人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

日本国憲法 第九条

2024年09月29日 22時15分16秒 | 日記

日本国憲法
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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御言葉選集6(4)

2024年09月28日 19時50分24秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 6 - 4. 慎重に見守らなければならない信仰の道
1959年4月12日(日)、元本部教会
マタイによる福音書 11:1-30

   1

<祈り(Ⅰ)>
不足な姿の私達がお父様の聖なる御姿を恋しながら再びお父様の御前に出て、心と体を伏せましたので、憐れみの恩恵をもって私達に接して下さいますようお願いいたします。
何十万回も愛してくださったお父様であり、数えきれないほど忍耐してこられたお父様でございます。

私達を見捨てる事なく、新しい愛で導く事を休まれなかったお父様! 今日現れた私達の姿が御心に適わず、お父様の心に喜ばれないかもしれませんが、哀れみの心をもって私達に臨んで下さい。
それでも、険しい世を避けて、お父様の心情の世界に入り込もうとする切なる心がございますので、この心をご覧になって、お父様の憐れみの愛を注いでくださり、この時間、私達を受け入れ、見つめて下さいますよう、お父様、切に願い求めます。

お父様の愛を受けるその一席は、創造されたすべての万物が慕う席であり、過去の無数の人類が慕ってきた席であり、現代の人間と未来の人間達が慕わなければならない席です。

   2

これを思い、私達がお父様の愛の心中に抱かれようとすればするほど、万物が注目しているという事実を、この時間に感じさせて下さいますようお願いいたします。お父様、切に願い求めます。
今、私達にお父様を「私の父」と呼べる心を与え、そのお父様が私のために苦労された父である事を知る心、お父様が私によって悲しみに沈んでいる事を知る心をお与え下さい。
そして、その心に感動して、お父様と呼び、お父様を掴むことができる切なる息子、娘の姿を表して下さい。
切なる心情でお父様を探し求め、お父様の事情を心配しながら現れた者は、お父様が見捨てられないという事を知っておりますので、私達の心がお父様の心に向かって走り出す事をお許し下さい。
私達の体がお父様の胸に抱かれるために走り出す事をお許し下さい。

   3

怒りと悲しみ、そして痛ましい罪の歴史を蹴り出して進み出る動きが、この時間、私達の体と心に満ち溢れるようにして下さい。
そして、私達の体と心を奮い立たせてくださるよう、お父様、切に願い求めます。
私達は、確信を持って天を探し求めて進むことができない弱い者ですので、どうかお父様が信仰の主としておられる事を願い、地が険しく、困難な試練の道が残っている中で、私達は疲れ果てておりますが、天が強く現れる事を望みます。
お父様が私達人間を探しに来られ、失望されることが多かった事を私達は知りませんでした。
人間を心配し、人間のために苦労され、望んでこられた事が私達によって成し遂げられない時、お父様は再び打撃を受け、後退せざるを得なかった事を知りませんでした。

   4

私達の望みよりもお父様の望みが大きいという事を私達が知るようにして下さい。
お父様は、私達が弱いときに強くあらん事を望まれ、御心を支え、摂理される時に強い者を求められる事を私達が忘れないようにして下さい。
私のお父様、心から願い求めます。
今、私達の心はお父様の聖姿を恋い慕い、私達の体はお父様の御姿を見たがっております。私達の手はお父様の手を掴みたがり、お父様の体にすがりつきたいと願っております。
そのような真の息子娘、お父様の愛を歌うことのできる息子娘達を迎えたいと願っているのが、人間に対するお父様の中心の願いである事を知っておりますので、私達の心がそのような心情に深く浸ることができるこの時間となるようにして下さい。お父様、切に願い求めます。

   5

今日、私達は罪に染まっており、闇の中におります。これまで私達の感覚や五感は、お父様の悲しみや嘆きを感じる事ができず、お父様の悲しみに満ちた心情を忘れ、自分自身の悲しみを訴えることに急でした。
お父様の御前に差し出すべき何も備えていない私達に、せめて自らを悲しむ心をお与え下さい。
過去の誤りを責め、今日の未熟さを恨む悲しい心情が私達の心中から溢れ出て、お父様を呼ぶことができるようにして下さい。そうすれば、お父様は私達を掴み、お父様は私達を見つめ、お父様は私達を抱きしめてくださるでしょう。
お父様、そのような心情を私達にお与え下さい。そのような心情に満ちて、不完全な自分を認識し、お父様の御前にすべてを捧げる切なる心を私達にお与え下さいと、お父様、切に願い求めます。
お父様、この場に集まった恥ずかしい子供達を憐れんで下さい。知っていると思っていた事も知らない時が来た事を知っております。

   6

自らの口で自分を弁明していた自分を否定し、再び生まれ変わらなければならない時が来た事を知っております。
すべての歴史的な悲しみは、蕩減条件を通らなければ解放されない事を知っています。
今、私達には、お父様の理念の前でカインとアベルの立場に置かれる時が来ている事を教えて下さい。
個々の心と体が争い、体が心を非難し、心が体の前に屈服する時、歴史的な終末時期が近づくにつれ、個人から家庭、教会、社会、世界に至るまで繋がって起こる事が私達の目の前に近づいている事を教えて下さい。
その時を知らず、悲しみの歴史に押し流された私達の先祖達を知っている私達も、罪の歴史を紡ぎ続ける道具に簡単にされてしまう立場に置かれています。

   7

しかし、私達には、天の善を築き上げるために使われる要素が非常に少ない事を知っている私達に、どうか話したい時でも口を閉ざす術をお与え下さい。
見たくないものを見ても、耐えることができるようにして下さい。聞きたくない言葉を聞いた時には、耳を塞ぐことができる心をお与え下さい。
天に向けるべき心が混乱の中でさまよっており、体が留まる場所を見つけられない環境に置かれているかもしれませんが、お父様、私達を見捨てず、お父様の恩恵の手で私達をお父様の胸に導いてくださると信じています。
どうか私達を憐れんでくださり、お父様の御前にひざまずいて訴える事のできる心を起こして下さい、お父様、切に願い求めます。
このような心情がなければ、永遠に悲しみを呼び起こす天の裏切り者になってしまうのではないかと恐れ、自分を掴んで泣く者となるようにして下さい。

   8

兄弟を思って悲しむよりも、自分の心を思ってもっと悲しみ、隣人の兄弟が私と同じ悲しみに陥るのではないかと心配し、彼らを助けたいという心が私達の心から湧き上がらなければ、最後に超えなければならない最後の峠を越えられない事を知っています。
ですから、お父様、この時間、愛する家族達の心をお慰め下さい。
ここまで私達を探し出してくださった摂理の目的が何であり、希望が何であるかを知り、自らを立てようとする内容を心で分析し、立て、守り、お父様の御前に決断しなければならない時である事を教えて下さいますよう、切に願い求めます。
お父様、聖なるこの日、多くの人類を祝福して下さい。ここに集まった多くのあなたの息子娘達を祝福して下さい。
天に向かって「父」と呼ぶ息子娘が数多くおりますが、「父」と呼べる真の息子娘、お父様が「私の息子娘」と呼べる真の息子娘が非常に少ない事を知っています。この悲しみを止める者は誰であり、お父様のこの悲しみを慰める者は誰でしょうか?

   9

地上には誰もいない事を知っております。
このような理念を備え、お父様の心情を通じる事ができる真の息子娘達が、あなたを探し、あなたの胸に抱かれ、万宇宙を代わって誇る事ができるその一瞬が、歴史的な終末期に、希望の最後に現れなければならない事を知っています。
お父様、ここに集まったあなたの息子娘達が、誰のためにここに来たのか、誰に仕えるためにここに来たのか、誰を迎えるためにここに来たのかを自ら反省し、孤独なお父様の前に軽率な態度を捨て、温和で謙虚な姿勢になるようにして下さい。
お父様の悲しみの中の悲しみを感じ、苦しい心情を体験し、お父様を慰め、お父様を呼ぶ事ができるこの時間となるよう切に願い求めます。
この時間、孤独な家族達が地方に広がり、お父様の御前にひざまずいて祈っている事を知っております。

   10

彼らの事情をご存知のお父様、彼らを見捨てず、彼らの主宰者となり、保護して下さい。
すべての心配をお父様が共にしてくださり、慰めてくださり、お父様の栄光を歌う事ができる喜びの時間となるよう、切にお願いいたします。
不足な者達がお父様の御前にひざまずき、礼拝を捧げようとしておりますので、どうか親しく聖別してくださり、初めから終わりまで、悪魔の一切を許さないようにして下さいますよう切にお願いし、すべての言葉を主の御名においてお捧げいたします。アーメン。


<祈り(Ⅱ)>
お父様、私達の行く道は険しいですが、この道を行けば天の人に会えるという願いの日が遠くない事を知り、この道を行く私達の歩みが疲れる事もありますが、お父様が歩まれた道であるために、行かざるを得ない人生の道である事を知りました。
今、私達が心に染みてお父様を呼ぶ事ができる切なる心が湧き上がるその時には、私よりも切なく、切実な心情で見守られるお父様がおられるという事を知りました。そして、一歩、二歩と探りながら進むことの分からない道を行けとおっしゃるお父様の声に従って進む歩みも楽ではない事を知りました。

   11

今日、残された御心の前に、私達が未熟であり、忠誠の捧げ物とならなかった事を嘆かざるを得ず、苦難の歴史を振り返り、天の前に喜びを返す事ができなかった悲しい歴史を振り返るたびに、嘆かざるを得ません。このような姿が、かつてお父様の前に祝福を求めた時の不足をお許し下さい。
お父様、人間達を見つめ、人間を探すために心を痛めるお父様の御姿を見つめる息子娘がいるならば、お父様の前に祝福を祈る事も、その御姿の前で自分の主張を広げる事もできない事を知っております。このような歴史的な悲しみが残っている事を千度万度忘れていたこの不忠不孝な子供達をお許し下さい。
今、心の奥底からお父様を呼ぶ事ができ、天地が喜ぶ事のできる、父と私達が一つになるその瞬間に新しい歴史が始まり、希望が成し遂げられる事を知っておりますが、今日の私達の心の根底がそのような心情に満ちる事ができる場所にいないため、失望し、嘆かざるを得ません。
お父様、ここに出てお父様を呼ぶ者達の姿を憐れんで下さい。彼らがお父様の前に忠誠を尽くした内容があるならば、お父様がそれを覚えておられないはずがない事を知っており、彼らがお父様のために知られずに苦しい場所にいるならば、それを知らないはずがない事を知っております。お父様、私達が天に心配をかけたとしても、お父様は私達の前に心配を残されなかったという事実を忘れさせないで下さい。
地上に悲しみがあるとするならば、悲しむ者を慰められるお父様の悲しみ以上の悲しみがどこにありましょうか? 苦痛があるとするならば、お父様を裏切って苦しむ者を抱き慰められるお父様の苦痛以上の苦痛がどこにありましょうか?

   12

お父様はご自身の威信と体面と権威を立てる事ができず、希望を残したまま歴史の道を歩んでこられる間、多くの善なる先祖達を抱いて、「私の心情を分かってほしい、私の事情を分かってほしい」と泣き叫びながら、切に訴えてこられたという歴史的な言葉を私達は聞きました。しかし、今日の私達は歴史を代弁する事もできず、歴史的な実体を証明して善の実体であると誇る事もできない姿で、お父様の前にひざまずいております。この面目ない私達の姿を、この時間にさらけ出し、告白させて下さい。そして、悪魔に弄ばれている自分達である事を悟らせるこの時間となるよう、切に願い求めます。
残された摂理の御心の前で、不忠な者は多いですが、忠誠を尽くす者がいないため、今日も明日も心配され、摂理の御心と心情を打ち明けて話す事ができないお父様の御事情を、この時間に私達が理解できるようにして下さい、とお父様、切に願い求めます。
この時間、ここに伏せておりますので、私達の心がどこに留まっているのかを考えさせて下さい。
お父様は天の御心と心情の基盤の上で動く事を望んでおられるにもかかわらず、今日の私達の心は虚空に向かって走っていないでしょうか? 目的と方向を失ったまま悲しみの場所に留まっていないでしょうか? お父様の心配の鞭を受けるにふさわしい悲しみの場所にいるのではないでしょうか? 自ら悔い改めさせて下さい。
私は残された善の園に向かって進む者であり、残された使命のために戦う天の勇士であると誇れるようにして下さい。お父様が探し求めておられる姿が自分自身である事を知り、探し出されるために努力している事をお父様の前に明らかに示す事ができる者とならせて下さい。自ら決意し、自らを清める事ができるこの時間とならせて下さい、とお父様、切に願い求めます。

   13

散り散りになった心を集めて故郷を恋しがる事ができる、再創造の御手が及ぶこの時間とならせて下さい。そして、お父様の祝福を受け継ぐ前に、まずお父様の悲しみを受け継ぎ、その悲しみの主人公となって、お父様の前に堂々と立ち向かい進む覚悟と決意を持つこの時間とならせて下さい、とお父様、切に願い求めます。
今日、統一の理念を備えておきながら、他人ではないとするこの場に追いやられたお父様、自分が望んでいないその一か所に足を早めて追いやられたお父様、善なる事を始められた方も父であり、善なる事を成し遂げられる方も父である事を知っております。お父様の御心と通じない限り、呼ばれ、集められるという目的が成し遂げられないという事を知っておりますので、その御心の前に水となり、火となり、油となり、今日も明日も御心の前に謙遜な供え物となる事ができるよう、切に願い求めます。
悪しき世を焼き尽くす事のできる油となり、火となるべきであり、善に対しては柔和謙遜でなければならない事を知っております。お父様はこのような法則をもって私達を探し求めてこられたゆえに、イエス様は「高くなりたい者は低くなり、低くなりたい者は高くなる」とおっしゃられ、犠牲と奉仕、柔和謙遜で天の道を築かれた事を知っております。
私達もその中心に染み入って、自らの不足を知り、お父様の前に無限に謙遜になる事ができ、自分のすべてを捧げる供え物とする心情が、それぞれの心と心を通じて天心にまで届く事ができるようにお許し下さい。お父様、切に願い求めます。
この日も時を知らずにさまよっている多くの人間達がおりますので、彼らの運命を握って下さい。そして、さらに、五千年の歴史を誇りながらも、哀れな境遇にある三千万人の民衆を憐れんで下さい。この民族の歴史の道は血で染まった道である事を知っており、この民族は善を阻む存在達と戦ってきた哀れな民族である事を知っております。

   14

このような民族を立てておきながら、天は摂理の御心を予告され、摂理の時を教えて下さいました。彼らの前に一つの中心を知らせてくださったお父様! この民族によって重くなったお父様の悲しみを少しでも和らげる事ができるようにして下さい。そして、そのような条件がこの民族にないならば、まず御心を知り、心情を知った私達がお父様の心情を抱き、その悲しみを抑え込む事ができるようにしてくださるよう、切に願い求めます。
今、私達の心がお父様に向かって無限に走れるようにして下さい。お父様を恋しく思い、抱きしめたい気持ちと、子供のような心情を持って、お父様を無限に慕う事ができるこの時間となり、罪に染まったあらゆる主義やあらゆる観念、あらゆる意識が私達から離れるようにして下さい。
どうか願わくば、この時間、私達の本心が表れ、本性が表れ、本来の姿が現れるように導いて下さい。お父様が喜んでくださり、お父様が再び私達を抱きしめ、万宇宙と悪魔の前に立って誇られる事ができる私達になるよう、この時間、歴史を動かして下さい。そして、一歩先に進み、お父様の前で頭を下げる姿となるようにして下さい。お父様、切に願い求めます。
終わりの日に、お父様がこのような姿を探し求められる時、小さくか弱い声ででも、「万民の悲しみを抱えて訪れてくださったお父様、不足な者がここにおりますので、どうか憐れんで下さい」と言えるようにならなければなりません。自らの不足を感じながら、お父様の呼びかける声に応じる事ができず、顔を上げる事ができない自らの不足を悔い、再び反省する事ができるお父様の息子娘達となるようにお許し下さい。お父様、切に願い求めます。
お父様に対してはこのような心を持ち、不義と悪に対しては憤り、我慢できない正義の心情を持ち、この身が祭壇に上がる事があったとしても、天の法を開拓する者として、立てられた天の精兵の体面を損なうあらゆる事に対しても屈する事なく戦う姿となるようお許し下さい。お父様、切に願い求めます。

   15

お父様をお迎えする事のできるこの時間となるようにお許し下さい。そして、孤独な心情で祈っている家族たちの上にも、均一な恩賜をもって歴史を働かせてくださるよう、お願い申し上げます。
初めから終わりまで、お父様が主宰して下さい。千千万の聖徒達と天軍天使達がお父様を取り囲む中、お父様の深く広く高い御姿を体感させて下さい。私達の目でお父様を見させて下さい。私達の耳でお父様の声を聞けるこの時間をお許し下さい。そして、天の聖霊が実体として現れるようお許し下さい、とお願い申し上げます。すべてを主の御名によってお捧げいたします。アーメン。


<祈り(Ⅲ)>
胸に釘痕を残した悲しみがどのようなものであるか、私達は御言葉を通して学びました。お父様!この御言葉を読むと、身に余る光栄であり、この御言葉を語られたイエス様の焦燥した姿が懐かしくなります。心情を抱えて嗚咽してくれる友一人もいなかったイエス・キリストの生涯の悲しい事情を同情する私達になるようお許し下さい。
人間的な生活から抜け出せなかった弟子達と、天の悲しみを知る事ができなかった人間世界の悲しい現実を見つめられるイエス様の御言葉を共感した者がいなかった事を知っています。
お父様、30余年もの間、荒野でイナゴと野蜜を食べながら修行した洗礼者ヨハネが抱いた願いとは何であったのでしょうか? 彼の願い全体、その心の中心の一つは、来られるメシアを迎える事であった事を知っています。

   16

メシアを証した彼には、メシアと一つにならなければならない天倫の縁があったのに、彼が私の心の中にあり、私が彼の中にあり、彼のものが私のものであり、彼の心情が私の心情であり、彼の生涯が私の生涯であるという、すなわちイエスのすべてが洗礼者ヨハネの心中に反映されて一体を成すべきであったのに、彼はそれを成し遂げられませんでした。
ヨルダン川岸の多くの群衆の前で手を挙げて天の子だと証した記憶を持っていた洗礼者ヨハネは、悲しく孤独な姿で鉄の牢に閉じ込められ、自分の悲しい境遇を嘆かざるを得ない状況の中で、自分が証したメシア、天が証し立ててくださったメシアに弟子達を送って、「来るべき方があなたでいらっしゃいますか、それとも私達は他の方を待つべきでしょうか?」(マタイ11:3)と問い返した場面は、歴史的に悲しい場面であり、天が超える事のできない悲しい場面であった事を私達は知りました。
歴史の流れの中に、洗礼者ヨハネの道程はそのまま残っています。新しい理念を探し求めて苦しんでいる私達、新しい歴史を待ち望みながら準備している私達が、今、洗礼者ヨハネと自分自身を置き換えて考える事のできる者達になるようお許し下さい。
天の民達が天の御心を拒んだ事実を歴史を通じて知りましたので、今日私達がそのような歴史的な過ちを繰り返す者達とならないよう導いて下さい。そして、荒野で鍛え準備させてくださったその御心を失う者達とならないよう切に願い求めます。
今日、あなたの愛する息子娘達が多く集まりましたので、今、その心と心を開き、その体と心がお父様の前に面目ない事を悟るようお許し下さい。この時間、勧告される御言葉を聞き、イエス・キリストの悲しい心情を受け継ぐことができるようにし、天的な悲しい心情を抱いて人々が知らない新しい理念の主人公を迎えることができる心と体とならせてくださるよう、お父様、切に願い求めます。

   17

この時代を導いていく主人公は誰であり、この時代に残される事のできる民族はどのような民族なのかを憂慮し、そのような姿を思い描きながら悲しい心情に浸る事のできるこの一時間とならせてくださるよう、お父様、切に願い求めます。聞こえてくる御言葉と聞こえてくる声に耳を傾け、それに同調し反応する生活をする私達が、今、自分達の歩んできた道を振り返り、新たに覚醒しなければならない時が来ました。
混乱と混沌の中に置かれ、生死を決する立場にいる自分自身を心配する状況から私達が脱する事ができるようにして下さい。信頼できない社会であり、信頼できない世界である事を知っておりますが、信頼できる理念の世界に沈み、その理念の世界と結びつけるように自ら覚醒し、自らを認識して天を掴まなければならない時が来た事を知っております。そして、心の変革を起こさなければならない時が来た事を知っています。
このような環境に置かれている自分である事を肝に銘じて、新しい自分を追い求める事ができるように導いて下さい。そして、怨恨に満ちた悲しみの峠を越え、歓喜の姿を迎える事のできる私達となるようにして下さい。その姿を恋い慕い、その世界に引かれ、その世界と和合できるようにして下さい。今日、この社会環境が自由でなく、悲しみに満ちている事を悲痛に感じ、これを阻止して戦える力と勇気をお与え下さい。永遠であり、絶対的である天があるならば、罪悪の一切を追い払う事ができる力をお与えくださるように願い、祈ります。
ミディアンの荒野で羊を飼っていたモーセ、たとえ彼の手には杖があったとしても、彼はイスラエルの運命を左右する事のできる新しい覚悟と新しい希望、新しい理念を持っていた事を知っています。また、その希望と理念を抱き、ミディアンの荒野で40年間過ごしたモーセの忠誠心を私達は知っています。
今、私達は御言葉を聞ける場におり、待ち望んでいたその方に会う事ができる場所におります。しかし、待ち望んでいたその方の前に立つ私達の姿は、新しい姿でなければならない事を知っています。お父様が「私はあなたの中にあり、あなたは私の中にある」とおっしゃった御言葉を私達は知っています。これを知る私達が、「すべてをお任せいたしますので、再創造して下さい。お父様の喜ばれる御心のままに、望まれる供え物として用いて下さい」と言えるこの時間となる事を、切に願い求めます。

   18

お父様、何も言いたくはありませんが、許されたこの時間、今、御言葉を語らなければならない時ですので、口を開かざるを得ない事を知っています。
ここに集まったあなたの息子娘達が、あなたの御姿を見たいという気持ち、あなたがいらっしゃる場所に行きたいという切なる気持ち、あなたと共に暮らしたいという切実な心情、慕う心情に満たされ、愛の心情だけがこの雰囲気を包み、再創造の栄光が現れる時間となるようにして下さい。お父様、切に願い求めます。
一つで始まり、一つで終える事ができるように、一つの主導的な働きが全体の上に現れる事をお願いし、悪魔が入り込む時間とならないようにしてくださる事を願いながら、すべての言葉を主の御名によってお捧げいたします。アーメン。



<御言葉>
今日、私達は心に引かれて動くのか、事情に引かれて動くのか、さもなくば、何らかの希望に引かれて生きています。世の中での生活もそうであり、天の道を歩む事もそうだという事を、私達は知っています。
このような立場から離れられない私達であり、自分という存在を認めるならば、私の人生というものが必ずしも私自身から始まるものではない事を否定できません。私達の社会的な環境や信仰の道も、やはり何らかの全体的な計画の下で、何らかの目的に向かって進んでおり、その形が次第に変わっていくという事実を私達は考えるべきです。

   19

これを考えると、今日の人生の旅路で勝利したと断言し、自慢でき、あるいは摂理の御心の前に堂々としていると言える人がいるとしたら、その人は、この混乱した世界で生きている人ではないと言い切れるでしょう。
そのような存在が今まで歴史の道に現れていないこと、そのような存在が歴史を支配できていない事を否定できないのならば、私達はそのような自分を心で思い描き、主義や思想、あるいは生活の過程を通して追い求め、それを探し続けていかなければならないのだという事を知らなければなりません。
そのような個人を中心に据えた家庭になり、そのような家庭を中心にして天を讃え、証する事のできる社会になり、そのような社会を中心にして天を讃え、証する事のできる国家、さらに進んでそのような世界にならなければなりません。天の前に現れて、自信を持って「お父様、私を見て下さい。お父様、私を掴んで下さい。私を見て、歴史的なすべての悲しみを忘れて下さい」と言える個人を探して、歴史は流れてきたという事を私達は知っています。
しかし、人間が堕落した事によって、希望の自分となれず、望まない嘆きと絶望の中で、未知の旅路で苦しんでいます。さらに、そのような自分を急かし、私が住んでいる社会や国家、世界を急かす何かがないかと、私達は悲しんでいます。このように、希望の自分と希望を成し遂げられなかった自分を抱え、最後の決断を下して、長い間探し求めてきたその自分を見つけ、すべての被造物の前で誇り、万物の霊長と自負できるその瞬間を目指して、人間は今日も戦い、明日も、この年も、そして今後数年後も戦い続けるという事を忘れてはなりません。この運命に置かれている自分自身を考えるとき、私達は今日、どれほど大きな責任を負っているかを知らなければなりません。
エデンの園のアダムとエバが神の御腕の中で育っていた時は、現れるすべてのものに対して自信を持って生活していました。しかし、許されていない天倫の法を破ってからは、彼らの心には自分を誇れる自信がなくなりました。ここに悲劇があり、ここに曲折があるという事を、私達はもう一度考えなければなりません。

   20

人間を放棄できない神は、創造された責任があるがゆえに、これを再び回復させるための運動を提唱されました。これが、人間を導いてきた宗教運動です。
人間は堕落して落ちてしまいましたが、神が創造の理念で立てられた一つの法則と、本来の自分を誇れる自由の理念は、創造の前から創造の後、現在に至るまで変わらずに神の心中に深く刻まれているという事を、私達は知っていなければなりません。しかし、今まで神の心がどのようなものかを解明した者はいません。神の理念がこれだと主張した者もいないのです。
天は人間のために存在し、天のために人間が創造されたと言えるならば、神と本来の人間が共に生きられる理念の世界、神の心中に隠されている本来の世界は、必然的に現れなければなりません。
今日まで、神は正常な道を歩んでこられたのではなく、堕落した人間を掴み、曲折の道を歩んでこられた事を、歴史を通してよく知っています。聖書を中心に歴史を振り返ってみると、カインとアベルから今日まで、天を信じない人間を導いて曲折の道を歩んできた事を、私達は知る事ができます。
このような歴史の流れは、最終的には一つの理念の世界に向かって進むでしょうし、天はその理念の世界に人間を追いやるに違いありません。人間の良心がその理念の世界に向かって今日も明日も苦しみながら進まなければならないと急き立てているという事も、確かな事実です。これを誰も否定する事はできません。天が立てようとしておられる理念と、私達が求めている理念が交わる瞬間が、人間にとっての希望の瞬間であり、天が導いてこられた摂理の目的である事を、私達は再認識しなければなりません。

   21

天は信仰の道を求める宗教者達、特にキリスト教徒に終わりの日を予告されました。その日が再臨の日であり、その日の主人公が再臨主だと予告されました。したがって、その一日が神の希望の終着点であり、人類の願望成就の終着点である事を否定する事はできません。
では、その日を迎えなければならない私達は、どのような姿でなければならないのでしょうか? 問題はここにあります。どのような姿でなければならないのか? 今まで真にこれを教えてくれる論理もなく、宗教もなく、心情を整理してくれる友もありませんでした。私達はそのような状況に置かれています。
私達の心は刻一刻と変わっています。社会生活の形態も変わっており、主義や思想も場所や時期によって変わっていきます。
絶対的な自分、全体の理念を代わって立つ事のできる自分、変わる事のない自分を探し求める事が信仰の道だとするならば、紆余曲折の道を歩まなければならない地上世界で、私達が持つべき心情は何であり、どのような道を歩むべきか、私達が整えて立てるべきものは何か、これらは誰しもが考慮しなければならない重要な問題です。
これらを理解したときに、終わりの日を見据える私達が、私が待ち望む太陽がどこから昇るのか分からない今、あなた方の目はどこを向いているのか、どこを見据えるべきか? これが問題です。注意深く、全力を尽くして、東の太陽が昇るところに向かって自分の心と体の方向を合わせなければなりません。

   22

人類の運命がこの道で終わらなければならないゆえに、また、この縁を断ち切る事ができず、この領域の中で信仰生活をしている私達だからこそ、注意深く見守りながら進まなければならないという事です。ですから、皆さんの前にお話しする題は「慎重に見守らなければならない信仰の道」です。
今、皆さんは自信を持っていますか? 自らを断言していますか? 自信があるなら、その自信は誰を通しての自信ですか? 個人を通して、環境を通過する事ができますか? 社会、国家、世界を通過する事ができますか? さらに、天倫があるならば、それを通過する事ができますか? これらの問題に対して自信を持てない限り、皆さんは自分自身を絶対的に否定しなければなりません。
このような立場に置かれている人間だからこそ、皆さんは常に天倫が向かっている方向はどこであり、その終着点はどのような形で現れるのかを探し求めなければなりません。自信を持って主張し誇る何よりも、そうした心が切実でなければならないのです。これを知らずに自らを誇り、自らを中心にして動く範囲が大きければ大きいほど、終わりの日に歴史的な裏切り者として登場する事になるという事を、私達は考えなければなりません。
私達は足りない者達です。私達は押し流され、状況に巻き込まれています。このような私達が、「天倫よ、私を押してくれ」と言える自信を持つ事ができるでしょうか? できません。持てません。私達の先祖達も、自信を持てない歩みで天を探し求めました。ですから、天が命じるところに行くとき、彼らは一歩一歩を慎重に進み、二歩も慎重に進み、一日の生活も慎重に過ごし、一夜の眠りの中ですら慎重に歩んできた事を、私達は知っています。
そのため、このような生活ができない者であれば、たとえ御心に従うといっても、最終的には天の御心から離れ、天の御心を悪魔の世界に返す事に貢献した者として終わる可能性がある事を、私達はあまりにもよく知っています。

