楽しんで生きることができず、もし天が存在するならば、その天とともに楽しんで生きることができなかったとするならば、それは改めるべき自分自身の問題であることを知らなければなりません。そうではありませんか?
もし皆さんが本当に良心的な生活をするならば、皆さんの心を揺り動かす現象が起こるはずです。
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人間には良心が備わっています。しかし、その良心と天倫の目的を共に楽しむことのできる立場にはいません。堕落の運命を持つ人間は、本来、天倫の目的を目指して生きるべきという願いを抱いています。しかし、堕落によって良心の目的と自由を失ってしまったのです。すなわち、良心に基づく生活の目的と自由を失ってしまったことこそが、嘆かわしく、悲しむべきことであるということを、皆さんは知らなければなりません。
もし人類の始祖が、どのような形であれ、善なる目的を中心として、その善なる場において生活し、楽しむことのできる基盤を築いていたならば、私たち子孫もまた、自らの心と天の心が共に楽しめる体験をすることができたでしょう。
しかし、人間は堕落したことによって、心の目的、生活の目的と縁を結ぶことができませんでした。そして堕落とは、まさにその「縁を断たれた」ことに他なりません。では、人間は何を中心にして堕落したのでしょうか? それは 身体を中心にして堕落した ということです。
そのために、皆さん一人ひとりの中で 心と身体が争い を繰り広げているのです。この苦悩の立場に立たされているのが、まさに皆さん自身なのです。
もし本当に「真の心」が皆さんの中にあるのならば、この問題を解決するための 一瞬 でも存在しなければならないはずです。しかし、皆さんはこれまでの歴史と何らかの縁を結んだことがありますか?
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一年、あるいは何十年、または生涯の中で、そのような歴史と関係を結んだことがありますか? もしそうでないならば、皆さん自身は 天心に反逆する立場 に立っているということなのです。
この天心を断ち切り、身体が楽しむ方向 へと堕落していくならば、当然のことながら、人間は 自滅 してしまうのです。そのため、この世界には、身体が楽しめる方向 に理念を求めていく主義と、心が楽しめる方向 に理念を求めていく主義が存在しています。
人間は 極めて小さな存在 ではありますが、同時に 小宇宙 でもあります。そのため、人間の心の中で繰り広げられる戦いの現象も 世界規模の形態 を持っているのです。この問題を解決するための方法が生み出されなければなりませんが、いまだにその答えは見つかっていません。
さらに、個人を超えて、民族・国家・世界とともにこの問題を解決できる 一つの模範 も、いまだに現れていないのです。
私という存在を中心にして、世界がひっくり返るように押し寄せてくるため、心と体の争いが続いていくのです。この 心と体の戦い において、心を中心として勝利の凱歌を上げることができなかった者 は、決して 天の国の民 となることはできません。
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世界を征服しようという野望を抱く者は、この世界と共に 審判を受ける ことになります。また、自らの理念を中心にして この地を支配しようとする者 は、この地と共に 滅びる ことになります。しかし、天の理念をつかみ、それを探し求め続ける者は、生き残る ことになるのです。
心の世界は不変の姿を持っており、心の世界は唯一性を持っているため、無限の世界と連結することができます。この 心だけが天心とつながることのできる基盤 となるため、それをしっかりと握りしめて生きる人は、必ず 審判の日を逃れることができる ということを、私たちは知るべきです。
イエスは言いました。「天国はあなたの心の中にある。」この 天国は無限 です。もし天倫、または天心が存在するならば、それを自らの 良心の中に引き入れ、それを生活の原動力とし、これを中心に生活を構築できる者 は、天国を築く王子となる でしょう。
天は審判の日を待っています。
審判のその日を心待ちにしています。
宇宙を裁くその日を待っているのです。
歴史的な審判もなされてきました。そして、この瞬間、あなた自身も審判を受けている ということを知るべきです。
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終末に直面する聖徒たちは、大審判の日を恐れています。
では、大審判を 逃れることができる者 とは どのような者 でしょうか?
それは 個人の戦いにおいて、その戦いを解決し、勝利の旗を掲げて進み出る者 なのです。
しかし、人々はまだ気づいていません。
家庭においても同様の戦いがあり、民族においても戦いがあり、世界全体においてもこのような戦いが繰り広げられている ということを。
では、なぜこのようなことが起こるのか?
天心と悪心がぶつかり、決着をつけることができる時だから である。
それゆえに、私たちは大審判の権限を持つことを願って進んできたのであり、敵に対して堂々と審判の代行者となることを待ち望んでいるのである。
そのような人間になるためには、自分自身を征服することができる者にならなければならない。
心を中心に据え、身体を完全に征服しなければならない。
二度と心に逆らう動きが起こらないように、そのような要素を完全に滅ぼさなければならない。
信仰的な理念をもって身体を抑え込むことができなければ、審判の代行者にはなれない。
個人の審判で勝利する者は、家庭を審判することができ、家庭の審判で勝利する者は、社会を審判することができ、社会の審判で勝利する者は、国家を審判することができ、国家の審判で勝利する者は、世界を審判することができ、世界の審判で勝利する者は、天宙を審判することができる。
そのような権限があるのである。
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私という存在を見たとき、この「私」は二つの世界の中間に位置している。心を中心にすれば、天国は心の上側を占領しており、その下側には地獄が占領しているため、この二つの世界が私の心の中で平行を成しているのである。すなわち、目に見えない霊的な心の世界において、心の平行線の上には天国があり、その下には地獄があるのである。
皆さん、終末に近づけば近づくほど、ある人は恐怖に囚われる一方で、別の人は喜びに満たされるようになります。このような動きが現れるのは、必然的な現象 なのです。極めて悪しき人間ばかりがいると思いきや、極めて善なる人もいる ということです。
極めて善なる人のもとには、極めて悪しきものが侵入することはできず、極めて悪しき人のもとには、極めて善なるものが関与することはできません。この社会は、神でさえも取り戻すことができない状態 なのです。どれほど霊的な人物であろうと、どれほど天からの賜物を持つ者であろうと、この二つを統合しようとしても、統合できない時がやってきます。
その時が訪れれば、極めて悪しき世界に生きている者、天と縁を結ぶことができなかった者たちは、ことごとく裁きの場に引き出されるのです。このような現象が、皆さんの心の中で現れる時がやってきます。心はこう進みたいと願うのに、体は別の方向へ進もうとする。この 心と体を結びつける条件を持たず、苦しみもがく者は、間違いなく地獄へと向かうのです。
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では、天国へ行くのか地獄へ行くのか、それはどこで決定されるのか? それは「私自身」によって決定されるのです。 五感を通して感じる生活の中で、良心の呵責を受ける生き方をしている者は、すでに地獄にいるのです。心を中心にして、心が喜べる生活をしている者は、すでに天国にいるのです。
したがって、人は 物欲や悪しき心を捨て、良心を中心にして天倫を仰ぐことが最も正しい道であるのです。これは 皆さんもよく知っていること なのです。
歴史というものは、喜びの日から始まったのではなく、悲しみの日から始まりました。悲しみで始まったのだから、悲しみで終わり、苦痛で始まったのだから、苦痛で終わり、絶望で始まったのだから、絶望で終わる時が来るのです。穀物は蒔いた種の通りに収穫されるものです。
天心を背いた私たちの先祖は、良心の道理と天心の法則を破り、堕落して無限の悲しみを抱えることとなりました。このようにして堕落したため、この世界は 心が喜びを享受できる内容を持つことができなかった のです。
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だからこそ、道の生活を歩もうとするならば、このすべてを打ち砕かなければなりません。このような戦いが 皆さん自身の中で起こっている ということを、はっきりと知らなければなりません。どのような行動も、その行動が善であるのか悪であるのかによって必ず決定される のです。
私が手を動かすその一つの動作、見ること、聞くこと、嗅ぐことなど、私たちのすべての感覚を通じて入ってくるものが、善を基準としているのか、それとも悪を基準としているのか、その価値を決定する歩みを、私たちは今日の生活の中で続けているのです。
道の道を歩む人もまた、自らの五感の感情世界まで、このような観念、善悪の基準が徹底して確立されていない限り、それを識別することはできません。
この世界は、まさにそのような戦いを続けています。悪が先に立ち、善なるものを打とうとする のがこの世界の戦いです。しかし、悪は長く続くことはできません。悪は長く続かず、善は長く続くものなのです。
長い歴史の過程において、この闘争は 個人から家庭へ、家庭から民族へ、民族から国家へ、国家から世界へ、そして天宙へと次第に拡大され、ついには世界的な理念時代へと接している のです。たとえ 世界主義時代が訪れたとしても、個人は個人 です。しかし、この 歴史の流れは、範囲を広げながら進んでいる のです。
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昔も今も、良心的に生きた人の立場は変わらないが、それが関わる範囲は広がってきています。昔は 個人を中心とした生活 で満足していましたが、それでよいのでしょうか? 決してそうではありません。
では、家庭を中心とすればよいのか? それも違います。 社会を中心とすればよいのか? それも違います。国家を中心とすればよいのか? それも違います。世界を中心とすればよいのか? それも違います。
天と地を中心とした生活形態こそが、正しい生き方なのです。
歴史の潮流やその形態、範囲は広がり続けていますが、心の基準だけは決して変わることがありません。この 心の基準を中心として、天倫の方向と完全に一致させて進むならば、歴史のすべては天倫の支配下にあるため、心が目指すべき目標や方向を失うことはありません。
だからこそ、「良心的に生きよ、良心的に生きれば祝福を受ける」と言われてきたのです。しかし、審判の日が私たちの前に迫っていることを知るならば、ただ祝福を受けるということは、必ずしも保証されるものではありません。一時的に祝福を受けたように見えても、その時が訪れれば、裁きを受けることになり、結果として祝福とはならないのです。
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地上での祝福が最終的なものではありません。真の祝福は、その時が来たときに受けるものなのです。その時に 生き残った者が祝福の基台を築くことになるため、良心的に生きれば祝福を受けると言われてきたのです。
このように考えなければなりません。
今日の時代は終末の時です。私たちが「終末」と呼んでいるこの時代は、世界主義の時代へと突入しています。この世界から離れていくのではありません。もし天心(天の心)があるならば、天心を中心とする天宙主義の時代へと進んでいくのです。
では、私たちの心はどこを目指すべきでしょうか? 自己を中心にした時代はすでに過ぎ去りました。家庭を中心にした時代も過ぎ去りました。社会を、民族を中心とした時代も過ぎ去りました。国家を中心とした時代も過ぎ去りました。今や、世界主義の時代が到来しようとしています。ある理念のもとで世界を支えなければならない段階に私たちは入ったのです。
人間には、外へ向かう道と内へ向かう道、この二つの道があります。私自身は、この二つの道に対峙する中心に立っています。この二つの道を内外から統合し、一つの道として進んでいくべき時がやってきます。その道が現れる時こそ、私たちが待ち望んでいた理念の時代なのです。
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今こそ、天心が求める個人を見つけなければなりません。天心が求める家庭を見つけなければなりません。天心が求める民族、国家、世界、そして天宙を見つけなければならないのです。それを知らない限り、皆さんは歴史上の偉人や聖人たちの歩みを繰り返すに過ぎないのです。
だからこそ、人心の方向を天心へと高めていき、肉体の方向も天心へと向けていき、物質世界もまた天心へと接近しつつあるのです。それらが内外から互いに動きながら接近し、衝突する時がやってきます。
では、何を中心として衝突するのでしょうか? それは「この地」を中心として衝突するのです。そして次に、「人間」を中心として衝突が起こるのです。
戦いの路程において、外的な世界理念を排除し、内的な世界理念を創設するために、歴史はひっくり返るように動き続けてきました。その心情を中心に据え、左右に分かれながら混乱し続けているのが 今日の現象 です。このような現象は 皆さん自身の中でも起こっており、世界的にも起こっている ということは、疑いようのない事実 なのです。
もし神が存在し、人間を対象として摂理を進めてこられたのならば、神がこの世界主義の時代まで導くために、どれほど苦労されてきたのかを皆さんは知らなければなりません。よく考えてみてください。心と体が向き合う時、体が心に服従するのではなく、心が体に服従してしまうのが私自身であり、また私たちの祖先であったのです。
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このような祖先たちが 心を基盤として、個人を超え、民族を超え、国家を超えて、最終的に世界主義へと導くために、天がどれほど苦労されたのかを考えなければなりません。
私たちが 歴史書を読むとき、その中に「天がどれほど苦労された戦いの歴史があったのか」 を感じながら読めなければなりません。皆さんは、そのようなことを 感じたことがありますか?
