人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全世界の人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集2(13,14)

2023年11月11日 16時26分09秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 2 - 13 『復活の日を迎えて』(1957年4月17日)
1957年4月17日(水)復活祭、ソウル近郊の野外。

聖書拝読 ルカによる福音書 23:50-56


 復活の日は、人間が堕落した日からイエス様がおいでになる日まで、神が希望されていた日です。ユダヤ民族はもちろん、全人類とすべての被造物は共通して、堕落の状態を脱し復活できる日、すなわち復活の日を待ち望んでいました。つまり神は4,000年の間、この地に実質的な復活の日が現れることを望んで臨み、またイエス様も実質的な復活の日を迎えようとされました。

しかし、イスラエル民族の無知のためにイエス様は十字架に釘付けになり、イエス様は実質的な復活の使命を果たすことなく去られました。そのためにその後の2,000年間、この実質的な復活の日は全人類とすべての被造物の前に望みとして残りました。

神が帰還の時期を迎えて来られた4,000年の帰還史の全責任と宇宙的な使命がイエス様にかかっていた歴史的な事実を知っている者が果たして何人いたでしょうか?自分を中心にした希望ではなく、歴史的で宇宙的な神の希望を達成することが自分の希望であり、天上天下が神の前で復活の歌を歌う日を望み、30年以上もその希望を一瞬も忘れずに切ない生活を送って来られたイエス様の心情を理解する者がいたでしょうか。イエス様はイスラエル民族が無知で自分を信じてくれなかったがために、彼らに歴史的で宇宙的な希望である復活の栄光を与えるために自分の前世を犠牲にして歩み出されました。しかし、このような事実を誰も知る者がいませんでした。

イエス様はおいでになる最初から十字架で運命づけられるまで、この一つの希望である復活のためにどれほど努力し、苦しまれたことか、それを知らない限り、イエス様のその復活の価値はあなた方とは何の関係もなくなり、またあなた方はその復活に対する恩寵に感謝することもできないでしょう。

イエス様は知識のない人類を見ると、彼らが不信仰によってこれから先険しい道を歩まなければならないことを知りました。ですので、イエス様は自分の苦しみを全て忘れ、全人類が歩むべき苦難の道、死の道が後代に決して及ばないように彼らの前に復活の一時を立てるために、知られざる苦難の道を切望の心情で懸命に歩まれましたが、このような事情を全人類はまったく理解しなかったのです。

自らの生涯全体を自分に結びつけるのではなく、自分が望むその意志が宇宙的な次元で結実されることを望んでいたのがイエス・キリストの望みでした。このようなイエス様の心情は人間達は知りませんでしたが、天使達や霊的存在達、そして神は知っていました。当時、イエス様の心情を理解した唯一の存在は神だけでした。

しかし、イエス様が望んでいた友は天国の友ではなく、地上の人間達でした。しかし、なぜ地上の人間ではなく天が彼の友になったのでしょうか? イスラエルの民がイエス様の心情を理解する友の立場に立たねばならなかったのに、当然ながらそうなるべきイスラエルの民がそうしてくれなかったので、天が代わりに友の立場をとらざるを得なかったのです。

皆さんはこの事情を理解し、天でなく地上でイエス様の心情を代表する真の友となり、地上で真実の友を望んでいたイエス様の望みを実現できるよう努めなければなりません。

イエス様の復活によって、万物は新たな主人を迎える喜びを持つようになり、人間は再出発の道を迎えるようになりました。イエス様は霊的な戦いで勝利の喜びを迎え、4,000年間サタンの中傷を受けていた神もイエス様の復活によって外面的には中傷から解放される喜びを味わうことができるようになりました。

イエス様の復活によって、このように天上でも地上でも喜びがあったことを皆さんは知っておく必要があります。しかし、イエス様のサタンに対する勝利の喜びは死んでからではなく、生きている間に味わうべき喜びであり、イエス様の復活による神の喜びもサタンに対する外面的なものだけでなく、内面的で外面的な勝利の総合的な喜びであるべきでした。それ故に十字架の死によって神はもちろん全人類が適切に受けるべきよりも大きな喜びが今日まで希望の対象として残っているのです。

したがって、皆さんにはこれ以上の宇宙的な喜びを天の前に差し出す使命があるだけでなく、皆さん自身もそのような喜びを感じることができるべきです。

イエス・キリストの霊的な復活の喜びは、万物、人間、イエス、神が永遠に持っていなければならない喜びにはなりませんでした。その喜びは一方で悲しみを含む喜びであり、局部的な喜びに過ぎませんでした。今、皆さんはこの局部的な喜びを宇宙的な喜びに、悲しみを伴った喜びを伴わない永遠の喜びに変えて、イエス・キリストの復活によって神が喜ばれた以上に、皆さんの復活によって神が喜ぶことができるようにする必要があります。

