人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

家庭連合と左翼 【間違った歴史を行く共産主義者、左翼思想者】

2024年10月21日 00時44分45秒 | 日記
家庭連合は共産主義と闘ってきた事は事実である。

だが何時の間にか勝共連合は規模を縮小して活動を政治運動に変化させて来た。

其れ自体は悪いとは言わない。
そしてだからと言って容共主義でもない。

共産主義は神を否定する思想を持って現在まで、全世界の国家ではそのを権力の下で3億人とも言われる人々を殺害しているとも言われている。

中共、ソビエト連邦(ロシア)を中心とした国家群、北朝鮮、中南米左翼諸国などは間違った歴史を標榜してきた。

それらの国家の一般の人々はそう言った内容は極めて統制されていて解りにくいのであろうが、そう言う思想と戦略の下で活動をしてきた訳である。

それらの国家の歴史を俯瞰して見れば内容が間違っている事を直ぐに理解できる筈である。

彼らは革命と言う合言葉の下で方向を異にする人々を亡き者にして来たし、それを自己正当化して来た。

山口、紀藤、枝野弁護士らや有田ヨシフが「共産主義を信じている」事は勝手だが殺戮を容認している立場では他人を悪人だと非難する資格はないだろう。

ましてや、他の「神を信じている信仰者」を非難し排除しようとする行為は許される事では無い。彼は「暴力的拉致監禁行為」にも関わってきた訳で、こんな人物の話を聞くマスゴミがとてもまともとは言えず、話題を振き真実を有耶無耶にして来た存在だ。

勝共連合はそんな輩と戦って来た。

彼らの左翼活動のお陰でかつては駅と言う主要の駅で見受けられた、街宣カーに赤い旗を立てた中核派、核マル派などの輩がヘルメットと手拭いで顔を隠してビラをまく輩が居なくなった。

「何故顔を隠して活動しているのか」と彼らに聞いた所、返事は一切無かった。顔がばれると不味いのであろうが、「正しい事をしているのなら顔を上げたら良い」との聖句が思い出されるのである。

今はそう言う姿も見かけなくなったが共産主義者が居なくなった訳では無い事を忘れてはならない。

共産主義は間違っている事は人類歴史が証明する所であるが、今だにそれに縋って生きている輩もいる。

彼らは街中でひっそりと集団生活をしているYouTubeも有った。

片や、家庭連合が何故こんなに追い込まれているのか?

考えて見れば家庭連合の考えが悪いとかでは無く、完全に安倍元首相殺害事件を機に風評に押し込まれてきた訳で、家庭連合がやって来た経済活動に焦点を集めて批判を受けている訳で有る。

これは、中国が福島原発事故をきっかけにして「放射能汚染」を合言葉にして日本を風評で被害を与えている事と構図が同じである。

これについては、事実に基づき批判されてはいるものの、針小棒大な取り上げをされて自国の放射能汚染の実態を言わずに他国に反省を強制している状態である訳で、それも彼らの他を非難し悪人扱いするやり方である事を知っておくべきだ。


話がそれたが、家庭連合は解散命令を受ける程の事であろうか?

ならば、他の宗教団体は如何かと言えば、もっと悲惨な事件を起こして来た団体は他にも有るのであるが何故、家庭連合だけが迫害されるに至ったのかと言えば、左翼のイデオロギー的煽動とやはり経済活動が主な原因であろう。
だがそれも最近では一切無くなった。
左翼は叩く要素が無くなった家庭連合であってもマスゴミと扇動して自民党とくっ付け叩く要素を探しては叩いて来た。

共産党による自民党の裏金問題告発は自民党内部からか、誰かの入れ知恵で有ろう。
用意されて来たのだろう、タイミングが合い過ぎている。



しかし家庭連合の献金問題は文鮮明師の御言葉にも有る様に、全ての会員が実態を隠さず、正々堂々とやる事で完全にこの様な困難は起こり得なかったとも考えられる事である。
残念だが、その御言葉は会員にすら浸透しなかった。

しかし今となっては裁判の結果を待つ身であるが、解散となってもこの組織は無くなることは無いだろう。

事実、家庭連合を裁くには反対派の嘘が多すぎる事はほぼ全ての良識人が語っている事だ。

家庭連合は解散に値する事はやってはいないのであるから、一部のイデオロギーの扇動者らの話を聞いて左翼の弁護士連中の言う事は鵜吞みにしながら、家庭連合の話にはそっぽを向き続ける事が有れば、その酷さ故に日本は大きく変わるであろう。

事実、指導力の無い岸田政権はもはや無くなった。
彼は宗教の持つ意味を理解せず、宗教を否定する輩の悪魔の言葉に載ってしまった。

家庭連合が解散される様な事になれば、それに準ずる組織は同じ目にあうだろうし、それは左翼思想者に取っては躍り上がる内容かも知れない。

しかし日本国民の幸福はそうとは限らない。


左翼政権樹立とかつての3.11の東日本大震災の様な震災はセットでやって来るであろう。
そうして日本経済は没落へと向かう中国の様に、ロシアの様に彼らの後を追うしかないかも知れない。

それは日本人は決して願ってはいないが、この選挙の結果、政権次第であろう。


家庭連合には、今のこの国家的な迫害を確実に超える事を期待している。
そして共産主義を遥かに超える人類の理想社会を現実にする事であろうが、未だ全てを終えた訳では無い。

イエス・キリストの心情が受け継がれたこの組織で神の御旨が為される事を誰も妨げる事は出来ないであろう。

そして世界の統一は必ずなる。
('24.10.21)('25.01.11)

コメント

御言葉選集6(7,8)

2024年10月19日 16時55分21秒 | 学習

そして、復活の瞬間を迎えて「お父様!私のお父様!」と呼ぶことができるだけでなく、父の前で自分の体が溶け込むようでなければなりません。さらに、パウロが三重の天に入って体験したように、自分が体の中にいるのか体の外にいるのかを区別できない境地に至ってこそ、天の基準が生活へと移行していくのだと、私はそう考えており、そのように理解しています。


そのような境地を探し求める天であると理解するとき、その天が存在する場所はどこであり、その天はどのような天なのか? その場所は私たちの国、永遠の私の国であるだけでなく、私が生きる場所です。そして、その神は私の父です。そのようなお父様を、そのような国、そのような生活の場を知らずにさまよっている人々が、この事実を知るべきです。そして、神に歓喜の歌を捧げ、悪魔に対しては怒りをもって打ち倒すことを誓い、立ち上がることができるとき、それがまさに審判の日なのです。


ですから、皆さんが悪魔を打ち破り、「主よ、勝利の基準が立ちましたので、治めてください」と言える姿で現れなければ、イエス様は皆さんを抱きしめてくださることはできないということです。


イエス様がなぜマグダラのマリアを歓迎することができなかったのでしょうか。それは、悪魔との戦いに勝利しなければならない道がまだ残っていたのに、彼女がその道を通らなかったからです。勝利の道を通らなかったマグダラのマリアは、復活したイエス様の前に立つことができなかったのです。


悪魔との戦いに勝利した場に立ち、天に向かって「お父様!」と叫び、お父様を抱きしめることができるならば、全宇宙を所有することができるのです。自分の体に対する意識を忘れ、そのお父様を信じることができるほどの境地に至らなければなりません。そのような境地でお父様を思い、お父様を信じるとき、自分の感情が消えていくのです。


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今や、自分のお父様を敵視してきた悪魔に対して憤りを抱き、彼に対して審判の一撃を加えた後、勝利の姿で現れて「お父様!」と叫び、お父様を抱きしめることができる人になるべきです。そのような場で喜びと悲しみに満たされて泣いた信仰者であってこそ、天国生活の理念の時代に入ることができると私は断言したいのです。


私たちはそのような世界で仕える生活をしなければなりません。希望の天国は迎えましたが、仕えながら実践して生活することのできる天国はまだ迎えていません。つまり、生活の中で主体となる神をまだ理解していないのです。


天は予告されました。「私はあなたたちの中にあり、あなたたちは私の中にあることをあなたたちは知るであろう」(ヨハネ14:20)と。この言葉は否定的なものではありません。観念的には神の存在を知っており、信仰の主体としての神を知っていましたが、自分の良心の主体であり、自分の体の主体であり、自分の生活の主体であり、生活の中で見つかる主体として神が実在するという事実を知らなかったのです。


なぜそうなったのか? 信仰の限界を越えられず、愛の心情と接することができなかったからです。したがって、人類を復帰する使命を負った終末の信者たちはこの事実を知り、どのような犠牲や困難、どのような迫害があっても、天性の悲しみと天主の恨みを解消するという心情に満たされて、天の旗を掲げて進む者となるべきです。


そのような者がどのような民族の前に現れても、その民族には善なる心が導く時代が来ることは間違いありません。今日の世界は知的なものや真理を追求する世界です。真理を動かす原動力は「体」でした。体を動かす原動力は「心」でした。心を動かす実体は何なのかははっきりとはわかりませんが、それは霊的なものでした。だからこそ、真理だけではすべてのことが解決されるわけではありません。だからこそ、未来には私たちの心の方向性を一つの場所に向け、心情の動きを一つの場所に向け、霊的な感情までも一つの場所に向けることができる世界が来るに違いありません。


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そのような理念の世界が来ると信じ、そのような世界を探し求めようとする今日の私たちは、観念的なものに囚われて生きてはいけません。実際の生活の中で、天に向かって歌うことのできる勝利の勇者になるべきです。そのような人がこの地に現れるべきです。


もしそのような信仰を持ちたいと考える人がいるならば、その人は夢の中でもそれを考えるべきです。また、可能性があり、天が存在するのであれば、実際にそれを実現してみたいという切実な心を持つべきです。そのような切実な心を持つだけでなく、時間を超えて、生活の中で6千年前の人間がエデンで歌った歌を今日の歌として歌うことができ、その時の感情を今日の感情として感じることができ、堕落以降抱えてきた悲しみの感情を、今日の喜びの感情に変えることができなければなりません。このような存在が、仕える主体であり、歴史的な恨みを解消する主体なのです。


そのような存在が現れることで、皆さんはその存在と関係を結び、勝利する者となり、天地の悲しみを解消できる存在となるでしょう。そのような関係の中で、皆さんは悲しみと苦しみの心情を抱く神が、永遠に私の父であり、私の国、私の家の主であることを実感するでしょう。そしてまた、皆さんは新郎である方のすべての悲しみを解消してあげることのできる真の息子娘となるのです。


今日、私たちがこの道を探し求めて進んできた結果、お父様が悲しむ父であることを知りました。その悲しむ父の息子娘とはどのような存在であるべきかを理解しました。天国を回復するために、悲しみの中で戦い続ける天の怒りを知りました。天の無念さを知りました。


したがって、皆さんは敵に対して怒りと無念さ、敵意を抱かなければなりません。そうして、どの民族よりも歴史的な勝利の標語を掲げ、すべてを責任をもって果たし、確信をもって勝利するという基準が、皆さんの心から、体から、生活の中でしっかりと根付くことで、勝利の歴史が始まるのです。そうしてこそ、皆さんが実体を持って復活の権限に入ることができるのです。つまり、実体を伴って天国復帰の楽園に入り、神に向かって「お父様」と呼びかけることができ、神が皆さんに向かって「息子娘」と呼ぶことができる境地に至るのです。


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このような境地で心情の世界を探し求める皆さんは、自分のために信じてはいけません。天国に行こうという観念や、自分が何かをしようという観念を捨てましょう。


イエス様は自分が天国に行こうと考えたことはありませんでした。イエス様は宇宙のために信じ、民族のために信じ、さらには神のために信じるという信仰の理念を持っていました。それは単なる言葉ではなく、事実そうだったのです。


自分が行うことは自分のためではなく、人類のために行うのだ、世界のために行うのだ、お父様に代わって行うのだという信念、それがどれほど素晴らしいことでしょうか。


私が愛するのは自分のための愛ではなく、民族をかけて愛し、人類をかけて愛し、神をかけて愛し、天地をかけて尽くすということです。したがって、私たちの仕える心も、人類をかけて仕え、天をかけて仕えるべきです。そして、仕えると同時に感謝の心を持ち、信じながらも実践しようという心を持たなければなりません。


心で愛し、体で仕え、心で仕えると同時に生活の中で感謝できるようにし、自分を超えて信じ、自分を超えて愛し、自分を超えて仕えるという観念を持って皆さんが信仰の道を歩んでいくならば、そこには決して悪魔が侵入することはできません。悪魔の誘惑の手がどれほど強くても、そのような信者には決して触れることができないのです。


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では、天の願いとは何でしょうか? 失われた天国の回復です。失われた親の回復です。失われた子供たちの回復です。


今、私たちは自分の国、自分の民、自分の親を見つけなければなりません。そして、真の親の真の子供となり、6千年のすべての恨みを忘れ去り、悪魔を打ち破り、勝利の条件、愛の条件を誇ることができるようになるべきです。それによって、悲しい歴史を乗り越えてきた神の前に、真の息子娘となることができるのだということを、皆さんははっきりと理解しなければなりません。




<祈祷>
お父様、極端な言葉を述べた後、父の前で心苦しい思いを感じざるを得ません。


距離が遠く、限界が大きいその世界の動きが、狭く荒く、欠けている私たちとどのような縁を結ぶことができるのでしょうか?


その縁を結ぶためには、多くの信仰の先祖たちが犠牲を払わなければならず、命の道を切り開くために多くの教役者たちが血の涙を流さなければならなかったことを、お父様、私たちは知っています。


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今日この日を通じて、悲しみを感じる自分の姿を見つけ、父の栄光の恵みを慕うことができ、実践の場でも倒れることなく永遠に勝利する覚悟を持つ者だけが、お父様を「お父様」と呼ぶことができ、父は彼を「私の息子、私の娘」と呼ぶことができるその日があることを知っています。


お父様、信仰の道を歩むことがこれほど難しいことを知りました。人類の祖先から引き継がれた罪によって、人類が悲しみの道を歩まなければならないことを知りました。これまで悪魔の思考を抱きながら生きてきた人類は、迷える姿だったことも知りました。私たちは、自分たちの命をすべて捧げてでも、死の峠を越え、これを解放しなければならない復帰の基盤が目の前に来ていることを知っています。


これから私たちは天の父の息子娘となり、あなたを真の父として呼び、仕えることができなければなりません。人類に対する父の愛の心情が私たちの心に染み渡り、どのような逆境や悲しみ、どのような不便も乗り越えられるよう、お父様、導いてください。切に願い求めます。


今日ここに集まったあなたの息子娘たちの中で、自分たちが命を持っているという事実に感謝を感じられない者がいますか? 彼らが言葉の中に感動し、何かを感じるならば、命の炎を燃え上がらせ、復活の歴史を起こしてください。


天の理念を追求するこの時間をお許しください。そして、歴史的な今日の環境を切り開きながら、父の心情と縁を結べるこのひとときになることを切に願います。


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伝える言葉が、私たちの心の標準と私たちの生活の標準となるようにしてください。彼らの心を導き、彼らの生活観において刺激的な一つの基準となり、常に不正を整理することができる生きた言葉となり、心とその骨と肉を動かすことができるように、歴史を動かしてください。切に願い、求めます。


この時間も孤独な環境の中で、父の前で涙を流しながら訴える家族を慰めてください。父の前に礼拝する多くの人々にも祝福の手を差し伸べてくださるよう、切に願い、主の御名によってお祈りいたします。アーメン。








文鮮明先生御言葉選集 6 - 8. 恨多き父をお迎えする者
1959年5月24日(日)、前本部教会
マタイによる福音書 23:1-39


<祈り(Ⅰ)>

天のお父様、あなたが居心地の良い場所は、無限の忍耐の世界であり、限りなく苦労される場であることを私たちは知っております。


先祖代々のすべての罪の状況に見られるお父様のご心情とご意志を知る私たち、創造本然の存在を取り戻すために、幾多の苦労の道と忍耐の道をしっかりでこわれたお父様前で、恐縮の念で垂れずにはおられません。


長い年月を一日一日、私たちの先祖とともに耐え忍び、先祖とともに戦いながら人間たちを守るために死ぬでこわれた父なる神様を、今この時、私たちの心を広げる、体を低くして心にお迎えし、体で耐えることができるようにしてくださいと、父なる神様、心から願います。


地上に住む多くの人々の中で、困難な道を避けて通る人は多いですが、あなたの事情をよく考え、あなたの心情を心と体に抱きしめるために、かなり困難な道を選んで進んでください行く人はごくわずかであることを知っています。


お父様のために忠誠を尽くし、お父様のために犠牲となり、お父様の祭壇を飾り、お父様が忍耐する心情を地上に示す人間が非常に少ないことを知るとき、お父様が少し哀れな方であるか人間を愛しながらも嘆き、人間に対して心を砕き、全力を尽くして協力するお父様であることを知ることができます。

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私のお父様! 今、そのようなお父様の事情が地上に生きる人類の前に早く伝わる日が訪れますように。全人類の胸の奥深くに、そのようなお父様の事情がしみじみ伝わることを」心より切に願っております。


父なる神様、この一日、この聖なる日に、あなたに向かって優先して、頭を垂れて祝福を頂くことを心から待ち望んでいる方が多くおりますが、祝福は天のものであり、労苦と苦難、忍そして耐道は人間が担わなければいけないものであることを知らない者たちにならないよう、導いてください


天のものは天に返し、人間のものは人間が責任を持って、そんなあなたの息子や娘がとても少ないことを、私たちは知っています。な者たちと同じように、今この時、お父様なる神様に直面する際に恐ろしい姿を見せないように、どうか導いてください。


私たちに喜びがあるなら、それをすべてお父様のものとしてお返しし、また幸福と感謝の心があるなら、それもお父様のものとして認められるならお許しください。満たされたお父様の辛い道のりを私たち自身が考えることのできる、お父様の息子や娘たちとなれるようにお許しください、そして心からの願いを求めます。


一週間の間、恐ろしい世の荒波にもまれ、お父様の心と一致できない場所で戦い、疲れ果てたあなたの息子娘達ここにおります。疲れたその体はお父様の胸に覚悟できる恵みを待っていておいで。受け取られた責任のための励ましの時となり、心を揺さぶる恵みの時として導いてください

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お父様、この日に私たちの心を考え、罪に苦しむ私たちのすべての考え方を統べてください。私たちが頭を下げたこの場で、お父様の慈しみの手は離さないでください。そして、心を尽くしてお父様の憂θを見出したいと願う私たちの心を念頭に置いて、お父様が直接私たちに向き合って協力してこの時間となることを、切に願いを求めます


この日も、世界中に広がるばる孤独な家族達膝をつき、戦いの道の中で疲れ果てた体でお父様に向かって懇願していることを私たちは知っています。その御手を差し伸べ、試練に晒される場所においても最後まで残る者たちとなれるようにしてください。


どうかこの哀れな民族を祝福し、多くの教団も祝福してください。 お父様が与えてくださった使命のためにすべてを尊び、あらゆる犠牲を払い、最後の日に大いなる使命のために生き、使命の「民族と組織となれるよう、どうか切に願い求めます。


すべてをお任せしますので、最初から最後まで主管してください。また、悪魔に隙をつかれない様にして下さい。


千千万の聖徒が行動する中で、お父様の喜びと栄光がこの現れることを許可して頂く様にお導き下さる様に、切にお願い申し上げます。主の御名によってお祈りいたします。アーメン。

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「祈り(Ⅱ)」


この時、私たちの体と心がどのようなような場所に残っているのかをよく見て、私たちの心お父様の心のあるところに、私たちの体もお父様の聖体のあるところにあることを了承しております。


お父様と共に生きるその一日が待ち遠しいです。お父様を思い、お父様に向かって歩く私たちが、お父様と共に生きる栄光の日を迎え、お父様の前で感謝と喜びの賛美を尊重することで、創られたすべてものを喜ばせる子どもたちになりますようにお導きください。


お父様! あなたの悲しい心が地上に宿っていることを人々は知らず、天の悲しい涙の跡が人類の歴史に残る中でそこにいるを知らないのです。限りない天のための情報が私たちのものです」心と体に漂っていることを知らなければ、天の前に顔を出すこともできず、天の信任を受けることも堕落した人間の子孫であることを認めざるを得ません


お父様、地上にはあなたの涙を受け止める人がいなくて、あなたの別れを抱いて慰める者もなく、あなたが歩むその道を守る者もいません。 、それは天の悲しみが深く刻まれた地であり、悲しみがあるので、それは天の悲しみが深く心に残った地であり、恨みがあるので、それは天の悲しみが深く心に残った地なのです。


それゆえに、この地に住む人々は、悲しみの供物となることを遠慮することができない運命に置かれている、悲しい場所を超えることを恐れています。



絶望の中で最後の声として天に向かって『お父様! 私たちを助けてください。』と叫ぶ時が来ております、『お父様、愛の心を持って人類を訪ねてください。』こんな時に、お父様の心を抱きしめて悲しんでいる者は誰であり、お父様の心を抱きしめて泣いている者は誰ですか? その様な者がいるなら、彼はお父様の真の息子・娘であると言えるでしょう。


私たちの心に力を与えてくれたおお父様、切実で痛い程におお父様の心情を感じることができる心の動機が欲しいのです。その心情の源に触れたいと思いますので、触れることができる恵みを頂けます様に、そうすれば、その心情に触れるなら、その場では自分の不足に勝てず、人間の罪を受け入れて悔い改めずにはいられないということを知らせてください。


お父様、未熟で不足している私たちを支えてよろしく、心配してくださる協力おお父様の前に、申し訳ない気持ちを抱きつつ、お父様の悲痛な心情と悲しい心情を慰めることで、栄光の中に現れることができる基盤を整える聖徒たちにならなければなりません。 どうか、お父様の力と能力によって不足している私たちを導いてください。


人間を創造し祝福して協力する力が、お父様にあることを知っています。私たちをお父様の懐に楽しんで見てください、お父様の手の中におさめてください。そうそうことで、お父様の栄光の前に供え物として足りないのではなく、お父様のもので受け入れられるあなたの子供たちになるよう導いてください。願っております。


私たち自身が生命を維持する信念の道を持っている中で、数え切れないほどの悪魔たちに力に引きずられることが多かったですが、内面、お父様を思う気持ちはあります。集まったあなたの子供たちをお守りください


彼らは、地上で勝利する最後の一日、最後の一時間まで、お父様のために覚悟を決めた者たちです。突進できる天の聖徒たちとなることをお許しください。お父様、切に願っております。


この日、数え切れない悪魔たちが私たちの周りを取り囲んでいるのも、天の主に全力を尽くそうと私たちの心の前では、その存在を隠してくださいますように。の業を起こし、私の心と体が復活の働きに参加できる場所に立つことができるように、私のお父様、切に願っております


この日、この場が私たちだけの参加となることがありませんようにお許しください。 哀れな何千万もの人類を祝福してください。 方向を見つめ、行くべき道を知らない限りの教団を祝福してくださいし、命の危機に耐えて死んでいる多くのあなたの子どもたちを祝福してくだい。


「終わりの日」に、哀れな人類の前に命の実体を示し、彼らをお父様のもとに繋いでください。


今、お父様の優しい栄光を示し、熱いことのできる心情を持った子供たちが、お父様によって祝福される日が早く訪れるようにお寛容ください、お父様、心から願い求めます。



試練や苦難に耐えても、私たちはお父様のために生け犠牲になる覚悟ができていますので、その心再びサタンに奪われるような子供たちにはなりませんように。体はすでにお父様に別れられていますので、死んでも生きていても、お父様のものであり、尊重されることができるようお許しください。


すべてをお父様に先に進みますので、私たちのものが動くこの時間ではなく、あなたのものであり続けるこの一時間を支配して協力してください


孤独な家族を直接導いてください。主の名前によってお祈り申し上げます。アーメン。






<祈祷(Ⅲ)>


この時間、私が伝えるべきことは何もありませんので、お父様が表したい言葉を示してください。


私たちの心と体が、この一時間だけでも半分概念に囚われないようにしてください。 お父様が動けば私たちも動き、お父様が定まれば私たちも定まり、お父様が和れば私たちも和することができる、私たちにはどうしようもないような心の土台を、お父様、この一時をお許しください。そうして、お父様が動機となり、私たち結果になりますようにしてください


この日を祝福してください。孤独な家族が地方に広がり、お父様の前で祈る時間ですので、同じ恵みの手で守ってください。


お父様、考えられた聖書の言葉は、何も言わない立場に立ったイエス・キリストの冷静な心情から出た最後の後悔の言葉であることを私たちは知っています。 、私たちにもこのような言葉が覚えておいてください、心の扉を開き、身を屈めて、帽子を下げて受け止めることができるようにしてください。


ここに集まった皆さんを導いてください。愛の懐に抱きつき、新しい言葉で励ましてください。このひととき、あなたの心に包まれる時間となることを心から願っています。


伝える人の心と受け取る人の心に隔たりがないようにしてください。また、聖別された供え物となれる様にとを心からお願いします。


三位神が全てを担って導いてくださること、暗黒力が襲わないように導いてくださることを心からお願い申し上げます。すべての言葉を主の名前において祈ります。アーメン。

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<御言葉>

今日の内容は、イエス様がそのまま決められた道を進まなければいけないことを考え、イスラエルに対する希望と期待が非常に多かった為に、決して先に意志を示さずに進まなければならない、悲しい心情から生まれた最後の御言葉でした。


今日はこの御言葉を中心に「恨多きお父様を迎える者」というタイトルでお話します。


今日、私たちは幸福な生活を切望しています。 さらに、自由の世界を心から憧れています。は相反する立場があることを、日常生活を通じてよく理解しています。


一日を生きている間にも、相対的に考えを整理し支配できる何かを心の中に持たなければいけないのに、それを忘れないために心を描く場所に行きたいと思っても行けないのまた、心から望む行動に集中したいと思っても、思い通りに移せないことを私たちは生活の中で感じていますし、また感じてきました。


今日、私たちは幸福な生活を気に入っています。 さらに、自由の天国を心から憧れています。 しかし、心の中で憧れ、憧れ、期待していることと、今日私たちは生きている現実とは対立している立場にあることを、日常生活中によく知っています。

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一日を生きている最中も、対立しているものを整理し支配できる何かを心の中に持たなければいけないのに、それを持っていないために、心を描く場所に行ったくても行けまた、心から望むことが行動に移ることを重ねても、自由に移すことができないことを私たちは生活の中で感じています。


そのような中で、自分を支配できる理念も持たず、自分の環境を整理できるような悩みも持っていない自分を感じています。また、生活の中で大きな希望や願いを抱きながら歌って生きていますが、向こう、心の中には悲しみがあることを私たちは常に感じています。


このような悲しい人々が集まり、一つの国家を形成し、世界を作り上げてきました。それを人類歴史はよく知っています。


人間だけが悲しい歴史の中にいるわけではありません。人間が悲しい道を歩いているので、人間に掛かっているすべてもこの悲しい環境に含まれています。


さらに、人間を支配する創造主がいて、天の法則を運営し、一つの理念世界を再び探し求める神様もまた、悲しい歴史を経てきた人々のために、この地に立つとき、喜びを持つことができないということを理解すべきです。

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このように、私たち自身に悲しいことが多いほど、私たちの社会で起こった悲しい事実が多い方が多いほど、またこの世界全体を通して悲しい出来事が多い方が多いほど、私にとってこの悲しいことが人類全員の間でとりあえず、人間個人の中で終わるのではなく、この地を超えて歴史を導く天の領域にまで考えることを考えざるを得ません。


堕落以降6千年の間、人間を守って導いている神がいることを否定できないのであれば、6千年の悲しい生活を守るために導いているその天の悲しい出来事と、今日の皆さんの心の中に浸透している悲しい出来事とを比べれば、対照も比較もできないほどの違いがあるであろうと言う事です。


真の人間がいて、人間の世界のすべての不快な要素を取り除き、天が苦しんでいるを解決し、地上に平和の国を建設できるような偏見主義や思想を持って現れたら、彼は自分自身の苦しい逆境を乗り越え、人類の苦しい瞬間やその切実な心情をすべて経なければなりません。 さらに、天のすべての苦しい心情、天の切実な心情を解決できる何かを持って現れなければなりません


人間の世界には、悪魔の侵入を受けない平和の世界、幸福の世界、自由の楽園は建設されないということです


皆さんの胸を掘り下げて、自問自問してみてください。私は誰で、誰のために、どのような目的を持ってさまよっているのかと反問したとき、その問いにどのような答えが出ますか」確実な自信や価値を持った答えが得られない場合、その問いが深刻であればあるほど、皆さんの心にぶつかりながら嘆きの心情も比例して高く評価します。

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今日、私たち歴史の悲しみと天の理の曲折を整理して清算しなければそんな立場にいるのに、皆さんはどのような覚悟で、どのような形で、どのような態度でそのような問いに答えることができるでしょうか? もし天が人類の歴史を懸けて、覚悟に満ちた心情を解消できないまま人間に向き合って 実際、事実はそうです そのような天の覚悟の心情を解消しますする者は誰になるのでお願いしますか?この悲しい曲折の原因が天にあるのではなく、人間にあることを私は考えなければなりません。


人間がこのような憂いの曲折を解決すべき立場にあることを認識せず、その曲折を我慢できない、覚悟の歴史は回って時代を越え、世紀を経ても、天の摂理から離れた歴史として続いていきます。

天がいるなら、もしこのような歴史を阻止し、天の覚悟と人類の知恵を清算してくれる一人の人を探していることでしょう。天はその一人を立てるために、これまで戦っその一人を迎えるために、今日まで歴史を支配してきたのは確かです。今、私たちはこのことを振り返って、また思い出した時が来たのです。を約束し、その一人を立てるために無限の戦いを続け、その一人を生かすために無限の苦しみの歴史を重ねています。


しかし、歴史の中でその一人を迎えた者はおらず、その一人を支えた者も気づかれず、天は今も真剣なお心の情を抱いています。これを私たちはまた考え直さなけれはなりません。


神様はこのように思いを重ねている方です。神様は人間の前に自主的に考えを考えることができることができず、人間の前に自主的に考えを伝えられず、じっくりと充実した方です。この満たされた天の憂いは、天から生まれたものではなく、人類から生まれたものです。摂理を行い、未来を切り開くために今も憂いの心情を考えて努力されています。