「天よ、私のこの苦しみを取り去ってください。」と祈る人は、決して栄光の国へ行くことはできません。家庭を中心にして、民族を中心にして、国家を中心にして、「父よ、祝福を与えてください」と祈る人は、その時代までしか生き残ることができません。
民族主義は、世界主義が到来すれば崩壊するでしょう。そして、世界主義もまた、天心を中心とする天宙主義が到来すれば崩壊するのです。
大いなる目的、究極の目的に向かって摂理を進めてこられたのが天であるがゆえに、私たちも最高の目標が成し遂げられる時を見据え、その時に備えなければなりません。そのために、「終末が来る」と言われてきたのです。
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では、終末とはどのような日なのか? 天は心であり、地は体であるため、天と地が接する時、世界主義と思想が接する時、私の体と心が接する時が終末の時なのです。
では、その時に何を歌うべきなのでしょうか? 心の生活を歌い、心を通じることのできる世界を歌わなければなりません。この天宙と共に喜びの歌を歌わなければならないのです。
しかし、その日、そのような世界はまだ地上に現れていません。
天はそのような世界に向かって動き続けています。それこそが天の最高目標であり、人類の最高目標なのです。
その日、その時に生き残ることができる私になるためには、私の体と計り知れない戦いを繰り広げなければならず、一度誓ったならば、その誓いを決して変えてはならず、一度決意したならば、その決意を決して変えてはなりません。
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そのような決意を持って前に進む人がいるならば、当然、それを打ち砕こうとするために、体が反発し、家庭が反対し、社会と国家が反発し、世界全体が反発することになるのです。そのような人に向かって、世界全体が攻撃を仕掛けてくる ということを知らなければなりません。つまり、大いなる理念を知れば知るほど、その理念に対抗する大いなる反逆者が存在するということを示しているのです。
キリスト教信者たちは「天性を目指して進んでいる」と言い、「天国を探し求めている」と自負しています。しかし、大いなる目的、大いなる理念に向かって進む者には、それに対抗する大いなる敵が存在する ということを忘れてしまいました。皆さんは、大いなる敵が存在することを肝に銘じなければなりません。
では、その敵の最終的な目標はどこにあるのか? それは 「私の体」 なのです。敵の標的は、私の肉体なのです。私の体には、生活的な脅威、社会的な脅威、国家的な脅威、あるいは天地の脅威 が押し寄せてきます。
パウロもそのような生活を経験しました。彼が 同胞の前に立てば、同胞の敵となり、異邦の地へ行けば、異邦の敵となり、教団の前に立てば、教団の敵となったのです。
22
今日、キリスト教であれ、その他の宗教であれ、どのような宗教であっても、最終的には審判を受けなければならないということです。それらの宗教が そのままの形で終末を超えていくことはできません。したがって、徹底的に自らを解明しなければならないのです。
心を中心にして個体を求める路程においても、世界的な意義と結びついているため、世界的な苦難が押し寄せてくるのです。終末が近づけば近づくほど、世界的な恐怖は一方向からではなく、四方八方から押し寄せてきます。
そのため、終末が来れば来るほど、良心的な人々は恐怖の波に巻き込まれていくという事実を、皆さんは聞いたり見たりしてよく知っているはずです。
だからこそ、良心的な人々や芸術的な人々、特に文学に関わる人々は、自らの意思で自由に生きることができない恐怖の流れに巻き込まれていく時代がやってくるのです。実際に、今の時代がそのようになっているのです。その結果として、不安障害やパニック症などの症状が現れているのです。
今日、この終末の時に立たされている私たちは、過去とは異なる立場にいるのです。今は世界主義の時代であり、すべてを世界的な視野で考えなければなりません。したがって、すべてを天心とともに背負い、外的な分野を打破して分離し、「父よ!私は勝利しました!」と言える一人の人間が現れなければならないのです。
そうではありませんか?
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天は、そのような一人を生み出そうとしており、サタンは天の行おうとするその行動を妨害しようとしているのです。この世界は天の世界ではなく、悪の主権のもとにある世界です。したがって、そのような存在がこの悪の主権世界に現れるならば、全世界が反旗を翻し、反抗することは避けられません。
しかし、その 一人の存在を攻撃しようとすれば、逆に自らが崩れ落ちることになるのです。個人が反対すれば、その個人が屈服し、家庭が反対すれば、その家庭が屈服し、社会が反対すれば、その社会が屈服するのです。さらに、国家や世界が反対しても、最終的には国家や世界が屈服する日が来る ということを、皆さんは知らなければなりません。
このように見たとき、極めて小さな個体を全世界に展開した形が歴史の動きであるという事実を、理解しなければなりません。
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今日の人間は、出発の時点からすでに喜びというものを味わうことができませんでした。この地上を中心として幸福を歌うことができませんでした。
太古の昔から今日に至るまで、6000年の長きにわたる歴史の中で、良心的な人間が天地を前に誇りを持ったことが一度でもあったでしょうか? そのようなことがあったでしょうか?
良心的な人ほど、苦しい生活を送り、虐げられ、裂かれ、殺され、踏みにじられる哀れな人生を歩んできました。 しかし、彼らがそのような苦難の中でも希望を持ち続けたものは何だったのか? それは、良心を中心にして永遠に喜ぶことのできる「その一日」、その「たった一日」を待ち望んでいたのです。
このようにして、私たちの祖先は血の祭壇を築いてきました。 倒れてもまた立ち上がりました。個人が倒れれば、個人を結集して民族へとつなげ、民族が倒れれば、民族を結集して世界へと広げてきたのです。
これこそが、神の摂理の歴史 でした。
25
見てください。アダムが堕落したとき、神は カインとアベル を中心にして新たに摂理を進められました。カインとアベルが崩れたとき、ノアの家庭 を中心にして摂理を進められました。さらに、アブラハム、イサク、ヤコブの三代を経て、ヤコブの家庭を中心に摂理が展開されたのです。
こうして、家庭を単位として世界的な民族へと歩みを進めたものが、イスラエル民族のエジプト苦役の歴史でした。イスラエル民族の代表者であるモーセが、その民族をまとめ、国家を回復するために、敵の地エジプトを離れ、カナンへ向かって進軍したのです。
個人は家庭を見つけるために戦わなければならず、家庭を見つけたならば、その家庭は民族を見つけるために戦い、民族を見つけたならば、その民族は国家を見つけるために戦い、国家を見つけたならば、その国家は世界を見つけるために戦い続けるのです。
このようにして、次第にその範囲は広がっていくのです。
個人が「勝利の基準」を立てることは決して簡単なことではありません。歴史的な個人となるためには、歴史的な非難と苦痛の中で勝利しなければならないのです。
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ノアを見てください。
彼は120年間、今日の私たちが受ける以上の迫害を受けました。ノアが「人間ノア」として神の前に立つためには、120年という歳月を費やさなければならなかったのです。
ヤコブもまた同じでした。
ヤコブが祝福を成し遂げるまでの21年間、彼は苦難の中で戦い続けました。その戦いの中で、彼には友も一人もおらず、兄弟もおらず、両親もいませんでした。ただ一人で家庭を築いたのです。
そして、その家庭を基盤として民族を探し求める歩みが、エジプトへ入る路程であったのです。エジプトでの400年、それは民族が結集される期間でした。モーセが民族の代表として立ったとき、彼は民族を基盤として国家的な基盤を築かなければならなかったのです。
では、イエスとはどのような方だったのでしょうか? イエスは国家的な基盤を土台として、世界を探し求めるべき方でした。その使命を持って来られたにもかかわらず、国家と民族が彼を裏切ったため、イエスは十字架にかかられることになったのです。
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したがって、再び個人から始まり、家庭を経て、民族を経て、国家を経て、世界的な次元にまで進まなければならないということを、皆さんは知らなければなりません。
死にゆくイエスの前で、イスラエルは敵となりました。4000年間、神が苦労して選ばれたユダヤ教徒たちもまた、敵となったのです。本来、民族を基盤として世界を復帰し、世界的なカナンの地を復帰しなければならない責任があったにもかかわらず、民族の基盤が崩れたことで、4000年の歴史そのものが崩れてしまいました。
しかし、今日、全世界にキリスト教徒がどれほど多くいたとしても、イエスを中心とする家庭は存在していません。
ありますか?
イエス自身も、新郎新婦の位置を経て家庭を持つ時を迎えることができませんでした。では、この新郎新婦とは何を意味するのでしょうか? それは、天の前に立つことのできる「家庭的な第二の基準」です。
28
アダムとエバが堕落したことによって、家庭的な基準を確立することができなかったため、これを回復するための「第二の家庭的基準」が必要だったのです。その基盤の上で、イエスは天国の「家長」とならなければなりませんでした。
では、地上においてイエスは家長となられたでしょうか? 地上で最も重要な目的は、家長となることです。家長がいなければ、子供が生まれることはなく、子供がいなければ民が存在することはなく、民がいなければ民族や国家が存在することもありません。
今こそ、全世界のキリスト教徒たちは目を覚まさなければならない時です。世界のキリスト教徒たちは、どの国の民でもなく、どの民族、どの部族にも属していません。イエスが一つの家庭の家長となるためには、十二使徒たちが一つになり、イエスが地上で家庭を築くことのできる土台を準備しなければなりませんでした。
しかし、それを成し遂げることができませんでした。 そのために、世界的な救済の摂理を終結させることができなかったのです。
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その結果、2千年間、イエスと聖霊は血と涙の試練を乗り越えてこられました。その目的はどこにあったのでしょうか? それは、「第一の基準」である家庭の基準を取り戻すことにありました。
新たなイスラエル、新たなヤコブの家庭を探し求め、その家庭的基準を民族的基準へと拡大し、民族的基準を国家的基準へ、国家的基準を世界的基準へと確立し、この世界を基盤として天国革命を起こし、天上に存在する地獄の世界までも解放しなければならないのです。
これこそが「再臨思想」です。
再臨主は、単に栄光を享受するために来られるのではありません。世界を基盤として、霊界に存在する地獄までも完全に滅ぼし、天宙的な天国を実現する使命を持って来られるのです。この使命が完遂されてこそ、神もようやく安息されるのです。
30
私たちには心があるにもかかわらず、その心の方向を知りません。混乱した主義や思想に縛られ、どちらへ行くべきか分からず、方向を見失っています。生活の中で生じる偏見によって、私たちの心は流されるままになってしまいました。
そのため、何が真実であり、何が正しいのかを見極めることができません。心の方向は本来、一つの起点から出発したはずなのに、最後には分かれてしまうのです。出発は正常であったとしても、最終的には分裂するのです。分裂するということは、折れ曲がることを意味します。
こうして、歴史は今に至るまで進んできたのです。
今日、民主主義と共産主義が対立し、戦いを繰り広げていますが、この主義だけでは世界を解決することはできません。私たちが心の方向を見つけられないのと同じように、今日の世界もまた方向を失っています。これが現在の世界の流れなのです。
そうではありませんか?
では、皆さん自身が「心の方向を決定する瞬間」とはどのような瞬間でしょうか? それは、心が天心とつながり、永遠に喜ぶことのできる縁を結ぶ瞬間です。
31
神が人間に心を与えた目的は何でしょうか? それは、神と人間が心を通じて一つとなり、共に喜びを分かち合うためです。この目的のために神は人間を創造されたのです。
方向が定まっていない私たちの心の基盤の上に、否定しようとしても否定できない、心に染み込む喜び――これが必要なのです。否定しようとしても否定できない、心の奥底から感じられる幸福感――これがまず成し遂げられてこそ、世界の幸福が実現するのです。
身体には限界があります。しかし、心には終わりがありません。したがって、心の世界には特定の枠組みがありません。宇宙観や何かしらの枠組みを超越しています。さらに、心よりもさらに大きなものが「心情の世界」です。心情の世界もまた、制約を受けることがありません。
心の世界は制約を受けることがあります。心は相対的な条件によって制約を受けますが、心情の世界は、誰にも制約されることがありません。
32
親が子を愛する心を何が制約できるでしょうか? どれほど高い山のような障壁が前を塞ごうとも、その愛を止めることはできません。
心の世界は制約を受けることがあります。なぜなら、心の世界は相対的な立場にあるからです。しかし、心情の世界は主体的な立場にあります。
心は四方八方に広がるため、制約を受けます。しかし、心情の世界はそうではありません。
では、天の希望とは何でしょうか? 終末にイエスが来られるならば、このように語られるでしょう。
「天国はあなたの心の中にあり、天国はあなたの心情から成し遂げられる。」
「心の中にある。」だけで十分でしょうか?「心情から成し遂げられる。」と結論づけなければなりません。
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皆さんが不幸を感じるのはなぜでしょうか? それは、心の中心と調和できる立場に立てていないからです。
どれほど外的な苦難が多くても、心と調和し、喜ぶことのできる立場にあるならば、その人は幸福な人です。
では、なぜ不幸を感じるのでしょうか? それは、私の心を動かすことのできる「不変の心情の中心」を持っていないからです。その原因は、まさにそこにあるのです。
皆さん、世のものをつかみ、それを喜んでみてください。いつか必ず終わりが来ます。どれほど心が良く、どれほど心情が良かったとしても、それは必ず終わる運命にあります。
心に明確な中心がない限り、そこには悲しみの感情と喜びの感情が混在します。また、身体を中心にしても、明確な中心がない限り、身体が楽しめる感情があると同時に、悲しむ感情もあります。このように、すべては相対的に成り立っています。
私たちは、心が悲しみに満ちた人生の道は歩んできましたが、心が真に楽しめる人生の道を歩んだことはありません。そのような人生の道を見つけることができない堕落した人間は、哀れな人間であり、呪われるべき人間であり、審判を受けるべき人間であることを、はっきりと知らなければなりません。
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では、今こそ私たちは、この道を見つけるべき時です。天の目的が終末において人間を審判し、滅ぼすことにあるのではないとするならば、私たちは「本郷の主人」「本郷の家庭」「本郷の社会」「本郷の国家」「本郷の世界」「本郷の天宙」を持たなければならないのです。
もし、それを持つことができなければ、神は審判を下されるのです。
私たちが世の中を見渡すとき、身体を中心とした個人、身体を中心とした家庭、身体を中心とした社会、国家、世界はすべて存在しています。しかし、私たちの心はそこに満足を感じることができません。
心が求める世界、心が永遠に楽しめる主人と家庭、国家、世界が必要ではありませんか? もし、それが存在しないのならば、皆さんの心がなぜそう感じるのでしょうか?