そうして初めて、皆さんは真にイエス・キリストの復活の喜びを通して神の喜びを味わうことができます。これが皆さん各個人の望みと責務であるならば、皆さんはイエス・キリストが世界に対して抱いていた望みを皆さん自身の望みとし、イエス・キリストの義務を皆さん自身の義務とすべきです。

それを達成するためには、皆さんは復活の日を喜ぶ前に、イエス・キリストが復活するまで苦労された努力と、神が4,000年間苦労された努力を考えなければならず、その苦労の努力を皆さん自身が歩みで直接神の前に残されたその望みを達成して差し上げることができる、神の前に永遠の喜びを差し上げることができる皆さんの信仰生活となるべきです。







文鮮明先生御言葉選集 2-14  眠っている世界よ、目覚めよう (1957年5月19日)

1957年5月19日(日曜日)前本部教会で。

聖書拝読:詩篇98篇


<祈り> 愛するお父様! 私達があなたが望まれる創造の理想郷を成し遂げなければならないと感じています。

善と愛を中心にして永遠に楽しむために、人間とすべてのものを創られた父よ、今日私達の心はあなたの善意に満たされ、あなたの善意に似せようとしていますので、あなたの善をすべてのものの上に現してください。また、全ての被造物と共に活動することを私達は望んでおり、慈悲深いお父様、現れてください。

そうできる心の中心を許してください。聖なる体の本質を授け、あなたの手が届くところで振動でき、喜びできるようにしてください。そして、すべてを聖なるものにして、父の前に清く差し出せる息子娘になることを許してください。

天が望む永遠の理想は、人間を超えて達成されないことを、言葉を通して知っています。あなたであるお父様、宇宙のすべての福音を示す栄光を許された創造の基準があるので、それを今日ここに集まったあなたの息子娘の心を通して示し、体を通して生き生きとさせてください。

そして、私の本質を中心にして心から歌うことができ、自分を謙遜させて父に手を差し伸べ、栄光を返すことができるこの一時間を許してください。お父様、切にお願いいたします。

あなたが運行されるとき、全ての被造物の中で変わらず存在しない存在が一つもないことを知っています。お父様!ここに運行して、あなたの無限の愛を示し、父の善の歴史を起こしてください。

お父様の能力の歴史を代行できない悪の要素が私達に存在していますでしょうか?父よ!もし悪の要素が私達にあるなら、それを打ち破ってください。私達が勝利に満ちた聖なる性別を持ち、たとえ一時間でも父の深い愛の心、お父様の善の心、そしてお父様の6000年の辛い感情に共感できるようにし、お父様を心から心配し、お父様を迎え入れることができるように許してください、父よ、切に願います。

今、私達はすべてを父の前に委ねました。どうかお預かりいただき、お預かりください。私達が知っている知識では父の知識に対処できないことを知っていますし、私達が持っている権威は父の全体的な権威を超えることはできないことを知っています。また、人間が知っていることにも限界があり、人間が持つ理想にも限界があり、人間が誇れることにも限界があることを知っています。

私達はこの限られた領域の中で生きています。ですから、時間と空間を超えて、無限の関係を基盤にしている父の性格と性質の前に、不足している私達自身を明らかにし、地上で最初に目を覚まし、分け与えられた言葉を完全に受け入れ、その言葉通りに行動できる勝利の子供として許してください、父よ、切に願います。

許可していただいた言葉を通じて、私達の人生の段階でお父様が喜んでいただける勝利に満ちた光の基盤が作用するように許してください。そして、力の動力源を生み出せるように許してください! それによってすべてに立ち向かい、すべてを克服できるようにしていただき、それが私達の生活の基準になるように許してください、父よ、切に願います。

伝える者の心と受ける者の心に隙間がないように許してください。分け与えるお父様の心を自ら感じ、分け与えるお父様の声を自ら似せて、お父様が動けば私達も動き、お父様が静かであれば私達も静かになるような、動静の調和の賜物を許してください。お父様の心とお父様の姿を継承し、創造主であるお父様の善の中心を結実させて、お父様に栄光と美を差し上げることができるように許してください。切にお願いし、すべての言葉を主の名において述べました。アーメン。


<説教> 今日は「眠っている世界よ、目覚めよう」という題で少しご説教させていただきます。

神様が摂理され、いつかこの地は必ず光り輝く新しい朝を迎えることになります。そこで私達人間は全ての世界と共に栄光を讃え歌うべきです。神様と人間の望みは、人間がこの地で全ての被造物と共に父の前で栄光と喜びを捧げることです。