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したがって、天の憂いを解消できる一つの姿を立てようとすることが神様の意志であり、その一つの存在を生かめることが神様の意志であることを知っているので、歴史的なもの終末に終わっている今日、皆さんは私大切、私たち子供、この民族が天の悲しみを解消できるその日を築くための恵みを許可していただくことを切望に心を持たなければなりませんまた、悲しみの多い神様であるため、私たちの人間は悲しみに満ちた神様を迎え入れ、その覚悟を解消して上げる歴史的な負担を積んでいることを忘れてはなりません。


天は今も人類を救うために、人類の悲しみを解消するために、人類のすべての悲しみの曲折を乗り越えるために、千辛万苦の努力をしていることを皆さんは感じなければなりそれを感じる人がいるなら、その人は先に進んで足を止めて、生活を整理し、過去の生涯を清算し、苦しい心情を抱えながら生きることになるだろう。もしこれを感じないなら、心に満ちた裁きの日を迎える覚悟をしなけれなりません。


私たちは今日、この瞬間も憂いを感じている天を迎え、苦しい天の心情を受け止め、話し合いの多いこの世界を清算しなくても神聖な使命を担った子供たちであることを心に留める私たちは堕落した人間の子孫であるため、多くのお父様の心情を解消するために、人生をかけて戦わなければならない責任と義務があります。


それで、天は人間が堕落した後、4千年の歴史を経て警告し、選民を選んで立て、彼らに『あなたたちの指導者、あなたたちの主人、あなたの平和の王子、自由の王子、幸福の王子になる人を送る。』と約束しました。こうして天は幸福の主人公であり、平和の主人公であり、自由の主人公であり、天の憂鬱を解消し、天の恵みを紹介できる一つの存在として、長い歴史を経て約束されていたその一人を送られました。


そして、長い歴史を経て約束されていたその一人が現れましたが、選ばれたイスラエルの民がその一人を迎え入れず、歓迎し、彼の意志に従って生きていなかった、あくまで彼の意志に従って団結し、天の意志を立てて心の悲しみを解消するために戦わなかった為に、悲しみの歴史は今まで延長され続けているのです。

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では、平和の王子、幸福の王子、自由の王子として来られたその方は誰かというと、堕落以来4千年の歴史の苦しい心情を担って来られたイエス・キリストでした。歴史を責任を持って考えるべきイエス様、4千年の天の摂理を責任を持って考えるべきイエス様は、歴史的な視野と天国的な視野を持って来られました。


イエス様はその悲しみを解消するために、どのような過程を経なければならなかったのでしょうか? 悲しみの過程を経て、苦痛の過程を経なければなりませんでした。だから、この地に来られたイエス様は、4千年の歴史の中でよりも悲しみの体験された方であり、苦痛の悲しみを体験された方であることを皆さんは忘れています。


今日、キリスト教の信者たちはイエス様を信じています。 彼を万王の王、天の独り子、自分たちの苦しみ主として信じています、平和の王子、自分たちに幸福を紹介してくれる方であると。


そんな良い面のあるイエス様であることを知る前に、まず知っておくべきことは、彼が悲しみの王子、苦しみの王子、全人類の悲しみを思い出した悲しみの王子であるということです。


そのように、苦しい持っているイエス・キリストの心情、その心情は誰のためだったのでしょうか? 当時の人類のためであり、人類を抱きしめている神様のためです。

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しかし、その苦しい心情を受け継ぎ、苦しい立場から天との戦いを解消するために悪と戦って勝とうとした者はいなかった。 、彼を送られた心の痛みはさらに勝利を収めたことを私は考えなければなりません。


だから、私たちは全体を責任を持つことができる一人の主人公と出会う運命にあるのです。だから、死にかけていたイエス、復活して昇天されたイエスが、この苦しい心情の曲折を清算するために、悲しみに満ちたこの地に来なければならないのです。


私たちは神を愛しております。だから、神様は6千年間にわたって人類を愛し続けて下さいました。だから私達が今此処にいます。


悲しみがある場合、愛の心情感情感じる悲しみ以上の悲しみはなく、苦痛がある場合、愛の心情感情深い悲しみ以上の悲しみはありません。


それなら、天は愛と言われているのに、愛である神は喜んでいるのでしょうか?愛の神として知られているのに、その愛の神には喜びや幸福、平和だけがあると思われていまいりましたが、実際には今日にはありません。

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愛の心情を持っているからこそ、人間を救おうとする気持ちが大きいほど、その心情に浸透することが大きいことを感じる者は、この地上には無い。その愛の心情に満たされる」居る天的な苦痛を知っている者はいないのです。


人類は神が愛であること、愛の本体であることを知っていますが、神が人類のために美味しい血を流している


ここで、終末に近づいている私たち信者が知っておくべきことは何でしょうか?愛の神を知っている以上、その神の心情に浸透する天的な埋葬を、その神の心に浸透する天的な苦痛を覚悟しなくてはならない。


幼い愛天的な喜びがこの地上に許可されるとしても、その喜びは今日私たちが信じているように喜びを求めている信者たちには考えられません。与えられる一つの幸福であり、歴史の前に約束された一つの希望だからです。

そのため、神の愛と呼ぶなら、今日の愛の神を求める心を持つは、神の愛の心情に浸透する悲しみを抱く者であり、愛の心情に浸透する悲しみを抱く者だとそのような者だけが、天の愛育ちを紹介される幸福を受け継ぐことができるということをはっきりと理解する必要はありません。

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では、神の覚悟とは何でしょうか? 神を信じる人がいないわけではありません。 神を知っている人々がいないわけでもありません。に浸透する悲しみを理解する人がいないことであり、愛の心情に浸透する悲しみを理解する人がいないことです。


人類の割り当てを整理し、天的な課題を解消しなければ終末が来るかもしれない、その時私たちはどのような主人公にならなければならないのでしょうか?抱き合い、苦しみの心情を楽しんで『人類を愛してください』と言う人ならなければなりません。そのような心を持つから出発しなければなりません。自分を抱いて『私を愛しなさい』そのような深い心情を大切に、自分でも考えないうちに行動に移すことができる人がいるなら、その人は人間の世界に天的な悲しみを証明する者であり、天的な苦痛を経験した者と見ることができます。


だから、天の憂いを解消するために来られたイエス様は、幸福を持って現れず、自由を持って現れませんでした。 彼は神の前に最高に善い位置にいながらも、足元中の議論のようにたの出現です。


全宇宙が歓喜することができる天の王子であるにもかかわらず、地上では踏みにじられる王子であり、迫害される王子であり、消え去る王子として生きていたイエスの国境以上の悲しみはない


天の威厳と自分の立場、そして与えられた使命を果たすことができず、逆境にぶつかって黙って消えていっていたイエス様以上に悲しい者はいないでしょう。イエス様は4千年の間、が苦労して選ぶイスラエル民族の前で排斥されました。摂理の意志を受け入れるために長い間愛してきました

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ちょっとではありません。愛する民族に追われ、愛する弟子達の前でも追われたのです。民族のために来たのに、教団が裏切り、民族や人権、あるいは選ばれた者たちのために来たのに、彼らからも裏切られたのです。


このような立場で、イエスが憂慮を抱いて従来表現的に呪おうとして、言葉ではできないほどの懸念をかけることができたでしょう。その間、彼らの悲しみの悩みを抱え、自分を忘れて心配しなければならなかったのです。


イエスが天国建設の王子だと思っていたのに、今日はありません。それは後のことです。イエス様は、世のすべての妥協を乗り越えるために、多くの先を知っている善を望み、意志を求められてきた歴史の道の切実な心情、深い悲しみの心情を体験して、歴史を代表する迷宮の王子でした。内面的には悲しみの心を、外見的には苦痛の重荷を負い、それをサタンの前に解決しなくても、そうして天の前に勝利の足場を築かなければいけない、悲しみと苦しみの王子であったのです。


そして、そのようなイエスがこの地に来て、人間のために悲しみと苦しみの中で生きることを見ている神の心情は、イエスの悲しみより辛かったに違いありません。


神はエデンの園にアダムとエバを創り、彼らが成長することを大切にさせていただきました。 しかし、許可された自由の園で、許可された理念の世界で、天とともに平和「幸福に生きるべきアダムとエバが堕落したために、そういうものを踏まえて、エデンの園から追放されたその事実は、神のために計り知れないほどの深く興味深いだったのです。

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神様と永遠に共に生活しなければならないアダムとエバが、天の懐を離れて悪魔に踏みにじられ、その悪魔に移っていくのを見なければならなかった天の深い心情、その長く深い心情を忘れられない天でありました。


この4千年の悲しみに満ちた人類の歴史を覆うために、その悲しみの歴史を清算し、幸福な復帰の世界を構築するためにイエス様が来られましたが、こうして来られたイエス様を受け入れるべき民族はどこにいたので問う? 受け入れるべき洗礼者ヨハネはどこにいたので問う?


イスラエル民族を選んだのは、イエス様に限界の苦難の道を歩めるためではありませんでした。このイエス様を迎えるべき民族であり、支えるべき組織であり、仕えるべき洗礼者ヨハネだたのです。皆イエス様を見捨てて去ってしまいました。 彼らが皆去っていくのを見て、イエス様は何を感じたのでしょう?


地のために来た道だったが、地を捨てて歩いていけず、民族のために来た道だった、民族を捨てて歩いていけず、団体のために来た道だったが、捨てて行けなかった、それがイエス様の運命でした。


だから、イエス様は何度もオリーブ山へと足を運びました。 その程度に天に向かって言ったイエス様は、どんな祈りを尊重したのでお願いしますか?よりも、一応ご自身をお遣わしになった天が悲しむことを心配されていたのです。

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神は、イエス様を待っては民族と共に平和に生き、民族を導いて理想国家を築くためで結局、その道が閉ざされたため、イエス様は天の前に切なる祈りを守る立場に追いやられしかし、それはご自身の覚悟を忘れるためではなく、ご自身を遣わした神様より大きな悲しみを慰めるためだったのです。


イエス様が道を歩いていく中で、「私のお父様、もしできることなら、この杯を私から取ってください。でも私の思いはそのままではなく、御心のままに行ってください」 (マタイ26:39)と祈られた際の心情。その心があったからこそ、天の悲しむ心情とイエス様の使命の悲しみが、イエス様一人心に一つとなることができたのです。その瞬間が、玄関上での死の瞬間に実現したということを、私たちは知っておくべきです。


4千年前、アダムが堕落して以来、神の胸には痛みが刻まれてきました。そのため、イエス様は地に対して「裁き」という名前を思いながら、痛みを解放する道を開拓し続けてきました。


イエス様の死によって第一イスラエルは崩壊しましたが、復活したイエス様を中心に再び立て直す道が、第二イスラエルの選択民の道です。


過去の第一イスラエルは選択民としての権利を誇りましたが、今日の世界に広がる第二イスラエルであるクリスチャンは、第二イスラエルの精神を奮い立たせ、約束の地である天国を建設するために総力挙げて立てなければならなくなりました。

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神様はこのように、世界に通用している第二イスラエルを集めて、天の選ばれた民の権利を立ててこられ、裁きの歴史を越えて進んでいける権利を持つイスラエルを注目してられました。


さて、このような悲しい歴史を抱いて進んできた神の悲しみは、いつ解放されるのでしょうか? かつて選民としての権利を誇っていた第一イスラエルはサタンの前に追いやられ虐げられましたが、天の選ばれた民である第二イスラエルは悪魔を追い払わなければなりません。 そうすることで、今日の私信者によって歴史に刻まれた痛みは癒され、イエス様の死後2千年の間多くの苦難と痛みを通り抜けてきたイエス様と聖霊の前に、希望の一線が立てられるのです。


私たちは今、歴史の終わりに立ち、嘆きの歴史を乗り越え、痛みに満ちた人類と世界を超えて、悲しみに満ちたお父様の胸に触れ、その心の奥底にある悲しみと苦しみを共に感じ取り、歴史的なすべての悲しみと深く刻まれた怨念を胸に抱き、その理由となった無数の悪魔に対して最後の一撃の覚悟を持つ、天の息子娘とならなければならない時が来たのだということを、私たちは覚悟しておかなければならないと言う事です。


今日、このような世の中を乗り越えたのが悪魔であり、当面を導いたのも悪魔であり、この現状をしばらく見ていた悪魔です。心に抱き、また体で背負い、天の選ばれた民としての権利を持って行動し、歴史的な恨みの原因である悪魔との関係を清算しなければなりません。一つの民族、一つの主権がこの地上に現れることを天はできるでおられることを理解しなければなりません。


そのような者となるには、どうすれば良いのでよろしくお願いします。 私たち統一信徒は復帰原理を読んで知るように、私たち自身が神の心情に深く共感する信仰生活を行わなければなりません。名前だけのお父様ではなく、現実のお父様として共感しなければならないのです。 そのような立場から、エデンの園でアダムとエバが堕落する姿を見て深く悲しんで神に向かってて、無限の悲しみの心情を持って涙を流す者とならなければなりません。

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さらに、神がカインがアベルを殺したときの無限の悲しみの心情に共感しなければなりません。 その後1600年を経てノア、さらに400年後のアブラハム、その後400年後のモーセ、そしてさらに1600年後のイエスの時代まで、各時代において天の使命を担った多くの先祖たちの悲しみと怨念に満ちて戦い続けてきた歴史を見つめられる神の悲しい心情を実


また、4千年を経て6千年の歴史の間ずっとその摂理に行き続けてきた代表人物たちが抱えていた悲しみの心に共感しなければなりません。遠くて悲しまなければなりません


そのような心の覚悟を持ち、過去の悲しみと悲しみをもたらした怨念に同情し、歴史悲しみと心の悲しみを晴らして差し上げようという溢れ出す心情を持つ者優しく、イエスが求め、天が求める終わりの日の希望として立つことはできるず、花嫁の立場をとることもできないのです。


そこで、今日の終末の信徒の中で真実な信仰生活住民がいるとすると、その人は自分でもわからないほどの深い悲しみの心情に消えない瞬間に何度も諦めるだろうが、そのような瞬間を乗り越えなければなりません。


歴史的な怨念、将来的な怨念、その覚悟の原因を清算しなければ時が終末です。未来とともに涙を流せるようにならないのです。

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そして、自分の幸福を忘れ、人類の葛藤と問題を乗り越えて進むことが避けられない立場に立ったとき、天の喜びはそのような人々に対して目に見えるのです。


私は神が愛であることを信じています。また、多くの教えも神が愛であることを伝えています。たでお願いですか? 天の心情を抱き、悲しみに満ちた歴史を見つめ、悲しみを思い心の心を思いやったことはあるでしょうか?神が愛の心で人類を招かれるその思いには、私たちに喜びを伝えたいという心よりも、私たちを探しているよう求めているのと対話がより多く含まれていることをよく考えてきたでしょうか?このような神の心を理解する必要があります


『お父様! 天を気にすると、言葉にできないほどの悲しみがこみあげます。 お父様を見つめ、そのご意志を思うとき、限りなく悲しむべき人類を見つめるとき、言葉に尽くせないほどの覚悟が感じられます』という心、これがイエスが天に対して抱いた忠誠の心でした。このように、喜びをお父様のもとに帰すよう望む心、イエスが広めようとした福音の内容であったことを、私たちは知っているべきです。


私たちは天の祝福を得るために、これまで一生懸命に頑張りました。 「この道を切り開くためには、ただ楽しいだけで着せられるものではありません。


キリスト教の歴史は、悲しみの歴史であり、歴史の歴史です。キリスト教という宗教は、アメリカの宗教であり、知覚の宗教なのです。これはキリスト教に限定されず、道を目指すどの宗教も、このような形で歩かなければなりません。


また、歴史的な認識とともに人類の認識を抱き、心に溢れる瞬間を体感したことがありますかか?それを知覚していないなら、死んでも知覚しなければならない、死んでからでも。

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偶然、この地上にいる信徒たちは、地上で地獄の危機を乗り越え、地上で地獄の試練を踏み越えていく必要があります。


民族を救う者とは誰で頼むのですか?それは、民族の苦しみを骨の髄まで感じ、民族の対話を深く理解する者です。では、世界を救う者とは誰で頼むのですか? 現在の先進国はアメリカですが、皆さんは彼らに期待を寄せてはなりません。 彼らは色々世界的な役割を果たすことはできても、世界を主管することはできません。世界を主管することはできないのです。


一つの国に正義を優先者がいるとするならば、その者はその国の悲しみと覚悟を共に背負い、洞察し続ける存在であるべきです。 この世界をまとめられるのはどのような人たちでしょうか? それは、世界の懸案を抱きしめて泣き、世界の視野を向いて議論する人々です。


私たち韓民族は哀れな民族です。長い歴史を乗り越えられたもの、他の民族に誇示や民族的な自信を持つことができませんでした。民族が21世紀の新しい文化の時代に、天が望む心を抱き、人類の悲しみと共に奮闘し、人類の意思をともに背負う民族となり、さらに神の世界と思慮を奮って立って民族となるならば、この民族は世界を考え、天の愛を受ける民族になるでしょう。


イエスが万王の王として決定されたのはどのような場所でのことだったでしょうか? それは、豪華で華麗な宮殿の玉座に座り、幸福な立場で人々の前で誇り高く歌う場でイエス様は、対話的な道において、歴史的な森と人類の葛藤、歴史的な議論と人類の認識を問われ、すべての人々の前で天の喜びを広げようとする情熱に彼はそのような心情に満ちていました。 だから、彼はすべての人々を救う救世主となり、信念の歴史の道において、天の主人公として輝く存在になったのです。は天が正義できた覚悟の歴史の中で、誇りとなる存在となり、未来の信念の歴史においても王としての地位を当然なことを知っておくべきです。

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ここに、悲しい歴史霊の道を先にできた多くの人たちも、イエスを救世主として迎えなければなりません。同様の理由であります。


今日、イエスの希望を実現する者として現れ、花嫁となろう者は、自分中心の信念に満足してはなりません。な問題を抱えて、イエス様に別れて『もし喜びがあるなら、それは天のものであり、迷惑と問題があるなら、それは私のものだ』と言う心情を持った者にはならないの「です。このような者であればこそ、天を支配し、地獄さえも支配することができるのです。


だから、今まで私が持ってきた信念、これから「信じて天国に行く」という信念観念を断ち切ってください。「自分が信じて天国に行く」というその考えを捨ててください。王子であるという考えすらずに生きました。 もし自分を天国の王子だと思っていたら、どうやって死ぬことがあるでお願いしますか?そのようなことは考えてないのです。のすべての悲しみと悲しみを背負い、「お父様よ、どうか御心のままに」と切りに受け入れたのです。


では、現代の人々はどのような心を持っているのでしょうか? 自分たちの悲しみに泣き、自分たちの対話に苦しむだけの民族には絶望しかありません。を抱きしめ、共に悲しみ、苦しむ民族がいるなら、その民族には希望があるのです。道がこの民族の前に行かなければいけないのです。これを考えて進んできたのが統一教会なのです。


この統一戦士の心情、統一戦士の精神を抱く者は、「自分が救われるために信じる」という思いを持つべきではありません。を開き、怨霊に満ちた地獄のたちまで救うために信じるのだという心情が必要なのです。イエス様が今日あったからこそ、歴史的なメシアとなったのです。

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教会に通うクリスチャンの後ろ姿を見つめる時、皆さんも考えてみてください。 あなたの歩みは何のためにあるのでお願いしますか?自分の命の問題を解決するために動いているのでお願いしますか?もし、天の子供にはなれません。民にはなれても、しもべにはなれても子女となる事はできません。


天の子供になりたいのであれば、そしてその思いを持っているのであれば、天の悲しみを失っている人類に向かって、神と人類を悲しみから解放するための解放運動の先駆者となる必要があるそして、天の戦いに負けない勇者として、敵に立ち向かうための精神的な取り組み、理念の歩みをしなければなりません。 それは自分中心の理念ではなく、全宇宙を考えることができる理念で前進しなければなりません


今、天は復帰の摂理の門を開き、終末における聖徒たちに向けて、個人、家庭、民族、国家の代表者を探しています。歴史を見渡しても、天が求めるそのような個人や家庭、国家、そして世界を見つけることはできません。自己中心のままでは不可能なのです。意識をもって生存行動し、天の法則に沿って生存意識をもって歩むことができるようになるべきです


限られた範囲の中で得た意識を生存の価値と見なして、それなりにして生きている人は自分です。 歴史はその人を反省するでしょう。私たちの意識を超えたところに世界の意識があり、そのさらに上には天の意識があります。皆さんは心を広げ、世界の意識を越えて、その意識の中にある困難と困難を乗り越え、喜びの姿で「天よ、どうか私たちを顧みてください」と言えるような復活の姿を持つべきです。


イエスもまたそのような道を歩いたのだ。同様に、今日のこの歴史的な幕を脱ごうとする世界の前に、大宇宙の光を放ち、新しい自己意識を持って前に立つ者こそが、終末の再臨と復活の時代において、天が求める栄光の国民、栄光の子供として立つことができるということを皆さんは理解する価値がある。


その立場に立つ者だけが、歴史的な壁を乗り越え、天の葛藤を解き放ち、この時代において天の喜びを携えて進むことができるのです。

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今一度、神の立場に立って戻って考えてみると、愛する子供たちを迫害にさらされなければならないと言う、神にとっての辛さがありました。子女が叫び訴えた後も2千年の歴史の中でも多くの聖徒たちが殉教し続け、そのような悲しみを抱き続けた神の目的はどこにあったのでしょうか? それは、私たちの困難のためだったのです。


天がこれまで私たちのために尽力されたのも、天が悲しみの道をずっとこれたのも、私たちとこの世界のためでした。


皆さんが今日地上にいる人々を見つめ、天が歴史の歩みの中で感じられた心情を体験し、天の前で「困難と苦難をすべて乗り越えて進んでまいります。万宇宙よ、私を見て喜んでください。私を見て栄光をお受けください」と言えるようになるためには、皆さん自身が悲しみの王子、天の王子となる必要があります。全人類と生死を共にする信念を持ち、現実において死の峠を越えて、覚悟の峠を越えて、今日のあらゆる困難を打破し、天からの喜びを感じる必要があります。


そのようにして、「お父様、私を見て喜んでください。万民よ、私を見て喜んでください。万宇宙よ、私を見て喜んでください」と言えるようになる事が願いであったと言う事です。


私たちがこのような存在となり、会いたかった神様をお父様として迎え、共に生きたいと願った神様をお父様として共に生活できる時、天の悲しみと歴史の交差点、天の試練と歴史の覚悟が私徹底的に解決されるのだと考えなければなりません。

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このような存在になってこそ、統一王国の子供として代表者となることを、皆さんは理解すべきです。



<祈祷>
お父様! 長い長い歴史は、今も私たちを巻き込み、私たちの心に影響を与え続けています。この悲しみの中で日々を過ごす私たちは、お父様の深い悲しみを解消し、天に刻まれた嘆きを解消しならないという、計り知れない使命があることを知りました。


そのような使命を担った私たち、天と地の心情を抱き、悲しみを分かち合い、正義を感じ、幾度も命を尊重することがあったとしても、お父様を慰める息子娘で有るべき事をしりました。


イエス様がこの地上に来られた時、多くの教団や信者たちがメシアの到来を待っていましたが、彼らはメシアが自分たちの希望を超える存在として現れて信じていました。来られたメシアは、喜びを実現する存在ではなく、人類のすべての橋を架けた悲しみのメシアであり、歴史のすべての知覚を体現したメシアでした。メシアがそのような姿で現れたと考えた者は、誰一人としていなかったことを私たちは知っています。


歴史は示された通りに行われるということを私たちは知っています。感情、歴史を通して流れ続けてきた悲しみの感情、それら縦の歴史で生まれた悲しみを、私たち一人ひとりが横の歴史として展開し、それを整理して、横的な喜びをお父様に返す責任が終末の聖徒たちにあることを私たちは知っています。

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お父様! 私たちは世界のために忠誠を尽くしたいと願います。 すべての人類のために天の幸福を目指したいと思っています。必要と考えを全て受け入れられる者だけが、天からの喜びを継承する者として登場できることを知っています。滅びることを理解できるようにして下さい。


お父様! 喜びを求めてさまよい戦う者は、勝利の成果を得られないことを私知っています。誓い出た者こそが、歴史の讃え物を高め、歴史を導いたことを、そしてそのような人こそが滅びゆく民族や滅びゆく世界を導かなければならないことを、理解出来る様にして下さい。


終末の犯罪を見ても、人類を見ても悲しみがあり、天地を見ても恐れに包まれるこの時、私たちは誰を信じて生きますか? お父様を仰ぎ、お父様の悲しみを解くために戦い、命を大切にしない最終審判の時がございます。敢えてない陰に心が包まれている人がいるなら、その陰を打ち砕いてください。ことを知るようお許しください


わからない宇宙の声に悩まされ、嘆きと死の道をさまようあなたの子供たちがいますか? 彼らの命が今危機に瀕していることを自覚できるようお許しください。


このように、生死の危機を覚悟の上で、悲しみと嘆きと覚悟が生まれたのは人間の故です。私達は天を求めてこそ、初めて天に向き合うことができると理解できるようお許し下さい。

32

今日お聞かせいただいた御言葉が、あなたの子供たちの心から忘れ去られることを遠慮せずご容赦ください。ただ悲しみの歴史を乗り越え、喜びの心で勝利の姿を成し、「お父様、どうか悲しまないでください。あなたが待ち望んでいた栄光の子供たちがここに来ましたので、どうか抱きしめてください」と言って堂々とした姿になれるようにお許しください。

お父様、どうか私たちの努力と犠牲のために、この地上に喜びの子供の姿が現れる様にしてください。先に現れる道を切り開き、基礎を築く者となれるようにお許しください。

お父様、心からの願いとともに、すべてを主の御名においてお祈りいたします。アーメン


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御言葉選集6(7)

2024年10月14日 18時43分54秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 6 - 7.  天国を探し求めようとする悲しい父と息子娘たち (1959年5月17日)
1959年5月17日(日)、全本部教会。
ヨハネによる福音書 14:1-24

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<祈り(Ⅰ)>

死の波が押し寄せる災害の中にいるたち人間は、この地上に覚悟の日を勝ち取るために、長い年月を乗り越えて苦労し、不当な扱いを受けながらも戦いの歴史を摂理してこられた父の御前に顔を上げることができず

今、エジプトの奴隷生活のような6000年の歴史から私たちを解放してください。栄光の一時と一日を約束してくださったことに感謝いたします。血と涙の道を歩み、進むべき道とその方向性を示された時が一度や二度ではなかったことを、私たちは歴史的によく知っています。

愛深き父なる神様!愛の父なる神様!私たちは、この地をあなたの慈悲深い御手で支えて頂くことが難しいと知っております。不忠実で不完全な私たちですが、あなたの認識を慕い、あなたの愛を恋しく思い、父なる神様の御前にお伺いしました。

悲しみと悲しみが残るこの地に生きる私たちを自覚してください。また、天のために嘆くか悪い状況を、私たちは嘆かざるを得ません。のような、6000年の試練の歴史における嘆きの領域を、父なる神様、取り

私たちは人間を信じて従ってきました。 しかし、その道は苦役の道であり、歩む足取りが悲しみを呼ぶものであることを知っておりますが、堕落という罪を犯した人間であることが、絶望の淵で苦しむ人間は、天の約束を知ったその日から、この死の淵から逃れようと諦めることができましたが、今日に至るまでサタンの支配下から逃げ抜けていないそして、その中で特に私たち自身がその一部であることを認識しています

2

今生きていくために、ずっと生きられる父を呼ばなければいけない時が来ました。だから、賢明な自分を憂い、足りない自分を嘆き、迷惑な自分を打ちながら、今日もその国を建てるためにあえぐという切実な心情を我慢してください、明日、愛する父よ、切に願います

今始まった歩みであり、戦いの盾を取りましたので、その日その日戦いに天の力をお与えください。そして、勝利の一日を予告してください。でなければ、苦難のその道を進んでいることはできず、荒野である荒野の道を開拓することもできません。

お父様! イスラエルの60万人の民がファラオの宮廷を抜け出した時には、喜びの歓声が天に満たされましたが、その後ファラオの戦車が追ってきた時には、嘆き、天を恨んだ先祖たちの足取りをよく知っています。今日、私たちの父の前に立つ時、喜びの心がありますか? その心情に反して、天を恨んで心が大きくなるのではないかと恐れています。その一日を誇りに思い、すべての人々が喜んで天を讃えることのできる終末の日を希望としなければなりません。


どのような困難やどのような悲しみが襲ってこようとも、敵が罪の深淵を掘って待っていようとも、粘り強く戦い、天の精兵に相当な気概を覚悟してください、愛する父よ、切に願いを求めます


進む道には山の峠もあり、石ころだらけの道もあり、荒れ地もあり、敵が私たちを狙う時もあるでしょう。また戦いの道を切り開き、約束のカナンの地を解放するその日まで、心に責任を感じて突進できる天の勇士となるよう許してください、父よ、切に願い求めます


今日、父の前に集まったあなたの息子娘たちを覚えてください。父よ、この日にここに集まったあなたの息子娘たちが、父の前で新しい約束をできるようにしてください。新しい決意と覚悟を決めてください。


天にいる何千万の聖徒たちよ! この一時間聖別してください。私たちはこの時間、父が動ける、父が主導される、父が行われることに足りないような切実な心情だけが満ちて、父の心情とそこにいることができるよう、心より切に願います。


今、すべてを父の前に進みますので、主導してください。 三一体の神が動ける、すべての悪の要素を分けてください。の中に捉えられるこの一時間としてくださいと、心より切に願います。


この日も地方に囲まれ、孤独に御心のために戦い、心配している多くの息子たちが娘ですので、彼らと共にいてください。父よ、彼らに許された賜物を与えてください。命の賜物をこの目立つの聴衆にも許してくださいことを心よりお願いし、願い求めます。


父よ、この日は聖なる日ですので、集まる場所ごとにあなたの愛の烽火(のろし)を慎重にさせてください。栄光の賜物をお与えください、すべての民が蘇ることのできる賜物の炎を下してください。


