文鮮明先生御言葉選集 2 - 15. 主イエス・キリストがなぜ去り、そして再び来られるべきなのか (1957年 5月 26日)
1957年5月26日 前本部教会
聖書拝読:マタイによる福音書12:38-50とマルコによる福音書14:32-42です。
「御心」に先立って、あなたが許された意志の前に、私達がこの時代を代わって見つめなければならないときが来ました。
慈悲深いお父様、愛のお父様、慈悲深いお父様、全能のお父様! イエス様を送る為に4000年の歴史は長い時でしたが、イエス様が帰られてからの2000年の歴史もまた長い時でした。これらの歴史を思い起こすと、今日の私達は天の前で恥をかくべきである事を、お父様、理解できる様に助けてください。
些細なものを呼び寄せ、些細なものを握りしめ、些細なものを支配し、些細なものを求める為に、6000年という長い時間をお過ごしになり、希望の意志をお持ちになり、今日の人間を見守っておられるお父様の心情を、この時間に私達が考える事を許してください。そして、イエス・キリストの素晴らしい姿を代わりになって理解し、お父様の慈愛に対する気遣いを共有できる様に、私達一人一人がお父様になる事を、お許しいただけます様に、お父様、切にお願いいたします。
信じる者も多く、選ばれし者も多いが、あなたが直接愛する事のできる子供達は非常に少ない事を知っております。慈悲深いお父様、ここに集まったあなたの子供達、今こそお父様を心から畏れる心で自己を発見させ、その身を通じて自己の恥をさらけ出し、お父様の望む意志の前にすべてを捨て、従える様に、お許しいただけます様に、愛するお父様、切にお願いいたします。今、集まった子供達を中心にして許された恩寵を示してください。
新しい使命を予告しなければならない新しい使命を背負った私達、最終的な宇宙的な使命を任されるべき時が来た事を踏まえ、私達自身が不足しているからと言って、天倫の大企業を延長する冗談をしないでください。自己の為に前に怨みを残す行動をしない様に導いてください、お父様、切にお願いいたします。
この時間においてただ聖三位一体が私達を支配してください、個々の性格まで支配してください、そして全体的な性格を代わりになるお父様の本質の動きだけが、各自の心を通して現れる事ができる様にしてください、お父様、切にお願いいたします。
今、お伝えしたい言葉を持って進んで参りました。主よ、与える者の心と受ける者の心に間隔をなくし、人間的な知識で分別する尺度を持たない様にしてください。私達は全てを父の前に預け、父の前で一つの献身として調和する言葉に従い、この時間が一つの献身として捧げられる様に許してください。ただ主に委ねてご支配ください。主の名によって祈ります。アーメン。
<説教>
皆さん、少し考える時間になるであろう説教の題目は、「主はどうして去られ、そして再び来られるべきなのか?」というものです。この様な題目でお話しいたします。
イエス様はこの地上に来られ、十字架にかかり帰られ、そして復活された後に昇天されたため、再び来られなければならない運命に置かれています。
長い間神の計画の意志を受け入れてきたイスラエル民族の中でも、選ばれたユダヤ教は神の意志を成就し勝利の拠点を築く使命がありました。これが彼らを選んだ神の望みであり、また彼ら自身の希望でもありました。
この意志が成就される時を望んで神は、信じる事のできるし、創造の理想を実現する全体の使命を果たす事ができる忌むべき子、すなわちイエス様を送りました。従って神はイエス様を人間の前に主として現れさせ、イスラエルを通じて達成しようとしていた祝福を成し遂げ、歴史的な神の救済の計画を終結させねばならない存在だったのです。
しかし、その様なイエス様がなぜこの地で神の意志を成就し、神の栄光を歌う事のできる理想の地を築けずに去られたのでしょうか? これが今日の私達にとって悲しみを引き起こす内容である事は否応なくありません。
イエス様がこの地に来られて帰られるまでの過程は、今日の地上に生きる人々が通る生涯の過程ではありませんでした。誰よりも困難な立場、誰よりも孤独な生涯を経ておられました。また、イエス様は神の意志と人間の理想を一身に受け、一つの時代、一つの時間帯で現れた存在でした。
しかし、この様なイエス様の価値を、天が見る様な価値として理解する人がこの地には一人もいませんでした。さらに、人々はイエス様を全ての人類に神の愛を結びつける愛の中心存在として崇め奉じる事ができませんでした。
従って、イエス様は言葉にできないほどの悲惨な生活をされたのです。友達として一人を立てて、自らの悲しみを打ち明ける事のできなかったイエス様でした。この様にしてイエス様はどなたよりも哀れな生活を過ごされた事を、今日の皆さんは知らなければなりません。
神の意志を達成し、神の栄光の為にイエス様がおいでになった事は、イスラエルの民族の喜びとなり、ユダヤ教徒と世界の人類の喜びとなるべきでした。そして、神の独り子であるイエス様は全人類の主役として現れなければなりませんでした。しかし、なぜその様なイエス様は飢えと悲しみに苦しむ哀れな生活をされたのでしょうか?