     23

自信のない家庭、自信のない民族、自信のない国家、自信のない世界だからこそ、この世界の何も、誰も天倫の前に不変の存在だと主張する事はできません。このような立場に置かれている私達だからこそ、私達は一日の生活を慎重にし、一年の生活を慎重にし、一生の生活を慎重にしなければなりません。このように慎重に歩む事が、善を求めて進む歩みである事を知り、私達は歩まなければなりません。
歴史は発展してきました。個人から始まり、氏族を経て、部族へ、さらに民族を経て、国家、そして世界にまで発展してきました。過去の多くの氏族は自分たちの理念や主張を持っていましたが、時代の流れによって氏族時代から民族時代に移行するとき、氏族時代のすべての思想が民族時代の思想に飲み込まれ、また民族時代の思想は国家時代の思想に飲み込まれ、国家時代の思想は世界時代の思想に飲み込まれました。そして世界時代の思想は、今後、天倫に飲み込まれていくでしょう。歴史はこのように、一つの帰結点に向かって吸収されてきたという事実を、私達は理解しなければなりません。
このような歴史的事実を否定できないのであれば、今日の私はどのような立場で生きているのか、どのように動いているのか、どこに立っているのか、ということが問題となります。皆さんが今生きているその場所が、最後の終着点であれば問題は単純ですが、ここでまた変革が必要な歴史が残っているのであれば、皆さんは歴史理念時代、あるいは摂理理念時代、あるいは信仰理念時代の目的地に達しておらず、途中で止まる者にすぎない事になるでしょう。
天は人間と切り離せない関係を結んでいるゆえに、人類を放棄する事なく、人類を掴んで歴史の道を動かしてこられました。そして時代が変わるごとに、新しい理念をお与えになりました。氏族から部族に移行するときには、部族時代に移行できる理念をお与えになりました。氏族に対して、部族権を超えた遠くの理念を与えると、それについていけないので、良心と繋がる程度で、一歩先の理念をお与えになってきたのです。このように、氏族時代には部族の理念を、部族時代には民族の理念を、民族時代には世界の理念をお与えになり、連結してきたという事を、信仰の歴史を見ても、人類の歴史を見ても、否定する事はできません。
では、歴史の道のりに残される民族、歴史の道のりに残される氏族とは、どのような民族、氏族であるべきでしょうか? たとえば、氏族時代から部族時代に移行するとき、天倫を掴んで超えていける氏族です。そして、天倫が部族を越えて国家の理念を求めるならば、国家の理念に向かって立ち上がる事のできる群れです。あるいは、その国家の前に世界の理念が残されているならば、国家を越えて世界の理念に向かって進む事ができる群れです。このような群れが、最後に残される群れであり、同時に世界を建設する事ができる群れであり、世界を支配する事ができる群れなのです。このような氏族、部族、民族、国家、世界を完成して、歴史的に勝利する民族、勝利する国家として立つ事ができるのです。

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したがって、このような理念を求めて進む氏族が必要であり、このような摂理の御心に従って進む氏族が必要です。さらに、この摂理の御心に従うために、闘いの道を歩む民族が必要です。そうしてキリスト教が登場し、イスラエル民族が登場したのです。イエス様が統一された家庭、統一された国家、統一された理念を主張された原因がここにある事を、私達は理解しなければなりません。
では、そのイエス様はどのような方なのでしょうか? イエス様は、本来の主人公であり、最初に天の理念を備えた実体であり、天と永遠に共に住む事のできる理念を完成された実体として現れた方です。イエス様は、人類全体を導く立場では指導者であり、私達個々人に対しては父であり、本来の創造理念世界を求めていく立場では新郎です。イエス様はこれを結論づけておられました。
では、これから一つの世界、一つの理念の園、一つの理念国家が成し遂げられる時の理念はどのようなものになるでしょうか? それは、歴史の変化や革命にも変わらない理念でしょう。たとえば、親の愛のように変わらない愛の理念です。親が子供に対する心情は変わりません。変わらない天の愛を中心にして、絡み合った世界、関わるすべての場所において愛の感情が先立つその社会、その国家、その世界においては、「革命」という言葉は成立しません。その世界は、神の心情が個人の生活を通じて現れる世界です。そして、神がすべての人々を子供として思われる心情をすべての人々が体感する世界です。だからこそ、お互いに兄弟姉妹と考えないわけにはいかない心情の世界である事は間違いありません。このような世界が、人間が探し求めなければならない最後の終着点です。イエス様はこの地に来られて神を「父」と呼び、ご自身を「新郎」と呼び、さらに私達を一段高く引き上げて「兄弟」とおっしゃいました。真に感謝すべき恩恵の御言葉なのです。
イエス様は、個人の縁を通してこの地に現れた方ではありません。4千年の歴史を経てくる間に、天が多くの預言者、聖者達を通して「送りましょう、送りましょう」として来られた方でした。したがって、イエス様は天倫の背景を備え、摂理の歴史の御心を基盤として人類の歴史をまとめるために現れた方であると言えます。それゆえ、世界はイエス様を中心として今日まで進み、イエス様の名は今まで残されています。
今日のこの時代は、善と悪が交差する時代であり、善に合流していく時代です。このような時代に置かれている私達はどうなるのでしょうか? 善と悪が交差して合流した後には、どのような世界になるのでしょうか? この世界が進むと、どのような世界がやってくるのでしょうか? これは気になる問題です。今日、天の御心を持った若者達がいるとすれば、歩みを止めて天が存在する事を知り、地にある万物の希望を知らなければなりません。そして、その希望の爆発地点が交差点にとどまるこの世界ではなく、まさに自分たち自身である事に気付かなければなりません。

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このような問題を解決するために、神は今まで摂理を進めてこられました。もしアダムがエデンの園で神の前に罪を犯さなかったならば、堕落の悲しい道を歩まなかったならば、アダムは6千年が過ぎた今でも神の御心に従って歩んでいた事でしょう。皆さんはそれを考えたことがありますか? アダムが神の祝福を受け、神の御心を受け継ぎ、神の摂理を責任を持って果たし、神と共に住んでいたならば、数多くの預言者や先祖たち、そして御心を抱いて来た数多くの善なる人々が命を落とす悲劇はなかったでしょう。そうではありませんか?
私達が願い、待ち望むものは何でしょうか? 私達が希望し、探し求めるものは何でしょうか? それは、堕落していない姿、歴史に永遠に残りうる姿、変化する歴史をまとめられる姿、善の理念を立てられる姿です。そのような姿がこの終わりの日に現れるならば、私達は嘆く事はないでしょう。絶望の場所にいる事もないでしょう。
では、何が嘆きと絶望の原因なのでしょうか? それは、御心の前に立つ事のできる歴史的な主人公がいないという事実が嘆きであり、絶望であり、悲しみなのです。この歴史的な主人公を探し求めてきたのが歴史の流れであるため、私達人間はあちらこちらで倒れながらも、一度も歩みを止める事なく、この時間も歩き続けているのです。
今日、全世界の人類が再び訴えるべき事があるとすれば、それは「歴史的であり、時代的であり、未来的な主人公はどこにいるのか?」という事です。この主人公を切実に待ち望む時が来ました。歴史はすでに過ぎ去ったのに、その主人公はいつ来られるのでしょうか? もし天倫がなければ、その主人公は人類の前に現れる事はないでしょう。しかし、天倫があるゆえに、この時代の主人公はいつか必ず人類の前に現れるのです。ですから、皆さんはその主人公がどのような姿で来られるのかを知っておかなければなりません。
なぜなら、過去にも新しい主人公が来られたのに、その主人公を認識できなかったからです。今日もまた、天の御心を終わらせるための天の摂理が残っていると知っている限り、皆さんはこの時代の主人公が誰であるかを考えなければなりません。もし皆さん自身がその主人公になる自信がないならば、頭を下げ、その主人公を探そうとする決意と行動を取る事ができなければなりません。

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私達が求める最後の主人公は、この時代の主人公だけでなく、未来の主人公にもなり得る方です。だからこそ、今日、キリスト教思想の中で感謝すべき事は再臨主思想です。4千年の歴史を代わって歴史的な指導者として来られたイエス様、その時代を代わって来られたイエス様が未来の主人公として再び来られるのですから、そのイエス様は私達人類にとって必要な方なのです。人類は今や再び来られるイエス様を必要としています。再び来られるイエス様がそのような主人公として責任を負う事ができるからこそ、そのイエス様の名が人類に必要であり、今日、人類は再び来られる主に向かって進んでいるのです。これを誰も否定できません。否定できないのです。
では、終わりの日に直面している皆さんは、この時にどうすべきでしょうか? 皆さん自身がこの時代の主人公となり、未来の主人公となるべきです。そのための準備をしなければなりません。これが、天を見上げて進む者達が必ず憂慮しなければならない最後の問題であり、中心問題であるという事を忘れてはなりません。
もし皆さんがそのような事を解明できず、そのような理念を主張できないならば、皆さんは何らかの流れに巻き込まれてしまうでしょう。この巻き込まれる流れを阻止し、新しい何かを待ち望む自信がない限り、最終的な審判の場で後退しなければならない敗北の種族となってしまうという事を知っておかなければなりません。そうではありませんか?
今日の世界は再び変わらなければならない世界です。今まで世界がこのように変わってきたのですから、今日の時代は再び大きく変わらなければなりません。このような世界に生きている皆さんは、変わらずにいられるでしょうか? 変わる世界、変わる思想の中で変わらない自分でいなければならないのです。そのためにはどうすればよいのでしょうか? それを解決してくれるものが、宗教であり、真理であるはずです。
歴史は一つの目標に向かって変わらずに流れてきましたし、現在もそうであり、これからもそうでしょう。しかし、人々の心は変わっています。皆さんの心も一日の生活の中で何度も変わります。皆さんが主張する主義も、一生の間に何度も変わります。このような歪んだ人間であり、エデンで天を裏切った堕落した子孫であるという事を、私達は生活の中で感じなければなりません。

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これを止めてくれる宗教はないのか? これを止めてくれる指導者はないのか? これを止めてくれる責任者はいないのか? そのように胸を開いて宇宙の悲しみと哀れみを嘆き、叫ばなければならない時が来たのです。
歴史は時期ごと、あるいは世紀ごとに変わってきました。神の6,000年の摂理の歴史を振り返ってみると、そこには捧げ物の時代があり、律法の時代があり、信仰の時代がありました。また、旧約時代があり、新約時代があり、やがて成約時代が来る事を知っています。今、新しい理念の世界が来なければなりませんが、この世界が変わらなければ、その理念の世界は来ないのです。
ところが、今日、私達は一日にも千回、万回と変わりながらも、平然と眠っている歴史的な悲しみの果実である事を知らなければなりません。いくら自分の主義を高らかに誇ったとしても、自分自身を弁明したとしても、それは変わるべき誇りであり、変わるべき弁明です。
では、人も変わり、歴史も変わり、この地も変わるならば、これを収めることのできる心情的な態度はどのようなものでしょうか? それは「慎重にする」しかありません。慎重に見守るしかありません。こちらに来ても、心を痛めながら慎重にし、あちらに行っても心を痛めながら慎重にしなければならないのです。変わる時代を乗り越えるためには、新しい世界を恋い慕い、その世界を望み、変わるものを避け、慎重に進もうとする心を持たなければなりません。
過去の預言者達も、天に呼ばれるときは勇敢に現れました。天の前に呼ばれたときは勇敢に現れましたが、悪魔に送られたときは皆敗れました。そうではありませんか? 天に呼ばれたときは喜んで出発しましたが、天が呼ばれた目的を果たすために悪魔に向かって突き進んだときは、皆倒れてしまいました。このような敗北の足跡を持つ歴史がある事を、私達は知らなければなりません。

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では、今、私達は何を慎重に見守るべきなのでしょうか? 死の権能の中にいる、何度も死んで当然の人間を探して来られる天の御苦労があるという事を、慎重に見守るべきです。天が死の権能の中にいる私達を探し出してくださるときは、世の中の何よりも貴いものを持って来てくださり、死の権能の中にいる私達を救ってくださるときは、心配する心と切なる心情を持って救ってくださる事を忘れてはなりません。お分かりですか? 天が私達を死の権能から奪い返すときには、天が持っているすべてを犠牲にする覚悟をして奪い返されるのです。
だからこそ、私達は探し出してくださったその御苦労を知るべきです。また、探し出してくださったその愛の心情を知るべきです。そして、探し出してくださったその闘いの道のりを知らなければなりません。本来、父と私は一つなのです。したがって、お父様の心が私の心であり、お父様の目的が私の目的ですから、行けとおっしゃるところに行かなければなりません。責任を果たそうという心情に染まって行かなければなりません。億千万の苦難の道があり、どのような十字架の壁があったとしても、それを越えられるという信念を持って進まなければなりません。このような信念とお父様の心情を基に、歴史のすべてを乗り越えて立とうと決意した人がいるならば、その人は必ず勝利する事でしょう。
皆さんの中にそのような燃え上がる心情があれば、変わる世界を蹴り飛ばす事ができます。摂理の御心、歴史的な闘いが終わる事を願うお父様の心情を掴んで進む事ができる心が、信仰者である皆さんの心の中から消えるならば、皆さんは歴史と共に変わってしまう人となるでしょう。
啓示録では、「初恋を失うな」と言われています。初恋は命を捧げても変わる事はありません。天が初めて与えてくださったものを、皆さんの一生の中で最も貴重なものとして大切にしなければなりません。それを、皆さんが持っているどんな価値よりも高く感じなければなりません。この恩賜は、世の中のどんなものと交換する事もできない恩賜であり、死が幾千万倍加重されても変わる事のない恩賜だと感じる人は、必ず神の心情の中にいる人であり、神の愛の中にいる人です。そういう人こそ、神の偉業を手にする事ができるでしょう。
だからこそ、私達は慎重に見守らなければなりません。では、何を慎重に見守るべきなのでしょうか? 天がいつ、私達に貴重で価値ある贈り物を与えてくださったのか? 歴史を振り返ってみると、私達の先祖たちが歴史的な贈り物であり、2千年前に来られたイエス様が人類の前に現れた愛の贈り物でした。この感謝すべき歴史を振り返り、泣き叫ぶその瞬間に、私達の心は天と通じ合う事ができ、その心情を基に天の再創造の歴史が始まる事を、私達は知っています。
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このような心情に燃える姿、この胸の高まりを抑える事のできるものは何もないという自信を持つ者だけが、歴史的な実践の道において最大の勝利者として登場する事ができるのです。
イエス様は、そのような方でした。神は歴史の道のりで何度も私達を探してくださり、私達のために犠牲を払われました。私達は、いくら報いても報いきれない恩恵を考えた事がありますか? 私達は、歴史的な裏切り者である事を認めなければなりません。天的な贈り物を持って歴史を摂理してこられた天の前に裏切り者である事を認め、罪人である事を嘆き、少なくとも悔い改めなければならない私達です。
統一教会の信徒である皆さんは、他の人々が行かない道を行くためにこの場に来ました。そのような皆さんに、私は問いたいです。何のために来たのですか? 一生のすべてを悪魔に奪われるとしても、先祖に代わって感謝する事のできる心を持たなければなりません。現実のすべてを犠牲にする事になっても、死の場に出ていく事になっても、「私を守ってくださり、私の事を心配してくださる天の恩賜だけは忘れません」と言える心、そのような不変の心情を持たなければ、統一の理念を成し遂げるその日まで残る私達とはなれないのです。
このような心情が皆さんの胸に芽生えないならば、このような理念の世界に対する感情が皆さんの心の中で動かないならば、皆さんはどうなるのでしょうか? 彷徨い、彷徨い、彷徨った挙句、最後の瞬間には自分自身を弁明する事もできずに、死の落とし穴に落ちてしまうでしょう。このような事を知らない人がいるならば、目を閉じ、耳をふさぎ、口を閉じ、鼻をふさいでも、もう一度よく考えてみる心が必要です。立派な信仰者の態度は、人との関係においても同様に、慎重に見守る態度です。このように見守る心、慎重な心がなければなりません。このような心を持たない人は無責任な人です。
歴史は責任者を求めています。では、どのような責任者を求めているのでしょうか? それは、歴史的であり、時代的であり、未来的な責任者を求めています。そのような責任者を求めています。過去の聖人たちや歴史的な私達の先祖たちは、皆その時代に歴史的な責任を訴えた方々です。だからこそ、歴史の終わりである今日まで、その方々の言葉は私達の心を打ち続けているのです。また、その方々の行動は私達の心情を動かし、その方々の生涯は私達の生涯に方向を示してくれているのです。これを否定する事はできません。
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さて、皆さんは、一言話すにしても、聞くにしても、見るにしても、感じるにしても、慎重に見守り、注意しなければなりません。皆さんは歴史的な責任を果たすために、どれほど努力しましたか? 困難も気にせず、憤りも気にせず、追い詰められたり、追い立てられたりすることも気にせず、飢えも気にせず、死も恐れずに、歴史的な責任を果たすために自分のすべてを投げ出してみましたか? どれだけ慎重な心を持ちましたか?
もしかしたら、自分の環境に自分を引き寄せようとする摂理的な天倫の手が伸びているのではないかと、慎重に見守りながら、責任感に燃える心、それを見つけたいという心が自分の中に渦巻き、今までの自分の立場を否定して新しい考えを持つ時間を、皆さんはどれだけ持ちましたか? 持っていなければ、皆さんは顔を上げられないと感じるべきです。
エデンの園には、まず創られた天使長がいました。しかし、新たにアダムとエバが現れると、すでに環境を支配していた天使長は攻撃者になりました。攻撃者です。これが歴史の出発点でした。慣習的な歴史、あるいは伝統的な歴史を主張する人間たちは、いつも神が進まれる道に反対しました。どの時代においても協力しませんでした。なぜなら、祖先がそうだったから、子孫もそうだという事です。歴史の中で追い詰められた者達が、戦いながら歴史を動かしてきたのです。
天に仕えていたノアもまた同じでした。当時の社会の伝統を主張する者達の前では、彼は狂人にしか見えませんでした。狂人、いい加減な者、愚か者にしか見えなかったのです。アブラハムもまた同じでした。百歳にして天から祝福されて生まれた一人息子イサクを殺そうとしました。モーセもまた同じでした。このように、御心を抱いて進んだ者達を謀り、裏切り、追い出そうと扇動したのは誰だったのでしょうか? 歴史的な伝統を固守する者達でした。天があるならば、そのような者達は裁かれなければなりません。
今までの歴史的なものに対する未練を一度に断ち切り、過去の古い服を脱ぎ捨て、新しい園で新しい朝を迎え、白い衣をまとい、新しい希望を持って現れることが、復帰の理念なのです。
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このような歴史過程を経てきた堕落した人間であるがゆえに、新しい学説が現れると、それを打ちました。新しい何かを主張すれば、それを殴りました。しかし、家庭的に殴られれば、それは家庭的な使命を代行した事になり、民族的に殴られれば、それは民族的な使命を代行した事になり、国家的に殴られれば、それは国家的な使命を代行した事になるのです。そして、その時代の国家の民衆から殴られれば、それはその時代と国家と民衆の理念的な使命を代行した事になるのです。
歴史は進み、今日に至っては、民主主義と共産主義が対立しています。ですから、将来的には必ず攻撃戦、あるいは防御戦、すなわち激しい闘いが繰り広げられるでしょう。これが歴史全体の終結点となり、これで全ての問題が解決されるのであれば別ですが、そうならない場合には、ここに新しい何かが現れなければなりません。その新しいものはどのようなものになるのでしょうか? 宗教を掲げて出てくれば宗教者達に殴られるでしょうし、何らかの責任を掲げて出てくれば社会環境で拒絶されるでしょう。何らかの理念を掲げて出てくれば、世界の主義から拒絶されるでしょう。最後には、民主主義からも共産主義からも拒絶されるでしょう。
今日、この世界はそのような過程を経ていかなければならない堕落世界であるゆえに、拒絶され、追い詰められながらも、それに屈しない何かが現れなければ、この世界は新しい世界に進むことはできません。私達はその何かが必ず現れる事を知っています。また、私達はその理念を紹介するために話しているのです。その目的を成し遂げるために、私達は迫害を恐れず、今日も明日も進むために集まっているのです。
ここで、皆さんはどのような決意をしなければならないのでしょうか? それは歴史的な決意ではありません。時代的な決意でもありません。一瞬の決意でもありません。それは、天宙的な決意、天宙的な決意です。宇宙を支配する天は、必ずそのような決意を持つ群れを集めるでしょう。宇宙の理念に燃える抱負を持ち、追い詰められる群れに加わる勇者達がいて、時代に打ち負かされる事なく残るとすれば、彼らは後の歴史を動かす事ができるでしょう。
今日まで宗教は提唱してきました。イエス様は「億兆蒼生(おくちょうそうせい)を救おう」と仰いました。善の理念圏内へ人類を導き、一つの目的世界を紹介するために提唱されたのです。
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これから新しい宗教理念が出てくるとすれば、それは地上の人類だけでなく、これまでに来て去った数多くの預言者や先祖、そして御心を裏切って地獄に行った霊人たちまでを救わなければならないでしょう。新しい理念を備えた主義であるなら、そのような宗教であるなら、地上の億兆蒼生を救うのはもちろんのこと、天上にいる霊人たちや地獄にいる数多くの罪人たち、さらには天を裏切った悪魔までを救わなければならないでしょう。
そのような宗教が必ず出てこなければなりません。そのような宗教の理念が出てきて、すべての宗教を統一し、すべての宗教人の心に火を投げ込み、平和と喜びを感じられない人々の心に平和と喜びを与え、新しい理念圏内に突き進む決意と誓いを立てさせる必要があります。この地上にそのような決意、そのような誓いをさせる事のできる新しい運動が出てこなければならないのです。
皆さんはそのような事を考えた事がありますか? 探し求めた事がありますか? 想像でもしてみた事がありますか? その理念の目的はすべてを統一する事です。地上も統一し、霊界があるなら霊界も統一し、恨みに満ちている地獄までをも解放する事です。直接できなくても、理念を備えた宗教が出てこなければなりません。そのような理念を備えた宗教が出てくれば、私達が憧れる世界、すなわち善の世界と悪の世界が関係を結ぶ事ができるのです。
現代を終末と言う皆さんは何を探し求めているのでしょうか? 皆さんの生命問題に関わる理念は、極めて小さな一言から、一つの手の動きから、一つの足跡から、一つの象徴的な示唆から皆さんに接触してくるのです。これを今日の人間たちはすべて忘れています。
このような観点から世界を見渡すとき、敵はいません。悪とぶつかるとしても、悪が私の進む道を急がせるものになるのです。また、善も私を急かすものとなるのです。このような見地から、私達は何かを探し、慎重に見守る生活を送らなければならないでしょう。
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今日も明日も天に対する希望を持たなければならず、罪悪の現実、絡み合っている世の中に対する未練を断ち切り、動く事のできる心の衝撃を受けなければなりません。その衝撃が一日、一年、さらに一生にわたって続くかどうかによって、皆さんが憧れるその目的地に到達できるかどうかが決まるのです。
そのような衝撃がなければ、言葉では表せないほど焦燥感を抱く事になるでしょう。今日のこの時代は、自分でも知らないうちに心が焦燥し、恐怖の雰囲気に巻き込まれる事を感じ取る事ができる時代です。わずかでも良心のある人なら、何かしら分からない不安と焦燥感の中に自分が追い込まれている感触を感じるでしょう。多くの青年男女がこのような事を感じたとしても、その焦燥感を解決し、恐怖を克服できる何かが芽生えれば、それによって人間の希望の基盤を支配していた恐怖と焦燥が退き、良心的なものが動く事のできる世界が現れるでしょう。したがって、今、焦燥と恐怖心を超えて慎重にそれを探す心が、皆さんの歩みを急かし、皆さんの体を引っ張っていくならば、今でも決して遅くはありません。なぜなら、最終的な統合点は、物質的な理念や人間的な理念が見つけてくれるものではなく、私の心に爆発的に湧き上がってくる切なる心情だからです。最後に残る理念の一箇所に向かって動いていくのは心情です。心情が最終的に私のすべてを決定してくれるのです。
この心情だけを握りしめて慎重に探し求める者が、伝えられる言葉を聞く事ができ、見せられる幻を見る事ができ、生活におけるすべての実情を分析する事ができるのです。自分に与えられた責任を感じ、焦燥した心情と不安な心を抑えながら新しい理念を探し、動く青年男女がいて、彼らの叫ぶ声が聞こえるようなそのような心情の動きがあるならば、皆さんは彼らの心情を通して、歴史的なすべてのもの、長い間感じてきたすべてのものを一度に感じ取ることができるでしょう。
その心情を感じ、自分を覚醒して「天が探していた理念の主体はこれだったのか! 世界が探していた真の姿はこれだったのか! 天地の前に立って誇ることのできる姿はこれだったのか!」と無意識に叫ぶ瞬間を持つ者こそが、歴史的な主人公であり、摂理的な主人公であり、天倫的な主人公であるという事を、皆さんは知っておかなければなりません。
今日の皆さんは、自分が一人で生きる事のできない存在である事を否定できないでしょう。関係と縁の世界において責任を果たし、実績を残さなければならない人生の道を歩んでいる私達である事を否定できないでしょう。
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責任を果たし、実績を残せばどうなるのでしょうか? 自分を誇る事ができ、本来の人間を代弁する勝者の姿が私だったのかという覚醒が生まれるでしょう。その瞬間に、世界は皆さんのものとなり、この宇宙も皆さんのものとなるでしょう。また、今日まで摂理を進めてこられた神も皆さんの神となり、皆さんはその神の偉業を相続できる直系の子供となる事ができるのです。
これを探し求めるにおいて最も重要な事は何かというと、それは慎重に見守ることです。そのようにしているうちに、このような事が成し遂げられ、見つけられるという事を皆さんは心に留めておいて下さい。


<祈り>
変貌山で激しい戦いをしていたイエスの心は、悲しみに沈んでいました。しかし、ペテロ、ヤコブ、ヨハネは「先生、ここにいることが良いので、私達はここに幕屋を三つ作りましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために作ります」と言った弟子たちの心情を、私達は感ずる事ができます。
地上で理念の痕跡も感じ取れず、理念の世界の実状も知らなかった無知で愚かな彼らは、全天宙を主観し、包み込む事ができる理念的な環境が広がっているその場で、そのような言葉を口にする者がいなかったでしょうか。確かに彼らが思い描いていたその一場面、生きたいと願っていたその一場面である事は心で知っていましたが、現実的な過程を経て初めて実現するという事を、その時のペテロ、ヤコブ、ヨハネは知らなかったのです。
今日の世界に散らばっているキリスト教徒たちも同じように、心では天国を待ち望み、憧れていますが、天国を探すには戦いの道が残されているという事を忘れています。このようなキリスト教徒たちを覚醒させなければならない責任が私達にあるのです。
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特に終末の今日、歴史も変わり、信仰も変わり、人の心も変わり、伝統も変わり、主義も変わり、愛の心情さえも、これがなければ死ぬと言っていた心情さえも変わりつつあるこの時、変わらない理念、変わらない姿、変わろうとしても変われない存在、それ、それを持つ楽園、その世界、その主権、その指導者、その声、その生活、その環境慕っております。
お父様、塞がっていた胸を開いて下さい。今日の私が、このように焦燥し、このように狭い自分自身である事を知りました。今日の自分を乗り越えて、明日の自分を追い求める事に急がなければならない私が慕わしいのです。
統一教会の信者達が進む道に迫害があるとしても、その迫害を私が行く道を妨げる悪の要素として受け止めるのではなく、私を天の心情にもっと近づけるための刺激的な作用として利用することができる信徒たちとなる事をお許し下さい。その迫害は迫害ではなく、心情を結びつけるためのお父様の歴史である事を悟らせて下さい。
お父様の前で手を合わせ、頭を下げ、天上の法則は歴史の道と矛盾しないと言える場において、勝利の歓喜をお父様に捧げることで、お父様が「まさしく私の子だ」と言っていただける姿となる事をお許し下さい。お父様が喜ばれるとき、共に喜ぶ事ができ、私が喜ぶとき、悪魔さえも恥ずかしい顔で笑わざるを得ない心情を引き起こす事のできる子供たちの姿を、天は求めている事を知りました。そのような私を探し求める世界のキリスト教徒たちが出てくる事をお許し下さい。そして、そのような私を急がせる先頭に立つ統一教会の信徒たちとなる事をお許し下さい。お父様、心から願い求めます。
私達が願っていたものはあまりにも小さかったのです。私達が大切にしていたもの、それで終わりだと思っていましたが、それを超えて無限の愛と無限の恩寵がある事を知りました。
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お父様の恩寵の前に道を閉ざしていた自分自身であった事を嘆く心が、今この時、一人一人の信徒たちに湧き上がらせて下さい。今や心情の刺激を受け、使命感に燃えて「来なさい」と呼ばれたときに喜んで来て、「行け」と言われたときに喜んで行ける人々となる事をお許し下さい。呼ばれる声に感謝したならば、命じられる声にも感謝し、敵陣を向かって突き進む事のできる天の勇者達となり、天の世界の主人となる事をお許し下さい。ここには、矢に当たって倒れる者がいる事を知っています。そんな場においても、敗北して後退する者達にはならないように導いてくださる事を心から願い、求めます。
幸福に浸り、父と相談する瞬間がある一方で、戦場で血の涙を流し、天の恨みを訴えながら倒れる瞬間が、この息子娘たちにある事を悟らせて下さい。
喜びも責任を負い、悲しみも責任を負い、戦いも責任を負い、無念さも責任を負い、終末の審判の場に立ち、歴史の全てを拒絶し、「お父様、どうか手を挙げて私達を祝福して下さい。お父様、私を見て怒りを抑えて下さい。お父様、私を見て苦しみと無念を耐えて下さい。お父様、私を見て苦労を収めて下さい」と言えるようにして下さい。このような息子娘たちが現れる事を願い、6千年も慎重に探してこられたのです。お父様、恐れ多くも痛ましい事です。探されるその視線、探されるその姿、慎重なその足跡を、私達は忘れておりました。
今日、聞きました。そして、この時間に知りました。慎重に探せと言われた事を知りました。慎重に探してこられたお父様、私達を掴もうとしたその手を、何度も裏切ってきた私達が、お父様の体面を忘れていた自分自身である事を知りました。
今や、私達がお父様の前に立ち、父と縁を持つ生活をし、お父様に代わって慎重に進むべき道を歩めるようにして下さい。この道をすべて歩んだ後、この道を知らない他の人々に慎重に進むべき方向を教えるべき私達である事を、どうかお許し下さい。そのような天的な命令を受けた私達が、ここで悲しみの涙を流して後退する者達にはならないようにお許し下さい。
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裏切る者達を愛し、裏切る者達を祝福しようとされたお父様の心情が、怒りとして残っている事を知っています。今、終末においてエリヤが祈っていた以上の祈りをお父様に捧げ、その現れた一人の悲しみを慰める者がいない事を知り、その悲しい条件を乗り越え、その方を励ます事のできる切なる心を持つようにさせて下さい。お父様、心から願い求めます。
探し求める足取りが疲れ果てて倒れ、慎重に探し求める歩みが疲れ果てて倒れるたびに、お父様が「私がいる、私の行く道に来なさい」とおっしゃったその時が恋しいです。お父様は人間を信じて働くことができなかった事を知り、人間と相談すると天の業が遅れに遅れていた事を思い出さずにはいられません。
今日、この時は、多くの群れが必要でない事を知っています。この時は、乗り越えていかなければならない時であり、この時は、清算して進まなければならない時であり、この時は、すべてを結びつけて超えていかなければならない時であり、この時は、ありのままに現れなければならない時です。この道は不平を抱く者が進める道ではなく、自らを弁明する者が進める道でもなく、自らを誇示する者が後退する道である事を知りました。この道は、イエス様が血を流して進んだ十字架の道、延長されたゴルゴタの道である事を知りました。自分を弁明する事を知りながらも弁明せず、誇りたい気持ちを持ちながらも誇らず、怒りを感じながらも踏みにじられながら進むべき道である事を知りました。6千年の摂理の道を歩んだ天の聖徒たちを思い出すとき、本当に胸が痛みます。
しかし、それ以上に、お父様の心情がもっと苦しいという事を知ったとき、悔い改めなければならない私達なのです。これは悲しみの中の悲しみであり、言葉にできないほど後悔しなければならない事情だと知っています。私達のすべての願いがお父様のものであり、私達のすべてがお父様の所有であり、私達の心情と愛の中心が父であるのに、その事を感じる事のできない者がいるならば、その者は哀れな者である事を知っています。
イエス様も、十字架で血を流しながらも、そのようなお父様を知り、しっかりと掴んでいたので、死も恐れないとおっしゃいました。むしろ、敵に対して祝福を祈る、その堂々とした、余裕のある人格が恋しいです。その歩みが恋しいです。今日も、明日も、歴史の変化と生活の変化、自らの変化を笑い飛ばせる勝利の王子はどこにいるのでしょうか? お父様、慕わしいです、慕わしいです。
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歴史的な主人公、時代的な主人公、未来的な主人公が分かれてしまうのではなく、一つの実体として現れ、あなたの心情を人間に伝えることのできるその時、その世界、その楽園が慕わしいのです。お父様を「父」と呼べる群れが出てこなければならず、教団が出てこなければなりません。
すべてを忘れてそれを探し求める準備をし、誠心誠意を尽くして責任を果たすことができるようにお許し下さい。すべてを蕩減し、お父様の前に立つために、どんな犠牲も恐れずに駆け出す事ができる息子娘達となる事をお許し下さい。お父様、心から願い求めます。
お父様、この三千万の民族をどうするのでしょうか。この地に散らばっている27億の人類をどうするのでしょうか。民族の運命を憂慮せずにはおられませんし、人類の終末が悲劇的な黒幕に覆われている事を見るとき、悲しみを感じずにはいられません。
感じずにはいられないお父様の歴史的な悲しみの心情を知るがゆえに、無知な人々の前にこの心を伝えることによって、この心を呼び起こさなければならないので、このように言葉を発しました。お許し下さい。愚かな人々に、不忠の座を避けさせるために、このような切なる悲しみの心情を伝えております。お許し下さい。この祈りをお受け入れ下さい。愛するお父様、心から願い求めます。
十字架で亡くなられたイエス様の悲しみが、歴史的な悲しみである事を知っております。カルバリの丘で血の涙を流されたイエス様が慕わしいです。今、その代理者として、お父様の実体として歴史を笑い、歴史を叱責する事のできる一つの姿が現れる事を、人類は待ち望んでおります。天も待ち望んでいる事を知っております。そのような存在が慕わしく、今日も明日も探し求める息子娘たちとなるようにして下さい。心から願い、求めます。