だからこそ、今日までの長い歴史を経て、人間達は全世界の人類が共に楽しむことができ、共に愛に満ちるその一時を迎えることを望み、その日がいつかはっきりと分からなくても、その日を待ち望んできたのです。

ではなぜ私達人間がこの死の領域に陥ってしまったのでしょうか?それは人間が堕落したからです。

そして堕落した人間達の中には、神と人間が共に楽しむことができる創造理想を地上に実現し、全てのものを代表して神に喜びと歓びの賛美を捧げる真の人が一人もいないということを、皆さんは原理を通じてよく理解しています。これは何を意味するかと言うと、まだ全人類の前に神を中心にした光り輝く新しい朝が訪れていないことを示しています。

これはまた、人間が新しいイデオロギーや原則を迎え入れる時がきたことを示しています。したがって、神と人間は今日まで新しい朝の明るい陽射しを浴びていないまま眠っているこの世界を再び目覚めさせなければならない宇宙的な責任を負っており、これを感じる皆さんがならなければならないでしょう。

たとえこのように眠っている世界に住んでいる私達でも、私達には新しい時の新しい知らせを聞く耳や見る目、感じる感覚があります。もし皆さんにこれらの耳や目、感覚がなければ、眠っているこの世界を目覚めさせることはできません。いや、眠っている世界を目覚めさせるどころか、皆さん自身ですら目覚めることはできません。

今、私達は哲学や宗教、歴史観を通じて新しい知らせを聞き、新しい事実を悟り、一歩進んで神が6千年にわたり摂理をなされながら人間達に呼びかけられているその声を聞き、聖霊を通して現れる神の姿を見なければなりません。

そうでなければ、私達は新しい時代の新しい知らせと何の関係も結ぶことができません。今日、多くの人々は終わりの時が近づいていると予告しており、多くの宗教、特にキリスト教は審判の日が近いと述べています。


では、こうした時に私達は何を探すべきでしょうか?まず、私達は眠りから目覚めなければならないと感じなければなりませんし、それをするためにはどんな刺激を受けるべきかを考えなければなりません。では、その刺激はどこから来るのでしょうか?それはあなたの生活領域内で聞こえ、見え、感じることができる新しい知らせから来ます。もしもあなたがこれを見つけて立てなければ、6千年の長い労苦に結びついているすべての悪感情を振り払い出ることはできません。

今日、皆さんがこの事実を理解するならば、新しい耳と新しい目、新しい心を持ち、宇宙的な摂理がどのような形で現れるかを知ることができるでしょう。今がこのように新しい目と耳と知覚を備えなければならない時です。

終わりの時が近づいている今、審判の日が迫っている今、もし神が存在するのであれば、神はこの地を死の世界または永遠に眠り続ける世界としてただ放置することは望まれないでしょう。必ずこの世界を目覚めさせ、創造本来の世界に回復させることでしょう。

少し前に終わりの時と言いましたが、今が終わりであることをどのように知ることができるでしょうか?新しいものの外観を持つ偽りのものが多く現れていることから、現在が終わりであることがわかります。歴史的に見ても、終末には天国を中心に真実が現れる前に常に偽りが最初に現れていたことです。

私達は混沌の時代に生きています。そして、私達自身の力では見聞きし得るすべての中から、何が真実であり、何が偽りかを判別することはできません。

では、何を基準に真実と偽りを判別できるでしょうか?それは知識や学識ではありません。それは各自の本心です。そして、終わりの時が近い今の時代は、誰がいつ私に侵入して私の生命と永遠の希望を侵害してくるかわからない時代です。私達が持っている知識や世俗的な条件を通して侵入してくるかもしれません。したがって、私達はこれまで私達が知っている知識や世俗的な条件を過度に重要視してはいけません。

これらのすべては善悪を判別する最高の基準とはなり得ないだけでなく、最高の善を断定することもできません。もしもこれらが最高の善を断定できるものであれば、すでに私達に神の声を聞かせ、新しい希望に向かって進む恩寵を与えていたでしょう。また、それは新しいものを感じ、実証的に体験できる刺激的なものでもあったでしょう。しかし、これらのことは私達にまだ神の永遠の理想を紹介していないのです。これを見るとき、知識や学識は善を断定する理想的なものではないことがわかります。

では、終末を迎える今日、私達がすべて目を覚ますためには何を探すべきでしょうか?私達は自分の心の奥底を見つめ、その心を通して本質世界と現象世界を統一的に説明する新しい真理を見つける必要があります。

このような心の奥底と真理を探求するために、多くの先祖達や歴史の中で祭り上げられてきた中心的な人物達が、今日まで長い歴史のプロセスを経て努力してきましたが、まだまだ天を代表する心の真理を見つけることができていません。