時代は変わり、歴史は経過しましたが、皆さんはイエス様が生存時に感じられた悲しみと孤独を思いやり、その哀れさを感じる事ができる人にならなければなりません。しかし、もし皆さんが天地を代わってサタンと戦い勝利する事で神に栄光を還元できる子供でなければ、悲しみと孤独に結びついているイエス様の憤りを解く手段がないという事です。
イエス様の希望は自らの欲望を満たす事ではなく、自らを犠牲にしてでも神の創造理念を実現する事でした。墜落した人間世界の中心存在であるにもかかわらず、神は創造理念を実現する為に4000年の間帰還の計画を進め、イエス様は堕落した人間の祖先の過ちを引き受け、その様な神の意志を自身の理念、目標とし現れた方でした。
しかし、イスラエルの民族はその様なイエス様を知りませんでした。それだけでなく、ユダヤ民族はイエス様の一神が歴史的な希望を代わる同時に当時の神の全体的な意志を代わる存在であった事さえ知りませんでした。
イエス様は孤高な一個人でありながら、その自体は歴史を代わる事ができ、現実を代わる事ができると同時に、天倫の意志を代わる事ができる永遠の神の理念を持っていた方でした。しかし、神の意志を受け入れてきたイスラエルの民族とユダヤ教徒は、イエス様がその様な方である事を知りませんでした。だからこそ、彼らはイエス様が辿るべき道を協力するどころか、公然と妨害し迫害していたのです。
では、その様なイスラエル民族と人類を見つめるイエス様の悲しみはどの様なものだったのでしょうか? それは当時の状況だけを見て悲しんでいたものではありませんでした。イエス様の悲しみはアダムの堕落以後、4千年にわたる帰還の計画を進めてきた神の悲しい心情を代わりに感じる悲しみであり、神の意志を受け入れて4千年もの歴史的な過程を経て疲れ果てた多くの先知聖者達の悲しみを代わりに感じる悲しみでした。その様なイエス様であった事を今日の私達は感じなければなりません。
では、イエス様の悲しみはどの程度だったのでしょうか? 4千年にわたる神の悲しみや天にいる無数の聖者達の悲しみを代わりに抱えておいでになったイエス様であったため、イエス様の悲しみを神や無数の聖徒、天使達は知っていたという事です。
イエス様の悲しみはあなたのためのものではなく、あなたを殺すイスラエル民族のための悲しみであり、ユダヤ教徒を心配する悲しみであり、世界的な計画を心配する悲しみでした。そんなイエス様の心情を理解した後、悔い改めて、イエス様の悲しみを理解できなかったイスラエル民族とユダヤ教の指導者達が深く反省すべきでしたが、彼らの中にはイエス様の悲しみを理解する人は誰もいませんでした。
こうして歴史的な神の憤りと地上の人間を望む心情を抱えておいでになったイエス様をユダヤ教はメシアとして迎え入れず、イエス様の悲しみは一層深まったのです。それだけでなく、イエス様を中心に神の意志を達成させなければならないイスラエル民族とユダヤ教は立てられた神の希望の意志を忘れ、イエス様を裏切る立場に立たされ、イエス様は30年以上にわたり神の涙を代わりにして無限の悲しみの涙を流し続ける生活を送る事なくはなかった事を知るべきです。
イエス様は熱望に満ちた希望を抱き、父の事情と心情を紹介する自らの使命を果たす為に努力された3年の共生の期間中、悲しみを抱えながらゲツセマネの庭を経てゴルゴダの丘まで追い込まれ、追われざるを得ない哀れで悲惨な悲しみを経験された事実を皆さんは知らなければなりません。
では、イエス様がゲツセマネの庭で「父よ、もしできる事ならこの杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むとおりでなく、御心のままになさってください。」(マタイ26:39)と熱心な祈りを捧げる理由はどこにあったのでしょうか? それは神の悲しみと無数の聖者達の悲しみ、そして全人類の悲しみを誰が負担するかを心配されたからであり、あなたが十字架にかかるとき、あなたを追う多くの聖者達も死の道を歩まなければならない事をご存じだったからです。そのため、イエス様は悲しい心情が北風に吹かれて天の前にその様な嘆願をする事となりました。