皆さんの心が善へと向かって動くのは、創造的な何らかの力を持っているからではありません。力というものは、それ単独で作用するものではありません。相対するものがなければ、力は作用しません。化学的な現象を見ても、物理的な現象を見ても、すべてがそのようになっています。
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否定できない明確な良心の作用の実態を見つめるとき、私たちは悲しみを取り除き、喜びを追い求めていることに間違いはありません。「喜ぶことのできるその時」が、人類の希望の時であり、人類の幸福の時であることを知らなければなりません。したがって、すべての問題はそこへと帰結されなければならないのです。
今日、いわゆる民主主義や共産主義が対立し、世界を支配しようとする政策を模索していますが、これではいけません。では、解決はどこでなされるべきでしょうか?
それは、堕落する前のアダムとエバの姿、すなわち、神を中心として喜び、神の声を聞きながら楽しんでいたその姿に戻ることです。
「神は私の永遠の主人であり、私の家庭の家長であり、私の民族の主であり、私の国家の主であり、私の世界の主である」と確信し、この世界の何ものとも交換することのできない、唯一絶対の私の神だと言える基準が確立されるならば、この地上に幸福の楽園が訪れるのです。
私たちの心の世界は、喜びを感じ、調和し、共鳴することはできますが、所有することはできません。互いに通じ合い、応じることはできても、それを掴み取ることはできません。
本来の愛とは、人間の愛ではなく、永遠不変なる神の愛です。神の愛に触れ、神を私の主人として迎えるその瞬間に、私は神と一つになるのです。
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神と私が共に喜びを分かち合うことのできる場に入るとき、私は世界を征服する力を持つことになるのです。私が神と共に喜ぶその場は、天上天下のすべてを所有して喜ぶこと以上の歓喜を味わう場であるのです。
もし人間がそのような体験をしたならば、この肉体の五感を通じて感じるあらゆる刺激は、もはや問題ではないのです。
では、神は私の心を中心にどのような歴史を進めてこられたのでしょうか? それは「宇宙開発の歴史」です。神は 宇宙開拓の歴史を示し、私を導いてこられた ということを、皆さんは忘れています。
では、神は どのような目標のもとで皆さんの心に命じてこられたのでしょうか? 「宇宙的な存在になりなさい。」「宇宙を抱くことのできる存在となり、宇宙のすべてを土台として成長しなさい。」
このような存在となることを求め、神は私たちを導いてこられたのです。
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だからこそ、「愛しなさい」と言われたのです。 悪しき人を愛し、善き人を愛し、万物を愛し、天地すべてを愛しなさい、と。 そうではありませんか? なんと痛快なことではないでしょうか?
しかし、人間はこの本質的な理念の内容を失ってしまいました。 今こそ、心が喜びを享受できるようにならなければなりません。心が喜ぶと同時に、身体の細胞一つ一つまで喜ぶべきであり、心が受け取ると同時に、細胞一つ一つまでそれを感じ取るべきなのです。
そして、その喜びと感覚を、自分が向き合う世界全体にまで反応させることができなければなりません。
このような内容を持ち、このような作用を生み出すことのできる人こそ、6千年間、神が探し求めてこられた人間であるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。
もし、私たちに心があるならば、その心が描く理想の人間とはどのような人でしょうか? 世界が求め、国家が求め、宇宙全体が望む人間とはどのような人でしょうか?
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それこそが、先ほど述べたような人間なのです。そのような人にとっては、たとえ征服される立場に置かれたとしても、無限に感謝することができるのです。そうではありませんか?
私が無限に犠牲を払っても、それを喜んで受け入れることができるのです。そのような人々が増えれば、地上天国は実現するのです。
神の息子・娘とは、そのような人なのです。与えても与えても、無限に与え続け、また与えたくなり、無限に犠牲を払っても、さらに犠牲を払いたくなるのです。
親の愛も同じではありませんか? しかし、神の愛は、それよりも何十倍、何百倍も大きいものなのです。
皆さんの心が求め、思い描くその世界は、まだ到来していません。心情的なその世界と、地上に生きる人間の心が結びつく「その日」が訪れなければなりません。
その日を通じて、絶対的な審判の基準が地上に立つ時、すべてが終わるのです。その心情を基盤として、審判が行われるのです。
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だからこそ、キリスト教は「心の宗教」を超えた「心情の宗教」なのです。神は「心の主人」ではなく、「心情の主人」です。
どのような悪党がいたとしても、心情を通じて湧き出る神の愛を阻むことはできません。その愛の波が押し寄せるとき、誰もがそれを喜ぶのです。サタンでさえ、悪魔でさえも、その愛を喜ぶのです。
しかし、彼らはその愛を好みながらも、それを受け取ることのできない暗黒の立場に立っているのです。人類は、この立場を自らの心によって必ず開拓しなければならない運命にあります。では、どのようにしてそれを開拓するのでしょうか?
皆さんの進むべき道はすでに明らかです。皆さんのもとには、心を通じてつながる縁があるでしょう。物質を通じてつながる縁があるでしょう。人を通じてつながる縁があるでしょう。そして、言葉を通じてつながる縁があるでしょう。
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さらに、自分でも気づかぬうちに、心情を通じてつながる縁が生じるでしょう。心はこの世のすべてを超えて、そうした縁を切望しているのです。そのような縁が、ある時、ある場所で現れることを願い、探し求め、待ち望み、求める者には、神が必ずその縁を結んでくださるということを忘れてはなりません。
道の道を歩む者は、天心に向かって進む者であるため、どんな言葉にも無関心ではいられません。敵が剣を持って私を突き刺そうとするその瞬間さえも、無視することはできません。それは、そこに何かしらの縁があると考え、それを受け入れなければならないからです。
しかし、「ああ、これは……」と躊躇する者は道を歩むことはできません。この歪んだ世界において「良いもの」として現れるものは、必ずしも天のものではありません。むしろ、この歪んだ世界に「悪いもの」を持って現れる方こそが天なのです。
このような問題までも大きな心で受け止め、縁の価値を見極め、理解することのできる人こそが、心情を開発する第一歩を踏み出すことができるのです。
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すると、周囲の人々と接したり、何かを聞いたり見たり感じたりするすべてのことが、善であるか悪であるかを、心で知ることができます。何かの言葉を聞くとき、何かの縁によって誰かと出会うとき、心が自然と引き寄せられます。どのような真理、どのような教会、どのような宗教があったとしても、考えなくても自ずと心が引き寄せられます。そうではありませんか?
心は、自然界の法則と同じです。磁石の針が常に南北を指すように、私たちの心もそうなっています。心にプラスの要素が現れると、それに対して相対的なマイナスの要素がいつもそこに引き寄せられます。
もし皆さんが信じているその宗教に、身体が引き寄せられる感覚を感じたことがないならば、真の信仰者とは言えません。その道に対して、身体が引き寄せられ、心が引き寄せられ、心情が引き寄せられることを感じられなければ、その道を信じる者とは言えません。そのような人は、いつかその道を信じられなくなるでしょう。
では、今日の全世界の人類は何を探しているのでしょうか? それは「理念」を探し求めています。では、理念は何によって解明されるべきでしょうか? それは「真理」によって解明されるべきです。 では、真理とは何でしょうか? それは「御言葉」です。
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私の心が永遠に喜び、求め続けることのできる真理は、百回聞いても、千回聞いても、新しい味わいを感じるものです。皆さん、真理の中で最も本質的な真理は「食事の味」と同じです。昨日食べても、今日食べても、70年、80年同じご飯を食べ続けても美味しいと感じるように、真理もまたそうあるべきです。
これをありがたく思わなければなりません。皆さんは「言葉」を通して、人間には二つの世界があることを知っています。
イエスは言われました。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る言葉で生きる。」したがって、身体を満たし、私の心情を満たすことのできる真理でなければなりません。そのような言葉であれば十分ではありませんか? だからこそ、皆さん、この時はじっと座っている時ではありません。方向が逆転する時が来ました。
二つの世界を扱っている私
1959年9月20日(日)、元本部教会。
ローマ 7:15-25
1
<祈り>
お父様! 人生が行かなければならない道を私たちはしっかり歩かなければならないことを知りながらも、その行くべき道を知らないまま歩いている自分であることをこの時間悟らせてください。
体を中心に生きる人もいて、心を中心にして生きる人もいて、さらに進んでは身体でもいいし、心でもない天を中心に生きる人々もいることを知っています。今日この時間参謀した私たちはどの類に属しているかを明らかにしなければならないことをもう一度感じさせてください。
私が極めて大切で、万事の喜びと悲しみを解決できる中心体にならなければならないということも心の中では感じています。 「私」を回復するために、これまで勇敢に来てくれて戦ってきたさおな、まだこの戦いが終わらず、今日この時間もまた一生を歩いて戦わなければならない運命に瀕している自分であることを知らせてください。
お父様! 穏やかな中で私たちを見つけてください。お父様! 私たちに命じてください。あなたの声に魅了されるその瞬間、あなたと同行するその瞬間、あなたと一緒に楽しむことができるその瞬間を探していくことが人生の中心であり目的であることを知らせてください。歴史の路線で、あなたが私たち一人一人と楽しむことができ、私たちと楽しむことができます。
2
お父様、私を回復するためにひざまずいて双樹を合唱して天城門の前にこぼれた私たち、ほのかなお父様の心情に染み込める姿になってくださり、お父様が自分も知らないうちに私の手を握って「あ!愛する私の息子娘よ」とし、勧告できるこの時間になるように許してくださるようにお父様、切に願って来てほしいと思います。
世界で信じて生きるすべてはしばらくの間、心を信じて戦い、心を中心に歌い、心でお父様を結びつけて考えるその世界は、無限のムグンであることを私たちが感じています。わたしを立てて誇れる価値の姿を、いつの間に終結するのかと尋ねられる時、自分がいない私自身になる割振台の空はどれほど悲しいでしょうか。
この天地万物満像の前に、天の地の前に自分の姿を表すことができない凄惨な姿が来ます。これまで目的もなく感じもなく生きてきた過去を清算し、私たちの心が父の心と付き合うことができ、お父様の心情と私たちの心情が通じるこの時間になるように許してくださるように、お父様、切に願っております。
世の中で感じて生きる体験はみんなあるし、お父様を中心として感じ、生活した体験がなく、これを望んでいた私たちだったので、お父様の場中に移して再創造の歴史を起こしてくださるのを、愛するお父様、切に願っております。
みことばを通さなければ事情を知ることができないのです。ハオニ事情を通して心情を起こすことができる一つの御言葉を許してくださり、その御言葉を通して心情がひとつに導いてくださるように、愛するお父様、切に願っております。
3
穏やかな中、お父様が歌うほのかな声を聞いて楽しくて崇拝することができるこの時間が戻ってきて、みことばを聞いて心情が湧き上がるこの時間になることを許してくださるように願います。
この日、本当に空を扱う各所ごとにお父様の手先を一緒にいただき、さらに地方に広くお父様の前に崇拝する寂しい家族たちもいるので、全ての方に手を差し伸べてください。
最初の時間から終わりの時間までお父様に委ねますので、親しく主管してくださり、伝える者の心と受け手の心が一つになるように許してください。
天が動することに私たちが動いて、天が靜することに私たちが定めるこの時間になるように許してくださるように願いながら、すべての御言葉を主の名で惜しました。アーメン。
<御言葉>
地上の人間がどれほど喜びと幸福を享受しながら生きているとしても、その中には心が喜び、心が楽しみ、心が幸福だと言える立場で生きた人がいないということを、私たちは知っています。
4
このように私の心が喜びと幸福を感じることができないために、私を導いている天や、あるいは何らかの天倫といった主体的な存在もまた、喜びと幸福を感じることができないと断定することができるのです。
私たち一人ひとりが、自分を中心に据えてこの世で生きているのだと考えているならば、それは大きな誤解です。私たちの心は、生きる目的を追求し、理念としては生きたいと願う何らかの目的地を追求していることを、私たちは生活を通じてはっきりと知っています。
こうしてみると、「私」という一つの存在は、他の何らかの目的の世界と関わりを持っているという事実を否定することはできません。したがって、この「私」は、自らの目的のために、自分自身のために生きるのではなく、何らかの別の目的のために生まれ、生きなければならないということを、はっきりと理解するべきです。
このような理由から、私一人を見たとき、それが小さいといえば極めて小さい存在であり、大きいといえば極めて大きな存在なのです。そのような関連性を持って歴史が織り成されてきたことを、私たちは知っています。
この「私」が感じる感情、この「私」が観察する世界観、そしてこの「私」が営んでいるすべての社会生活には、対応するものと相反する現象が存在しており、これを私たちは無視することはできません。
5
つまり、何らかの目的のために生きる中でも、相克的であり対立する側面がある一方で、それに対応しながら生きている側面も存在することを否定することはできないでしょう。それこそが社会の現象であり、今日の世界的な潮流であり、天の何らかの摂理の現象であると見ることができます。
天倫と天的な世界観を分析するとき、それは私の観念によって感じるものではなく、また、私一人の考えによって動くものでもなく、私の観念を超えたところで、細部にわたり私を明示してくれる何らかの別の存在があるということを、私たちは否定することはできないのです。
このような観点から見れば、私が立っているこの場所、私がとどまっているこの立場は、単に一つの世界に限定されたものではなく、二つの世界にまたがる位置にあるということを、はっきりと理解する必要があります。
心が願う世界と身体が求める世界、この二つの世界が私の中で展開されているのです。したがって、私の心は喜びと幸福、そして何らかの理念を求める欲望を持っている一方で、私の身体は五感を通じて実体的に感じられる快楽や触感を求めるという事実を、否定することはできないのです。
私たちはよく、人には心があると言います。人心があると言います。さらに進んで、天心があるとも言います。
6
人心と天心に対応し、天倫の法則とその秩序を持って自らの生活を明らかにする人間でなければなりません。しかし、人心と天心が調和する生活の基準を明確にする秩序を持つことができませんでした。これこそが堕落であり、嘆きの源なのです。
人心を離れ、さらにそこに天や善なる良心を背くことを、私たちはしばしば「悪心」あるいは「物心」と呼びます。
私という存在を見つめるとき、心を中心にすれば天心が私に入り、また身体を中心にすれば悪心が私に染み込んでくるのです。古今東西のすべての聖人・賢人たちは、この葛藤の中にある自分を見て嘆いたという事実を否定することはできません。
パウロもまた、心の法と身体の法が争う中にいたため、「ああ、私はなんと惨めな人間なのか!」(ローマ7:24)と叫びました。
それでは、これまで私たちが楽しみながら生き、そしてこれからも生きようとしているこの世界は、一体どのような世界でしょうか?