さらに、その心と対話し、動かし、永遠の理想として楽しむことができる基準が相対的に確立されていません。したがって、この地上にはまだ暗黒の壁が立ちはだかっているのです。これを理解する必要があります。

したがって、皆さんはこれらすべてを見つけ、一つの心、変わらぬ心の中心を確立し、立ちはだかっているすべての暗黒の壁を乗り越えなければなりません。しかし、現在の宗教生活の中で最も深刻な問題は何かと言うと、観念的な黙想と信仰です。例えば、人々は通常、イエスが十字架にかかっている時に感じた苦しみやその悲惨さを想像し、感じる刺激を通じて祈りを捧げようとします。しかし、皆さんはそうしてはいけません。皆さんは祈りを捧げるけれども、まず自分の本質を呼び起こして、祈りのできる心の態度を整えなければなりません。

そうすると、聖父、聖子、聖霊の神聖がその心の土台を通じて私達と関係を築くことができます。そのような関係が私達と築かれれば、私達の身体は自然にそこに恵まれた応答ができるようになっています。したがって、今日、最初に目を覚ました私達が、暗闇に閉ざされた世界のために何をすべきか?最初に目を覚ました私達自身の心を呼び覚まさなければなりません。

現在、あなたが生きている人生の中で素晴らしい師匠はいますか?あなたが素晴らしいと思う師匠がいたとしても、その人は一時的な師匠である可能性がありますが、あなたの永遠の生命を代わりにして永遠の天意の前に立ち、神聖な神を紹介できる師匠にはなり得ません。また、彼は一つの個人のある時期の過程で良い師匠になる可能性があるかもしれませんが、それ自体が持っている性格と天性を通じて真の命を持つ人間になるように導く永遠の命の指導者にはなり得ません。

したがって、現在の師匠や彼が教える基準があなたに神と永遠の関係を築いてくれないことに気づく必要があります。ですから、あなたは本音を見つけて心の耳を通じて天意の呼びかけを聞き、心の目を通じて神聖を見、心の感覚を通じて天の気持ちを感じる必要があります。そうでなければ、あなたは過去6000年の歴史的なプロセスをそのまま繰り返すことになります。

今まで私達は真に貴重なものは天だけだと思っていましたが、知ってみると私達の心も同様に貴重だということです。これに気づいて神を相手にできる高い価値基準を確立するあなたになり、心の核を見つけるあなたにならなければなりません。そのようなあなたがならない場合、あなたは天意の前に立つことはできません。

ここに集まった皆さんは今日まで皆さん独自の誠実な信仰生活をしてきたでしょうが、「皆さんは果たして自慢できる何かを持っていますか?」と問われた場合、「私は自慢できるものを持っています」と自信を持って答える人は多くないでしょう。たとえあなたの中で天前に自慢できるものを持っている人がいたとしても、神はそれを本音を通じて自慢することを望んでいます。

このように、あなたが天意を代わりにして永遠の理想を証明できる慈悲深い心で考え、生活すれば、あなたは絶対に道を踏み外すことはありません。

今日の信仰生活を送る人々は一般的に、概念的な世界とそのような対象から慰めを求めています。しかし、たとえ堕落していたとしても、人間は本来、永遠の本性と共鳴できる性格を持っており、それぞれの心の中には創造理想の要素があります。したがって、人間は罪を離れ完成し、神と一体となり、無限に幸せな生活を送ることができるのです。しかし、今日の信仰者達はこの事実を知らないでいるようです。

私達が祈る目的、または仏教徒が禅を通じて無我の境地に入る目的は何でしょうか?それは心の核になり得る要素に気づこうとすることです。あなたがそのような基準を設け、見聞きし、感じる心の中心を天意の前に置くならば、あなたは神の前で崇拝し、ハレルヤの栄光を捧げることができるようになります。

しかし、今日の人々の中にはこのような心の境地を望みながらも、この境地に達するために深く探求し、自分の本性を見つけ出して立てるために奮闘する人はいません。また、このような心を立ち上げるためにすべてを捨てる人もいません。今日の人々は、ある主義や信条のためには自分のすべてを捨てて立ち去ることを知っている一方で、それよりも重要な自分の心を立ち上げる真理のためには、そう簡単にはすべてを捨てようとしません。

ある主義のために自分のすべてを捨てる人、またはある信条のために自分の主張を捨てる人がいたとしても、それは自分の心を立ち上げる真理を見つけるためではなく、それよりも重要なものを見出すためではありません。では、このような心の核に入り、6000年にわたり祖先達から受け継いだ罪悪の血統を通じて継承された汚れた心を洗い流すには、どうすればよいでしょうか?イエス様が「心を尽くし、思いを尽くし、性格を尽くして、主、あなたの神を愛せよ。これが第一の戒めである」とおっしゃったように、あなたは心を尽くすことができる場に立たなければなりません。