神の悲しみと人間の悲しみ、そして未来の子孫の悲しみを代わりに引き受け、慈愛に満ちた十字架に戻られたイエス・キリスト。皆さんは、歴史的なイエス・キリストだけでなく、今日の現実で再び同じ状況に直面する可能性があるイエス・キリストの姿を見つけ、この世界に現れさせるイエス・キリストの後継者になる必要があります。そうでなければ、歴史の中に閉じ込められたイエス・キリストの悲しみと運命は解消されません。
これまで天を信じる聖徒達は、その様なイエス・キリストの後継者になる為に努力してきました。さらに、私達はイエス・キリストの悲しみだけでなく、後世に続く悲しみまで解消してしまわなければなりません。
現在の時代は誰もが語っており、また多くの預言者が予告していた「終わりの時」であり、イエス・キリストが民族と宗教から拒絶されて戻る後再び来られる「再臨の時」です。では、この様な時を迎えて、皆さんはどの様にすべきでしょうか? 皆さんは再び訪れるであろうイエス・キリストを慰める事ができなければならず、イエス・キリスト当時のユダヤ教とユダヤ民族よりも、より熱心に天の意志を憂慮する人々にならなければなりません。
再び訪れるであろうイエス・キリストを慰める為には、イエス・キリストが引き受けられた4千年の歴史的な悲しみだけでなく、イエス・キリストが戻られてからの聖霊の降臨までにおいて、愛に満ちた2千年の期間を含む6千年の歴史的な悲しみを代わりに引き受け、イエス・キリストが戻られた事によって断絶された天の大業を引き継ぐ必要があります。
天に向かっている私達としては、歴史的な縁を超えて独自の生活を送る事はできません。私達は宇宙を責任を持って、未来を責任を持って、6千年の神の悲しみや天使達の悲しみを代わりに引き受け、この地球の万民の悲しみを代わりにして、人間が神の審判の日を見据えて腐敗の中にとどまっている事を悲しむ心を持ち、心配できる人々にならなければなりません。
また、私達はイエス・キリストに向かって「あなたの悲しみと、あなたが戻られる経緯を知っています」と語りかける事ができ、イエス・キリストがこの地に来て、誠実な心情で全人類を贖い取る使命を果たす為に悔やんでいたその事情と心情に同情する者とならなければなりません。
その様な者にならない限り、歴史の主人公、宇宙の主人公、未来の理想の主人公であるイエス・キリストをあなたが望んでも迎える事はできず、その様なイエス・キリストの悲しみを解消する事はできません。
今日、皆さんが知っておかなければならないのは、イエス・キリストが4千年の悲しみに閉じ込められ、30年以上にわたり万民と子孫を代わりにして死の道を歩まれたという事実です。従って、皆さんはこの様な歴史的な事情を背負って天に呼びかけ、それを越えて創造理想圏に到達する為に新しい信仰の基準を確立し、自分の生命さえ捧げられる実証的な生活をしなければなりません。そうでなければ、皆さんは永遠の価値を持たない存在となってしまいます。
それでは、私達は信仰者としてどの様な心構えを持つべきでしょうか? 選ばれしイスラエルの中で中心的な使命を担当したユダヤ教団があった様に、今日、キリストを中心とした世界的なイスラエルの使命を引き受けるには、代表的な教団が存在する事になるでしょう。
つまり、歴史は同時性を持って展開されており、神は終末の使命を担当するための宗教を設立し、計画を完了させざるを得ません。私達がその様な宗教を見つけようとするならば、歴史的な教訓として、イエス・キリストの時代にユダヤ教が犯した歴史的な過ちを探りなければなりません。