すべてを通りますので、御心のままにお考えください。主の御名によってお祈りします。







<祈り(Ⅱ)>


限りない悲しみが天に満ちていることを、この地上に住む人類はまだ知らないでいます。限りなく苦しいのが天の歴史であるという事実を、私たちは天を信じていながらも知りませんでした。


お父様、私たちに耐え難い御言葉をお与えになり、今まで人々が探し求めても見つけることのできなかった希望の時を私たちに予告してくださり、お父様、感謝いたします。未熟な私たちが、天と地の前で身も心も低くし、お父様に向かって叫ぶには、恥ずかしさを感じずにはいられません。


お父様が「来なさい」とおっしゃる道を歩み始めた私たち、その道が喜びの道だと思っていましたが、進んでいくうちに、限りなく涙を流しながら歩まなければならない道であることがわかりました。そして、他人には知られない中で、天と地を代わって恨みの心情を抱かざるを得ない、悲しく孤独で心配の多い道であることがわかりました。その道は、生きようとする者には進めない道であり、死の覚悟を持った者だけが進むことのできる道であることを感じずにはいられません。


お父様、ここに集まったあなたの孤独な息子娘たちを憐れんでください。この者たちの心に天的な理念が動いていますか?その理念が自己を中心とした理念ではなく、歴史的な理念であることを悟らせてください。理念によって動かされる心情がありますか?その心情が自分の一生にとどまるものではないことを悟らせてください。


5


与えられた賜物と感じ取った恵みをこの者たちが体感したならば、もはや自分自身を中心として、自分ひとりで天国を築いて生きるのではないことを悟らせてください。この業を始められたのはあなたですから、自分のすべてをお父様のものとして捧げることを知る私たちになれるように許してくださいますよう、お父様、心から願い求めます。


お父様が「来なさい」とおっしゃるその道に私たちが踏み出すとき、私たちはすべてをすでに神様の前に捧げました。私たちが持っているすべてのもの、私たちの心情までもお父様のものとして捧げました。


すべてを捧げても喜びを感じられるような姿を、神様は待ち望んでおられるのに、失うことを見て悲しむ私たちをどうかお許しください。すべてを委ねても限りなく喜べる心を持たせてください。このような心を持つ者は、お父様のすべてを受け継ぐ者となり、このようにして天への切なる心情を抱いて進む者は、天と地で勝利することを知っています。


お父様、私たちの生活環境からすべてを奪い去るのは、神様が楽しむためではなく、神様のすべてを私たちに託すための摂理の御心であることを理解しました。そのような複雑な御心をもって、私たちを探し、呼び、招かなければならない父の心情を知りました。まだ自分を中心とした意識や感覚が残っているのであれば、今それをすべてお父様の前に差し出させてください。そして、天地に存在するすべてのものを見て、神様に限りない感謝の心を持てるよう、私たちの心と体にその心情を満たしてくださいますよう、心から願い求めます。


神様が悲しんでおられるのを見て、自分も悲しむことができることを感謝できるようにしてください。神様がご苦労されているのを見て、私たちも共に苦しむことができる自分であることを感謝できるよう、助けてください。


6


天の戦いの道のりを見て、私たちもそのような場所にいることを感謝できる人間となれるようにしてください。そして、このひとりひとりを父の御胸に抱き、立たせてくださいますよう、私のお父様、心から願い求めます。


お父様、この日に私たちは集まりました。どうか憐れんでください。一つからすべてがお父様のものとして結びつく時間となることを切に願います。孤独な足取りをたどってここに来ましたので、この一週間の間に受けたすべての傷をお父様、引き受けてくださり、癒し、慰め、励ましてくださり、あなたの恵みの手を差し伸べてくださるよう、心から願い求めます。


お父様、この日は聖なる日であり、この地と縁を結ぼうとする天の時間であることを知っています。天の無数の聖徒たちと、善を求めて努力しているこの地上の多くの人々をどうかお支えください。さらに、お父様の前にひざまずき集まるすべての場所で、善の業が協力し、そこにあなたの力の業を加えて、死が渦巻くこの地に勝利のしるしを立て、お父様の栄光を讃えることのできる一日としてくださいと、心から願い求めます。


命の源であるお父様、この時間に現れて栄光の賜物をお与えくださり、直接の業で導いてくださるよう、心から願い求め、すべてを主の御名によってお祈りいたします。アーメン。






<祈り(Ⅲ)>
 待ち望んでいた希望の一日を迎えるために摂理を進めてこられたお父様、不信する人々を見捨てることができず、無数の孤独な人々を抱きしめるためにイスラエルという祝福を授け、歴史を導いてこられた中で、約束されていた一人の存在をお送りくださったその日は、父の栄光が天に満ち、全人類の歓喜の心によって天にも地にも喜びが満ちるべき日でした。しかし、4千年の悲しみがイエス様お一人にのしかかったという歴史的な痛ましい事実を、私たちは知っています。


7


馬小屋で生まれ、30余年の生涯を生きたその日々は、あまりにも悲惨で、あまりにも孤独で、頼る場所がありませんでした。この地上で信じられる者がいなかったイエス様、自らの心の奥底をさらけ出し、その切なる心情を伝えられぬまま、恨みの主人公として去っていかれたイエス様であったことを、今日私たちは知っています。


天からの勧告の御言葉が残っていましたが、それを受け入れるべき人々が信じなかったために、その御言葉をすべて伝えることができず、心に抱えたまま去っていかれた2千年前のイエス様の悲しみを知らないすべての人々を、どうかお赦しください。それでもなお、天に従う弟子たちを集めて、勧告し、お願いされた御言葉と祈りを私たちは聞きました。この地上の縁と天の縁が交わるその瞬間に、天の喜びが現れ、さらに地上に新しい国が建設されるべきであったのに、その瞬間に喜びは消え、嘆きと悲しみが始まり、恨みの十字架の道が生まれたという歴史的な痛ましい事実を、私たちは知っています。


私たちの先祖たちは天の前に借りを作り、私たちもまた天の前に宇宙的な借りを作っておりますが、それを清算することを知らず、自分の安逸を求めて苦しむ者たちとなっていることをどうかお許しください、お父様、心から願い求めます。


孤独な者たちがお父様の前に集まりましたので、もし勧告すべき御言葉があるならば、どうかお与えください。これまで多くの御言葉を伝えてまいりました。伝えてみると、父の悲しみが現れていることに気づき、知らせてみると、私たちが父の心配を抱えながらも一致していなかったことを知りました。人間に対する父の悲しみがそのように道々に現れ、世紀を超え、時代ごとに現れてきたことを知りました。


お父様、痛ましい心情を感じ取り、地を憂い、天を憂う心を持つ息子娘たちがこの地上にどれほどいるでしょうか? それが極めて少ないことを知っています。哀れな全人類を救うために、数々の苦労をいとわず、孤独な私たちを励まして時を重ねてこられたお父様、私たちの前に新しい約束を立ててください。この者たちに新しい約束と新しい時代の使命を託そうとする天の御心があるのであれば、お父様、どうかお働きください。


8


この韓民族を哀れんでください。朝鮮半島を憐れんでください。この民族は哀れな民族であり、頼るべき場所がない民族です。誇るべき伝統も、誇るべき何物もなく、天の前に誇れるような民族性も持たない民族です。この民族の命を担うべき者が誰もおりませんので、哀れなこの民族を憐れんでください。この民族は孤独な民族ですので、どうか彼らの生きる道を開いてください。そして彼らの進むべき道を憂い、彼らが立っている位置を顧みて、慈しんでください。


お父様、この地に希望を託せるものが何もない民族ですので、天の心情を通じてこの民族の生きる道を切り開くことができるようにしてください、お父様、心から願い求めます。


天に対して、地に対して、この民族の悲惨さを訴える者が多くなるようにしてください。進むべき道が塞がれたからといって倒れる者が出ないようにし、進むべき道が塞がれたその事実を持って、お父様の前に訴え、嘆き悲しむ人々が多くなるようにしてくださいと、心から願い求めます。


お父様、迫害される統一教会の道を見つけて進んできたあなたの息子娘たちを憐れんでください。この道を進むことを望んではいなかったのですが、この道に入って他の人が知らないことを知り、他の人とは違う責任を負うようになり、もう後戻りできない立場にいることを知りました。お父様、これまで孤独な道を導いてくださったあなたの心情と、御心を成し遂げてこられたあなたの心情を知りましたので、孤独な私たちの後に続く者たちをどうか導いてください。


哀れな場所で天に向かって切なる心情で訴える者がいるなら、その後に続く者も同じ立場にあることを知りましたので、お父様、どうか彼らを憐れみ、支えてください。


9


彼らは人間の仕事によって動いてきたのではなく、人間の事情に絡まって動いてきたのでもありません。天上の愛を通して出発する歩みであり、人間によってその歩みを失わないようにしてください。そしてその過程で絶望することなく進むことができるように、お父様、心から願い求めます。


歴史の道を振り返ってみると、新しい時代と新しい歴史を創り上げてきた人々は、その時代に追いやられた者たちであり、追い込まれ追い込まれた末に残された者たちであることがわかります。お父様、この動きをどうか憐れんでください。


天の御心を抱き、あなたのために忠誠の心を持つ息子娘たちが、どれほどの苦しみが襲ってきても、もしそれがお父様の望む御心であるならば、このことのために何度でも命を捧げることがあっても、結果を残し倒れることができるようにし、最後まで戦い抜くことを許してくださいますよう、お父様、心から願い求めます。


今日は4月10日(旧暦)です。お父様、この民族を祝福してください。お父様、人類に愛の手を差し伸べられたのなら、その手を引っ込めないでください。真理の使徒たちをこの天地に送り、愛の使徒たちを全地に送り込んでください。誠実を立て、あなたをお迎えできる誠実な使徒たちを送り出してください。


探し、待ち望み、願い求め、戦ってこられたお父様の愛を受けて、最後の審判の場で悪魔を恥じ入らせることができる者たちになれるようにしてください。お父様、心から願い求めます。この時間に何を申し上げることができましょうか? お父様、どうかすべてをお任せし、導いてください。


10


伝える者の心と受け取る者の心が二つにならず、一つになるように導いてください。このひとときには、お父様の御心と御心情、そして事情に自然と結びつき、父の願いを叶えるための誓いと覚悟ができるように許してくださることを心からお願い申し上げます。どうかすべてをお任せし、導いてください。主の御名によってお祈りいたします。アーメン。




<御言葉>


皆さんに少しお話ししたい題は、「天国を求めて実現しようとする悲しみの父と息子娘たち」です。「天国を求めて実現しようとする悲しみの父と息子娘たち」という題で、少しお話しさせていただきます。


人類の始祖が楽園を失った悲しみを感じ取ったその日から、今日に至るまで、すべての人には心の悲しみがあり、体の悲しみがあり、生活の悲しみがあります。そして、その悲しみが全世界に、さらには天までも広がっているという事実を、私たちは知っています。


一つの目的を追求すべき私たち人間が、二つの目的に直面する立場に置かれたことで、本来は唯一の主人である神様に向かうべき人間が、神以外に悪魔にも向き合う立場に立たされることになりました。ですから、堕落した私たち人間は、二つの目的の世界に直面する立場にあるということを、日々の生活を通じて感じざるを得ず、それは誰も否定できない現実です。


人間を創造された神の御心から見ると、人間は一つの主人を中心に、一つの目的と一つの理念を持って生きるべき存在でした。しかし、堕落したその日から、人間は二人の主人に向き合い、二つの目的の理念を追い求める存在となってしまったのです。


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そのために、善と悪の問題は、私たち一人一人の環境に限らず、全世界にまでつながっていることを私たちは知っています。さらに、それは地上だけでなく、天にまで及ぶ因縁となっているという事実も私たちは知っています。


今、私たちは目的の世界に向かって進まざるを得ない運命にあり、何であれ私の良心がある方向性を指し示して私を急き立てていることを、拒むことはできません。したがって、今日の私たち人間は、現実の社会の矛盾に直面したとき、世界の複雑な状況を超えた新しい理念の世界を心の中で追い求めずにはいられません。


では、私にそうした心情を感じさせ、私自身も気づかないうちに、ある感覚を通じて心をその一つの方向に導いている動機はどこから始まったのでしょうか。それは、一つの目的と理念を持つ唯一の主人から始まったのです。そのため、その方は、一つの理念を持ち、一つの目的に向かって進んでいける人間と一つの世界を再創造するために、私たちの生活環境を導いているのだと知る必要があります。


今日の人類は、新しい文化世界を創造しようとしています。それだけでなく、その文化世界を創りながら、その文化を通じて心の世界の理念を目指しています。このことを拒むことのできない立場にいる自分を知るならば、皆さんは安穏とした日々を過ごすことはできないでしょう。


なぜなら、私たちの祖先が楽園を失ったその日から、その悲しみの感情は私たちにまで繋がっているからです。この重大な事実は、歴史的に証明された事実です。私たちの心情を通して、生活の中で感じ取るその事実を、何によっても拒むことはできません。このようなことを深刻に考え、御心を抱く人がいるならば、その人はこの悲しみと苦しみの因縁を解くために、天地に向かって両腕を広げ、訴え、もがく立場を免れることはできないでしょう。


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したがって、皆さんは、今日の私たちがそのような姿になるために、どのような目的と理念を持ち、どのような中心を目指して生活する開拓者の立場にいるのか、もう一度振り返って考えなければならない時が来たということを知る必要があります。天はこのような時代を作り、このような御心を成し遂げるために、歴史の道を歩みながら、良心を基盤にして善を追求し、善の理念を探し求める摂理を私たちの先祖たちに働きかけてこられたことを理解しなければなりません。


ですから、皆さんの心が善を目指すように何らかの衝撃を感じる瞬間があるとすれば、それは崇高な瞬間です。崇高な瞬間です。それは、歴代の私たちの先祖たちが、皆さんを立てて、人類が願う善の目的の方向へと進むように急き立てる瞬間です。さらに言えば、それは天が皆さんを立ててくださろうとする瞬間であることに違いありません。


そのため、真の理念、真の中心を目指す良心の動きを持つ人がいるならば、その人はそれをどのように整理して自分の心の中心、体の中心、生活の中心、理念の中心、あるいは目的の中心に据えるために苦しんできたのか、反省しなければなりません。


このような観点から、人間が自分自身を批判し、自分を中心に結びついている世界を批判し、さらにはこれらすべてが目に見えない無形の創造主と結びついていることを憂う心情を抱いて苦しんできたとすれば、私たち人間の心に抱かれた恨みの峠は、すでに歴史のある時点で崩れ去っていたはずです。天がこの問題を解決しない限り、天としての責任を全うしたことにはなりません。


そのため、天はこのようなことをある時、ある一人、ある集団、ある国家に予告し、摂理を進め、またそのような歴史の痕跡を残さざるを得ないのです。


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私たちがその痕跡を探し求めるとき、その恨みの歴史を清算することは、論理的な手段や理論的な形式によっては達成できません。そのため、心の世界を探り、善の理念を追求し、さらに霊的な世界、すなわち超自然的な次元の感情を引き出す方法を見つけ、人間と結びつかざるを得ないために、宗教というものが現れることになったのです。


宗教を通じて私たちが感じるべきことは、一つの目的、一つの理念、一つの中心が歴史の始まりから終末の時代まで変わることがあってはならないということです。一貫した思想で流れていかなければなりません。なぜでしょうか?


皆さんは、善悪の基準、つまり善なる民族、善なる人、善なる事を何を基準にして判断しますか? 始まりと終わりが同じであるものは天であり、善であるから、それを基準にして判断するのです。真の善、真の天であるならば、昔も今もその目的、その理念、その方向が変わることはありません。そのため、宗教が一つの理念を立て、歴史の変遷があっても、その理念は変わることなく着実に進み続けているのです。


人間の悲しみは堕落によって生じました。さらに言えば、天の悲しみも人間の堕落によって生じたのであり、この悲しみを解消するための一日を予告するような何らかの御心がなければならず、それを実践するための方法が必要であり、それを解決できる人がいることは間違いありません。


この役割を担い、この責任を果たすために送られた方が、宗教的に言うと「道」の責任を負った者なのです。


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世界的な「道」の使命、救世主の使命を持って来ることを、キリスト教ではイエスの降臨と呼ぶのです。


そのような中心的な存在が、天の悲しみと地の悲しみを解消するためにこの地に現れるならば、絶対に栄光に満ちた姿で現れることはできないのです。なぜなら、神の実体が現れるには、歴史の過程を無視することはできず、時代の状況を軽視することもできないからです。


天が悲しみの過程を経てきた歴史があるため、イエスが天の理念を代行できる理念の主体であり、目的の主体であり、命の主体としてこの地に現れるためには、そのような過程を経る必要があったのです。


実存するということは、因縁の過程を経なければならないということです。そうして初めて実存の基盤を持つことができるのです。だからこそ、イエスも歴史的に結びついたその悲しい心情を感じ取らなければならなかったのです。人間を代表してその心情を感じると同時に、天を代表して神の悲しみの心情さえも感じ取らなければならなかったのです。


倫理的な視点と宗教的な視点は異なります。人間が見ると、自分を否定し、全体のために民衆の苦しみを背負おうとする人を「善人」として称賛しますが、宗教的に見るとそれだけでは不十分です。人間の悲しみを代わると同時に、天の悲しみをも代わる立場に立たなければならないのです。


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これは、堕落によってもつれた恨みの問題を抱えた人間が必ず持たなければならない天の要求であり、全人類の要求であることを理解しなければなりません。


このような恨みを解消し、堕落によってもつれた問題を解決するために来られたのがイエスであるとすれば、彼は4千年の人類の歴史の中で誰一人として感じ取ることのできなかった神の悲しみの心情を感じ取る道を歩まなければなりませんでした。したがって、イエスは4千年の歴史の中で現れたどの主義よりも、神の心の奥深くに染み込んでいる悲しみの感情を感じ取らなければならなかったのです。もし地上の人間の中で天の悲しみの心情を感じ取った者がいたとすれば、その人は涙なくして地を見つめることができないでしょう。天と地にまで悲しみが染み渡り、嘆き悲しみ、泣き叫ぶ境地に至ることでしょう。イエスはこのような心情を感じておられました。


それは誰のためだったのでしょうか? まずは天のためであり、天が人間のためにイエスをこの地に送ったのですから、その次は人間のためだったと言えます。だからこそ、天の悲しみを抱いて人間を慰め、共に涙を流さなければならなかったイエス、人間の悲しい状況を抱えて天に向かって訴え、泣かなければならなかったイエスであったのです。


もし天が存在し、このような世界の状況を見つめておられることを知ったならば、私たちはさらに大きな恐怖を感じるでしょう。心の世界において、自分でもわからない恐怖の刺激は、時が経てば経つほど、そして時代が切迫してくるほど、ますます強くなるでしょう。


ですから、その世界、その方向をそのまま受け入れて進んではならないのです。その道を進めば、命の危険を感じ、生死の危機に直面することは間違いありません。その道は本来の心を持った人間が進むべき道ではないと再認識し、引き返せる環境を探してみるゆとりを持たなければならないのです。皆さんはそのような心を持つべきです。これまで以上に、地上においても天の前においても忠誠を尽くし、苦難を受けた以上の苦難を耐え、あらゆる情熱を注いできた以上の情熱を注がなければなりません。


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どのような善の主体、どのような善の目的、理念の世界が心に深く刻まれていて、皆さんがそれを感じずにはいられず、もがかずにはいられないような状態でなければなりません。そのような状態になれば、皆さんは何らかの目的の世界を目指して進む動機を持っていることは間違いないでしょう。


これまで自分が持っている合理的な論理を通じて築かれた主観や認識、あるいは自分なりに築いた観念に基づいて、人生を任せて生きていることに安堵を感じている人がいるとしたら、その学んだ知識が自らを縛る結果をもたらすことになるのは間違いありません。


皆さんの心の奥底を掘り下げて考えるとき、このような感情の流れを否定できない一つの真理であり、実在であることを知っているならば、その姿は宇宙的なものであり、宇宙的な証拠であり、歴史的な証拠であり、理念の証拠であり、一つの主体に対する対象的な存在であることは確実な事実です。


もし天が存在するならば、私たちは主体である天が対象である私たちの個々を100%信頼してくれるその一日を探さなければなりません。その目的に対して100%の信念を持って、その一つの場所を目指さなければならないのです。また、100%の信念を持って突き進む方向性を備えなければなりません。これが、現代の人類が解決しなければならない最も重大な問題です。


このような悲しみの環境を乗り越えなければならない人間であるがゆえに、神はこれを解決するための何らかの条件を立ててこられたことは間違いありません。それでは、神は歴史の中でどのように摂理を進めてこられたのでしょうか。人類の祖先が堕落したのは、神を信じることができなかったからだという事実を、皆さんはよく知っています。信じることができなかったからこそ堕落したのです。さらに言えば、神を愛することができなかったからです。そして、神を迎えることができなかったために堕落したのです。これが、キリスト教で言われている信仰の三大要素、すなわち「信仰」「希望」「愛」を象徴しているのです。


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私たちの最終的な希望は何でしょうか?それは神をお迎えすることです。人間が必ず取り戻さなければならないのは、天との縁を回復することです。恨みを晴らすための歴史的な条件、摂理的な条件、未来的な条件があるとすれば、それらの条件はどのようにして私たちにやって来るのでしょうか?過去の私たちの先祖たちが信じることができず、愛することができず、お迎えすることができなかったために、信仰の運動や愛の運動が提唱されてきたという事実を私たちは知っています。このようなことを通して、私たちに近づいてきているのです。


イエス様が来られる前までは、信仰の基盤を築くために苦しみ、イエス様がこの地上に来られてからは、人類を愛するために戦われましたが、その御心をすべて成し遂げることなく、新郎新婦の理念だけを残して去って行かれました。ですから、この人類を抱きしめ、愛することができる愛の主人公が来なければならないのです。


では、その主人公を迎えたその日からはどうすべきでしょうか?日常生活の中でその方をお迎えしながら生きるのです。それが地上天国です。そのように無限にお迎えしながら生きる世界、そのような天国の世界で生きることこそが、信仰者たちの希望であり、理想の基準です。歴史の摂理の道筋もその方向に向かって進んでいます。


そのため、天が悲しみに沈む人間を探し出すためには、逆説的な要素と逆理的な条件を通じて、順理的で法に適った条件を築かなければならないのです。ここに天の困難があります。人間の悲しみも大きいですが、天の深い悲しみはそれ以上に大きいのです。しかし、人間はそのような天の悲しみを知りません。無知な人間に対して法を定め、順理的な過程を経て近づいてこなければならない天の悲しみを知る人はいません。


それゆえ、イエス以降の歴史は、信義の歴史です。人類の歴史は、信仰の一つの基準を形成し、その基準を高め、善の成果を積み上げてきたことを私たちは知っています。イエス様は愛の中心としてこの地に来られましたが、来られた目的を完全に果たすことなく去られたため、これからは信義の時代から侍義の時代へと移行しなければならないのです。


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そのために、天は悲しい環境に置かれている私という一人の存在を救うために、再び訪れてくださるのです。


歴史的に見ると、天が人間を探し求めてこられたのは、信仰という条件を通じてだったということです。天は人間にこの信仰の条件を立てさせる一方で、人間に何を求めたのでしょうか?それは実践を求めたのです。天と人が結ばれ、悲しみの感情を取り除くための一つの足場を築くためには、信仰を中心に実践的な行動が必要でした。そうしてこそ、歴史的な縁を結ぶことができるのです。


なぜなら、私という存在は、私個人のために生きるのではなく、私を否定して天の進む方向に従わなければならない運命にあるからです。天は私たち個人を超えて、世界と宇宙のための方向性を持ち、その方向に進んでいるので、善の方向性は私を中心にしていないのです。善の基準は私を中心にしていません。それは国家が対象であり、天が対象となっているのです。したがって、天は信仰と実践を強調しながら、人類に対して摂理を進めてきました。


今日に至るまで、信仰と実践を強調してきた歴史は6千年に及びます。この6千年の歴史を振り返ると、言葉では言い表せないほどの悲しみの歴史でした。しかし、今日の皆さんが人類の悲しみ以上に、人類を抱えて進んでいる天の悲しみの方がさらに大きいという事実を知らなければ、天との縁を結ぶことはできません。これまでそれを知る者は誰もいませんでした。


私たちは、人間が天を追い出し、預言者や先祖を殺してきた歴史的な先例を持っているということを理解しなければなりません。


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天は、人間が無限に信じ、実践しながら自分を見つけてくれることを望んでおられましたが、人間には神に向き合う心がなく、信仰をもって実践し、行動するための足場も整っていなかったのです。


また、信仰の基盤があるとしても、人間が天の悲しみを理解し、それに共感する心をもって実践しなければ、天の信仰と人間の信仰が交わり、人間のすべての悲しみを解消することはできません。しかし、私たち人間はそのような境地に立つことができなかったのです。


今日、皆さんが新しい理念に向かい、新しい御心を目指して進んでいく中で、自らの信仰に自信を持っていますか?おそらく自信はないでしょう。その自信と共に歴史的な縁を断ち切るだけの命の力を持っていないのであれば、歴史的な縁のある環境を開拓するための実践の道が残っているのです。たとえ信じることを実践できる資格があったとしても、天の悲しみを感じ取り、神の信仰に囚われ、神の実践に囚われようとする感情が先立たないのであれば、皆さんは神が見出し、実現しようとしている天国とは何の関係もないのです。何の関係もないのです。


人間同士の信頼関係も、悲しみの面と喜びの面が相対的な関係を結んでこそ、それが長く維持され、その信頼を基盤に約束された事柄を長く実行することができます。天との信仰の道や実践の道においても、それは変わりません。天の喜びの面と悲しみの面を感じながら、信じて実行できることが必要です。したがって、喜びの自分になるためには、まず悲しみの自分を見つけなければなりません。


そのため、信仰の主人公として来られたイエスは、全ての人々を代表して信仰の中心となる心情を持ち、真の信仰者の姿を備えて天の前に立とうとしました。そして、天はイエスが全ての人々を代表して神と信仰の縁を結び、そのイエスが人々とも縁を結ぶことを望んでおられましたが、その願いがすべて叶うことはありませんでした。つまり、イエスと天は縁を結びましたが、イエスと人間の間には、天が望まれていた縁を結ぶことができないまま、今に至っているのです。これまでの信仰者たちは信仰を立てて実践してきたと言っていますが、信仰と実践が自分の中で完結したと言える日を迎えられていないのです。


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天国とは、真の信仰は「こういうものだ」と解釈でき、真の実践は「こういうものだ」と解釈できる場所です。したがって、今日の人間たちがそのような真の信仰と実践を成し遂げる道で、天が受ける苦難や悲しみの感情を感じ取り、その感情の限界を分析し共感できないならば、その人はまだ天国の理念の世界では両手を挙げて歓迎される立場にはないことを理解しなければなりません。


そのため、イエスが歩んだ足跡は非常に貴重なものでした。イエスは、自分の一言が成り立てば天が成り立ち、その言葉を実行すれば天の御心が実行されることを知っていました。この基準に基づいて生きられたイエスには、人間を心配する心が大きく、天を心配する心が大きく、天地の悲しみを感じ取る感情が大きかったのです。


聖書の中には、イエスが喜びに満ちて踊りながら語ったという箇所はありません。なぜでしょうか?それは、神が今まで喜びの園で子である人間に語ることができなかったからです。イエスは心に喜びがあったとしても、天地を超えられるような喜びの感情で自由に話すことができなかったのです。


イエスの言葉は、喜びの感情を持って紹介されるべきものでしたが、実際に語られたその言葉は、悲しみの感情を通して語られたものであることを知っておかなければなりません。したがって、皆さんはそのような感情に触れ、言葉の尊厳性を理解できるようにならなければなりません。


もしイエスと私が歴史を超えて関係を結べず、現実の生活の理念の中で縁を結ぶことができない言葉であれば、それは天の言葉ではありません。


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皆さん!もし皆さんが真理の道を求め、信仰の歩みを蘇らせようとする切実な心があるならば、イエス様が悲しみの感情で語られた信仰の観念の最終的な限界線がどこにあるのかを知り、その限界を越えなければなりません。イエス様は神の悲しみを解消し、人類の悲しみを解消しなければならない中間的な責任者であったため、その心は計り知れないほどの悲しみで満ちていました。イエス様は人類の悲しみを百なら百、千なら千と感じ取り、さらに神の無数の悲しみをも感じておられました。ですから、すべてがイエス様の悲しみの感情を通して現れた言葉に対する人間の信仰の基準が確立されて初めて、神と人間の間に途絶えていた縁が再び結ばれるのです。そのような基準を立てることこそが、信仰者の本質だと言えます。


したがって、キリスト教は笑いの宗教ではありませんでした。涙の宗教でした。だからこそ、私たちがイエス様について何か一つを知れば胸が詰まり、二つを知れば思わず号泣し、さらに知れば知るほど自分自身が犠牲となるべき立場にあることを感じずにはいられなくなるのです。そのような感情からの信仰、そのような感情からの実践を行えば、死んだ人間をも生かすことができるのです。


どれだけ天の前に素晴らしい功績を立てたとしても、その功績は自分によって成されたものではありません。それは天によって成されたのです。


では、摂理の始まりはどこから始まったのでしょうか?それは、人間の心が天の悲しみと通じたその瞬間から、新しい摂理の歴史が開かれ、築かれてきたことを私たちは知るべきです。


神は人間に対して信仰と実践の道を歩むように促し、6千年という長い歴史の道を歩んでこられました。神は全人類に対して、そのような存在になることを心から願っておられました。神ご自身を全人類の前に100%示すことのできる実体を望んでおられたのです。


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天は、限りなく信じて行動しても、その事実を忘れてしまえるような存在を探しておられます。天の基準とはそのようなものです。「信じなさい」という言葉が必要なく、「行動しなさい」という言葉が必要ない存在を探しているのです。イエス様を通して与えられた言葉を立てることができ、実践の模範を示し、天の感動を起こせる存在を求めてこられました。しかし、そうして天が人間を探し求める限界を超えて実践した人は一人もいませんでした。


今日、キリスト教には多くの信者がいますが、そのような心情の限界を超えて実践の道を誇れる天の子はどこにいるでしょうか?天の子はどこにいるのでしょうか?問題はここにあります。今日の皆さんは、信仰の模範を夢の中でも望み、それを立てることができなければなりません。そして、どんな事実に対しても、時代性や歴史性を超えて、永遠から永遠まで自由自在に自分のものと感じ、楽しむことができ、自分のものとして応じることができなければなりません。神が人間に対して信仰の基盤となる道を確立されたという内容が必要なのです。


世の中で信義の法則を忘れることができる一つの存在、実践の価値を忘れ、実行の価値以上に大切にできる境地で天の御心に染まるとき、天はようやく「我が子よ」と呼ぶことができるのです。だからこそ、真の息子娘を見つけられないことが天の悲しみであり、この地上の人類の悲しみでもあります。この人類を息子娘として迎えられないことが天の悲しみなのです。


今日、絶対者を「神」と呼ぶ言葉は持っていても、神を「こうだ」と紹介するときに真に感情が通じるものがありません。皆さんも感情を抜きにした言葉は存在し得ないことを知っています。では、言葉が通じ、感情で触れ合える神はどこにいるのでしょうか? 皆さんが信仰の道を進む中で、切実な心情を持ってこの問題に向き合い、信仰という言葉や実践という言葉を越えて、お父様に囚われ、自分でも知らないうちに自分の細胞や心が連動してお父様を呼ぶことができなければなりません。天は必ず、そのような叫びが生理的な状態で持続できる一つの存在を探しておられるのです。


今日の人類が泣かなければならないことがあるとすれば、それは人類全体が責任を果たせなかったことに対して悲しみ、涙を流すことです。6千年の間、天を悲しませてきた反逆者であり裏切り者である私たちの先祖たちに対して、悲しみを抱かなければなりません。さらに進んで、今日の自分自身を振り返り、悲しまなければなりません。


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今日の信仰的な観点から、私たち自身がどのような限界の中でさまよっているのかを考えもしないまま動いているならば、そのような私たちに対して天は「良い」と言うでしょうか、それとも「悲しい」と言うでしょうか?その心情は、4千年を経て6千年の歴史にわたる悲しみで満ちていることでしょう。そして、皆さんは天が皆さんを見て嘆く立場にあることを認めなければなりません。


人間が堕落したことにより、信仰を失い、愛を失い、神を迎える生活を失ったその心情に流れているものは何だったのでしょうか?それは悲しい感情でした。何とも言えない悲しい感情でした。ですから、皆さんも信仰生活において、自分でも気づかないうちに悲しみの感情が芽生え、意識的な基準を設けていなくても、生活の中や周囲の環境で悲しみが訪れる時間があるならば、それは天が訪れる時間であると知ってください。そのような時に、その悲しみの実体を抱きしめ、涙で縁を結ぶ者がいるならば、その人は蘇ることができる人です。


本来、そのような縁を結ぶべき人間ですが、堕落した人間は天に対して立体的に向き合うことができないため、平面的な主人公としてこの地にイエス様を送られました。堕落した人間には、実体の主であるイエス様が必要だったのです。それでイエス様はこの地上に来られたのです。


4千年の悲しい歴史の中で追いやられ、追い詰められてきたイスラエル民族が、天の悲しみの感情を抱えたイエス様をしっかりと抱きしめ、共に涙を流すことができていたなら、その民族は今日、世界の前で名を知られる民族となっていたでしょう。そうであれば、民族を失い、主権を失い、国土を失い、さまよい続ける民族にはならなかったでしょう。そのような民族にはならなかったでしょう。そうではありませんか?