また、どんな事柄にも、どんな問題にも生命をかけて立ち向かえる人でなければなりません。それは、あなた自身が滞在する場所でそうでなければならず、あなたが望む希望を中心に置き、進行中のすべての出来事でもそうでなければならず、生死の岐路でもあなたの心と体を尽くさなければならないのです。これらの人とならないと、すべてを目的として動いて出てくる天性の心の核を立ち上げることはできないことを知らなければなりません。

では、今日の私達はこのような心を立ち上げるためにどれだけの努力をしなければならないでしょうか? 6000年の人類の歴史が流れる中で、多くの預言者、多くの忠臣、賢婦、孝子、孝女が行ったり来たりしました。しかし、それらがいくら忠誠を尽くし、熱を尽くし、孝性を尽くしたとしても、まだまだ創造理想世界の完全な実現に向けて出発させる心の中心を立ち上げていないことから、それらの忠孝熱で戻りが終わらないことがわかります。

したがって、あなたもこれまで人類を救うために努力してきた忠臣や孝子、賢婦が尊重したそれ以上の基準を設けるために、天に向かって誠心を尽くし、力を尽くし、忠誠を尽くすことができる人でなければなりません。

そして、この国、私達の韓国の人々が今後、世界の人類を目覚めさせ新しい朝を迎える使命を持っているならば、韓国の人々は今後、他のどの国よりも神の意志のためにより誠心を尽くすべきです。

また、ここにいる皆さんが新しい信仰生活を開拓するための世界的な使命感と責任感を感じているならば、皆さんはそのような使命を受け持つために世界のどの人よりも最善を尽くす誠実な生活をしなければなりません。このように天に忠誠し、誠心を尽くした先祖達よりも、皆さんがどれだけ忠誠し、誠心を尽くせるか、これが問題です。

もしも今日まで歴史になかった忠臣や孝子となり、心を尽くし、意を尽くし、忠誠を尽くすそんな信仰者になるならば、またそのような人々が世界のどの民族よりも韓国民族の中に多くいると言われるならば、疑いなくこの一民族は天倫を代わって天に最も近い立場に立つと私は断言できます。

それゆえに、皆さんが今日、新しい集団として新しい信仰の旗を掲げ、全体的な使命と責任を持ち、万民の前に立ち上がると言うのであれば、誰よりも心の中でや誠心を尽くす面で先行しなければならず、歴史に来たる義人達よりも高い信仰の立場に立ち、彼らよりももっと真実な自己にならなければなりません。

もしもそのような信仰者がいるならば、神は帰還の歴史が延長されようとも、その人を中心にして巡り、摂理しようとするでしょう。今日、悪がはびこり、この世界が混沌することがあろうとも、このような新しい信仰の旗を掲げる民族がいるならば、その民族は眠っているこの世界を目覚めさせようとする神の召しを受けることができる民族になるでしょう。

それでは、今日の皆さんはこの社会に対して訴えかける声を持っていますか? また、刺激を与えることができる力を持っていますか? もしも皆さんにこの社会の基盤となるツールが備わっていて、この社会を刺激させる力があると言われるならば、皆さんは歴史にいた誰よりも一層努力してこの社会を目覚めさせるために尽力しなければなりません。このように誠実で忠誠心ある心で、この社会に新しい何かを示し、訴えかけることができなければ、皆さんはこの暗黒の世界から目を覚まし、永遠の神の愛の領域に入ることができません。

それでは、今日この場に集まった皆さん、新しい言葉を聞きましたか? 聞いたとして、どのような言葉でしょうか? 私の見解では、皆さんが聞いたことは、耳で聞いたものに過ぎません。また、新しい事実を見ましたか? それもまた、目で見たものに過ぎません。それでも皆さんが少しでも見たり聞いたりできたのは、それらがすでに約束されていたからです。

皆さんがここで目で見て耳で聞いた事実が少しでもあるならば、これからは新たにすべてを見て聞いて感じることができる心の中心を確実に据えなければなりません。もしもそうなれないならば、終末に天が「世界と万民のために立ち上がれ。」と言う時、皆さんは立ち上がれなくなることでしょう。

今まで人々は優れた師を尊敬し、また良い本を読もうとしました。優れた師や良い本も人間には必要でしょう。しかし、それだけでは永遠の理想の地を築くことはできず、また人類を解放することもできません。そのために皆さんは祈るとき、天倫を中心とした心を通さなければなりません。