7
私の心と身体が共に楽しみながら生きられる世界ではなく、私の心の理念と調和できる世界でもないということを、皆さんは否定することはできないでしょう。そうした環境の中で、苦悩し、もがき続ける私たち自身がいます。
このことを考えてみると、本来、天心が人心を動かすべき原則があるにもかかわらず、今日に至るまで、この天心が私たちの真の人心と一体となって生活の中に現れたり、私たちの人生の道のりの中で喜びとして表れた瞬間が、一度たりともなかったと断言することができます。
もし天が存在するとするならば、私たちの心を中心にして、ただ一日だけ生きたいと願うでしょうか? 私たちの心を中心にして、永遠にともに生きたいと願うはずです。しかし、現実には心と体が争うこの混乱の中に置かれているのが、まさに私自身なのです。
このような心を中心に据えて、天が共に生きることができるのかと問うならば、それは不可能だという結論に至ります。
天は善です。善は永遠であり、唯一であり、不変です。しかし、私たちは不変であり、唯一であり、永遠なる生活観念を持つことができなかったため、善に向かって進んでいこうとする心に、絶え間なく入り込むことができないのです。
8
このため、天は私たちの良心を通じて作用することはできても、私たちの生活観や人生観には直接作用することができません。宇宙的な理念のもとで人間を導くことができなかったために、これまでの歴史は悪によって支配されてきたのです。したがって、この世界は天倫と永遠の関係を結ぶことができる世界だと断定することはできません。
このような理由から、この世は裁きを受けなければなりません。そして、この世に生きる人間もまた、裁きを受けるべきなのです。人心を超えて天心を求めて進んでいく運動があります。それは何か? それが 宗教 です。宗教こそが、この天心をつかもうと努力し続けてきたのです。
人類の文化史において、宗教は偉大な功績を築いてきました。人々の良心を刺激し、天心へと向かわせる運動を起こし、新たな革命、新たな歴史を展開してきたのです。しかし、人心を中心にして悪心と物心が結びつき、天心を抑えつけようとすると、それが堕落し、破壊されてきました。このような歴史的事実を、私たちは否定することはできません。
だからこそ、「人は良心的に生きなければならない」という普遍的な言葉があります。しかし、それだけで万事が解決するのでしょうか? たとえ良心的に生きたとしても、その良心を基盤として、宇宙全体とともに楽しんで生きることができず、もし天が存在するならば、その天とともに楽しんで生きることができなかったとするならば、それは改めるべき自分自身の問題であることを知らなければなりません。そうではありませんか?
もし皆さんが本当に良心的な生活をするならば、皆さんの心を揺り動かす現象が起こるはずです。
9
人間には良心が備わっています。しかし、その良心と天倫の目的を共に楽しむことのできる立場にはいません。堕落の運命を持つ人間は、本来、天倫の目的を目指して生きるべきという願いを抱いています。しかし、堕落によって良心の目的と自由を失ってしまったのです。すなわち、良心に基づく生活の目的と自由を失ってしまったことこそが、嘆かわしく、悲しむべきことであるということを、皆さんは知らなければなりません。
もし人類の始祖が、どのような形であれ、善なる目的を中心として、その善なる場において生活し、楽しむことのできる基盤を築いていたならば、私たち子孫もまた、自らの心と天の心が共に楽しめる体験をすることができたでしょう。
しかし、人間は堕落したことによって、心の目的、生活の目的と縁を結ぶことができませんでした。そして堕落とは、まさにその「縁を断たれた」ことに他なりません。では、人間は何を中心にして堕落したのでしょうか? それは 身体を中心にして堕落した ということです。
そのために、皆さん一人ひとりの中で 心と身体が争い を繰り広げているのです。この苦悩の立場に立たされているのが、まさに皆さん自身なのです。
もし本当に「真の心」が皆さんの中にあるのならば、この問題を解決するための 一瞬 でも存在しなければならないはずです。しかし、皆さんはこれまでの歴史と何らかの縁を結んだことがありますか?
10
一年、あるいは何十年、または生涯の中で、そのような歴史と関係を結んだことがありますか? もしそうでないならば、皆さん自身は 天心に反逆する立場 に立っているということなのです。
この天心を断ち切り、身体が楽しむ方向 へと堕落していくならば、当然のことながら、人間は 自滅 してしまうのです。そのため、この世界には、身体が楽しめる方向 に理念を求めていく主義と、心が楽しめる方向 に理念を求めていく主義が存在しています。
人間は 極めて小さな存在 ではありますが、同時に 小宇宙 でもあります。そのため、人間の心の中で繰り広げられる戦いの現象も 世界規模の形態 を持っているのです。この問題を解決するための方法が生み出されなければなりませんが、いまだにその答えは見つかっていません。
さらに、個人を超えて、民族・国家・世界とともにこの問題を解決できる 一つの模範 も、いまだに現れていないのです。
私という存在を中心にして、世界がひっくり返るように押し寄せてくるため、心と体の争いが続いていくのです。この 心と体の戦い において、心を中心として勝利の凱歌を上げることができなかった者 は、決して 天の国の民 となることはできません。
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世界を征服しようという野望を抱く者は、この世界と共に 審判を受ける ことになります。また、自らの理念を中心にして この地を支配しようとする者 は、この地と共に 滅びる ことになります。しかし、天の理念をつかみ、それを探し求め続ける者は、生き残る ことになるのです。
心の世界は不変の姿を持っており、心の世界は唯一性を持っているため、無限の世界と連結することができます。この 心だけが天心とつながることのできる基盤 となるため、それをしっかりと握りしめて生きる人は、必ず 審判の日を逃れることができる ということを、私たちは知るべきです。
イエスは言いました。「天国はあなたの心の中にある。」この 天国は無限 です。もし天倫、または天心が存在するならば、それを自らの 良心の中に引き入れ、それを生活の原動力とし、これを中心に生活を構築できる者 は、天国を築く王子となる でしょう。
天は審判の日を待っています。
審判のその日を心待ちにしています。
宇宙を裁くその日を待っているのです。
歴史的な審判もなされてきました。そして、この瞬間、あなた自身も審判を受けている ということを知るべきです。
12
終末に直面する聖徒たちは、大審判の日を恐れています。
では、大審判を 逃れることができる者 とは どのような者 でしょうか?
それは 個人の戦いにおいて、その戦いを解決し、勝利の旗を掲げて進み出る者 なのです。
しかし、人々はまだ気づいていません。
家庭においても同様の戦いがあり、民族においても戦いがあり、世界全体においてもこのような戦いが繰り広げられている ということを。
では、なぜこのようなことが起こるのか?
天心と悪心がぶつかり、決着をつけることができる時だから である。
それゆえに、私たちは大審判の権限を持つことを願って進んできたのであり、敵に対して堂々と審判の代行者となることを待ち望んでいるのである。
そのような人間になるためには、自分自身を征服することができる者にならなければならない。
心を中心に据え、身体を完全に征服しなければならない。
二度と心に逆らう動きが起こらないように、そのような要素を完全に滅ぼさなければならない。
信仰的な理念をもって身体を抑え込むことができなければ、審判の代行者にはなれない。
個人の審判で勝利する者は、家庭を審判することができ、家庭の審判で勝利する者は、社会を審判することができ、社会の審判で勝利する者は、国家を審判することができ、国家の審判で勝利する者は、世界を審判することができ、世界の審判で勝利する者は、天宙を審判することができる。
そのような権限があるのである。
13
私という存在を見たとき、この「私」は二つの世界の中間に位置している。心を中心にすれば、天国は心の上側を占領しており、その下側には地獄が占領しているため、この二つの世界が私の心の中で平行を成しているのである。すなわち、目に見えない霊的な心の世界において、心の平行線の上には天国があり、その下には地獄があるのである。
皆さん、終末に近づけば近づくほど、ある人は恐怖に囚われる一方で、別の人は喜びに満たされるようになります。このような動きが現れるのは、必然的な現象 なのです。極めて悪しき人間ばかりがいると思いきや、極めて善なる人もいる ということです。
極めて善なる人のもとには、極めて悪しきものが侵入することはできず、極めて悪しき人のもとには、極めて善なるものが関与することはできません。この社会は、神でさえも取り戻すことができない状態 なのです。どれほど霊的な人物であろうと、どれほど天からの賜物を持つ者であろうと、この二つを統合しようとしても、統合できない時がやってきます。
その時が訪れれば、極めて悪しき世界に生きている者、天と縁を結ぶことができなかった者たちは、ことごとく裁きの場に引き出されるのです。このような現象が、皆さんの心の中で現れる時がやってきます。心はこう進みたいと願うのに、体は別の方向へ進もうとする。この 心と体を結びつける条件を持たず、苦しみもがく者は、間違いなく地獄へと向かうのです。
14
では、天国へ行くのか地獄へ行くのか、それはどこで決定されるのか? それは「私自身」によって決定されるのです。 五感を通して感じる生活の中で、良心の呵責を受ける生き方をしている者は、すでに地獄にいるのです。心を中心にして、心が喜べる生活をしている者は、すでに天国にいるのです。
したがって、人は 物欲や悪しき心を捨て、良心を中心にして天倫を仰ぐことが最も正しい道であるのです。これは 皆さんもよく知っていること なのです。
歴史というものは、喜びの日から始まったのではなく、悲しみの日から始まりました。悲しみで始まったのだから、悲しみで終わり、苦痛で始まったのだから、苦痛で終わり、絶望で始まったのだから、絶望で終わる時が来るのです。穀物は蒔いた種の通りに収穫されるものです。
天心を背いた私たちの先祖は、良心の道理と天心の法則を破り、堕落して無限の悲しみを抱えることとなりました。このようにして堕落したため、この世界は 心が喜びを享受できる内容を持つことができなかった のです。
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だからこそ、道の生活を歩もうとするならば、このすべてを打ち砕かなければなりません。このような戦いが 皆さん自身の中で起こっている ということを、はっきりと知らなければなりません。どのような行動も、その行動が善であるのか悪であるのかによって必ず決定される のです。
私が手を動かすその一つの動作、見ること、聞くこと、嗅ぐことなど、私たちのすべての感覚を通じて入ってくるものが、善を基準としているのか、それとも悪を基準としているのか、その価値を決定する歩みを、私たちは今日の生活の中で続けているのです。
道の道を歩む人もまた、自らの五感の感情世界まで、このような観念、善悪の基準が徹底して確立されていない限り、それを識別することはできません。
この世界は、まさにそのような戦いを続けています。悪が先に立ち、善なるものを打とうとする のがこの世界の戦いです。しかし、悪は長く続くことはできません。悪は長く続かず、善は長く続くものなのです。
長い歴史の過程において、この闘争は 個人から家庭へ、家庭から民族へ、民族から国家へ、国家から世界へ、そして天宙へと次第に拡大され、ついには世界的な理念時代へと接している のです。たとえ 世界主義時代が訪れたとしても、個人は個人 です。しかし、この 歴史の流れは、範囲を広げながら進んでいる のです。
16
昔も今も、良心的に生きた人の立場は変わらないが、それが関わる範囲は広がってきています。昔は 個人を中心とした生活 で満足していましたが、それでよいのでしょうか? 決してそうではありません。
では、家庭を中心とすればよいのか? それも違います。 社会を中心とすればよいのか? それも違います。国家を中心とすればよいのか? それも違います。世界を中心とすればよいのか? それも違います。
天と地を中心とした生活形態こそが、正しい生き方なのです。
歴史の潮流やその形態、範囲は広がり続けていますが、心の基準だけは決して変わることがありません。この 心の基準を中心として、天倫の方向と完全に一致させて進むならば、歴史のすべては天倫の支配下にあるため、心が目指すべき目標や方向を失うことはありません。
だからこそ、「良心的に生きよ、良心的に生きれば祝福を受ける」と言われてきたのです。しかし、審判の日が私たちの前に迫っていることを知るならば、ただ祝福を受けるということは、必ずしも保証されるものではありません。一時的に祝福を受けたように見えても、その時が訪れれば、裁きを受けることになり、結果として祝福とはならないのです。
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地上での祝福が最終的なものではありません。真の祝福は、その時が来たときに受けるものなのです。その時に 生き残った者が祝福の基台を築くことになるため、良心的に生きれば祝福を受けると言われてきたのです。
このように考えなければなりません。
今日の時代は終末の時です。私たちが「終末」と呼んでいるこの時代は、世界主義の時代へと突入しています。この世界から離れていくのではありません。もし天心(天の心)があるならば、天心を中心とする天宙主義の時代へと進んでいくのです。
では、私たちの心はどこを目指すべきでしょうか? 自己を中心にした時代はすでに過ぎ去りました。家庭を中心にした時代も過ぎ去りました。社会を、民族を中心とした時代も過ぎ去りました。国家を中心とした時代も過ぎ去りました。今や、世界主義の時代が到来しようとしています。ある理念のもとで世界を支えなければならない段階に私たちは入ったのです。
人間には、外へ向かう道と内へ向かう道、この二つの道があります。私自身は、この二つの道に対峙する中心に立っています。この二つの道を内外から統合し、一つの道として進んでいくべき時がやってきます。その道が現れる時こそ、私たちが待ち望んでいた理念の時代なのです。
18
今こそ、天心が求める個人を見つけなければなりません。天心が求める家庭を見つけなければなりません。天心が求める民族、国家、世界、そして天宙を見つけなければならないのです。それを知らない限り、皆さんは歴史上の偉人や聖人たちの歩みを繰り返すに過ぎないのです。
だからこそ、人心の方向を天心へと高めていき、肉体の方向も天心へと向けていき、物質世界もまた天心へと接近しつつあるのです。それらが内外から互いに動きながら接近し、衝突する時がやってきます。
では、何を中心として衝突するのでしょうか? それは「この地」を中心として衝突するのです。そして次に、「人間」を中心として衝突が起こるのです。
戦いの路程において、外的な世界理念を排除し、内的な世界理念を創設するために、歴史はひっくり返るように動き続けてきました。その心情を中心に据え、左右に分かれながら混乱し続けているのが 今日の現象 です。このような現象は 皆さん自身の中でも起こっており、世界的にも起こっている ということは、疑いようのない事実 なのです。
もし神が存在し、人間を対象として摂理を進めてこられたのならば、神がこの世界主義の時代まで導くために、どれほど苦労されてきたのかを皆さんは知らなければなりません。よく考えてみてください。心と体が向き合う時、体が心に服従するのではなく、心が体に服従してしまうのが私自身であり、また私たちの祖先であったのです。
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このような祖先たちが 心を基盤として、個人を超え、民族を超え、国家を超えて、最終的に世界主義へと導くために、天がどれほど苦労されたのかを考えなければなりません。
私たちが 歴史書を読むとき、その中に「天がどれほど苦労された戦いの歴史があったのか」 を感じながら読めなければなりません。皆さんは、そのようなことを 感じたことがありますか?
