人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集2(15)

2023年11月25日 18時33分52秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 2 - 15. 主イエス・キリストがなぜ去り、そして再び来られるべきなのか  (1957年 5月 26日)
1957年5月26日 前本部教会
聖書拝読:マタイによる福音書12:38-50とマルコによる福音書14:32-42です。


「御心」に先立って、あなたが許された意志の前に、私達がこの時代を代わって見つめなければならないときが来ました。


慈悲深いお父様、愛のお父様、慈悲深いお父様、全能のお父様! イエス様を送る為に4000年の歴史は長い時でしたが、イエス様が帰られてからの2000年の歴史もまた長い時でした。これらの歴史を思い起こすと、今日の私達は天の前で恥をかくべきである事を、お父様、理解できる様に助けてください。


些細なものを呼び寄せ、些細なものを握りしめ、些細なものを支配し、些細なものを求める為に、6000年という長い時間をお過ごしになり、希望の意志をお持ちになり、今日の人間を見守っておられるお父様の心情を、この時間に私達が考える事を許してください。そして、イエス・キリストの素晴らしい姿を代わりになって理解し、お父様の慈愛に対する気遣いを共有できる様に、私達一人一人がお父様になる事を、お許しいただけます様に、お父様、切にお願いいたします。


信じる者も多く、選ばれし者も多いが、あなたが直接愛する事のできる子供達は非常に少ない事を知っております。慈悲深いお父様、ここに集まったあなたの子供達、今こそお父様を心から畏れる心で自己を発見させ、その身を通じて自己の恥をさらけ出し、お父様の望む意志の前にすべてを捨て、従える様に、お許しいただけます様に、愛するお父様、切にお願いいたします。今、集まった子供達を中心にして許された恩寵を示してください。


新しい使命を予告しなければならない新しい使命を背負った私達、最終的な宇宙的な使命を任されるべき時が来た事を踏まえ、私達自身が不足しているからと言って、天倫の大企業を延長する冗談をしないでください。自己の為に前に怨みを残す行動をしない様に導いてください、お父様、切にお願いいたします。


この時間においてただ聖三位一体が私達を支配してください、個々の性格まで支配してください、そして全体的な性格を代わりになるお父様の本質の動きだけが、各自の心を通して現れる事ができる様にしてください、お父様、切にお願いいたします。


今、お伝えしたい言葉を持って進んで参りました。主よ、与える者の心と受ける者の心に間隔をなくし、人間的な知識で分別する尺度を持たない様にしてください。私達は全てを父の前に預け、父の前で一つの献身として調和する言葉に従い、この時間が一つの献身として捧げられる様に許してください。ただ主に委ねてご支配ください。主の名によって祈ります。アーメン。


<説教>


皆さん、少し考える時間になるであろう説教の題目は、「主はどうして去られ、そして再び来られるべきなのか?」というものです。この様な題目でお話しいたします。


イエス様はこの地上に来られ、十字架にかかり帰られ、そして復活された後に昇天されたため、再び来られなければならない運命に置かれています。


長い間神の計画の意志を受け入れてきたイスラエル民族の中でも、選ばれたユダヤ教は神の意志を成就し勝利の拠点を築く使命がありました。これが彼らを選んだ神の望みであり、また彼ら自身の希望でもありました。


この意志が成就される時を望んで神は、信じる事のできるし、創造の理想を実現する全体の使命を果たす事ができる忌むべき子、すなわちイエス様を送りました。従って神はイエス様を人間の前に主として現れさせ、イスラエルを通じて達成しようとしていた祝福を成し遂げ、歴史的な神の救済の計画を終結させねばならない存在だったのです。


しかし、その様なイエス様がなぜこの地で神の意志を成就し、神の栄光を歌う事のできる理想の地を築けずに去られたのでしょうか? これが今日の私達にとって悲しみを引き起こす内容である事は否応なくありません。


イエス様がこの地に来られて帰られるまでの過程は、今日の地上に生きる人々が通る生涯の過程ではありませんでした。誰よりも困難な立場、誰よりも孤独な生涯を経ておられました。また、イエス様は神の意志と人間の理想を一身に受け、一つの時代、一つの時間帯で現れた存在でした。


しかし、この様なイエス様の価値を、天が見る様な価値として理解する人がこの地には一人もいませんでした。さらに、人々はイエス様を全ての人類に神の愛を結びつける愛の中心存在として崇め奉じる事ができませんでした。


従って、イエス様は言葉にできないほどの悲惨な生活をされたのです。友達として一人を立てて、自らの悲しみを打ち明ける事のできなかったイエス様でした。この様にしてイエス様はどなたよりも哀れな生活を過ごされた事を、今日の皆さんは知らなければなりません。


神の意志を達成し、神の栄光の為にイエス様がおいでになった事は、イスラエルの民族の喜びとなり、ユダヤ教徒と世界の人類の喜びとなるべきでした。そして、神の独り子であるイエス様は全人類の主役として現れなければなりませんでした。しかし、なぜその様なイエス様は飢えと悲しみに苦しむ哀れな生活をされたのでしょうか?


時代は変わり、歴史は経過しましたが、皆さんはイエス様が生存時に感じられた悲しみと孤独を思いやり、その哀れさを感じる事ができる人にならなければなりません。しかし、もし皆さんが天地を代わってサタンと戦い勝利する事で神に栄光を還元できる子供でなければ、悲しみと孤独に結びついているイエス様の憤りを解く手段がないという事です。


イエス様の希望は自らの欲望を満たす事ではなく、自らを犠牲にしてでも神の創造理念を実現する事でした。墜落した人間世界の中心存在であるにもかかわらず、神は創造理念を実現する為に4000年の間帰還の計画を進め、イエス様は堕落した人間の祖先の過ちを引き受け、その様な神の意志を自身の理念、目標とし現れた方でした。


しかし、イスラエルの民族はその様なイエス様を知りませんでした。それだけでなく、ユダヤ民族はイエス様の一神が歴史的な希望を代わる同時に当時の神の全体的な意志を代わる存在であった事さえ知りませんでした。


イエス様は孤高な一個人でありながら、その自体は歴史を代わる事ができ、現実を代わる事ができると同時に、天倫の意志を代わる事ができる永遠の神の理念を持っていた方でした。しかし、神の意志を受け入れてきたイスラエルの民族とユダヤ教徒は、イエス様がその様な方である事を知りませんでした。だからこそ、彼らはイエス様が辿るべき道を協力するどころか、公然と妨害し迫害していたのです。


では、その様なイスラエル民族と人類を見つめるイエス様の悲しみはどの様なものだったのでしょうか? それは当時の状況だけを見て悲しんでいたものではありませんでした。イエス様の悲しみはアダムの堕落以後、4千年にわたる帰還の計画を進めてきた神の悲しい心情を代わりに感じる悲しみであり、神の意志を受け入れて4千年もの歴史的な過程を経て疲れ果てた多くの先知聖者達の悲しみを代わりに感じる悲しみでした。その様なイエス様であった事を今日の私達は感じなければなりません。


では、イエス様の悲しみはどの程度だったのでしょうか? 4千年にわたる神の悲しみや天にいる無数の聖者達の悲しみを代わりに抱えておいでになったイエス様であったため、イエス様の悲しみを神や無数の聖徒、天使達は知っていたという事です。

イエス様の悲しみはあなたのためのものではなく、あなたを殺すイスラエル民族のための悲しみであり、ユダヤ教徒を心配する悲しみであり、世界的な計画を心配する悲しみでした。そんなイエス様の心情を理解した後、悔い改めて、イエス様の悲しみを理解できなかったイスラエル民族とユダヤ教の指導者達が深く反省すべきでしたが、彼らの中にはイエス様の悲しみを理解する人は誰もいませんでした。

こうして歴史的な神の憤りと地上の人間を望む心情を抱えておいでになったイエス様をユダヤ教はメシアとして迎え入れず、イエス様の悲しみは一層深まったのです。それだけでなく、イエス様を中心に神の意志を達成させなければならないイスラエル民族とユダヤ教は立てられた神の希望の意志を忘れ、イエス様を裏切る立場に立たされ、イエス様は30年以上にわたり神の涙を代わりにして無限の悲しみの涙を流し続ける生活を送る事なくはなかった事を知るべきです。

イエス様は熱望に満ちた希望を抱き、父の事情と心情を紹介する自らの使命を果たす為に努力された3年の共生の期間中、悲しみを抱えながらゲツセマネの庭を経てゴルゴダの丘まで追い込まれ、追われざるを得ない哀れで悲惨な悲しみを経験された事実を皆さんは知らなければなりません。