そのような心の祈りを通して見て感じ、聞いた事実があるならば、皆さんはそれを示さなければならない責任があります。すなわち、見て聞いて感じて語る時間帯の中で、新たに目覚めた皆さんならば新しい生活の理念を立てていくべきだということです。

この過程にある皆さんは、これからはより厳しい試練を通して、より大きく目を覚まし、より多く耳で聞き、心でより多くのことを感じていく必要があります。また皆さんは新しい生活の舞台を眺めるべきであり、新しい生活の世界と天倫を見つめるべきでしょう。そのような立場から見ると、今日の人類が受ける苦しみは新しい事実を感じさせ、神の悲しみに共感させるものです。

しかし私達は神の悲しみを感じつつ、その悲しみを解消して差し上げる心を感じながらも、そのような心が長続きしないのは、現実の生活に直面する時、現実の生活の困難を超える力を持っていないからです。また私達はこれまでこの世界を否定的な生活環境としてしか見てこなかったためです。そのため私達は自分でも気づかぬうちに繰り返し苦しむ場から抜け出せていないのです。

今、新しい目を開き、新たに耳を傾け、新たに見聞きし、新たに悟り、新たに前進できると言われるならば、皆さんはどのような立場に立たねばならないでしょうか?

皆さんが果たさなければならない最も重要なことは、歴史の代わりに善を立て、現実の代わりに天倫を立て、未来の代わりに神の意志を成就させることです。

その使命を遂行して死の場を通過した後、皆さんはイエスの勝利の心情を感じ、悪に対する憤りの心情を感じ、責任を果たすことができるようになるでしょう。このような憤りの心情に突き動かされるイエスの力が皆さんを導いてくれないならば、皆さんは自分でも気づかないうちに逸れてしまうことでしょう。

それでは歴史の終末には、私達が審判の門を突破して進むことができるようにする歴史的な結実体が現れますが、その時私達はどのような心構えを持つべきでしょうか?

皆さんがこれまでに見聞きし知っている真実としては、または現実の生活環境に縛られる時は悪を打ち勝つことができないため、皆さんは歴史と現実を超えて悪に対する憤りを持つべきであり、永遠の歴史を責任持って天倫を代わりにして天に進むべきです。「父よ、敵を打ち破るために進んで出たので、どのような責任でも私に任せてください。」と言えるべきでしょう。このように現実を揺るがせる憤りに駆られない限り、わからない間に皆さんは自分の中心を失ってしまいかねません。

したがって、皆さんは今後、日々の生活において本心と良心に基づいて善悪を見分けねばなりません。そして神の摂理を畏れる立場から憤りの心情を持たねばなりません。そのような憤りの心情を持てなければ、サタンに対して戦いを挑むことはできないでしょう。

2,000年前において、イエス・キリストがサタンとの戦いで勝利できた理由は何だったでしょうか?それは、6,000年にわたり神に逆らってきた敵、サタンの本質を正確に知り、神の代理者として審判の杖を振りかざして彼らを打つことができたからです。

今日、皆さんが憤りに駆られて現実のあらゆる条件を制圧できる基準を立てたとしても、皆さんと共感できる相手に巡り会えなければ、天に訴えることができます。ですからイエス様はゲツセマネの園であらゆる苦難を忘れ、祈りながら宇宙的な憤りを感じ、訴えたのです。

したがって、皆さんは神の正義を確立し、神の敵であり私達の敵であるサタンを打ち破らなければならず、皆さんが住んでいる場所で憤りの心を持ち、国を代表して天に訴えるだけでなく、さらには世界を代表して神の意志を担当しなければなりません。

そのような皆さんがならなければ、神が望まれる理想郷が築かれる時、皆さんはその理想郷を自分のものとして所有できることを知らなければなりません。それでは、憤りを持った後にはどのようにすればよいでしょうか?

私達は結束して天国を叫ぶ者にならなければなりません。そして天国を叫びながら進む過程で、天倫により近い人や、善のためにより深い正義の心を持つ人が現れた場合、私達は適切にその人と調和しなければなりません。

このような観点から見ると、悪と対立しているキリスト教徒達は、それでも神を呼ぶ権能があるため、他の人よりも憤りをより多く感じているでしょう。

今、皆さんが義人と調和できる憤りと公正の気持ちを持っているならば、世界的なサタンとの対決に備えて、そのような憤りと公正の心を結びつけ、真心を傾けて責任を果たさなければなりません。

皆さんがそのような世界的な使命を果たす必要があるとき、神はようやく審判の歴史を成し遂げることができます。神が長い歴史の中で見守り、我慢していらした希望は何かと言えば、憤りを持ち、ますます自分の欠点を知り、次いですべての面で世界を代表してサタンと対決できる人が現れることです。