彼らは過度の権威主義にとらわれて人間的な思考を前面に押し出し、意識と規定に過度に縛られ、天の法則に反する生活を送りました。今日も終末に立つ私達にとっても、その様な事が起こるでしょう。
そして、私達が知っておくべき世界的な終末時代は、再び来られる主がイエス・キリストが歩まれた道をそのままたどって来られるため、世界的な悲しみの頂点を超えて再びこの地に来られるという事実です。
イエス・キリストがイスラエルの民族とユダヤ教団の反対によって苦難の道を歩まれ、最終的にゲツセマネの園を経てゴルゴダの道まで追いやられた様に、再び来られる主も世界的なイスラエルとユダヤ教的な教団の反対を経て、世界的なゴルゴダの道を超えて行かれるでしょう。
今日、皆さんは様々な面から神の悲しみを理解しなければなりません。イスラエルの民族とユダヤ教団を見つめ、感じていた神の悲しみを理解し、歴史を見つめ、感じていた神の悲しみを理解し、未来を心配していた神の悲しみを皆さんは理解しなければなりません。そうする事で、悲しみに包まれたキリストが再び皆さんのもとに訪れる事ができる様になります。さらには、皆さんはイエス・キリストの後の2千年の歴史を含む6千年の歴史的な全体の悲しみを解消する事ができなければなりません。そうでなければ、皆さんは再び来られる主と共にゴルゴダの道を越える事ができなくなるでしょう。
イエス・キリストがゲツセマネの園で天に向かって叫ぶ時、その声を聞かずに居眠りしていた三人の弟子の様子、またマグダラのマリアがイエス・キリストの天敵である価値を知り、彼の足に香油を注ぎ頭髪で拭き取り、復活の主の栄光を確認する時、彼女の行動を嘲笑い、阻んでいた弟子達の様子は、イエス・キリストの怨みが今日までに知られていない事です。
では、終末に直面した私達はどの様な心構えを持って進むべきでしょうか?キリストの様に悲しい苦難の道を懐かしみ、自らの立場や名誉を忘れ、イエス・キリストの遺体を求めて墓を訪れたマグダラのマリアが、ついには復活したイエス・キリストに出会い、その栄光を見る事ができた様に、私達はマグダラのマリア以上に熱心で思いやりのある心を持たなければなりません。もし私達がそうならなければ、主を見つけたとしても永遠に主を迎える事ができなくなります。
従って、あなたは主に会って主の豊かな愛の腕に抱かれ、愛の園で神の栄光を歌う為には、神の6千年の悲しみとイエス・キリストの悲しみの心情を慰め、また天国にいる多くの聖者達の心を慰める心情を持たなければなりません。そんなあなたがなると、神と天の聖者達はあなたを歓迎し、イエス・キリストと万民もあなたを歓迎し、あなたはマグダラのマリアの立場を超えて神の栄光の中で理想的な生活の舞台を築く事ができるでしょう。
そして今日、あなたが知るべき事は、悲しみの6千年の歴史を回復してあなたの肉体が外部と切り離されていないという事実です。神は歴史を超越して摂理しておられる方です。従って、あなたも過去と現実と未来に結びついています。また、あなた一人一人が前後左右上下の関係を持っています。あなたはこれらの事実を自覚して、何もかもをあれこれ判断して無分別に行動してはいけないのです。
あなたは歴史を超越した永遠の価値を確立しようとする神の意志を、あなた自身の存在から成就させる必要があります。それには、イエス・キリストがどの様な理由で苦難の道を歩まれたのかを知る必要があります。それはイスラエルの民族やユダヤ教団、選ばれし洗礼者ヨハネやイエス・キリストの家族までが、イエス・キリストを拒絶したからでした。その様なイエス・キリストの事情をあなたが悲しむ事は避けてはなりません。
従って、今日私達がこれらのイエス・キリストの苦しみを代わりにし、イエス・キリストの怨みを解消する為には、当時イエス・キリストを拒絶していた中心的な教団であるユダヤ教を代わりにして、イエス・キリストを崇める責任を果たさなければなりません。