「天よ、私のこの苦しみを取り去ってください。」と祈る人は、決して栄光の国へ行くことはできません。家庭を中心にして、民族を中心にして、国家を中心にして、「父よ、祝福を与えてください」と祈る人は、その時代までしか生き残ることができません。
民族主義は、世界主義が到来すれば崩壊するでしょう。そして、世界主義もまた、天心を中心とする天宙主義が到来すれば崩壊するのです。
大いなる目的、究極の目的に向かって摂理を進めてこられたのが天であるがゆえに、私たちも最高の目標が成し遂げられる時を見据え、その時に備えなければなりません。そのために、「終末が来る」と言われてきたのです。
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では、終末とはどのような日なのか? 天は心であり、地は体であるため、天と地が接する時、世界主義と思想が接する時、私の体と心が接する時が終末の時なのです。
では、その時に何を歌うべきなのでしょうか? 心の生活を歌い、心を通じることのできる世界を歌わなければなりません。この天宙と共に喜びの歌を歌わなければならないのです。
しかし、その日、そのような世界はまだ地上に現れていません。
天はそのような世界に向かって動き続けています。それこそが天の最高目標であり、人類の最高目標なのです。
その日、その時に生き残ることができる私になるためには、私の体と計り知れない戦いを繰り広げなければならず、一度誓ったならば、その誓いを決して変えてはならず、一度決意したならば、その決意を決して変えてはなりません。
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そのような決意を持って前に進む人がいるならば、当然、それを打ち砕こうとするために、体が反発し、家庭が反対し、社会と国家が反発し、世界全体が反発することになるのです。そのような人に向かって、世界全体が攻撃を仕掛けてくる ということを知らなければなりません。つまり、大いなる理念を知れば知るほど、その理念に対抗する大いなる反逆者が存在するということを示しているのです。
キリスト教信者たちは「天性を目指して進んでいる」と言い、「天国を探し求めている」と自負しています。しかし、大いなる目的、大いなる理念に向かって進む者には、それに対抗する大いなる敵が存在する ということを忘れてしまいました。皆さんは、大いなる敵が存在することを肝に銘じなければなりません。
では、その敵の最終的な目標はどこにあるのか? それは 「私の体」 なのです。敵の標的は、私の肉体なのです。私の体には、生活的な脅威、社会的な脅威、国家的な脅威、あるいは天地の脅威 が押し寄せてきます。
パウロもそのような生活を経験しました。彼が 同胞の前に立てば、同胞の敵となり、異邦の地へ行けば、異邦の敵となり、教団の前に立てば、教団の敵となったのです。
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今日、キリスト教であれ、その他の宗教であれ、どのような宗教であっても、最終的には審判を受けなければならないということです。それらの宗教が そのままの形で終末を超えていくことはできません。したがって、徹底的に自らを解明しなければならないのです。
心を中心にして個体を求める路程においても、世界的な意義と結びついているため、世界的な苦難が押し寄せてくるのです。終末が近づけば近づくほど、世界的な恐怖は一方向からではなく、四方八方から押し寄せてきます。
そのため、終末が来れば来るほど、良心的な人々は恐怖の波に巻き込まれていくという事実を、皆さんは聞いたり見たりしてよく知っているはずです。
だからこそ、良心的な人々や芸術的な人々、特に文学に関わる人々は、自らの意思で自由に生きることができない恐怖の流れに巻き込まれていく時代がやってくるのです。実際に、今の時代がそのようになっているのです。その結果として、不安障害やパニック症などの症状が現れているのです。
今日、この終末の時に立たされている私たちは、過去とは異なる立場にいるのです。今は世界主義の時代であり、すべてを世界的な視野で考えなければなりません。したがって、すべてを天心とともに背負い、外的な分野を打破して分離し、「父よ!私は勝利しました!」と言える一人の人間が現れなければならないのです。
そうではありませんか?
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天は、そのような一人を生み出そうとしており、サタンは天の行おうとするその行動を妨害しようとしているのです。この世界は天の世界ではなく、悪の主権のもとにある世界です。したがって、そのような存在がこの悪の主権世界に現れるならば、全世界が反旗を翻し、反抗することは避けられません。
しかし、その 一人の存在を攻撃しようとすれば、逆に自らが崩れ落ちることになるのです。個人が反対すれば、その個人が屈服し、家庭が反対すれば、その家庭が屈服し、社会が反対すれば、その社会が屈服するのです。さらに、国家や世界が反対しても、最終的には国家や世界が屈服する日が来る ということを、皆さんは知らなければなりません。
このように見たとき、極めて小さな個体を全世界に展開した形が歴史の動きであるという事実を、理解しなければなりません。
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今日の人間は、出発の時点からすでに喜びというものを味わうことができませんでした。この地上を中心として幸福を歌うことができませんでした。
太古の昔から今日に至るまで、6000年の長きにわたる歴史の中で、良心的な人間が天地を前に誇りを持ったことが一度でもあったでしょうか? そのようなことがあったでしょうか?
良心的な人ほど、苦しい生活を送り、虐げられ、裂かれ、殺され、踏みにじられる哀れな人生を歩んできました。 しかし、彼らがそのような苦難の中でも希望を持ち続けたものは何だったのか? それは、良心を中心にして永遠に喜ぶことのできる「その一日」、その「たった一日」を待ち望んでいたのです。
このようにして、私たちの祖先は血の祭壇を築いてきました。 倒れてもまた立ち上がりました。個人が倒れれば、個人を結集して民族へとつなげ、民族が倒れれば、民族を結集して世界へと広げてきたのです。
これこそが、神の摂理の歴史 でした。
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見てください。アダムが堕落したとき、神は カインとアベル を中心にして新たに摂理を進められました。カインとアベルが崩れたとき、ノアの家庭 を中心にして摂理を進められました。さらに、アブラハム、イサク、ヤコブの三代を経て、ヤコブの家庭を中心に摂理が展開されたのです。
こうして、家庭を単位として世界的な民族へと歩みを進めたものが、イスラエル民族のエジプト苦役の歴史でした。イスラエル民族の代表者であるモーセが、その民族をまとめ、国家を回復するために、敵の地エジプトを離れ、カナンへ向かって進軍したのです。
個人は家庭を見つけるために戦わなければならず、家庭を見つけたならば、その家庭は民族を見つけるために戦い、民族を見つけたならば、その民族は国家を見つけるために戦い、国家を見つけたならば、その国家は世界を見つけるために戦い続けるのです。
このようにして、次第にその範囲は広がっていくのです。
個人が「勝利の基準」を立てることは決して簡単なことではありません。歴史的な個人となるためには、歴史的な非難と苦痛の中で勝利しなければならないのです。
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ノアを見てください。
彼は120年間、今日の私たちが受ける以上の迫害を受けました。ノアが「人間ノア」として神の前に立つためには、120年という歳月を費やさなければならなかったのです。
ヤコブもまた同じでした。
ヤコブが祝福を成し遂げるまでの21年間、彼は苦難の中で戦い続けました。その戦いの中で、彼には友も一人もおらず、兄弟もおらず、両親もいませんでした。ただ一人で家庭を築いたのです。
そして、その家庭を基盤として民族を探し求める歩みが、エジプトへ入る路程であったのです。エジプトでの400年、それは民族が結集される期間でした。モーセが民族の代表として立ったとき、彼は民族を基盤として国家的な基盤を築かなければならなかったのです。
では、イエスとはどのような方だったのでしょうか? イエスは国家的な基盤を土台として、世界を探し求めるべき方でした。その使命を持って来られたにもかかわらず、国家と民族が彼を裏切ったため、イエスは十字架にかかられることになったのです。
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したがって、再び個人から始まり、家庭を経て、民族を経て、国家を経て、世界的な次元にまで進まなければならないということを、皆さんは知らなければなりません。
死にゆくイエスの前で、イスラエルは敵となりました。4000年間、神が苦労して選ばれたユダヤ教徒たちもまた、敵となったのです。本来、民族を基盤として世界を復帰し、世界的なカナンの地を復帰しなければならない責任があったにもかかわらず、民族の基盤が崩れたことで、4000年の歴史そのものが崩れてしまいました。
しかし、今日、全世界にキリスト教徒がどれほど多くいたとしても、イエスを中心とする家庭は存在していません。
ありますか?
イエス自身も、新郎新婦の位置を経て家庭を持つ時を迎えることができませんでした。では、この新郎新婦とは何を意味するのでしょうか? それは、天の前に立つことのできる「家庭的な第二の基準」です。
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アダムとエバが堕落したことによって、家庭的な基準を確立することができなかったため、これを回復するための「第二の家庭的基準」が必要だったのです。その基盤の上で、イエスは天国の「家長」とならなければなりませんでした。
では、地上においてイエスは家長となられたでしょうか? 地上で最も重要な目的は、家長となることです。家長がいなければ、子供が生まれることはなく、子供がいなければ民が存在することはなく、民がいなければ民族や国家が存在することもありません。
今こそ、全世界のキリスト教徒たちは目を覚まさなければならない時です。世界のキリスト教徒たちは、どの国の民でもなく、どの民族、どの部族にも属していません。イエスが一つの家庭の家長となるためには、十二使徒たちが一つになり、イエスが地上で家庭を築くことのできる土台を準備しなければなりませんでした。
しかし、それを成し遂げることができませんでした。 そのために、世界的な救済の摂理を終結させることができなかったのです。
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その結果、2千年間、イエスと聖霊は血と涙の試練を乗り越えてこられました。その目的はどこにあったのでしょうか? それは、「第一の基準」である家庭の基準を取り戻すことにありました。
新たなイスラエル、新たなヤコブの家庭を探し求め、その家庭的基準を民族的基準へと拡大し、民族的基準を国家的基準へ、国家的基準を世界的基準へと確立し、この世界を基盤として天国革命を起こし、天上に存在する地獄の世界までも解放しなければならないのです。
これこそが「再臨思想」です。
再臨主は、単に栄光を享受するために来られるのではありません。世界を基盤として、霊界に存在する地獄までも完全に滅ぼし、天宙的な天国を実現する使命を持って来られるのです。この使命が完遂されてこそ、神もようやく安息されるのです。
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私たちには心があるにもかかわらず、その心の方向を知りません。混乱した主義や思想に縛られ、どちらへ行くべきか分からず、方向を見失っています。生活の中で生じる偏見によって、私たちの心は流されるままになってしまいました。
そのため、何が真実であり、何が正しいのかを見極めることができません。心の方向は本来、一つの起点から出発したはずなのに、最後には分かれてしまうのです。出発は正常であったとしても、最終的には分裂するのです。分裂するということは、折れ曲がることを意味します。
こうして、歴史は今に至るまで進んできたのです。
今日、民主主義と共産主義が対立し、戦いを繰り広げていますが、この主義だけでは世界を解決することはできません。私たちが心の方向を見つけられないのと同じように、今日の世界もまた方向を失っています。これが現在の世界の流れなのです。
そうではありませんか?