そして、そのような人達が結集して教会を導き、社会と世界を導き、神の前に現れることができると、神はようやく審判の決定を下すのです。

皆さんが神の子になりたいと願うならば、6千年間神の心に打ち勝った憤りを持たなければなりません。また、怨みが結ばれている神の心を代わりにできなければなりません。そして、敵であるサタンに対する憤りを持たなければなりません。

このように神の心を代わりにし、敵に対する憤りを持つ皆さんであれば、皆さんは結集して世界的に動き、敵との戦いで勝利するべきです。多くの人々は今日、このような使命を持っていることを知りません。

今日、キリスト教を信じている信者達は「敵を愛せ」というイエス様の言葉を強調しています。しかし、それは敵の中にある罪と悪までを愛せという意味ではなく、罪に縛られた人を哀れに思えということです。これを確実に理解する必要があります。無条件の愛は存在しません。他の人を愛するとは、その人の罪を愛することではなく、その人自体を愛することです。

終末の審判の際、神は罪人を罪悪の支配から救い出すためには、罪人を支配しているサタンを撃退しなければなりません。真実な人間を通してのみ、そのサタンを打つことができるのです。

今、皆さんは自分の栄光のために天国を求め、神に従ってはなりません。神に何かを成し遂げてもらいたいと願っても、そのためにはその要求に見合う資格がなければなりません。ですから、神の理念と心の支配で許される時と立場で、自分が神に訴えかけているかを常に見直さなければなりません。

しかし、今日の私達はどうでしょうか?神の心を理解せず、天命を裏切った立場を脱していないまま、自分の祈りだけを聞いてもらいたいと天に訴えています。私達はこの立場から抜け出し、すべてを忘れて天命を中心に怒りの気持ちを持ち、自分の一切を忘れ、民族や世界が死にゆくのを引き留め、天が悲しむことを引き留め、心を砕いて努力する人にならなければなりません。

このような生き方の基準を立て、「天よ、私を責任を持たせてください」と祈りを捧げた後で、皆さんは神の心に近づくことができるのです。しかし、そのような生き方の基準を立てずにただ天に従っている人が多いのです。

ですから皆さんは天地の主人意識を持たなければなりません。果たさなければならない責任、神が望む責任を果たした立場に立ち、サタンと戦うことができる人にならなければ、またイエス様を代わってサタンと戦う資格者にならなければ、皆さんの希望は実現できません。

ですから今日の皆さんは、自分の生活領域で怒りの気持ちを持ち、神の側に立ち、サタンに対する審判の行為を代行できる人々にならなければなりません。そのような責任を各自が果たすことができるという中心が皆さんの心に立っていなければ、サタンを審判するための日を迎えることはできないということです。

天の支配は世俗性を備えているため、皆さんも相対的に世俗性を備えた理念を追求しないといけません。ですから、何よりも皆さんが求めている要求が誰のためであり、皆さんが望んでいる希望が誰のための希望であるかを先に反省する必要があります。

しかし、今日のほとんどの人々は神を中心に据えた意志を要求するのではなく、自分を中心に据えた意志を要求しており、神の恵みを中心に楽しもうとせず、自分を中心に楽しもうとしています。

皆さんに許された恵みがあっても、その恵みは皆さんの個体だけのためのものではなく、皆さんを踏み台にして世界中に広がっていかなければならない恵みであり、あらゆる権威を握っているサタンにまで屈服させなければならない恵みであり、再び天の前に差し出さなければならない恵みなのです。

このように天から授かった恵みは、皆さん一個体だけのためのものではありません。社会のため、民族のため、世界のため、意志のため、天のための恵みです。それにもかかわらず、ほとんどの人々はこの恵みを自分の生活領域に閉じこめて楽しみ、自分だけのものとして楽しもうとします。しかし、その恵みはその場にもはや留まることができず、去ってしまうものなのです。

ですから天からどんな恵みを受けたとしても、皆さんは怒りの気持ちを持ち、天を代わってサタンと戦うことができなければなりません。自分を中心にして判断する行動をしてはいけません。このように許された恵みを受けた者が、自分を中心に楽しもうとしたり、自分を中心にして他人を裁くことをしようとしたりすれば、それは正しい信仰ではないので、許された意志の道を歩むことができません。

このためには、自らのすべてを犠牲にする必要があります。天倫と公義を中心に据え、この土地が神の前で栄光を称えることができる道があるなら、皆さんは自らが信仰する宗教でさえ犠牲にしなければならないばかりか、持っているすべてを捨て去らなければなりません。