   39

進むべき道をすべて進み終えず、悲しむ者達にならないようにお許し下さい。進むべき道をすべて進み終えた後も、さらに進みたいと願い、進むべき道をすべて進み終えた後に見つけられる喜びを胸に抱くために、懸命に努力する群れとなるようにして下さい。そうしてこそ、驚くべき大きな摂理の御心の前に一つの礎となるのだという事を、私達は学び知りました。今日も明日も、この御心のために動員される事をお許し下さい。
今日の世界も、この御心のために、私達の後世もこの御心のために動員される運命にある事を知っております。命じてくださり、導いて下さい。私達は進んでまいります。
お父様! 私達が訴えたいすべての心情をご存知であり、祈る事を成し遂げてくださる事を心からお願い申し上げます。残された険しい道もお守り下さい。
主の御名においてお祈り申し上げます。アーメン。 

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御言葉選集6(3)

2024年09月23日 17時01分20秒 | 日記
文鮮明先生の御言葉 6-3「信仰者の態度」(1959年3月29日)
1959年3月29日(日)、前本部教会
聖書拝読:ヘブライ書 11:1-32


<祈り(Ⅰ)>
今日、未熟な私たちが再びお父様の膝前に参りましたので、どうか哀れみを持ってご覧ください。

私たちの心と身体がお父様の肢体として認められる場所まで私たちを導いてくださることを、お父様、切に願い、望みます。


多くの人々が天国を目指して出発していますが、お父様の御心を見据えて進む真の息子娘がどれほどいるのかを考えると、心配な気持ちを抱いてお父様の前に立たざるを得ません。


お父様が私たちを呼び求められてからすでに6千年が経ちました。万物の主人として私たちを自らお呼びになり、求められましたが、私たちがその喜びの実りとして御お父様の膝前に立っているのかを自ら思う時、これまでの全ての過去をお父様の前で悔い改めなければならないと感じます。日常の私たちの全ての行いも反省しなければならず、今日を契機として、明日以降の全ての行動を憂いながら反省しなければならない立場にあることを、どうかお許しください。


天が待ち望まれる本来の姿は栄光の姿であり、求められる姿は誇らしい姿であったのに、今日の私たちはそのような姿にはなれず、呼び出すに値する本来の姿を備えることができませんでした。このように嘆かざるを得ない自分を見出すとき、御父様の前で顔向けできない自分を悔いる真剣な心を持たせていただきたいと、御お父様、切に願い、望みます。


天を目指して進む時、誰が御父様の息子娘になりたくない者がありましょうか。天を目指して犠牲の供え物となろうと誓わない者がどこにいるでしょう。しかし、御父様の真の息子娘として立つ者は非常に少なかったのです。誓った者たちを引き出して導かれましたが、天が誇れる姿として現れた者が非常に少なかったことを、私たちは歴史の過程を通してよく知っています。私たちが持っているすべての堕落の痕跡と過ちを、御父様、お許しください。


天は真の心で、真の情で、真の行動で私たちを探し求めてこられましたが、真実に応じられなかった全ての不完全さを許していただきたいと、御父様、切に願い、望みます。


今、私たちは、御父様が共に手を取り、地上を見て涙を流すことのできる真の息子を恋しがっておられることを知っていますし、娘を恋しがっておられることも知っています。多くの人々が御父様の手を取っても、それを離れることで忘れ去られたと思っています。今日、私たちは天に対する一途な心で自らの身体を持ち、命を捧げて御父様の手を取り、事情を申し上げて残ることのできる息子娘とさせてくださるよう、御父様、切に願い、望みます。


御父様、今回の期間、私たちの心を分別してくださいますように。御父様、約束されたその時を待ち望む私たちには、欠けているところが数え切れないほど多いことを知っています。歩んでいる私たちの足はすでに疲れ果て、視線も不十分な立場にあり、天を目指して良心の奥底から切に叫んでいた心さえ、悪魔が奪い取ろうとしていることを知っています。


このような状況に直面するたびに、天が悲しみの心情を持って見ておられることを私たちが理解できるように許してください。真の善が勝利の標を掲げなければならない時が近づけば近づくほど、私たちを支えることができず、忠告できない天の内的事情を私たちが知ることができるようにしてください。そうして、残された運命の道、恨みのその道を私たちが自ら歩むことができる天の尖兵となることを許してくださるよう、御父様、切に願い、望みます。


多くの人々が天を恨み、天を拒み、天を裏切る場所に立つとしても、私たちだけは不変の心情を抱いて、御父様が喜ばれることのできる歓喜の一日を目指して進む息子娘とならせてくださるよう、御父様、切に願い、望みます。


御父様、この日は聖なる日ですので、すべての人々の上に祝福を与えてください。また、哀れな三千万のこの民族を、御父様、憐れんでください。彼らの命と運命を背負う主が地上にいないことを知っています。まず御父様に召された私たちが、信じる者としてその責任を果たすことを許してください。私たち自身が御父様の前に進み、信頼できる一つの姿となり、委ねられた責任を果たさなければならないのです。そのような全体的な責任が私たちの背に課せられていることを忘れないように導いてくださることを切に願い、望みます。


心だけで動く私たちではなく、身体を聖なる生け贄として御父様の前に捧げ、御父様の栄光を顕すことができる息子娘とならせてくださるよう、御父様、切に願い、望みます。この日、この時、祭壇でひとりひざまずき、天を仰いで祈るあなたの息子娘たちを祝福してくださるよう、御父様、切に願い、望みます。


御父様、今日この時まで導いてくださったことを感謝いたします。また、残された本郷の理想としてのみ残っていることを知った私たちが、今や御お父様の心情を一身に帯び、その理想を地上に実際に成し遂げる責任と使命も残されていることを知ることができるように許してください。御父様、切に願い、望みます。


御父様、あなたは未熟な私たち人間を救うために来られました。今、最後の勝利の日を目指して進む私たちの祈る心が変わらぬように許してください。また、不孝な立場に立たないように許してください。御父様、切に願い、望みます。


御父様、私たちを顧みてください。御父様のその御旨に対して全体の責任を負っている私たち、行かざるを得ないことを知っておりますので、最後まで御父様の命令の前に、御父様の心情に、御父様の愛に対して不孝を犯さない息子娘とならせてくださるよう、切に願い、望みます。


この期間、逆境を越えて摂理歴史の道程で悲しまれる御お父様の心情を感じ、御父様の許された御旨の前で不孝な私たちとならぬように導いてくださることを、切に願い、望みます。


この時、私たちの身体と心を御父様のものとしてお受けください。不足な姿が御父様の前に集まり、ひざまずいて頭を垂れ、御父様の胸に抱かれたいと願う私たちの心を知って受け入れてくださるように切に願います。


始めから終わりの時まで御手を持ってご主宰ください。主の御名によりお祈りいたします。アーメン。




祈り(Ⅱ)
愛するお父様、私たちをこの民族の前に立たせるために、私たちが知ることなく苦労されたお父様の涙の痕が私たちの周りに散らばっていることを、どうか気づかせてください。


お父様、悲しみと嘆きの死の領域に巻き込まれ、天と縁を結べなかった不孝の子供たちでしたが、授けられた恩賜の前に畏れ多い心を抱き、己の本性を整える一つの姿となれるように許し、お父様をお迎えできるこの一時となることを心より願い求めます。


お父様が「来なさい」とおっしゃったその道があることを知ったその時から、涙の道にもお父様が共にいらっしゃることを知り、十字架の道、苦難の道、悲しみの道、鎖につながれるその道まで共にいらっしゃることを知りました。そして愛する子供たちの背後で労を惜しまず、歴史の道を歩まれたお父様のその茨の道も知っています。


今日、私たちを集めてくださるために、私たちが知らなかった数々の苦労の歴史があったことを知り、そのようにして労されたお父様の姿を心に描きつつ礼拝する私たちですが、身の置きどころも分かりません。お父様の衝撃の心情で私たち自身を捕らえてくださるよう、お父様、心より願い求めます。


天の意志があり、天の希望があるゆえに召された私たちですから、今日私たちに訪れる十字架の道も、私たちが引き起こしたものではないことを気づかせてください。


千秋万代の子孫たちまでも、先祖が苦労してきた歴史的なその縁の道を知ることを許しください。この時、私たちが無限の喜びと無限の幸せ、そして無限の希望を抱くことができる心を持っているならば、それは私たち自身から始まったものではなく、どんな人間からでもなく、すべてが天から始まり、天から動かされたという事実を、私たちの体と心に深く刻み、天が動かれたその土台を慕い、これをしっかりと抱きしめて涙することのできる子供たちとならせてください。愛するお父様、心より願い求めます。


お父様! この孤独な場に来たあなたの子供たち、彼らが進むべき方向をあなたはご存じであり、彼らが取るべき道もご存じです。彼らの心の始まりも彼ら自身から始まったものではなく、彼らが立つ警告の場所も彼ら自身のためではなく、他人のため、そしてお父様のためであったならば、最後までその心情が変わることなく導いてください。お父様、心より願い求めます。


お父様、残された苦難のこの一期間を通して、お父様に不孝を働き離れていく者たちとならないように許し、お父様が導いてこられた悲しみを感じながらも、この難しい時期を乗り越えられない子供たちとならないように許しください。最後までお父様の心情を持ち続けるために、自分を捨てて父を思い、お父様の心情を慰めることを知り、お父様の事情を理解することのできる子供たちとならせてくださいと、心より願い求めます。


今、己が立ったと言う者は倒れる時が来ており、己を意識する道を行く者はそれだけ天を裏切りやすい時が来ました。お父様、この一日、あなたの膝前に集まったあなたの子供たちが、命の警告に喜ぶ姿となり、お父様が喜びを味わうことのできるこの一時とならせてくださいと、心より願い求めます。


この時、私たちの心にはお父様のもの以外は何一つ求められません。今や私たちは今日の苦難を乗り越え、約束の園を見つめ、永遠の祝福の天国を慕わなければなりません。現れる神の祝福は言葉では尽くせないほどの大きな栄光の場であることを私たちは知っていますから、今日の私たちが、お父様に対する心情を変えることなく最後まで耐え、残る者たちとならせてください。最後まで戦い、お父様の前に立つことができる子供たちとならせてくださいと、心より願い求めます。お父様の意志を思うあなたの子供たちがいるので、彼らの上に祝福を与え、導いてくださるように、心より願い求めます。


この一日も、遠く地方にあってお父様の前に痛悔の時を持っている子供たちがいることを知っています。彼らの上に等しい恩賜の手を許し、彼らの心を見分けさせ、道中で倒れる者たちとならないように許しくださいと、心より願い求めます。


今、私たちのすべてをお父様に捧げますので、受け取ってくださいと心より願い求め、この時私たちの心がお父様のものとして動き、お父様の勝利の栄光を体験することのできる時とならせてくださいと、お父様、心より願い求めます。


残されたその後の時間をお委ねし、主の御名においてお祈りします。アーメン。




祈り(Ⅲ)
お父様! あなたの恩賜を、千万回死んでも報いることのできない者たちが、あえてお父様と呼ばせていただいていることを、どうかお許しください。私たちがお父様を祝福されたお父様として知り、呼んでいることをお許しください。そして、ただ尊い座におられるお父様としてのみお迎えしたことをお許しください。


お父様は、万軍の父であり、万宇宙の主であり、万天下の権威を持つ主人であられますが、子たちが過ちを犯したために、このように哀れな状況にいらっしゃることを、この時間、私たちが知ることを許しください。私たちが、残された摂理の恨みの峠を見据え、敗者のように弱々しい姿にならないようにお導きくださいと、お父様、切に願い求めます。


私たちが行けなくても、お父様が行かなければならない摂理の道であり、また、私たちがお父様を裏切っても、お父様は裏切られながらも悲しみを抱いて行かなければならない道であり、民族を越え、世界へと向かい、今日も十字架の道を厭わずに進まなければならないお父様であることを知っています。しかし、そのような事情を知る者は地上に極めて少なく、お父様の嘆きがこの地に深く染み込み、お父様の嘆息が地に届き、お父様の裁きがこの地に下ることを恐れざるを得ません。憐れみ深いお父様、愛のお父様、今日、私たちの心にお父様の約束の意志が生きているならば、どうか守ってください。お父様の前に跪き、声を上げて泣きながら、心情の祭壇を築く愛する子供たちとならせてくださいと、お父様、切に願い求めます。


六千年の摂理の意志がこのようであることを知り、進んでいく時に、これまで信じてきた者たち以上に信仰を持つ私たちとなれるようにしてください。どんな迫害にも打ち勝つ者となれるように、どんな無視にも打ち勝つ者となれるように、許しください。裏切り者になる可能性がある私たちですが、ここに参りました。お父様に対する一途な心を持ち、変わらぬ忠孝の子供たちとならせてくださいと、お父様、切に願い求めます。お父様、私たちが歩んでいるこの歩みが止まれば、民族の悲しみはさらに深まり、私たちの嘆息もさらに増すことを知っています。行かなければならない道を行くように、どうか急かして押し出してください。お父様の主張を掲げられる中心を築くまで、どうか最後まで追い出してくださいと、お父様、切に願い求めます。


天の心情を伝えるとき、お父様の子供たちとして立たなければ、摂理を成し遂げることができないという天の事情を知っています。お父様は地上の誰も知らないところで、このために悩んでこられたという事実を私たちが知ることを許しくださいと、お父様、切に願い求めます。今や私たち自身のすべてをお父様の前に捧げ、新たな誓いと決意をしなければならない時です。この地上に来られ、悲しみを残して去られたイエス様を、どれほど心にお迎えしようとしたのか反省させ、新たな誓いと決意をさせてください。眠っているこの民族の上に力の手を伸ばし、聖霊の恵みの雨を降らせてくださり、彼らが勝利の一日を誇り、お父様の栄光を歌うことができるようにしてくださいと、お父様、切に願い求めます。


私たちがお父様の前に立つとき、どんな困難も厭わずに進むと決意されたイエス様のその孤独な心情を体験することができました。今や、決意して立った私たちが抱いている希望を誇る時が来ました。天の側に立ち、先頭に立って進んでいけるようにしてください。天が残したいと願うものを残せるようにしてください。今、心に心を重ね、父を慰め、お父様のために戦える真の者たちを支えてくださいと、お父様、切に願い求めます。人間に対する摂理を諦められないお父様の理念があることを知り、今や現れるべき天の真心を知り、受け止め、進むべき天の悲しみを知る私たちとなることを許しくださいと、お父様、切に願い求めます。


真のイスラエルとなろうと忠誠を尽くす者たちと喜びも悲しみも共にすることをお許しください。モーセの導きを受け、荒野をさまよっていた者たちも、涙に濡れた苦しみの中で意志を裏切ったことを知っています。歴史的な転換の兆しが今日、私たちに現れているので、私たちが歴史的な悲願を果たす者となれるようにしてください。お父様が立てた意志の前において、自らの不十分さを感じなければならず、逆境の中でも父を信じ、お父様の祭壇を築こうとしたモーセの心情を代わることができる子供たちとなることを許しくださいと、お父様、切に願い求めます。


お父様の心配とお父様の苦痛とお父様の労苦は、今日私たちが受けているものに比べものになりません。無限の労苦の道を歩んで来られたお父様のその様子を見つめることができる者たちとなることを許しください。無限の苦痛の道を歩まれるお父様の聖顔を見つめることができる者たちとなることを許しくださいと、切に願い求めます。


今日私たちが経験している不条理、私たちが受けている非難、私たちが経験している迫害、このすべてを乗り越えられるようにしてください。私たちがどんな場所にいても、ためらうことなくお父様のために進んでいけるように導いてください。このすべての事実を私たちに深く教え、気づかせてくださるよう切に願い、最後の勝利の土台に立つまで、お父様が心配される心情で見守ってくださり、そのすべてを厭わない子供たちとなることを許しくださいと、お父様、切に願い求めます。


今日この時間、私たちは集まりました。天のご加護が私たちの心と体に現れることを許しください。今や私たちに悲しみがあり、孤独があり、困難があったとしても、お父様と呼ぶことのできる意識を持つ者であるならば、あえて自分という存在意識を持つことができないということを知っています。この時間、親しく個々の心と体に訪れてくださり、お父様、命の一体感を感じさせ、栄光の恩賜をお与えください。最後まで耐えて残ることができる新たな決意と新たな誓いを持ち立つ子供たちとなることを許しくださいと、心から願い求めます。


この時間も、孤独にお父様の膝前にひれ伏し、涙を飲み込んでいる家族がいることを知っています。この時間、彼らのお父様であり、彼らの友として現れ、等しい歴史をもって対処し、見守ってくださるように、私のお父様、切に願い求めます。


この一時すべてを委ねましたので、御心のままにお導きください。主の御名においてお祈りします。アーメン。




祈り(Ⅳ)
お父様、この時間、ただただ私たちの心と体が、お父様の心情に寄り添えるようにお許しください。本来のその心に触れ、お父様の心情に引き寄せられることを感じ取れる時間とさせてください。お父様が喜ばれる姿を見て、父に駆け寄り、お父様の首に抱きつけるような、切なる心情が私たちの体と心に芽生えることをお許しください。


静かに現れ、私たちが心を打ち明けるまで動かれない父であることを知りました。今、私たちの心が汚れていたとしても、父に向かう真心だけは持っておりますので、どうかこの心情を通して私たちを見つけてください。この心情を通してお導きください。体の不十分さを悔い、過去の生活が不忠であったことを悟り、知らず知らずのうちに涙を流しながら、父を「私の父」と呼べる切なる心情が湧き出ることをお許しください。


天は誰も守ることをためらわないことを知りました。そして、天を探し求める者の友となることをためらわないことも知りました。天は天に向かって叫び、涙を流す者たちの友であり、永遠に共に生きる父として現れることを喜ばれることを知りました。


お父様、静かに私たちに語りかけてくださったお父様の声が恋しく、静かに抱きしめてくださったその驚くべき愛の感触が恋しいです。そうした私たちの心を通して、父と呼べる一瞬が待ち遠しく、手を挙げて「私の父」と誇り、叫びたいのです。


遠く離れていらっしゃると思っていたお父様が、私たちの心の中におられ、その父に出会った瞬間が喜びでした。遠くにいると思っていた時、父は近くにおられ、心の中にいると安心していた時、遠くで叫ばれる父でした。しかし、今日の人間はそのリズムに気づけずにいます。


私を見捨てたと思っていたその場所が、父に最も近い場所であり、お父様が私と共におられないと思っていたその場所が、実はお父様が私と共におられたということを知らなかった過去の自分を、この時間、悔い改めさせてください。


愛する息子と名付け、愛する娘と名付けられた以上、その息子や娘を苦しみの場所に置きたくないお父様の心を知りませんでした。お父様の苦しみの心情を知らず、苦難の道に私たちを送り出した父を冷たく無情な父としか思わず、その間、父に対して不平を漏らすことも多く、恨むことも多くありました。父と私たちの間に立ちはだかっていた苦難の壁を知らずに、恨み、拒絶し、否定し、不信の立場に立ったことを、お父様、お許しください。


これは私たちの先祖が堕落したことによって招いた罪の結果であり、人類の歴史の中で恨みの血の痕を残し、預言者や先祖たちが命を落とした理由であることを知りました。今日、私たちの心の基準が高いところにあるでしょうか。その心を焼き払ってください。私の体と私の名誉を掲げ、神に代わって現れようと望んでいるのでしょうか。お父様の前に面目のないこの体を打ち、悲惨な状況に置かれている父であることを悟り、父を呼ぶことができる息子娘となることを切に願い求めます。


お父様、多くの言葉は必要ないことを知りました。言葉を伝えながら、それを実行できない者たちを見て、天が悲しまれる時、語った者は自ら偽り者となり、お父様の悲しみは日々増していったことを知りました。


しかし、再び語らなければならない状況に立たされているこの悲しい事情を、天は知っておられますが、地上の人間は知らずにいます。この事実を知りながらも、天はそのような人間たちを見捨てることができず、悩みながら再び語りかけなければならない天の立場にあることを再認識しなければならない私たちを、お父様、お許しくださいと切に願い求めます。


今日も聖なる日として集いました。言葉を待ち望んで集いましたか? 天の恩賜を待ち望んで集いましたか? 何を望んで集まったのかを知っております。今や、真の自分を待ち望む者たちとなることをお許しください。そして、真の自分から降りてくる言葉と命令を聞くことができる者たちとなるように導いてくださいと、お父様、切に願い求めます。


お父様、私はお父様の御心に従って40年間の道を歩んできましたが、悲しいことがあっても落胆することを望まず、試練に遭う時も敗北して後退することを望まなかったことを、父はご存じでしょう。お父様、今や残された道にも無数の苦難が連続して待ち受けていることを知る時、今日の不忠をお父様の前に頭を下げて謝罪せざるを得ません。どうか、歴史の悲しみをこの一身に背負わせてください。そして、残されたすべての苦難もこの一身を捧げて、天が乗り越えられるようにお許しください。


お父様が安息でき、すべての嘆きを忘れ、喜びの一瞬を迎え、お互いに首を抱きしめ、「私のお父様」「私の息子よ」と呼び合えるその瞬間が恋しいです。私たちがどのような犠牲やどのような覚悟、どれほど惨めな姿で地上に生きるとしても、その忠誠の一途な心だけはこの地上に刻み、消え去る息子娘とならせてください。そのような道を行く覚悟をしている私たちですから、どうかためらうことなく追い立て、導いてくださいと切に願います。新たな心と体で覚悟し、誓うことのできるこの時間とさせてくださいと、お父様、切に願い求めます。


与えられたこの時間に何を語りましょうか? お父様が明かされたいことを伝えますので、その心情をそのまま伝えることができるようにお許しください。そして、受け取る者の心と一体となり、一つの心情となって、お父様の大いなる胸に抱かれ、お父様の栄光を歌えるこの時間とさせてくださいと切に願い求めます。このすべての言葉を、主の御名においてお祈りします。アーメン。






<御言葉>
この時間にお話しする言葉の題目は「信仰者の態度」です。「信仰者の態度」という題目で少しお話しさせていただきます。


皆さんは今まで信じていると自認してきました。私たちは現実のこの国を希望として歩んできたのではなく、永遠の国を希望してきました。皆さんはその国を見たことも行ったこともありません。ただ、言葉を聞いてそうであろうと信じて歩んできただけです。


そのため、信仰の本質が現実のすべての条件や妥当性を備えたものだとは言えません。広大で無限の天が、私たちが想像もできない永遠の理想の園として存在し、私という存在と相反する関係を持ちながら、常に私の理想を促さなければ、そこに信仰の道が続くことができないのだと、真の信仰生活をしようとする人は感じるだろうと思います。


したがって、私たちが望むその国は、夢や想像、あるいはどんな賢い推測でも論理的に説明できるものではないことを私たちは知っています。だからこそ、その世界が私たちに必要なのです。


その世界は私たちが考える以上に無限の世界であり、私たちが考える以上に善と幸福、愛と理想の世界です。その世界こそが私たちが望む信仰の国であり、私たちが住みたいと思う信仰の天国です。その世界の本質を通して信仰する人を地上から見れば、哀れであれば極めて哀れであり、孤独であれば極めて孤独であり、悲惨であれば極めて悲惨な人と言えるでしょう。


しかし、そのような場にあっても、天の心情を体験し、その心情の中で受ける衝撃や刺激を感じる者がいるならば、どんな迫害や苦難、死の道が立ちはだかろうとも、その人が進む道を止めることはできないのだと、私たちはまず考えなければなりません。


このような心情が心を揺さぶり、その心が体を動かして四肢を動かすことで、自分でも知らないうちに無限の境地に向かって進む生活の一片一片を体験しようと努めることが、今日の世に生きる信仰者の生活だと私は言いたいのです。


このような感触と衝撃のある生活を送り、遠くにある理想を実際の生活の力として表現でき、その力の衝撃で周囲に押し寄せてくる死の波さえも押し返す心の基盤を築かなければ、天はそのような人を真の信仰者として認めるだろうと私は見ています。


皆さんがどのような立場で天に向かって叫ぶ時、自我を通して感じるものが、どんな主義や思想から感じるものよりも大きく、それが心的あるいは肉体的、さらには生活環境の核心的な光の価値として現れることを考えなければなりません。


このような重要な決定的な立場から、勝利への道を進むことが信仰生活だと言えます。したがって、この道には迫害が加わり、悲しみが加わり、十字架の道、あるいは死の道が加わってきたことを、私たちは歴史の道を通してよく知っているのです。このような歴史と伝統を持っているからこそ、今日、皆さんもこの歴史的な信仰の道を裏切ることはできない立場に置かれているのです。そのため、私たちは今日、正しい信仰の態度を取ることが何よりも大切だということを強調せざるを得ません。


このような信仰の道を歩む中で、困難の道、迫害の道、死の道を雄々しく越えていくためには、まず感じなければならないことがあります。今日、皆さんが生まれたのも、自分が生まれたいと思って生まれたのではありません。このような国に生まれたかった、このような国の国民として、このような不自由な環境に生まれたかったという意識があって生まれたわけではありません。皆さんも知らずに何かの動きに巻き込まれてこの地に生まれ、このようなことをしていることを否定できないでしょう。自分にこのような動機を与え、このような過程を経させ、このような結果として現れることを再び考える時、私という存在は自分自身を誇るものではなく、歴史を通して、全体を通して、あるいは未来を通して、理想的な領域で誇りたい何かがあることを私たちは忘れてはならないのです。


ですから、もし皆さんがこのような信念や感覚を持てないならば、皆さんの信仰の道には、今日皆さんが思っている以上に複雑なことが起こり、悲しいことが起こり、困難なことが起こり、理不尽な死に直面し、天倫の縁を裏切る信仰者の態度を取りやすくなり、天を裏切りやすい立場に立つことになるのです。


だからこそ、私たちは神の理想に対する切なる心情を持たなければならず、自分の生活をこの理想に基づいて見つめなければなりません。無限の信仰世界の理想と縁を結びながら、自分は宇宙的な縁を輝かせるための一つの犠牲であることを感じながら生きなければならないのです。このような理想が心から消えず、その感覚が心中から離れない限り、この地上で皆さんを侵害したり屈服させたりする存在はないでしょう。


私たちの先祖たちはこのような縁を多く感じていたことを知るべきです。ヤコブがイスラエルの祝福を受けた時から始まったその民族は、神の選民という理想を持っていました。この選民意識がユダヤ民族の歴史を作り、復帰摂理の歴史を継承して新しい福祉の園を建設する道で希望の基盤となったことを私たちは知っています。


このような例を通して、信仰者の正しい態度が求められる理由を理解することができるでしょう。


そのイエス様が、今日私たちが信じているイエス様であり、この信仰を確立するために生涯を捧げた方であることを、歴史を通じて信仰者たちの中で知る者はいませんでした。そのようなイエス様を抱きしめて泣く者が、この地上にいなかったのです。このように考えてみると、イエス様のその哀しみに涙を流せる心が、皆さんの生活の中で渦巻き、皆さん自身を動かす感情がなければ、それは天国に向かって進む信仰者とは言えないでしょう。私はそのように感じています。


ですから、今、私たちがこの哀れな民族を見つめる時、この民族の運命に対して悲しみ、天を求める教団が分裂し、互いに争っているのを見た時には、自分と切り離すことのできない縁を持つ立場から、それを見つめ、イエスと同じ心で、歴史を代表し、現代を代表し、未来の子孫を代表して悲しむことを知っていなければなりません。そうしてこそ、皆さんの子孫にイスラエルに許された祝福を受ける縁の条件でも地上に残すことができるということを、皆さんは知るべきです。


このような観点から見た正しい信仰者の態度とは、自己をすべて捨てることです。死の峠を越えなければ、天と喜びの縁を結び、消えるその瞬間に「お父様、イエス様のようにすべてを成し遂げました」と言うことができ、今まで結んできた哀しみと恨みの縁を終わらせ、喜びに満ちた縁を歌える瞬間を持てるべきです。このような者たちが手にするものこそが永遠の国であり、このような者たちが住む場所が天国であり、このような者たちを見つけ出すことが神の御心であることを、私たちは知るべきです。