では、皆さん自身が「心の方向を決定する瞬間」とはどのような瞬間でしょうか? それは、心が天心とつながり、永遠に喜ぶことのできる縁を結ぶ瞬間です。
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神が人間に心を与えた目的は何でしょうか? それは、神と人間が心を通じて一つとなり、共に喜びを分かち合うためです。この目的のために神は人間を創造されたのです。
方向が定まっていない私たちの心の基盤の上に、否定しようとしても否定できない、心に染み込む喜び――これが必要なのです。否定しようとしても否定できない、心の奥底から感じられる幸福感――これがまず成し遂げられてこそ、世界の幸福が実現するのです。
身体には限界があります。しかし、心には終わりがありません。したがって、心の世界には特定の枠組みがありません。宇宙観や何かしらの枠組みを超越しています。さらに、心よりもさらに大きなものが「心情の世界」です。心情の世界もまた、制約を受けることがありません。
心の世界は制約を受けることがあります。心は相対的な条件によって制約を受けますが、心情の世界は、誰にも制約されることがありません。
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親が子を愛する心を何が制約できるでしょうか? どれほど高い山のような障壁が前を塞ごうとも、その愛を止めることはできません。
心の世界は制約を受けることがあります。なぜなら、心の世界は相対的な立場にあるからです。しかし、心情の世界は主体的な立場にあります。
心は四方八方に広がるため、制約を受けます。しかし、心情の世界はそうではありません。
では、天の希望とは何でしょうか? 終末にイエスが来られるならば、このように語られるでしょう。
「天国はあなたの心の中にあり、天国はあなたの心情から成し遂げられる。」
「心の中にある。」だけで十分でしょうか?「心情から成し遂げられる。」と結論づけなければなりません。
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皆さんが不幸を感じるのはなぜでしょうか? それは、心の中心と調和できる立場に立てていないからです。
どれほど外的な苦難が多くても、心と調和し、喜ぶことのできる立場にあるならば、その人は幸福な人です。
では、なぜ不幸を感じるのでしょうか? それは、私の心を動かすことのできる「不変の心情の中心」を持っていないからです。その原因は、まさにそこにあるのです。
皆さん、世のものをつかみ、それを喜んでみてください。いつか必ず終わりが来ます。どれほど心が良く、どれほど心情が良かったとしても、それは必ず終わる運命にあります。
心に明確な中心がない限り、そこには悲しみの感情と喜びの感情が混在します。また、身体を中心にしても、明確な中心がない限り、身体が楽しめる感情があると同時に、悲しむ感情もあります。このように、すべては相対的に成り立っています。
私たちは、心が悲しみに満ちた人生の道は歩んできましたが、心が真に楽しめる人生の道を歩んだことはありません。そのような人生の道を見つけることができない堕落した人間は、哀れな人間であり、呪われるべき人間であり、審判を受けるべき人間であることを、はっきりと知らなければなりません。
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では、今こそ私たちは、この道を見つけるべき時です。天の目的が終末において人間を審判し、滅ぼすことにあるのではないとするならば、私たちは「本郷の主人」「本郷の家庭」「本郷の社会」「本郷の国家」「本郷の世界」「本郷の天宙」を持たなければならないのです。
もし、それを持つことができなければ、神は審判を下されるのです。
私たちが世の中を見渡すとき、身体を中心とした個人、身体を中心とした家庭、身体を中心とした社会、国家、世界はすべて存在しています。しかし、私たちの心はそこに満足を感じることができません。
心が求める世界、心が永遠に楽しめる主人と家庭、国家、世界が必要ではありませんか? もし、それが存在しないのならば、皆さんの心がなぜそう感じるのでしょうか?
皆さんの心が善へと向かって動くのは、創造的な何らかの力を持っているからではありません。力というものは、それ単独で作用するものではありません。相対するものがなければ、力は作用しません。化学的な現象を見ても、物理的な現象を見ても、すべてがそのようになっています。
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否定できない明確な良心の作用の実態を見つめるとき、私たちは悲しみを取り除き、喜びを追い求めていることに間違いはありません。「喜ぶことのできるその時」が、人類の希望の時であり、人類の幸福の時であることを知らなければなりません。したがって、すべての問題はそこへと帰結されなければならないのです。
今日、いわゆる民主主義や共産主義が対立し、世界を支配しようとする政策を模索していますが、これではいけません。では、解決はどこでなされるべきでしょうか?
それは、堕落する前のアダムとエバの姿、すなわち、神を中心として喜び、神の声を聞きながら楽しんでいたその姿に戻ることです。
「神は私の永遠の主人であり、私の家庭の家長であり、私の民族の主であり、私の国家の主であり、私の世界の主である」と確信し、この世界の何ものとも交換することのできない、唯一絶対の私の神だと言える基準が確立されるならば、この地上に幸福の楽園が訪れるのです。
私たちの心の世界は、喜びを感じ、調和し、共鳴することはできますが、所有することはできません。互いに通じ合い、応じることはできても、それを掴み取ることはできません。
本来の愛とは、人間の愛ではなく、永遠不変なる神の愛です。神の愛に触れ、神を私の主人として迎えるその瞬間に、私は神と一つになるのです。
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神と私が共に喜びを分かち合うことのできる場に入るとき、私は世界を征服する力を持つことになるのです。私が神と共に喜ぶその場は、天上天下のすべてを所有して喜ぶこと以上の歓喜を味わう場であるのです。
もし人間がそのような体験をしたならば、この肉体の五感を通じて感じるあらゆる刺激は、もはや問題ではないのです。
では、神は私の心を中心にどのような歴史を進めてこられたのでしょうか? それは「宇宙開発の歴史」です。神は 宇宙開拓の歴史を示し、私を導いてこられた ということを、皆さんは忘れています。
では、神は どのような目標のもとで皆さんの心に命じてこられたのでしょうか? 「宇宙的な存在になりなさい。」「宇宙を抱くことのできる存在となり、宇宙のすべてを土台として成長しなさい。」
このような存在となることを求め、神は私たちを導いてこられたのです。
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だからこそ、「愛しなさい」と言われたのです。 悪しき人を愛し、善き人を愛し、万物を愛し、天地すべてを愛しなさい、と。 そうではありませんか? なんと痛快なことではないでしょうか?
しかし、人間はこの本質的な理念の内容を失ってしまいました。 今こそ、心が喜びを享受できるようにならなければなりません。心が喜ぶと同時に、身体の細胞一つ一つまで喜ぶべきであり、心が受け取ると同時に、細胞一つ一つまでそれを感じ取るべきなのです。
そして、その喜びと感覚を、自分が向き合う世界全体にまで反応させることができなければなりません。
このような内容を持ち、このような作用を生み出すことのできる人こそ、6千年間、神が探し求めてこられた人間であるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。
もし、私たちに心があるならば、その心が描く理想の人間とはどのような人でしょうか? 世界が求め、国家が求め、宇宙全体が望む人間とはどのような人でしょうか?
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それこそが、先ほど述べたような人間なのです。そのような人にとっては、たとえ征服される立場に置かれたとしても、無限に感謝することができるのです。そうではありませんか?
私が無限に犠牲を払っても、それを喜んで受け入れることができるのです。そのような人々が増えれば、地上天国は実現するのです。
神の息子・娘とは、そのような人なのです。与えても与えても、無限に与え続け、また与えたくなり、無限に犠牲を払っても、さらに犠牲を払いたくなるのです。
親の愛も同じではありませんか? しかし、神の愛は、それよりも何十倍、何百倍も大きいものなのです。
皆さんの心が求め、思い描くその世界は、まだ到来していません。心情的なその世界と、地上に生きる人間の心が結びつく「その日」が訪れなければなりません。
その日を通じて、絶対的な審判の基準が地上に立つ時、すべてが終わるのです。その心情を基盤として、審判が行われるのです。
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だからこそ、キリスト教は「心の宗教」を超えた「心情の宗教」なのです。神は「心の主人」ではなく、「心情の主人」です。
どのような悪党がいたとしても、心情を通じて湧き出る神の愛を阻むことはできません。その愛の波が押し寄せるとき、誰もがそれを喜ぶのです。サタンでさえ、悪魔でさえも、その愛を喜ぶのです。
しかし、彼らはその愛を好みながらも、それを受け取ることのできない暗黒の立場に立っているのです。人類は、この立場を自らの心によって必ず開拓しなければならない運命にあります。では、どのようにしてそれを開拓するのでしょうか?
皆さんの進むべき道はすでに明らかです。皆さんのもとには、心を通じてつながる縁があるでしょう。物質を通じてつながる縁があるでしょう。人を通じてつながる縁があるでしょう。そして、言葉を通じてつながる縁があるでしょう。
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さらに、自分でも気づかぬうちに、心情を通じてつながる縁が生じるでしょう。心はこの世のすべてを超えて、そうした縁を切望しているのです。そのような縁が、ある時、ある場所で現れることを願い、探し求め、待ち望み、求める者には、神が必ずその縁を結んでくださるということを忘れてはなりません。
道の道を歩む者は、天心に向かって進む者であるため、どんな言葉にも無関心ではいられません。敵が剣を持って私を突き刺そうとするその瞬間さえも、無視することはできません。それは、そこに何かしらの縁があると考え、それを受け入れなければならないからです。
しかし、「ああ、これは……」と躊躇する者は道を歩むことはできません。この歪んだ世界において「良いもの」として現れるものは、必ずしも天のものではありません。むしろ、この歪んだ世界に「悪いもの」を持って現れる方こそが天なのです。
このような問題までも大きな心で受け止め、縁の価値を見極め、理解することのできる人こそが、心情を開発する第一歩を踏み出すことができるのです。
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すると、周囲の人々と接したり、何かを聞いたり見たり感じたりするすべてのことが、善であるか悪であるかを、心で知ることができます。何かの言葉を聞くとき、何かの縁によって誰かと出会うとき、心が自然と引き寄せられます。どのような真理、どのような教会、どのような宗教があったとしても、考えなくても自ずと心が引き寄せられます。そうではありませんか?
心は、自然界の法則と同じです。磁石の針が常に南北を指すように、私たちの心もそうなっています。心にプラスの要素が現れると、それに対して相対的なマイナスの要素がいつもそこに引き寄せられます。
もし皆さんが信じているその宗教に、身体が引き寄せられる感覚を感じたことがないならば、真の信仰者とは言えません。その道に対して、身体が引き寄せられ、心が引き寄せられ、心情が引き寄せられることを感じられなければ、その道を信じる者とは言えません。そのような人は、いつかその道を信じられなくなるでしょう。
では、今日の全世界の人類は何を探しているのでしょうか? それは「理念」を探し求めています。では、理念は何によって解明されるべきでしょうか? それは「真理」によって解明されるべきです。 では、真理とは何でしょうか? それは「御言葉」です。
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私の心が永遠に喜び、求め続けることのできる真理は、百回聞いても、千回聞いても、新しい味わいを感じるものです。皆さん、真理の中で最も本質的な真理は「食事の味」と同じです。昨日食べても、今日食べても、70年、80年同じご飯を食べ続けても美味しいと感じるように、真理もまたそうあるべきです。
これをありがたく思わなければなりません。皆さんは「言葉」を通して、人間には二つの世界があることを知っています。
イエスは言われました。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る言葉で生きる。」したがって、身体を満たし、私の心情を満たすことのできる真理でなければなりません。そのような言葉であれば十分ではありませんか? だからこそ、皆さん、この時はじっと座っている時ではありません。方向が逆転する時が来ました。
一つの主体に向かい、一つの方向へ進まなければなりません。横を見たり、脇道へそれて進めば障害が生じるため、すべてを断ち切って進まなければなりません。それゆえに、すべてのものがこれを異端視しているのです。今は、方向が逆転する時です。天が地となり、地が天とならなければなりません。人間が主体とならなければなりません。変革の時なのです。
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変革の時であるがゆえに、私自身もまた天と地の中心的な存在、万有宇宙の主人公とならなければなりません。万有宇宙の主人公は天ではありません。神が人間を創造された目的は、ご自身の権限を代わりに担う「万有宇宙の主人公」として人間を立てるためであったことを、皆さんはよく知っています。
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変革の時であるがゆえに、私自身もまた天と地の中心的な存在、万有宇宙の主人公とならなければなりません。万有宇宙の主人公は天ではありません。神が人間を創造された目的は、ご自身の権限を代わりに担う「万有宇宙の主人公」として人間を立てるためであったことを、皆さんはよく知っています。
皆さんがその基準に至るためには、今こそ、自らの中心から解決し、心の奥底から体感できる基盤を築かなければなりません。私の心から、私の内奥から解決できる道を探そうとするならば、一つの方向を定めなければなりません。その方向を見つけたならば、次に何をすべきでしょうか?