では、イエス様がゲツセマネの庭で「父よ、もしできる事ならこの杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むとおりでなく、御心のままになさってください。」(マタイ26:39)と熱心な祈りを捧げる理由はどこにあったのでしょうか? それは神の悲しみと無数の聖者達の悲しみ、そして全人類の悲しみを誰が負担するかを心配されたからであり、あなたが十字架にかかるとき、あなたを追う多くの聖者達も死の道を歩まなければならない事をご存じだったからです。そのため、イエス様は悲しい心情が北風に吹かれて天の前にその様な嘆願をする事となりました。

神の悲しみと人間の悲しみ、そして未来の子孫の悲しみを代わりに引き受け、慈愛に満ちた十字架に戻られたイエス・キリスト。皆さんは、歴史的なイエス・キリストだけでなく、今日の現実で再び同じ状況に直面する可能性があるイエス・キリストの姿を見つけ、この世界に現れさせるイエス・キリストの後継者になる必要があります。そうでなければ、歴史の中に閉じ込められたイエス・キリストの悲しみと運命は解消されません。

これまで天を信じる聖徒達は、その様なイエス・キリストの後継者になる為に努力してきました。さらに、私達はイエス・キリストの悲しみだけでなく、後世に続く悲しみまで解消してしまわなければなりません。

現在の時代は誰もが語っており、また多くの預言者が予告していた「終わりの時」であり、イエス・キリストが民族と宗教から拒絶されて戻る後再び来られる「再臨の時」です。では、この様な時を迎えて、皆さんはどの様にすべきでしょうか? 皆さんは再び訪れるであろうイエス・キリストを慰める事ができなければならず、イエス・キリスト当時のユダヤ教とユダヤ民族よりも、より熱心に天の意志を憂慮する人々にならなければなりません。

再び訪れるであろうイエス・キリストを慰める為には、イエス・キリストが引き受けられた4千年の歴史的な悲しみだけでなく、イエス・キリストが戻られてからの聖霊の降臨までにおいて、愛に満ちた2千年の期間を含む6千年の歴史的な悲しみを代わりに引き受け、イエス・キリストが戻られた事によって断絶された天の大業を引き継ぐ必要があります。

天に向かっている私達としては、歴史的な縁を超えて独自の生活を送る事はできません。私達は宇宙を責任を持って、未来を責任を持って、6千年の神の悲しみや天使達の悲しみを代わりに引き受け、この地球の万民の悲しみを代わりにして、人間が神の審判の日を見据えて腐敗の中にとどまっている事を悲しむ心を持ち、心配できる人々にならなければなりません。

また、私達はイエス・キリストに向かって「あなたの悲しみと、あなたが戻られる経緯を知っています」と語りかける事ができ、イエス・キリストがこの地に来て、誠実な心情で全人類を贖い取る使命を果たす為に悔やんでいたその事情と心情に同情する者とならなければなりません。

その様な者にならない限り、歴史の主人公、宇宙の主人公、未来の理想の主人公であるイエス・キリストをあなたが望んでも迎える事はできず、その様なイエス・キリストの悲しみを解消する事はできません。

今日、皆さんが知っておかなければならないのは、イエス・キリストが4千年の悲しみに閉じ込められ、30年以上にわたり万民と子孫を代わりにして死の道を歩まれたという事実です。従って、皆さんはこの様な歴史的な事情を背負って天に呼びかけ、それを越えて創造理想圏に到達する為に新しい信仰の基準を確立し、自分の生命さえ捧げられる実証的な生活をしなければなりません。そうでなければ、皆さんは永遠の価値を持たない存在となってしまいます。

それでは、私達は信仰者としてどの様な心構えを持つべきでしょうか? 選ばれしイスラエルの中で中心的な使命を担当したユダヤ教団があった様に、今日、キリストを中心とした世界的なイスラエルの使命を引き受けるには、代表的な教団が存在する事になるでしょう。

つまり、歴史は同時性を持って展開されており、神は終末の使命を担当するための宗教を設立し、計画を完了させざるを得ません。私達がその様な宗教を見つけようとするならば、歴史的な教訓として、イエス・キリストの時代にユダヤ教が犯した歴史的な過ちを探りなければなりません。

彼らは過度の権威主義にとらわれて人間的な思考を前面に押し出し、意識と規定に過度に縛られ、天の法則に反する生活を送りました。今日も終末に立つ私達にとっても、その様な事が起こるでしょう。

そして、私達が知っておくべき世界的な終末時代は、再び来られる主がイエス・キリストが歩まれた道をそのままたどって来られるため、世界的な悲しみの頂点を超えて再びこの地に来られるという事実です。

イエス・キリストがイスラエルの民族とユダヤ教団の反対によって苦難の道を歩まれ、最終的にゲツセマネの園を経てゴルゴダの道まで追いやられた様に、再び来られる主も世界的なイスラエルとユダヤ教的な教団の反対を経て、世界的なゴルゴダの道を超えて行かれるでしょう。

今日、皆さんは様々な面から神の悲しみを理解しなければなりません。イスラエルの民族とユダヤ教団を見つめ、感じていた神の悲しみを理解し、歴史を見つめ、感じていた神の悲しみを理解し、未来を心配していた神の悲しみを皆さんは理解しなければなりません。そうする事で、悲しみに包まれたキリストが再び皆さんのもとに訪れる事ができる様になります。さらには、皆さんはイエス・キリストの後の2千年の歴史を含む6千年の歴史的な全体の悲しみを解消する事ができなければなりません。そうでなければ、皆さんは再び来られる主と共にゴルゴダの道を越える事ができなくなるでしょう。

イエス・キリストがゲツセマネの園で天に向かって叫ぶ時、その声を聞かずに居眠りしていた三人の弟子の様子、またマグダラのマリアがイエス・キリストの天敵である価値を知り、彼の足に香油を注ぎ頭髪で拭き取り、復活の主の栄光を確認する時、彼女の行動を嘲笑い、阻んでいた弟子達の様子は、イエス・キリストの怨みが今日までに知られていない事です。

では、終末に直面した私達はどの様な心構えを持って進むべきでしょうか?キリストの様に悲しい苦難の道を懐かしみ、自らの立場や名誉を忘れ、イエス・キリストの遺体を求めて墓を訪れたマグダラのマリアが、ついには復活したイエス・キリストに出会い、その栄光を見る事ができた様に、私達はマグダラのマリア以上に熱心で思いやりのある心を持たなければなりません。もし私達がそうならなければ、主を見つけたとしても永遠に主を迎える事ができなくなります。

従って、あなたは主に会って主の豊かな愛の腕に抱かれ、愛の園で神の栄光を歌う為には、神の6千年の悲しみとイエス・キリストの悲しみの心情を慰め、また天国にいる多くの聖者達の心を慰める心情を持たなければなりません。そんなあなたがなると、神と天の聖者達はあなたを歓迎し、イエス・キリストと万民もあなたを歓迎し、あなたはマグダラのマリアの立場を超えて神の栄光の中で理想的な生活の舞台を築く事ができるでしょう。

そして今日、あなたが知るべき事は、悲しみの6千年の歴史を回復してあなたの肉体が外部と切り離されていないという事実です。神は歴史を超越して摂理しておられる方です。従って、あなたも過去と現実と未来に結びついています。また、あなた一人一人が前後左右上下の関係を持っています。あなたはこれらの事実を自覚して、何もかもをあれこれ判断して無分別に行動してはいけないのです。

あなたは歴史を超越した永遠の価値を確立しようとする神の意志を、あなた自身の存在から成就させる必要があります。それには、イエス・キリストがどの様な理由で苦難の道を歩まれたのかを知る必要があります。それはイスラエルの民族やユダヤ教団、選ばれし洗礼者ヨハネやイエス・キリストの家族までが、イエス・キリストを拒絶したからでした。その様なイエス・キリストの事情をあなたが悲しむ事は避けてはなりません。

従って、今日私達がこれらのイエス・キリストの苦しみを代わりにし、イエス・キリストの怨みを解消する為には、当時イエス・キリストを拒絶していた中心的な教団であるユダヤ教を代わりにして、イエス・キリストを崇める責任を果たさなければなりません。

そしてあなたは主の為に孤独で世界と戦う事ができ、主が裏切られた為に苦しんだとき、どんな裏切りでも一人で立ちはだかる事ができなければなりません。この様な道が回帰の道である事を知らなければなりません。

また、勝利の日を予告しながらイエス・キリストの誕生を準備していたヨセフの家族やヨセフの一族までがイエス・キリストを裏切った不信の条件全体を、あなたの地域で一人で克服して勝利の条件を確立できる様にならなければなりません。もしもその様なあなたがならなければ、再び来られる主様が理想的な民族、教団、家族を持つ事はできない事を知らなければなりません。

また、私達はイエスがその悲しい道だけを歩まれたわけではない事を知らなければなりません。イエスは無限に孤独な道も歩まれました。全ての意志をこの地の人々に知らせたかったけれども受け入れられる人がいなかったので、言葉にできない孤独を感じざるを得ない立場でした。