統一教会を訪れた皆さんを見ると、哀れに思うことがあります。皆さんが統一教会を訪れた時には、何かわからない縁が結ばれているからです。足を引き返そうとしても、何か未練があってその縁が皆さんを引っ張っているのです。自分でも気づかないうちに築かれた、行こうにも行けない縁が、自分の力によるものではないなら、誰による縁であったのか? それは、血の涙の歴史を解放するために立てられた先祖たちの功績の基盤が、私たちの背後にあったからであることを知るべきです。ですから、その感触が心の中に感じられるたびに、自分の存在意識さえも忘れ、倒れながらでも天に向かって「お父様!」と叫びたい気持ちが爆発することができなければなりません。そのような心を持って、最終的に哀しみに縁づけられた歴史の峠を越え、喜びの世界と縁づけられる時、ようやく主に会う資格者となると考えるべきです。


皆さんもそうでしょうが、私も同じです。何か言葉にできない悲しみが溢れ出し、心を刺すのはなぜでしょうか? それは、自分でも知らない歴史的な恨みの縁があるからです。自分でも知らない天的な縁、地的な縁、人間的な縁が今日の私と結びついているからです。私たちはこれを知るべきです。


では、ここで天が求めているものは何でしょうか? それは、地上で哀しみの縁をすべて清算できる人が現れることです。彼は「神よ! 天の哀しみの縁を私がすべて清算しますので、哀しみに縁づけられた歴史の主となれるよう導いてください。哀しみの縁の世界から残り、その世界で天が求める姿となり、民族となるようにしてください」と言える人です。皆さんがこのような心を持っているならば、いくつもの十字架が今日、私たちの心にぶつかってくるとしても、それが終わりではないことを知るべきです。


イエス様が「すべてを成し遂げました」と言われたのはどういう意味だったのでしょうか? それは、天の哀しみを清算する道のりで、自分の死を通じてある限界までしか成し遂げられなかったということです。つまり、イエス様は自分が死ぬことで、言葉にできない哀しみが神の心にまでつながり、従う者たちには無惨な死の道が残されることになると知っていましたが、霊的な救いの基盤が築かれることを知っていたので、自分の死を堂々と受け入れたのです。


もしこの感覚が皆さんの心に湧き上がっているならば、たとえ持つものがなくても、天と地を所有する者です。また、たとえ同志がいなくても、天と地が同志として現れるのです。だからこそ、真の信仰の道は、縁の歴史を続けていく道であり、天との縁の塔を積み上げていくことにあるということを、皆さんは感じなければなりません。


世の中の友達と別れる時ですら名残惜しく、悲しく思うのに、ましてや天を中心として進んできた縁の道が途切れるその瞬間はどうでしょうか? それは、歴史的な悲しみの瞬間であり、天地の悲しみの瞬間であり、人類と天上の悲しみの瞬間であることを、皆さんは感じるべきです。


これを感じる者がいるならば、どこまで行っても不足を感じずにはいられず、溢れ出る涙をこらえられずにはいられないでしょう。また、皆さんが原理を通じて学んだように、今日私たちが立っている場所は、天と地と霊界にいる霊たちの恨みを解消するべき場です。この宇宙的な運命の祭壇に置かれている皆さんです。こうして犠牲となった自分の立場が悲しいのであれば、それは無限に悲しいことでしょう。しかし、この犠牲を見つめている無数の霊たちの悲しみ、犠牲を見つめている無数の民族の悲しみ、犠牲を見つめている天と地の無数の存在たちの悲しみが皆さんの悲しみよりも大きいことを知れば、皆さんは天に向かって進む道で落胆することも、嘆くこともできないでしょう。


私の心に感じるこの感触、私の心に縁づけられたこの衝撃が、どんな永遠の理想と結びつくために動いているのかを知り、必ずこの理想を成し遂げ、その世界で生きられるようになることを願う心が、私たちにあることを否定できないでしょう。したがって、霊があるならば、その霊が喜んで住める世界を私たちが築かなければなりません。今日、この地上で結ばれた縁の広さと高さによって、その世界を所有する権利が左右されるのです。この事実を考える時、皆さんはこう動いたり、ああ動いたり、喜ぶ時も悲しい時も、罪人という心情を抑えようとしても抑えきれないでしょう。これこそが、天を求めて進む信仰者の道であると私は知っています。


だからこそ、40年この道を歩んでいる私も、覚悟をしてこの道に出る時、「天よ! 私は天を求めて進みます。どうか今日、天と約束したこの縁を、死ぬその瞬間まで裏切らないようにしてください。天が消え、地が消え、この体が消えても、その縁に従って生き、その縁に従って死ぬことができる者にしてください」と祈り求めたのです。したがって、皆さんもこの歴史の渦中で一時代を生き、困難に直面し、十字架に直面し、迫害が加わるその瞬間ごとに、天と約束した自分を思い起こし、そのような環境の中でも天の前で涙を流し、頭を下げて自分の未熟さ、自分の不完全さ、自分の無力さを嘆きながら、天を抱きしめて泣くべきです。これが天を求めて進む者の足跡であると私は知っています。


皆さんは先生が持っているすべてが先生のものであると思ってはいけません。私のすべてを皆さんのものとして結びたいのです。神は、天が持っているすべてを歴史的、時代的、未来的なものとして残したいと望まれています。しかし、私たちはこのような心情を通して縁を結んでいる民族であること、種族であること、個人であることを忘れてはいけません。私が語る神が偽りでなく、私が望む理想が偽りでないならば、皆さんが天の御心を否定した分だけ、裁きの条件に引っかからないかと心配になります。イエス様がこのような心情を持っていたからこそ、死んでも行かねばならず、生きても行かねばならなかったのです。イエス様がそのような立場にあったからこそ、万民が同情できるのだということを皆さんは知るべきです。


私が知っている限り、皆さんは私に従い、師として敬い、誠を尽くそうとしていますが、その誠を受け取ることをためらっている師であることを、皆さんは知らなければなりません。なぜなら、天がこの地上でそのような日を迎えておらず、私自身がまずお父様の前で喜びの心を持って、誠心を尽くし、毎日毎日礼拝し、仕えることができていないからです。このように喜びで天に接することができない自分であることをよく知っているので、皆さんの誠心を拒絶する時も多く、天の前で叫び求める切なる心情を知らないかのように遮ってしまう立場を取ることも多くありました。それは私の欲望を満たすためにそうしたのではなく、縁の世界の恨みを思い、現実世界のあらゆるものを見つめた時、そうせざるを得ない事情があったからでした。だからこそ、皆さんがこのように、あるいはあのように私を見る時、そこに芽生えている天の悲しみを心配する心情を持つ者になってほしいのです。


私たちが天と出会い、喜んだとしても、それで終わるのではありません。天に悲しみがあるならば、その悲しみが今日で終わるわけではありません。だからこそ、私たちに希望があり、喜びがあるならば、それは言葉にできないほどの大きな喜びであり、地上に悲しみがあるならば、それは言葉にできないほどの大きな悲しみです。この地の悲しみを解消し、お父様の悲しみを慰めることができ、地上の喜びを歌って、お父様の心に隠された喜びを表すことができる主人公が、いつの日かこの地に現れるでしょうか? 皆さんはそのような心情を持ち、そのような主人公と出会える縁を無視してはいけません。私が皆さんを無視できないように、皆さんもまた私を無視することはできません。皆さん同士は、涙と悲しみの6千年の歴史を経て出会った人々です。


天は天の家族を待ち望み、天の家庭を待ち望み、天の民族を待ち望み、天の国を待ち望んでいました。だからこそ、天の国を待ち望む民族とならなければ、その民族は消えてしまいます。天の民族を望まない家庭であれば、その家庭も消えてしまい、天の家庭を待ち望まない個人であれば、その個人も跡形もなく消えてしまうでしょう。


私を超え、家庭と民族を超えて、国家的な基準を立て、その理念の中で悲しみを清算できなければなりません。そうして初めて、6千年間苦労され、悲しみの縁を超えた国家を望んで来られた父を慰める資格者となることを、皆さんは知るべきです。そのような場において、初めて天の息子娘と決定され、そのような場で初めて天との縁が回復され、そのような場で初めて喜びの歴史が始まることを、皆さんは知るべきです。


どの民族でも、主権がなければ、来る人が侮り、過ぎゆく人までが嘲笑するかもしれませんが、主権が立つその日から、誰も自由に通ることはできず、勝手に侮ることはできなくなります。しかし、今日の地上に広がるキリスト教徒たちは、神の国の民となっていません。天の主権を持つ天の民となっていないのです。たとえ天の民であったとしても、その民を率いる主権を持たなければ、その民族は侮られ、見捨てられることを知るべきです。


ですから、神はイスラエル民族60万の民を中心として、エジプトで天国の主権を回復しようとはしませんでした。天の主権の国を望んで、60万の民をカナンという縁の地に向けて荒野へ追いやった理由は何だったのでしょうか? それは、どんな迫害を受け、死の峠を越えたとしても、天が直接動くことのできる主権国家を築く必要があったからです。このように、死の波が押し寄せる荒野へイスラエルの民を追いやった天の心情を、私たちは知らなければなりません。どの民族でも、国家の形を整え、神をお迎えできる主権を回復できなければ、その民族は滅び、蹂躙されるしかありません。


このような観点から、天の摂理を見た時、世界中のキリスト教徒は、自分たちの教派を中心に進む時ではありません。選民主義的な思想を超えて、全ての民が天の思想を持つことを知らなければなりません。その国の民としての威厳と節操を持ち、天的な縁と地的な縁、歴史的な縁と人間的な縁を結び、天を中心に団結できる祭壇が現れなければなりません。そのような祭壇が現れない限り、地上で天国を実現することは夢に過ぎないのです。


皆さん一人ひとりには、多くの敵がいた歴史的な縁があり、欺かれた多くの預言者や先祖たちの縁が染み込んでおり、悪魔によって天が悲しんだ痛ましい歴史の縁が染み込んでいることを知るべきです。たとえ出会うのが一個人であり、対するのがただの人間であっても、その背後には天の縁と天の事情が絡んでいるかもしれません。その背後には、宇宙的な縁が結ばれていることを知るべきです。


6千年間、天は主権を探し求め、一つの主義を探し求め、一つの縁を探し求め、真の心情を持った同志を探し求めて来られました。すべてのものは出発から終結まで、この歴史的な縁を拒むことができません。この統合的な縁の歴史を継承し、出会いながら生きていく信仰生活であるならば、どんなに同志に欠ける部分があり、どんなに家族に不足があり、どんなに家族が皆さんに刺激を与えたとしても、どうして天との縁を結びたい心以上に怒りの心を持つことができるでしょうか? その縁を断ち切る時に感じる悲しみ以上の大きな悲しみが、どこにあるでしょうか?


国のために自分の身を顧みずに尽力する人を忠臣と言い、家庭や親戚のために自分の身を顧みずに孝を尽くす人を孝子と言い、家族を守り、自分の身を顧みずに犠牲となって生きる女性を烈女と言うことを、私たちは知っています。


では、今日の縁の歴史を見れば、天は新郎であり、私たちは新婦という縁を結んでいます。私たちの視線を通して見つめるこの縁、この相対的な縁には、歴史的な視線が注がれており、歴史的な叫びが響き渡っていることを知るべきです。


このような縁の心情を感じ、父を呼べる瞬間、その自我の意識が戻る時、その私は今日の私であるけれども、この地に限定された私ではなく、永遠の世界の理想の中で保証される私です。このような者を天は完成した者と名付けるでしょう。私が知る限り、真の信仰者の態度とは、何よりもまずこのような縁の心情を感じることです。皆さんが受けた恩賜も、今日の喜びの縁によってもたらされた恩賜ではなく、歴史的な縁を引き継いだ恩賜であることを知るべきです。


今日、私に天のために尽くそうという心があるならば、その心の前にまず頭を下げることを知るべきです。その心は私から始まったものではありません。それは私の心から自動的に生まれたものではなく、ある真理を通して、ある事情を通して、天と地に結ばれた縁を通して生まれたものです。これを知り、心に感じるものを大切にすべきです。心に決めたことを大切にし、心に誓ったことを大切にすべきです。その決意、その誓い、その心情に感じた衝撃を、その日限りで終わらせてはなりません。それを歴史と共に終わらせ、歴史と共に解決しなければなりません。ここに天の恩賜が共にあるのです。そのような縁を持っているからこそ、決心したその決意が歴史と共に消えてはならず、誓ったその誓いも歴史の解決点と共に消えてはならないことを、皆さんは知るべきです。


このような責任ある使命を感じる者がいるならば、天は安心して命令できるだろうと私は考えています。私たちが悲しみに打たれていると言っても、今まで天の縁を一日に何度も裏切る心を持った邪悪な人間を前にした天の悲しみはどれほど大きいでしょうか? 天はこのような人間を見つめながら、彼らを量りにかけていることを感じるべきです。


行こうにも行けない縁であり、抜け出そうにも抜け出せない縁です。天国に行っても逃れられず、地獄に行っても逃れられない縁です。だからこそ、地獄で苦しみを感じるのです。


皆さんと出会った時間が短くても、天からの恩恵を受けたのが1ヶ月、2ヶ月、あるいは1年、2年、3年、4年の歴史を持っていても、その期間だけ恩恵を受けたと考えてはいけません。「私は天からの恩恵を6千年も受けてきたのです」と言える感情を感じなければなりません。そのような心が湧き上がると、皆さんは天に対して非常に恐縮することでしょう。千万回死んでも当然であるこの私を救い立てるために苦労されたのは天であり、喜んでいるのは自分というような悪しき存在になってはなりません。


だからこそ、本来の縁の中で生き、本来の縁の中で泣き、本来の縁の中で死ぬ者、その者が歴史の主人であり、時代の主人であり、未来を切り開く者であることを知らなければなりません。天はそのような者たちを集め、そのような者たちを呼び、そのような者たちを立てるために、縁を結ぶ歴史を諦めずに摂理を進めてこられたという事実を忘れてはなりません。裁きがあるなら、この縁を捨てた者以上に恐ろしい裁きを受ける者はいないでしょう。


皆さんは統一教会についてどのように考えていますか? そのような人は、ここにあるこの建物を考えている者でもなく、世の中のどんな真理を信じている者でもなく、ここに集まったこの群れを考えている者でもありません。これを超えて、神と縁を結んだ統一教会を認識し、その統一教会の真理に従うことができ、その縁で集まった統一教会の家族の感情を通じて理解できる人が、真の統一教会の家族です。これ以上の話はしません。


次に、信仰者の態度とはどうあるべきか? それは、待ち望む心情を持つことです。縁を持っているため、待ち望まずにはいられないということを、皆さんは知るべきです。では、天は何を待ち望んでいるのでしょうか? 天は信仰者を待ち望んでいるのではなく、生活の中で実践する者を待ち望んでいます。私も信仰者になることを待ち望んでいるのではなく、生活の中で実践する者になることを待ち望んでいます。希望の国を待ち望んでいるのではなく、その国で生活できる人を待ち望んでいるのです。


今日、私たちは「信仰」という名詞を掲げて待ち望んでいますが、その段階を超えて、生活的な信仰を持たなければなりません。つまり、天と共に生活する家族、天と共に生活する国民、天と共に生活する教会となるべきです。そのように生活しながら、楽しむことができ、歌うことができ、栄光を捧げることができる信仰生活をしなければなりません。天はそれを待ち望んでいます。


歴史の過程で、多くの私たちの先祖たちの前に「信仰」という名詞を掲げ、神が彼らに対して待ち望んでいたものは何だったのか? その場で戦っている信仰者としてのその姿ではなく、最後まで残って父と共に生きることができる人を待ち望んでいたのです。天が私たちを待ち望んでいたことを知らなければなりません。神が待ち望んでいたのは、信仰のために喜んで消えていける私であり、信仰のために死んで蘇ることのできる私であり、死の権から抜け出し、命の権内で復活の価値を歌い、永遠の世界で神を父と呼んで生きることのできる、そのような私を待ち望んでいるのです。これを考える時、天が待ち望んでいた私、その私を思い出し、その私を探し出すために、皆さんはその私に会うために奮闘すべきです。


今日、皆さんがここに立っているとはいえ、皆さんは天が待ち望んでいるその私ではないことをよく知っているでしょう。天が探している私ではないということです。だからこそ、皆さんには天を思う心があり、天のために尽くす心があり、天との縁があるならば、本来の私を待ち望む切なる心が、自分の生活基準として立てられるべきです。


そのような私を見つける時には、その私を誇り、私の価値を歌い、そのような私を探し求めていた父をお迎えして生きることができるでしょう。このような私を待ち望む皆さんでなければなりません。この心情を失ってしまえば、信仰の道を歩むことはできません。


人は自分を中心に始まり、自分を中心に解決し、自分を中心に批判して進む道が最も効果的です。したがって、皆さんは天が探している相対的な私を追求するよりも、相対的な私の価値を追求するその心に加えて、直接的な縁を持つ自分を追求しなければなりません。そのような私を見つけるために泣き、戦い、その衝撃が自分の中から始まり、自分自身を揺り動かす必要があります。そして、その揺り動かされた自分と希望の私が縁を結ぶ感覚を持たなければ、難しい信仰の道を無難に乗り越えることができるということを、皆さんは知らなければなりません。


皆さんが従っているこの先生は、今日の人々を前にして無限に悲しんでいます。今日の縁に対しては無限に嘆きたい反面、希望するその私に対しては歌いたいのです。


皆さんも、そのような心を時間ごとに、人生を通して感じられるべきです。対人関係や教会関係において、どのような環境や状況でも構わず、そのような自分を見つける歩みです。それをどうして自分から捨てられるでしょうか? どうしてそれを遅らせることができましょうか? どうしてそれを躊躇してただ見ていられるでしょうか? そのような歩みを後退する者であれば、望んだその私を手に入れることはできないでしょう。そのようになれば、その時から私は嘆くことになるでしょう。今までしてきた生活を続けるならば、嘆き、失望し、自己崩壊する状態に陥り、無力で無能な自分を嘆かざるを得ないことを、皆さんは認識すべきです。


だからこそ、理想的な信仰者に最も近い基準は、その希望の私を探し、待ち望むことです。したがって、皆さんがいつその私と出会えるのか、その心情に満ちているならば、天を仰ぎ、その私を見つけるために戦うでしょう。


神が創造の理念を立てられ、待ち望んだ一つの存在の姿が、歴史の過程を通して希望の姿としては現れましたが、実質的な姿としては現れていません。神が6千年の歴史の道を耐え忍び、戦って来られた理由は、希望の日を待ち望む心、希望する人間を待ち望む心があったからです。その心が強かったからこそ、いつかその実体的な姿と出会える日が来ると知っていたので、天は今まで耐えてこられたのです。


イエス様は十字架を越えて復活の恩賜を持たれましたが、その日を誇ることなく、「再び来ます」と希望の日を掲げて去られました。その後、「再び来ます」と約束された日を待ち望みながら、2千年間戦って来られたのです。天もこのように進まれたのであれば、地上にいる今日の私たちも同じ道を進まなければなりません。さらに、私たちはこの地に建てられた本来の姿、その私を立てるために天の苦労の歴史があることを知る者でなければなりません。そして、天の体面と威厳を気にかける心を持つべきです。歴史的な希望の日を歌いながら進むべきです。すなわち、栄光のうちに来られる復活の主を迎える私はどうあるべきかを考え、その私に対する確固たる基準を持って、その私を見つける日まで、どんなことが起きようとも進むという決意と誓いを持つべきです。そうでなければ、今日までの信仰生活がむしろ自分を踏みにじる生活だったということを否定できなくなるでしょう。


イエス以後2千年の歴史を経ながら、天は再び来る希望の日を見つめながら、忍耐してこられました。歴史の道筋がそのようであったことを思う時、地上で私が家族のために奉仕し、私が家族を訪ねて助言することは当然のことです。新郎である主人公を迎えるためのその日を探すことにおいて、それは新婦として備えるべき一つの飾り物であり、一つの装飾であることを知り、それに感謝し、それを喜びながら、お父様の前で涙を流すことができるべきです。天の世界は遠く、無限の世界です。その世界において、一つの存在は無限の存在であるという心を持ち、天に対して切実に訴える場に進む時、イエス様は私を探し出し、希望をもって来た私を歓迎してくださるでしょう。それが皆さんの霊的な体験の時間であり、霊的な面においてイエスと出会う時間です。ですから、会いたいという心が皆さんに満ちることを願います。その心がない者は、お父様の前に立つ第2の自我を見つけることができず、さらにお父様の前に立つことができないという結論に至ることを、はっきりと知らなければなりません。


次に、我慢できる者でなければなりません。神もまた耐えてこられました。エデンで罪が犯されたその日から今日までの歴史の道は、忍耐の道であったことを否定する者はいないでしょう。民族に対して歩まれた神の足跡を辿ってみても、それは涙を流しながら耐え、血を流しながら耐えられた道であることを、私たちは知っています。特にキリスト教の歴史を見てみてください。愛する独り子が敵に侮られ、死の犠牲として消え去ってしまうことがあっても、天は耐えてこられました。


さらに、天が選ばれたイスラエル民族は、長い歴史を経る中で、どの民族の前に現れた時も、侮られなかったことはなく、迫害されなかった時代もありませんでした。では、その民族の神であり、その民の神であられるにもかかわらず、なぜ今まで耐えてこられたのでしょうか? 耐えられず堕落した人間が原因であったため、耐える者が勝利の一日を築くまで、神も耐えずにはいられない運命に置かれているのです。耐えられずに意志を破ったために、耐える者が現れるまでは、神の心情が解放されることはありません。つまり、耐えて神の心情を解放し、耐えて民族を解放し、宇宙を解放して、幸福の一日を望み、戦いの道、迫害の道、死の道の中で、耐えた者に出会うまで、神はこの歴史を終わらせることができず、裁きの業を行うことができないということを、皆さんは知るべきです。6千年の間、耐え続けられ、悔しい思いがこみ上げておられ、裁きの権限を持っておられても裁きを行えないという、お父様の悲しみとお父様の苦しみ、お父様の悔しさがあるので、耐えることから始まり、耐えることで終わるのです。


キリスト教には「裁き」という名詞がありますが、その裁きとは何でしょうか? 天が耐えてこられた歴史を終わらせることのできる一瞬です。天はその一瞬を待ち望んで、耐えてこられました。それは神ご自身が解決できるものではなく、人を通して解決できるのです。裁きの権限を持ち、裁きの場に立ち、敵を裁くことができるキリスト教でなければなりません。そして、私たちには6千年の間耐えてこられた神のその忍耐が支えとして必要です。歴史の道で耐えてこられたお父様の心情を体感し、それを引き継いで「お父様! 耐えてこられた心情を解き放ち、私を通して解放してください」と言える覚悟を持って進む者が必要です。6千年の間、天は意志を立てられ、先祖たちを対して、時代ごとに、また世紀を越え、言葉に尽くせぬ戦いの歴史を経ながら耐えてこられました。このように耐え続けられた神の心情に、皆さんの心全体を合わせ、さらに余裕を持って耐える心を持って現れなければなりません。そうでなければ、神が耐えてこられた心情の基準を超えることはできず、それによる解放の基準を立て、裁きを促すことはできないのです。


天は終わりの日に「7年の大患難がある」と私たちに予告されました。そして、聖徒たちのために、「終わりの日には選ばれた者さえも惑わすだろう」と仰せられました。また、「終わりの日には、この患難の中で最後まで耐え忍ぶ者が救いを得る」と言われたことを、皆さんはよく知っているはずです。


では、その忍耐の終着点はどこでしょうか? 忍耐の終着点はどこでしょうか? 皆さんはその終着点を探し求めて迷い歩いてみましたか? それはアダムの家庭でしたか? そこでもありませんでした。ノアの家庭でしたか? そこでもありませんでした。歴代の預言者たちでしたか? そこでもありませんでした。今日の私自身にも、やはり忍耐の歴史が残っており、この社会にも忍耐の歴史が残っており、私の後の子孫にも忍耐の歴史が残るだろうと考える時、私は忍耐の王子としての資格を備え、お父様の前に現れなければなりません。6千年の間耐え忍んでこられた父を慰めようという心を持ち、天の前に出ていくことを考える者が、この地上にいなければなりません。


皆さんに忍耐があると言っても、その忍耐が歴史的な忍耐の終着点からはまだ遠いことを悟るでしょう。今日、私たちの教会に縁のある人々が「疲れてもう行けない」と言います。「統一教会は良いが、難しくて行けない」と言うのを耳にしますが、そんなことを言える人は幸せな者でしょう。地上では幸せな者かもしれませんが、天を前にしてみれば哀れな者です。そうです。確かに進むのは困難です。進む道は涙の道です。見て泣き、感じて泣き、戦いながら泣く涙の道です。この涙が止まる時が今だと思っていたのですが、そうではありません。涙がさらに続く、つまりさらに忍耐の涙を求める天の心情があることを知り、天がこの哀れな私たちを待っていることを知る時、私が耐えたというその事実も天の前には顔向けできません。私は解放後今日まで歩んできましたが、まだ自分の忍耐の限界を考えたことがありません。また、終わりを望んでもいません。終わりを望むその時から、自分を振り返り、その時から恐れを感じることになるということを、皆さんは信仰生活で感じなければならないのです。


耐えてこられた父、そのお父様が私の父であり、耐えてこられたその方が私と永遠に共に生きる私の父であり、耐えてこられたその方が私が仕える新郎であるということを、皆さんは心の奥底で考えたことがありますか? ほとんどないでしょう。天の前で喜び、栄光を享受した者がいるとしましょう。その者を見て羨むよりも、忍耐の場に堂々と立ち、忍耐の場で泰然自若としていられるべきです。天の前に忍耐の姿で現れたその者が、今日のこの混乱した歴史の中で、忍耐の歴史の過程で、幸福に浸っている者よりも尊い者であることを感じるべきです。そのような心情で今日のこの混乱した時代を越えられない者は、天に対して裏切り者となるでしょう。


皆さんに物質による苦しみがありますか? それを耐えなければなりません。知識による苦しみがありますか? それも耐えなければなりません。自分自身に関する心の苦しみがありますか? それも耐えなければなりません。6千年の忍耐の歴史を裏切る者にならないように、耐え、耐え、さらに耐えなければなりません。滅びるかと思えば、残されたものが天の歴史であり、倒れるかと思えば、蘇ってきたのが天の歴史です。


皆さんは「六臣」のことをよく知っているでしょう。この民族の魂が折れかけた時、民族の精神が曇ろうとしていた時に、再び民族を新しい希望へと導いてくれた基盤は何だったのか? それは私たちが知っている成三問をはじめとする「六臣」がいたからです。忍耐の道も、死の道も、どのような苦しみの場でも、苛酷な刀剣にも耐えたその基盤があったからこそ、私たちの民族精神が支えられていることを知らなければなりません。


では、今日の天の伝統的な、天的な精神を受け継ぐ者は誰でしょうか? それは忍耐の祭壇を高く掲げる者です。忍耐の祭壇を掲げ、天に向かって待ち望んでいる者がその者であることを、皆さんは知るべきです。


このような心が空想的でなく、現実的な感情、現実的な触感から感じられるべきです。それを感じることができれば、自分が耐えると約束し、誓ったことなど問題にならないと笑い飛ばすことができ、そんな余裕が皆さんの腹の底から細胞の隅々まで動かすようになるべきです。そのような衝撃がないならば、残された苦難の度数をどうやって満たすのか? 民族が超えるべき苦難の峠をどうやって越えるのか? 世界が超えるべき苦難の峠をどうやって越えるのか? 天が超えるべきこの峠をどうやって超えるのか? 苦難の城を築き、死の城を築きながら耐える過程を経た後、幸福が現れないとすれば、神の忍耐もある一日に終わりを迎えることはできないのです。


今日、私たちは自らを信仰者と称しています。この天の理念を求めて進んでいると言っています。明日の命を歌い、明日の希望を求め、明日の希望を基準にして、明日の国、明日の民、明日の家庭、明日の私を求めて進んでいます。これが信仰の道ですが、その「明日の私」とは、まだ距離があります。その「私」は今日にはありません。ここで探しても、すべてが失望に終わります。皆さんの周囲にもありません。皆さんはまず歩むべき苦難の道をすべて歩まなければなりません。そして、待ち望むべき切なる心情の基準を高くしなければなりません。築くべき人類の歴史が残っている限り、それを清算しなければ、その日が訪れることはありません。
アーメン

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日本の諂いの迎中外交の先に有るもの

2024年09月22日 16時26分25秒 | 日記
■日本の岸田政権の中国への独裁政権への諂い姿勢には呆れ果てる

安倍元首相が暗殺されて以来、ここ数年の日本の外交は大きく変わってしまった。
特に現岸田政権の外交姿勢は「話を聞きます」と言うフレーズは一切聞かなくなった。
「聞く聞く詐欺」かの様で、今や国民に目を向けずに何処を見ているのか解らない。

そして、まるで中共政府を見て政治をしている様な河野氏や、木原氏は大臣の器ではない。
中共と自らの財布を第一に考えており、国民が二の次、三の次であり、国全体がその犠牲になっている事を理解できていない。

これでは中共が世界に対して蔓延るだけであり、民主世界に対して「面従腹背」で、まるで中共の提灯持ちその物である。

彼らには本当に「知恵が無い、あっても浅はかな過ぎる内容でしかない」状態で、まるで自分で考えて仕事をしていないで、入れ知恵なのであろうか。

現状の日本の国内での中国人の日本国内での行動の実態である所の「面従腹背」状態も知らないのであろうし、国外の行動も然りである事を彷彿させる事態だ。
日本には日本の生活ルールがあるが彼らはそれは無視していて、街を廃れさせる要因になっている。
また、彼らは仕事をさせれば表面は良いが、徐々にやっつけ仕事で質の悪さが露呈して来ると言う事態であるし、購入した輸入製品も「安かろう悪かろう」を地で行く状態となっている。
これらは直ぐに使えなくなってしまうので、世界中にゴミを輩出している様である。
日本企業の努力で何とか一歩手前で踏みとどまっていると言った状態で有ろう。

今日の中共の対応には日本国民が本当に迷っている事態になっているが、全く働こうとしない、国民を守ろうともしない、中共の言うがままの対応し出来ないでいる。

彼らは一体何処の国の人間だろうか?

4月の中共、深圳における日本人へも暴行事件が発覚したのは6月であった。
それも、日本人児童と親への暴行を使用とし、中国人が殺害された事が発覚したのと同月である。
更に今月は日本人児童が殺害されたにもかかわらず、中国政府からの謝罪すらないし、犯人の名前も、動機も公表されずにいる。

これは公平外交等は微塵も無いし、もはや隷属外交となっているのが現状であって、日本の国民が望む外交では無い!