統一教会は本来、険しい道を進むためのものではありませんでした。私が皆さんが統一教会に入ることを望むとき、歓迎する気持ちよりも心配する気持ちの方が先に立ちます。そのような心で見つめるようになるのです。歓迎するよりも、ためらいの心を持って見つめるようになるのです。


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このような天の思いと天の事情、つまり私たち人間に対して探し求めておられる天の切実な心情を感じる人ほど、自分を立てることができず、自分を否定せざるを得なくなるでしょう。


もし自分の意識や自分の主観で批判できないような境地に、自分でも知らず知らずのうちに引き寄せられるような存在であるなら、そのような境地で悲しみを感じながらも、主体的な立場で天を安心させ、慰めることができる部分を引き受けて繋げる場所でしか、この道を進むことはできないのです。そのようにして初めて、この道を進むことができるのです。


楽な道を進みたいと思う人は、この道に来ないでください。私が歩んでみたところ、その歩みは友がいない孤独な歩みであり、同志がいない歩みであり、事情を分かち合うことができない歩みであり、頼ることができない歩みであり、信頼できるものがない歩みであるとわかりました。歩んでみて、そんな困難を抱えていたイエス様の心情を少しばかり理解できるようになりました。


今日、私がイエス様を紹介するとすれば、まず悲しみの側面を持つイエス様を紹介したいと思います。食事の時間も忘れ、眠る時間も忘れ、悲しみの胸を抱えてあちらこちらの村を追われながら彷徨っていたイエス様。その時代に誰がその心情を理解し、友となった人がいたでしょうか?天は哀れな天でした。天を代わろうとした預言者たちも哀れな犠牲となり、イエス様までもが亡くなったことで、御心を抱いておられた天は、哀れな天でありました。


その天とは誰なのでしょうか?よくよく考えると、それは父でした。神と私たち人間の関係を知ると、それは父と子の関係だったのです。私たち人類は、父の哀しみを知らない存在になってしまいました。しかし、神がご自身で知らない人間にその哀しみの心情を伝える責任はありません。それは人間にあるのです。だからこそ、この使命を果たすために預言者が来たのであり、イエス様が来られたのです。


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天は今までずっと待ち望み、求めてこられました。イエスが進んだ悲しみの信仰の道、イエスが戦った悲しみの信仰の戦い、その戦いを、今日、子としての名分を持とうとする者は代わって戦い、勝利しなければならないのです。


人類はまだ地上で喜びの日を迎えたことがなく、栄光の日を迎えたこともありません。そのような事情に向き合い、悲しみの感情に触れて天を呼ぶとき、人は知らず知らずのうちに天の存在を感じることができるでしょう。


私が知る限り、イエス様は誰にも知られずに多くの涙を流された方です。この事実を皆さんは知るべきです。聖書にはいくつかの場面しか描かれていませんが、イエス様は人知れずたくさんの涙を流された方です。山や川を見て責任を感じ、広がる民族を見て責任を感じ、無限の天に対しても責任を感じておられました。責任を負わされながら、それを実行できない分野があるのを見て、さらに深い悲しみの心情を抱かれました。また、天を慰めるべき立場で慰めることができなかった悲しみ、人類を救わなければならない救世主の責任を全うできなかったことから来る悲しみなど、彼は真に「悲しみの王子」でした。


私たちが信じているイエス様は、どんな万王の王子、栄光の王子、勝利の王子というよりも、悲しみの王子です。御心のための悲しみの王子であることを、私たちは感じ取るべきです。


こう言うと、キリスト教の異端者だと烙印を押されるかもしれませんが、よくよく考えるとそうなのです。「イエス様は、全人類の前に、歴史の前に、初めて現れた天の悲しみの心情に通じる王子だったのだ!」と感動に胸が打たれる瞬間を持たなければ、皆さんはその方と縁を結ぶことはできないのです。そしてそれだけではありません。イエス様は苦しみの王子でもありました。


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天を裏切り、天に対して呪うことの先頭に立った者たちは誰だったでしょうか?それは、信じて従うべきとされたユダヤ教徒であり、イスラエルの民でした。天がイエスを捕らえて殺させるために、4千年もの間、イスラエル民族を準備されたはずがありません。


これを見れば、イエス様は完全に勝利して去られた方ではありません。完全な勝利を収めることはできませんでした。皆さんもそう思いませんか?


イエス様が十字架にかけられて亡くなられたことが完全な勝利であったならば、その苦難の日はこの上なく喜ばしい日であったはずです。十字架で亡くなられた瞬間が最終的な勝利の瞬間であり、全ての人々と全ての万物を動員して喜べる瞬間であったはずですが、実際にはそうではなかったことがわかります。だからこそ、マグダラのマリアが歓喜の心で迎えようとしたとき、イエス様は「来るな」と制されました。イエス様は、愛する弟子たちと共に喜びに満たされ、天の前に栄光を捧げることができませんでした。それができなかったのです。ですから、イエス様は悲しみを抱えたまま亡くなられ、その死は嘆きに満ちていました。そして、その悲しみを抱いて成し遂げられた復活であったことを、私たちは知るべきです。


私たちは、天の悲しみの心情を感じ取りながら、自分の居場所もわからず、自分の生活の手段も忘れて、家々の門前で冷たい視線を受け、この村からあの村へと彷徨い、追われながらさまようそのやつれたイエス様の同志となるべきなのです。


イエス様は民族の前に追いやられ、宗教団体の前に追いやられ、親戚の前に追いやられ、愛する弟子たちにさえ追いやられました。このように、悲しみの中の悲しみを感じたイエス様でしたが、天の心情を抱き、世界の人類に自分のすべてを捧げようという心を持ち、また人類を信じようとする心を持っておられました。


27


イエス様は、悲しい感情で通じ合える人類との縁が過去も現在も未来も続けられなかったため、自分の心の中に抱いていた切なる願い、切なる思い、切なる事情を人類の前にすべて伝えきることができませんでした。このことを皆さんは知るべきです。


今日、終末にいる信者たちは、御言葉を持っているだけで、自分が天の王子の前に立つ約束の花嫁だと名乗り出てはいけません。それはそうなっていないのです。実際にはそうなっていないのです。


ですから、皆さんは今、「お父様! 私たちは御言葉を恐れ、私たちの行いが足りないのです」という畏れ多い気持ちに満たされ、お父様を呼ぶ時には涙が先に出てしまい、お父様を想う時には胸が詰まり、切なる心情がこみ上げてこなければなりません。たとえ自分が何万回犠牲になろうとも、歴史を導くために苦労してこられた父の前に自分を立てることで何かを期待することはできないと知るべきです。その心が天に向かい続けても足りなく、向かい続けても畏れ多く、向かい続けても申し訳ない気持ちに満たされ、悲しみの涙を流す者であってこそ、イエス様の弟子となり、イエス様の花嫁になることができるのです。


私たちがその境地に入って初めて、イエス様が「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところがない」(マタイ8:20)または「カペナウムよ、お前が天まで上げられると思うか? 地獄にまで落とされるのだ」(マタイ11:23)と語られた言葉を理解できるのです。


そのような心情で御言葉に触れるとき、その御言葉はイエス様の言葉としてではなく、自分自身の言葉として骨身に染み渡るようでなければなりません。そして皆さんは新たな理念、新たな覚悟、新たな決意を持ち、新たな目的の時代を目指さなければならず、そのような衝撃を伴った姿で周囲の環境を開拓できる信義の子供となるべきです。


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そうして初めて、本質の世界を通してイエス様の前に花嫁として立つことができる一つの対象となり、信仰者と呼べる存在になるのだということを、皆さんははっきりと理解する必要があります。


私たちを探し出してくださったイエス様は、信仰の重要性を強調する一方で、神は愛であると語られました。愛の神、慈悲の神、正義の神など、神の様々な側面をお話しされましたが、神のすべての側面を代表する結論として、神は愛であるという定義を示し、私たちを導いてくださいました。つまり、真の愛を探し求めている神であることを教えてくださったのです。


「何よりも私をもっと愛しなさい」という言葉はどういう意味でしょうか? それは、私があなたを信じ、あなたを愛するという意味です。また、天も私たちに対してそのように接しているのです。天は私たちを愛するがゆえに、時間を惜しみませんでした。


今日、教会に責任者がいるとすれば、迷っている羊たちを見て、自分の骨身に染みて彼らの命を守り、涙を流して号泣できる心がなければ、天の法に反する牧師になるでしょう。天の法に引っかかるのです。そのような心を持たない牧師がいるならば、その人は死んだ牧師です。


神がなさることは、言葉よりもまず心情が先に立つのが特徴です。心情に染みて自分でも知らずに溢れ出る言葉の前では、悪魔は屈服するのです。悪はそのようなところから屈服していくのです。そうでなければ、どんなに良い言葉を語っても、悪は屈服しません。心に染みた心情が現れ、人間の命が生死の境に立っていることを憤り、それを自分の苦しみとして感じ、自分の状況を顧みずに身を投げ出して、彼らを救いたいという切実な心情が先に立つとき、そこから救いが実現するのです。


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イエス様は十字架を背負って亡くなられるとき、「愛しなさい」という言葉を残して去られました。十字架の上でも、天を離れて敵のもとへ向かう人々を恨むことも、呪うこともしませんでした。


自分自身の痛みよりも、彼らへの哀れみの心が先に立っていたからこそ、敵のもとへ向かう彼らを阻むことができ、手を挙げて敵のために祈ることができたのです。そのような祈りの前でのみ、悪魔は屈服するのです。


したがって、天のために生きようとし、天の前に進もうとする人であれば、自分が食べているものが他人よりも良いものであるときには、罪の意識を感じなければなりません。着ているもの、住んでいるもの、見ているものすべてについて罪の意識を持って歩んでいる人がいるならば、その人は飢えることもなく、追われることもなく、追い詰められることもありません。もし悪魔の世界では追い詰められることがあったとしても、天の心情を求めている者たちの前では、追い詰められることはないのです。


だからこそ、天は私たち人間に対して「私を愛しなさい」と言われました。その愛は、今日の皆さんが感じるような感情の愛や、限界のある愛ではありません。6千年の悲しみを解消できる愛でなければならないのです。それはエデンの園でアダムを追放しなければならなかったその哀れな心情、さらに地獄に行く命までも哀れに思って号泣できる心情を持った愛だということを、皆さんは知るべきです。


神の愛は、本来なら罰を受けるべき罪人であっても、悪魔と天の前に置かれた条件の法則があるため、その法則の条件を実行させるために彼を叩いた後、悲しみ、捨てた後、また引き寄せてこられるのです。


30


イスラエルの歴史を見ると、反逆したイスラエルの民は、神の前で誰よりも裏切り者でした。しかし、天は彼らを捨てては拾い、再び捨てては拾ってこられました。個人を取り上げては捨て、また取り上げ、その中で生まれた家庭を取り上げては捨て、さらに一つの家庭を立てて天の前に何百、何千、何万の家庭を取り上げては捨て、取り上げては捨てながら、イスラエルの民を立て、今日の第二のイスラエルとされる世界のキリスト教を展開してこられたのです。つまり、第二のイスラエルといえる世界のキリスト教を築いてこられたのです。


ここにいるすべての信者は、悪魔に対してさえも執着心を持つ神の心情と、悪魔さえも許す法を思い、摂理を進めて戦ってこられた神の心情を理解しなければなりません。そのような神であることを私たちは知るべきです。


今、そのような心情を持つ神であることを知り、今日、皆さんは天を裏切った罪と、自分が至らず引きずってきた過去の生活を振り返り、愛する心だけでなく、無条件で仕えたい心、無条件で尽くしたい心が湧き上がらなければなりません。そのような瞬間から、皆さんは天が愛する者になります。親を忘れ、親を覚えることすらできないほど心を動かされるその一つの境地こそ、天の立場です。


堕落した人類の親でさえ、子の過ちを忘れようとするのに、ましてや天の心情を代行しなければならない私たちは、なおさらそうすべきではないでしょうか?


今、皆さんがそのような心情に触れ、そのような父であることを感じ取って、そのお父様を無限に尊敬し、無限に仕えなければなりません。そうして、自分自身をすべて捧げ、誰かが自分のすべてを奪い去っても「私は感謝します」と言える心情に満たされるべきです。まさにそのような瞬間が、神の愛の世界と結びつく出発点であることを、皆さんはしっかりと理解しなければなりません。


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そのため、イエス様は愛を強調し、愛の主体としての使命を全うしようとされました。ですから、彼のすべての生活は奉仕の生活、与えるための生活でした。与えることができず、もがいていたイエス様でした。彼は自分の命を与えようとし、自分の言葉を与えようとし、自分の栄光を与えようとし、自分の座さえも与えようとしていました。しかし、自分のすべてを与えても受け取ってもらえなかったため、ついには自分の体、自分の血と肉さえも人類のために捧げて去られました。


これが、愛を掲げて実践されたイエス様の生活でした。私たちもそのような愛を追求して進む者であるならば、長く信仰を持ってきた人を見れば自然と頭が下がり、天のために苦労した人を見れば自然と仕えたい気持ちになるべきです。皆さんの信仰生活にこのような心情がなければ、天の愛の縁は切れてしまうでしょう。


人間がこれまで持っていた愛は永遠の愛ではないため、人々は「愛」という言葉を掲げ、その永遠の愛を見つけるために死を覚悟して苦しみ続けています。人間的な愛が天的な愛の理念に触れて、愛の感触を感じる瞬間は、大宇宙の所有権を決定できる価値の甘美を感じるのです。天の愛に触れるその瞬間、すべてを失っても未練はありません。そのような世界は幻想ではありません。何らかの作り話の空想の世界ではなく、実際に存在する現実の世界です。


そのような感情が、今日の人類の心情の中、大宇宙の中にあります。私たちが理解できない天の心情の世界が、人類に向かって回っている感情があるのです。これを否定してはいけません。イエス様は、愛の真髄を紹介するために来られました。これを紹介し、神の愛を立てるためには、人類を代わって何千年もの間苦労されてきた天を仕え、敬う心に満たされなければならなかったのです。


これまでの信仰の世界もそうでした。第一に信仰の世界であり、第二に愛の世界でした。愛の世界は、新郎と新婦の世界を意味します。これからの時代はどのような時代かというと、「仕える時代」です。しかし、信仰の過程を経て愛の過程を経なければ、「仕える時代」に入ることはできません。これを今日のキリスト教徒ははっきりと理解すべきです。


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これまで「信仰だけで救いを得られる」と主張する人は多くいましたが、「愛で救いを得る」と主張する人はいませんでした。使徒パウロは「信仰と希望と愛、この三つはいつもある。しかし、その中で最も重要なのは愛である」と言いました。信仰だけでは行くべき場所がありません。ですから、今日の統一の戦士たちは、信仰の論理を掲げて「信仰で救いを得る」と主張するのではなく、「愛で救いを得る」という標語を掲げて進むべきなのです。


愛とは、自分個人を愛するのではなく、民族を越えて世界と天を愛する心情です。自分に熱意があり、力があり、生きている限り、心から尽くし、叫びたいという気持ちであり、世界を越えて天と縁を結びたいという思いです。


そのような愛を実践するために、今日も困難があり、明日も困難がやって来ても、与えてまた与え、仕えてまた仕えることを続けたのが、イエス様の30年以上の生涯でした。イエス様はパリサイ人たちに「白く塗った墓のような者たちよ」と叱責し、呪われたことがありますが、それは限りなく尽くしたい、限りなく支えたいと思っていたのに、彼らがその心を理解しなかったために、そうおっしゃったのです。


今日、私たちは「ために生きる」人を見つけることができていません。本当に「ために生きる」人を見つけることができていません。この民族は「ために生きる」民族になれていません。「ために生きる」という理念を持っていないのです。過去のこの民族のために尽くす理念を持てず、現在のこの民族のために尽くす理念を持てず、未来のこの民族のために尽くす理念も持っていないため、尽くそうとする天の摂理の御心とは矛盾しているということを私たちは知るべきです。


皆さん自身も同じです。自発的に、過去と現在と未来のために尽くせる心が現れなければなりません。「自分が成功して名を上げよう」といった、自分を中心にするのは堕落の道です。堕落の道はそのようなものです。どのような権力者の立場に立ったとしても、その人は高められるべき者ではなく、3千万人のために尽くさなければならない者です。


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この民族全員が、一口のご飯を食べるときにも3千万人の血と肉を食べる心情であり、1着の服を着るときにもそのような心情を感じることができれば、この民族は滅びません。絶対に滅びません。今日、キリスト教が強調すべきことはそれです。そのような個人、そのような牧師、そのようなキリスト教が現れてこそ、民族が生きるのです。


私たちは今、このような悲しみと困難の嘆きに満ちた現実を見て、目を覚まさなければなりません。


天が掲げた愛の標語を実践するための重要な要素とは何だったのでしょうか? 肉が裂かれ血が流れても、相手のために幸せを祈りたいという気持ちが宇宙全体に満ち溢れ、神さえも引き寄せることができる心を持った存在が現れれば、その人は世界を動かす主人公になるでしょう。心情の主人公になるでしょう。そのような人物が現れれば、心情の世界の理念を掲げて進んできた天さえも、その人を手放すことができないと決心せざるを得ないのです。


だからこそ、天は皆さんの信仰の道において重要な要素である「愛」という言葉を掲げたのです。罪悪に満ちた世の中でも、愛を求めるには心情が必要です。そのような心情に満たされ、相手のために尽くすことができる何かがなければ、愛のイエス様も皆さんとは関係がないのです。


では、天の嘆きを解消するために掲げられた目標は何だったのでしょうか? 失われた天国の回復でした。失われた真の息子娘、永遠に抱きしめて愛することができる息子娘を見つけることでした。日常生活において神を失わず、永遠に共に暮らすことができる息子娘、堕落前のアダムとエバのような本来の人間に戻ることだということを、皆さんは知るべきです。


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堕落した人間が信仰の道をすべて通り、審判を越えて天国に入るために父の子として現れようとするならば、まず本来のアダムとエバの姿を持った状態で、信じなさいという言葉が必要なく、悲しみの境地を超えて愛しなさいという言葉や、仕えなさいという言葉をかけられなくても、感情的にも身体的にも、行動的にも、そして生活全体や理想全体が自動的にその方向へと動くことができなければなりません。


どのような法律的な規定や命令によって動くのではなく、私たちの心情が法を先立ち、私たちの良心の働きがどんな論理や最高の規則を超越する場所であってこそ、天的な縁が完成した世界になります。天の心情に満たされ、動きたくなくても動かざるを得ず、行いたくなくても行わざるを得ず、愛したくなくても愛さざるを得ず、尽くしたくなくても尽くさざるを得ない、そんな崇高な姿であるべきです。キリスト教徒にとってこれが最高の信仰の基準になるでしょう。今日、これが現実に現れなければならないのです。


皆さんがそのような人と出会うその瞬間、マグダラのマリアが復活したイエス様を抱きしめようとしたときに、イエス様がそれを止めた心情を感じ取ることができるでしょう。今、皆さんは「さあ、死の道よ、来るがいい」との覚悟で困難を乗り越え、実践の道を歩みながら愛の心情を抱いて進まなければなりません。苦しみや追い詰められた中でも、その困難を乗り越えて復活の恵みに感謝し、天の前に栄光を捧げられる瞬間、愛の心情を抱いて仕えることができる栄光の境地に入ってこそ、そこから天国生活が始まるのです。


今日、皆さんにとって「天国」という言葉は観念的な言葉として残っています。その観念的な言葉が、いつ私にとって生活的な言葉に転換されるのか、これが問題です。もし天が存在するなら、この転換点を成し遂げるための一つの場所を見つけてくださるでしょう。そのときを「終末」と呼ぶのです。


この観点から、天は私たちを探し求めてこられました。では、今日、皆さん自身を振り返ってみてください。皆さんは天を信じていると言い、天を愛していると言いながら、それを基盤にして信仰の源である神を自分に従わせようとしてきたのではありませんか? 偉大な実践者である神を、自分が実践しなければならないことを代行する小さな存在にしようとしてきたのではありませんか? 宇宙的な愛の主人公を自分の愛の心情の中に見つけようとして、尽くす主人公である神に対して、自分を支える友になってほしいと願ってきた過去を悔やみ、悲しい心情に満たされなければなりません。


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御言葉選集6(6,7)

2024年10月12日 17時35分19秒 | 学習

皆さん! これから世界的に70門徒の歴史時代が来ます。歴史は復帰摂理の歴史であり、法度に基づいて再び上がります。失われたものを取り戻すために再び上がるのです。70門徒時代の次には12使徒時代が来ます。韓国にはそのような立場の哲学者が多く出てきては消えていきました。そして次に3弟子時代が来ます。三つの形の代表的な動きが起こるということです。


イエス様の足跡をたどることがキリスト教徒の信仰の道であるとすれば、皆さんはどこに留まっていますか? イエス様の荒野の時代に留まっていますか? あるいはイエス様がガリラヤで育っていた時代に留まっていますか? どこに留まっていますか? 皆さん! イエス様の生涯は人間として行くべき道を行かれた、人間の典型的な生涯でした。人間の模範であったということです。しかし、皆さんはどの位置に立っていますか? イエス様の40日断食の期間にいますか? あるいは3年間の公生活の中で苦労しているのでしょうか? あるいはゲッセマネの園で祈る位置にいますか? それとも十字架で最後の生死を判決するその道を歩んでいるのでしょうか?


主が行かれた道をたどるべき私たちは、使徒の門であるキリスト教の門、キリストの狭い門を通って行くべきです。しかし、そのような狭い門を探し求める聖徒はどこにいますか? いません。今日、教職者と教役者たちはむしろ狭い門を求めて行こうとする聖徒たちを阻んでいます。


イエス様は夜通し祈られ、絶えず祈るようにと命じられました。絶えず祈るとどこへ行くのでしょうか? 人間世界を忘れ、霊界に入ります。霊界に入り、さらに絶えず祈るとどうなるでしょうか? 天使に会うことができます。そこからさらに進むとイエス様と聖霊に会うことができます。しかし、人間が行くべき未知の行路、すなわちイエス様が行かれた未知の世界の関門を突破して進むべきキリスト教徒の道は閉ざされています。使徒たちは死を迎える場所まで導いたが、天国がどのような場所であり、イエス様がどのように進まれたかについては説明していませんでした。それを解明し、イエス様が生涯で感じられた心情を体感させることができる真理も出てきたことはありません。


だからこそ、統一教会に来た皆さんはイエス様が行かれたその道をたどらなければなりません。イエス様が開いて入られた門を開いて入らなければなりません。そしてイエス様が復活されたその位置まで進まなければなりません。そのために私たちは集まりました。だからこそ私たちはこの使命を果たすために全世界の前で訴えなければなりません。


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では、その次にイエス様が復活されて再び地上に現れた目的はどこにあるのでしょうか? イエス様が歩まれた復活の道程を私たちがすべてたどったとしても、私たちは復活昇天してはなりません。イエス様は復活の喜びを迎えられても天に昇らず、死の権内にある人類を探し求めました。


皆さんも恵みを受け、天の御心の前に立って、神様が許された賜物の場に立つなら、その時に天に向かって走るのではなく、地に向かって走らなければなりません。向かって走ることができるようにならなければなりません。皆さんは今までそのような信仰生活をしてきましたか?