この町で反対されればあの町へ、この村で反対されればあの村へと、自分の孤独を解けなくて悲しまれたイエス・キリスト、自分の悲しい状況を理解してくれる人を探し求めてゲツセマネの丘の麓を彷徨われたイエス・キリストであった事を知らなければなりません。天の愛と神の計画を持ってこの地においでになったイエス・キリストでしたが、歴史的な制約において無類無比の悲しみと孤独の心情をお持ちになられた事を、今日のあなただけでも理解し慰めて上げるべきです。

もしもその様なイエスの心情を感じ、その様なイエスの事情と一体となった立場で生活をした人がいるなら、その人は「おお、主よ!」、「アバ、父よ!」と一言でイエス・キリストと心情で通じる事ができるでしょう。しかし、今までその様な人はいないという事です。ですから、あなたがその様な人にならなければなりません。その為には、歴史を超越し、環境を超越して、イエス・キリストの孤独な心情を理解できなければなりません。

イエス・キリストは孤独な方であり、悲しむ者の主であり、悲しみの王子でした。彼は言葉にできないほど哀れな方でした。この地上にどんな哀れな人、どんな孤独な人がいるかと言えば、イエス・キリストよりもっと哀れで孤独な人はいないという事をあなたは知らなければなりません。

神様は、イエス・キリストを代わりに悲しむ事ができ、イエス・キリストに代わって愛だけできる一人の人がいなくて悲しんでおられ、心からイエス・キリストを信じてくれる人がいなくてより一層悲しんでおられたのです。ですから心を通わせ、本質的な結びつきを築いて、天の前で勝利の栄光を返さなければならない人間を探し求める為に、初めての姿勢でおいでになり、その計画が達成されなかったイエス・キリストの悲しい心情を理解し、心を代わりにしなければならない使命が私達に残されている事をあなたは心に留めておかなければなりません。

そして、あなた方は神の御心を達成する為に労苦されたイエス・キリストの姿を考え、哀れなるイエス・キリストに同情できる心を持つべきです。今まで私達はイエスが昇天された後、神の右に栄光の主としてただいると考えていましたが、実際にはイエス・キリストは地上において成し遂げるべき目的を果たせなかったため、霊的な贖罪者として罪を負担する為に天に行き、今もなお私達の為に祈っておられる哀れな方なのです。

その様なイエス・キリストを私達は実生活の中で信じ、従い、崇めるべきです。従って、あなた方は世界的な悲しみ、天的な悲しみ、世界的な孤独、天的な孤独を経験した哀れなイエス・キリストを代わりにできる生活をしなければならず、イエス・キリストと共に生きる事のできるあなた方にならなければなりません。

今がその様なあなたになったかを自問自答し、分別しなければならない時である事を理解しなければなりません。そして、イエス・キリストがこの地上に成し遂げられたいと望まれた永遠の御心を受け継いで、神の造りたてし理想を達成する私達はこれからどうすべきか?ここに不可欠な要求される条件は何か?

不信と罪悪で染まった6,000年の歴史を終結させる為においでになる主様を迎え入れる教団と、使徒、そして家族が現れなければなりません。ですから今日の私達が神の御心を成そうとするならば、今までの教団的なつながりを超えて、今日の現実の中で歴史的な信仰を代わりにできる新しい教団の基準を整えなければならず、未来の福音的使命を担える使徒と家族の基準を養い、永遠の勝利の足場を築く事で、神の理想の土地を成し遂げなければなりません。

人類と世界の為においでになったイエス・キリストは当時は世界と国、教団と家族までが裏切ったし、使徒達ですら不信仰であったが、今日のあなたほどにはイエス・キリストの友になり、その事情を慰める事ができなければなりません。

裏切られる世界と教団、種族を見つめて悲しまれたイエス・キリストには、その心情と通じるできる親が必要であったはずでしたが、そうではありませんでした。前に引用した聖書の言葉によれば、イエスに「先生の母と兄弟達がいらっしゃいます」と言われると、イエスは「私の母はだれで、私の兄弟はだれか?」と答え、「天におられるわたしの父の御心を行う者こそが、わたしの兄弟、姉妹、母なのです」と言われました。この言葉から見て、イエスには本当にあなたを慰める事のできる親や兄弟がいなかった事が分かります。イエスは真実な親や真の兄弟がなかった為にこの様な悲しい、孤独で哀れな状況にあったのであり、さらには種族からも拒絶される事になりました。

さらに、主の道をまっすぐにされなければならない洗礼者ヨハネにまで裏切りを受け、イエスは言葉にできないくらいの悔しみを抱えられる事になりました。あなた方はこの様なイエス・キリストの心情を理解し、イエス・キリストの事情を通し、さらにはイエス・キリストのあらゆる教えを受け継ぐ事ができなければなりません。

イエス・キリストの家族と種族は、イエス・キリストの誕生から始まった奇跡と奇蹟を見て驚きましたが、神の摂理に無知であり、イエス・キリストをメシアとして受け入れる事ができませんでした。本来ならば、彼らはイエス・キリストの敵としての使命を悟り、イエス・キリストの前途を準備し、環境を整え、神の摂理の意志を遂行するイエス・キリストの足場となるべきでした。もしもそうであれば、その後イエス・キリストが別に使徒を求める必要はなかったでしょう。

アダムからヨセフまで60代を経て現れる中で、血縁的なつながりを通じて建てられたイエス・キリストであったため、彼の家族と種族が彼を取り巻き、信じない教団、国民、世界に対抗して戦う事ができる一つの種族権を形成していれば、イエス・キリストは決して悲しい立場に立たなかったでしょう。

それでは、イエス・キリストがこの地に再び来るとき、彼は何を求められるのでしょうか?サタンの世界に対抗して戦う事ができる家庭的な環境を失ったため、再び来る際には、まずあなたの悲しみと苦しみを和らげる事ができる家庭的な拠点を求められる事でしょう。

ですから、あなた方はイエス・キリストと心を一つにして、その様な家庭的な垣根の役割を果たす事ができなければなりません。なぜなら、その様な家庭的な垣根がなかった為に、イエス・キリストの恨みとなったからです。もし当時にイエス・キリストの家庭的な垣根があり、「イエス・キリストは私の真の主である」と言える様なイエス・キリストの心情を代わりにできる神の真の子らが現れていれば、イエス・キリストの恨みは生まれなかったでしょう。ですから、あなた方は再び来る主の家庭的な垣根になってくれる様な人々にならなければなりません。

イエス・キリストの悲しみを慰める事のできる兄弟がいれば、その様な兄弟達を中心にしてイエス・キリストの恨みが解かれたでしょう。また、イエス・キリストの種族を中心にしてユダヤ民族がイエス・キリストの弟子となり、協力者となったならば、イエス・キリストの福音は当時のユダヤ教を超えて世界に広まっていたでしょう。そうであれば、イエス・キリストの福音は異邦から広まっていなかったでしょう。しかし、イエス・キリストにはその様な種族や民族がなかったのです。

この様に悲しまれながらも帰られた主様が再び来るとき、私達はどの様にすればよいのでしょうか?主様が再臨され、神の御心を遂行する中で私達がどんな困難に直面しようとも、命をかけてその家庭的な足場と種族的な足場にならなければなりません。これが終わりに置かれた聖徒達の使命です。しかし、残念な事に今日の聖徒達はこれを知らないのです。

今、あなた方は「天よ、6,000年の恨みを私に託してください。イエス・キリストの悲しみを私に託してください。天にある悲しみを私に託してください」と祈る事ができなければなりません。

この様に、歴史的な神の悲しみとイエスの孤独な心情と事情を共感できる人物を、天はこの時も探し続けており、昨日でも一昨日でも一年前でも千年前でも二千年前でも期待されていた事を、皆さんは知らなければなりません。

従って、皆さんはイエス様がゲツセマネの園を通り、国を代わる贄の道、ゴルゴダの死の道を進まれながらも、その様な道を進む様にさせた不信の国に対して怒られなかった事と同様に、親の心情を持ち、親の立場に立つ事ができなければなりません。また、皆さんは新郎新婦の立場も感じてみなければなりませんし、天の家族と天の種族の立場も感じてみなければなりません。

そうすれば、イエス様はこの地に再びおいでになって、皆さんを中心に理想的な家庭と種族を築かれるでしょう。その時がまさに終末なのです。創世以来神が望んでいた希望の家庭、創造理想を望まれていた家庭は、まだ地上に現れていません。これからは、神とイエス様の愛情を100%理解し、この地上に現れなければ、神とイエス様の恨みが解かれる事はありません。