そしてあなたは主の為に孤独で世界と戦う事ができ、主が裏切られた為に苦しんだとき、どんな裏切りでも一人で立ちはだかる事ができなければなりません。この様な道が回帰の道である事を知らなければなりません。
また、勝利の日を予告しながらイエス・キリストの誕生を準備していたヨセフの家族やヨセフの一族までがイエス・キリストを裏切った不信の条件全体を、あなたの地域で一人で克服して勝利の条件を確立できる様にならなければなりません。もしもその様なあなたがならなければ、再び来られる主様が理想的な民族、教団、家族を持つ事はできない事を知らなければなりません。
また、私達はイエスがその悲しい道だけを歩まれたわけではない事を知らなければなりません。イエスは無限に孤独な道も歩まれました。全ての意志をこの地の人々に知らせたかったけれども受け入れられる人がいなかったので、言葉にできない孤独を感じざるを得ない立場でした。
この町で反対されればあの町へ、この村で反対されればあの村へと、自分の孤独を解けなくて悲しまれたイエス・キリスト、自分の悲しい状況を理解してくれる人を探し求めてゲツセマネの丘の麓を彷徨われたイエス・キリストであった事を知らなければなりません。天の愛と神の計画を持ってこの地においでになったイエス・キリストでしたが、歴史的な制約において無類無比の悲しみと孤独の心情をお持ちになられた事を、今日のあなただけでも理解し慰めて上げるべきです。
もしもその様なイエスの心情を感じ、その様なイエスの事情と一体となった立場で生活をした人がいるなら、その人は「おお、主よ!」、「アバ、父よ!」と一言でイエス・キリストと心情で通じる事ができるでしょう。しかし、今までその様な人はいないという事です。ですから、あなたがその様な人にならなければなりません。その為には、歴史を超越し、環境を超越して、イエス・キリストの孤独な心情を理解できなければなりません。
イエス・キリストは孤独な方であり、悲しむ者の主であり、悲しみの王子でした。彼は言葉にできないほど哀れな方でした。この地上にどんな哀れな人、どんな孤独な人がいるかと言えば、イエス・キリストよりもっと哀れで孤独な人はいないという事をあなたは知らなければなりません。
神様は、イエス・キリストを代わりに悲しむ事ができ、イエス・キリストに代わって愛だけできる一人の人がいなくて悲しんでおられ、心からイエス・キリストを信じてくれる人がいなくてより一層悲しんでおられたのです。ですから心を通わせ、本質的な結びつきを築いて、天の前で勝利の栄光を返さなければならない人間を探し求める為に、初めての姿勢でおいでになり、その計画が達成されなかったイエス・キリストの悲しい心情を理解し、心を代わりにしなければならない使命が私達に残されている事をあなたは心に留めておかなければなりません。
そして、あなた方は神の御心を達成する為に労苦されたイエス・キリストの姿を考え、哀れなるイエス・キリストに同情できる心を持つべきです。今まで私達はイエスが昇天された後、神の右に栄光の主としてただいると考えていましたが、実際にはイエス・キリストは地上において成し遂げるべき目的を果たせなかったため、霊的な贖罪者として罪を負担する為に天に行き、今もなお私達の為に祈っておられる哀れな方なのです。
その様なイエス・キリストを私達は実生活の中で信じ、従い、崇めるべきです。従って、あなた方は世界的な悲しみ、天的な悲しみ、世界的な孤独、天的な孤独を経験した哀れなイエス・キリストを代わりにできる生活をしなければならず、イエス・キリストと共に生きる事のできるあなた方にならなければなりません。
今がその様なあなたになったかを自問自答し、分別しなければならない時である事を理解しなければなりません。そして、イエス・キリストがこの地上に成し遂げられたいと望まれた永遠の御心を受け継いで、神の造りたてし理想を達成する私達はこれからどうすべきか?ここに不可欠な要求される条件は何か?