被害者であっても何も知らされず、解らずに、怒り、悔しさ、悲しみを解消される事も無くただ迷わせるだけであって、これでも幸福に暮らせと言えるであろうか?
亡くなった日本人児童をどの様に弔えと言うのであろうか?

日本国民は本当に失望している!!!

岸田氏、河野氏、林氏、上川氏を初め日本政府の弱腰外交、無能外交であり、自分の立場しか考えない政治家の行動で政治が務まるのであろうか?

もうこんな薄っぺらな政治屋は要らない!!!

日本は変わらなければなりません!


'24.09.21

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御言葉選集6(1,2)

2024年09月15日 19時31分18秒 | 学習
アハブ王が天を裏切り、イスラエル民族を弄んだと言っても、それは民族的なものでした。しかし、今日では世界的に人々が物質を偶像化し、その文明の奴隷となり、自分の生命の中心がどこにあるのか、自分の進む方向や位置がどこなのかを知らず、天を求めることができずにもがいています。このような者は、かつてアハブ王に囚われた者たちと同じです。


今日、私たちの前には世界的な神の審判が残っています。アハブ王とイスラエル民族の前に審判があったように、終末にある私たちの前にも偶像の束を打破すべき審判の日があることを私たちは知っています。このような時、天はエリヤを迎えた以上の悲しい心情で今日の皆さんを迎えていることを夢でも考えたことがありますか?ないとするなら、反省しなければなりません。


アハブ王を中心としたイスラエル民族が死んでも聖殿であり、生きても聖殿であるという心で天を迎え、天の伝統を継承し、天の血族を築くために努力すべきでしたが、そうしなかったために、アハブ王を中心としたイスラエル民族は血の戦いで終わってしまったことを私たちは知っています。このような歴史的な実情は、時代的な実情として今日に再現されています。


世界も世界ですが、私たちはこの時代を見つめ、私たちの民族を理解するべきです。私たちは大韓の子供たちです。先祖から血と肉を受け継いだ大韓の血族です。私たちは国のため、民族のため、民族の未来に光明の朝を迎えさせるために、民族精神を鼓舞するために血を流し涙を流した忠臣たちが多くいたことを理解しなければなりません。どの民族の歴史にもない悲しみと悲劇の惨状を経てきた民族であり、そのたびに多くの忠臣烈士たちが血の道を歩んできた歴史を持つ民族であることを知っておかなければなりません。


このような歴史的な伝統を継承し、人倫的なものよりも天倫的なものを持ち、アハブ王時代の偶像のようなこの世界の文明を押しのけて、天が君臨できる新しいエルサレム聖殿を建設する者は誰かを心配する時が来ました。


今、私たちは心を広げなければなりません。自分の悲しみよりも民族を抱きしめて悲しみ、さらに世界の人類を抱きしめて悲しみ、さらに神と天地のために悲しむことができる者にならなければなりません。


堕落権内で嘆き悲しんでいる民族を抱きしめて、天の代わりに泣ける心情を持つ主人公はどこに現れるのでしょうか?もしこの地に万王の王である主が降臨するとすれば、間違いなく世界的な理念を持って来ることでしょうし、世界的な指導者として人類と心的な縁を結ぶために来ることでしょう。


しかし、今日、皆さんがそのようなことを考えないなら、主は皆さんとどのような関係も結べません。そのような理念を持って統治される主が来ても、そのような理念の世界を夢見たり考えたりしなければ、その世界と何の縁も結ぶことができません。思考し、心配し、空想することさえしないといけない状況に皆さんは置かれています。


皆さんは個人を心配したことがありますか?苦しんでいる家庭を心配したことがありますか?どのような社会や国家を心配したことがありますか?そうできなかった自分を見つけたなら、宇宙歴史の前に罪人である自分の正体を暴露し、天の前で悔い改める心を持つべきです。


皆さんにそのような心すらないなら、この民族はどうなるのでしょうか?5000年の歴史を誇る韓民族ですが、神の摂理の歴史を経て苦難の歴史を経て残された民族ですが、そのようなものがなければ、世界史、あるいは世界文明権内で、あるいは神の摂理権内で何をもって貢献できるのでしょうか?


私たちが誇るべきものを持っていたとしても、それが天と天的な縁を結ばなければ、むしろ天に悲しみを増すだけであることを私たちは理解しなければなりません。


歴史は流れ、流れ込む群れたちが主役でした。歴史を支配してきた主義はそのような群れによって作られました。高台の広い部屋で贅沢に暮らし、盛大なご馳走を楽しんでいた人々がどのような主義を作ってきたわけではありません。流れ込む席、踏まれる席、哀れな席にいる者たちが作り出したのです。彼らは足を踏み出すとき、涙の足取りを運んだ者たちです。


民族が腐敗し、世界が混乱するとき、世界を抱きしめて天の代わりに涙を流す群れは世界的なエリヤの後継者たちです。そのような群れはエリヤが心配していたイスラエルの民に代わって天の前に立つことができるでしょう。「エリヤはエリヤ、私は私」と言っていたら失敗します。天が泣き、天が悲しまれるときに、共に泣き、共に悲しむことができる私たちでなければなりません。


天は単なる言葉だけの存在ではありません。言葉と実体と心情と愛の神です。しかし、私たちは言葉さえも知らない者となっています。体が何かもわからず、自分の心情がどんなものかも理解していません。天が主張する天の愛がどんなものかも知らない私たちです。


皆さん!神の愛が何であるか説明できますか?心情がどんなものであるか説明できますか?自分自身がどんな存在であるか説明できますか?自分が言う言葉がどんな意味を持つか説明できるものを持っていますか?持っていません。ありません。


今日、人々は自分の優れた点を自慢します。しかし、それを自慢しても、何世紀も続けて自慢できるのでしょうか。過去のどの時代で自慢された名前は何世紀も続きました。それゆえ、人間が唯一自慢できることがあるとすれば、それは他の人が進むことのできない道を進むことです。そのような民族は滅びないでしょう。


これまで全ての民族が共通して進んできた道を進んだ人が民族を救い、世界を救ったわけではなく、他の人が進むことのできない道を進んだ人々が民族を救い、世界を救ってきたのです。キリスト教が歩んできた道もそのようなものです。今日の世界のキリスト教は嘆くべき時です。神を信じ、イエスの十字架の死を知り、イエスの後に聖霊が送られて2000年間努力してきた歴史を知っているとしても、現実のキリスト教を見て安らかな眠りを得ることはできないでしょう。


イエスの時代のユダヤ教徒たちは、この時代の教会よりも教会に行くことを楽しんでいました。この時代の教会よりも儀式や形式が整っていました。言葉がなかったわけではなく、歴史がなかったわけではなく、自慢する条件がなかったわけではありません。それなのに、なぜそのようなユダヤ教を天の前で自慢できなかったのでしょうか?それは彼らが天の新しい摂理を知らなかったからです。


それゆえ、イエスは今日のキリスト教徒たちが自分の死を思い起こし、「イエスの心情が私の心情であり、ゴルゴタの山で釘付けにされたイエスの体が私の体である」と考え、自分のために涙を流すことを望んでいます。そのような友を待ち望んでいます。また、死ぬときに言えなかった心の奥底で心から慕っていた花嫁を待ち望んでいます。その花嫁と出会う日には心を開いて彼の全生涯を語り、6000年間歴史を築いてきた神の内なる心情の悲しみを語ることができるでしょう。その内容は聖書の言葉とは異なるでしょう。


もしイエスの悲しみと神の悲しみがあなたの愛する子供たちの前にあったとしたら、どうしますか?あなたの愛する親の前にあったとしたら、どうしますか?


時は次第に終末の解決点に向かっています。歴史も流れ、宗教も流れ、主義も流れています。このような問題を解決しようとすると、ここでも戦いがあり、そこでも戦いがあり、ここで嘆き、そこでも嘆きが続いています。


この混乱の時期に、信じられないほどに信じられず、制御できない時期に、エリヤが現れて新しい心情を吐露したように、歴史で見つけることができなかった天の心情を吐露する新しい声は存在するのでしょうか?皆さんはそのような考えをしなければなりません。


主義と思想は今日、皆さんを刻々と刺激しています。しかも、この時期は妙な時です。歴史に対する恐怖が皆さんを追い立てており、その恐怖と戦って個人的に勝利の歌を歌う者は誰でしょうか?いません。


それでは、この歴史はどこへ行くのでしょうか?死が近づいている中で、新しい希望と新しい解放を叫ぶ声はどこから生まれるのでしょうか?早く現れなければなりませんが、これが問題です。


今、皆さんが想像できなかった新しいものが出てこなければなりません。皆さんが想像もせず、夢にも思わなかったものが出てこなければなりません。


この時代は宗教の戦いを経ている時代です。これからは民族の戦い、国家の戦い、世界の戦い、主義の戦い、宗教の戦いがすべて過ぎ去るでしょう。心の戦いが残るでしょう。それゆえ、皆さんの心が皆さんが知らない何かに巻き込まれても、それを勝ち取ることができるようにしなければなりません。そのような時が来ました。


この世界には多くの人が住んでいますが、神との縦の関係を中心に見ると、皆さんとは全く関係がありません。3000万の民族が皆さんと切っても切れない関係で結ばれていると思っても、神との縦の関係を中心に見れば、全く関係がありません。


カルメル山の頂上でエリヤが「神よ、私だけが残ったのです」と叫んでいたその叫びは、エリヤの叫びだけであってはなりません。今日の終末に審判を受ける群れの叫びでもなければなりません。


皆さん、そのような立場に置かれていませんか?皆さんの命を誰が保証してくれますか?親も愛する配偶者も子どもも国家も主義も保証してくれません。皆さん、自分自身をどう考えますか?果てしない渦に巻き込まれて自分の正体を説明できない空しい自分を自慢しないでください。


今日、世界の人類はカルメル山で戦っていたエリヤの闘争の歴史を経なければなりません。天に向かって「私だけが残ったのです」と訴えるエリヤのように、天に向かって訴えることを学ばなければなりません。自分も知らない歴史の道を経て歴史の終点に立っている自分たちを救う主義がないことを理解したなら、天に向かって頭を高く上げなければなりません。頭を高く上げて、心が向かうところ、心を解放してくれるところ、それを望むべきです。このような欲望に心をこめなければなりませんし、私たちの中に命が活気を帯びるべきです。そして、私たちがしなければならない残されたことがあることを認識しなければなりません。


今日、イエスがゴルゴタの山で天の代わりに「すべてが成し遂げられた」と言ったように、そのような言葉を言える者がいますか?「天よ、私だけが残ったのです」と言える者でなければなりません。そのような時が皆さんに迫っています。


審判の一日を契機に新しい歴史を始めようとする摂理の意志が皆さんの前に残されている限り、皆さんは「私だけが残ったのです」と言うことができるべきです。なぜなら、なぜなら、なぜなら。


今日、私たちはどの宗教も信じられず、どの主義も信じられず、どの家庭、親戚、師も信じられず、どの道も信じられません。私たちはそのようにどれも信じることができない立場に置かれています。


皆さんは天に向かって「私だけが残ったのです」と言わざるを得ない立場に置かれています。このような立場で取るべき態度は、天に向かって「私だけが残ったのです」と叫ぶことです。皆さんは心からこのように叫ばなければなりません。


今、皆さん各自が闘争の過程を経なければなりません。成し遂げなければならない天的な意志があり、探さなければならない民族があり、区別しなければならない教団があります。それを知り、天の側に立つ者たちは意志のために動員されなければなりません。

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御言葉選集6(1)

2024年09月15日 19時22分42秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 6 - 1. エリヤに対する天の心情 (1959年3月15日)
1959年3月15日(日)、全本部教会(青坡洞 1街)
聖書拝読:列王記上 19:1-21


<祈祷(I)>

今日、あなたが許してくださった日を迎え、不足な自分たちを心配しながらひざまずき、あなたの御前に集まりましたので、私たちの心がどこにあるのかを洞察することができるようお許しください。

お父様が命の道を切り開いてこられた道は、極めて厳粛な道であり、極めて聖別された道であったことを私たちは知っております。

お父様、この場所に集まったあなたの息子娘たちを憐れんでください。ここに尊厳なるお父様の姿を示してください。そして、許された勝利の基準を立て、聖別された群れと認めてくださるよう、切に願い、求めます。

残された摂理の道が悲しみの道であるなら、その悲しみを防ぐ責任が私たちにあることを知っています。そして、天の無限の悲しみを感じることができない者は、その悲しみを責任を持って背負うことができないということも知っています。残された天の悲しみと戦いを責任をもって担うことが求められていることを知っていますので、どうか私たちが天の悲しみと戦いを担う者となることを許してください。

このことを果たすためには、誰よりも大きな悲しみを感じなければならないことを知っており、誰よりも不当な立場の戦場でも脱落者にならないことが求められていることを知っています。

お父様、私たちの体が天の前に捧げられる勝利のいけにえとなるかどうか、心配する気持ちを持ちながらこの時間に参加している群れであることをお許しください。切に願い求めます。

イエス様が来られた後、2千年の歴史が過ぎ去りましたが、イエス様がカルバリの山で積み上げられた、天が共に泣かれた真の勝利の祭壇はこの地に現れていません。天が動かざるを得ない、地上の人々が動かざるを得ない、天と地が交わる世界的なゴルゴダの山が現れなければならない時が来ており、ゲッセマネの山が現れなければならない時が来ていることを知っています。この責任を果たす多くの聖徒が必要です。しかし、天が喜んで探し出してくださる群れがいないことを知れば知るほど、お父様の心情を憂う息子娘たちはこの地を見て嘆かざるを得ない現実を私たちは知っています。

お父様! あなたの願いの一日を待ち望むお父様の切なる心が大きければ大きいほど、お父様のために忠誠を尽くす一つの姿がこの地に現れることを待ち望む心情も大きいことを、許し理解させてください。

今日、私たちの心と体をすべて捧げて、お父様の手に取り込まれ、お父様の心中に立てられる息子娘となり、歴史のすべての悲しみを担う姿となることをお許しください。

お父様が直接働かれるその働きを通して、私たちの心と体が新たに復活するこの時間がなければならないことを知っております。過去一週間、私たちに委ねられた責任を果たせなかったことをお許しください。お父様の前に忠誠を尽くせなかったことをお許しください。お父様の心情を掴んで涙ながらの生活を送れなかったことをお許しください。私たち個々を探し出すために、あなたが労を惜しまず歩んでくださった事実を忘れたことをお許しください。

今日この時間、新たな決意と新たな決心をし、各々過去のすべての不足を認識し、お父様の心情を中心に自らの心を掴んで進む息子娘となることをお許し下さる様に、求めます。

お父様、この日は聖なる日であるので、困難な状況にある三千万人の民を憐れんでください。彼らの友となってください。彼らの指導者となってください。彼らの命を復活させる主となってください、お父様、切に願い求めます。

お父様、彼らの希望の中心となってください。彼らがあなたから離れては動けない群れとなることを許してください。彼らがあなたのもとで一つの民族となり、一つの教団となることを許してください、お父様、切に願い、求めます。

この民族に許される祝福を、この時間を通して授けてくださることを切に願い、求めます。勝利の日を担うあなたの息子娘たちが、その使命と責任を果たすことができるよう許してください。この使命を成し遂げ、あなたの栄光を現さなければならない責任が、この民族にあることを私たちは知っています。その責任を果たす過程には無限の試練があることを知っていますので、その試練の道でも責任を全うし、あなたに代わって立ち上がることのできる息子娘たちとなることを許してください、お父様、切に願い求めます。

この使命を知らない多くの人類にも祝福を与えてください。生死の波に飲み込まれていくこの時に、お父様、あなたにしっかりと縋りつき、あなたの息子娘となる群れが、この人類の中から多く現れることをお許しください。

人類を裁きの鞭から救う全体の責任を果たし、お父様の御前に立つことのできる息子娘たちが、この地上の人類の中から多く現れることを許してください、お父様、切に願い求めます。

このような使命を、このような時期を、このような責任を知らない者たちがいるならば、私たちを通して警告し、彼らが終わりの日の責任と使命を果たすことができるように導いてください、お父様、切に願い求めます。

今日、この日を祝福してください。地方に広がり、孤独な心情を抱えながら、お父様の御前に訴えている者たちの上に、あなたの恩賜の手を一律に伸ばしてください。そして、許された勝利の日を取り戻すための戦いの中で、倒れる者が出ないように、彼らをしっかりと守ってください、お父様、切に願い求めます。

この時間、始めから終わりまで、お父様、直接ご指導ください。そして、闇の力が働く時間とならないようにお許しください、切に願い求めます。

すべてをお父様の御前に捧げますので、どうかお受け取りください。主の御名により祈りました。アーメン。


<祈祷(Ⅱ)>

この地上で多くの人々が、目的のために苦労し、血涙の戦いを重ねてきたことを私たちは知っています。今日、私たちはその血の実を結ばなければならないことを理解し、残された摂理の基盤の上に勝利の旗を立てなければならないことも知っています。

今日のこの一時間、私たちが自分自身のものだと考える者とならないようにしてください。私たちの心も、私たちの生命も、私たちの欲望も私たちのものではないので、私たち自身を基準にして天を相対することがないように許してください。私たちは父から始まった者なので、お父様のものだけで動くこの一時間となるように許してください、お父様、切に願い求めます。

私たちの心も体も、また私たちの主張もお父様のものでなければならないことを知っており、お父様のものでないものは許さないでください。私たちの心と体にお父様が望まない悪の要素があれば取り除き、お父様のものでない主張も取り除いて、お父様のものでのみ動けるこの一時間となるように許してください、お父様、切に願い求めます。

地上にいくら優れた者があっても、誰が天に対して立つことができるでしょうか? どんな言い訳の条件を持っても、お父様の前に立てる者はいないという事実を思うと、私たちは心から悔い改めなければならず、罪の歴史に浸った私たち自身が、歴史的な罪の上で悪魔の供物となったことを自覚すべき時であると知っています。

お父様、私たちの心が私たちのものでなく、私たちの体が私たちのものでないと知っているのに、悪魔の供物となっていることを知っているので、これを悲しむ心を回復し、このことを痛み深く思う心情を起こしてください。自分を自覚し、天と縁を結ぶことができるようにしてください、お父様、切に願い求めます。

無数の悪魔が私たちの心と体を狙っていることを知っています。お父様が許せない罪の苦い根が残っているならば、お父様!現れて、その能力の権限で再創造の歴史を起こし、私たちの心がお父様の前に服従できるように天の歴史を起こしてください、お父様、切に願い求めます。

天が動くとき、地が動かざるを得ず、地が天に要求するとき、天がそれを実現しないわけにはいかないという事実を知っています。今日、真の心を持ち、真実の心情で天を自分のものとして掴むために戦っている天の息子娘はいるのでしょうか? 天のすべての事情を自分の事情とし、天の事業を自分の事業とし、天の理念を自分の理念とし、これを掴むために戦い、これを掴むために蔑まれ、これを掴むために追い詰められて一生を生きた者はいるのでしょうか?私たちがそのような位置にないならば、私たちは天の前に受け入れられない罪人であることを告白できるようにしてください。

今日、私たちは知らないかもしれませんが、天は6千年という長い年月を経て、多くの預言者を送り、血の祭壇を築かせ、またこの民族に忠臣烈士を送り、民族の進むべき方向を示してくださったことを忘れないようにしてください。どの地域をも気にせず、民族を超えた領域まで内面的に摂理を導かれたお父様の苦労を忘れないようにしてください。

お父様、この一つの目的を達成するためにすべての心を尽くし、すべての努力を注ぎ、どんな犠牲も覚悟して私たちを探し出してくださったのに、こうしたお父様の恵みの前で面目を失う無礼な息子娘とならないようにしてください、お父様、切に願い求めます。

今、天が存在することを知り、天のお父様が誰であるかを知っています。父と私たちの間には必然的な条件が残っていることを知っているので、今日このような心情を通じて、天の父と縁を結び、お父様の悲しみを自分の悲しみとし、お父様の嘆きと哀しみを自分の嘆きと哀しみとして感じることができるように許してください。悪魔と壮絶な戦いを繰り広げる天的な行軍がこの民族の前に現れるように、またこの地上に現れるように許してください、お父様、切に願い求めます。

6千年間、天に対して誹謗していた敵悪魔を地球上から追い出し、お父様の嘆きを解消し、求められていた理想の園を早く築くことができるように許してください、お父様、切に願い求めます。

お父様、民族が進むべき方向を示し、教団が進むべき方向を明示し、真の息子娘が進むべき道を示してください。混乱と混沌の中で、暗黒の権勢に捉えられる歴史的な悲しみの時が来ていることを知っていますので、この時を乗り越えられる一つの基準を定めてください、お父様、切に願い求めます。

人類を導いてこられたイエス様と神様には悲しみが晴れる時がなかったことを知っています。2千年前のイエス様を振り返るとき、彼は誰にも知られない涙を流し、誰にも知られない飢えた生活を送り、誰にも知られない迫害の道で涙を流したことを知っています。

イエス様もこのような歩みをされ、多くの聖徒たちも血の道を気にせず歩み、死の道も気にせず戦い抜いたことを私たちは知っています。

今日、天を向かって礼拝し、生ける祭物を捧げて祝福を受けるべき時が近づいています。全生命を捧げて天の栄光を賛美する時が近づいていますが、天の前に生ける祭物を捧げるあなたの息子娘たちはどこにいるのでしょうか? 栄光の姿で父を喜ばせ、讃美を捧げる姿はどこにあるのでしょうか? そのような姿を求めるお父様の心情を知っています。悲しいことは、あなたの相手を見つけられないこと、栄光の実体を見つけられないことです。このような天の悲しみが、今日私たちが動く足跡を通じて千秋万代の子孫にまで及ぶことを恐れて、少しでもその心を持つことができるように、お父様、歴史を刻んでください。

ここに集まったあなたの息子娘たち、何を期待してここに来たのでしょうか? どんな目的でここに来たのでしょうか? 彼らが行くべき場所はこの場ではなく、お父様の家です。彼らが留まるべき場所はお父様の心の中心です。お父様の玉座に座る者がいるのでしょうか?お父様の心の中に記憶される者がいるのでしょうか? 私たちがそのような姿になれないならば、私たちは多くの悪魔の嘲笑の対象となり、供物となるだけだと知っています。この時間、心を一つにしてお父様の前にひれ伏し、お父様の心に入ることができるようにしてください。

天性に至る道は十字架の道です。そのため、自分の十字架を背負い、ゴルゴタの山頂にまで行き、十字架の流した血の実を持ち、天の前に祭物を捧げることが私たちの使命です。今日、心を整えて、お父様の前に進み出てください。

お父様、この一時間を支配してください。今日、私たちの心情を通じてお父様の悲しみを感じ、お父様のために生ける祭物となるようにしてください。天のすべての息子娘が集まって、あなたの栄光を賛美し、あなたを心から喜ばせる時が来るようにしてください。

神様、私たちはあなたを求め、あなたを知りたいと願います。どうぞ、私たちがあなたの前に自分を捧げ、あなたの心に入り、あなたの願いを実現するために一つとなることができますように。

あなたの永遠の栄光がこの地に現れることを祈りながら、私たちは主の御名によって祈ります。アーメン。


<御言葉>

神様は堕落の歴史が始まった後、長い年月の間、無数の苦労を厭わず、選ばれたイスラエルを支え続け、3千年後に、その時のイスラエル民族が知らないうちに、大いなる希望と期待を持ってサウル王を立てられました。しかし、サウルがその責任を果たせなかったため、神の本来の意図はダビデ王を経てソロモン王の時代まで延ばされました。つまり、サウルを立てて成し遂げようとされた神の意図は、ソロモン王の時代まで120年間も延長されたということです。

ソロモン王は天の意志を受けて神殿を建て、彼の民族を統率して神殿と一体になるべき天的な責任がありましたが、その使命を果たせず、自身も罪を犯したため、民族はサタンによって弄ばれる立場に陥ったことを私たちは知っています。結局、ソロモン王が死んだ後、ヤロブアム王とレホブアム王によってイスラエル(北王国)とユダ(南王国)に分裂しました。神を中心とする一人の指導者が出て、彼が左と言えば一緒に左へ、右と言えば一緒に右へと進むべき選ばれたイスラエル民族が、神の労苦の歴史を経て導かれながらも、天の導きに逆らい、南北の二つの王朝に分裂した悲しい事実を私たちはよく知っています。イスラエルの12部族全体は、天に立ち、一つの祭壇を中心に天と一体にならなければなりませんでした。

ヤコブがハランに向かう際、神はベテルでヤコブに現れて祝福を与え、ヤコブは枕にしていた石を立てて碑とし、神に誓いを立てました。そして、ヤボク川を渡る前にギルアデの山で石の山を築き、神の名をかけてラバンと約束を交わしました。このようにして天から祝福を受けたヤコブから始まったイスラエル民族は、神が権限を行使できる一つの主権国家として、一つの主権民族として一体となり、神殿を支えなければなりませんでした。しかし、その天的な使命を放棄し、12部族は北王国10部族と南王国2部族に分裂しました。この悲しい事実を私たちは単なる歴史的事実として理解してはならないでしょう。

当時のイスラエル民族は、神の涙の3000年の歴史と戦いの道を経て生き残った者たちであり、追われ、侮辱されて残った悲しい民でありました。彼らは先祖たちを虐げた多くの異邦の民や、神の意図を裏切った多くのサタンたちを怨むべき立場を忘れ、同胞同士で血戦を繰り広げました。このような悲しい事実を見つめるイスラエルとユダを前にした神の心情を私たちは考えずにはいられません。

ヨシュアとカレブの導きでカナンの地に入ったイスラエル民族は、ソロモン王を中心に神が宿る神殿を建て、神を迎えなければなりませんでした。それにもかかわらず、北王国イスラエルと南王国ユダに分裂し、互いに争い、バアル神やアシェラ神を崇拝するに至りました。この惨状を見つめていた神の心情を私たちは理解しなければなりません。

このような歴史を導いてこられた神は、悲しみで胸がいっぱいになり、その悲しみは今日まで続いています。では、その歴史的な悲しみはどこへ行き、民族的な悲しみはどこへ行き、さらに天的な悲しみはどこへ行ったのでしょうか。このような条件が皆さんの心情を囲んでいること、このような条件が天を求める私たちの周りを取り巻いていること、このような条件が私たちの意識世界を超えて、私たちが進むべき方向を正そうとしているという事実を私たちは知りませんでした。

このような悲惨な状況を見ていた神は、ギルアデの地に住む農民の中からエリヤという人を選びました。イスラエルの王もいましたし、10部族の族長もいましたが、彼らをすべて後回しにして、ギルアデの地でただ農民として生活していたエリヤを選ばれたのです。この悲しい事実を皆さんは知らなければなりません。

イスラエルを支配し、天の神殿を通るべきイスラエル王は、その責任を忘れ、天を拒み、民族を侮辱しました。さらに、天の敵であるバアルのために祭壇を築き、アシェラの木像を作って民族の前に立てて崇拝させました。このようなアハブ王を神がどれほど憎まれたかを私たちは考えなければなりません。神はその憎しみの心を抑えきれず、選ばれた民がサタンに虐げられるのを見て、悲しい心を抑えることができず、その悲しい事情と心情を解放するために一人の人を選ばれました。しかし、その選ばれた者は、国の王でもなく、王族でもなく、族長でもない、ただの平民エリヤでした。

神は、求めるべき者を見つけられず、持つべき者を持つことができず、導くべき者を導くことができない立場に置かれ、焦燥感を抱きながら王や族長、そして多くの人々を探し回られましたが、見つけられず、その時代の民族的悲しみと天的な悲しみを知り、憂慮し、天に向かって祈り、嘆き叫ぶ姿を探して、エリヤを選び出されました。

そのようにして立てられたエリヤでした。皆さん!そのエリヤを思い起こしてください。エリヤは、同族からの支援を受けた人でもなく、彼を擁護し、彼の立場と状況を支持する環境を持った人でもありませんでした。彼は天の心情を知り、天の召命を受けて現れた人でした。

彼が当時置かれていた環境は、アハブ王の主権下にある敵の環境でした。そのような環境の中で天の召命を受けたエリヤは、たとえ死んでもこの民族を抱えて死ぬという強い心を持っていました。たとえ死んでも、民族的な摂理の歴史の道で、歴史的な心情を代わりにした先知先烈たちの伝統を尊重しようとしたエリヤでした。さらに、誰よりも神の心情を憂い、涙を流し、民族と歴史を代わりにして涙を流したエリヤであったことを皆さんは思い起こさなければなりません。だからこそ、神はこのエリヤを探し出されたのです。

今日、皆さんにお伝えしたいタイトルは「エリヤに対する天の心情」です。「エリヤに対する天の心情」という内容で、少しの間、お話ししたいと思います。

ご覧ください。神は3千年の悲しい心情を代わりにして、エリヤを見出されました。つまり、多くの先知先烈が歩み感じた歴史的な心情を代わりにして、神ご自身が手を挙げて「イスラエル」と祝福してくださった約束を忘れず、それを心にかけておられた天が、ヤコブ以降、エリヤの時代まで1千年余りの歴史過程を経て、摂理を導いてこられた心情を抱えてエリヤを探し出されたのです。

敵に囚われたイスラエル民族を再び回復するためにエリヤを立てられた神には、悲しみの反面、希望もあったことを私たちは思わなければなりません。

神が選ばれたイスラエル民族がアハブ王とその王妃イゼベルと共に異邦のバアル神を崇拝し、アシェラの偶像を作って汚れていくのを見て、悲しみをこらえきれずにエリヤを召された時、彼は喜んで神の前に出て行くことができませんでした。

エリヤは神が召したからといって、「お父様!その通りです。あなたが望む道を私が進みます。あなたが召されたその意図を私が責任を持って果たします」と言うことができなかったのです。そこで彼は「私は何者でもない平民です。天よ、私よりも優れた族長も多く、王もおり、王族もおり、数多くのイスラエル民族がいる中で、私のような取るに足らない者を選んでくださったのはどういうことでしょうか」と言いました。良心を持つエリヤは、イスラエルを憂う心が大きければ大きいほど、無私の心で天の前に辞退せざるを得なかったのです。

しかし、天は時として、その民族全体を立てることができず、エリヤでなければならないことを知っていたため、エリヤを選ばれました。

したがって、神はエリヤにその使命をすぐに果たすよう命じて追い立てたのではなく、その環境を整理し、様々な形で衝撃を与えて、自然に現れるようにされたのです。

ですから、エリヤが天の召命を受け、アハブ王の前に現れる時、天は「お父様の命令ですから、すぐに行います」という即決ではなく、行こうとしなくても行かざるを得ない状況に追い込み、彼の悲惨さと民族の悲惨さが増していくことを自覚させ、「民族の代わりに私が死にます。族の代わりに私が死にます」という覚悟を持たせた後に、戦いの責任者として立てたという事実を私たちは知るべきです。