それでは特に集まった皆さん!皆さんが果たさなければならない使命は何ですか?二千年前に主様がおいでになった時、イスラエルの法学者、祭司、洗礼者ヨハネの家庭が不信して十字架に帰られる様な立場から抜け出し、信じて拝む使命を皆さんが担当しなければなりません。十字架に帰られた時のイエス様は可哀そうな方であり、悲しんでおられた方でした。六千年の歴史の終わりに立つ私達は、イエス様のその様な心情を理解し、通じる事ができるだけで、おいでになる主様を正しく迎え入れる事ができるのです。

神の御心を成就する為においでになったイエス様は、どの様な生涯の標準を立てられたのでしょうか?イエス様は意志以外のすべてを捨てられる生涯の標準を立てられた方でした。ですから、皆さんも意志に相応しくない自分の理想や欲望、または世界のどの条件も捨てられる信仰の基準を立てなければなりません。

今日、皆さんが最も良いと考える何かを持っていますか?しかし、それが天で永遠に良いものとして証明されない限り、本当に良いものにはなり得ません。ですから、皆さんは天で永遠に価値あるものを持つ為に、地上で意志以外のすべてを捨てる事を知っていなければなりません。

そして皆さんは天倫に合致しないどの様な習慣も捨てる事ができなければなりません。そして、たとえすべての人が悪者だとののしり、捨てるとしても、ゴルゴダの道をひとりで歩かれた様に、皆さんも命をかけて神の御心の道を歩む子女とならなければなりません。御心の道を歩む皆さんも、どこかで捨てられる時が来るでしょう。皆さんはそれを覚悟していなければなりません。なぜなら、この世界は罪深い世界であり、この罪深い世界に適合する場所では絶対に天倫の縁が発生する事はないからです。それが今この時に皆さんが世界から捨てられる時である事です。

この様に、天国に到達するための近道は歴史的な涙の道、歴史的なゴルゴダの道、そして世界的なゴルゴダの道があるのです。この道を進む私達は、世界や教会、家庭から拒絶され、見捨てられても、むしろそれを6000年の歴史を代表する迫害や嘲笑と考え、希望の心を抱く事ができなければなりません。

特にお集まりの皆さん、迫害があるからといって悲しむ事はありません。あなたは泣いても、あなた自身だけを考えて泣いてはいけません。むしろ、天の前で「イエス様の怨みを解放し、世界的な悲しみを解放する為に、どんな苦しみの場でも抵抗なく進むでしょう!」と祈る事ができなければなりません。また、「世界的にかわいそうな場所、死も気にしないでしょう!この仕事の為に私のすべての欲望を捨てるでしょう!」と祈る事ができなければなりません。

もしもあなたがこの様に人倫の頭を超えて天倫の道を通る新しい自己を見つけられないなら、つまり復活の栄光を代わりにできる神の心情をそのまま体と心に現して行動するあなた自身にならなければ、あなたは神の創造理想を完成した人間、本性を備えた本来の人間として帰る事はできません。

あなたは天から受けた使命が大きければ大きいほど、邪悪な世界との大きな戦いを担当しなければなりません。今日、この場に集まった皆さん、これまでの信仰観念で永遠の天倫を求める為にはいけません。永遠の天倫を代わりに現れるメシアを、その様に切望していたユダヤ人やイスラエル教の中心的な信仰とモーセの聖書中心のユダヤ教の教理的な視点を持ち、永遠の理想の基準を立てて固定化するならば、あなたはユダヤ人と同じく、自分自身も知らずに死の淵に陥ってしまいます。

ですから、あなたはイエス様が「父母を私よりも愛する者は私にとって値しなく、子供を私よりも愛する者も私にとって値しない。」(マタイ10:37)と言われた言葉を心に刻まなければなりません。イエス様は30年以上の生涯の中でゴルゴダの道を行かずに自分だけを見る生活をされなかったならば、神の救いの計略を果たす事はできませんでした。

それでは終末の審判の時である今日はどの様な時でしょうか?今日の時代はロトが住んでいたソドムとゴモラの時代と同じです。ですから、あなたは歴史の終わりにあたる今日のすべてを天の前に預け、天の命令に従って生きる人にならなければなりません。もしもそれができないなら、あなたはソドムとゴモラの審判に巻き込まれるロトの妻の様な立場に置かれる事になります。

また、皆さんはユダヤ教の信者やユダヤ人と同じ様な立場を取ってはいけません。そして、今この瞬間も生死の分かれ目の戦いが展開されているという事実を忘れてはいけません。

では、この様なサタンとの戦いで上下左右にサタンが攻撃してくるすきを与えない為にはどうすればよいでしょうか?皆さんはイエス様の悲しい心情を計る事ができる親兄弟の立場に立って共に涙を流し、お互いに慰め合う事ができなければなりません。そして、骨肉の溶ける様な天の恵みに共感できる仲間にならなければなりません。

困難があれば自分のものとせず、喜びがあれば親のもの、兄弟のもの、友達のものに戻さなければならず、神が人間の事情を知っているからこそ人間を許し与える事ができるのです。

ですから皆さんは兄弟の事情だけでなく、イエス様の事情もよく知り、お互いに愛し合い、支え合う天の家庭を築き、種族を形成して、イエス様が帰られるべき善の世界をこの地に成就させなければなりません。

今日召された地上の聖徒達が団結して天の家庭から天の種族、天の民族を形成し、イエス様が民族と4000年の歴史を代表した様に、民族の次元を超えて世界と6千年の歴史を代表して現れるならば、神の審判の行為は収まるでしょう。

これが起こり、皆さんの家庭や種族、全体が一つになったとき、おいでになるイエス様は栄光の中で顕現できるでしょう。今日、この様な基準を達成する為に私達は統一教会という看板を掲げる事になりました。

そして私達はお互いを家族と呼んでいます。この言葉と同じ様に私達は家族です。私達は兄弟でない兄弟として、民族でない民族として、一つの兄弟と民族となり、天倫の意志を担当するイスラエルを形成しているのです。

私達はイエスの悲しみを体現しながら拓く道を行かなければならず、サタンとの戦いの労苦を経て神の意志を完成する場所まで行かなければならない立場にあります。それによって悲しんで行かれたイエス様を喜びで迎える事ができる様になるでしょう。皆さんはこれを心に留めておく必要があります。

<祈祷>
お父様! 御言葉によって、私達が最後に見つけなければならない根本は兄弟姉妹と親である事を悟りました。天を中心に据えた家族と種族がこの地上に現れる事が、神の父の願いである事を理解しました。今日、私達が孤独な道を歩み出した者達は、イエス様の苦しみを代わりにし、親の立場を代わりにし、友達、兄弟姉妹、種族の立場を代わりにし、神の意志に対抗するサタンの力を打破する戦いの中で、天の子女になり、この頭を乗り越える事ができる様に導いてください。

切実に願います。今ここに参加している子供達を通して、御心の望みを成就させ、理想的な御心の家族、種族が私達を通して実現される様に許可してください!

そして、イエス様が直接訪れ、楽しんだり歌ったり休んだりできる私達の身心になり、天を中心に据えた兄弟姉妹になり、家族になれる様に導いてください。心よりお願いし、いつでもすべての言葉を主の名によって祈ります。
アーメン。



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御言葉選集2(13,14)

2023年11月11日 16時26分09秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 2 - 13 『復活の日を迎えて』(1957年4月17日)
1957年4月17日(水)復活祭、ソウル近郊の野外。

聖書拝読 ルカによる福音書 23:50-56


 復活の日は、人間が堕落した日からイエス様がおいでになる日まで、神が希望されていた日です。ユダヤ民族はもちろん、全人類とすべての被造物は共通して、堕落の状態を脱し復活できる日、すなわち復活の日を待ち望んでいました。つまり神は4,000年の間、この地に実質的な復活の日が現れることを望んで臨み、またイエス様も実質的な復活の日を迎えようとされました。

しかし、イスラエル民族の無知のためにイエス様は十字架に釘付けになり、イエス様は実質的な復活の使命を果たすことなく去られました。そのためにその後の2,000年間、この実質的な復活の日は全人類とすべての被造物の前に望みとして残りました。

神が帰還の時期を迎えて来られた4,000年の帰還史の全責任と宇宙的な使命がイエス様にかかっていた歴史的な事実を知っている者が果たして何人いたでしょうか?自分を中心にした希望ではなく、歴史的で宇宙的な神の希望を達成することが自分の希望であり、天上天下が神の前で復活の歌を歌う日を望み、30年以上もその希望を一瞬も忘れずに切ない生活を送って来られたイエス様の心情を理解する者がいたでしょうか。イエス様はイスラエル民族が無知で自分を信じてくれなかったがために、彼らに歴史的で宇宙的な希望である復活の栄光を与えるために自分の前世を犠牲にして歩み出されました。しかし、このような事実を誰も知る者がいませんでした。