不信と罪悪で染まった6,000年の歴史を終結させる為においでになる主様を迎え入れる教団と、使徒、そして家族が現れなければなりません。ですから今日の私達が神の御心を成そうとするならば、今までの教団的なつながりを超えて、今日の現実の中で歴史的な信仰を代わりにできる新しい教団の基準を整えなければならず、未来の福音的使命を担える使徒と家族の基準を養い、永遠の勝利の足場を築く事で、神の理想の土地を成し遂げなければなりません。
人類と世界の為においでになったイエス・キリストは当時は世界と国、教団と家族までが裏切ったし、使徒達ですら不信仰であったが、今日のあなたほどにはイエス・キリストの友になり、その事情を慰める事ができなければなりません。
裏切られる世界と教団、種族を見つめて悲しまれたイエス・キリストには、その心情と通じるできる親が必要であったはずでしたが、そうではありませんでした。前に引用した聖書の言葉によれば、イエスに「先生の母と兄弟達がいらっしゃいます」と言われると、イエスは「私の母はだれで、私の兄弟はだれか?」と答え、「天におられるわたしの父の御心を行う者こそが、わたしの兄弟、姉妹、母なのです」と言われました。この言葉から見て、イエスには本当にあなたを慰める事のできる親や兄弟がいなかった事が分かります。イエスは真実な親や真の兄弟がなかった為にこの様な悲しい、孤独で哀れな状況にあったのであり、さらには種族からも拒絶される事になりました。
さらに、主の道をまっすぐにされなければならない洗礼者ヨハネにまで裏切りを受け、イエスは言葉にできないくらいの悔しみを抱えられる事になりました。あなた方はこの様なイエス・キリストの心情を理解し、イエス・キリストの事情を通し、さらにはイエス・キリストのあらゆる教えを受け継ぐ事ができなければなりません。
イエス・キリストの家族と種族は、イエス・キリストの誕生から始まった奇跡と奇蹟を見て驚きましたが、神の摂理に無知であり、イエス・キリストをメシアとして受け入れる事ができませんでした。本来ならば、彼らはイエス・キリストの敵としての使命を悟り、イエス・キリストの前途を準備し、環境を整え、神の摂理の意志を遂行するイエス・キリストの足場となるべきでした。もしもそうであれば、その後イエス・キリストが別に使徒を求める必要はなかったでしょう。
アダムからヨセフまで60代を経て現れる中で、血縁的なつながりを通じて建てられたイエス・キリストであったため、彼の家族と種族が彼を取り巻き、信じない教団、国民、世界に対抗して戦う事ができる一つの種族権を形成していれば、イエス・キリストは決して悲しい立場に立たなかったでしょう。
それでは、イエス・キリストがこの地に再び来るとき、彼は何を求められるのでしょうか?サタンの世界に対抗して戦う事ができる家庭的な環境を失ったため、再び来る際には、まずあなたの悲しみと苦しみを和らげる事ができる家庭的な拠点を求められる事でしょう。
ですから、あなた方はイエス・キリストと心を一つにして、その様な家庭的な垣根の役割を果たす事ができなければなりません。なぜなら、その様な家庭的な垣根がなかった為に、イエス・キリストの恨みとなったからです。もし当時にイエス・キリストの家庭的な垣根があり、「イエス・キリストは私の真の主である」と言える様なイエス・キリストの心情を代わりにできる神の真の子らが現れていれば、イエス・キリストの恨みは生まれなかったでしょう。ですから、あなた方は再び来る主の家庭的な垣根になってくれる様な人々にならなければなりません。
イエス・キリストの悲しみを慰める事のできる兄弟がいれば、その様な兄弟達を中心にしてイエス・キリストの恨みが解かれたでしょう。また、イエス・キリストの種族を中心にしてユダヤ民族がイエス・キリストの弟子となり、協力者となったならば、イエス・キリストの福音は当時のユダヤ教を超えて世界に広まっていたでしょう。そうであれば、イエス・キリストの福音は異邦から広まっていなかったでしょう。しかし、イエス・キリストにはその様な種族や民族がなかったのです。
この様に悲しまれながらも帰られた主様が再び来るとき、私達はどの様にすればよいのでしょうか?主様が再臨され、神の御心を遂行する中で私達がどんな困難に直面しようとも、命をかけてその家庭的な足場と種族的な足場にならなければなりません。これが終わりに置かれた聖徒達の使命です。しかし、残念な事に今日の聖徒達はこれを知らないのです。