その方向を中心に、四方を見渡さなければなりません。四方を探り、そこがどのような状態であるかを知り、その後に天性を仰がなければなりません。このようにして初めて、自らの位置を知ることができるのです。
今の宗教、今の主義は、私の心と心情と理念の完全な基準にはなり得ません。なぜなら、新しい時代が来ると言われているからです。したがって、それらはすべて過ぎ去ることになります。
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今の宗教や主義が、私の心と心情と理念の完全な基準になり得なかったため、今こそ新しい何かが私の中心となるべき時が来ました。
今はまさにそのような時なのです。
あなたも私も、同じ立場にいます。イエスは 「私はあなたたちを僕とは呼ばず、友と呼ぶ」 と言われたように、あなたも私も、同じ立場にいるのです。宇宙が偉大なのではありません。宇宙と私は肩を並べなければなりません。
どの宗派も、四方を備えていないため、一方的な側面を持っています。したがって、天心を中心とし、心情の中心を確立しようとする者は、自らの偏った方向性を批判し、四方を備えた人間にならなければなりません。
心と身体がいつまでも戦い続けるようではなりません。心が身体を完全に掌握し、それを四方に導くことができる基準を確立しなければなりません。そうでなければ、完全なる解決点は見出せません。
45
だからこそ、皆さんは今、じっとしている時ではありません。しかし、もし 「じっとしていろ」 と言われたら、何ができるでしょうか? 「私は優れている」 「私は学者である」 と誇ることをやめなさい。
今日、学者と呼ばれる者が多くいますが、その中でも科学者はまだ良い方です。しかし、それ以外の学者と呼ばれる者は、ことごとく逆さまにされるでしょう。大声を上げるべきではありません。そのような人ほど、大きな責任を背負っているのです。
今の宗教、今の主義は、私の心と心情と理念の完全な基準にはなり得ません。なぜなら、新しい時代が来ると言われているからです。したがって、それらはすべて過ぎ去ることになります。
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今の宗教や主義が、私の心と心情と理念の完全な基準になり得なかったため、今こそ新しい何かが私の中心となるべき時が来ました。
今はまさにそのような時なのです。
あなたも私も、同じ立場にいます。イエスは 「私はあなたたちを僕とは呼ばず、友と呼ぶ」 と言われたように、あなたも私も、同じ立場にいるのです。宇宙が偉大なのではありません。宇宙と私は肩を並べなければなりません。
どの宗派も、四方を備えていないため、一方的な側面を持っています。したがって、天心を中心とし、心情の中心を確立しようとする者は、自らの偏った方向性を批判し、四方を備えた人間にならなければなりません。
心と身体がいつまでも戦い続けるようではなりません。心が身体を完全に掌握し、それを四方に導くことができる基準を確立しなければなりません。そうでなければ、完全なる解決点は見出せません。
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だからこそ、皆さんは今、じっとしている時ではありません。しかし、もし 「じっとしていろ」 と言われたら、何ができるでしょうか? 「私は優れている」 「私は学者である」 と誇ることをやめなさい。
今日、学者と呼ばれる者が多くいますが、その中でも科学者はまだ良い方です。しかし、それ以外の学者と呼ばれる者は、ことごとく逆さまにされるでしょう。大声を上げるべきではありません。そのような人ほど、大きな責任を背負っているのです。
自らの仮想的な構想のもとで人心を結びつけ、天道の前に影響を与えた者は、あの世に行けば永遠なる訴えを受けることになることを知るべきです。
皆さん、英雄になりたいでしょう?
しかし、生まれながらの英雄でない者が無理に英雄になろうとすれば、大きな雷が落ちることになります。立派に出世しようとする者もいますが、天が許さない出世を遂げたならば、結局は滅びることになるのです。
そして、その子孫も滅びてしまうのです。
だからこそ、突然の暗殺事件や、刺殺などの残忍な事件が起こるのです。「お前はその地位にふさわしくない!」という理由で……。これも天がそうさせるのです。 天法がそのようになっているのです。
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今、私たちは欲望を捨て、自分自身を見つけなければならない時です。心と身体が共に喜び、楽しみ、歌うことのできる「私」を、神は待ち望んでおられます。
「おお、お前の手を触ってみよう!」と言って、神が手を握り、喜ばれる感覚を感じたことがありますか? ここにいる皆さんの心は、そのようになっていますか?
神は、私たちの心が活動できるようにし、身体の働きを促すために、実在の世界を創造されました。万物を前にして歌い、万人を前にして歌い、未来の世界を前にして歌い、天上の世界と地上の世界すべてを前にして歌う私。
そのように心から楽しんでいる姿を見て、神が訪れ、喜んで迎えられるような存在になってみなさい。これは空想でもなく、幻想でもありません。現実にそうなのです。
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ここで話している若い私も、それを実感し、その感覚が間違いないことを知っているからこそ、天地が反対し、天と地がひっくり返ることがあったとしても、この道を歩んでいるのです。
今の時代は何の時代でしょうか? 「終末の時代」と言われています。しかし、その基準を確立した人間がいない限り、最終的な審判は下されません。したがって、審判の日は訪れないのです。
宗教の真理とは、どのような真理であるべきでしょうか? ただ内容を説明するだけの真理は必要ありません。身体が「そうです。」心が「そうです。」心情が「そうです。」と言えるものでなければなりません。そのような主義、そのような理念が必要なのです。
もし、そのようなものが私たちの周囲で聞こえてきたり、縁を持つようになれば、皆さんの心は自然とそこへ引き寄せられるでしょう。何かの事情があっても、「そこへ行かなければならない」と身体が求め、条件がすべて整っていたとしても、すべてを否定し、すべてを捨ててそこへ行かなければなりません。
時間と空間を超越して私たちを引きつける言葉があるならば、皆さんはすべての荷物を整理し、まるで旅人のように簡単な荷物を背負い、ただそれに従って行ってみなさい。決して滅びることはありません。その者こそ、歴史とともに残るのです。
48
そのような者になるためには、皆さんは過去の姿のままではいけません。ふさわしくない仮面を捨てなさい。宗教家は宗教家の仮面を脱ぎ捨てなさい。良心家は良心家の仮面を脱ぎ捨てなさい。宗教のあらゆる看板を取り払ってしまいなさい。
皆さんは今、統一教会に通っていますが、私は統一教会の看板を外す日を待ち望んでいます。統一教会の看板を掲げているのは、相対的な条件があるためであり、対立する者がいるために必要なのであって、本来は取り払うべきものなのです。
皆さん、心の世界に何の看板が必要でしょうか? 心情の世界に何の看板が必要でしょうか? ただそこに存在するだけで、自らが知るものなのです。ただそこに存在するだけで、自らが行うものなのです。それこそが、解決の第一基準なのです。
皆さん、今までどのような生活を送ってきましたか? 今日、皆さんはどの位置にいますか? 自分が二つの世界の狭間でもがいている存在であることを肝に銘じなければなりません。
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ここで自分が本当に楽しむことができるのは、身体が導く方向ではなく、心が導く方向なのです。
今日の世界を見渡してみると、身体が導く方向、外的な条件は満点です。完全に整えられています。数百点分も整えられています。個人を超え、家庭を超え、世界的な形へと広がっているため、数百点分も備わっているのです。しかし、心が導く方向は、そのうちの数パーセントしか満たされていません。
これを考えるとき、天はこの世界を審判したくなるのです。そんな天の悲しみは、どれほどのものでしょうか? その悲しみを知りながらも、私たちは心が喜べる道を求めて進まなければなりません。だからこそ、過去に道を信じた人々は、首をはねられても耐え抜いたのです。
皆さん、英雄になりたいでしょう?
しかし、生まれながらの英雄でない者が無理に英雄になろうとすれば、大きな雷が落ちることになります。立派に出世しようとする者もいますが、天が許さない出世を遂げたならば、結局は滅びることになるのです。
そして、その子孫も滅びてしまうのです。
だからこそ、突然の暗殺事件や、刺殺などの残忍な事件が起こるのです。「お前はその地位にふさわしくない!」という理由で……。これも天がそうさせるのです。 天法がそのようになっているのです。
46
今、私たちは欲望を捨て、自分自身を見つけなければならない時です。心と身体が共に喜び、楽しみ、歌うことのできる「私」を、神は待ち望んでおられます。
「おお、お前の手を触ってみよう!」と言って、神が手を握り、喜ばれる感覚を感じたことがありますか? ここにいる皆さんの心は、そのようになっていますか?
神は、私たちの心が活動できるようにし、身体の働きを促すために、実在の世界を創造されました。万物を前にして歌い、万人を前にして歌い、未来の世界を前にして歌い、天上の世界と地上の世界すべてを前にして歌う私。
そのように心から楽しんでいる姿を見て、神が訪れ、喜んで迎えられるような存在になってみなさい。これは空想でもなく、幻想でもありません。現実にそうなのです。
47
ここで話している若い私も、それを実感し、その感覚が間違いないことを知っているからこそ、天地が反対し、天と地がひっくり返ることがあったとしても、この道を歩んでいるのです。
今の時代は何の時代でしょうか? 「終末の時代」と言われています。しかし、その基準を確立した人間がいない限り、最終的な審判は下されません。したがって、審判の日は訪れないのです。
宗教の真理とは、どのような真理であるべきでしょうか? ただ内容を説明するだけの真理は必要ありません。身体が「そうです。」心が「そうです。」心情が「そうです。」と言えるものでなければなりません。そのような主義、そのような理念が必要なのです。
もし、そのようなものが私たちの周囲で聞こえてきたり、縁を持つようになれば、皆さんの心は自然とそこへ引き寄せられるでしょう。何かの事情があっても、「そこへ行かなければならない」と身体が求め、条件がすべて整っていたとしても、すべてを否定し、すべてを捨ててそこへ行かなければなりません。
時間と空間を超越して私たちを引きつける言葉があるならば、皆さんはすべての荷物を整理し、まるで旅人のように簡単な荷物を背負い、ただそれに従って行ってみなさい。決して滅びることはありません。その者こそ、歴史とともに残るのです。
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そのような者になるためには、皆さんは過去の姿のままではいけません。ふさわしくない仮面を捨てなさい。宗教家は宗教家の仮面を脱ぎ捨てなさい。良心家は良心家の仮面を脱ぎ捨てなさい。宗教のあらゆる看板を取り払ってしまいなさい。
皆さんは今、統一教会に通っていますが、私は統一教会の看板を外す日を待ち望んでいます。統一教会の看板を掲げているのは、相対的な条件があるためであり、対立する者がいるために必要なのであって、本来は取り払うべきものなのです。
皆さん、心の世界に何の看板が必要でしょうか? 心情の世界に何の看板が必要でしょうか? ただそこに存在するだけで、自らが知るものなのです。ただそこに存在するだけで、自らが行うものなのです。それこそが、解決の第一基準なのです。
皆さん、今までどのような生活を送ってきましたか? 今日、皆さんはどの位置にいますか? 自分が二つの世界の狭間でもがいている存在であることを肝に銘じなければなりません。
49
ここで自分が本当に楽しむことができるのは、身体が導く方向ではなく、心が導く方向なのです。
今日の世界を見渡してみると、身体が導く方向、外的な条件は満点です。完全に整えられています。数百点分も整えられています。個人を超え、家庭を超え、世界的な形へと広がっているため、数百点分も備わっているのです。しかし、心が導く方向は、そのうちの数パーセントしか満たされていません。
これを考えるとき、天はこの世界を審判したくなるのです。そんな天の悲しみは、どれほどのものでしょうか? その悲しみを知りながらも、私たちは心が喜べる道を求めて進まなければなりません。だからこそ、過去に道を信じた人々は、首をはねられても耐え抜いたのです。
私は、皆さんが統一教会に来ることを望んでいるわけではありません。しかし、ここで語られる真理、ここで語られる言葉の前に、自分の身体がひれ伏し、心がひれ伏し、心情が屈服するならば、それが最後のものだと知るべきです。神とは、どのような方でしょうか? 私の身体の永遠なる主人です。私の心情の永遠なる主人です。
50
本然の世界では、どれほど愛し合う夫婦であったとしても、夫が妻よりも神を愛するとしても、妻はその夫を恨みません。そのようにできているのです。また、妻が夫よりも神を愛するとしても、夫は「なぜ私より神を愛するのか」と責めることはありません。むしろ、それを見て喜ぶことのできる世界こそが天国なのです。
この世のどのような愛、どのような価値をも超越した主体的な立場におられる神は、私の身体の永遠なる主人です。身体の永遠なる主人である神の懐、その楽園にいるならば、たとえ死んでも構いません。私の心の永遠なる主人、私の心情の永遠なる主人が神であるならば、それ以上、何を望むでしょうか?