それゆえ、私達は怒りの気持ちを持ち、結束してサタンと戦わなければなりません。サタンは私達の現在の敵であり、過去の敵であり、未来の敵です。このようなサタンと戦って勝利するためには、皆が一つに結束して宇宙的な公義の法を制定し、それを基準に前進しなければなりません。

では、サタンと戦って勝利するためには、何が生活の基準となるべきでしょうか?まず、十字架を負うことのできる神の真の子女となることです。

そして、悲しいし難しい状況に侵入してくるサタンを打ち破る神の真の子女となることです。これを達成するためには、私達はその困難を克服し、むしろサタンよりも一層一生懸命に私達の責任を果たさなければなりません。

私達は神の真の子女として、これまでに存在したあらゆる悪を打ち砕かなければなりません。悪に押し流されてはなりません。むしろ、善が悪を打ち勝って残るように、私達は勇敢でなければなりません。そうすれば、神の御心が達成されることを皆さんは知っておかなければなりません。

そうして勝利した個人が、勝利した兄弟になり、勝利した兄弟が勝利した家庭になり、勝利した家庭が勝利した社会、国家、世界に拡大されていくべきです。ですから、皆さんは神が望む正義の法を中心において、神の意向を解放しようとする熱心な気持ちを持ち、何としても千万のサタンと対決して一人でも戦い、勝利する決意を持たなければなりません。そうしなければ、理想的な世界が築かれる際に、神が許可されるその範囲内で永遠に生きることができる神の子女にはなれませんので、そのことを肝に銘じなければなりません。

愛おしいお父様!私達の前に残されているものは、ただ天倫の御心だけであると私達は知っています。そして、その御心の中心がお父様と真の親であることを認識しており、また地上に住む人々が真の親の真の子女になるべきだということも理解しています。

さらに、お父様が私達に望まれていることは、全人類が一つの兄弟になり、全人類がお父様の真の子女になることであると私達は知っています。

お父様! 私達はまた、お父様がお望みの真の子女の立場に立ち、真になりたいと望む人々を妨げ、彼らを虐待する罪がこの地上のどんな罪よりも大きいことを知っています。人間の真の誠実さを傷つけることも許されない罪ですが、真の兄弟愛を失くすことが天倫の前でより大きな罪となることを忘れないように、私達を導いてください。

お父様、ここに集まった子女達、深い眠りの中から目覚めさせようとする天倫の前で、どんな兄弟のために立ち上がらないと言えるでしょうか。牧者の導きに従って動く自分と認識できるように、私達がそのような立場に立たないように助けてください。そして、その兄弟すらも自分が責任を持ち、天倫を代わって隠れた祭壇を築くことのできる子女となるように、お許しください。

また、あなたが望まれる永遠の子の理想を立てさせ、いつも見守っておられるあなたの眼差しを感じさせ、あなたの愛の手を感じさせ、あなたの訴える声を聞かせ、教訓の言葉を述べ、慈愛に満ちたあなたの心情に感応して、父の心情を共有し、父の姿に倣い、その意向の前に何度でも死んでも礼拝し、感謝できるイエス・キリストの弟子達になるように、お願いいたします。

この時間、私達は天倫の意向を妨げる多くの敵に対して新たに感じることができる言葉を聞きました。新たに感じたこの事実を心に刻んで、今日の言葉が私個人の感情で終わるものではなく、この言葉が歴史を代表し、宇宙を代表する天倫の前で全体を結びつけなければならないこと、私達にはそのような使命があることを知らせてください。

お父様よ!この道を妨げる多くの敵に対して天倫を代わって公正な心情と憤りの心情を持って戦うことができるようにし、父の前で勝利の日を差し出すために、耐え、また耐えて前進することを可能にし、勝利のその日に、これまで我慢してきた私達の憎しみを父に訴えることができ、父の尊い手を握って慰めを受ける位置まで進むことができるように、導いてください。

眠っているこの地のすべての人類を目覚めさせてください。創造されたすべての世界がため息の中にあるので、私達を動員してこれを回復させ、24億の人々が各自の責任を果たしてみんなが天国の人になれるように、天の知恵を許可してください。

この場に集まった幼い子供達よ、どんな戦いの困難にも耐えぬいて立ち向かうことのできる子女となり、自分のすべてを捨ててでも意志だけを追求できる天の戦士となるように、お許しください。この道を妨げる多くの敵に対して天倫を代わって正義の心情と憤りの心情を持って戦うことができるようにし、父の前で勝利の日を差し出すために、耐え、また耐えて前進することを可能にし、勝利のその日に、これまで我慢してきた私達の憎しみを父に訴えることができ、父の尊い手を握って慰めを受ける位置まで進むことができるように、導いてください。アーメン。