今、あなた方は「天よ、6,000年の恨みを私に託してください。イエス・キリストの悲しみを私に託してください。天にある悲しみを私に託してください」と祈る事ができなければなりません。
この様に、歴史的な神の悲しみとイエスの孤独な心情と事情を共感できる人物を、天はこの時も探し続けており、昨日でも一昨日でも一年前でも千年前でも二千年前でも期待されていた事を、皆さんは知らなければなりません。
従って、皆さんはイエス様がゲツセマネの園を通り、国を代わる贄の道、ゴルゴダの死の道を進まれながらも、その様な道を進む様にさせた不信の国に対して怒られなかった事と同様に、親の心情を持ち、親の立場に立つ事ができなければなりません。また、皆さんは新郎新婦の立場も感じてみなければなりませんし、天の家族と天の種族の立場も感じてみなければなりません。
そうすれば、イエス様はこの地に再びおいでになって、皆さんを中心に理想的な家庭と種族を築かれるでしょう。その時がまさに終末なのです。創世以来神が望んでいた希望の家庭、創造理想を望まれていた家庭は、まだ地上に現れていません。これからは、神とイエス様の愛情を100%理解し、この地上に現れなければ、神とイエス様の恨みが解かれる事はありません。
それでは特に集まった皆さん!皆さんが果たさなければならない使命は何ですか?二千年前に主様がおいでになった時、イスラエルの法学者、祭司、洗礼者ヨハネの家庭が不信して十字架に帰られる様な立場から抜け出し、信じて拝む使命を皆さんが担当しなければなりません。十字架に帰られた時のイエス様は可哀そうな方であり、悲しんでおられた方でした。六千年の歴史の終わりに立つ私達は、イエス様のその様な心情を理解し、通じる事ができるだけで、おいでになる主様を正しく迎え入れる事ができるのです。
神の御心を成就する為においでになったイエス様は、どの様な生涯の標準を立てられたのでしょうか?イエス様は意志以外のすべてを捨てられる生涯の標準を立てられた方でした。ですから、皆さんも意志に相応しくない自分の理想や欲望、または世界のどの条件も捨てられる信仰の基準を立てなければなりません。
今日、皆さんが最も良いと考える何かを持っていますか?しかし、それが天で永遠に良いものとして証明されない限り、本当に良いものにはなり得ません。ですから、皆さんは天で永遠に価値あるものを持つ為に、地上で意志以外のすべてを捨てる事を知っていなければなりません。
そして皆さんは天倫に合致しないどの様な習慣も捨てる事ができなければなりません。そして、たとえすべての人が悪者だとののしり、捨てるとしても、ゴルゴダの道をひとりで歩かれた様に、皆さんも命をかけて神の御心の道を歩む子女とならなければなりません。御心の道を歩む皆さんも、どこかで捨てられる時が来るでしょう。皆さんはそれを覚悟していなければなりません。なぜなら、この世界は罪深い世界であり、この罪深い世界に適合する場所では絶対に天倫の縁が発生する事はないからです。それが今この時に皆さんが世界から捨てられる時である事です。
この様に、天国に到達するための近道は歴史的な涙の道、歴史的なゴルゴダの道、そして世界的なゴルゴダの道があるのです。この道を進む私達は、世界や教会、家庭から拒絶され、見捨てられても、むしろそれを6000年の歴史を代表する迫害や嘲笑と考え、希望の心を抱く事ができなければなりません。
特にお集まりの皆さん、迫害があるからといって悲しむ事はありません。あなたは泣いても、あなた自身だけを考えて泣いてはいけません。むしろ、天の前で「イエス様の怨みを解放し、世界的な悲しみを解放する為に、どんな苦しみの場でも抵抗なく進むでしょう!」と祈る事ができなければなりません。また、「世界的にかわいそうな場所、死も気にしないでしょう!この仕事の為に私のすべての欲望を捨てるでしょう!」と祈る事ができなければなりません。
もしもあなたがこの様に人倫の頭を超えて天倫の道を通る新しい自己を見つけられないなら、つまり復活の栄光を代わりにできる神の心情をそのまま体と心に現して行動するあなた自身にならなければ、あなたは神の創造理想を完成した人間、本性を備えた本来の人間として帰る事はできません。