復活された後も、地を求めなければという一つの中心を忘れないことを知っていたイエス様は、裏切り者の裏切り者である弟子を訪問されました。裏切られたのは、どの民族やどの宗派が裏切ったことよりも残念でした。


皆さんが信仰の旅を終えた後、どうですか?そして、復活したなら復活した後はどうですか?を証しすることができる血族を作ってから、主の前に行くことができます。


皆さんは心に深く感謝の恵みを受けましたか? そうであれば、皆さんはイエス様が40日間の断食期間に努力されたように、6千年間を悩みながら迫害を受けつつ、私たち自身に必要な天の基盤を見つけて築くために努力しなければなりません


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主がこの地に再び来られるとしても、そのような基盤、環境的な土台を持っていなければ、花婿であるその主の前に花嫁として立つことができないということを、皆さんはよく知っていますだからこそ、そのような基盤を見つけて築かなければなりません。それが必要です。


これは善の御心を目指すことで、その御心はイエス様が勝っている御心であり、神様が勝っている御心であり、聖霊があり優先している御心です。その御心は、イエス様と共に生きることです。その御心の目的と内容もまた、イエス様と共に生きることにあります。


そのような境地に進むためには、皆さんが今日復活の恵みを受け取ったとしても、そのこと自体に満足せず、恵みを受け取った者として、地上の死の権限の中にいる人を見つけて、天気の前に立つための当面の条件を築かなければなりません。


イエス様は復活された後、12人の弟子を再び探し、70人の弟子を再び探し、120人の弟子を再び探されました。


同様に、私たちの帰還の過程にも、まずは真の親が必要です。その次にはノアの8人の家族が必要であり、ヤコブの12人の兄弟が必要で、その後には70の家族が必要で、120の許可が必要です。このような意味の基盤が完成する前には、イエス様が実践的な第二の業を行うことができません。


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今日、信じて皆さんがイエス様の精神を受け続けているので、イエス様の精神を受け継いだ生きているイエスの型となり、生きた指導者のような者を立て、生きた70人の弟子のような者たちを立て、120人の弟子のような生きた教団を立てなければなりません。


聖書の言葉には「主よ、主よ、私たち主の名前によって預言者の務めをし、主の名前によって悪霊を追い出し、主の名前によって多くの力が行われなかったのでお願い」とその時、私は子供に明確に言います。「私はあなたたちを全く知りません」と言われました(マタイ7:22-23)。


また、「父の御心に従う者以外は私の前に来る者はいない」と言われました。父の御心とは何でしょうか?イエス様の心情には込められていたのでお願いしますか? その探索の目的は何であり、その内容は何かを理解し、その御心者だけがイエス様の花嫁となることができます。


イエス様が私たちにこのような道を示されたのは、今日の私たちもそのように生きることを勝ち得ていたからです。様の目的体として、天の前にまずかなければなりません。 そうすることで、イエス様の模範を受け継ぎ、主の御心を大事に花嫁となるのです。祈ってください。




<祈祷>


お父様!これまで私お父様の御心が何であるのか知りませんでした。 歴史御心も知らず、時代的な御心も知らず、個人の生涯的なや生活に対する御心も知りませんでした。歴史的な御心を知ることができることを感謝致します、感謝いたします。


37


時代的な心情、生活的な心情、時間的な心情まで教えていただきましたに、お父様、本当に感謝いたします。


この心情を思って、私が代表の門を越えなければならなくても、キリスト者が従ったその道同様狭い門から入らなければなりません。そのために、死の境で戦い、勝利を収めて復活の最善を得ることができる者となり、再び地上に復活した善の覚悟を残し、現実を結ばなければならないことを知っています。


善い実を結ばない木はすべて切り捨てと言われたので、善い木契約になりません。善い木となり、善い実を結んでください。イエス様も善い実を収穫するために2千年間戦ってこられましたので、今日、私たちも復活の瞬間を受けて善い木として善い実を結ぶことができるようにしてください。お父様、切に願っております。


これが父の御心であり、これが地に来た父の目的であり、これがお父様が戦って来られた内容であることを、その御心、目的、内容に充実して生き、戦い、お父様をしっかりとつかむことができる私たちにお許しくださいと、お父様、切に願っています。


残された御心をすべてとして、走るべき道を全力で主を慰め、お父様を慰めることができる最高の孝子、孝女となるよう心からお願い申し上げます、すべての言葉を主の名前によってお祈りお捧げいたします。 アーメン







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御言葉選集6(6)

2024年10月12日 17時30分36秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 6 - 6. 主が歩まれた道を見習おう (1959年4月26日)
1959年4月26日(日)、前本部教会
マタイによる福音書 7:1-20

1
<祈祷 (I)>

天の栄光を求めて長い歴史の過程を見つめ、戦い続けてこられた父なる神様!その摂理の栄光が、父だけが享受できる日が、一日も早くこの天地に現れることをお認めください。が決断を犯したその日から、お父様が定められた本来の御心は無数の悪魔の前で容赦なく蹂躙され続けたことを、私たちはよく理解しています。代わりにされるべき御心に蹂躙されたため、その御心に応えられる人を探さなければいけないという天のご事情を、私たちは知りませんでした。

御心を残す人がいないために、父は独りで多くの困難な道を歩み、御心を人間に移すために無数の労苦を重ねられたのが、今日まで続く救済摂理の歴史であることを私たちは理解しています

お父様!今、私たちはこの現れた救済摂理の御心を通して、歴史の道をずっと探して、お父様が喜ぶその御心に自分の心に抱きつき、父の栄光の道を求め、すべての誠心 誠意を尽くして歩く天の息子娘となれるようにお許しください

父の御心は真の息子娘を探すことであることを知っております。天地を計画されるように、どうぞよろしくお願いします、これが父の切なる願いであり、御心であることを私たちに教えてください。

真の息子娘が、全ての万物をもって賛美を讃えることこそが、6千年続いて戦ってこわれた父の最大の喜びであり、希望であることを私は知り、その国を建設するために全てを頑張って進んでください。

2

お父様、その日、その時までにはまだ無限の距離がありますが、今日、私たちが父の御心を知り、父の御心によって選ばれた息子娘であることを一応し、父の栄光の一日を目指して、今日も明日も、戦いの道、不条理な道、死の道を恐れずに進んでください息子娘となりますようよろしくお願いいたします。お父様、切にお願いします。

お父様、今日この時間、あなたの息子娘が希望の地で、心を込めて、息子の栄光を代わりに出てきました。どうかお守りください。お父様が近くくここに臨んで、全体を主導してしてくださる様にお願いします

真の御心を持った真の息子として、お父様をお迎えし、お父様に礼拝を捧げることのできるこの時間をお許しください。この御心を成就するために集まる場所ごとに、無数の悪魔の勢力が私たち一人一人の心と体に襲い来る闇の勢力を受け止めてください。 私たちを父の寛大な胸に抱いて、命ある姿父の栄光の時代を実現させてくださる協力者として、切に願いを申し上げます

この時間、父の御前に集まりましたので、どうぞ軽く主導してください。 この日は聖なる日ですので、すべての人々を祝福してください。の御前に栄光と喜びを尊重することができる時間となりますようお願いいたします。

過ぎた一週間の中で、父の御前にふさわしくないすべてのことを、この時間に清算し、今、天の御心を持った真の息子として、生ける信仰物としてお父様に尊敬されるよう祝福しどうか、優しくお考えいただくことを切に願い、主の御名によってお祈りいたします。


3

<祈祷Ⅱ>

お父様!、この日を覚えておいてください、お許し協力者の恵みを現してください。たちにもお許しいただけるのであれば、どうぞお許しください

私たちには心があるもの、それが私たちのものがないことを知りません、体があるもの、それも私たちのものがないことを知りました。心は善の方向を選ぶもの、体は悪の方向へと進みたがり、そこで悩んでいる自分です。私たちを見守ってくださっていることを知っております。お父様、このような私たちを大切にして、天の命の恵みを私たちに与えてください。 、強力な復活の力を与えて頂けなければなりません。

体は心を屈服させようとしますが、天の御心は、心を体を打ち、心の前で体を永遠に屈服させることができる勝利の基準を見つけて守ることです。 、今日私たち自身が日常的に考えなければならない必然的な戦いが私たちに残されていることを私たちは知っています

このような理由で、私たちの前に連続して戦いに出ることは、私たちが恐れるべき戦いではなく、このような戦いの環境でぶつかってくるあちこちが大きな壁ではなく、心と体の戦いにおいて、心体に支配されているという事実がもっと大きな悲しみであることを、今日私たちが感じることをお許しください。

私の心体を屈服させる能力を頑張って助けてください、お父様、切に願い求めます。

4

このことが私たちに対して考えられなければ、全体の生命の復活を考えることができないことを、私たちは心を中心とした生活全体を知っています。

命に向き合う心、恵みに向き合う心、復活の歴史に調和できる心、その心に受けた衝撃と感動が私の体を包み、私の環境を包み込むことができるようにお許しください。ような天的な再創造の歴史が私の体の中に現れることをお許しください、お父様、切に願います。

私たちの心は父の栄光に向かって無限に湧き上がっておりますが、私たちの体は父のために無限に疲れ果てて、楽しんでいます。 、心が望む通りに体を動かすことができる喜びの園が、この地上のすべての人々の前に早く現れるようにお許しください。がこの地を主観し、天を動かせるように祝福してください、お父様を愛し、切に願い、求めます。

地上に生きる人間が心の天国を超えられない問題があるなら、御言葉に基づく天国は広がっていないということを知っています、心の平和を一歩も当てられないなら平和の国は建てられないということを知っております。まず私たちの心の深いところで、お父様に対して激しさ、お父様に対して喜び、お父様に対して歌うことができる心を回復できるようにお許しください。心で体が動いて調和する勝利の姿を天は見えていることを知っております。

お父様、私たちそのような姿になるために今まで戦ってまいりましたので、勝利の姿を回復できるようにお許しくださいと切に願います。

5

そんな人たちが集まっていますこの時間をお許しください、そして真剣な心の中心を持ってお父様を迎え、憂いの条件となるすべての要素を考慮して準備してください。それでも主観が残るほどの勝利の難しいこの場に耐えられるようにしてください、愛するお父様、切に願い、求めます。

心の天国、心の平和が私たち自身に対話されないなら、その栄光ある天国も私たちとは全く関係がないということを悟らせてください。

お父様、ここに集まったあなたの息子娘たちの中で、あなたを慕う切なる心情が動機となり、あなたに直接お会いできるという栄光ある資格を持つ者がいるでしょうか。あなたのために天倫の心情に満たされ、生ける犠牲として敬拝を捧げようとする者がいるでしょうか。死の道をも厭わず進んでいこうとする、その純粋で涙に満ちた心が、無限に天の心情と一体となり、生命の動きに変わり、平和な集まりを成し遂げようとする者がいるでしょうか。そのような心が私たちに無いならば、天も悲しみ、私たちの心も悲しみ、今日のこの集まりも悲しいものになることでしょう。

お父様、ここに栄光の姿で現れてください。みずから主人として現れてください。そのような恩恵を感じる者がいるなら、その心の扉を開き、父の希望を再び注いでください。多くの命が暗黒の権力に囚われ、死の世界で嘆いているゆえ、生命の復活を起こし、復活の権限を与えて再び創り直してくださいと、お父様、切にお願い申し上げます。

こうして来られる主を迎え、両手を合わせて父の前に敬虔に拝礼する私たちとなれるようお許しください。父の前で忠誠を尽くそうとした存在が多くの試練を受けたことを、この時間に感じさせてください。今日まで幾度も天を裏切ってきた先祖たちの子孫であることを感じさせてください。

6

私たちはこれまで悪魔の犠牲となり、天の道を阻むことに誰よりも先頭に立っていた姿であったことを悟り、恐れ多い気持ちを抑えきれず涙を流しながら、父の前に許しを求める敬拝を捧げられるようお許しくださいと、切にお願い申し上げます。

お父様、この時間、ここに集まった聴衆を憐れんでください。彼らの心に悪魔が侵入しようとしているので、見分けてください。彼らが心の方向を定める灯台となってください。この時間に集まった全ての聴衆にみずから訪れ、その心を通じて体までも父の恩恵によって喜びの中で父の栄光を賛美し、全体を代表して父の前に敬拝することができる時間とならせてくださいと、お父様、切にお願い申し上げます。

お父様、この日は聖なる日です。一週間の間に受けた傷が深いことを知っております。父の心情から離れて誤った場所で悲しみに沈んでいた全てのことを許し、みずから香油を塗ってください。お父様が恋しいと言える者に印を押す恩恵を、この時間、集まった聴衆にお与えください。

三位一体の神は、哀れな者を助けるために苦労されていることを知っております。父の憐れみを望み、自らの卑しさを嘆き、父の尊さを歌いたいとする者を見つけてくださることを知っております。今日、私たちの心がそのような父の尊貴さを知り、自らの卑しさを嘆くようにし、お父様が訪れてくださる恩恵を受けるにふさわしいものとなるように導いてください。

この日は聖なる日ですので、三千万の民衆を祝福し、全人類を祝福してください。天上にいる無数の聖徒たちも私たちを支え、喜びの敬拝を捧げられるように、お父様、みずから導いてください。特に地方に広がり、孤独な心情を抱きながら志を思い祈る家族たちが集まる場所々において、父の憐れみの手を引かないでください。愛の手で守り、終わりの日に残る労苦の山を越える際に疲れ倒れることがないようにお許しください。父の手を取り、最後まで耐え忍び進んでいき、お父様に捧げるいけにえとして受け入れてくださいますように。

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困難の中で仕事を成し、悲しみの中で志を立て、失望の中でもその志を高く掲げることで、父の心に記憶される息子娘たちとなれるようにお許しくださいと、切にお願い申し上げます。

この日を通して、私たちを父の特別な恩恵の懐に抱いてください。そして残された恩恵を約束し、勝利の日まで支えてくださいと、切にお願い申し上げます。この一時間を御心のままに導いてください。主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。




<祈祷(Ⅲ)>


お父様、御言葉に接するとき、2千年前のイエス様の御姿が恋しくなります。御言葉を伝えられたイエス様の前には荒涼とした世界が広がっており、自分を中心にし、自分を高めようとする群れがありました。そのような群れを見つめられたイエス様の眼差しに無限の悲しい心情が流れていたことを悟ります。


ユダヤ教団は教派同士で争い、教徒たちは互いに争う様子を見つめられたイエス様。自らの欠点は隠し、他人の欠点を暴き出して自分を立てようと必死になっていた当時の時代状況を振り返ると、確かに世と時代を背負って来られたイエス様の心が無限に悲しかったことを理解します。


それでも「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。門を叩きなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)と叫ばれたイエス様の心情が思い浮かびます。求め、探し、叩くべき者は民族であり、教団であり、個人であったが、求めるべき者が求めることを知らず、探すべき者が探すことを知らず、叩くべき者が叩くことを知らなかったことを見て、イエス様は人間に代わって求めなければならず、人間に代わって探さなければならず、人間に代わって叩かなければならない立場におられたので、お父様、それが悲しいことでありました。


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人間が見つけてくれることを切望して送られたメシアが、むしろ探さなければならない立場におられ、人々が迎えることを望んで天は長い歴史の道を準備してきましたが、人間から迎えられなかったイエス様の悲しい心情を、この時間私たちに感じさせてくださるよう、お父様、切にお願い申し上げます。


イエス様は地上の人間に接するとき、涙を流し嘆くしかない状況にありましたが、それでもお父様が祝福してくださる地となることを切望されました。イエス様のその御姿が今日私たちの目の前に現れて歴史を導き、私たちがその命じられる声を聞き、静かにその内に流れる天的な心情を慕い、共感して涙を流しながら敬拝する者たちとなれるようにしてくださいと、お父様、切にお願い申し上げます。


今、私たちはお父様に向かって手を挙げ、裸のような姿で現れました。憐れんでください。私たちの心には父以外が存在しないようにお許しください。私たちの希望と欲望、そして一切の要求は父のものである以外にはないようにしてください。無限の父の心情に染み渡るその心を持って生き、その心を共感しながら生き、その心と共に戦いながら生きる息子娘となれるよう、切にお願い申し上げます。


お父様、ここに集まった聴衆を憐れんでください。自分の心と体が自分のものではないことを知りましたので、その心と体、そしてすべてを父のものとして所有できる主導的な権限が現れるように導いてください。この時間が父の息子娘たちとして認め、印を押すことのできる約束の時間となるようにしてくださいと、お父様、切にお願い申し上げます。


お父様、この時間、お父様がお許しくださった御言葉を持って現れましたので、ここに共にいてください。与える者の心と受ける者の心に隔たりがないようにしてください。


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一つの心で父の前に立つことをお許しくださり、人間同士の絆を結んで父の前に栄光をお返しすることができるようにしてくださいと、お父様、切にお願い申し上げます。すべてを御心のままに導き、すべてを御心の通りに現してくださることをお願いするとき、主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。




<御言葉>


神の希望である実体としてこの地に現れた方がイエス様でした。そのイエス様が来られるまで、神は4千年という長い歳月を切なる心情と悲痛な心情で、数多くの預言者と多くの先祖たちを立てて歴史を導いてこられました。


神がこのように歴史を摂理してこられた唯一の目的は、希望の実体であるイエス様を立て、神とイエスが一つの起点で天の願いと歴史的な先祖たちの望み、そして全人類の願いを成し遂げることでした。その一瞬を願って天は歴史を進めてこられ、私たちの先祖たちは戦い続けてきたという事実を私たちは知っています。


このような立場に立たれたのがイエス様でした。神がイエスを見たとき、彼は神の唯一無二の独り子であり、この世界の万物と引き換えても代えられない貴重な存在でした。イエスが現れるとき、神が現れることができ、イエスが喜ぶとき、神が喜ぶことができ、イエスが栄光を享受するとき、それは天の栄光を代弁するものでした。彼がいなければ、天の御座も、霊界も、地上のいかなる万物もその価値を表すことができません。全体の中心となる価値ある存在がイエスだったのです。


このような天的な価値を持って来られたイエス、人間的に見ても、イスラエルの民が自分たちの先祖を誇り、自分たちの歴史を誇り、自分たちが選ばれた選民であることを誇っていましたが、イエスはその時までイスラエルの歴史上に現れたどの義人よりも尊い存在でした。


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彼を捨てては自分の命も得られず、彼を捨てては自分の教団も立てられず、彼を捨てては自分の民族も立てられず、彼を捨ててはイスラエルが望んでいた国も立てられない、なくてはならない天と地の中心存在でした。


天がこの方を人間に送ったのは、嘆くためではありませんでした。地がこの方を迎えて失望し、絶望するために送られたのでもありませんでした。天がこの方を通して喜ぶために送り、地の人間がこの方を迎えて喜ぶための中心存在として送られました。


それゆえ、イエスの一挙一動すべては天の栄光を描くものでなければならず、彼が生活の中で感じる感情は、歴史的な怨恨の条件を打ち破ることができる栄光の感情でなければなりませんでした。しかし、イエスの生涯はそのような生涯とはなりませんでした。


また、人間たちはイエスを迎えたその日から、誰よりも彼を栄光の座に迎え、誰よりも彼を敬い、誰よりも彼を称賛すべきでした。しかし、民族は民族として彼を離れ、イエスは民族を失う立場に立たされました。神は民族を守るためにイエスを送られましたが、そのイエスを失わざるを得なかったのです。こうしてイエスを失ってしまったことで、天の喜びも失われ、天国も失われてしまったのです。このような事実を私たちは知っています。


このようにあってはならないイエス様であったことを私たちは知るべきです。不幸に遭い十字架で亡くなられたイエス様は、そのような不幸を経験することなく勝利の栄光を備え、天と地が喜ぶことのできる一日を再び築くことを約束されましたが、その日が終わりの日であり、再臨の日であることを私たちは知るべきです。


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天から送られ地上に現れ、地上の生涯を経て霊界に行かれたイエス様は、神の歴史的な目的を成し遂げるために、今日まで父と聖霊と共に戦い続けておられます。そのイエス様を慕うべき私たちです。そのイエス様を再び迎え入れなければならない私たちです。そのイエス様と共に生きなければならない立場にいる私たちです。そのような私たちになるためには、神と共に生きることができなければなりません。神と共に生きることができなければ、イエス様と共に生きることはできません。それではどうすればよいでしょうか。神の希望を成就する者となり、イエス様の願いを成し遂げる者となり、人類の歴史的な願いを成し遂げる者となるべきです。そのような者にならなければ、栄光の姿で現れるイエス様の前に立つことはできないことを私たちは知るべきです。


それでは、このようなイエス様を迎えるために、私たちはどのような道を歩むべきでしょうか。それが問題です。来られるイエス様は天から地を訪ねてこられますが、私たちはそのイエス様を地上で迎えることはできません。人類を訪ねて来られるイエス様を、今日ここでただ迎えることはできないのです。


イエス様の事情を理解できる心情を持ち、イエス様が地上で成し遂げるべきことをすべて終えた後でなければ、来られるイエス様を迎え入れることはできません。そのイエス様を再び迎える日が、今日のキリスト教徒たちが望む再臨の日であることを知るべきです。


したがって、イエス様を迎えるためには地上で責任を果たさなければならないというのは避けられない条件です。地上で責任を果たした後でなければ、イエス様を迎えることはできないのです。ですから、今日皆さんにお伝えしたい御言葉のタイトルは「主が行かれた道を見習おう」です。「主が行かれた道を見習おう」というタイトルでお話しします。


天使がマリアの前に現れ、マリアが聖霊によって受胎することを予告しました。そのとき、マリアは「私は男を知らないので、そのことを引き受けることはできません」と拒否しました。しかし、再び「全能なる天が行うことであるから、聖霊を通じて受胎するだろう」という天使の言葉に対して、マリアは「主のはしためです。御心のままになさってください」と答えました。マリアが「主のはしためです。御心のままになさってください」と答えた瞬間、それは4千年の歴史の道程において、一介の若い女性が天に向かって歴史的な答えをした瞬間でした。


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今日、私たちは主を考えるとき、しばしば主の十字架を思い浮かべ、栄光の復活を思い浮かべることが容易です。しかし、それ以上にマリアの身の上を考え、ヨセフの家族の立場を考えなければなりません。


4千年にわたって苦労しながら人間を探し求めてきた天の最後の一言がマリアに伝えられたとき、「主のはしためです。御心のままになさってください」と言ったマリアのその一言が、歴史を摂理してきた天の基盤を築いたのです。御心を持って来られるその存在を、マリアは誰よりも切に望んでいたということを、ここで私たちは考えざるを得ません。これを見て、私たちは純潔な乙女の心情でイスラエルの国に救い主が現れることを誰よりも切に望んでいたマリアであったことを推測することができます。


「主の御心のままになさってください」と言ったことから、マリアは天の隠れた御心が現れることを無限に望み、祈りながら生活していた人であることを知るべきです。


何よりも天の御心を考える基盤を通して、天が入って来られたことを知るべきです。それはイエス様だけでなく、預言者や先祖たちも同様でした。一人の預言者が生まれるためには、その預言者を迎えるための基盤が必要だったのです。


したがって、預言者たちが地上に生まれるためには、その預言者を抱くことのできる親が必要であり、その親がまず御心の基盤とならなければならなかったのです。


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マリアがイエス誕生の予告を受けた後、「主の御心のままになさってください。御心のままに成し遂げてください」と言ったように、この言葉は堕落した人間なら誰でも一度は言わなければならない言葉です。それはマリアだけでなく、生命の道を探し求め、天の道を探し求める人であれば「主の御心のままになさってください」と言える心が必要です。そのような一言の答えをしなければ、イエス様と生命の縁を結ぶことはできません。


イエス様はこのような基盤の上に来られました。イエスを身ごもったマリアは、胎児が育つにつれて誰よりも強く御心を考えました。この子が誕生するその日には、民族の願いである救い主が現れ、民族の怨恨を晴らし、民族の悲しみを清算することができると信じ、地上における神の御心が成し遂げられるその時間を誰よりも強く考えたことでしょう。そして、イエスは誕生されました。


もしヨセフの家族がいなかったならば、イエスはどのようにして生まれたでしょうか。乙女として子を宿したという事実が世間に知られれば、モーセの律法によって石で打たれて死ぬことが起こったでしょう。そのような事実は当時の社会的な環境と時代的な状況では容認されない違法中の違法であり、民族の恥中の恥として残る汚点でした。しかし、マリアとヨセフにはこのすべての環境を拒否する立場で御心を果たすための切なる心情があったため、イエス様を誕生させることができました。


このように、御心のみを考えながら歩んでいく彼らの歩みが、悪い世の中にぶつかるたびに、天は生きる道を切り開いてくださいました。イエスはこのような道をずっと歩んでこられました。エジプトの地に避難し、そこで3年の道程を経て、帰ってきてからは生計を維持するために大工の仕事をしていた父ヨセフを助ける補助者の一人として、黙々と生活しながら御心を成し遂げる一日を願い準備していたイエス様を、私たちは思い浮かべるべきです。


今日読んだ聖書の中に「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。門を叩きなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)という句がありました。この御言葉は、イエス様が新しい福音を持って開拓の道を歩み始めたとき、切なる心情で叫ばれた御言葉です。


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イエス様は、その民族がメシアを迎えるべき立場であることを知っていました。誰よりも切なる心でメシアの実体を求めなければならない民族でありながら、求めることができない立場にある民族、誰よりも切なる心情で探さなければならない立場にあるユダヤ教団が、その立場を離れ探し求められないことを見ながら、イエス様は生活しておられました。さらには、天の門が開かれることを望み叩かなければならないユダヤ教徒たちが、叩くことを知らない状況を見つめながら生活しておられたのです。


天の御心が成就することを願う心は切なるものでしたが、その御心を成すための実体を探し、求め、叩く心が切実でない民族を見つめておられたイエス様は、遠からずして天の真の御心を知らない民族と関係を持ち、天的な御心を成そうとする心情を抱いていたので、一日、一時間、一秒も御心を考えなかったことはなかったという事実を、皆さんが知るべきです。


御心の実行者として来られたイエス様の心情は、マリアが御心に対して抱いた心情以上のものでした。ヨセフの家で生計のためにヨセフの仕事を黙々と助けていたイエス様の心情は、民族を見れば見るほど、民族に対する信頼が失われれば失われるほど、御心に対する心配をせずにはいられず、新たに覚悟せざるを得ない心情でした。イエス様にはこのような30余年の準備期間があったことを、私たちは知るべきです。


そのように御心を心配する切なる心情を抱き、他の人が知らない場所で天のために民族を代わって責任を果たすために尽力されたイエス様の生活であったことを、私たちは知るべきです。民族を代わって誰よりも切なる心情で求め尽力されたイエス様であったことを、私たちは知るべきです。民族を代わって誰よりも心配する思いを持ち、天の門を叩くために絶え間なく尽力されたイエス様であったことを、私たちは知るべきです。


イエス様は物心がついた後からは食べることも民族のために食べ、生活することも民族のために生きておられました。彼が何よりも心を痛めていたのは、天の父の御心を成すことでした。しかし、天の御心を成すために心を尽くされたイエス様の30余年の生涯を知り、イエス様を支え、求めた者はおらず、イエス様を支え、探し求めた者はおらず、イエス様を支え、その心中を叩いた者は当時一人もいませんでした。


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そのような環境であったため、哀れなイエス様となってしまったのです。天のために民族を代わって求めなければならない立場となり、民族を代わって探さなければならない立場となり、民族を代わって門を叩かなければならない立場となったのです。イエス様はこのようにして、上には天を代わって求め、探し、門を叩かなければならない立場に立ち、下には地を代わり、民族を代わって切実に求めなければならない立場に立たされました。また、切なる心情を抱いて探し求めるとき、民族の心情を叩き、民族の心を開かなければならない立場に立たされたのです。


そのような場所で、イエス様は天のために30余年を準備されました。そして「私を愛してくださる天よ、私を送ってくださったお父様、私を送ってくださったのは民族の進むべき道を示すためであり、私を送ってくださったのは民族の命を父と結びつけるためであることを知っています。民族の過ちと不足をお許しください」と祈られました。


不信と裏切りの民族を見つめておられたイエス様は、その民族が眠っているときも、享楽にふけっているときも、安らかに眠ることなく、休むこともなく、楽しむこともなく、民族を支えて天と結びつけるために戦われたのです。このような事実はイエス様ご自身だけが知っておられました。民族の中の誰一人として、イエス様の心情を慰める者はいなかったのです。


環境から孤立していたイエス様の心情は、御心の時を待ち望むにつれ、言葉にできないほどの焦燥感を抑えることができなかったでしょう。30余年が過ぎ、御心の実行の道を覚悟して進まれたイエス様の心情は、壮絶であったと言わざるを得ないものであり、形容することもできない心情であり、人間には理解し得ない切なる心情であったでしょう。このような心で御心を実行しようとされた公生涯の道を心配していたイエス様を、私たちは理解しなければなりません。


イエス様はこのように天を代表して来られ、全人類の救い主として全ての人を救うために来られましたが、救われるべき民族の中でそのイエス様の心中を理解して現れた人は一人もいませんでした。イエス様の心中はもちろん、彼の30年の苦労の道程も理解されませんでした。荒野での生活をし、民族を責任負う立場にあったバプテスマのヨハネでさえもイエス様に反対しました。


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このような悲しい心情で民族を見つめ、バプテスマのヨハネに一縷の望みをかけたにもかかわらず、ヨハネさえもイエス様を見放したとき、イエス様にはさらに大きな悲しみが加わったという事実を私たちは知っています。


民族の前に天の福音を持って現れるべき時が近づいているにもかかわらず、民族は行方をくらまし、民族の前に天が立てたバプテスマのヨハネもいなくなり、イエス様は人々の前に現れることができなくなりました。それで荒野で40日間の断食の道を歩むことになったのです。


今日のキリスト教徒たちは、イエス様にとっての40日間の断食期間が栄光の期間であり、イエス様に必ず必要な期間であったと考えていますが、そうではありません。イエス様が40日間の断食期間を過ごされたのは、イエス様の前に民族が消えたためであり、バプテスマのヨハネ一派がいなくなったためでした。さらに東方の博士たち、アンナ、シメオン、そしてイエスを受胎したヨセフの家のマリアさえも、イエス様の実践の道に出たとき、彼を理解できなかったからでもありました。地の主として来られたイエス様、全人類の命を救うために来られた天の皇太子であり、また全人類の救い主であるイエス様がこのように哀れな境遇になったということを私たちは知るべきです。


4千年の歴史を終わらせ、新たな天の祭壇を築くべきイエス様が築こうとされた天の祭壇は、栄光の祭壇であり、喜びの祭壇であり、勝利の祭壇でありました。しかし新しい祭壇を築くために立ち上がったイエス様は哀れな立場に置かれ、飢えるイエスとなり、悪魔の試練を受けるイエスとなりました。悪魔に試みられるその場面は、全人類が最も悲痛に感じなければならない場面です。イエス様が40日間飢えた後に悪魔に嘲弄され、その悪魔が提示した様々な試練の条件を受ける悲しみの時間は、本来は民族が経験すべき試練の期間であったのに、逆にイエス様の悲しみとなったのです。このことを考えると、イエス様は選ばれた選民であることを誇り、その民族を見限り、その民族を怨み、呪うべき立場にあったにもかかわらず、ご自身の飢えた身体を奮い立たせ、天の心情を抱き、民族のために悪魔と戦われました。


そのときイエス様が置かれていた場所は、イスラエルの民族も知らない場所でした。そのような場所で覚悟を決め、天の前に現れたときのイエス様の心情は、どのような悲しみの場所を通ろうとも、自分が来た目的と自分が抱いた父の御心に対する一片の心が変わることはないというものでした。


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本来の父の御心が、民族を通して全人類を救おうとするものであることを知っていたイエス様、その御心を尊重するイエス様であったがゆえに、飢えと裸の状態、そして襲い来るいかなる迫害と試練も、彼が30年余りの間待ち望んできた御心を打ち砕くことはできなかったのです。したがって、御心を抱いて現れるたびにイエス様は、天を代表してご自身が経験する悲しみと天が受ける悲しみを同時に感じざるを得ませんでした。そしてそのような場所で御心に対して一層固い決意をされたため、裏切った民族と裏切った人々を再び探し求めることができたのです。


イエス様は、ご自身が生きている間にイスラエルの民族が迎えてくれることを望まれましたが、それが叶わなかったため、逆に死んでから迎えられるイエス様となりました。民族がイエスを迎え入れなかったことによって、生きている場所で人類を救わなければならなかったイエス様が、死んでから救いの歴史を進めることになったのです。生きている実体のイエス様の心情を通して叩き、求め、探さなければならなかったのに、死んでから叩いているのが今日のキリスト教徒の運命であり、全世界の人類の運命なのです。このようになったのは、イスラエル民族の過ちによるものです。


では、神の悲しみとは何でしょうか? 神の怒りとは何であり、神の憤りとは何でしょうか? イエス様が生きている間に救わなければならなかった時を失ったことです。生きている間に探さなければならなかった時を失ったことです。生きている間に叩かなければならなかった時を失ったことです。生きている間に天の秘密を明らかにするためにその門を開けるべき環境を失ったことです。このすべてを失い、気づいて見てみれば、救い主であるイエス様はすでに霊界に行ってしまわれました。そうなると、イエス様を送った人間は、去られたイエスを求めなければならない運命となりました。去られたイエス様を探さなければならない運命となり、去られたイエス様の心を再び叩かなければならない運命となったのです。それゆえ、終わりの日にある今日、私たちはイエス様が去られる前に求めることを知り、去られる前に探すことを知り、去られる前に叩くことを知る人間を立てることができなかったことが神の悲しみであり、イエス様の悲しみであり、人類の悲しみであることを知るべきです。