では、皆さんが心情で思い描く世界とは、どのような世界でしょうか? それは、視覚や聴覚といった外界の感覚を通じて認識される世界ではありません。五感を通して認識される世界によって作られたものではありません。
それは、神の愛の世界、情の世界です。その世界では、極めて小さな微粒子を通じても、神の愛を感じることができる情の世界なのです。皆さん、それを理解しなければなりません。理解できなければなりません。
51
イエスも言われました。「耳ある者は聞くがよい。」(マタイ11:15)と。
通念的な感性では、主体的であり、本来の理念世界を感じ取ることはできないのです。私たちは身体で歌わなければなりません。そして、心で歌わなければなりません。私たちは、心情で賛美しなければなりません。
何を賛美するのか? それは、私の主人であるお方を。その方は誰でしょうか? それは、神です。その神こそが、私の父なのです。私の父であるというのです。 私たちは、その神の息子・娘です。だからこそ、私たちは神を前にしてこう言わなければなりません。
「おお!この方を、世のどんなものと交換できるだろうか?」「世の何が、この方との縁を断ち切ることができるだろうか?」
52
人間が良いとする愛も、人間が良いとする欲望も、人間が良いとする富や栄華も、問題ではありません。すべての被造物、すべての存在が、永遠に永遠に「主」として仰ぐその神を、私の父として持つことができたならば、それ以上の幸福がどこにあるでしょうか? 名もない人物の妻となるだけでも誇り、何か少しのことで大騒ぎするものです。しかし、神が私の父なのです。
この喜びは、天地のいかなるものとも交換することはできません。その境地において、「6000年の苦難の道を歩み、私を探し求めてこられた神よ、どれほど苦労されたことでしょうか?」と、父なる神を慰めることのできる息子・娘を、天は探し求めておられます。このことを知らなければなりません。
このような息子・娘を生み出すために、神は数世紀にわたり、何千万回と私たちの先祖を動かしてこられました。しかし、人間はどれほど多く、神を裏切ってきたことでしょうか?
私たちは人心を裏切り、天心を裏切った存在であることを知らなければなりません。さらに進んで、天倫、父の心情を裏切った存在なのです。
53
私たちは、この罪を悔い改めなければなりません。 何が天倫を蹂躙してきたのでしょうか? この身体が蹂躙してきたのです。だからこそ、私たちの身体は罪に染まった身体なのです。敵は、皆さんの目の前に現れる何かではありません。皆さん自身の身体こそが、敵なのです。この身体を抑え込まなければなりません。自らを裁くことができなければなりません。
だからこそ、道の道を歩む者たちは「逆理者(ぎゃくりしゃ)」なのです。説法も「逆説法」です。逆説を主張し、逆理の路程を歩み、逆理の理念を求めているのです。皆さん自身は、これまで何に命を懸けて戦ってきたのでしょうか? 統一教会に来る人々の中には、「統一教会」の名を掲げて戦っている人が多くいます。しかし、皆さんは「自分自身」を懸けて戦わなければなりません。
54
イエスは十字架を背負って歩まれるとき、女性たちが胸を打ち、悲しみながら泣いてついてきたのを見て、こう言われました。「エルサレムの娘たちよ、私のために泣くな。むしろ、あなたたち自身とあなたたちの子どものために泣きなさい。」(ルカ23:28)
まず、自分自身の問題が解決されなければなりません。 問題は自分自身にあるのです。誰かを非難し、誰かを恨んではなりません。自分自身を責めなければなりません。
虚しい自分の姿を清算し、本然の心の友、本然の心情の友であるイエスを、心の父、心情の父、さらに進んで身体の父、宇宙の父として受け入れなければなりません。その道を歩まなければ、皆さんは終末の審判を免れることはできません。そのためには、世を忘れることのできる「喜びの条件」を探し求める道を進まなければなりません。
その道を行くためには、自らの心を導いてくれる「言葉」が必要です。心情が動かされる真理を持っているかどうか、そのような宗教を持っているかどうかによって、真実か偽りかが決定されるということを、はっきりと知るべきです。
55
<祈り>
お父様! どれほどのご苦労をされてこられたことでしょうか? たった一つの生命を見出し、立てるために、六千年の歳月がかかりました。
お父様、あなたは一つの家庭を築くために、そのすべての生活の準備を整えられました。今、世界のすべての外的な環境も、あなたが喜ばれることのできる楽園へと造られつつあります。主義や主張も、二つの道に分かれ、決定を迫られる立場に置かれています。
このように、私たちの心の世界においても、二つの戦いを一つに結び、決着をつけなければなりません。敵を打ち倒し、勝利の旗を掲げ、世界に向かって総進軍することのできる私たちとならせてください。
そして、天上の敵を裁くその日、「私はお父様の息子・娘である!」と誇ることのできる私たちとならせてください。どうか、父の恵みが、ここに集う息子・娘たちの心の奥深くにまで染みわたることを許してください。お父様、心から願い、求めます。
56
私たちはこれまで、敵に利用されながら生きてきました。心が喜ぶことのできる本然の理想へ向かって、本然の世界へ向かって、本然の主人へ向かって、戦い進むことのできなかった過去を清算し、この日、この時からは、天心へ向かって走ることのできる息子・娘とならせてください。お父様、心から願い求めます。
世界は、必ずやそのような一つの理念の世界へと終結することを、私たちは知っております。お父様の心情と私の心情が一つとなり、共に歌うことのできる場所こそが天国であり、理想の楽園であることを、私たちが悟ることができますように。そして、お父様の心情を讃える家庭が、全世界に現れるようにしてください。
それゆえに、自分の両親の愛に酔いしれる以上に、お父様の愛に酔いしれ、自分の子供の愛に酔いしれる以上に、お父様の愛に酔いしれ、その愛を讃え、その愛を楽しみ、その愛の幸福を感じることができますように。このような環境が実現することこそが、お父様の御旨であり、私たちの願いであることを知っております。その御旨と願いが、必ず成就されますように。
お父様が喜び、私たちも喜ぶことのできる生活環境を、私たちの人生が終わる前に必ず成し遂げなければなりません。どうか、この時からその成就が始まりますように、心から願い求めます。
すべての縁と、すべての言葉を通して、すべての人を通して、いかなる物質を通してでも、心が動かされ、心情が動かされる場を消さずに、それに従い、それを目指して走ることのできる、あなたの息子・娘となることを許してください。
お父様、共にいてくださったことを感謝いたします。すべての御言葉を、主の御名によってお祈り申し上げます。 アーメン。
50
本然の世界では、どれほど愛し合う夫婦であったとしても、夫が妻よりも神を愛するとしても、妻はその夫を恨みません。そのようにできているのです。また、妻が夫よりも神を愛するとしても、夫は「なぜ私より神を愛するのか」と責めることはありません。むしろ、それを見て喜ぶことのできる世界こそが天国なのです。
この世のどのような愛、どのような価値をも超越した主体的な立場におられる神は、私の身体の永遠なる主人です。身体の永遠なる主人である神の懐、その楽園にいるならば、たとえ死んでも構いません。私の心の永遠なる主人、私の心情の永遠なる主人が神であるならば、それ以上、何を望むでしょうか?
では、皆さんが心情で思い描く世界とは、どのような世界でしょうか? それは、視覚や聴覚といった外界の感覚を通じて認識される世界ではありません。五感を通して認識される世界によって作られたものではありません。
それは、神の愛の世界、情の世界です。その世界では、極めて小さな微粒子を通じても、神の愛を感じることができる情の世界なのです。皆さん、それを理解しなければなりません。理解できなければなりません。
51
イエスも言われました。「耳ある者は聞くがよい。」(マタイ11:15)と。
通念的な感性では、主体的であり、本来の理念世界を感じ取ることはできないのです。私たちは身体で歌わなければなりません。そして、心で歌わなければなりません。私たちは、心情で賛美しなければなりません。
何を賛美するのか? それは、私の主人であるお方を。その方は誰でしょうか? それは、神です。その神こそが、私の父なのです。私の父であるというのです。 私たちは、その神の息子・娘です。だからこそ、私たちは神を前にしてこう言わなければなりません。
「おお!この方を、世のどんなものと交換できるだろうか?」「世の何が、この方との縁を断ち切ることができるだろうか?」
52
人間が良いとする愛も、人間が良いとする欲望も、人間が良いとする富や栄華も、問題ではありません。すべての被造物、すべての存在が、永遠に永遠に「主」として仰ぐその神を、私の父として持つことができたならば、それ以上の幸福がどこにあるでしょうか? 名もない人物の妻となるだけでも誇り、何か少しのことで大騒ぎするものです。しかし、神が私の父なのです。
この喜びは、天地のいかなるものとも交換することはできません。その境地において、「6000年の苦難の道を歩み、私を探し求めてこられた神よ、どれほど苦労されたことでしょうか?」と、父なる神を慰めることのできる息子・娘を、天は探し求めておられます。このことを知らなければなりません。
このような息子・娘を生み出すために、神は数世紀にわたり、何千万回と私たちの先祖を動かしてこられました。しかし、人間はどれほど多く、神を裏切ってきたことでしょうか?
私たちは人心を裏切り、天心を裏切った存在であることを知らなければなりません。さらに進んで、天倫、父の心情を裏切った存在なのです。
53
私たちは、この罪を悔い改めなければなりません。 何が天倫を蹂躙してきたのでしょうか? この身体が蹂躙してきたのです。だからこそ、私たちの身体は罪に染まった身体なのです。敵は、皆さんの目の前に現れる何かではありません。皆さん自身の身体こそが、敵なのです。この身体を抑え込まなければなりません。自らを裁くことができなければなりません。
だからこそ、道の道を歩む者たちは「逆理者(ぎゃくりしゃ)」なのです。説法も「逆説法」です。逆説を主張し、逆理の路程を歩み、逆理の理念を求めているのです。皆さん自身は、これまで何に命を懸けて戦ってきたのでしょうか? 統一教会に来る人々の中には、「統一教会」の名を掲げて戦っている人が多くいます。しかし、皆さんは「自分自身」を懸けて戦わなければなりません。
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イエスは十字架を背負って歩まれるとき、女性たちが胸を打ち、悲しみながら泣いてついてきたのを見て、こう言われました。「エルサレムの娘たちよ、私のために泣くな。むしろ、あなたたち自身とあなたたちの子どものために泣きなさい。」(ルカ23:28)
まず、自分自身の問題が解決されなければなりません。 問題は自分自身にあるのです。誰かを非難し、誰かを恨んではなりません。自分自身を責めなければなりません。
虚しい自分の姿を清算し、本然の心の友、本然の心情の友であるイエスを、心の父、心情の父、さらに進んで身体の父、宇宙の父として受け入れなければなりません。その道を歩まなければ、皆さんは終末の審判を免れることはできません。そのためには、世を忘れることのできる「喜びの条件」を探し求める道を進まなければなりません。
その道を行くためには、自らの心を導いてくれる「言葉」が必要です。心情が動かされる真理を持っているかどうか、そのような宗教を持っているかどうかによって、真実か偽りかが決定されるということを、はっきりと知るべきです。
55
<祈り>
お父様! どれほどのご苦労をされてこられたことでしょうか? たった一つの生命を見出し、立てるために、六千年の歳月がかかりました。
お父様、あなたは一つの家庭を築くために、そのすべての生活の準備を整えられました。今、世界のすべての外的な環境も、あなたが喜ばれることのできる楽園へと造られつつあります。主義や主張も、二つの道に分かれ、決定を迫られる立場に置かれています。
このように、私たちの心の世界においても、二つの戦いを一つに結び、決着をつけなければなりません。敵を打ち倒し、勝利の旗を掲げ、世界に向かって総進軍することのできる私たちとならせてください。
そして、天上の敵を裁くその日、「私はお父様の息子・娘である!」と誇ることのできる私たちとならせてください。どうか、父の恵みが、ここに集う息子・娘たちの心の奥深くにまで染みわたることを許してください。お父様、心から願い、求めます。
56
私たちはこれまで、敵に利用されながら生きてきました。心が喜ぶことのできる本然の理想へ向かって、本然の世界へ向かって、本然の主人へ向かって、戦い進むことのできなかった過去を清算し、この日、この時からは、天心へ向かって走ることのできる息子・娘とならせてください。お父様、心から願い求めます。
世界は、必ずやそのような一つの理念の世界へと終結することを、私たちは知っております。お父様の心情と私の心情が一つとなり、共に歌うことのできる場所こそが天国であり、理想の楽園であることを、私たちが悟ることができますように。そして、お父様の心情を讃える家庭が、全世界に現れるようにしてください。
それゆえに、自分の両親の愛に酔いしれる以上に、お父様の愛に酔いしれ、自分の子供の愛に酔いしれる以上に、お父様の愛に酔いしれ、その愛を讃え、その愛を楽しみ、その愛の幸福を感じることができますように。このような環境が実現することこそが、お父様の御旨であり、私たちの願いであることを知っております。その御旨と願いが、必ず成就されますように。
お父様が喜び、私たちも喜ぶことのできる生活環境を、私たちの人生が終わる前に必ず成し遂げなければなりません。どうか、この時からその成就が始まりますように、心から願い求めます。
すべての縁と、すべての言葉を通して、すべての人を通して、いかなる物質を通してでも、心が動かされ、心情が動かされる場を消さずに、それに従い、それを目指して走ることのできる、あなたの息子・娘となることを許してください。
お父様、共にいてくださったことを感謝いたします。すべての御言葉を、主の御名によってお祈り申し上げます。 アーメン。
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