私たちの祖先であるノアもそうでした。「120年後に全世界を水で裁くから、あなたは箱舟を作りなさい」という神様の言葉を実行しながら、ノアは内面的な戦いの道のりで神を疑うことも多かったでしょうし、自分自身の弱さを嘆く環境に置かれることも多かったでしょう。しかし、ノアがそうした立場に立てば立つほど、心にしみたのは、この地上の人々が水に流されて裁きを受ける日が近づいているということでした。

また、マリアを見てみましょう。彼女は純潔な乙女であり、イスラエル民族を誰よりも深く心配していた真のイスラエルの女性でした。天が何千年も前から約束していた私たちの指導者メシアはいつ来るのだろうかと、メシアを待ち望む心情がイスラエル民族の誰よりも強い人でした。

メシアを送りたいとする天の心情を知っていたのがマリアでした。このようにメシアを迎えるべきイスラエル民族を代表したマリアの心情を、人々は知りませんでしたが、天は知っていました。このような心の基準をマリアは持っていたのです。

マリアのその心の基準は、民族を代わりに敵を打ち破ろうとするものではありませんでした。苦しみの中で嘆く民族の悲しみを清算するために戦いの勇士として立とうとするものでもありませんでした。天の悲しみがあることを知り、涙を流すことのできる心情、当時の人々は知らなかったものの、民族の背後に悲しみの歴史があったことを知る心情、選ばれたイスラエル民族が神の前に立てない惨めな状況を嘆く心情を持っていたのです。

このように、現れるべき堂々とした姿が現れないとき、その姿が現れることを願って涙を流し、骨に染みる心情を抱いていたことによって、天の歴史的な心情と結ばれることができたため、思いもよらぬときに天使が現れ、「あなたは身ごもり、男の子を産むでしょう…」(ルカ1:31)という、まるで青天の霹靂のような知らせを伝えたのです。しかし、マリアはためらい、「私は男の人を知りませんので、どうしてそのようなことが起こり得ましょうか?」(ルカ1:34)と言いました。すると天使は再び「神にとって不可能なことは何もありません」(ルカ1:37)と言いました。父の御心を成し遂げようとする天使の言葉を聞いたマリアは、ためらわずに「主のはしためです。御言葉通りになりますように」と言ったのです。

このように、天の心情と結びつこうとしたマリアの心情は切実であり、自分の生涯が破滅し、最終的に死を迎えるかもしれない立場に置かれていましたが、「御心のままに」と言ったのです。なぜなら、乙女の身で懐妊したという噂が広まれば、その当時はモーセの律法によってすぐに石打ちの刑にされ、民族から追放され、同族からも受け入れられなくなるからです。そのような環境でも、イスラエル民族の中で誰一人自分を歓迎してくれないことが分かっていながら、マリアは「主よ、はしためです。御心のままに」と言ったのです。

悲しみに染みた内的な心情と現実的な信仰を示す中で、マリアは歴史の主人公であり、時代の主人公であり、未来の主人公であり、世界の人類の主人公であるメシアを誕生させる母となったのです。

同じように、エリヤも天の前に召されました。天が彼を探し出すまで、エリヤは他人が知らない涙を流し続けた涙の王子でした。イスラエルのどの王よりも、イスラエルのどの人よりも多くの涙を流した涙の王子でした。哀れな境遇で涙を流したイスラエルの民がいたとしても、彼らが流した涙は自分自身のための涙でした。しかし、一介の平民であったエリヤが自分の環境や威信を忘れて流した涙は、自分自身を超えた涙でした。彼は「天が導いてくださったイスラエルがなぜこのようになったのか?」という思いが誰よりも強かったことを、皆さんは知るべきです。

エジプトでの400年の苦役を経て、荒野での40年の旅路で60万人の大衆を失った後、カナンの地に入って国家を築いたイスラエルが、異邦の国々によってこのような状況に置かれ、敵に弄ばれ、神に選ばれた選民の権利が崩れ去っていくのを見て、深い悲しみを抱いたのがエリヤでした。彼は誰よりも民族のために熱心に祈り、誰よりも天に向かって誠心誠意を尽くしました。このようなエリヤだけがイスラエルを代表できたため、天は彼を探し出されたのです。

天の前に召されたエリヤは、天から「エリヤよ、エリヤよ」という声を聞いたとき、驚いたことでしょう。彼は「これはどういうことでしょうか?これは夢にも思わなかったことですし、予想もしなかったことです」と言ったことでしょう。このように恐れ多くも大いなる使命に向かうとき、天は「私がいるから、行ってアハブ王に警告しなさい」と言われました。天のその言葉に、エリヤは天に代わってアハブ王と戦うことになったのです。

異邦の国から来た王妃イゼベルによって持ち込まれたバアルとアシェラの木像のために、裁きの日が遠からずやって来ることを心配していたエリヤは、長年、天の悲しみと民族を抱えて悲しんでいたため、天の命令に対し「父よ、民族が救われるなら、この身が犠牲になってその事業を遂行いたします」と言って立ち上がったのです。このように天の命令を受けて、アハブ王に向かって出発したその日から、エリヤの生活に「喜び」という言葉は存在しませんでした。彼は見たことのない現象を見なければならず、聞いたことのないことを聞かなければならず、食べることや着ること、寝る環境も快適ではなかったことを、皆さんは知るべきです。

エリヤはアハブ王に、異邦の神々を崇拝すれば滅び、飢饉が訪れ、飢えに苦しむだろうと予告しましたが、アハブ王は彼の言葉を聞かず、むしろエリヤを殺そうとしました。そこでエリヤは逃げ、ケリテ川に避難しました。そのとき、エリヤの心情も限りなく悲しかったのです。

もし天を知らなければ、彼には横になれる家もあり、親もあり、親戚もあり、兄弟もいたでしょう。住む土地もあり、彼を認めてくれる環境も持っていたでしょう。しかし、天を頼りに進んだその日から、彼は思いもよらぬ谷に避難しなければならない身の上になったのです。

それでもエリヤは天を恨むことはせず、アハブを恨みましたし、民族を恨むことはせず、イゼベルを恨みました。そのように追われ、困難な状況にあっても、天への忠誠心がなかったならば、エリヤはその環境を捨てたでしょう。しかし、エリヤは自分の環境が厳しくなればなるほど、さらに天の悲しみを抱き、民族を抱きました。天を抱き、悲しむ生活が、一時の喜びを感じる生活よりも価値があることを知っていたエリヤだったため、歴史的な先祖たちの功績を捨てず、自分の苦しみを顧みず、天の前に近づき、さらに近づいていったのです。

それでもなお、エリヤは兄弟が自分を思ってくれる以上に天が自分を思ってくれ、親族が心配してくれる以上に天が自分を心配してくれ、親が心配してくれる以上に天が自分を心配してくれることを知りませんでした。いつも、過ぎた後に天の心情を知ることができたのです。これが、天を求めていく者たちが抱える悲しい事情です。

エリヤは、ケリテ川に避難していたその環境の中でも、新たに決意を固めました。アハブとイゼベルを打ち倒し、イスラエル民族を救うために避難していたエリヤの切ない心情を人々は知りませんでしたが、カラスが食べ物を運んできました。このように飢えに耐えながらも、天の心情を知ることのできる仲間を見つけようと決意していたエリヤのことを、皆さんは知るべきです。

彼は、生死の岐路に立つ民族のために天の悲しみが染み込んでおり、その染み込んだ心情が強まるにつれて、裁きの日が来ることを知っていました。しかし、それを一人で背負うことはできないと感じれば感じるほど、天の意志のために自分を犠牲にできる同志をエリヤは求めていたのです。民族を愛する気持ちが大きいほど、自分の前に現れる同志たちを愛したいと願い、天を愛する気持ちが大きいほど、自分の前に現れる同志たちを愛したいという思いに駆られていたエリヤでした。

そのようなエリヤの心が、民族を救うことのできる心であり、民族を救える仲間を集める心でした。また、天と人間を結びつけることのできる切実な心でした。エリヤがそのような心情を持っていたため、天は彼を選び、彼を導いたのです。

一度、飢えたエリヤが天の導きでサレプタの寡婦の家に行き、パンをもらって食べましたが、その哀れなエリヤを助けてくれた寡婦は、自分が食べた後に残った小麦粉でパンを作ったのではなく、一食分しか残っていない小麦粉でパンを作ってくれました。そのため、その後サレプタの寡婦は食糧に困らなくなったという事実を、私たちは知っておかなければなりません。

エリヤがサレプタの寡婦の家に滞在していたとき、その寡婦の息子が病気で重篤な状態になり、息を引き取りました。寡婦はその子を抱いてエリヤに訴えました。その寡婦の切実な訴えを聞いて、エリヤが天の前に祈ると、死んでいた子供が生き返りました。また、カルメル山の頂上では、バアルの預言者とアシェラの預言者800人を捕らえて殺しましたが、これは偽りの神と真の神を明確に区別するための一大決戦でした。

このような立場において、エリヤは神が民族を愛しておられるために自分を召されたことを知りました。神が自分を召されたのは、敵を憎む神に代わって戦うためであることを知ったのです。民族を代表して召され、神に代わってバアル神やアシェラ神の預言者たちと戦う責任者として召されたことを知り、エリヤは、水に濡れた祭壇に天から火が降りて燃え上がったとき、バアル神の預言者とアシェラ神の預言者800人を捕らえて殺しました。この出来事が終わった後、飢饉と飢えで嘆いていたイスラエル民族を哀れに思ったエリヤは、カルメル山の頂上に上り、命をかけて天の前に7度も繰り返し訴えました。すると、アハブ王が戻る前に雨が降るという現象が起こりました。

この歴史を通じて、アハブ王とイスラエルの民は生ける神を知り、自分たちが崇めていたバアル神が偽りの神であることをはっきりと知り、悔い改めてエリヤの後に従うべきでした。しかし、彼らはエリヤに従いませんでした。アハブは民衆の中に入り、イゼベルにそのことを詳しく報告しました。すると、イゼベルはエリヤに「お前が剣を振るって殺したバアルの預言者たちと同じ運命にお前もなるだろう」という伝言を送りました。

それを受けたエリヤは、イスラエルの国境を越えてユダのベエルシバに到達し、そこに従者を残して荒野に入ってさらに一日の道のりを進み、ロデムの木の下で天の前に祭壇を築いて祈りました。

イスラエルの国境を越えて期待していたユダの地に行きましたが、進むべき道が閉ざされました。選ばれたイスラエルを救うために自分が召されたことを知ったエリヤは、数々の逆境と多くの戦いの道のりを経て、尽力できる限り尽力しましたが、実績を残すことはできませんでした。それでユダの地へ逃げて行きましたが、行くべき道が閉ざされたエリヤは膝をついて、「天よ、あなたが送られた預言者たちはすべて殺されてしまい、私が立てられましたが、天を求め、天に向かおうとする心情を持った者を見つけることができず、また彼らが私を捕えようとしています。私はもうこれ以上進むことができません。どうか私を殺してください」と言いました。

こうしてエリヤは、絶望的な状況に陥りましたが、天は彼を見捨てませんでした。その瞬間、天使がエリヤに現れ、「起きて食べなさい」と告げました。エリヤは目を開けてみると、頭のそばに焼いたパンと水が置かれていたのです。エリヤはそれを食べて力を得ました。しかし、それでも彼の旅路は終わっていませんでした。天の命令に従ってエリヤは40日間と40夜、ホレブの山まで歩き続けました。

ホレブ山に到達したエリヤは、神の山にある洞窟に入り、そこで夜を過ごしました。その時、天の声が彼に語りかけました。「エリヤよ、ここで何をしているのか?」と。エリヤは答えました。「イスラエルの子らはあなたの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。私はただ一人残されましたが、彼らは私の命も取ろうとしています」と。

神はエリヤに、外に出て山の上で立つように命じました。その瞬間、大風が山を裂き、岩を砕くほどの激しい風が吹きましたが、神はその風の中にはいませんでした。次に地震が起こりましたが、神はその地震の中にもいませんでした。さらに火が降り注ぎましたが、神はその火の中にもいませんでした。そして、その後に、静かな細い声が聞こえてきました。それが神の声でした。

神はエリヤに再び問いかけました。「エリヤよ、ここで何をしているのか?」と。エリヤは再び同じ答えをしましたが、神は彼に使命を与えました。ダマスカスの荒野に戻り、ハザエルに油を注いでアラムの王とし、エリシャを後継者として油を注ぐように命じたのです。そして、エリヤは神の命令に従い、エリシャを見つけ出して弟子としました。

こうして、エリヤは神に対する忠誠と信仰を示し続けましたが、彼の時代が終わりを迎える時が来ました。エリヤは火の戦車に乗って天に引き上げられ、地上を去ることとなりました。彼の後を継いだエリシャが、その使命を引き継いでいったのです。

エリヤの物語は、困難な状況においても神に忠誠を尽くし、信仰を持ち続けることの重要性を教えています。彼のように、天の声に従い、神の意志を全うする者は、最終的に神の祝福を受けるという教訓を私たちは学ぶことができます。


エリヤが天に引き上げられた後、彼の後継者であるエリシャはその使命を引き継ぎました。エリシャはエリヤから受け継いだ力を使い、数々の奇跡を行いました。まず、エリヤのマントを拾い、ヨルダン川の水を打つと、川の水が二つに分かれ、彼は川を渡ることができました。これにより、エリシャがエリヤの後継者として神の力を受け継いだことが明確に示されました。

その後も、エリシャは人々の病を癒し、飢饉の時には食糧の奇跡を行い、神の力を示し続けました。彼は神に忠誠を尽くし、エリヤのように天から与えられた使命を果たしていきました。このようにして、エリヤが果たすことのできなかった使命はエリシャによって引き継がれ、神の計画は続けられたのです。

エリヤとエリシャの物語は、神が選んだ者たちが苦難に直面しても、神の計画を信じ、最後まで忠実であり続けることの重要性を教えています。彼らの信仰と忠誠は、私たちにとって模範であり、私たちもまた、自分たちが置かれた状況の中で、神の導きに従い、与えられた使命を全うすることが求められているのです。

神は、彼らのように信頼に足る者たちを選び、彼らを通して神の意志を成し遂げていくのです。私たちもまた、エリヤやエリシャのように、たとえ困難に直面しても、神の力と導きを信じ、忠実に歩み続けることが求められています。そうすることで、私たちもまた、神の大いなる計画の一部となり、歴史に名を刻むことができるのです。

ここで、エリヤとエリシャの物語が締めくくられますが、彼らの信仰と献身は、私たちにとって今日でも重要な教訓を提供しています。

エリシャがエリヤから受け継いだ使命は、単に奇跡を行うことだけでなく、神の民であるイスラエルを導く霊的な指導者としての役割も含まれていました。エリシャの生涯には、いくつかの重要な出来事がありますが、その一つは、ナーマンの癒しです。

ナーマンはアラム王国の軍の司令官で、権力も富も持っていましたが、彼は重い皮膚病に苦しんでいました。彼の妻の召使いであったイスラエルの少女は、エリシャがその病を癒せることを知っていたため、彼に会いに行くよう助言しました。ナーマンは最初、エリシャが自分を直接癒してくれるものだと思っていましたが、エリシャは使者を送り、「ヨルダン川で7回身を洗いなさい」と指示しました。

ナーマンはその簡単すぎる指示に怒り、すぐに帰ろうとしましたが、彼の部下たちが「もし難しいことを言われてもやったでしょう?それなら、言われた通りにすればいいではありませんか」と諭しました。ナーマンは結局、エリシャの言葉に従い、ヨルダン川で7回体を洗った結果、病は完全に癒されたのです。この出来事は、信仰と従順が奇跡をもたらすという重要な教訓を私たちに示しています。

また、エリシャがかかわったもう一つの出来事は、飢饉の時の食料の奇跡です。飢饉に見舞われたイスラエルでは、人々が食べるものも乏しくなり、飢えに苦しんでいました。しかし、エリシャは人々に信仰を持って食料を集めさせ、それを祝福しました。その結果、わずかな食料が奇跡的に増え、多くの人々を養うことができました。この奇跡もまた、信仰と神の力が困難を乗り越える手段となることを示しています。

エリシャの生涯は、神の導きと力があれば、いかなる状況においても人々を助け、救うことができるという強いメッセージを伝えています。彼は決して自分の力に頼るのではなく、常に神に祈り、神の意志に従って行動しました。その姿勢こそが、彼を偉大な預言者として歴史に刻まれる存在にしたのです。

エリシャが亡くなった後も、彼の影響力は続きました。死後に埋葬されていたエリシャの墓に他の死者が葬られた際、その死者が蘇るという奇跡が起きたのです。エリシャの生涯は、生と死を超えて、神の力がどれほど偉大であるかを示すものでした。

エリシャの物語を通じて、私たちは神に対する絶対的な信頼と従順の重要性を学びます。彼のように、たとえ困難な状況に置かれても、神に頼り、神の導きに従うならば、奇跡が起こり、私たちもまた神の計画の一部となることができるのです。

神は時代ごとに忠実な僕を選び、その僕を通じて歴史を導いていかれます。私たちもまた、そのような神の僕としての役割を果たすことができるよう、エリヤやエリシャの信仰に学び、日々神に忠実であり続けることが求められています。

エリヤとエリシャの物語は、単なる歴史の一部ではなく、今日の私たちに対しても深い示唆を与えるものです。

エリシャの物語が終わった後も、神の預言者たちによる導きは続きます。エリシャの後継者たちも神の計画に従って、イスラエル民族を導き、神の意志を成し遂げていきました。これらの預言者たちの使命は、常に神の民を正しい道へと導き、彼らが神と共に歩むことができるようにすることでした。

しかし、イスラエルの民がしばしば神の教えに背き、偶像崇拝や不義に陥ることがありました。そんな中で、預言者たちは神の警告を伝え、民が悔い改めるように導く役割を果たしていました。彼らは時には迫害を受け、苦難に遭遇することもありましたが、それでも信仰を失わず、神の言葉を忠実に伝え続けました。

特に預言者イザヤやエレミヤなどは、イスラエルの民に対する神の憐れみと裁きについて多く語りました。彼らはイスラエルが悔い改めない限り、神の裁きが下されることを警告しましたが、それでも神は彼らを完全に見捨てることなく、常に救いの道を用意していると伝え続けました。彼らの預言には、神の深い愛と正義が込められていたのです。

また、預言者ダニエルの時代には、バビロン捕囚という大きな試練がイスラエル民族を襲いました。ダニエルとその仲間たちは、異国の地で強い信仰を持ち続け、神に忠実であり続けました。彼らがライオンの巣や火の炉の中に投げ込まれるという厳しい試練に直面しても、神は彼らを守り、救い出されたのです。この出来事は、神の信頼に値する者は、いかなる困難の中でも神の守りを受けることができるということを強く示しています。

さらに、神が選ばれた預言者たちは、メシアの到来を預言しました。彼らは、イスラエルの民を救うために、やがて神が約束した救世主が現れると告げました。これらの預言は、旧約聖書の中心的なテーマの一つであり、イスラエル民族にとって大いなる希望の源でした。このメシアの約束は、やがてイエス・キリストの到来によって成就されます。

イエス・キリストが現れた時、彼はイスラエルの失われた羊たちを探し出し、神の愛と救いを伝えました。彼の教えと行動は、すべての人々に対する神の愛と憐れみを示しており、彼の生涯は預言者たちが伝えた救いの成就そのものでした。イエスは十字架上で命を捧げることで、人類の罪を贖い、神との和解をもたらしたのです。

イエスの死と復活は、神の救いの計画の完成であり、すべての人々に永遠の命をもたらすものとなりました。彼の生涯と教えを通じて、私たちは神の深い愛と救いの計画を知ることができ、今もなお私たちに対する神の約束が生き続けていることを確信できます。

エリヤからエリシャ、そしてメシアに至るまで、神の救いの計画は途絶えることなく進んでいきました。私たちもまた、神の導きに従い、信仰を持って神の計画の一部となることができます。歴史を通じて神が示された愛と憐れみを忘れず、日々の生活の中で神に忠実であり続けることが重要です。

私たちは、神がすべての時代にわたって忠実な僕を選び、彼らを通じて神の意志を成し遂げてきたことを学びました。そして、その救いの計画は、私たち一人ひとりにも関わるものであり、私たちもまた、その一部となることができるのです。

このように、神の救いの歴史は、預言者たちを通じて続き、最終的にはメシアによって完成されました。私たちはこの歴史に学び、神の愛と憐れみに感謝し、信仰をもって神と共に歩んでいくことが求められています。

我々の先祖であるノアもそうでした。神は「120年後に全世界を水で裁くので、あなたは方舟を作りなさい」とおっしゃいました。ノアはこの神の言葉を実践しながら、内面的な戦いの過程で天を疑うことも多かったでしょうし、自分の弱さを嘆く環境に置かれることも多かったでしょう。しかし、ノアがそのような立場に立つほど、心に深く刻まれていたのは、この地上の人々が水に流される裁きの日が近づいているということでした。

また、マリアを見てみましょう。彼女は純潔な乙女であり、イスラエルの民を誰よりも深い心で思っていたイスラエルの真の女性でした。天が数千年前から約束していた我々の指導者メシアはいつ来るのかと、メシアを待ち望む心がイスラエルの民の誰よりも強い人でした。

メシアを送ろうとする天の心情を理解していたマリア。イスラエルの民を代表してメシアを迎えなければならないその心情を、人々は理解できませんでしたが、天は知っていました。マリアはそのような心的基準を持っていたのです。

マリアの心的基準は、民族を代表して敵を打ち砕こうとするものではありませんでした。苦しみの中で呻いている民族の悲しみを清算するために戦う英雄になろうとするものでもありませんでした。天の悲しみがあることを知り涙を流す心、当時の人々が知らなかったが民族の背後には悲しみの歴史の道程があったことを知る心、選ばれたイスラエル民族が神の前に立てない惨めな状況を嘆く心を持っていたのです。

そのように現れるべき立派な姿が現れないとき、その姿が現れることを望み涙を流し、骨に染み入る心情を持っていたため、天の歴史的心情と縁を結ぶことができたのです。そのため、予想もしない時に天使が現れて「あなたが身ごもり、子を産むことになるでしょう」と(ルカ1:31)青天の霹靂のような告知をされたのです。しかし、マリアが「私は男を知りませんので、どうしてこのことがあるでしょうか?」(ルカ1:34)とためらうと、天使は再び「神のすべての言葉にはできないことはない」(ルカ1:37)と言いました。その言葉を聞いて、マリアはためらうことなく「主の僕女ですので、御心のままにおなりください」と言ったのです。

このように天の心情と縁を結ぼうとしたマリアの心情は切実であり、彼女の生涯が破滅し、最終的に死を迎えるかもしれない状況に置かれても「御心のままにおなりください」と言いました。なぜなら、処女の体で妊娠したという噂が広まると、当時はモーセの律法により即座に石で打たれて死ななければならず、民族から追放され、部族から受け入れられないからです。そのような環境でも、イスラエル民族の中で誰一人として彼女を歓迎しないかもしれないが、マリアは「主よ!僕女ですので、御心のままにおなりください」と言ったのです。

悲しみに満ちた内面的な心情と実際の信仰を示すことで、マリアは歴史的な主人公であり、時代の主人公であり、未来の主人公であり、世界的な人類の主人公であるメシアを生む母親となったのです。

同様に、天の前にエリヤは呼ばれました。天が彼を探すまで、エリヤは他の誰も知らない涙を流した涙の王子でした。イスラエルのどの王よりも、イスラエルのどの人よりも多くの涙を流した涙の王子でした。かわいそうな立場で涙を流したイスラエルの民がいたとしても、彼らの涙は自分自身のための涙であり、エリヤは平民でありながら自分の環境や名声を忘れて流した涙は、自分を超えた涙でした。彼には、天が導いてくれたイスラエルがなぜこのようになったのかという心が何よりも大きかったことを皆さんは知っておくべきです。

エジプトでの苦役400年を経て、荒野の40年の道程で60万人を失い、カナンの地に入って国家を作ったイスラエルが、異国の国によってこのようなことをされ、敵に嘲笑され、神の選ばれた民の権利が衰退するのを見て、エリヤは悲しみの心を持っていました。彼は誰よりも民族のために熱心に祈り、誰よりも天に対して精を尽くしました。そのため、天は彼を探したのです。

天の前に呼ばれたエリヤは、天から「エリヤよ、エリヤよ!」という言葉を聞いたとき、驚いたことでしょう。彼は「これは何の理由ででしょうか?これは夢にも思わなかったことであり、予想もしなかったことです」と言ったことでしょう。このように驚きながらも偉大な意義に向かって立ち上がると、天は「私がいるので、行ってアハブ王に勧告しなさい」とおっしゃいました。天のその言葉に応えて、エリヤは天に代わってアハブ王と戦いました。

異国の国から来た王妃イゼベルを通じて持ち込まれたバアルとアシェラの偶像によって、すぐに裁きの日が近づくことを心配していたエリヤは、長年天の悲しみと民族を抱きしめて悲しんでいたため、天の命令に「父よ、民族が生きられるのならば、この身が犠牲となってその仕事を遂行します」と立ち上がったのです。そのように天の命令を受けてから、アハブ王に向かって出発したその日から、エリヤの生活には喜びという名詞は存在しませんでした。彼は予想もしない現象を見なければならず、聞くことも考えもしなかったことを聞かなければならず、食べたり着たり寝たりする環境も快適ではなかったことを皆さんは知っておくべきです。

エリヤはアハブ王に対して異国の神を崇拝すれば滅び、飢饉が来て飢えが訪れると予告しましたが、アハブ王は彼の言葉を聞かず、逆にエリヤを殺そうとしました。すると、エリヤは逃げてクリト川に避難しました。その時、エリヤの心情も無限に悲しかったのです。

天を知らなければ、彼には寝る家があり、親があり、親戚があり、兄弟がいたでしょう。生きる土地もあり、自分を認めてくれる環境もあったでしょう。しかし、天を信じて立ち上がったその日から、彼は予想もしなかった谷に避難しなければならない身となったのです。

それでもエリヤは天を恨むことはなく、アハブを恨むこともなく、民族を恨むこともなく、イゼベルを恨みました。そのように追われ、追い詰められる環境で、天に対する忠誠の心がなければ、エリヤはその環境を見捨てたでしょう。しかし、エリヤは自分の環境が締め付けられるほど、ますます天の悲しみを抱き、民族を抱きしめました。天を抱きしめて悲しむ生活が、しばらくの間の喜びを感じる生活よりも大きいことを知っていたエリヤは、歴史的先祖たちの功績を見捨てることなく、自分の苦痛を気にせず、天の前に近づき、さらに近づきました。

それでもエリヤは、兄弟が思ってくれる以上に天が自分を思ってくれることを知らず、親戚が心配してくれる以上に天が心配してくれることを知らず、親が心配してくれる以上に天が自分を心配してくれることを知らなかったのです。いつも過ぎ去った後に天の心情を知ることが、これが天を求める悲しい事情です。

天の計画を管理する神が、信じて呼び立てられた目的を達成するために努力し、民族を導いたエリヤが、悲しい状況で「父よ、私だけが残りました!」と訴えるのを見守る天は、さらに増した悲しみを感じたという事実を私たちは理解しなければなりません。

天は、追われて避難しているエリヤを、数多くのイスラエル民族よりもさらに貴重に感じ、イスラエルの地に置かれていた希望よりも大きな希望を彼に持たせました。疲れ果て、希望も断たれ、進むべき方向も見失った荒野で最後の決断を下すように訴えたエリヤを、私たちは考えてみるべきです。さらに、イスラエル民族を導いた神、エリヤを呼び立てるために苦労された神、エリヤが困難に陥ったときにさまざまな形の奇跡で助け、家から彼を支えた神を知るべきです。ここで、エリヤに対する天の心情が悲しみに沈んだことを、皆さんは理解するべきです。

ユダの地にも留まることができないことを悟ったエリヤは、40日夜を歩いてイスラエル民族がエジプトから出るときに神が彼らに祝福を与えた山、彼の先祖たちが天と縁を結んだシナイ山近くのホレブ山に逃げました。エリヤが国境を越えなければならないことを知っていた神も、逃げるエリヤの道が遠く、彼が進む道に友も同情者もないことを知っていました。そこで、神はロデムの木の下で眠っているエリヤに、天使を通して炭火で焼いたパンと一瓶の水を与え、食べるように命じました。

エリヤはそれを食べて再び力を得て、天の悲しみと民族の悲しみを抱え、敵を討つための憎悪を抱き、悲しみの地であるイスラエルに向かって駆け出さなければなりませんでした。それにもかかわらず、エリヤは反対にホレブ山に逃げたのです。

そうして40日夜を歩いてホレブ山のどこかの洞窟で眠るエリヤは、敗北者のような哀れな状況になりました。神が導く道を逸れて、自身の安全を守るために逃げて洞窟で眠っているエリヤを、天は再び訪れました。眠っているエリヤに神は「エリヤよ、ここで何をしているのか?」と尋ねました。エリヤは「天を熱心に考えています。しかし、私は先祖たちよりも弱い者です。」と答えました。その言葉は神を慰めるものではありませんでした。しかし、神は眠っていたエリヤを山に立たせ、さまざまな形で警告しました。強い風で、または地震で、または火の中で警告されたのです。

しかし、神は直接エリヤの前に現れませんでした。その後、静かな中で神は現れ、エリヤを呼びました。エリヤは答えました。「父よ、あなたの預言者たちがすべて彼らの手によって死に、イスラエル民族の前に私だけが残りました。行きたいけれど行けません。追われ、追い詰められたこの場所で、私はどうすればよいのでしょうか?」しかし、神は再び「イスラエルはアハブの手中にあるが、その中に割礼を守り、バアルに屈しない7000人がいる。彼らをどうするのか?」とおっしゃいました。「アハブ王の下で苦しむ、バアルに屈しない7000人はどうするのか?」これがエリヤに対する天の悲しい心情でした。

ここでエリヤは再び決心し、天の命令に従ってダマスカスに戻り、ハザエルとイエフに油を注いで王とし、エリシャに油を注いで自分の後を継ぐ預言者としました。

エリヤは足を返し、バアルに屈しなかった残りの7000人を天が心配していることを知り、新たな決意をしました。

同様に、今日、摂理の意図に応じているすべての人々は、苦労の道を歩んでいます。血の涙の道を歩んでいます。十字架を背負って迫害の道を歩んでいます。この悲しみと憤り、悔しさの状況は誰のために生じたのでしょうか?それは民族のためであり、さらに神の6000年の敵であるサタンのためであることを理解しなければなりません。