イエス様はおいでになる最初から十字架で運命づけられるまで、この一つの希望である復活のためにどれほど努力し、苦しまれたことか、それを知らない限り、イエス様のその復活の価値はあなた方とは何の関係もなくなり、またあなた方はその復活に対する恩寵に感謝することもできないでしょう。

イエス様は知識のない人類を見ると、彼らが不信仰によってこれから先険しい道を歩まなければならないことを知りました。ですので、イエス様は自分の苦しみを全て忘れ、全人類が歩むべき苦難の道、死の道が後代に決して及ばないように彼らの前に復活の一時を立てるために、知られざる苦難の道を切望の心情で懸命に歩まれましたが、このような事情を全人類はまったく理解しなかったのです。

自らの生涯全体を自分に結びつけるのではなく、自分が望むその意志が宇宙的な次元で結実されることを望んでいたのがイエス・キリストの望みでした。このようなイエス様の心情は人間達は知りませんでしたが、天使達や霊的存在達、そして神は知っていました。当時、イエス様の心情を理解した唯一の存在は神だけでした。

しかし、イエス様が望んでいた友は天国の友ではなく、地上の人間達でした。しかし、なぜ地上の人間ではなく天が彼の友になったのでしょうか? イスラエルの民がイエス様の心情を理解する友の立場に立たねばならなかったのに、当然ながらそうなるべきイスラエルの民がそうしてくれなかったので、天が代わりに友の立場をとらざるを得なかったのです。

皆さんはこの事情を理解し、天でなく地上でイエス様の心情を代表する真の友となり、地上で真実の友を望んでいたイエス様の望みを実現できるよう努めなければなりません。

イエス様の復活によって、万物は新たな主人を迎える喜びを持つようになり、人間は再出発の道を迎えるようになりました。イエス様は霊的な戦いで勝利の喜びを迎え、4,000年間サタンの中傷を受けていた神もイエス様の復活によって外面的には中傷から解放される喜びを味わうことができるようになりました。

イエス様の復活によって、このように天上でも地上でも喜びがあったことを皆さんは知っておく必要があります。しかし、イエス様のサタンに対する勝利の喜びは死んでからではなく、生きている間に味わうべき喜びであり、イエス様の復活による神の喜びもサタンに対する外面的なものだけでなく、内面的で外面的な勝利の総合的な喜びであるべきでした。それ故に十字架の死によって神はもちろん全人類が適切に受けるべきよりも大きな喜びが今日まで希望の対象として残っているのです。

したがって、皆さんにはこれ以上の宇宙的な喜びを天の前に差し出す使命があるだけでなく、皆さん自身もそのような喜びを感じることができるべきです。

イエス・キリストの霊的な復活の喜びは、万物、人間、イエス、神が永遠に持っていなければならない喜びにはなりませんでした。その喜びは一方で悲しみを含む喜びであり、局部的な喜びに過ぎませんでした。今、皆さんはこの局部的な喜びを宇宙的な喜びに、悲しみを伴った喜びを伴わない永遠の喜びに変えて、イエス・キリストの復活によって神が喜ばれた以上に、皆さんの復活によって神が喜ぶことができるようにする必要があります。

そうして初めて、皆さんは真にイエス・キリストの復活の喜びを通して神の喜びを味わうことができます。これが皆さん各個人の望みと責務であるならば、皆さんはイエス・キリストが世界に対して抱いていた望みを皆さん自身の望みとし、イエス・キリストの義務を皆さん自身の義務とすべきです。

それを達成するためには、皆さんは復活の日を喜ぶ前に、イエス・キリストが復活するまで苦労された努力と、神が4,000年間苦労された努力を考えなければならず、その苦労の努力を皆さん自身が歩みで直接神の前に残されたその望みを達成して差し上げることができる、神の前に永遠の喜びを差し上げることができる皆さんの信仰生活となるべきです。







文鮮明先生御言葉選集 2-14  眠っている世界よ、目覚めよう (1957年5月19日)

1957年5月19日(日曜日)前本部教会で。

聖書拝読:詩篇98篇


<祈り> 愛するお父様! 私達があなたが望まれる創造の理想郷を成し遂げなければならないと感じています。

善と愛を中心にして永遠に楽しむために、人間とすべてのものを創られた父よ、今日私達の心はあなたの善意に満たされ、あなたの善意に似せようとしていますので、あなたの善をすべてのものの上に現してください。また、全ての被造物と共に活動することを私達は望んでおり、慈悲深いお父様、現れてください。

そうできる心の中心を許してください。聖なる体の本質を授け、あなたの手が届くところで振動でき、喜びできるようにしてください。そして、すべてを聖なるものにして、父の前に清く差し出せる息子娘になることを許してください。

天が望む永遠の理想は、人間を超えて達成されないことを、言葉を通して知っています。あなたであるお父様、宇宙のすべての福音を示す栄光を許された創造の基準があるので、それを今日ここに集まったあなたの息子娘の心を通して示し、体を通して生き生きとさせてください。

そして、私の本質を中心にして心から歌うことができ、自分を謙遜させて父に手を差し伸べ、栄光を返すことができるこの一時間を許してください。お父様、切にお願いいたします。

あなたが運行されるとき、全ての被造物の中で変わらず存在しない存在が一つもないことを知っています。お父様!ここに運行して、あなたの無限の愛を示し、父の善の歴史を起こしてください。

お父様の能力の歴史を代行できない悪の要素が私達に存在していますでしょうか?父よ!もし悪の要素が私達にあるなら、それを打ち破ってください。私達が勝利に満ちた聖なる性別を持ち、たとえ一時間でも父の深い愛の心、お父様の善の心、そしてお父様の6000年の辛い感情に共感できるようにし、お父様を心から心配し、お父様を迎え入れることができるように許してください、父よ、切に願います。

今、私達はすべてを父の前に委ねました。どうかお預かりいただき、お預かりください。私達が知っている知識では父の知識に対処できないことを知っていますし、私達が持っている権威は父の全体的な権威を超えることはできないことを知っています。また、人間が知っていることにも限界があり、人間が持つ理想にも限界があり、人間が誇れることにも限界があることを知っています。

私達はこの限られた領域の中で生きています。ですから、時間と空間を超えて、無限の関係を基盤にしている父の性格と性質の前に、不足している私達自身を明らかにし、地上で最初に目を覚まし、分け与えられた言葉を完全に受け入れ、その言葉通りに行動できる勝利の子供として許してください、父よ、切に願います。

許可していただいた言葉を通じて、私達の人生の段階でお父様が喜んでいただける勝利に満ちた光の基盤が作用するように許してください。そして、力の動力源を生み出せるように許してください! それによってすべてに立ち向かい、すべてを克服できるようにしていただき、それが私達の生活の基準になるように許してください、父よ、切に願います。

伝える者の心と受ける者の心に隙間がないように許してください。分け与えるお父様の心を自ら感じ、分け与えるお父様の声を自ら似せて、お父様が動けば私達も動き、お父様が静かであれば私達も静かになるような、動静の調和の賜物を許してください。お父様の心とお父様の姿を継承し、創造主であるお父様の善の中心を結実させて、お父様に栄光と美を差し上げることができるように許してください。切にお願いし、すべての言葉を主の名において述べました。アーメン。


<説教> 今日は「眠っている世界よ、目覚めよう」という題で少しご説教させていただきます。

神様が摂理され、いつかこの地は必ず光り輝く新しい朝を迎えることになります。そこで私達人間は全ての世界と共に栄光を讃え歌うべきです。神様と人間の望みは、人間がこの地で全ての被造物と共に父の前で栄光と喜びを捧げることです。

だからこそ、今日までの長い歴史を経て、人間達は全世界の人類が共に楽しむことができ、共に愛に満ちるその一時を迎えることを望み、その日がいつかはっきりと分からなくても、その日を待ち望んできたのです。

ではなぜ私達人間がこの死の領域に陥ってしまったのでしょうか?それは人間が堕落したからです。

そして堕落した人間達の中には、神と人間が共に楽しむことができる創造理想を地上に実現し、全てのものを代表して神に喜びと歓びの賛美を捧げる真の人が一人もいないということを、皆さんは原理を通じてよく理解しています。これは何を意味するかと言うと、まだ全人類の前に神を中心にした光り輝く新しい朝が訪れていないことを示しています。

これはまた、人間が新しいイデオロギーや原則を迎え入れる時がきたことを示しています。したがって、神と人間は今日まで新しい朝の明るい陽射しを浴びていないまま眠っているこの世界を再び目覚めさせなければならない宇宙的な責任を負っており、これを感じる皆さんがならなければならないでしょう。

たとえこのように眠っている世界に住んでいる私達でも、私達には新しい時の新しい知らせを聞く耳や見る目、感じる感覚があります。もし皆さんにこれらの耳や目、感覚がなければ、眠っているこの世界を目覚めさせることはできません。いや、眠っている世界を目覚めさせるどころか、皆さん自身ですら目覚めることはできません。