イエス様が去られたことにより、このような悲運の歴史が続いています。イエス様は実践の道で御心を抱いて立ち上がるとき、弟子たちに「狭い門から入れ」と勧められました。イエス様の歩みはそのようなものでした。


マタイ福音書7章の内容はすべてイエス様の生涯の全般的な事実を暗示的に表しています。求める場所、探す場所、叩く場所を経て御心を探し求めて歩まれたイエス様の道は平坦な道ではなく、険しい山々であり、栄光に満ちた大きな勝利の宮殿ではなく、狭い十字架の門であったことを皆さんは知るべきです。


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民族が信じず、民族が従わず、民族が見つめることもない立場に、民族が嫌がる立場に立たれたイエス様は少数の弟子たちを集めて「狭い門から入れ! 滅びに至る門は大きく、その道は広く、多くの人がそこに入って行きます。しかし、命に至る門は狭く、その道は細く、それを見つける者は少ないのです」(マタイ7:13-15)と勧められました。この言葉は、イエス様と彼に従う弟子たちの状況がそうであることを指摘したものでした。この言葉は、イエス様が当時の社会環境とは反対の立場にある自分自身を例に取り、自分とその社会環境との中間に立つ弟子たちに語った言葉であることを私たちは知るべきです。


イエス様が民族の前に現れて実践の道を歩まれたとき、平坦な道を歩むことはできませんでした。ユダヤ教団が立ちはだかり、民族が立ちはだかり、バプテスマのヨハネが立ちはだかりました。それゆえ、彼に進むべき道があったとすれば、その道はすべての人が行きたくない道でした。その道にも門はありませんでした。道のない場所に道を開かなければならず、塞がれた壁に門を作らなければなりませんでした。このような道を歩まれたのがイエス様でした。


4千年の摂理の歴史の道のりで、天に通じる一つの門を立て、天と全人類がつながる道を開くために送られたイエス様、このイエス様をイスラエル民族が信じて受け入れていたならば、平和の道は開かれていたでしょう。そうであれば、4千年の苦労の末に築き上げたユダヤ教団は、神が往来できる大道となっていたことでしょう。また、天国に向かう民たちの出入り口となっていたことでしょう。


しかし、民族が反対したために民族の行く道が閉ざされ、民族の門が閉ざされ、教団が反対したために教団の行く道が閉ざされ、教団の門が閉ざされたのです。


ユダヤ民族に追い詰められ、ユダヤ教団に追い詰められ、自身の証人たちに追い詰められ、最終的には弟子たちにさえ不信されたイエス様は、人間として行ける最大の悲劇の道を避けることができず、歩まざるを得ませんでした。


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このようにして4千年の歴史の道のりで、天国へ向かう門は多くあるように見え、6千年の歴史を通して天国に至る門はさらに多く見えるかもしれませんが、イエス様が開かれた門はただ一つであり、その門はいまだにこの地上で開かれていないことを知るべきです。これを忘れてはなりません。


終わりの日にある今日、キリスト教信徒は多くいます。彼らは自分たちの信仰を高め、教派を立てて紹介し、主張していますが、彼らが進む道が天に至る道のように見え、彼らが案内する門が天国に至る門のように見えても、イエス様が生きておられた時に開拓されたその道ではなく、イエス様が生きておられた時に開かれた狭い門ではないことを私たちははっきりと知るべきです。


イエス様は3年間の公生涯で命をかけて戦われ、その道は十字架の道でした。死の道でした。血を流しながら敵に向かって祝福を祈る道でした。イエス様はその道を通り抜けて復活されました。このような道がイエス様が歩まれた道でした。イエス様が歩まれた道は、民族が裏切った道でした。イエス様が歩まれた道は、教団が裏切った道でした。


イエス様が歩まれた道は、親兄弟、さらには愛する弟子たち、さらに三人の弟子たちさえも裏切った道でした。その道は、イエス様を追って数多くの人類が歩まなければならない道でしたが、イエス様が歩まれた後、その道は閉ざされてしまい、イエス様が入られた門も閉ざされてしまいました。そして、使徒たちが歩んだ道だけが開かれているのがキリスト教です。


ですから、私たちは使徒たちが歩んだ道を歩まなければなりません。その道をたどり、どこへ行くのでしょうか? イエス様が歩まれた道をたどらなければなりません。その道をたどるためには、目的が明確でなければならないのです。


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その目的とは何でしょうか? それは父の御心を成就することです。父の御心がこうであるというその目的が明確であると同時に、その内容も明確でなければなりません。それがイエス様が歩まれた御心の道でした。この御心の内容と目的は、イエス様が33年間苦労して見つけた内容であり、苦労して立てた目的でした。その内容と目的は、30年余りの生涯を犠牲にして見つけた内容であり目的であったため、どんな災難が一度にイエス様を襲おうとも、死の壁が押し寄せようとも、それは否定できない御心として残されたのです。


そのような内容を持っていたイエス様であったため、今日私たちはイエス様が歩まれた道を歩かなければなりません。イエス様が狭く険しい道を歩まれたので、今日私たちもその後を追ってそのような道を歩まなければならないのです。私たちはそのような立場にあります。


それでは、イエス様はどのような道を歩まれたのでしょうか? 死の淵に立ち、死の波が押し寄せても「生きておられる神がいらっしゃるから、神は私に復活の権能を与えてくださるだろう」と信じ、すべてを蹴り飛ばして進まれました。イエス様には、死を乗り越え復活しなければならない何かがあったのです。それを通じて神が復活の権能を起こすことができたのです。


今日の私たち信仰者にとって重要な問題はここにあります。イエス様が悲しい世界を見つめながら求めていた心を感じる者、死の地を見つめながらイエスが探し求めた心を抱く者、滅びの頂点を走る世界を見つめながら叩いた心を胸に抱き、命を注ぎ込みたいという切なる心を持つ者たちでなければなりません。このような心を持つ者たちが天の望む目的を心に抱き、この地に対して戦う覚悟を持って立ち上がらなければ、天が私たちをイエス様が歩まれた道に導くことはできないでしょう。そして、私たちはイエス様が通られたその門に入ることはできないのです。


今日、終わりの日の信徒たちは歴史的な怨恨を晴らさなければならないことを私たちは知っています。2千年前に選ばれた第一イスラエルが選ばれた本来の目的を達成できなかったために、彼らは選民権を失いました。しかし、イエスが宣言された真理によって、民族を超えた全世界のクリスチャンたちは第二イスラエルの選民権を与えられることになりました。この第二イスラエルの選民の権利を持つ終わりの日にあるキリスト教信徒たちは、天を裏切ったイエス様当時のイスラエルのようにならず、再臨される主の前で失われた第一イスラエルに代わる第二イスラエルにならなければならないのです。


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それでは、イエス様が霊界で苦労しておられることは何でしょうか? この地に来られたとき、実体を持って第二イスラエル王国を建設できなかったことが嘆きの内容であるため、イエス様は2千年の間、聖霊と共に全人類を動員して第二イスラエルの選民権を成し遂げてこられたのです。


イスラエルの選民権が形成されたらどうするのか? イスラエル王国を建設しようとしているのです。したがって、終わりの日の聖徒たちは十二使徒の門を経てイエスが入られた門を通過しなければ、天国の民になることはできません。終わりの日の聖徒たちの前に開かれている天国の門は十二使徒の形で示されています。したがって、終わりの日の聖徒たちが天国に入るためには、この十二使徒の門を通らなければなりません。その方向に進まなければなりません。それがキリスト教です。


しかし、今日の世界のキリスト教徒には無数の門が開かれています。無数の教派に分かれています。彼らは自分たちが天国を紹介する門の使命を果たしていると豪語しています。しかし、天の原則はそのようにはなっていません。


イエス様を中心とする十二使徒によってキリスト教が始まったので、終わりの日の聖徒たちはその十二使徒の門を通らなければならない運命にあります。6千年の終末に見つけられるべきイエス様当時の第一イスラエルの形である第二イスラエルにならなければなりません。


では、皆さんはどの教派に属し、どの門を通っていますか? 皆さんはまず、十二使徒の一つの理念の印を額に受けなければなりません。そうして初めてイエス様の門を通過することができます。


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今や全世界に広がるキリスト教徒たちの前に、イエス様当時の使命を代行し、その時代の使命を実体として完結しなければならない世界のキリスト教徒たちの前に、十二使徒の門を探さなければならない時が来るでしょう。無数に分かれた宗派は、天地の運勢に従って、自分たちも知らずに統一理念の形を備えた環境圏内に入っていきます。したがって、今日、全世界に広がるキリスト教徒たち、そしてその他の教派に属するすべての人々は、自分がどの支派に属しているのかを知り、イエス様の十二使徒の列に入らなければならない時が来るということです。


モーセが60万人を率いて十二支派と七十長老を立てたのと同じように、選民であるイスラエルを収拾するためにこの地に来られたイエス様もまた十二弟子と七十門徒を立てました。それによって民族的なイスラエルの理念を世界的な理念にしようとされましたが、その御心が成就しなかったため、今日の全世界のキリスト教徒たちは第二イスラエル圏内にいます。


第二イスラエル圏内にいながらも、彼らは自分が第二イスラエルであることすら知らず、自分がどの支派に属しているのかも知らない、支派の列を失った人々となってしまいました。そのような世界のキリスト教徒たちになってしまいました。


イエス様は十二使徒によって選ばれた民族を収拾し、十二支派の列を再び整えようとしましたが、失敗して帰られました。そのため、イエス様は世界のキリスト教徒たちの前に再び十二支派、七十門徒、百二十門徒の形を地上に立て、天の摂理と合致させる使命を持って再び来られるのです。


したがって、今は皆さんが使徒の門を通り、イエス様の門を通った者を探さなければならない時です。この地に真の聖徒がいるとしても、どんなに信仰の深い聖徒がいても、「あなたはどの支派か?」と尋ねられたとき、「私はどの支派だ」と自信を持って答えられる一つの支派、一人の指導者を持っていないならば、天国建設の理念の時代に参加することはできません。


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したがって、終わりの日には理念や一つの民族の前において自分の位置が明確でなければ曖昧な人になってしまいます。どちらからも干渉されることのない立場に置かれるのです。


皆さん! 今の時代は教派が問題ではなく、皆さんが共に集まるべき時です。終わりの日とはどのような時かというと、6千年の歴史の道程において善なる人々を集める人類歴史の終末時代の収穫期です。収穫期であることを知るべきです。


これまでは一つの畑にさまざまな穀物を植える時期でした。穀物を植えるときは一つの畑にさまざまな穀物を植えることができましたが、収穫期には同じ種類の穀物だけを一つの倉に入れなければなりません。今は収穫期なのです。


イエス様が当時来られて成すべきことは何であったのでしょうか? それはイスラエル十二支派の列を再び収集して天国の倉に入れることでした。しかし、その使命を完遂することができなかったために、去りながらこれを再び実現するために立てられた再臨の日が約束の日であるのです。その日を前にした地上の聖徒たちには、ユダヤ教が問題ではありません。サドカイ派教会が問題ではありません。本来の支派と本来の指導者を探し求めなければならない時です。


そうするためには、過去のどのような理念、慣習的な節操、伝統的な法、これまでの習慣的なすべての観念を拒否し、新たな面で覆すことのできる何かを持たなければなりません。そうでなければ、今日の皆さんは第一イスラエル時代であったイエス様当時の時代と同等の世界的な理念の時代を超えることはできないでしょう。


24


そこで今日、心の合う聖徒たちは分かれていきます。教派は次々に分裂しています。外面的には統一の形を叫んでいますが、内面的には分裂の形を備えていっています。外見は統一されているように見えても、内側は分裂しているのです。これを内面的に収集する時が来るのですが、その時が再臨の時代です。


内面的に収集する時が来れば、外面的な統一の形が反旗を翻して現れるでしょう。これは避けられない事実です。一つの種の中から芽が出るとき、その殻は逆に割れて落ちるのと同じ現象です。


種の実と命の芽は異なります。それと同じように、私たちに必要なのは聖書そのものではありません。聖書の内容にある命が必要です。イエス様ご自身が必要なのではなく、イエス様の中にある神の御心が必要なのです。問題はそこにあります。


では、イエス様が去られるときに望まれたことは何だったのでしょうか? ご自身の身体が犠牲になることを意に介さず、ただ御心が成就することがイエス様の願いであり目的でした。イエス様が語られたことは、人々に命を与え、彼らが生命体を築いていくようにすることでした。そこに目的があったのです。ですから、今日私たちが求め、叩くべき時が来たのです。


イエス様は十二使徒を立て、モーセが築いた十二支派の権限をそのまま継承させるべきでしたが、それができませんでした。それがイエス様の悲しみでした。


25


また、生きて天の前で求めなければならなかったイエス様がそれを果たせず、生きて天を探さなければならなかったイエス様が天を探せず、生きて天に向かって門を叩かなければならなかったイエス様が天に向かって門を叩けなかったため、終わりの日に全世界のキリスト教徒たちは生きてイエス様に求めなければならない時が来ます。生きてイエス様を探さなければならない時が来ます。生きてイエス様の心の門を叩かなければならない時が来るのです。神の願いもこれであり、イエス様の願いもこれです。


その場所に入るためにはどうすればよいのでしょうか? 落ちたのだから上がらなければなりません。上がるためにはまず使徒の門を叩かなければなりません。今、全世界のキリスト教徒たちの前に、イエス様当時に倒れた使徒的な姿が現れる時が来ました。全世界のキリスト教を収拾し、十二支派の代表的な形を備える三使徒の姿が現れる時が来ました。


使徒の中の使徒であり、弟子の中の弟子であるこの三人の弟子は東の門を代わりにしました。天は天国の門を象徴し、東西南北にそれぞれ三つの門を示されました。東の三つの門、南の三つの門、西の三つの門、北の三つの門です。そして、イエス様を中心とする三人の弟子であるペテロ、ヤコブ、ヨハネは東の門でした。そのため、キリスト教はペテロ的キリスト教、ヤコブ的キリスト教、ヨハネ的キリスト教に象徴され、旧教はペテロ的キリスト教です。ペテロは信仰を象徴し、ヤコブは希望を象徴し、ヨハネは愛を象徴します。縦に見れば、キリスト教の歴史はペテロ的キリスト教、ヤコブ的キリスト教が現れ、ヤコブ的キリスト教が新教です。


では、終わりの日に求められるものは何でしょうか? それはヨハネ的キリスト教です。イエス様は「ヨハネは死なずに主を迎える」と言われました。ヨハネは殉教しませんでした。イエス様は終わりの日にヨハネ的キリスト教が新たに現れ、主と会うことになると予見して、そのように言われたのです。ヨハネはイエス様の胸で可愛がられ、深い愛を受けました。ヨハネは愛を象徴していました。ですから、ヨハネ的キリスト教は愛のキリスト教であり、終わりの日にはこのヨハネ的キリスト教、愛のキリスト教が現れなければならないのです。


このような事実が示されているのに、未だにキリスト教徒たちは自分たちがどの門を通るべきかを知りません。ペテロ的な門も良く、ヤコブ的な門も良いのですが、私たちはヨハネ的な門、愛の門を通って求めるべきです。この愛の門はイエス様が正面から見つめた門でした。神はその門を見つめ、6千年の間戦い、イエス様もその門を見つめて2千年の間戦ってこられましたが、歴史的な希望の門はいまだに開かれていません。


26


それで天はこの門を開くことのできる代表者を立て、約束を果たそうとされました。これが、御言葉を成し遂げるために花嫁という名を立てられた理由です。


では、再び来られる主の前で世界の人々はどうすればよいのでしょうか? 祈らなければなりません。「あなたが地上に来られて残された悲しみがこれであることを知りました。生きている間に解放されなかったその恨みの曲折がこれであることを知りました。歴史の怨恨を背負い、悲しみながら戦い、どれほどご苦労されたことでしょうか?」とイエス様を慰める者となるべきです。


2千年前にイエス様を裏切った使徒に代わって、生きている使徒、裏切る前の使徒たちのような聖徒にならなければ、歴史的な人物、歴史的な救いの完成者となるべき人類、救いの摂理を完遂すべき人類は天の前に顔を立てることができないことを知らなければなりません。


終わりの日の再臨の日を準備し、待ち望んでいる今日の世界のキリスト教徒たちは、ゲッセマネの園とカルバリの山でイエス様を知らないと言った三人の弟子のようにならず、教団を統率し、多くの聖徒たちを胸に抱き、イエス様に代わって祈り、イエス様の十字架の山も代わって越えることのできる弟子たちになるべきです。教会はそのような集まりであるべきです。


宗教の歴史は復帰の歴史だと言われました。イエス様は「私はアルファでありオメガであり、初めであり終わりであり、始まりであり終わりである」(黙示録22:13)と言われました。アルファとオメガという言葉は堕落によって生まれた言葉です。今日の人々がそれを永遠性として語るのですか? 彼らが言うのは永遠性ではありません。堕落という言葉が生まれたためにアルファが生まれ、復帰して再び戻るオメガという言葉が生まれたのです。イスラエルの国に来られたイエス様が成し遂げるべきアルファ的な理念が、終わりの日の聖徒たちのオメガ的な理念として収められなければ、イエス様は現れることができません。


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イエス様は神の願いであり、人類の願いです。神の喜びであり、人類の喜びです。しかし、彼のアルファ的な理念がオメガ的な理念として終結する前には、喜びの姿で人類の前に現れることはできません。もしそのようなイエス様として現れないならば、イエス様は再び悲しみの姿で現れる運命にあることを知らなければなりません。これを知らないのです。自分勝手な天国は建設されません。自分勝手な信仰観念、自分の主張、自分の理念では天国の心情を通じることはできません。


そのため、地上の聖徒たちはまだイエス様が開かれたその門を通っていません。もしその門を通っていたならば、花嫁となっていたでしょう。ですから、マグダラのマリアがイエス様を抱きしめようとしたとき、阻まれたのです。「あなたを使徒に立てたのではないので、使徒の門を通って来なさい」ということです。天の法はそのようになっているのです。


そのため、今日私たちは全世界の人類の前に、使徒のような使命を持つ者がいるかを探さなければなりません。今がそのような者を探すべき時です。皆さん! 初代教会は異言を話し、霊的な歴史があり、予言があり、様々なことが起こりました。このように初代教会で霊的な歴史が多く起こったため、その内容を知らない無知な人々が霊的な現象にぶつかり、混乱が生じたため、それを防ぐために「聖書の言葉が最も重要だ」とされました。ですから、聖書にもこのような言葉があります。「終わりの日には私の霊を多く注ぐであろう」(使徒行伝2:17)。そのため、初代教会で起こった現象が終わりの日のキリスト教の歴史世界に現れ、あちこちで狂った、邪教だ、異端だと言われる人々が多く現れるのです。私たち統一教会もその中の代表的な一員です。


霊の注ぎを受けた者は、あえてそのようなことをすることはできません。彼が理由を知らなければ、天が教えてくださいます。彼が目を開けば霊界を見、彼が行動すれば霊界の人々の行動をします。皆さんの目と皆さんの心と皆さんの行動とは全く異なります。狂った人のように見えます。かつてイエス様も賢い人のように見えましたか? 当時の人々から見れば、愚か者でした。


今後このような霊的な現象が広がり、民族を席巻し、教団を席巻するでしょう。


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そのため、今日世界的に原因不明の精神系の患者や神経系の患者が急増しています。恐怖の世界、不安で焦燥感のある世界が近づいています。これは、神の子であるイエス様が焦燥感と不安感、興奮した心情を持って一生を過ごし、御心に向き合われたからです。だからこそ、世界的な運命がそのように広がっているのです。


その結果、最終的には方向を見つけたくても見つけられず、真実が偽りのように見え、偽りが真実のように見える現象が起こります。偽りが優勢であり、真実が劣勢になる時代、偽りが繁栄し、真実が言葉にできないほど微弱な状態になる時代が来るのです。私たちはそのような時代を通り越さなければなりません。


今日が終わりの日であるならば、世界的なイスラエルとして現れたキリスト教、つまり第二イスラエルを収集すべき十二使徒はどこに行ったのか、十二使徒を統率する一人の主人公メシアはどこに来られるのかということが、意識あるクリスチャンたちが解決しなければならない重大な問題です。


イエス様に従った弟子たちが四方に散ってしまったので、これを復帰するためには来たる主を迎え、ゲッセマネの園での祈りがこの地に再び世界的に現れなければなりません。地上のどこにおいてもゲッセマネの園での祈りの声を聞くことができる聖徒であるべきです。そしてその後に残された使徒たちが祈っていたその声を聞くことができる者たちでなければなりません。そのため、最近では自らをペテロだ、ヤコブだ、ヨハネだ、アンドレだと言う人が多く現れます。それはノアやアブラハム、イエス様の十二使徒と同じような支派の列がないためです。


私たちは十二使徒の中でも特に使徒中の使徒である三人の弟子、そしてその三人の中でもヨハネを見つけなければなりません。それによって私たちは第一の復活に参加できるのです。


29


願いが成就する日を望みながら戦ってきたイエス様が三人の弟子を伴って祈っていたゲッセマネの園を懐かしむ祈りの時間を、皆さんは持ったことがありますか? イエス様は眠らずに血の汗を流して祈っていたのに、三人の弟子は眠りこけていました。


イエス様の心情を理解していなかった彼らは、イエス様がゴルゴタの丘で十字架にかかるとき、皆裏切ってしまいました。


ですから、ゲッセマネの園で血の汗を流しながら祈られたイエス様に代わって血の汗を流しながら祈る者たちを探すべき時が来ました。


花婿であるイエス様が人間のためにそのように行かれたのならば、その心情を理解するために私たちはどうすべきでしょうか? ユダヤ教団に追われて十字架を背負われたイエス様が敵に対して祝福を祈られたように、世界のキリスト教徒たちに追われる十字架を背負い、彼らのために祝福を祈ることができる一つの集まり、一つの群れが必要です。それは誰でしょうか? それは異端者たちです。イエス様と同じ異端者です。彼らはイエス様のように民族の前で反逆者であり、主義と思想において異端者であり、既成観念の破壊者です。そのような動きが現れなければ、世界は新たな方向を見つけることはできません。


既成宗教を持ってしては、皆さんの心に覆い被さっているすべての暗雲を取り除き、人生の変革をもたらす霊魂の解放運動を引き起こすことはできません。どのような論理、どのような哲学的思想を通しても心の変革を起こすことはできません。それらの手段を用いても何千年経っても無理です。


30


全人類は科学万能を叫び、それによって世界平和が築かれると思いましたが、それも違いました。宗教を興し、世界の民を救うと思いましたが、神の選民を通じて失われた民を救うと思いましたが、それも違いました。ここに確かな答えがないのです。


そのような状況において、ただ一つ必要なのは、黙って十字架にかけられながらも人類のために祝福を祈ったキリストの姿です。死を超越し、命への執着を捨て、自分の希望のすべてを捨てる場面でも、その希望を敵の前に残して去られたそのような姿が必要なのです。


イエス様は「行ったところから戻る」と言い、「アルファでありオメガである」と言われましたので、キリスト教の終末時代にはイエス様の姿に似た花嫁が現れなければならず、十二使徒も現れなければなりません。ここがその場所であることを皆さんは知るべきです。


しかし、今日の世界のキリスト教にそのような人々が現れたとしても、少し間違えれば昔のイスラエルの道を繰り返す現象が起こるでしょう。彼らが歩んだ足跡の道を避けようとしても避けることはできないでしょう。だからこそ、今日の全世界のキリスト教徒たちは目覚めなければなりません。イエス様と共にゲッセマネの園で目を覚まし祈るべきです。イエス様と共に十字架にかけられるべきです。


胸に刻まれた天的な悲運がイエス様の死によって生じたので、自分自身もそのような天的な心情を抱いて天を慰め、「私はこのような場所でイエス様と共に死ぬとしても行きますので、私を受け入れてくださり、その心情に刻まれた怨みを晴らしてください」と言える存在を求めるべきです。


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終わりの日の聖徒たちはそのような同志、そのような友、そのような指導者を探すべきです。地上に来られたイエス様、求めれば与えられ、探せば見つけられ、叩けば開かれることができたそのイエス様に再び会うことができる喜びの時が万人の前に開かれていることを知るべきです。


今日、既成教団が分裂する現象を見ていると、それが命の足場にはなり得ないことを直視することができます。ここに志ある指導者、天の心情を抱いた青年男女は奮起すべきです。今日の既成勢力に対して奮起しなければならないのです。


イエス様はこのような立場で「偽預言者を警戒せよ」(マタイ7:15)と言われました。偽預言者を警戒せよと言われた偽預言者とは誰だったのか? イエス様に従った弟子たちではなく、イエス様に反対したユダヤ教団、イスラエルの国でした。


今日、社会の発展状況はそのようなコースを辿っています。イエス様は偽預言者を警戒せよと述べ、外見を飾る者たちに試練を与えて打たれました。また、外見と形式に流れるユダヤ教を打破する先鋒に立たれたイエス様は、ゲッセマネの園を経てゴルゴタの丘で敵に対して祝福を祈られました。それは悪魔のためではなく、悪魔を屈服させて悪魔の手にある人々を取り戻すために祝福を祈ったのです。悪魔の手にある彼らに希望をかけ、祝福を祈ったのです。


今日のキリスト教は既成勢力を中心に形式主義に流れています。志ある指導者、青年男女がいるならば、命を失ったそのようなキリスト教信者に教会を任せることはできないという運動が必ず起こるでしょう。「牧師や長老に教会を任せられない。私たちの教会は私たち信者で任せよう」という運動が起こります。その時が来たら終わりであることを知ってください。その時が来たら終わりです。だからこそ牧師の時代が過ぎ、長老の時代が来ます。この長老の時代には様々な長老が現れ、活躍します。この時代が過ぎると執事たちが活躍します。その後、一般信者たちが活躍する時が来たら、それが終わりであることを知ってください。


32


歴史を汚し裏切った者たちを救うために来られた方が、歴史的な指導者であったイエス様です。しかしその指導者を引きずり、十字架にかけて殺したのはイスラエルでした。天はこれをはっきりと知っています。今こそ平民を中心に解放運動を起こすべき時です。第一次世界大戦後には上流階級が台頭し、第二次世界大戦後には中流階級が台頭し、現在は下層階級である労働者や農民が台頭する時が来ましたが、信仰も同様です。


今、全世界に広がるキリスト教徒たちは、どの指導者も指導者として信じず、自分の良心を指導者として再び見るべき時が来たのです。どの指導者を前にしても求めるべき時が来たのです。「求めなさい、そうすればあなた方に開かれるであろう」(マタイ7:7)と言われた御言葉は、天上で必要な御言葉ではありません。地上で必要な御言葉です。神がイエス様を地上に送られたのも、天国で必要であったからではありません。天国はそのままでも存在できますが、地上で必要であったからこそ送られたのです。


歴史がこのようにして滅びたため、天はこの滅びた歴史の怨みを晴らすために立ち上がる勇者を待ち望んでいます。では、新しい時代の勇者とは誰でしょうか? 初代教会に戻り、かつてのように使徒の心に燃えることができる青年男女、主が鞭打たれるのを見て代わりに打たれることができる青年男女です。今日、腐敗したこのキリスト教を見て自分の体が裂け、鞭を受けても責任を取るという青年男女です。したがって、そのような青年男女が団結して新しい指導者を求める日が終わりに訪れるでしょう。遠くないうちに韓国の教会はそうなるでしょう。


今日、キリスト教の団体は多くあります。世界的なキリスト教団体であるNCCやWCCなど、外面的なものはたくさんあります。しかし、内面的には何もありません。この内面的な問題を解決するためには、イエス様の心情に燃え、無知なネロ皇帝の圧政の下でも燃え上がる心情で前進することができた聖徒たち、そのような天の青年男女が必要です。そのような天の勇者たちが必要なのです。このような現象がこの終わりの日に実証的に起こるとすれば、クリスチャンたちはどうすべきか? これをもう一度考える必要があります。


ルネサンスが古代のヘレニズム文明を復興し、人本主義思想を開拓したように、今日私たちは2千年前のキリスト教を回想し、イエス様の神本主義による天国を建設しなければなりません。中間の橋は必要ありません。今の時は終わりの日です。だからこそ奇妙な現象が起こっています。何かというと、長老や統一教会などが現れています。皆さんはこれを霊的に分析できるようになるべきです。これが皆さんの使命として残されています。

33


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自民党分裂へ【岸田前首相の罪は大きい】

2024年10月06日 13時18分37秒 | 日記
総裁選が終わったばかりの自民党が石破内閣の下で二分しているかのように見える。

しかし党のトップである筈の石破氏はこうした混乱の中でも自分の意志では何も決められないかの様だ。
まあポーズは取る様だが、兎も角にも支持率がこんなもんだろうと言う程度しかなかったので、国全体がしらけている訳だ。

さも有りなんで、石破氏の背後には黒幕がいる様な感じがする事は皆が感じている事だ。

これで10/27解散総選挙で自民党は勝てるとは思えない。

仮に野党に対してどっか外の国からお金を差し入れてやったら野党は喜ぶだろうし勢いついて自民党に勝つかもしれない。
だけと脳のある人がいないのが今の野党だ。

このまま行けば選挙に行く人も少なくなって野党がお陰様でって勝ってしまうかもしれない。

その後にはまた、大地震が起こって原発事故が起こって日本はまたまた被災大国を地で行く羽目になるかも知れない。

野党が政権を取れば酷い天災がセットでやって来る仕組みが出来上がっているのだ。

日本には運が無くなるからな~。

悪魔的にはこうやって日本が衰退してくれればアジアで抵抗勢力が無くなって世界をコントロールし易いと言う某国の出番が回って来るだろう。

そうなるとやはり高市氏勢力陣営の出番かも知れない。

神側としては日本を悪魔の手に渡す訳には行かないからだ。
だがそうなるには神側には条件が必要になるだろう。
もしかしてそれが、安倍元首相殺害になるのかも知れない。これだけ謎が絡んでいる大きな殺人事件であるにも関わらず理由がさっぱり解らない。
家庭連合解散と引き換えに安倍元首相を殺害される等は流石にバランスが悪すぎないだろうか?
何かもっと大きな条件として神様は供えられたのかも知れないとも思っている。