悲しみと苦痛が押し寄せ、迫害の嵐が吹き荒れる状況に置かれる原因は何でしょうか?それは民族を救うためであり、天を解放するためです。しかし、天の意図に応じる人々もそのような神の心情を感じるのは難しいのです。

イエスは教団から追われ、民族からも追われました。教団からは異端者、律法の破壊者と見なされました。彼は自分の民族からも追われ、家からも追い出されました。ヨハネの一団からも追われました。荒野に出ても、そこでもサタンに追われました。それで終わりではありませんでした。後には全体が動員されて、十字架の道、ゴルゴタの道に追いやられました。

しかし、反逆者として追われる民族のために、むしろ涙を流したのがイエスでした。イエスはユダヤ教団から異端者と見なされましたが、イスラエルのどの祭司よりも彼らのために多くの血の涙を流した人でした。その時代のどの人も彼の味方にはならなかったが、イエスはその時代の友でした。民族の反逆者として追われながらも、民族の忠臣であり、教団の異端者として追われながらも、教団の忠臣でした。

彼の歩みはどのようなものでしたか。引き裂かれ、追われ、倒れる、十字架を背負った悲惨な歩みでした。それだけではありませんでしたか。無謀な悪党たちが鞭を持って追い立てる状況にも直面しました。このような状況で、もしイエスがエリヤのような人であったなら、「父よ、私だけが残りました。」という祈りをしたかもしれません。

しかし、イエスはゲッセマネの園で三人の弟子を後に置いて祈るときに、「我が父よ、もしできることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の意志ではなく、父の意志を行ってください。」(マタイ 26:39)と言いました。これが偉大です。自身の状況も悲しい中で、自分自身は民族の犠牲であり、人類の犠牲であり、天の理の犠牲であることを知っていました。

このことを知っていたイエスは、自身の悲しみも悲しみですが、天の悲しみがどれほど大きいかを心配していました。民族のために現れながらも、民族の前で裏切られる自分を見る天の悲しみがどれほど大きいかを心配していました。イエスは天の王子であり、万宇宙の主人公であり、メシアでした。そんな「イエスが悲惨な十字架の運命にどうしているのか?」と嘆くならば、この宇宙を動員して嘆くことができたでしょうが、嘆くことができない自分であると感じたため、追われる立場に立つことに恥じたのです。

教団をまとめ、民族をまとめて天の王国を築き、世界を父の懐に抱きしめる責任を担ったイエスは、その責任を果たせずに十字架の道を歩むときに、恨みを感じることはありませんでした。「この杯を避けさせてください。」と祈ったのも、自分の死が悲しいからではありませんでした。自身の死によって民族の悲しみと天の悲しみがさらに増すことを知っていたからこそ、そう祈ったのです。

イエスは自分が十字架に倒れると、後世の世界人類にさらに増す十字架が残り、そのために悲しみの歴史が終わらないことを知っていました。ゴルゴタの道が終わらないことを知っていました。死の道が終わらないことを知っていました。そして、自分がゴルゴタの道を行けば、自分に従う者たちもゴルゴタの道を歩まなければならないことを知っていました。十字架だけでなく、さらに困難な道が残ることを知っていたイエスでした。

両手両足に釘が打たれ、脇腹に槍で刺されて血を流す状況、いばらの冠をかぶる状況に立つときでさえ、これが自分に止まらないことを知っていたにもかかわらず、イエスは天に向かって「すべてが成し遂げられた」と言いました。その言葉は人間の世界における十字架の道が全て終わったという意味ではありませんでした。十字架のために涙を流し、心配する気持ちの訴えが天と通じたということです。

イエスは数多くの先祖たちが天の前で犯したすべての過ちを背負い、天を慰めるために自分自身が生け贄として天の前に捧げられたという事実を、皆さんは知っておくべきです。

それでは、ここでイエスに対する神の心情はどうだったのでしょうか?死にゆくイエスの姿、天を心配しながら十字架の坂を越えていくその姿を見たとき、人間世界に怒りがあったとすれば、それ以上の怒りがないでしょうし、天の4000年の歴史の中に怒りがあったとすれば、それ以上の怒りがないでしょう。

しかし、イエス自身は死にゆく中で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかを知らないのです。」と言いました。神は直ちにノアの時代以上の審判をしたい気持ちがありましたが、イエスが民族を守り、教団を守り、十字架を守って死んだので、神は人間たちを見捨てることができず、つかみ続けているのです。このような心の繋がりが後世の人間、残されたイスラエル民族と結びついていたため、裏切る後世の人間たちを見捨てることができず、つかみ続けているのです。裏切る後世の教団をつかみ続けているのです。

後代に生まれた私たちは、今、こうした天の心情を理解しなければなりません。イエスはこのような心情で天を迎えたく、こうした生涯を送りたいと望んでいました。イエスの族であり、イエスの後継者であり、イエスの偉業を継承しなければならない私たち、天の前に栄光の実体として誇れるべき私たち、こうした使命と責任を担い、天の期待に応えて立つ今日の私たちは、今何を求め、何を感じ、何をすべきかを考えなければなりません。

私たちは今、さらに何を考えなければならないのでしょうか?イエスの友となり、イエスの花嫁となるようにとの教えに従い、そのような人になることを考えなければなりません。さらに、私たちは先祖たちが天の前に抱えていた歴史的な恨みを解消しなければなりません。そして、死の嘆きの因縁を後代に残さず、戦いの道を死のゴルゴタに残さず、勝利のゴルゴタとして残すことができるようにしなければなりません。天はこのような責任を担う者を探していることを知っておくべきです。

この終末の使命が信者たちにあるとするなら、審判の日を待ち、復活の主を求めて栄光の場に立ちたいと願う私たちは、イエスの心情とノアの家庭に対して天が抱いた悲しい心情を理解しなければなりません。天の前に立ったノアが120年間の労苦の末に洪水の審判を免れたとき、天は残されたノアの八人の家族を通じてその間の恨みを解消しようとしましたが、ハムの失敗により再び嘆きの条件が残ったことを知り、ノアの家庭の悲しみを再び解消できる者となるべきです。

アブラハムは犠牲の失敗により息子イサクを犠牲として捧げなければならず、彼の子孫はカナンの地を離れてエジプトに入り、400年間の苦役時代を過ごしました。

天はイスラエル民族をカナンの福祉へと戻すためにモーセを立てて努力させましたが、その復帰の過程でイスラエル民族は何度も天を裏切りました。それ以後、多くの先祖たちがその意志を貫こうとしていますが、天から「よろしい。お前が意志を成し遂げた。私の願いを成し遂げた」との称賛と祝福を受けた者はいませんでした。

このように先祖たちによって悲しみに満ちた天の心情を理解し、今日の言葉のように、アハブ王の前であらゆる迫害と抑圧を受けたエリヤのような立場に立つとしても、晩年の人生として消え去るとしても、自らの境遇を嘆かず、ただ神をつかんで進まなければなりません。

ゲツセマネの園とゴルゴタの山頂でイエスが抱いた心情をエリヤが抱いていたなら、そして天と縁を結んでいたなら、天はそこから歴史的な悲しみの一端を解消したでしょう。しかし、そうすることができなかったために、天の悲しみはイエスにまで延長されたのです。

しかし、イエスの死によってこの意志は解消されることなく、今日まで延長されていることを私たちは知っています。

今日、世界で起こっている現象を見ると、それはかつてイスラエルのアハブ王の時代に起こった現象と匹敵するものです。偶像とは何ですか?天を捨てて他の何かを崇拝し、それを神よりも高くすることが偶像です。しかし、今日の多くの人類は、自分が知らない間に文明という偶像の下にあることを私たちは知っておかなければなりません。

このような時に、アハブ王を見守っていたエリヤのような心情を持ち、すなわちアハブ王を見て天の悲しい心情を内的な心情に重ねて感じる者がいるとするなら、エリヤ以上の激しい心を持ってこの時代を見守り、「この地を天の懐に抱くことができる愛する子供たちにしてくださいますように」と祈る者がいるなら、その者はエリヤ以上の激しい心を持ってこの時代を見守るべきです。そのような者がいないなら、自分がいかに下位であっても、先祖たちが天の意志を受けて天の道を築き、摂理の伝統を築いて摂理しようとする神の歴史が残っていることを知り、自分がいかに不足していても不足と考えず、他人の知らないところで祭壇を築き、他人の知らない涙を流す者となるべきです。このような者がこの地に現れ、戦わなければ、この世界の終末的な形を阻むことはできません。


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御言葉選集5(14)

2024年09月14日 17時09分59秒 | 日記


文鮮明先生御言葉選集 5 - 14. 「歩みを止めて守ってくださる方を再び見つめよう」(1959年3月8日)


1959年3月8日(日)、前本部教会


聖書拝読:詩篇: 121篇








<祈祷(Ⅰ)>
命を司る父なるお父様、私たちは不甲斐ない姿であなたの前に集まりました。どうか私たちをお受け入れください。あなたの正しいご意思に従って、私たちを導いてください。


命の源である父なるお父様に賛美を捧げたいと願いますが、死の力に縛られた罪の本性が今日まで私たちを支配しています。新しい領域へと私たちを導くため、救いの摂理を行ってこられた父なるお父様、この時、現れてくださり、死の力を取り除き、生命と復活の賜物をお与えください。


永遠なる父なるお父様、この一時が、創造の価値を持つ生命体として動くことができる時間となるようお許しください。倒れた私たちが、あなたの限りない善を歌い、限りない美を称える賛美の姿となれるように、心から願い、求めます。


人類の祖先の堕落によって、天と地の命のつながりが断たれ、天使の代わりに賛美を捧げるべきだった天使長は、天を裏切ることでその責務を果たせなかったことを知っています。


今日、私たちは呼ばれました。賛美を受けられなかったことで積もったお父様の怨みを、私たちを通じて晴らしてください。言葉にできなかった内なる事情を、私たちと共に分かち合ってください。そして、人々と天をつなぐ存在として、私たちを立ててくださるよう、心から願い求めます。


    1


創造の喜びを私たちと共に分かち合おうと待ち望んでこられた父なる神様の前に、全ての忠誠を捧げ、生命の実体として、あなたと絆を結べるように、導いてください。


天は真心から賛美を捧げる者を探しておられます。今日、私たちが真心の協力者としてお父様なる神の前に立つことを待ち望んでおられるという事実を、本日、私たちに教えてください。私たちが全てを主管するために、創造の理想を立て、これまでご苦労されてこられたお父様の心情を感じ、無限の協力者、無限の賛美者、無限の恩恵を受ける存在として、私たちが立てるようにしてください。


不甲斐ない私たちが、お父様の前に集まったことを、私たち自身の力だけでは、天が求めるいかなる条件も満たすことができないと知り、私たち自身を超えて、お父様の心情を感じ取り、お父様の事情を理解できる者となれるよう、心から願い求めます。


一週間の間に、意図せずにお父様の御心に背くことが多かったことを知っています。この時だけでも、お父様が望まれる真の基準を立てることができるようにお許しください。善の実体として、お父様の愛の懐に抱かれるこの一時をお与えください。


この日は聖なる日です。どうか全ての人々を祝福し、この哀れな民族をも祝福してください。孤独な家庭を、あなたの恵みの懐に抱きしめてください。


    2


私たちの不忠の身体を屈めて、お父様に礼拝を捧げようとしているこの一時、ただただあなたが主導されるようお許しください。暗黒の勢力がこの時間に侵入しないよう守ってください。聖別された場所で、お父様の心情を分かち合い、お父様の心情に従って礼拝できる時間をお与えください。愛するお父様、心からお願い申し上げます。


初めから終わりまで、どうかあなたが直接導いてくださるよう心から祈り求め、主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。




<祈祷(Ⅱ)>
本来、天と地を統治するために来られたキリストの実体の姿を記念するこの時間をお与えください。ゴルゴダの丘で血を流し、敵のために祈られたその心情を記念する時間となるようお許しください。地上に悲しい出来事があるなら、それ以上に悲しいことはないということを、この時間、私たちが骨の髄まで感じることができるようにしてください。


イエス・キリストの悲しい事情と心情を私たちが体感でき、天の悲しみと無念さを知り、民族と人類、さらには歴史的な罪を犯した悪魔さえも、未来の子孫が進むべき道までも憂慮し、イエス・キリストの痛ましい事情を感じるこの時間をお与えください。お父様、心からお願い申し上げます。


顔も立場もない私たちを抱きかかえるために、6千年間、日々の休みもなくご苦労してこられ、心情の傷をものともせずに歩んでこられたお父様、私たちがその心情に習うことをお許しください。そして私たちがその歩みを追い、お父様の御心を成し遂げるために働くことができるように導いてください。


    3


罪の道を歩きながら、罪に浸り天を裏切ってきた私たちは、何も持たず疲れ果てた身体でお父様の前に立っています。この体がそのままではお父様の御前に立つことはふさわしくないと知りつつも、お父様を求める運命に置かれているため、面目なくもあなたの心情を慕ってこの場に伏しています。憐れみ深いお父様、どうかお許しください。愛するお父様、慈悲をおかけください。


私たちを支えるために忍耐してくださり、闘ってこられたお父様、今日も再び諭しの鞭を振ってください。お父様の御前に立つにふさわしくない悪の要素があるならば、それを取り除いてください。諭して聞き入れないときには、鞭を振るってでも悪の要素を取り除いてくださり、私たちが天の心情に触れ、神の命令に従うことができるこの時間をお与えください。お父様、心からお願い申し上げます。


お父様、この3,000万の民族を憐れんでください。悲しみの谷を越え、長い歴史の過程を経てきたこの民族、道を失いさまよいながらも今日ここまで残った者たちを憐れんでください。進むべき目的地もわからず彷徨っていたこの民族に、天の義なる新しい知らせを伝え、新たな復活の祭壇を築く一日をお許しください。新たな栄光の時を、この民族にお与えください。心からお願い申し上げます。


無力な私たちを集めて、お父様がこの民族の前にいけにえとなることを命じられたことを知っています。天に対して責任を果たせなかった自分を嘆くのではなく、お父様の御心に全てを捧げるいけにえ、悪魔の都市に突入して爆発する一つの爆弾となることを私たちにお許しください。心からお願い申し上げます。


迷い、さまよっている群れはこの民族だけではありません。この地に住む多くの人々にも新たな夜明けの鐘を響かせ、命の光を照らし出してください。お父様の栄光の日を紹介する時が、一日も早く来るようお導きください。心からお願い申し上げます。


    4


私たちを呼び立て、天の摂理の全体を教えてくださったお父様、私たちはその御心を知りました。どうか私たちがその御心のために行動できるよう、直接の力を行使してください。ためらう私たちの足を急がせ、躊躇するこの身体を、お父様、奮い立たせて、お父様が望まれる善の福地に向かって新たな決意を持って前進できる天の子どもたちとさせてください。心からお願い申し上げます。




<祈祷(Ⅲ)>
お父様、私たちは孤児のように迷い、目的も方向もわからず、どのような状況に置かれているのかも知らぬまま、歴史の流れに流され、生命の中心を見失ったまま、今日まで来た哀れな姿であることを知っています。


しかしながら、このような私たちを支えてくださり、私たちが悲しむときに共に悲しんでくださるお父様がいることを知りませんでした。そして、死の力に縛られて呻く私たちを見つけ出すために、昼夜を問わず苦労してこられた主人がいることも知りませんでした。こうした事実を知り、感じる喜びが、天と地を繋ぐことよりも尊いものであると私たちに悟らせてください。


私たちのために尽力してくださった天のお父様がいること、そして私たちの人生を案じてくださるより大きな天があることを知り、心と体でお父様に向かって敬虔に接することができるようお導きください。私たちが傷つく前に、お父様が先に傷ついてくださったという事実、私たちの体が疲れ果てて倒れるときには、お父様が私たちを抱きしめて慰め、再び進むべき道を示してくださることを、私たちに知らせてください。


今日まで言葉だけで生きてきた自分自身を自覚させてください。これからは、お父様を知り、お父様の事情を理解できる子供たちとして、お父様と心情の一体を成し、離れたくても離れられない、分かれたくても分かれることのできない関係を築き、お父様と私たちの間に割り込むことができる存在が何もない、確固たる位置に立ち、天の悲しみを自分の悲しみとし、天の喜びを自分の喜びとし、天の仕事を自分の仕事とし、天の責任を自分の責任と感じることができるようにしてください。


    5


今日、私たちは永遠に変わらない位置に立ち、億万のサタンと戦わなければならない責任者の立場にあることを知り、全てを救うためには、犠牲の立場に立たなければならないという、この厳粛な事実を理解できる子供たちとさせてください。お父様、心からお願い申し上げます。


天は私たちが眠っている時も眠らず、休んでいる時も休まず、この一群を目覚めさせ、導いてこられたお父様、再び、私たちはあなたの前に戻ってきました。どうかお許しください。眠る者や怠ける者がいるならば、再び警告し、傷ついた者がいるならば、お父様、油を塗り、癒してください。心からお願い申し上げます。


天を求め、悲しみながら追い求める者がいるならば、その者たちを抱きしめ、慰めてくださるこの時間となるようにしてください。お父様、心からお願い申し上げます。私たちの事情を知っておられるお父様、その事情の主人であり、許されない困難な事情さえも受け入れてくださる父であることを、私たちは知りませんでした。今、この心の奥底にある全ての困難や悲しみ、そして悩みを、お父様の前に全て打ち明け、お父様のものとして受け取っていただけるこの時間としてください。心からお願い申し上げます。


お父様、私たちの心の中にあるすべての不正な要素を取り除き、あなたの心性に、あなたの本質に同化し、あなたと一体となることができる強固な決意と覚悟を持てるこの時間としてください。お父様、心からお願い申し上げます。


自我の観念であなたのすべての性質を測ろうとする子供たちがいないようにしてください。完全に従順し、調和し、お父様が望まれる通りに、そしてお父様が形作られる通りに、動き現れるあなたの子供たちとなることをお許しください。お父様、あなたが許されない要素があるならば、すべてを取り除き、あなたが直接ご自身の御座にお座りになり、命令してくださるよう心からお願い申し上げます。


    6


今、この人々にあなたが与えたい言葉をお与えください。人間の言葉よりも、あなたの心情を通して発せられる新しい言葉が私たちには最も必要です。距離を置かずに、お父様の心情を直感的に感じ、お父様の動きを私たちの動きとして感じ、お父様の感じることを私たちの感じることとすることができるように導いてください。そして、お父様の無念さを体感し、お父様の怨みを解消することができ、心と体で新たな言葉の衝撃を感じることができるようにしてください。心からお願い申し上げます。


語る者の心も、受け取る者の心も二つではなく一つにしてください。この一時に、さらに恵みを重ねてお与えください。心からお願い申し上げます。


今日、地方に散らばって礼拝を捧げている孤独な家族たちにも、お父様の憐れみの御手が一律に注がれるよう心からお願い申し上げ、すべての祈りを主の御名によってお捧げいたします。アーメン。








<御言葉>


人間たちは、どのような目的地に向かっているのかも知らずに、長い歴史の道を歩んできました。どのような理念を持ってこの地に生まれ、その理念を通してどの目的地に到達するのか?また、どのような価値でその目的と関係を結ぶのか?こうした問題について、人間たちは完全な解決を見出せないままもがいているという事実を、皆さんはよく知っています。


信仰を持つ人々は、「私」の存在意識について語るとき、「私」という存在は出発も天であり、その結果も天であると言い、その天の意志の前で一つの価値を探し求めると言います。しかし、この観念は宗教的な人々だけでなく、一般の人々も持つべきだと考えます。人類の一員として生まれた私たちが考えるすべてのことは、自分を中心にしているけれど、その目的は自分自身にはないのです。自分を超えてどのような理念の世界と関係を結びたいのかという事実を、私たちは実生活の中で感じています。


    7


しかし、その世界と現在の私たちとの間には時間的な距離と空間的な距離があります。この距離を打破するための重要なものがあるとすれば、それは学説でも手段でもありません。この距離はただ心情の世界に入らなければ打破できません。


心情、それは宗教界で問題視されるだけでなく、文学や芸術の分野でも問題とされています。心情そのものを考えると、個人的な心情があるでしょうし、家庭レベルの心情、また社会、国家、世界レベルの心情があるでしょう。さらに、創造主、つまり実存の主人公がいるとすれば、その主人公も心情を中心に動いているという事実を私たちは否定できません。


人が生き、動くのは心情を中心にしたことです。心情を中心に状況を解決し、心情を中心に関係を結ぶために、人々は動いており、社会も動いており、世界も動いており、天理も動いているという事実は否定できません。


私たちがこの宇宙、さらに天主を洞察してみると、宇宙と天主は心情を基に動いています。つまり、心情を基盤にした法則を超えた存在は一つもありません。これを私たちは理解しなければなりません。


心情を中心に考えたとき、私はどのような心情を持っているのか、この社会と世界の人々はどのような心情を持っているのか、そして一つの統一的な天主を成し遂げようとしている神がいるなら、その神はどのような心情を持っているのか?またその心情がどのような関係と手段で結びつけられるのかが重要な問題です。もし個人の心情を超えて社会、国家、世界を越え、創造主の心情にまで結びつけられる偉大な宗教が現れるなら、すべての創造物はその宗教の範囲内に自然に入るだろうと考えます。


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それでは、今日私たちがより良い善を目指し、より美しいものを追い求め、より静かな愛を探し求める最高の目的は何でしょうか?それは創造主の天的心情と縁を結ぶことです。この事実を私たちは再び考えなければなりません。


この視点から見たとき、神の心情、天理の心情、人倫の心情を考察するとき、これらの心情が一つの目的に向かって正常に動いているのかというと、そうではありません。人間社会の人倫と摂理の法則に従って動いている天理が方向を変えているのです。この事実を宗教という名詞を借りて言うと、堕落の結果であると言えます。堕落によって創造主の心情と天理の心情、人倫の心情が衝突している悲しい事実を私たちは理解しなければなりません。


私たちはこうした自分たちを認識し、こうした社会を認識し、こうした世界を認識して歩みを止め、再び復活した創造世界を見つめ、創造主の心情を再び見つめ、社会の実状を再び見つめ、自分の心と体を再び注視できる人にならなければなりません。そうしなければ、新しい理念の世界、新しい静的な世界は人類の歴史に登場することはできません。このような立場に立った私たちは、歩みを止めて見守ってくださる方を見つめなければなりません。


私たちの生活の中で、私たちが知らず知らずのうちに動いている存在を、私たちの生活環境を整え守ってくださる存在を、私たちは歩みを止めて再び見つめる必要があると感じなければなりません。それで、今日皆さんにお伝えしたいことは、歩みを止めて見守ってくださる方を再び見つめることです。このタイトルでお話ししようと思います。


私たちは全体を見渡せる人にならなければなりません。さらに、目を上げて最も小さな微生物の世界を見つめることのできる人にならなければなりません。また、目を上げて死が波打ち、死によって破壊されていく社会的実状を見つめることができる人にならなければなりません。そして、目を上げて自分の心の世界と無限の理念の世界、関係を結びたい静的な理念の世界を見つめなければならないことを、皆さんは再考しなければなりません。


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私たちは微生物である細菌から天体まで、自分の一個体と関係を持って考えなければなりません。また、私一人を中心に、平面的な世界だけでなく立体的な世界、すなわち心の世界を再考しなければならない立場にあることを皆さんは理解しなければなりません。


今、私たちが住んでいるこの地球は、太陽の周りを宇宙の法則に従って変わることなく公転しているという事実を私たちは知っています。この地球自体がそうであるように、太陽自体も自転しています。地球の130万倍の質量を持つ太陽が休むことなく動いているのです。宇宙には、太陽系の質量の2000億倍に相当する広大な銀河系があります。このような銀河系を小宇宙と呼び、宇宙には銀河系のような星雲が数え切れないほど存在します。これを総称して大宇宙と呼びます。私たちはこの広大無辺な大宇宙の世界を心を広げて見る必要があります。半径だけでも数千億光年にもなる巨大な大宇宙を創造された神は、その大宇宙を変わらぬ法則によって数億千万年も動かし続けているのです。私たちが考えることも感じることもできないほどの偉大な力でこのすべての天体を動かしているのです。


このような宇宙を創造された神を考えると、その壮大さと偉大さに自然と頭を垂れざるを得ません。この大宇宙を創造された方が私たちを守ってくださる父であり、私たちを保護してくださる神であり、実存する偉大な主人公であるという事実を、私たちは心を広げて考えなければなりません。


神はこの大宇宙を創造し、創造された大宇宙のすべての存在を見守り、無限に喜ばれました。一日の希望を描きながら……もし神が言葉を話すことができたなら、どれほど多くの言葉を語ったことでしょうか!また、自慢することができたなら、どれほど多く自慢されたことでしょうか!


このような膨大な天体、私たちが数字で数えることができないほどの価値の天体ですが、その天体自体が神の創造目的ではありませんでした。神の創造目的は、太陽系の中の一つの衛星である地球という小さな地面に、大宇宙に比べれば塵にも劣るような取るに足らない人間を創り、人間を中心に一つの理念の世界を建設することでした。この事実を考えるとき、そのありがたさと喜びと栄光と偉大さがどれほど大きいか、皆さんは考えたことがありますか?


    10


また、私たちが万物、自然界を見つめるとき、四季によって変わる自然現象や、その時々にすべての生物が花開き美を表すのを見るとき、私たちは無意味な心情で見るべきではありません。私は鳥を見たり、蝶や蜂を見たり、流れる水やそびえ立つ山の頂きを見るときも、これらすべてが創造主である神の内面的な心情が反映された姿であることを感じ取るべきです。


多くの芸術家がいて、多くの文学者がいますが、すべての芸術家と文学者は一様に多くの形容詞を使って創造世界、すなわち万物の美を表現しています。そして、この自然は芸術や文学と密接な関係を持っています。創造世界、すなわち自然を抜きにしては、私たちが楽しめる相対的条件は計り知れないほど減少するという事実を考えると、自然はなくてはならないものであり、感じなければならないものであることがわかります。


私たちはこの関係の心情を持って自然を見なければなりません。さらに、球形や繊毛形などさまざまな形を持つ非常に微細な細菌からバクテリアや細胞、広大無辺な天体まで、生物や無生物を問わずすべての存在は秩序正しく、自分でも知らずに何らかの目的のために作用し、運動しているのです。


では、創造主はなぜこれらすべてをこのように創造されたのでしょうか?それは、地上に住む極めて微細な存在で、天体に比べれば塵にも劣る人間のために天主を創造されたという事実を、皆さんは心の扉を開けて再度考えるべきです。


神がこのように創造した万物を見て喜ぶべきでしたが、喜んだことがないので、人間に悲しいことがあるとすればこれ以上の悲しみはないでしょう。それにもかかわらず、人間はそのような悲しみを感じることができない存在になってしまいました。悲しむことを知らない人間になってしまったのです。しかし、創造主である神は長い歴史の過程を経て、人間が悲しむ前に悲しみ、人間が悩む前に悩みながら、人間のために今まで努力し続けています。


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このような神を、皆さんは心の扉を開けて歩みを止め、目を上げて再び見つめることができなければなりません。その一瞬がなければ、人間の価値が回復されることはありません。


今日、私たちは神を信じていますが、私たちが持っている感情の主体として、意識の主体として信じています。しかし、神は無限の天体を動かし、永遠に向かって休むことなく進んでいます。このような神を私たちは信じるべきです。このような神が6000年という長い年月の間に私たちを守ってくださった事実を、人間は休む時間があったが、神には休む時間がなく、人間は眠る時間があったが、神にはそのような時間がなかった、また人間が知ろうが知るまいが、いつも人間を知っておかなければならない立場にあったという事実を、皆さんは骨身にしみて感じたことがありますか?