今、私達は哲学や宗教、歴史観を通じて新しい知らせを聞き、新しい事実を悟り、一歩進んで神が6千年にわたり摂理をなされながら人間達に呼びかけられているその声を聞き、聖霊を通して現れる神の姿を見なければなりません。

そうでなければ、私達は新しい時代の新しい知らせと何の関係も結ぶことができません。今日、多くの人々は終わりの時が近づいていると予告しており、多くの宗教、特にキリスト教は審判の日が近いと述べています。


では、こうした時に私達は何を探すべきでしょうか?まず、私達は眠りから目覚めなければならないと感じなければなりませんし、それをするためにはどんな刺激を受けるべきかを考えなければなりません。では、その刺激はどこから来るのでしょうか?それはあなたの生活領域内で聞こえ、見え、感じることができる新しい知らせから来ます。もしもあなたがこれを見つけて立てなければ、6千年の長い労苦に結びついているすべての悪感情を振り払い出ることはできません。

今日、皆さんがこの事実を理解するならば、新しい耳と新しい目、新しい心を持ち、宇宙的な摂理がどのような形で現れるかを知ることができるでしょう。今がこのように新しい目と耳と知覚を備えなければならない時です。

終わりの時が近づいている今、審判の日が迫っている今、もし神が存在するのであれば、神はこの地を死の世界または永遠に眠り続ける世界としてただ放置することは望まれないでしょう。必ずこの世界を目覚めさせ、創造本来の世界に回復させることでしょう。

少し前に終わりの時と言いましたが、今が終わりであることをどのように知ることができるでしょうか?新しいものの外観を持つ偽りのものが多く現れていることから、現在が終わりであることがわかります。歴史的に見ても、終末には天国を中心に真実が現れる前に常に偽りが最初に現れていたことです。

私達は混沌の時代に生きています。そして、私達自身の力では見聞きし得るすべての中から、何が真実であり、何が偽りかを判別することはできません。

では、何を基準に真実と偽りを判別できるでしょうか?それは知識や学識ではありません。それは各自の本心です。そして、終わりの時が近い今の時代は、誰がいつ私に侵入して私の生命と永遠の希望を侵害してくるかわからない時代です。私達が持っている知識や世俗的な条件を通して侵入してくるかもしれません。したがって、私達はこれまで私達が知っている知識や世俗的な条件を過度に重要視してはいけません。

これらのすべては善悪を判別する最高の基準とはなり得ないだけでなく、最高の善を断定することもできません。もしもこれらが最高の善を断定できるものであれば、すでに私達に神の声を聞かせ、新しい希望に向かって進む恩寵を与えていたでしょう。また、それは新しいものを感じ、実証的に体験できる刺激的なものでもあったでしょう。しかし、これらのことは私達にまだ神の永遠の理想を紹介していないのです。これを見るとき、知識や学識は善を断定する理想的なものではないことがわかります。

では、終末を迎える今日、私達がすべて目を覚ますためには何を探すべきでしょうか?私達は自分の心の奥底を見つめ、その心を通して本質世界と現象世界を統一的に説明する新しい真理を見つける必要があります。

このような心の奥底と真理を探求するために、多くの先祖達や歴史の中で祭り上げられてきた中心的な人物達が、今日まで長い歴史のプロセスを経て努力してきましたが、まだまだ天を代表する心の真理を見つけることができていません。

さらに、その心と対話し、動かし、永遠の理想として楽しむことができる基準が相対的に確立されていません。したがって、この地上にはまだ暗黒の壁が立ちはだかっているのです。これを理解する必要があります。

したがって、皆さんはこれらすべてを見つけ、一つの心、変わらぬ心の中心を確立し、立ちはだかっているすべての暗黒の壁を乗り越えなければなりません。しかし、現在の宗教生活の中で最も深刻な問題は何かと言うと、観念的な黙想と信仰です。例えば、人々は通常、イエスが十字架にかかっている時に感じた苦しみやその悲惨さを想像し、感じる刺激を通じて祈りを捧げようとします。しかし、皆さんはそうしてはいけません。皆さんは祈りを捧げるけれども、まず自分の本質を呼び起こして、祈りのできる心の態度を整えなければなりません。

そうすると、聖父、聖子、聖霊の神聖がその心の土台を通じて私達と関係を築くことができます。そのような関係が私達と築かれれば、私達の身体は自然にそこに恵まれた応答ができるようになっています。したがって、今日、最初に目を覚ました私達が、暗闇に閉ざされた世界のために何をすべきか?最初に目を覚ました私達自身の心を呼び覚まさなければなりません。

現在、あなたが生きている人生の中で素晴らしい師匠はいますか?あなたが素晴らしいと思う師匠がいたとしても、その人は一時的な師匠である可能性がありますが、あなたの永遠の生命を代わりにして永遠の天意の前に立ち、神聖な神を紹介できる師匠にはなり得ません。また、彼は一つの個人のある時期の過程で良い師匠になる可能性があるかもしれませんが、それ自体が持っている性格と天性を通じて真の命を持つ人間になるように導く永遠の命の指導者にはなり得ません。

したがって、現在の師匠や彼が教える基準があなたに神と永遠の関係を築いてくれないことに気づく必要があります。ですから、あなたは本音を見つけて心の耳を通じて天意の呼びかけを聞き、心の目を通じて神聖を見、心の感覚を通じて天の気持ちを感じる必要があります。そうでなければ、あなたは過去6000年の歴史的なプロセスをそのまま繰り返すことになります。

今まで私達は真に貴重なものは天だけだと思っていましたが、知ってみると私達の心も同様に貴重だということです。これに気づいて神を相手にできる高い価値基準を確立するあなたになり、心の核を見つけるあなたにならなければなりません。そのようなあなたがならない場合、あなたは天意の前に立つことはできません。

ここに集まった皆さんは今日まで皆さん独自の誠実な信仰生活をしてきたでしょうが、「皆さんは果たして自慢できる何かを持っていますか?」と問われた場合、「私は自慢できるものを持っています」と自信を持って答える人は多くないでしょう。たとえあなたの中で天前に自慢できるものを持っている人がいたとしても、神はそれを本音を通じて自慢することを望んでいます。

このように、あなたが天意を代わりにして永遠の理想を証明できる慈悲深い心で考え、生活すれば、あなたは絶対に道を踏み外すことはありません。

今日の信仰生活を送る人々は一般的に、概念的な世界とそのような対象から慰めを求めています。しかし、たとえ堕落していたとしても、人間は本来、永遠の本性と共鳴できる性格を持っており、それぞれの心の中には創造理想の要素があります。したがって、人間は罪を離れ完成し、神と一体となり、無限に幸せな生活を送ることができるのです。しかし、今日の信仰者達はこの事実を知らないでいるようです。

私達が祈る目的、または仏教徒が禅を通じて無我の境地に入る目的は何でしょうか?それは心の核になり得る要素に気づこうとすることです。あなたがそのような基準を設け、見聞きし、感じる心の中心を天意の前に置くならば、あなたは神の前で崇拝し、ハレルヤの栄光を捧げることができるようになります。

しかし、今日の人々の中にはこのような心の境地を望みながらも、この境地に達するために深く探求し、自分の本性を見つけ出して立てるために奮闘する人はいません。また、このような心を立ち上げるためにすべてを捨てる人もいません。今日の人々は、ある主義や信条のためには自分のすべてを捨てて立ち去ることを知っている一方で、それよりも重要な自分の心を立ち上げる真理のためには、そう簡単にはすべてを捨てようとしません。

ある主義のために自分のすべてを捨てる人、またはある信条のために自分の主張を捨てる人がいたとしても、それは自分の心を立ち上げる真理を見つけるためではなく、それよりも重要なものを見出すためではありません。では、このような心の核に入り、6000年にわたり祖先達から受け継いだ罪悪の血統を通じて継承された汚れた心を洗い流すには、どうすればよいでしょうか?イエス様が「心を尽くし、思いを尽くし、性格を尽くして、主、あなたの神を愛せよ。これが第一の戒めである」とおっしゃったように、あなたは心を尽くすことができる場に立たなければなりません。

また、どんな事柄にも、どんな問題にも生命をかけて立ち向かえる人でなければなりません。それは、あなた自身が滞在する場所でそうでなければならず、あなたが望む希望を中心に置き、進行中のすべての出来事でもそうでなければならず、生死の岐路でもあなたの心と体を尽くさなければならないのです。これらの人とならないと、すべてを目的として動いて出てくる天性の心の核を立ち上げることはできないことを知らなければなりません。