家庭連合が積んできた精誠条件も相当に大きくなっていると考えられる。

それがこの秋で日本の行く道が示されるのかも知れない。

いずれにしても自民党は二分するだろう。
既に終わっている政党だから。

岸田前首相のミスリードの罪は大きい物がある。

それを払拭するのは高市氏が首相に成るべきであったが、岸田氏を初め反対に回った為に日本の行く道は厳しい物に成った事は事実である。


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御言葉選集6(5)

2024年10月05日 17時37分46秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集6 - 5. 天のように目覚めていなければならない時(1959年4月19日)


1959年4月19日(日)、前本部教会
マタイによる福音書 25:1-13


1
<祈祷 (Ⅰ)>
父なる神をお迎えしなければならなかった本来のアダムとエバが堕落したことによって、今までの歴史は悲しみの道となったという事実を、私たちは知っております。罪を犯したアダムとエバの子孫となった人間たちが、残された罪の重荷を背負ったまま、追われ、迫害され、試練を受けながら、今日まで進んできたこの人類の歴史を、私たちは心から憤りを覚えるべきだということを、どうか悟らせて下さい。


このような状態に落ちた人間たちを、天は忘れたくても忘れられない創造主としての責任があるがゆえに、どの時代、どの時点でもかかわらず、再びこの人間たちを取り戻すために、労苦の歴史の道を歩んでこられたことを、私たちは知っております。


今日このような立場に置かれている私たちは、自分たちを振り返りながら嘆き、同時にお父様が無限の労苦と痛みの道を歩まれたことを、心から痛ましく思うことができる姿であらせてください。お父様に対して恥じるべき自分たちであると感じ、歴史的な罪の血統を受け継いだ人間たちに対しては憤りを覚える心を持てるようにさせてください、とお父様に切に願い求めます。


私たちの心にはいまだに罪悪の根性が残っており、私たちの身体は今も罪悪の鎖に縛られていることを感じております。憐れみ深いお父様が力と能力をもって現れてくださることを待ち望んでおり、真実の息子娘となれることを望んでおります。お父様が罪悪の鉄網を断ち切り、深く食い込んでくる罪悪の縁を断ち切り、それに対して戦い抜けなかった失敗している息子娘たちを見る時、さらに悲しまれることを知っております。


どうか今、心の扉を開き、身体の束縛から解放され、新たな心と新たな身体を備え、元来のお父様を「私の父」と呼べる一つの姿が現れることを待ち望んでいるお父様の前に、「お父様、あなたの御心を代わる者として、どうかお受け入れください」と言える息子娘となれるようにしてください。


2


そのような歴史的な勝利者、すなわち敵と戦い勝利し、お父様の悲しみを慰めることのできる息子娘が現れることが、お父様の願いであることを、私たちは知っております。


今、私たち自身がそのような立場で、お父様を「私の父」と呼び、お父様を慰めることのできる息子娘となれるようにお許しくださることを、切に願い求めます。


これが私たちの願いであり、またお父様の願いであることを知っておりますので、どうか私たちを励ましてくださり、その立場にまで導いてくださることをお願い申し上げます。導いてくださるお父様の御手を握り、「どのような逆境の道であろうとも歩んでいく強い意志を持つ息子娘とならせてください」、とお父様に切に願い求めます。


お父様、この日、私たちを祝福してください。私たちを見つけ出してください。私たちの心と体に染みついたすべての暗闇を取り去ってくださり、光り輝くお父様の懐に抱かれることができるこの一日となるようにしてくださることを、切に願い求めます。


この民族を祝福してください。この人類を祝福してください。特にこの日、孤独な心を抱き、お父様の前に頭を垂れる兄弟姉妹たちの上に、お父様、憐れみの御手を差し伸べてくださり、彼らが勝利の姿を見つけ出し、誇れるようにし、この者たちが捧げる敬拝と賛美に天と地が共に喜びを分かち合うことのできる時となるように導いてくださることを、切に願い求めます。


3


初めから終わりまで一切をお父様の御前に委ねますので、どうか御支配ください。主の御名によってお祈りいたします。アーメン。




<祈祷 (Ⅱ)>
聖なる日を迎え、準備もないままに出てきた身ですが、恥を忍び、父なる神の御前に進み出て頭を垂れましたので、愛のお父様、憐れみのお父様、寛容のお父様、私たちをお許しください。


私たちの心はお父様の心に似たいと思い、私たちの身体は父の御姿に似たいと思っております。しかし、知らずにその願いを成し遂げられなかった私たちに、どうか心で教えてくださり、身体で体験させてくださって、あなたの聖なる御姿に倣った姿で、この一時を父の御前にひれ伏せることができるよう、切に願い求めます。


お父様の御心にふさわしくない息子娘がいるならば、どうか御自ら訪れてくださり、訓戒してください。耳が聞こえず、目が曇り、あなたの御言葉を聞くこともできず、あなたの姿を見ることもできない私たちに、再び聞けるように、再び見られるようにさせてくださるあなたが、私たち以上に悲しみ、私たち以上に胸を痛め、私たち以上に歯がゆく思われていることを、どうかこの時間、心と身体で体験させてください。


お父様は、私たちに対して何千回となく御手を振られたにもかかわらず、それに応じることができなかった私たちであり、何万回も呼ばれたにもかかわらず聞くことができなかった私たちであることを知っております。どうしてお父様の御前に立つ顔があるでしょうか。それでも「来なさい」とおっしゃるあなたの声を聞き、なおも手を振って呼びかけてくださるあなたがいらっしゃることを知り、ひれ伏しております。哀れな者の中の哀れな者であり、頼るべきものがない者の中の頼るべきものがない者であることを、お父様はご存知でしょう。醜い姿ではありますが、どうか私たちを見つけ出し、愛の御手で支えてくださらなければなりません。たとえ私たちの目が曇り、私たちの身体が傷つき、生命の本体を知ることができない場所にあったとしても、お父様、愛をもって御自ら抱きしめてください。疲れた足を止め、悲しみに満ちた心を喜びの心に変えて、私たちを慰めてくださることを、切に願い求めます。


4


悲しみを残しながらも、お父様に再び悲しみを与えるのは、この堕落した世界のせいであることを知っております。悪魔が私たちの進む道を阻み、死の権勢をもって世界を覆っていることを知っているからこそ、私たちに責任を負わせることなく、お父様御自身がその責任を引き受けて敵と戦ってこられたのです。そのようなお父様を敬う心が大きければ大きいほど、私たちの罪と過ちを赦したいという心が大きいことを知っております。その御心を通して、この時間、もう一度私たちを見つけてください。お父様、切に願い求めます。


真実の生命の感情を持って、お父様に礼拝を捧げるべき地上の人間たちが、そのような姿になれなかったことを赦してください。お父様を呼びたい心、お父様に従いたい心、お父様に尽くしたい心を持つ私たちではありますが、無限の悲しみを抱えていることを、お父様、どうかお知りください。


今、この一時、私たちは歴史的な罪を憂い、時代的な罪悪を憂い、未来に残るであろう罪悪の条件を憂いながらも、どうか私たちが「お父様」と呼ぶことができるようにしてくださり、不完全な姿ながらもお父様をお迎えし、頭を垂れて礼拝を捧げられるようにしてください。お父様、心から切に願い求めます。


罪人であることを悔い改め、涙を流し、憤りの心をもって涙を流しながら、切なる心で悔い改めるとき、お父様は6千年にわたり私たちを許してくださり、今日この時も憐れみの心をもって私たちに接してくださることを知っております。どうか、泣いている私たちの心の扉を叩いてください。そして、今まで罪悪に染まった私たちのすべての主張や観念を取り除き、この時間、私たちの心と体でお父様の命を感じることができるようにしてください。


今まで感じることができなかった天の愛の恩恵、天の愛の心情、天の切なる曲折の心情を体験し、私たちが「お父様」と呼ぶことができ、お父様が私たちを「息子娘」と呼ぶことのできる縁が結ばれるこの時間としてください、とお父様に切に願い求めます。


5


お父様、三千里の半島に住む三千万の民族を憐れんでください。彼らを心配する真実の人々は多くないように思います。また、彼らのために涙を流し、汗を流す者たちは極めて少ないことを知っております。お父様が憐れんでくださらなければ、この民族には留まる場所も、頼る場所も、見つめるべき場所もありません。お父様、どうかこの哀れな民族を顧みてください。心から切に願い求めます。


この民族に新たな約束を予告し、命の動きを起こそうとしておられるお父様の労苦があることを、今ここに集まった私たちは知っております。今日までこの民族を救うために天の摂理を支えてきた私たち自身の不足を、今この時間、お父様の前に告白せざるを得ません。どうか、私たちの不足を顧みてください。新しい命の動きを起こし、新しい希望の楽園を建設する責任を担うことのできる天の息子娘となれるよう、お父様、どうか励ましてください。


私たちが不足していて、死の影の中でうめき、悪魔の鉄網から抜け出せないとしても、どうかお父様の恵みの御手を差し伸べてくださり、私たちを導いてくださることを、切に願い求めます。


今この時間、多くの人々があなたの懐を恋しがって礼拝を捧げていることを知っております。どうかその前にお父様、すべてをお示しください。摂理の御心を予告し、その御心を成就させてください、と切に願い求めます。


今この時間、多くの孤独な息子娘たちが父の前にひざまずいて訴えていることを知っております。どうかその切なる心でお父様に願い求めているすべての場所に、愛の御手を差し伸べてくださり、お父様、あなたの御臨在の栄光を彼らの前にお示しください、と心からお願い申し上げます。


6


残りの時間をお父様の御前に委ねますので、どうかお父様で始まり、お父様で終わらせてください。お父様の命の喜びをこの時間に感じ取り、お父様の前に栄光を捧げることができるよう、御自らお導きください。


すべての祈りを主の御名によってお捧げいたします。アーメン。




<祈祷 (Ⅲ)>
お父様! 静かにお父様からすべてのことを教わっていたその時が恋しいです。その栄光を眩しく見つめながら、この地に留まりたくなかった時が恋しいです。深い愛に浸り、お父様の心情を体感したとき、天地が歓喜したその時も恋しいです。


お父様は静寂の中で現れることを喜ばれ、困難な中に現れることも厭わなかったことを知っています。戦いの場でも自ら私たちと共に戦ってくださり、絶望の場でも私たちと共にいてくださった歴史を持つお父様であることを、私たちは改めて悟りました。いつも私たちと共におられ、いつも私たちと共に戦い、いつも私たちと共に生きたいと願われていたお父様であることを、この時間に思い返すとき、この地に生きながらも、この地を拒絶し、避けることを喜んでいた過去の信仰の歩みを悔い改めさせてください。


崇高な場で喜んでお迎えしていたお父様は、栄光の父であられましたが、この地に現れた父は哀れで、やつれ、悲しみに満ちた父であることを知りました。そして、そのような姿で私たちに接してこられたことを、歴史の道程を通じて学び知りました。


7


今、私たちは栄光の中に現れたお父様を迎え喜ぶのではなく、この地で傷を負い、苦しみに苛まれ、真の息子を探して苦闘しておられるそのお父様を迎え喜ぶことのできる、そんな栄光の立場に立たせてくださることを切に願い求めます。


そのような立場でお父様を迎えたいと願うならば、まず涙の道を歩まなければならず、茨の道を進まなければならず、十字架の苦難の道を超えなければならないことを知っています。そうして初めて、そこにお父様がおられるという事実を知ることができるのです。私たちにはこのような悲しみの信仰の道がまだ残されていることを思わざるを得ません。


愛するお父様! 愛するお父様! この時間、私たちは自己を嘆く場所にいますか? 自分自身を抱えて悲しむ場所に留まっているのでしょうか? それとも、民族を抱えて悲しむ場所にいるのでしょうか? あるいは、世界や天を抱えて悲しむ場所に留まっているのでしょうか?


今や私たちは、自分自身の正体を明確にし、お父様がどこを見ておられるのかを自覚し、天の願いが何であるのかを思い悩みながら、頭を垂れることのできる息子娘にならなければならないことを知っています。お父様の前に立つ自信がないならば、心からでも悔い改め、お父様の前に出るのに不十分であるならば、自らを清める姿を持つ者とさせてください。


お父様! このような群れを再び急き立て、天性の道を予告しなければならないあなたの事情が残されていることを、地上の人間たちは知りません。現れようにも現れることができない環境に直面し、お父様の心情に引き寄せられようにも引き寄せられないこの地上の環境ですが、人間を立てて導くことができない環境を、導かなければならない責任を負っておられるあなたの事情を知りました。


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<祈祷 (Ⅲ)>
お父様!これまでこの使命を担って現れた多くの預言者たちを、私たちは勝手に追い払い、勝手に追放し、勝手に迫害し、勝手に殺してしまった罪深い血統を受け継いできた者たちです。どうか、今、私たちが天の責任をどのように果たそうと決心しているのか、自ら悔い改めることができるようにしてください。


天は今が眠りから覚めるべき時であると予告されました。暗い夜に光輝く灯火を掲げるべき時であると告げられましたが、私たちの心は暗闇に閉ざされているのでしょうか?私たちの身体は死の鉄網に縛られているのでしょうか?どうかこれを断ち切り、打ち破って前に進み、天を目指して走り出し、天の代わりに戦い、天の代わりに責任を負うことができるように導いてください。そして、「お父様」と呼ぶことができ、父が来られるのを待ち望む息子娘にならなければならないことを知っています。父の御心に立つに不十分な者がいるならば、どうかこの時間に励ましてください。


時が迫っていることを教えてください。死の影に巻き込まれて裁かれる者とならず、命の呼びかけに導かれてお父様の懐を見つけ、自由の園を目指し、その身体が引き裂かれようとも、死ぬことがあろうとも、走り続けることのできる息子娘とならせてください、とお父様、切に願い求めます。


天性を仰ぎ見るとき、悲しいことがあまりにも多いことを知り、私たちは悲しまずにはいられません。お父様、私たちが進むべき残された道が血の涙で連続する道であることを知るとき、私たちは躊躇し、恐れざるを得ませんが、このような環境に置かれた私たちを呼んでおられる父の心は、もっと悲しく、もっと切実であることを悟らせてください、と切に願い求めます。


この日は復活祭を過ぎた初日です。どうか今、心の灯火をともすことを許してください。私たちの身体と心に父の永遠の命の生命液を注いでいただかなければなりません。お父様!この新しい一時に命の業を起こし、再創造の業を起こしてください。


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死の力に巻き込まれて嘆く者たちがいるのでしょうか? お父様の叫ばれる声を聞いて自ら悔い改め、尊きお父様の前に懺悔することができるように導いてください。死の苦い根が心身に残り、お父様を裏切ろうとする心を持つ者がいるならば、それを取り除いてください。そして復活の権限、命の権限で働いてください、とお父様、切に願い求めます。


さまざまな人々が集まっておりますが、一つの心となり、一つの心情で調和できる時間としてください。この新しい心で行動できるこの時を許してください、と切に願い求めます。


無数の悪魔が今も私たちを狙っています。どうか悪魔が侵入することができないようにし、天にいる無数の聖徒たちを動員し、真実の心情を持って天に向かって訴える地上の聖徒たちを動かせる礼拝の時間としてください。天と地の縁をつなぐこの時間となるよう、お父様、切にお願い申し上げます。


もう多くの言葉は望みません。許しを遅らせるお父様の心情を知り、躊躇されるお父様の心を知りました。お父様、どうか今、私たちを憐れんでください。伝えたいという心を知ってくださり、受け取りたいと願う息子娘たちの心を知ってください。すべてがお父様から始まり、伝える者の心と受け取る者の心が一つとなり、この一時をお父様の栄光で満たしてくださることを許してください、と切にお願い申し上げます。


すべての祈りを主の御名によってお捧げいたします。アーメン。


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<御言葉>
「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたはその日、その時を知らないからである。」(マタイ25:13)という御言葉を中心に、これからお伝えする御言葉の題目は「天のように目を覚ましていなければならない時」です。この「天のように目を覚ましていなければならない時」という題目で、しばらくお話しさせていただきます。


皆さん自身をこの時間、父の御前に置き、皆さんの心と体の中で目を覚ましている部分がどれほどあるのかを考えながら、また、父が皆さんを目覚めさせるためにどのような心情と事情を持っておられるのかを感じながら、この時間、御言葉を聞いてください。


家族であれ、社会であれ、あるいは民族や国家の興亡史を振り返るとき、目覚めていない社会や民族や国家は滅びたことが分かります。したがって、私たち人間にとって非常に大切なことがあるとすれば、それは目覚めていることです。


では、何を見据えて目覚めていなければならないのでしょうか?現実を見つめて目覚めるのではなく、これから来る時を見据えて目覚めていなければなりません。つまり、切に希望を持つ心情を持った者にならなければならないということです。そのような者になる時、希望の人、あるいは希望の国の人として残ることができます。ですから、過去の歴史において、国を愛した人々は、その国が暗闇の中に沈み、死の権勢に飲み込まれるとき、国民に未来を見据えて目を覚ましているようにと叫んだのです。


では、天は私たちのためにどれほどの労苦を払われ、どれほど目を覚ましておられたのでしょうか?私たちが知っている範囲は、自分が労苦した分だけ、自分が目覚めていた分だけしか分かりません。しかし、それでも天が私たちの知っている分だけ目覚めて人類に対して働かれてきたのかというと、そうではありません。天はアダムとエバを創造されて以来、創造の理念に対する希望を一度も忘れたことはありません。どの日も休むことなく、眠る時間もなかったのです。このことを私たちは知らなければなりません。


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エデンの園にアダムとエバを造り、その成長を見守るだけでは天は満足されませんでした。天は、アダムとエバの明日、すなわち未来を憂いながら目を覚ました状態で、彼らの成長を見守っておられたという事実を私たちは忘れてはなりません。それだけでなく、天はアダムとエバの後、歴史上のすべての子孫に対しても、未来を見据えた目覚めた立場で彼らを見守ってこられたことを、私たちは忘れてはなりません。


では、何が堕落だったのでしょうか?目覚めておられる天の心情を知らず、天の事情を知らず、天の願いを知らなかったことが堕落でした。目覚めておられる天の心情!目覚めて、自らとの関係を結ぼうとされる天の心情!未来において自分たちと共に栄光を分かち合いたいと願われる天のその願い!その希望を失ったことが堕落でした。そのため、堕落した人間は、神が望まれた希望の一日を見ることができなくなり、また神の深い事情と関係を結ぶこともできず、さらに私たち人類は、今に至るまで想像もつかない神の愛の懐を失ってしまいました。


天は御自身の懐を離れた人間を憂い、再び見つけ出そうと摂理を進めてこられました。これが救いの摂理です。天の心情と天の事情と天の願いと何の関係も持っていない今日の私自身を振り返ってみると、お父様の心情、お父様の事情、お父様の願いに報いることのできる何ものも持っていない私たちであるということを知らなければなりません。


アダムとエバが堕落するのではないかと心配しておられた天は、堕落してしまった彼らに対して再び心配の心情を抱かれました。そして、悪魔の懐、すなわち死の権勢に落ちた彼らを再び救おうとされたのが天でありました。つまり、神は人間が堕落するのではないかと心配され、堕落すると、堕落した人間を心配され、死の中にあるアダムとエバを再び生かしたいという心情を持たれ、6000年という長い年月、一度も眠ることなく、まるで一日が如く私たち人類を探し続けてこられたという事実を、この時間、心で感じ取ることができなければなりません。


人間の欲望とは何か?それは、自分の家族を超え、民族を超え、国家を超え、世界を制覇したいという欲望です。しかし、たとえそのような欲望を達成したとしても、神の心情、神の事情、神の願いと一致する立場に立てないならば、神の心情、神の事情、神の願いを持つ立場に入れなければ、天の御前に立つことはできません。


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これまでの歴史の道のりを振り返ると、個人、家族、国家、世界は一つの土地をめぐって希望を見つけようと苦闘してきました。今も何か分からない新たな希望を求めて苦闘しています。


しかし、私たち自身がこれまで生きてきた経験だけでは、新たな希望を見つけることはできません。つまり、歴史的な縁を通したすべての概念や主義をもってしても、新たな希望を見つけ出すことはできません。なぜなら、そこには限界があるからです。このことを私たちは予測しなければなりません。


それでも人間は希望を抱き、天の倫理と人の倫理が同じ立場で関係を結ぶことのできる一つの事情を探しているのです。東西を問わず、すべての人々が一つの心情を基盤に、新たな理念の世界を建設する事情を探しているのですが、そのような事情はまだ人類の歴史上に現れていません。


民族を超え、東西文化を超え、心情的に感じ、生活の中で交わり、公平で一貫した事情で絡み合わなければならないのですが、そのような事情を人間は知りません。


そのため、人々は何とも言えない心の不安を感じています。何とも言えない衝撃的な心情の衝撃を待ち望んでいます。しかし、何とも言えないその衝撃はまだ受けていません。したがって、私たちが希望を求め、愛を通して関係を結んだとしても、心情的な一致点を見つけられなければ、いずれは分散してしまうことになるでしょう。


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人類の歴史の道のりは、天が人類の祖先に対して持たれていたその天的な内容を表しています。これを人類に示すためのものが歴史の実像だと言えるでしょう。このことを私たちは知らなければなりません。


では、今は終末だと口々に言っていますが、これまで人間が望んでいたその希望は退かなければならないでしょう。これまでの人間の事情も永遠に関係を結べないものであり、退かざるを得ないでしょう。そうすべき時が来たのです。


そして、自分の心情を中心とした家族的な基盤や社会的な基盤、あるいは国家的な基盤や世界的な基盤が変わろうとしても変わることができない一つの天宙的な中心、誰も動かすことができない一つの岩のような中心でなければ、それらは結局崩れ去ることになります。ですから、人々の心は動揺しているのです。


このように人間の心の動揺が大きければ大きいほど、焦りを感じれば感じるほど、さらに大きな心情の時が訪れ、その時が来ると人類には希望があるのです。


もしそのような時が訪れなければ、人類は絶望で始まり、絶望で終わりを迎えるでしょう。しかし、人類に対する天の御心があるならば、それは希望で始まり、希望で終わりを告げなければならないものであり、また、天にはその御心を成就しなければならない責任があるため、歴史の目的が成し遂げられる時が必ず来るでしょう。


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しかし、今日の人々は、すべての始まりが人間から始まったと思っていますが、そうではありません。今日の社会や国家、あるいは世界も、ある歴史的な縁を基盤として成り立っていると思っていますが、それも違います。歴史的な縁というものは、人間から始まったものではありません。それは、さらに高次の縁とさらに高次の希望が成し遂げられるまで動き続けている歴史の軌道に合わせて進んできたに過ぎないことを、私たちは知るべきです。


「今は眠りから覚める時だ」と言われましたが、これは夜に寝て目覚めることを言っているのではありません。これは時代ごとに予告される言葉です。そして、終わりの日に成し遂げられるべき理念的な世界があるとするならば、その世界を目指して進む人々に向けて、時代ごとに予告される御言葉なのです。


今、皆さんに自己を主張し、自己を表に出し、全体を統率したいという思いがあるならば、その思いはどこから始まったのでしょうか?


皆さんは眠りの中にいます。今日の人類は眠りの中にあります。個人も、家庭も、社会、国家、世界、さらには霊界までも、希望の一時を迎えることなく深い眠りの中にいるのです。


このような歴史的な縁が、この時代でそのまま終結するのではなく、もう一段階を超えて、新しい何かで終結されなければならないということを、誰もが共通して感じているならば、その「新しい何か」が問題になるでしょう。


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しかし、過去の歴史を振り返ると、伝統的な習慣を絶対的に主張していた民族は、歴史の中で取り残されてきました。私たちは、昔の古い時代の考えを捨てなければなりません。今日の人々は、復帰の道を歩んでいるため、歴史の遺物を重要視する傾向があります。これは、人間世界にあったものは神の心が反映されて現れたものだと見るしかないということです。


したがって、今日の現実に生きている私たちは、古い考えに満足するのではなく、それを通して本来の理念に対する貴重な価値を知り、その貴重な理念に自らを委ねようとする心を持たなければなりません。そのような者だけが、太初から神の心情の中に隠されていた理想を回復することができるのです。


だからこそ、終わりの日に直面している私たちは、歴史を振り返って何かを探すのではなく、歴史を総括して、神の中に隠されている全体の理念を自分を通して再現し、新しい形で示すことのできる、その一時を探さなければなりません。その一時こそ、神も目覚める時であり、地上の人々も目覚める時だということを知らなければなりません。


復帰の時代がすべて過ぎ去ったときには、新しいものを探し求めなければなりません。ですから、この時代が終わりの日であるとするならば、この時代に生きる青年男女は、これまで人々が貴重だと言っていたすべてのものを一掃し、新しいものを探し求めて苦闘する切なる心が芽生えなければ、目覚めた新しい時代の力強い担い手にはなれません。この終わりの日に、新しいものを探し求め、目覚めて苦闘する群れ、そのような群れには、未来の希望と接する道が近づき、未来の事情と関わりを結ぶことができ、歴史的な終末時代に現れる天の心情と縁を結ぶことができるでしょう。


では、ここで問題となるのは、私はどのような立場に立っているのかということです。堕落した世界、死の権勢が荒れ狂う地、善の血を吸い取る地、民族が民族を食い尽くし、国家が国家を食い尽くすという歴史的な縁を持つ地に立っているのではないでしょうか?もしそうであるならば、新しい希望の心情世界とは何の関係もないということを知らなければなりません。


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「あなたはあなたの行くべき道を行き、私は私の行くべき道を行く」という確固たる限界点が、皆さん自身に設定されなければ、死の波に飲み込まれてきた歴史の流れが、皆さんを新しい時代と縁を結ばせることなく、死の世界へと追いやるでしょう。したがって、これまではこのような歴史の流れにしがみついて進んできましたが、終わりの日の裁きの前では、これを超えなければなりません。言い換えれば、イエスが30余年の生涯を終え、十字架で亡くなった後、復活の勝利を迎える時、イエス自身が30余年の生活に未練を持ったり、自己を主張したり、自己を何よりも大切に思っていたならば、天が復活させようとしても、復活はできなかったでしょう。


しかし、イエスが復活できたのは、それまでの生涯を未練なく清算し、新しい希望に燃えていたからです。また、彼の心情と事情と願いが地上のものではなく、天のものに置き換わったからです。その瞬間、復活の恩恵を受けることができたのです。


同様に、皆さんも今、このような置き換えの時期を迎えているのですが、その日を間近に見据えている皆さんは、確固たる心の覚悟を持たなければなりません。そして、皆さんがどのような集まりに加わっていても、その集まりの代表者を基準にしてその覚悟を持つのではなく、その集まりを通して皆さん自身が心情的な基準を持たなければなりません。そのような者だけが、目覚めることのできる自然な環境を持つ者であると言えるでしょう。


では、今、皆さんがそのような立場に進まなければならないときに、今日の皆さんがその立場に進む手立てがないと認めるならば、どうすればよいのでしょうか?ここで何を清算すべきでしょうか?まず、皆さんは人間同士の縁、人間同士の事情、人間同士の願いに基づいては、決して進むことができないことを知るべきです。


では、何と縁を結んで進んでいくべきでしょうか?悲しい人類の歴史を論じるだけではいけません。摂理の歴史の悲しみと天の悲しみを清算しなければなりません。そうする前には、すべてを清算することはできません。


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なぜなら、今日までの人類の歴史は、天が希望を持って設定された意図に対して、何度も裏切ってきた歴史だからです。ですから、このことを骨身にしみて感じなければなりません。そのような心があってこそ、罪悪の現実を憎む心を持ち、悲しい人類の歴史を断ち切ることができるのです。


今日、私たちは自分の行動について、この行動は堕落した人類の歴史の何を証しているのかを考えなければなりません。


そして、私が取ったこの行動が、天の計画に基づいて摂理されている天の行動とどれだけ矛盾しているのかを考え、その違いから生じる衝撃を感じることができなければなりません。


私のこの行動が、神の心情、神の事情、神の願いを裏切っているものであり、天の心に血の涙を加えた行動であると感じたとき、初めて、天に対する私自身の心情が、地に対する心情よりも何百万倍も大きいことを知るでしょう。そうなると、死の世界に対するすべての未練は断ち切られるのです。


天はこれまで、このような立場に立っている私たち人間を見守ってこられました。神は一日も休むことなく、眠ることもありませんでした。創世以来、堕落の歴史を見てこられた天は、私たちが見られなかった姿を見られ、私たちが経験できなかったことを経験され、私たちが測り知ることのできない悲しみと憤りと無念を感じてこられたでしょう。


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時には、真の息子娘を送られましたが、彼らを殺す人間たちを見ながらも耐え忍ばれたお父様! そのお父様は、一日も休むことなく、目を覚まして私たちを見守ってこられたのです。このことを皆さんは感じ取らなければなりません。皆さんがそのような心情に浸って生きているならば、皆さんは裁きの場に出ることはないでしょう。


今日、皆さんの身体は非常に小さなものですが、歴史はこの一つの身体に向かって訴えています。時代はこの一つの自我に向かって訴えています。世界はこの一つの自我に向かって訴えています。天はこの一つの自我に向かって、「来なさい」と叫んでおられます。


このような岐路に立っている皆さん一人ひとり!必ずや正しい方向を定めなければならない時が来ました。暗闇に包まれた環境を整理しなければならない時が来たのです。皆さんは、進むべき方向がどこであり、暗闇の環境を整理できるのは何かをまだ知りません。


そのような皆さん自身を見守っておられる天の心情は、昔、エデンの園でアダムとエバが堕落するのではないかと心配されたその心情よりも、堕落したアダムとエバを見つめられたその心情よりも、堕落した人間を救うために6000年もの間労苦されてきたその心情よりも、さらに切実なものだということを知ってください。ですから、今日、皆さん一人ひとりが天を裏切る日には、天地にさらなる悲しみをもたらすことになるのです。