あなたは天から受けた使命が大きければ大きいほど、邪悪な世界との大きな戦いを担当しなければなりません。今日、この場に集まった皆さん、これまでの信仰観念で永遠の天倫を求める為にはいけません。永遠の天倫を代わりに現れるメシアを、その様に切望していたユダヤ人やイスラエル教の中心的な信仰とモーセの聖書中心のユダヤ教の教理的な視点を持ち、永遠の理想の基準を立てて固定化するならば、あなたはユダヤ人と同じく、自分自身も知らずに死の淵に陥ってしまいます。
ですから、あなたはイエス様が「父母を私よりも愛する者は私にとって値しなく、子供を私よりも愛する者も私にとって値しない。」(マタイ10:37)と言われた言葉を心に刻まなければなりません。イエス様は30年以上の生涯の中でゴルゴダの道を行かずに自分だけを見る生活をされなかったならば、神の救いの計略を果たす事はできませんでした。
それでは終末の審判の時である今日はどの様な時でしょうか?今日の時代はロトが住んでいたソドムとゴモラの時代と同じです。ですから、あなたは歴史の終わりにあたる今日のすべてを天の前に預け、天の命令に従って生きる人にならなければなりません。もしもそれができないなら、あなたはソドムとゴモラの審判に巻き込まれるロトの妻の様な立場に置かれる事になります。
また、皆さんはユダヤ教の信者やユダヤ人と同じ様な立場を取ってはいけません。そして、今この瞬間も生死の分かれ目の戦いが展開されているという事実を忘れてはいけません。
では、この様なサタンとの戦いで上下左右にサタンが攻撃してくるすきを与えない為にはどうすればよいでしょうか?皆さんはイエス様の悲しい心情を計る事ができる親兄弟の立場に立って共に涙を流し、お互いに慰め合う事ができなければなりません。そして、骨肉の溶ける様な天の恵みに共感できる仲間にならなければなりません。
困難があれば自分のものとせず、喜びがあれば親のもの、兄弟のもの、友達のものに戻さなければならず、神が人間の事情を知っているからこそ人間を許し与える事ができるのです。
ですから皆さんは兄弟の事情だけでなく、イエス様の事情もよく知り、お互いに愛し合い、支え合う天の家庭を築き、種族を形成して、イエス様が帰られるべき善の世界をこの地に成就させなければなりません。
今日召された地上の聖徒達が団結して天の家庭から天の種族、天の民族を形成し、イエス様が民族と4000年の歴史を代表した様に、民族の次元を超えて世界と6千年の歴史を代表して現れるならば、神の審判の行為は収まるでしょう。
これが起こり、皆さんの家庭や種族、全体が一つになったとき、おいでになるイエス様は栄光の中で顕現できるでしょう。今日、この様な基準を達成する為に私達は統一教会という看板を掲げる事になりました。
そして私達はお互いを家族と呼んでいます。この言葉と同じ様に私達は家族です。私達は兄弟でない兄弟として、民族でない民族として、一つの兄弟と民族となり、天倫の意志を担当するイスラエルを形成しているのです。
私達はイエスの悲しみを体現しながら拓く道を行かなければならず、サタンとの戦いの労苦を経て神の意志を完成する場所まで行かなければならない立場にあります。それによって悲しんで行かれたイエス様を喜びで迎える事ができる様になるでしょう。皆さんはこれを心に留めておく必要があります。
<祈祷>
お父様! 御言葉によって、私達が最後に見つけなければならない根本は兄弟姉妹と親である事を悟りました。天を中心に据えた家族と種族がこの地上に現れる事が、神の父の願いである事を理解しました。今日、私達が孤独な道を歩み出した者達は、イエス様の苦しみを代わりにし、親の立場を代わりにし、友達、兄弟姉妹、種族の立場を代わりにし、神の意志に対抗するサタンの力を打破する戦いの中で、天の子女になり、この頭を乗り越える事ができる様に導いてください。
切実に願います。今ここに参加している子供達を通して、御心の望みを成就させ、理想的な御心の家族、種族が私達を通して実現される様に許可してください!
そして、イエス様が直接訪れ、楽しんだり歌ったり休んだりできる私達の身心になり、天を中心に据えた兄弟姉妹になり、家族になれる様に導いてください。心よりお願いし、いつでもすべての言葉を主の名によって祈ります。
アーメン。