では、今日の私達はこのような心を立ち上げるためにどれだけの努力をしなければならないでしょうか? 6000年の人類の歴史が流れる中で、多くの預言者、多くの忠臣、賢婦、孝子、孝女が行ったり来たりしました。しかし、それらがいくら忠誠を尽くし、熱を尽くし、孝性を尽くしたとしても、まだまだ創造理想世界の完全な実現に向けて出発させる心の中心を立ち上げていないことから、それらの忠孝熱で戻りが終わらないことがわかります。

したがって、あなたもこれまで人類を救うために努力してきた忠臣や孝子、賢婦が尊重したそれ以上の基準を設けるために、天に向かって誠心を尽くし、力を尽くし、忠誠を尽くすことができる人でなければなりません。

そして、この国、私達の韓国の人々が今後、世界の人類を目覚めさせ新しい朝を迎える使命を持っているならば、韓国の人々は今後、他のどの国よりも神の意志のためにより誠心を尽くすべきです。

また、ここにいる皆さんが新しい信仰生活を開拓するための世界的な使命感と責任感を感じているならば、皆さんはそのような使命を受け持つために世界のどの人よりも最善を尽くす誠実な生活をしなければなりません。このように天に忠誠し、誠心を尽くした先祖達よりも、皆さんがどれだけ忠誠し、誠心を尽くせるか、これが問題です。

もしも今日まで歴史になかった忠臣や孝子となり、心を尽くし、意を尽くし、忠誠を尽くすそんな信仰者になるならば、またそのような人々が世界のどの民族よりも韓国民族の中に多くいると言われるならば、疑いなくこの一民族は天倫を代わって天に最も近い立場に立つと私は断言できます。

それゆえに、皆さんが今日、新しい集団として新しい信仰の旗を掲げ、全体的な使命と責任を持ち、万民の前に立ち上がると言うのであれば、誰よりも心の中でや誠心を尽くす面で先行しなければならず、歴史に来たる義人達よりも高い信仰の立場に立ち、彼らよりももっと真実な自己にならなければなりません。

もしもそのような信仰者がいるならば、神は帰還の歴史が延長されようとも、その人を中心にして巡り、摂理しようとするでしょう。今日、悪がはびこり、この世界が混沌することがあろうとも、このような新しい信仰の旗を掲げる民族がいるならば、その民族は眠っているこの世界を目覚めさせようとする神の召しを受けることができる民族になるでしょう。

それでは、今日の皆さんはこの社会に対して訴えかける声を持っていますか? また、刺激を与えることができる力を持っていますか? もしも皆さんにこの社会の基盤となるツールが備わっていて、この社会を刺激させる力があると言われるならば、皆さんは歴史にいた誰よりも一層努力してこの社会を目覚めさせるために尽力しなければなりません。このように誠実で忠誠心ある心で、この社会に新しい何かを示し、訴えかけることができなければ、皆さんはこの暗黒の世界から目を覚まし、永遠の神の愛の領域に入ることができません。

それでは、今日この場に集まった皆さん、新しい言葉を聞きましたか? 聞いたとして、どのような言葉でしょうか? 私の見解では、皆さんが聞いたことは、耳で聞いたものに過ぎません。また、新しい事実を見ましたか? それもまた、目で見たものに過ぎません。それでも皆さんが少しでも見たり聞いたりできたのは、それらがすでに約束されていたからです。

皆さんがここで目で見て耳で聞いた事実が少しでもあるならば、これからは新たにすべてを見て聞いて感じることができる心の中心を確実に据えなければなりません。もしもそうなれないならば、終末に天が「世界と万民のために立ち上がれ。」と言う時、皆さんは立ち上がれなくなることでしょう。

今まで人々は優れた師を尊敬し、また良い本を読もうとしました。優れた師や良い本も人間には必要でしょう。しかし、それだけでは永遠の理想の地を築くことはできず、また人類を解放することもできません。そのために皆さんは祈るとき、天倫を中心とした心を通さなければなりません。

そのような心の祈りを通して見て感じ、聞いた事実があるならば、皆さんはそれを示さなければならない責任があります。すなわち、見て聞いて感じて語る時間帯の中で、新たに目覚めた皆さんならば新しい生活の理念を立てていくべきだということです。

この過程にある皆さんは、これからはより厳しい試練を通して、より大きく目を覚まし、より多く耳で聞き、心でより多くのことを感じていく必要があります。また皆さんは新しい生活の舞台を眺めるべきであり、新しい生活の世界と天倫を見つめるべきでしょう。そのような立場から見ると、今日の人類が受ける苦しみは新しい事実を感じさせ、神の悲しみに共感させるものです。

しかし私達は神の悲しみを感じつつ、その悲しみを解消して差し上げる心を感じながらも、そのような心が長続きしないのは、現実の生活に直面する時、現実の生活の困難を超える力を持っていないからです。また私達はこれまでこの世界を否定的な生活環境としてしか見てこなかったためです。そのため私達は自分でも気づかぬうちに繰り返し苦しむ場から抜け出せていないのです。

今、新しい目を開き、新たに耳を傾け、新たに見聞きし、新たに悟り、新たに前進できると言われるならば、皆さんはどのような立場に立たねばならないでしょうか?

皆さんが果たさなければならない最も重要なことは、歴史の代わりに善を立て、現実の代わりに天倫を立て、未来の代わりに神の意志を成就させることです。

その使命を遂行して死の場を通過した後、皆さんはイエスの勝利の心情を感じ、悪に対する憤りの心情を感じ、責任を果たすことができるようになるでしょう。このような憤りの心情に突き動かされるイエスの力が皆さんを導いてくれないならば、皆さんは自分でも気づかないうちに逸れてしまうことでしょう。

それでは歴史の終末には、私達が審判の門を突破して進むことができるようにする歴史的な結実体が現れますが、その時私達はどのような心構えを持つべきでしょうか?

皆さんがこれまでに見聞きし知っている真実としては、または現実の生活環境に縛られる時は悪を打ち勝つことができないため、皆さんは歴史と現実を超えて悪に対する憤りを持つべきであり、永遠の歴史を責任持って天倫を代わりにして天に進むべきです。「父よ、敵を打ち破るために進んで出たので、どのような責任でも私に任せてください。」と言えるべきでしょう。このように現実を揺るがせる憤りに駆られない限り、わからない間に皆さんは自分の中心を失ってしまいかねません。

したがって、皆さんは今後、日々の生活において本心と良心に基づいて善悪を見分けねばなりません。そして神の摂理を畏れる立場から憤りの心情を持たねばなりません。そのような憤りの心情を持てなければ、サタンに対して戦いを挑むことはできないでしょう。

2,000年前において、イエス・キリストがサタンとの戦いで勝利できた理由は何だったでしょうか?それは、6,000年にわたり神に逆らってきた敵、サタンの本質を正確に知り、神の代理者として審判の杖を振りかざして彼らを打つことができたからです。

今日、皆さんが憤りに駆られて現実のあらゆる条件を制圧できる基準を立てたとしても、皆さんと共感できる相手に巡り会えなければ、天に訴えることができます。ですからイエス様はゲツセマネの園であらゆる苦難を忘れ、祈りながら宇宙的な憤りを感じ、訴えたのです。

したがって、皆さんは神の正義を確立し、神の敵であり私達の敵であるサタンを打ち破らなければならず、皆さんが住んでいる場所で憤りの心を持ち、国を代表して天に訴えるだけでなく、さらには世界を代表して神の意志を担当しなければなりません。

そのような皆さんがならなければ、神が望まれる理想郷が築かれる時、皆さんはその理想郷を自分のものとして所有できることを知らなければなりません。それでは、憤りを持った後にはどのようにすればよいでしょうか?