今、私たちは目を覚まさなければなりません。目を覚まさなければなりません。眠っていた目を開き、私たちの行動を見直さなければなりません。


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では、このような立場にいる私たちが目を覚ますためには、何を中心として動けば目を覚ますことができるのでしょうか?それは、皆さんの人生の道程に積み重ねた功績ではありません。それでは歴史的な縁から抜け出すことはできません。今までの歴史は、堕落した人間の歴史であり、裁かれるべき縁の世界に留まっている歴史であるため、この地上に残された縁や、どのような実績を持ってしても、それを覆すことはできません。今までの権勢を持っても、それを覆すことはできません。また、今まで手に入れたすべてのものや、どのような栄光の条件を持ってしても、それを覆すことはできないのです。私たちはそのような状況にあるのです。


ここで、私たちが目覚めるためには、新たな覚醒をしなければなりません。しかし、新たな覚醒をして進むためには、人間の持っている心や、人間の持っている心情、あるいは人間の縁や願いだけでは不十分です。


では、持たなければならないその一つの心とは何でしょうか?それは、私たち以外の歴史、すなわち私たちが生きてきた歴史以外の歴史があったということです。これはどういう意味かと言いますと、今日の人類が知っている歴史以外に、もう一つの歴史があったということを知る必要があるということです。私たちが知らない歴史があったということは、私たちが知らない歴史的な心情もあり、私たちが知らない歴史的な事情もあり、私たちが知らない歴史的な願いもあったということです。6000年前にもそのような内容があり、4000年前にもそのような内容があり、2000年前のイエスの時代にもそのような内容があったということです。


では、天の代わりに来た人々、その時代を目覚めさせるために来た人々はどのような人々だったのでしょうか?ノアのことを言うならば、ノアは堕落後1600年の間に流れてきた人間の歴史的な心情や、歴史的な事情、人間が望んだ歴史的な願いではなく、別の歴史的な心情、別の歴史的な事情、別の歴史的な願いを抱き、希望を知らない人間に希望を知らせ、事情を知らない人間に事情を知らせ、心情を知らない人間に心情を知らせなければならなかったのです。これが、ノアの洪水審判の目的でした。


イエス様も同様です。では、イエス様はどのような方だったのでしょうか? イエス様は、歴史的な心情や、歴史的な事情、歴史的な願いを紹介するために来られた方ではありませんでした。それはすでに紹介されていたからです。イエス様は、そのような歴史ではなく、人類が知らない天的な願いや、天的な心情、天的な事情を持って来られました。その願いを基盤として心情を目覚めさせるために来られ、事情と縁を結ぶために来られ、希望の中心となるために来られたのです。しかし、その時代の人類はイエス様を拒絶したため、歴史の道程には、天が望んだ希望の基準も、事情の基準も、心情の基準も消え去り、天の歴史そのものだけを残してイエス様は去られたのです。


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そのため、天はこれを再び延長させ、6千年の歴史の終末に向けて、人間の歴史ではなく、天的な歴史の計画を進めてこられたのです。


ですから、皆さんは天の歴史と、この地上の歴史の進行基準を合わせて、上には天を握り、下には人類の歴史を握り、自信を持って進める姿にならなければなりません。今日の人類もそうするべきです。天もそうすることを望んでおられるでしょう。


では、その一つの姿とはどのようなものでしょうか?それは、6千年の摂理歴史、人間の歴史ではなく、天的な摂理歴史の心情を握った者であり、天的な願いと天的な事情を握った者であると言えるでしょう。


人類の歴史過程には、二つの流れがありました。しかし、今までの人類は、地上の歴史の内容は解明できても、天倫が動かしてきた歴史の内容は解明しようとしても解明できなかったのです。


では、人間の悲しみとは何でしょうか?それは、歴史のすべてを知らないことが悲しみではなく、歴史と縁を結べないことが悲しみでもありません。人間の悲しみは、天的な歴史の道程を知らないことです。そして、天的な歴史の希望とは何か、事情とは何か、心情とは何かを知らないことです。


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もし、終末において、こうしたことを青年男女に知らせ、彼らの胸に衝撃を与える時が来ないならば、この世界は歴史とともに滅びるでしょう。


この観点から見るとき、眠っている私たちは目覚めなければなりません。私たち人類は、祖先たちが眠っていた眠りを引き続き続けているのです。祖先の時代から数千万年の歴史の道を歩んできましたが、天と人間との歴史的な結合点を確立し、自信を持って天に向かって叫んだ者はまだ誰一人としていません。天倫の前に自信を持って責任を果たした者も、まだ一人もいないのです。


天が悲しまれることは何でしょうか?それは、その結合点が結ばれていないことです。では、人類が悲しむべきことは何でしょうか?それは、人類の中に、一人でもそのような縁を結び終えた者がいないことを悲しむべきです。


これが歴史の流れ、あるいは天倫の流れです。この二つの流れは、私たちの心と体を分断し、互いに主張し合っています。心は「天倫に向かって進め」と言い、体は「歴史的な縁を離れるな」と言っています。この戦いに苦しむことを知っている青年男女がもっと多くいなければならないのに、この戦いの苦しみを感じる者がいないのです。


この観点から、パウロは「なんと私はみじめな人間だろうか」(ローマ7:24)と嘆いたのです。心の法と体の法があり、その二つの法が戦っているとも言いました。これは、歴史の全体性を暴露したものです。


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摂理的な希望の基準を遠いところに置いている人間を、歴史的な距離を超えてその闇の権勢が支配しています。このように、今日の私を支配している闇の権勢と恐怖を突破して進むための刺激を、自ら引き起こすことができないならば、救いの摂理は完成できないということです。そうなると、天国の理念は無駄に終わるのです。ですから、心で喜び、心で生き、心で歌うことができる自分を求めて進むことが宗教人たちの道程でした。


皆さんは心を落ち着けて、過去の縁を振り返り、現在の縁を考え、未来の縁を思い描きながら、その心の中の自分自身を探し求め、どれだけ切迫していたかを反省しなければなりません。


天は、時と季節が変わっても、私たちの心を通して常に連絡を取っておられます。それにもかかわらず、歴史的なその心情を体感できていないならば、皆さんは一つの国家を裏切った逆賊を超え、全宇宙を裏切った反逆者であると言えるでしょう。


このようなことを知らずに生きている人間になってしまったのです。真の心情、変わらない心情が大きければ大きいほど、その事情が大きければ大きいほど、その願いが大きければ大きいほど、歴史の過程を摂理してこられた神の憤りがどれほど大きかったか、神の悲しみがどれほど大きかったか、神の切なる苦労がどれほど多かったかを考えるべきです。この心情に反応して、神を掴んで知らずに涙を流す感激した心を持つ者は、決して滅びることはないでしょう。


したがって、皆さんが今、何か分からなくても、天的な縁があることを知り、天的な心情を思い描き、天的な道を見据えなければなりません。自分でも分からないほど、切なる天の事情を恋い慕い、天の事情を体感するその場で、神を「お父様」と呼べるようになるべきです。もし、そのような人がいるならば、歴史の道程を歩んでこられたお父様は、ようやくその人の手を握ってくださるでしょう。


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その人を中心にして、億千万人のすべての人々が手を握らなければならないのですが、選ばれた過去の預言者や先祖たちは、自分たちが握った手を放すことが多かったのです。天は、私たちの先祖たちを握っていたその手を、終わりの日まで握り続けたかったのですが、いや、世界の全人類を握り続けて進みたかったのですが、私たちの先祖たちはその手を振り払って裏切ることがしばしばありました。


その度に、そのような先祖たちを失い、再び目覚めさせ、再び立ち上がらせた天のその心情と、再び立ち上がるべき立場にある皆さんの心情とは、大きな隔たりがあります。感じ取ろうとしても感じ取れない悲しみがあるならば、無限の悲しみの峠が残っているでしょうし、困難があるならば、無限の困難の峠が残っているでしょうし、憤りの十字架の道が残っており、無限の十字架の壁が立ちはだかっているでしょう。


だからこそ、この問題を解決しなければならない今日の私たちは、心を握りしめて泣くことを知らなければなりません。心を握りしめて泣くとき、何を心配しながら泣くべきでしょうか?心を握りしめて泣くとき、私の心を握ろうとされる天を憂いながら泣くべきです。体を握りしめて泣くとき、その体を握ろうとされる天を心配しながら泣くべきです。


天に対して、「今日の悲しみよりも明日の悲しみがさらに切実であり、今日の無念さよりも明日の無念さがさらに深く、今日の苦しみよりも明日の苦しみがさらに強くなるとしても、私は進みます」「たとえ死んでも進みます」と誓える心情を持って、自らを見つけ出す立場に立たなければ、皆さんは目覚めることのできる位置に立つことはできないということを知らなければなりません。そうではありませんか?


世の中でも同じです。ある失敗者が成功しようとするならば、その心に新たな希望と新たな覚悟、新たな決意を持たなければなりません。自分が落胆した時よりも、自分が失敗した時よりも、さらに強い心の衝撃を受けなければ、失敗の基準を超えることはできません。


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これと同じように、今までの歴史的なすべてのものよりも、人間が心情的に苦しんでいたすべてのものよりも、さらに強い衝撃を受けなければ、今日の人類には生きる道がないのです。


だからこそ、今日が6千年の歴史の終末であるならば、天は人類に対して、6000年間切実な心情で叫んでこられた以上に、この時間、私たちに対して叫ばれるでしょう。天倫に対しても叫ばれるでしょう。天が6000年の歴史のどの時代にも持っていた心情よりも、抱いていた希望よりも、この時代に私たちに抱いておられる希望の方が大きいでしょう。希望もそうですし、事情も、心情もそうでしょう。


では、自分を目覚めさせて立ち上がらせなければならないこの時に、皆さんはどうすべきでしょうか?皆さんが自分を目覚めさせるためには、天的な心情を感じ取らなければなりません。そして、皆さん自身が自らこのことに責任を負わないのであれば、責任を負う何者かが地上にいなければならないのです。このことを皆さんは知らなければなりません。


天はそのように歴史を進められます。天はノアの時にはノアを立て、アブラハムの時にはアブラハムを立て、モーセの時にはモーセを立て、イエスの時にはイエスを立てられました。ですから、終わりの日には、立てることのできる一人の人物が現れなければなりません。


しかし、その現れる姿を、これまでの伝統的な歴史や環境は認識しませんでした。だからこそ、行動から始めて、生きること、動くすべてのことを考慮し、その新しい姿を中心に据えて過去のすべてを捨て、それに代わる中心人物を立てなければなりません。そして、その方に対して絶対に従い、絶対に服従し、絶対に調和できる皆さんでなければなりません。そうでなければ、皆さんは目覚めようとしても目覚めることはできないでしょう。


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皆さん、今は自分でも知らず知らずのうちに焦りを感じる時です。神は人類を新しい時代に希望の存在として立てるために、人間自身も気づかぬままに焦りと恐怖に包まれ、脅されることを許されています。


これから皆さんは、最終的な鉄槌を受ける前に、その鉄槌が皆さんの額を打つ感覚を感じることでしょう。その感覚が皆さんの環境を覆い、恐怖の心を感じるでしょう。その時が来ます。天が打つと同時に、人類も打ちます。人類が打つと同時に、悪魔までもが打ちます。それが大審判です。


今日まで人類は互いに戦ってきました。悪魔とも戦ってきました。天もまた、皆さんを打たれました。このように三方から人間を打ってきました。地上でもそうではありませんか?陸軍や空軍、または海軍というものがありますよね?終末の時代には、一人の人間を中心にして、この三つの形態で襲撃してくるでしょう。


陸軍のような人間たちの襲撃があるでしょうし、海軍のような悪魔の世界の襲撃があるでしょうし、空軍のような天の世界の襲撃があるでしょう。このように襲撃してくるのです。


そのような大審判の時代がやって来ますが、こうした恐怖の時代が襲いかかってくるのは何のためでしょうか?それは滅ぼすためではなく、悪を打ち砕き、歴史の道程に押し込められていた心を回復させるためなのです。この隠れた意図を皆さんは知らなければなりません。


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人間を殺そうとする天ではなく、生かそうとする天です。ですから、天が私たちを押し出すのは、上昇させるためなのです。私たちを脅かすのは、ある側面を開放するための力の作用なのです。だからこそ、私たちは脅かされているのです。ですから、恐怖の時期が来たからといって落胆しないでください。恐怖と戦わなければなりません。正面には恐怖が現れますが、その背後には新たな安息の基盤があるのです。このことを人々は知りません。


今や、すべての恐怖の世界を打ち破り、新しいものを手に取らなければならない時が来ています。そうです。人類を支配しているのは悪魔です。その悪魔は、私たちの鼻を引っ張り、手を引っ張り、私たちのすべてを引きずり、最終的には恐怖と死の場に連れて行っています。人類は、まるで屠殺場に引かれる牛のように悪魔に引っ張られているのです。しかし、人類はそのように引っ張られているにもかかわらず、天は私たちの後ろからついて来ておられます。


皆さんの心は、皆さんの行動をまとめて決断に導いています。そうではありませんか?皆さんが行動を先に起こしても、その結果としての責任はすべて良心が負っているのです。これがそれを証明する証拠です。これが歴史全体の証拠なのです。


同じように、皆さんも引きずられています。死の罠に引きずり込まれています。しかし、皆さんがこの引きずられる状況にあっても、そのすべての恐怖を打ち破る心の衝撃を受けるならば、立ち返ることができるのです。


だからこそ、私たちはその一時を持たなければならないのです。私たちが置かれている場所は目覚めた場所ではなく、暗闇の場所であり、死の場所です。これを覆し、目覚めることができるその一瞬を持たなければなりません。その瞬間こそが、歴史の終末である終わりの日なのです。


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したがって、皆さんは内的なすべてが複雑になればなるほど、混乱すればするほど、恐怖の世界が押し寄せてくればくるほど、生きる日の到来が目前に迫っていることを感じ取らなければなりません。生命の線が死の線の上に繋がっていることを感じ取らなければなりません。そうではありませんか?


今日の人類は、この事実を知りません。皆さんは生きているのですが、その背後には死の線と繋がっているのと同じように、生命の線が死の線に繋がっているということを人類は知らないのです。


これまで人間は歴史的な方向とともに心の方向を探し求めてきました。歴史的な方向とともに希望を見据えてきました。そして、どのような縁や心情、あるいは事情においても、それを歴史的な方向とともに見据えて進んできました。したがって、このような絶望的な動きでそれを突き放し、立ち返るその一時から、新しい世界、新しい宇宙が展開されるのです。


では、今進んでいる私たちの方向を転換しなければならないとしたら、どうすればよいでしょうか?死の波が渦巻くこの場で立ち返るためには、どうすればよいのでしょうか?皆さんは、3つの点を基盤にした1つの点を見つけなければなりません。皆さん自身は、歴史的な流れに飲み込まれる渦の中から抜け出そうとしても抜け出せないので、その反対側にある天の1点を見つけなければならないのです。


だからこそ、恐怖と死の淵に引き込まれつつある立場から抜け出すためには、皆さんは天的な指標や3つの基盤に基づく1つの点を選ばなければなりません。そして、さらに冒険をしなければなりません。冒険、冒険をしなければなりません。その流れを蹴り破りつつ、隣にある新しい何かを掴もうとする覚悟をしなければ、生き残ることはできません。そうしなければ、誰が歴史と共に審判の犠牲にならないと保証できるでしょうか?


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だからこそ、私たちは自分が流れている方向を見極めなければなりません。そして、その方向を見極める際、自分の感情で見極めるのではありません。終末が近づく中、恐怖と不安、死の切迫感が強く感じられれば感じられるほど、自分の方向を正しく変えるか、あるいは別の視点から生命の救助線を見つけなければなりません。そして、自分の世界観や心情のすべての縁を蹴り破って、新しい何かがないかを探す心を持たなければなりません。そうでなければ、目覚めようとしても目覚めることはできません。


もし、皆さんが心の中から、または自分の感覚を通じて感じる何かがあるならば、それは死の場所よりもましなものであり、それを掴んで冒険をするために、すべてを蹴り破って前に進まなければなりません。その瞬間に、死の縁が断ち切られるのです。過去の歴史を振り返っても同じことが言えます。


ノアが作った箱舟は、歴史的な流れに反するものでしたが、その箱舟は神が人間に命を与えるために立てられたものでした。イスラエルの民がエジプトで苦しみの労働を強いられていたときに現れたモーセも、民の流れに反するものでしたが、民を救うための標識でした。そしてイエスは、4000年の罪の歴史を覆し、死の道を生きる道へと転換させるための神の標識でした。


私たちが心で聖賢たちを慕うのは、私たちが復帰されるための標識を探し求め、希望の場所、事情の場所、心情の場所である理念の世界を無限に慕って動いているからです。私たちはこのようにして戻ろうとしているのです。歴史も同じです。したがって、天地の流れのすべて、歴史のすべて、つまり6000年の歴史を終結させることのできる不変の中心が立たない限り、この世界は破滅するのです。破滅です。


もしそれを立てられない神であるならば、そのような神は必要ありません。それを立てられない神であれば、「私を信じなさい」という信仰の標語を掲げたことはすべて虚偽であり、外面だけのものとなります。人類を支配しようとする神にしかなりません。しかし、神は切迫した瞬間、死の場に生命の救助線として現れるのです。


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皆さんは、新しい覚悟を持ち、新しい希望、新しい心情、新しい事情を持って、歴史的な希望の時、天的な希望の時、すべての存在世界の希望の時が迫っていることを認識し、すべてを蹴り破って復活した姿で冒険を覚悟し、1つの中心を掴んで進み出なければなりません。そのような心であれば、歴史の道程、あるいは摂理の道程でようやく目覚めることのできる心となるでしょう。したがって、まずは希望を持ち、死の波が押し寄せる状況においても最後まで耐える覚悟をしなければなりません。


今日、韓国の青年男女を見ると、彼らはまるで漂流する浮草のように方向もなく流れています。このように波に流されて、一体どこに向かおうとしているのでしょうか?この波に逆らって、別の方向に流れ出す動きはないのでしょうか?目覚める道はないのでしょうか?今日、自分が置かれている環境を無限に憎み、怒りを感じ、そうした道があるならば、悪の歴史と悪の世界を蹴り破るために、これまで忠誠を尽くしてきたどの人物よりも優れた忠臣、孝子、孝女になるという覚悟を持って、大いなる冒険に挑むことのできる時代の英雄が必要な時代なのです。


そのような人々が多くなれば、この民族にとって希望の日は近づくでしょう。また、この世界において、私たちが望んでいた希望の時代が開かれるでしょう。


しかし、このようなことは天がしてくれるものではありません。それは天がするべきことではなく、私たちがしなければならないことです。ですから、皆さんは現在置かれている場所に満足してはいけません。天の切なる心情を抱き、死の権勢の中にいる人々の死を心配して人々を目覚めさせるために叫ぶ人を探し、その叫び声を聞くことができるようにならなければなりません。その声を聞き、叫んでいる人の姿を見て、次に行動を開始しなければなりません。


皆さん、聞く耳を持っていますか?見ることができなければなりません。そして、見たならば行動するための体の準備ができていますか?これが問題です。ここで聞くこと、見ること、行動することは、歴史的な冒険の行動でなければなりません。そうでなければ、歴史的な死の権勢を蹴り破ることはできません。


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それでは、皆さんはどのような声を聞き、どのような姿を見て、どのような行動をしましたか?自分自身も見えず、聞こえず、行動する方法も分からないという人が多いために、天はそのような人々に示し、聞かせ、行動する者たちを立てて、歴史を進めてこられたのです。


皆さんは、生死の岐路に立って自分の行動を決定しなければ、死ぬか生きるかの勝敗を決めることはできません。審判は天が先に行うものではなく、人間自身が先に行うものです。したがって、まず自分自身で審判し、勝利して残る場所に立たなければ、天の審判を受ける場に立つことはできません。自分自身で審判して残る姿になっていないのに、天の審判とは何の審判でしょうか?


皆さんは、自分のすべての罪を止め、自分のすべての感情を止め、自分のすべての生活をもう一度整理し、立ち返ることができるでしょうか?これが問題です。歴史的な預言者たちはその道を歩んできました。ノアもその道を歩んできました。天はノアに「立ち返れ」と命じられました。「今まで生きてきたすべての環境を蹴り破って立ち返れ」と命じられました。その命令に従って始めなければならなかった行動は、ノア自身もこれまで想像できなかった行動でした。「山の頂上に舟を造れ…」舟は水の上に浮かばなければならないのに、山の頂上に造れとは、そんな理不尽がどこにあるのでしょう?しかし、ノアは従順でした。


アブラハムも同じでした。天が「カルデアのウルを去れ」と命じられた時も「はい」と答え、「イサクを捧げよ」と命じられた時も「はい」と答えました。モーセもまた、民族の苦しみを憂い、これまでの流れを食い止めてエジプト人を打ちました。それを見たイスラエルの民がそれでも良いと言ったならば、またイエスも「すべてを捨てて私について来なさい」と言いました。


歴史はこのようにして流れてきました。しかし、そのような預言者たちの叫びを聞くことができる人、彼らの姿を見ることができる人、彼らの生活を憧れることができる人は、歴史の道程に一人もいませんでした。これが天の悲しみでした。そして神の悲しみは、ゴルゴタの丘で死んでいくイエスの姿を見て悲しまれたことだけでなく、死んでいくイエスを見て天の心情を憂い、彼を哀れんで涙を流し、死の場所も気にせずに進む者がいなかったことでした。それがさらに悲しかったのです。


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天は、私たちが進むべき道を時代ごとに1つの標識として立ててこられましたが、終わりの日も同じでしょう。死の恐怖が押し寄せれば押し寄せるほど、それを蹴り破って進み出る心の切迫感を感じなければなりません。これを解決するためには、常に焦りを感じなければなりません。眠ることが問題ではなく、食べることが問題ではなく、生きることが問題ではないと言わなければなりません。このような切迫した心情を感じ、心に衝撃を受け、冒険を覚悟して未練なく進み出る歴史的な新しい動きが現れなければ、この世界に生きる道は開けません。


神はこれまでの歴史の道程においてそのようにしてこられましたが、終わりの日にも必然的にそのようになさるでしょう。このような動きがあるならば、これまで自分が信じてきた過去の信仰や過去の主義、あるいは過去の縁にこだわることはないでしょう。そうしなければ生き残ることはできません。


見てください。聖書には、マリアの夫ヨセフを「義人」と呼んでいます。処女としてイエスを身ごもったことは、歴史的には理不尽でした。しかし、天が天使を遣わして予告し、マリアを立てようとされたとき、マリアはためらわずにこれに従ったのです。


歴史上の忠臣、孝子、烈女たちが残したものは何でしょうか?それは、悪党たちが反対する流れの中で、ためらわずに命をかけて冒険した先祖たちだったということを、皆さんは知らなかったでしょう。神の意志を受け入れたどの一人もその道を歩まなかった者はいませんし、歴史上のどの忠臣・孝子・烈女もその道を歩まなかった者はいませんでした。生死を分かち、最後の栄光を見据えて、天国の民、いや、天の息子娘になろうとする人々は、当然その道を歩むべきです。


皆さんはそのような覚悟を、決意を、誓いをしたことがありますか?もしないならば、皆さんは歴史的な摂理を冒涜した者中の冒涜者であり、裏切り者中の裏切り者です。時が来る前に、皆さんはそのような覚悟を持たなければ、新しい自分を見つけることはできません。この行動を開始するその瞬間こそが、眠りから覚めた6千年の歴史の道程を蹴り破り、ようやく目覚める瞬間であることを知ってください。


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皆さんが目覚めてみれば、自分一人ではなく、両親がいることに気づくでしょう。このようにして目覚め、その両親を掴んで涙を流すその日を「再臨の日」と呼ぶのです。目を開けてみれば、私の前には、6千年の間、私のために悲しみを代わりに担ってくださった真の両親がいらっしゃること、6千年の間、私を探し求めてさまよってくださった真の親がいらっしゃること、私が悲しむ前に私に対して悲しんでくださった天がいらっしゃったことを知るのです。このようにして、歴史的な心情に深く刻まれたすべての事実が一日にして展開されるとき、ようやく私は天に対して「お父様」と呼ぶことができ、天は私に対して「息子よ」と呼ぶことができます。その日が、まさに最終的に目覚める日なのです。


その時、歴史的な希望の心情とその他すべてが、私の胸の中に訪れる時です。したがって、その時の喜びは、神の全体的な目的が達成された時に感じる喜びであり、その時の感情は、人類が堕落せずに完成した時に感じることのできる感情です。


そして、人類が感じた数多くの歴史的な悲しみと、人類が受けた多くの歴史的な苦しみに比例する喜びを感じ、悪魔の前に堂々と現れて誇ることができる姿を示すことができるのです。


このような境地まで到達しなければならない私たちであるので、その立場に立てなかったならば、私たちは立ち返るべき方向に向かって心と体と環境を整え、聞こえてくる言葉と現れる現象を見て心を落ち着け、命を覚悟して立ち返らなければなりません。そのような行動ができないならば、私たちは目覚めようとしても目覚めることはできません。目覚めようとしても目覚めることはできないのです。


外的な環境が脅迫してくるほど、それに比例して内的な決意はさらに大きくなければなりません。絶望と落胆が社会を覆うならば、私たちの内的な心情においては、さらに固い覚悟をし、希望の一時を切に求める心が芽生えなければなりません。そうしてこそ、私たちは希望の一日、あるいは事情の一時、心情の一姿として私たちを見つけに来られる天との縁を結び、悲しみの歴史を蹴り破って勝利の再出発を果たすことができるのです。皆さんはこれをしっかりと心に刻んでおかなければなりません。


33


<祈祷>
お父様! 私たちが新しいことを考えようとする時、これまでの動きが続く場所では考えることさえできないことを知りました。歴史の流れを止め、自分を見つめ直す瞬間を持たなければ、目覚めることはできないと知りました。眠っているこの姿は、新しい刺激を受けなければ目覚めることができないことを知っています。どうか、お父様! 私たちに歴史的な縁から抜け出すための新しい衝撃を次々と与えてください。


刺激的な心がなければ目覚めることができないことを知っております。ですから、そのような心を見つけて慕うことができる存在にならなければなりません。


お父様! あなたは時代ごとに目覚めさせるための責任者を送ってくださいました。あなたが堕落した人間を見つめ、悲しんだその心情を掴んで生きた者たちのおかげで、ノアもそのように生き、モーセも、イエスもそうでした。


お父様! どうか私たちの心の奥に新しい感覚の衝撃を与えてください。そして、私たち自身を越えて、あなたの悲しみを体感し、死の世界に巻き込まれていく民族を憂う心を与えてください。


このような心を持つ者がいるならば、その者は民族的な解放を受ける者であり、さらに進んで世界を掴んで憂う心を持つ者がいるならば、その者は世界的な解放の恩寵を受ける者であり、さらに天宙的な解放を憂いながら涙を流すことのできる者がいるならば、その者は歴史と共に滅びることなく、新しい歴史の世界に残る人物であることを知っています。今日、自分の感情に溺れ、自分を掴んで泣く者にはならないようにさせてください。全体が求める善を行い、私たちを見つめておられるあなたの切なる心情を代わることのできる私たちにしてください。お父様、切に願い、求めます。


34


私たちが従わないのではないかと心配されていたその心、人間が堕落するのではないかと心配されていたあなたの心を代わることができるようにしてください。従ってくる者たちが落ちるのではないかと心配し、また落ちた者たちが倒れて死ぬのではないかと心配されていたあなたの心を見習い、民族を見つめ、世界を見つめることができるようにさせてください。お父様、あなたを見つめながら「お父様、私がここにおります。あなたの心情を私が引き受けましたので、どうか安らいでください」と言うことができる息子娘がいるならば、その姿を通して歴史は新しい方向へと流れていくことを知っています。


そのような方向に出発しなければならない私たち、眠りから覚めなければならない私たち、歴史的な不運の叫びが現れるにつれて、心の奥深くで新しい決意と覚悟、誓いを持ち、新しい方向に向かって出発するための万全の準備を整えて進むことのできる者たちにしてください。


このような立場に導くために、涙を流しながら戦った者に代わって天的な心情を持って戦う者がいなければ、天は彼によって安息され、地には新しい喜びの園が建設されることを知っています。どうか、私たちがその責任の立場に立つにふさわしいように、お父様、励ましてください。私たちの歩みが遅いならば、鞭を打ってでもその立場に導いてください。お父様、切に願い、求めます。


天が目覚めているように、私たちも目覚めて、天倫と共に、歴史と共に悲しみ、喜ぶことのできる私たちにしてください。これを切に願い、主の御名により祈ります。アーメン。

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私記8

2024年10月03日 13時50分23秒 | 日記
■岸田前政権の後を受け継いだ石破政権には何が出来るのか?

と言うか、何故石破氏が総理になったのかの方が個人的には大きな疑問ではある。

それに安倍元首相が何故山上に殺害されなければならなかったのかも現代日本の大きな疑問も未だに残っている。

更に言えば、山上が作った手製銃で安倍元首相は本当に殺害されたのかさえ正確に解明されていないではないか。

この様な混沌は「悪魔が最も好む状況」なのである。

現にもう既に中共のスパイの顔がこの政権にはチラホラしだしているでは無いか。

この選挙は岸田系の背後での動きが無ければ石破氏は勝てなかっただろうから、岸田派は石破氏を推す理由が有った筈で、勝つと見られていた高市氏を推さない理由は岸田の思想に合わなかったからだろう。

つまり岸田氏は保守系では無いと言う事であり、多少なりとも石破氏は眼鏡に叶ったと言う事か。

故に石破氏は自力で成るべくしてなった総理では無く、これから利用される総理人形と言う事だ

政権発足していきなり解散指示を行う総理も珍しいと思う。

問題は石破氏の国民への信頼も無いままに解散に行く事で、信頼を失っている自民党が勝てない状況が更に深刻化されるだろう。

政権交代もあり得る状況である。

まあ終わっている党として終わっている政権にあまり興味は無いかな。

腐ってもタイと言う言葉も有るが、期待は難しい。

だから、日本はどんどん厳しい方向へ行くだろう。

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