私達は結束して天国を叫ぶ者にならなければなりません。そして天国を叫びながら進む過程で、天倫により近い人や、善のためにより深い正義の心を持つ人が現れた場合、私達は適切にその人と調和しなければなりません。

このような観点から見ると、悪と対立しているキリスト教徒達は、それでも神を呼ぶ権能があるため、他の人よりも憤りをより多く感じているでしょう。

今、皆さんが義人と調和できる憤りと公正の気持ちを持っているならば、世界的なサタンとの対決に備えて、そのような憤りと公正の心を結びつけ、真心を傾けて責任を果たさなければなりません。

皆さんがそのような世界的な使命を果たす必要があるとき、神はようやく審判の歴史を成し遂げることができます。神が長い歴史の中で見守り、我慢していらした希望は何かと言えば、憤りを持ち、ますます自分の欠点を知り、次いですべての面で世界を代表してサタンと対決できる人が現れることです。

そして、そのような人達が結集して教会を導き、社会と世界を導き、神の前に現れることができると、神はようやく審判の決定を下すのです。

皆さんが神の子になりたいと願うならば、6千年間神の心に打ち勝った憤りを持たなければなりません。また、怨みが結ばれている神の心を代わりにできなければなりません。そして、敵であるサタンに対する憤りを持たなければなりません。

このように神の心を代わりにし、敵に対する憤りを持つ皆さんであれば、皆さんは結集して世界的に動き、敵との戦いで勝利するべきです。多くの人々は今日、このような使命を持っていることを知りません。

今日、キリスト教を信じている信者達は「敵を愛せ」というイエス様の言葉を強調しています。しかし、それは敵の中にある罪と悪までを愛せという意味ではなく、罪に縛られた人を哀れに思えということです。これを確実に理解する必要があります。無条件の愛は存在しません。他の人を愛するとは、その人の罪を愛することではなく、その人自体を愛することです。

終末の審判の際、神は罪人を罪悪の支配から救い出すためには、罪人を支配しているサタンを撃退しなければなりません。真実な人間を通してのみ、そのサタンを打つことができるのです。

今、皆さんは自分の栄光のために天国を求め、神に従ってはなりません。神に何かを成し遂げてもらいたいと願っても、そのためにはその要求に見合う資格がなければなりません。ですから、神の理念と心の支配で許される時と立場で、自分が神に訴えかけているかを常に見直さなければなりません。

しかし、今日の私達はどうでしょうか?神の心を理解せず、天命を裏切った立場を脱していないまま、自分の祈りだけを聞いてもらいたいと天に訴えています。私達はこの立場から抜け出し、すべてを忘れて天命を中心に怒りの気持ちを持ち、自分の一切を忘れ、民族や世界が死にゆくのを引き留め、天が悲しむことを引き留め、心を砕いて努力する人にならなければなりません。

このような生き方の基準を立て、「天よ、私を責任を持たせてください」と祈りを捧げた後で、皆さんは神の心に近づくことができるのです。しかし、そのような生き方の基準を立てずにただ天に従っている人が多いのです。

ですから皆さんは天地の主人意識を持たなければなりません。果たさなければならない責任、神が望む責任を果たした立場に立ち、サタンと戦うことができる人にならなければ、またイエス様を代わってサタンと戦う資格者にならなければ、皆さんの希望は実現できません。

ですから今日の皆さんは、自分の生活領域で怒りの気持ちを持ち、神の側に立ち、サタンに対する審判の行為を代行できる人々にならなければなりません。そのような責任を各自が果たすことができるという中心が皆さんの心に立っていなければ、サタンを審判するための日を迎えることはできないということです。

天の支配は世俗性を備えているため、皆さんも相対的に世俗性を備えた理念を追求しないといけません。ですから、何よりも皆さんが求めている要求が誰のためであり、皆さんが望んでいる希望が誰のための希望であるかを先に反省する必要があります。

しかし、今日のほとんどの人々は神を中心に据えた意志を要求するのではなく、自分を中心に据えた意志を要求しており、神の恵みを中心に楽しもうとせず、自分を中心に楽しもうとしています。

皆さんに許された恵みがあっても、その恵みは皆さんの個体だけのためのものではなく、皆さんを踏み台にして世界中に広がっていかなければならない恵みであり、あらゆる権威を握っているサタンにまで屈服させなければならない恵みであり、再び天の前に差し出さなければならない恵みなのです。

このように天から授かった恵みは、皆さん一個体だけのためのものではありません。社会のため、民族のため、世界のため、意志のため、天のための恵みです。それにもかかわらず、ほとんどの人々はこの恵みを自分の生活領域に閉じこめて楽しみ、自分だけのものとして楽しもうとします。しかし、その恵みはその場にもはや留まることができず、去ってしまうものなのです。

ですから天からどんな恵みを受けたとしても、皆さんは怒りの気持ちを持ち、天を代わってサタンと戦うことができなければなりません。自分を中心にして判断する行動をしてはいけません。このように許された恵みを受けた者が、自分を中心に楽しもうとしたり、自分を中心にして他人を裁くことをしようとしたりすれば、それは正しい信仰ではないので、許された意志の道を歩むことができません。

このためには、自らのすべてを犠牲にする必要があります。天倫と公義を中心に据え、この土地が神の前で栄光を称えることができる道があるなら、皆さんは自らが信仰する宗教でさえ犠牲にしなければならないばかりか、持っているすべてを捨て去らなければなりません。

それゆえ、私達は怒りの気持ちを持ち、結束してサタンと戦わなければなりません。サタンは私達の現在の敵であり、過去の敵であり、未来の敵です。このようなサタンと戦って勝利するためには、皆が一つに結束して宇宙的な公義の法を制定し、それを基準に前進しなければなりません。

では、サタンと戦って勝利するためには、何が生活の基準となるべきでしょうか?まず、十字架を負うことのできる神の真の子女となることです。

そして、悲しいし難しい状況に侵入してくるサタンを打ち破る神の真の子女となることです。これを達成するためには、私達はその困難を克服し、むしろサタンよりも一層一生懸命に私達の責任を果たさなければなりません。

私達は神の真の子女として、これまでに存在したあらゆる悪を打ち砕かなければなりません。悪に押し流されてはなりません。むしろ、善が悪を打ち勝って残るように、私達は勇敢でなければなりません。そうすれば、神の御心が達成されることを皆さんは知っておかなければなりません。

そうして勝利した個人が、勝利した兄弟になり、勝利した兄弟が勝利した家庭になり、勝利した家庭が勝利した社会、国家、世界に拡大されていくべきです。ですから、皆さんは神が望む正義の法を中心において、神の意向を解放しようとする熱心な気持ちを持ち、何としても千万のサタンと対決して一人でも戦い、勝利する決意を持たなければなりません。そうしなければ、理想的な世界が築かれる際に、神が許可されるその範囲内で永遠に生きることができる神の子女にはなれませんので、そのことを肝に銘じなければなりません。

愛おしいお父様!私達の前に残されているものは、ただ天倫の御心だけであると私達は知っています。そして、その御心の中心がお父様と真の親であることを認識しており、また地上に住む人々が真の親の真の子女になるべきだということも理解しています。

さらに、お父様が私達に望まれていることは、全人類が一つの兄弟になり、全人類がお父様の真の子女になることであると私達は知っています。

お父様! 私達はまた、お父様がお望みの真の子女の立場に立ち、真になりたいと望む人々を妨げ、彼らを虐待する罪がこの地上のどんな罪よりも大きいことを知っています。人間の真の誠実さを傷つけることも許されない罪ですが、真の兄弟愛を失くすことが天倫の前でより大きな罪となることを忘れないように、私達を導いてください。

お父様、ここに集まった子女達、深い眠りの中から目覚めさせようとする天倫の前で、どんな兄弟のために立ち上がらないと言えるでしょうか。牧者の導きに従って動く自分と認識できるように、私達がそのような立場に立たないように助けてください。そして、その兄弟すらも自分が責任を持ち、天倫を代わって隠れた祭壇を築くことのできる子女となるように、お許しください。

また、あなたが望まれる永遠の子の理想を立てさせ、いつも見守っておられるあなたの眼差しを感じさせ、あなたの愛の手を感じさせ、あなたの訴える声を聞かせ、教訓の言葉を述べ、慈愛に満ちたあなたの心情に感応して、父の心情を共有し、父の姿に倣い、その意向の前に何度でも死んでも礼拝し、感謝できるイエス・キリストの弟子達になるように、お願いいたします。

この時間、私達は天倫の意向を妨げる多くの敵に対して新たに感じることができる言葉を聞きました。新たに感じたこの事実を心に刻んで、今日の言葉が私個人の感情で終わるものではなく、この言葉が歴史を代表し、宇宙を代表する天倫の前で全体を結びつけなければならないこと、私達にはそのような使命があることを知らせてください。

お父様よ!この道を妨げる多くの敵に対して天倫を代わって公正な心情と憤りの心情を持って戦うことができるようにし、父の前で勝利の日を差し出すために、耐え、また耐えて前進することを可能にし、勝利のその日に、これまで我慢してきた私達の憎しみを父に訴えることができ、父の尊い手を握って慰めを受ける位置まで進むことができるように、導いてください。

眠っているこの地のすべての人類を目覚めさせてください。創造されたすべての世界がため息の中にあるので、私達を動員してこれを回復させ、24億の人々が各自の責任を果たしてみんなが天国の人になれるように、天の知恵を許可してください。

この場に集まった幼い子供達よ、どんな戦いの困難にも耐えぬいて立ち向かうことのできる子女となり、自分のすべてを捨ててでも意志だけを追求できる天の戦士となるように、お許しください。この道を妨げる多くの敵に対して天倫を代わって正義の心情と憤りの心情を持って戦うことができるようにし、父の前で勝利の日を差し出すために、耐え、また耐えて前進することを可能にし、勝利のその日に、これまで我慢してきた私達の憎しみを父に訴えることができ、父の尊い手を握って慰めを受ける位置まで進むことができるように、導いてください。アーメン。


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