真の宗教的心情が湧き上がるその瞬間には、万物を見て頭を垂れることができるのです。そして、天を見たり、自然を見たり、天体の無数の星雲を見たりするときに神秘的で崇高な感情が心から湧き上がります。このような感情から宗教が発生しました。自分を超えて自然の現象を見つめ、高く評価し、動く自然のすべてを見つめ、自分の心情世界の高貴なものを代わりに歌うことができなければなりません。


そして、動くすべてを自然の音楽のように、自然の芸術のように、自然の文学のように感じる心情が自分の心から湧き上がるときに初めて、天体を支配する神と自分が関係を結ぶことができることを皆さんは理解しなければなりません。このように、自分がすべてと関係しているという心情が強くなることで、物事を扱う際の感情的基準が整います。これが私たちが霊的な境地に入るとそのまま感じることになることを皆さんは理解しなければなりません。


創造主神と創造された万物はこのような関係を結んでいます。神と万宇宙はこのような因縁で絡み合っており、人間と関係を結ぼうとしています。このような事実を感じながら自然を見つめるとき、皆さんは初めて人間の尊厳を感じることができるでしょう。


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神と創造物がこのように切り離せない因縁で絡み合っているのは、極めて小さく微細な存在である私たち人間とつながるためであることを知るとき、万物と私たち人間との関係、また神と私たち人間との関係を感じることができます。この境地で私たちの心はこのような方向に流れています。自分の生活の中で、いつも自分をその方向に促しているのです。この境地で芸術が現れ、宗教理念が生まれることを皆さんは理解しなければなりません。


そのため、私たちは広大無辺な宇宙を見つめるとき、無意味に見つめるのではなく、私たちと永遠な関係を結んでいるという立場から、またそれがすべて私たちのために創造されたという事実を感じる立場から見なければなりません。そこで、皆さんにはどんな宇宙的な変動があっても、神が私たちを守り、保護してくださるという信念が生まれるのです。


そうなれば、また神と私は切り離せない驚くべき因縁、神が心情でつながった私の父であることを感じ、体と心が天倫と通じ、倫理と通じて自分も知らない力がぶつかる感覚を得ることができます。


その力は神の心情から来る力であり、創造的な原理法則を通じて神と私との因縁によって作用する力です。また、その力は理念の世界と心情の世界、あるいは現象の世界にまで一括して通じると同時に、無形世界を通じる心的基準となるのです。


このような事実を知る立場にあり、万物を扱い、万物を創造した神の心情を歌うことができる者、天体を創造し喜ばれた神の心情を歌うことができる者、人間を創造し喜ばれた神の心情を歌うことができる者、理念の世界が善く、尊く、美しく創られていることを歌うことができる者が、お父様の前で賛美を捧げる姿があるときに、ここで初めて天の縁が結ばれ、人間の縁が結ばれることを感じなければなりません。また、天倫と人倫を通じる歴史的で摂理的で創造理念的な心情の縁が結ばれるという事実を感じるべきです。


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今日、私たちは神を私たちと同じ形を持つ方と知り、そう信じています。しかし、信仰生活の中や祈りのとき、あるいは暗い夜に一人静かに心を沈めて自然界を見つめたり、真剣な心で心の扉を開けて本心から湧き出る心情を感じながら自然界を見つめたりする時、その自然界が自分のために存在していること、無数の天体世界が自分のために存在していることを実感するでしょう。そのような境地で頭を下げ、「お父様、ありがとうございます」と祈るその瞬間は、人間と人間の感情で祈るどんな時間よりも崇高な祈りの時間であることを感じることができるでしょう。


私たちは神を「父」と呼んでいますが、そのお父様が私たちを守ってくださるとだけ知っており、そのお父様がこれほど大きく、これほど偉大で、これほど細やかであることを知りませんでした。また、そのお父様が一日だけでなく、創世以前から今日まで数千年の間に私たち人間を見つけ出し、心情が通じる父と子の関係を結ぶために苦労してきた事実を、心から感じるべきです。


このような事実を真心で感じる時、この父は偉大であり、その言葉を使うべきはこの方だけであるほど偉大であり、大きいという言葉を使うべきはこの方だけであるほど大きい、驚くという形容詞で称賛し、偉大という形容詞で称賛し、尊厳という形容詞で称賛するべきはこの方だけであるほど偉大な方であることを知るべきです。そして、この方が私たちを守ってくださる事実を知るべきです。


それにもかかわらず、今日まで人間が抱いてきた希望がどうしてそんなに小さいのでしょうか?考察の視点がどうしてそんなに狭いのでしょうか?持っている感情がどうしてそんなに邪悪なのでしょうか? このような嘆きをせざるを得ません。理念の世界の感情を感じる境地に入り、自分でも知らずに頭を下げて涙を流し、私たちを守ってくださる聖なる存在の前で両手を合わせて「お父様」と呼ぶその一時間が信仰生活にないとすれば、神が創造した万物の世界を支配せよと命じられたその支配の目的を知っても、その責任を果たすことができる者とは言えません。


イエスは「全世界を得ても、自分の命を失えば何が得られようか。」(マタイ16:26)とおっしゃいました。取るに足らない微細な存在であるこの存在が、いかなる創造物の価値よりも尊いと言ったのはどういう意味でしょうか?それは形が美しいからではなく、形が偉大で驚くべきだからではありません。それは単に人間が創造理念の世界で内面的に流れる情を通じることができる存在だから、尊いと言えるのです。


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どんなに広大な天体世界、どんなに美しい自然界であっても、それらが創造主なる神にどのような刺激的な感情や衝撃を与える存在となるかはわかりませんが、内面にあるお父様の創造理念の心情を一瞬でも捉え、それを表現して父を喜ばせることはできません。天体の創造的な心情の流れを瞬時に捉え、その感情と同じ感情でその心情に応答できる存在は万物ではありません。外界に現れた万物ではなく、万物を支配するように創られた人間なのです。だからこそ、神は人間を必要とされるのです。


心情というものを除けば、人間の価値は微細なものよりも劣ると言えます。私たちの心も、行動もそうです。それでは、理念を立てて天地を創造された神の心情の前に、美の本質、愛の本質、善の本質として現れるためにはどうすれば良いのでしょうか?歴史的に感じられる感情、時代的に感じられる感情、生活的に感じられる感情、また自分を中心にして見つめる欲望や希望、自分を中心にした幸福感や感情よりも更に崇高な感情の縁が私たちの前にあることを知るべきです。


これまでの歴史の中で、どんなに「私は幸福な人間だ」「私は成功した人間だ」「人間の中で偉大な勝者だ」と言っても、それを嘲笑するほどの幸福が残っていることを私たちは知っておくべきです。どんなに成功を誇る人がいても、それを嘲笑するほどの成功が残っていることを知っている人、また、自分が金を持っていると誇る人たちに、それ以上のものがあることを知るべきだと主張できる人にならなければなりません。


歴史的な終末の時代である今日、天が私たちを訪れ、私たちはまたその天を訪ねるとすれば、私たちは人間が知り得ないほどの幸福がどれほど大きいか、人間の成功がどれほど偉大であるか、歴史的人物を嘲笑するほどの幸福を歌い、さらに偉大な成功を誇ることができるものがあるということを予想できるはずです。


今日、人間が喜んでいるものは完全な喜びではなく、成功と言われる完全な成功でもありません。それは単なる過程的な現象に過ぎないのです。それにもかかわらず、そのようなものに酔いしれて生きている人がいれば、その人は哀れな人です。


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イエスが「全世界を得ても、自分の命を失えば何が得られようか。」(マタイ16:26)と言われたときの「命」、つまり生命は堕落権の中にある私たちの生命ではありません。それではその生命とは何でしょうか?それは創造主の生命と直接的に結びついている生命です。イエスの言葉は今日までの歴史的な感情ではなく、創造本性に流れる感情と関連できる感情、創造本性と通じるそのような感情を持った価値ある人間の生命を賭けて言われたことを私たちは理解しなければなりません。


私たちが生きる道の中で堕落による悲しみの過程が横たわっているため、幸福だと自慢することなく、自分を中心にした幸福を自慢してはいけません。そのような人は過ぎ去ってしまいます。自民族を中心に幸福を論じる者も過ぎ去ってしまいます。私たちが生きているこの世界を中心に幸福を論じる者も過ぎ去ってしまいます。


どんな理念を提唱する者がいても、自分たちの国を中心にした理念や地上の世界を中心にした理念を掲げて闘うなら、その者もまた過ぎ去ってしまうのです。天が存在するとすれば、私たちは結局通過する歴史の中に立っている自分を認識し、歩みを止めて再び見つめ直さなければなりません。生きている私たちの生命を支配するその支配者はどこにいるのでしょうか?私たちが幸福を望んでいるのに、幸福の感情を支配する主はどこにいるのでしょうか?私たちが目指す目的に向かって進み、成功を希望しているのに、その成功を支配する主はどこにいるのでしょうか?その主は私たちを教える師でもなく、私たちを導く何らかの主義でもなく、何らかの宗教でもありません。


これを考えるとき、私たちは歩んでいる足を止め、真の理念と幸福と成功を紹介する真の心情で私たちを守るそのような方はどこにいるのかを再び見つめ直さなければなりません。自分を中心にしてどんなに幸福だと言っても、その幸福が世界と何の関係もなければ、自分を中心にしたその成功は6000年の人類歴史、いや永遠の天宙の歴史に何の貢献をするのでしょうか?国のために功績を上げた者があったとしても、全体をために功績を上げたのであれば忠臣として現れることができますが、自分を中心にした立場で功績を上げたのなら忠臣とは言えません。


歴史は深刻な様相で展開しています。今、歩みを止め、自分は誰のものであり、自分は誰に支配されたいのか、自分の心情は誰を迎えたいのか、誰をためにしたいのかを考えなければなりません。これが問題です。自分を中心にして幸福に生きようとしても幸福に生きることができないのはどういう理由でしょうか?生活圏内でこれを考えたならば、歩みを止めて心で待ち望む理念の主人公はどこにいるのか、人類に幸福を紹介しようとする者はどこにいるのか、私たちの最大の幸福の要素を支配し、私たちを歴史の流れへと導く主がいるとすれば、その主はどこにいるのかを探し出さなければなりません。


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皆さんはよく知らないかも知れませんが、歴史は目的地に向かって流れています。の統一された理念世界に向かってずっとその間なく流れています。これは人間の操作によるものではなく、人間のこの流れは、自分でも知らないうちに動けずにはいられないものであり、それは私の周囲を巻き込み、私の心を巻き込み、私の国家と世界を巻き込む少数力があるため、そして私は目的とする世界に向かって進まなくても過程にある存在であるため、流れないではいられないのです。いるという事実を、皆さんはもう一度考え直すべきです。


さて、この流れの中で私の歩みはどの方向に向かっているので?左でお願い、右でお願いですか?縦でお願い、横でお願いですか?このような流れを見たとき、私たち私たちは自分を中心とした幸福を主張することはできず、自分を中心にして成功を主張することもできません。です。


人間は本来、被造世界全体と関係を持ち、被造世界全体に対して主体的な立場に立つべき価値があるのです。そのため、この万物の前に自分を誇れるほど成功するまでは、その感情流れを止める方法はありません。結局、人間が進むべき道はこのような道です。この偉大で驚くべき縁の世界から出発し、関係の世界を経て目的の地に到着します。の価値を現し、自分自身が創造主の前で誇りに思い、立ち上がることができるのです。事実を皆さんは知っているはずです。


このような人々を導くために、宗教が現れる、芸術文化が現れました。そうして私たちの感情問題を整理します。個人的な感情から家庭的な感情へ、家庭的な感情から国家ような感情へ、国家的な感情から世界的な感情へ、世界的な感情から宇宙的な感情へと進んできました。過去の芸術はこのような方向を目指してきたのです。


自然界と人間が内的な正義の縁を結ぶために、これらを静的な理念の世界へ導くために、芸術が文学があります。科学は外的なすべての自然法則幼い私たちの生活環境を結ぶために貢献しています。科学の道は進むほど芸術冷静な道であり、文学や文学の道は進むほど切ない道です。このような中で、すべては一つの理念に向かって進んでいます。


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宗教とは何でしょうか?科学や芸術文化が人間世界に貢献し、外側的な私たちの感情を広げたとしても、内側的な感情の世界を永遠の世界まで結ぶことはできるず、本来の天的な感情の世界まで結ぶこともできませんでした。このような内的な感情の世界を見つめるために出てきたのが宗教です。


宗教は芸術の内的な分野を代替したものであり、文化は内部的な側面を代替したものであり、芸術家や文学者が想像もできない無形の本体を、そしてその方によって美の衝撃を受けて生きていくのです。


しかし、多くの分派に分かれた宗教が合流しなくてもいい時が来ます。これはどの宗教という枠を中心にして行われる芸術ではなく、どのという枠を中心にして行われるので、全体的で直接的な舞台となる存在である皆さんです。 「私」という存在です。 「私」という存在です。貫く心の基盤となります。から追放されてしまいます。


それでも、中間的な自分を見つけなければいけない私たちですが、宗教が今日まで時代を越えて多く貢献してきたということです。正義の世界には発展がありません。発展はありません。なぜなら、心情の世界何千年前も、何億年後も発展がありません。親が子を愛する心、夫婦がお互いを愛する心、自分の同族や親戚を愛する心、これらのその心情一つを持って全体を代替することができ、その心情一つを持って全体性を代替することができ、その心情一つが全体の幸福を代替するできるからです。


では、人生最高の幸福の地はどこでお願いですか?最高の安息の地はどこでお願いですか?神がどのような本体として存在するとしたら、私たちは彼の息子だと主張でき、彼を父だと言う場所、またその神が私たちを息子と行く場所です。 静的な基盤の上でそのようなシナリオで地上で起こり得る、その瞬間から人間世界は幸福な世界あり、人類が最大限だ最大の成功の世界だと見ざるを得ません。


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勝手に、どのような宗教理念を持って現れた人であっても、すべて善を指向して善感情を満たす仕事をしてきたのです。私は神と一体だと言いました。 歴史上これ以上偉大な事実を宣言した者はそうではありませんでした。 そして人類に対して、私は新郎であり、あなた方は新婦人だと言い、さらに友だそして民だとも言い、弟子だとも言いました。


人間全体の生活感情を動かし、すべての要素を刺激できる全体の要素を挙げて、その本体価値を代替して主張した。このようなイエス様は万物を見たとき、静的な心情で見ておられ、歴史的な人物を扱うときも、平面的に扱って、歴史的な心情で対応されるこのような矛盾した現象は堕落した世界であったために現れたということを私たちは知っているべきです。


イエス様は「誰よりも私を愛しなさい」と言われました。 この言葉は、それまで慣れ親しんだ縁を結び、静的な関係を持つ世界の前に一大爆弾宣言であり、革命的なそれは何もというと、イエス様は自分が感じ、自分の心の中に流れる愛の心情で人々を見たとき、天地を貫き、人類すべての心情を貫き、始まりと終わりを創造された神の心情を貫くことができる見地で見たとき、それまで人々が皆愛したものは、天から本来の愛として認められるものではなかったからです。


このような主張をして立ち上がったイエス様の前に全ては敵でした。 すべてが敵でした。でした。 カルバリ山で、敵の前で耐えられ血を流されたときの彼の悲しみを誰も知らなかった。 また、彼が希望と願いを持って見ていた喜びの心情を誰がそれも知りませんでした。


しかし、イエス様はその時でさえ、無限大の宇宙を創造された神が堕落した人間を見ている悲しみが無限大の悲しみであることを思い起こしました。希望を持たれる神ではありません。人間が堕落したことを嘆く神だと言うなら、人間を創造されたことを後悔される神だと言うなら、その神の悲しみは、感情を持つ私たち人間が何千年考えても理解できないほど無限の悲しみだということを私たちは知らなければなりません。


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その時、イエス様は神様の心情が無限の悲しみで染まる前には、人間を希望し、慕う無限の喜びの心情であったということを知るべきです。破滅するのではなく、悲しみを振り払い、無限の喜びを求めて進められたのです。では、イエス様がその心情を考えて戦い続けることができた理由は何だったのでしょうか? 悲惨な生活を、ヨセフの家から追い出されてもその悲しみよりも大きな悲しみがあることを知られ、国家から追われ、イスラエルから異端者とされても、その上の悲しみが残る事や、愛する弟子たちからも追われても、その壁が残ることを知っていたからです。


イエス様は十字架に釘付けにされて死ぬ場所に入っても、自分が死ぬ場所で感じる悲しみ以上の悲しみがあることを知っていたのです。ですから敵に対して祈ることができました。その時、イエス様は自分の心情よりもさらに大きな悲しみの心情、より大きな悲しみの歴史、より大きな悲しみの基準が残っていることを知っていたのです。


では、神様はなぜイエスを見捨てて、世界を見捨てることができなかったのでしょうか? イエスを十字架に渡しながらも、敵を見捨てなかった理由は何でしょうか? それは、イエスが死ぬ以上の悲しみがあったことを証明するためです。


堕落した私たちは、この無限の天的心情を探し、私たちを守り、摂理された歴史的心情を体験し、神の前に勝利の姿で現れなければなりません。皆さんが暮らしているこの社会を見ると、この世界は喜びの世界ではありません。また、人類の歴史は悲しみの歴史です。人類の歴史は喜びから始まったのではなく、悲しみから始まったために、今日の人類の歴史は悲しみの歴史となっています。


個人が自分の悲しみの為に泣き叫ぶのを見ると、皆さんは同情するでしょう。しかし、個人の悲しみに同情し、自分自身を楽しむ事があってはいけません。個人を超えて、家庭、さらに国家、世界、天の悲しみまで、私たちと関わりがあります。


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皆さんはしばしば個人の不満や、自分自身の不幸、自分自身の困難、自分の心に深く刻まれた悲しみを持って泣き叫ぶことがあるかもしれません。しかし、皆さんの個人の悲しみよりもさらに大きな悲しみが、家庭、社会、国家、世界、そして天に残っています。


今、私たちが天の心情を探しに行く勇者になるためには、私たちの心の悲しみを感じるとともに、究極の悲しみを感じることができなければなりません。人生の道程で、私が排斥され、裏切られ、不当な扱いを受け、追い詰められることが、天を目指す過程において最終的なものなのかどうかを考えなければなりません。人間同士の悲しみ以上に大きな悲しみがあります。創造主が偉大で高いのであれば、その創造主の理念も偉大で高いのは当然であり、その善と理念を描くその心の前で、悲しみが偉大で高い理念を代替するのではなく、宇宙的な善を代替し無限の対象の位置を占めていることを私たちは忘れてはなりません。


皆さんが天を探しに行く過程で悲しみ、涙を流すとしても、自分を中心に出発し、自分を中心に結果を結ぶために悲しんではなりません。そのような者は自分を抱えて破滅してしまいます。家庭を抱えようとする者は家庭を抱えて破滅し、国家を抱えようとする者は国家とともに破滅し、世界を抱えようとする者は世界とともに破滅します。


では、私たちは何を抱えて泣くべきでしょうか?天を抱えて泣くことができる人になるべきです。神の悲しみを自分の悲しみとして、神の困難を自分の困難として感じることができる人になるべきです。


私たちは堕落した人間であるため、悲しい歴史の道程をたどりゴルゴタの丘を目指して歩かなければなりません。今日、皆さんが感じる苦痛や、皆さんが受けるその悲しみは終わりではありません。終わりではありません。


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これを知っていたイエス様は、敵に対して祈ることは問題ではありませんでした。それ以上の悲しみの山があっても、その悲しみの山を越えて天的な子としての使命を全うしなければならないことを感じていました。そのため、イエス様は死の山を踏み越えることができました。また、そのような心の衝撃で十字架の上で敵を許し、死を克服することができたことを私たちは知っておくべきです。


それでは宗教の歩みは何を探し求めるものでしょうか?神は宗教を設けて、良いもの、貴いものを人間に紹介されましたが、人間は良いもの、貴いものを歩むことができず、困難で悲しい歩みを歩まなければなりませんでした。


天が6千年間努力し悲しんでいたことは、どの宗教の経典にも紹介されていません。しかし、善や私たちが生きるべき福地については詳細に紹介されています。なぜ天はこのような方法を取ったのでしょうか? それは天が私たちを愛しているからです。天が私たちを愛しているがゆえに、この方法で私たちに近づいてきたのです。人間が天を探し求めるのもそうですが、喜びは一日で突然訪れるものではありません。悲しみの道を通った後に、喜びを見つけることができるのです。


天国を望む者が地上にいるとしたら、天の真の子どもになりたいと思う者が地上にいるとしたら、「私の一生に神様の6千年の悲しみの涙を流させてください」と祈り、泣くことができる人になるべきです。命をかけて天と地、すべての万物をかけて叫ぶことができる人になるべきです。


善良で、美しく、貴い、誇らしく、栄光に満ちた立場にいるお父様ではなく、悲しみの立場にいるお父様を発見した人が、お父様が探し求める善の主人公となるでしょう。神様の真の子どもであることを理解するべきです。


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天が涙を流していたとしたら、この地上のどんな湖や大河の水よりも多く流していたでしょうし、天と地に満ちる場所がないほど涙を流し悲しんでいたことでしょう。したがって、神の悲しみを理解する人は、山を見るとその山を天の努力と苦しみの山と感じ、海を見るとその海を神の涙と感じ、草木を見るとそれを神の心配と感じるでしょう。広大無辺な宇宙全体を見たとき、そのすべての現象が美しいとはいえ、その美しさが人間と直接的な関係を持っていないことを見て、神には悲しみの条件となることを理解するべきです。このようなことを感じ、そうした感情で父を呼ぶことができる子どもたちが地上にどこにいるのか、神は探し求めるでしょう。


真の孝行者とは、お父様と共に喜び、お父様と共に楽しむことだけで孝行者と呼ばれるわけではありません。そうした人を孝行者とは呼びません。お父様の喜びよりも、お父様の悲しみや困難を代わりに受けることができる子どもが孝行者と呼ばれるのです。


人間がこのようであるならば、天も同様です。感情が喜びに結びつくことができない堕落した世界のために、悲しみと困難の道を歩かなければならない人間であるため、手がひび割れ、体が疲れ、裂けるとしても、天を目指して走る心を持たなければなりません。この地上にいるどんな人間をもつかまえても、天に対して叫び続けるその一時間が、失われた天と結びつく時間であることを理解しなければなりません。


人間はこのような時間を取り戻し、自分の人生で天に頭を下げ涙を流す時間を持つべきです。そして、その心から悲しみが消え、喜びと平和を歌うその瞬間が、天が訪れる瞬間であり、天が笑う瞬間であり、天が喜びをもって私の子どもたちと祝福する時間であることを理解するべきです。


堕落した人間たちは、今日まで歩んできた歩みを止め、新たな悲しみの道を歩まなければなりません。6千年間、人間を守るために悲しみの道を歩んできた天がいたことを知らなかった人間たちは、自分を反省しなければなりません。自分の家庭や国家、世界をもって自分を嘆かなければなりません。


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死のゴルゴタの丘を越えながらも天の悲しみを考え、敵のために祝福を祈ったイエスの足跡に従わない限り、神の苦労の心情や神の悲しみの心情を地上の人間として感じることはできません。神の心情に深く浸りきった悲しみを解消できない限り、神様の中にある永遠の喜びや永遠の善、永遠の幸福は地上の人間と永遠に結びつくことはできないのです。


今日、皆さんは自分の位置を再考するべきです。涙を流すことが多かったでしょう。その涙はどこに行ったのでしょうか? 再び反省してください。皆さんの手は自分自身のために多く動いています。しかし、この手は誰のために動いているのか、この歩みは誰のために努力しているのか、この体と心は誰のために何を描き、探しているのかを立ち止まって考えるべきです。


歴史的な悲しみに直面している自分を認識し、希望の一日を再び探さなければならないことを感じ、改めて覚醒し過去の生活を批判しなければなりません。天が期待する自分でないこと、天との縁を結べなかった自分を嘆かなければなりません。


「このような立場に立つ私は、家庭に対しても面目がなく、国家に対しても面目がなく、世界に対しても面目がない」と感じる心情を、皆さんは常に感じるべきです。このような心情が皆さんの心から湧き出るなら、家庭を見ても涙が流れ、国家を見ても涙が流れ、世界を見ても涙が流れ、天を見ても涙が流れるでしょう。皆さんの生涯でこのようなことがなければ、神の心情が隠れた黒い幕を突破し、深く隠された神の善や神の喜び、神の幸福を見つけることはできないことを理解するべきです。


今、私たちは生活しながら、自分のために生きているのかを分析し、自分を守っているその一人がいることを知り、たとえ自分が知らなくても、知っていても、自分を守っている一人がいることを見つめることができるようにならなければなりません。


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御言葉選集5(13)

2024年09月14日 13時35分43秒 | 日記


文鮮明先生御言集 5 - 13. 愛天者と愛国者になろう (1959年3月1日)


1959年3月1日(日)、前本部教会にて。


マタイによる福音書 5:33-48


<祈り>


愛するお父様! あなたを求めて歩む人間の短い生涯は、一見単純なようで実は複雑であり、私たちもそのような生活の道を歩まざるを得ません。この日も、明日も忍耐し、残りの生涯をお父様の懐の中で送る祝福された息子娘となれるように導いてくださることを、お父様、切に願い求めます。


今日この世には、私たち自身だけでなく、無数のサタンが私たちを取り囲んでいることを知っています。このサタンたちは、6千年もの間、お父様の前で巧妙な戦いを挑み、告発の条件を掲げてきました。お父様が私たちをサタンから守るためにどれだけ努力されてきたか、私たちは理解しています。どうか、お父様の心配が私たちの心配以上に大きいことを悟らせてください。お父様がサタンと戦い、成し遂げられた業績が、私たちが一生をかけて努力し戦ったものよりも大きいことを、この時間、私たちに教えてください。


多くの先祖が、命の道を握りしめて、復帰の意志を果たすために尽力してきたお父様の努力は、十字架の道であり、私たちには何一つとして報いることができない、私たちの借りであることを知っています。今日、その恩恵の前に、私たちの体と心をすべて捧げてもなお不足を感じ、恐縮の思いで、この時間、父に向き合える私たちであることをお許しください。


お父様、これまでの歴史が、不足した者を栄光の前に立たせるための道のりであったことを知りました。不足している私たちに、切なるあなたの心を注ぎ、この時間、父に忠誠を尽くす気持ちだけを持てるようにお許しください。私たちの体と心が自分のものとならないようにお許しください。お父様の心に深く入り込みたいという切なる思いを持たせてください。そのような心に満ちた一つの生贄となれるようにしてください。そして、お父様の愛の懐に抱かれ、父を慰め、また父から慰めを受けることができ、お父様が愛する息子娘としてこの時間向き合うことができるように、切に願い求めます。


このような恵みを願って私たちはここに集まりました。どうか見捨てず、お父様が「息子よ!」と呼びかけてくださる私たちとなれるようにお許しください。お父様が手を握り、愛することができる息子娘としてこの時間導いてくださることを、切に願い求めます。


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戦いに疲れ、明日も戦わなければならない責任を残している私たちの弱さを憐れんでください。お父様! 力を与えてください。私たちの心に新たな力を与え、新たな能力を加えてくださり、残された戦場で敵の前に屈しない強く勇敢な息子娘となれるようにお許しください。天の全ての使命を担う戦士として、お父様の栄光を高める息子娘となれるようにお許しください。愛するお父様、切に願い求めます。


お父様が私たちの命の主体となり、サタンの要求条件に引っかかる命が一つもないようにお許しください。私たちがお父様のものであることを誇りとし、お父様の栄光となる存在となれるようにお許しください。愛するお父様、切に願い求めます。


私たちの心の中に罪の根が残っているならば、お父様の力でこれらを清めてください。お父様が望まない性質はすべて取り除いてくださり、お父様の性質に従える心の変化が起こるようにお許しください。お父様! 私たちの体と心に新しい力と新しい愛の感動を与えてくださり、悪の要素をすべて除き分別して、お父様の懐に抱かれる再創造の業が起こるこの時間をお許しください。愛するお父様、切に願い求めます。


私たちがお父様が望まれない思いや主義や観念を持たないように導いてください。私たちのすべてがお父様のものとして始まり、動き、お父様のものとして結実するこの時間をお許しください。お父様、切に願い求めます。


このような感動と衝撃がこの時間私たちにないならば、偉大な摂理の前で全てを背負って責任を果たすことができません。お父様、この時間、直接お越しくださり、私たちに命の喜びと命の復活をお許しください。


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お父様! この眠っている都市を目覚めさせる責任が私たちにあります。三千里の山河を新しい光の中へと導く責任が私たちにあります。どうか、弱い手を強めてください。貧弱な体であっても、サタンに最後の一撃を与え、天の栄光を現す息子娘とならせてくださいと切に願い求めます。


この一年に決意し誓った全てを投げ出す者となることなく、その誓いを心に抱き、体に携えて、多くの命を救う一つの爆弾のような存在とならせてください。命が原子爆弾のように暗い世界を打ち砕き、お父様の栄光の基盤に復帰することができるようにしてください。私たちに託された責任を果たす息子娘とならせてください、愛するお父様、切に願い求めます。


この民族を祝福してください。この人類を祝福してください。私たちの望みすべてがお父様のものでありますように、お父様、共にいてくださり、導いてください。残された復帰の恨みが晴れるその日まで、私たちを導いてください、お父様、切に願い求めます。


今日も明日も誠心を尽くし、お父様の前に出て、進む中で不足を感じ、焦燥感を持ちながら開拓していくことをお許しください。熱烈な心を持って開拓できる感動の力が、私たちの生活と人生の道全体を動かすことができるようにお許しください。


この日、地方で孤独な心を抱き、お父様の前に祈っているあなたの息子娘たちを祝福してください。同じ恵みで包んでください。許された恵みを誇りに思える栄光の姿に立たせてくださる様にと、切に願い求めます。


     3


この日、礼拝を捧げる場所ごとに、天の無数の聖徒と天軍天使が取り囲み、あなたを喜ばせることができる日となるようにお許しください。礼拝の時間が天に喜ばれる時間となるようにお許しください。この時間、ただ聖三位一体がすべてを導き、サタンが一切関与しない時間となることを切に願い、お願い申し上げます。主の御名によって祈ります。アーメン。










<御言葉>


この時間にお伝えしたい題目は「愛天者と愛国者になろう」、つまり「天を愛する者と国を愛する者になろう」です。


本来、人間は天を愛し、兄弟を愛し、この地を愛するようにできていました。天と人と地をすべて愛さなければならない存在だったのです。神様が本来人間をお創りになったとき、人間が天を愛し、兄弟を愛し、この地を愛することを知っている者として創造されました。しかし、今日この地上に生きている人々は皆、堕落の子孫であるため、天を愛することも、兄弟を愛することも、この地を愛することもできない者となってしまいました。これが堕落による悲しみです。


そのため、天はこの悲しみを抱き、堕落した人間を本来の姿に回復するために、今まで6千年という長い年月、どんな戦いも厭わずに犠牲を払い続けてこられたという事実を私たちは知っています。つまり、失われた人間を復帰しなければならないという天的な責任を負い、人間を探してこられたのだということを私たちは知っています。


今日の私たちは、神様の復帰摂理の意図を知らなくても、私たちの心は自然と天的な因縁に従っており、その天的な因縁が私たちの生活と人生を支配しているという事実を、私たちは日々の生活の中で多く体験しています。


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では、なぜ皆さんの心は、自分でも知らないうちに善なる大きな理念の世界を求め、休むことなく動いているのでしょうか?なぜ、皆さんの心は自分が望む方向に動かないのでしょうか?それは、皆さんが考えてもみない、知らない方向へ導いておられる神様、つまり皆さんが想像する以上の因縁を通して計画し、努力されている神様がいらっしゃるからです。このようにして、私たちの心は善の理念に引き寄せられていくのです。


その天は最高の善であり、最高の理念です。その天は、私たち人間にとって最高の命であり、最高の希望の中心であり、過去にも現在にも、そして未来にも動いておられます。そのため、私たちの心は天が指し示す善の方向へ引かれているという事実を、私たちは認識しなければなりません。


皆さんが善を志向する心を持っており、善なる天性を持っているとしても、それを自分のものだと断言してはいけません。また、天性を根拠にして自分の身体が善の段階にあるとしても、その身体を自分のものだと誇ってはいけません。


たとえ良いことや善なることがあり、他者の前で光となることがあったとしても、それを自分のものとし、自己の功績として表すべきではありません。天が皆さんにそのような因縁を結びつけてくださったにもかかわらず、皆さんがそれを忘れ、自分を誇る立場に立つなら、その瞬間から天的な罪を犯す立場になるという恐ろしい事実を理解しておく必要があります。今日の私たちは、周囲の人々の中にこのような罪を犯している人々がいることを目の当たりにしています。


今日の私たちは皆、善を望み、正義を求めています。このように、私たちには善を志向する心と、正義に向かって進もうとする心がありますが、その心でさえも皆さん自身のものではないのです。このことを知るべきです。この善を求める心の歴史を紐解けば、6千年の人類の歴史が明らかになり、さらには神様の創造の歴史が明らかになり、神様の創造本然の心情が明らかになるでしょう。


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ですから、皆さんはこのような歴史的な因縁、時代的な因縁、未来的な因縁を代わりに担い、その中心を通して動く本然の善を所有しなければなりません。皆さんがその善を自分のものとして所有しようとするとき、もし誰かがその道を阻み、善に反対する条件を提示するなら、それが法的に問題がないと断言できるでしょうか?


今日の人間は、このような善の心を求めていかなければなりません。さらに進んで、このような善の心を持ち、その心で自分を中心に動くのではなく、全体的な善の主体に向かって動かなければなりません。しかし、それを理解している人はあまりいないことを私たちは知っています。


本来、善というものは、自分の中だけで成し遂げられるものではありません。この善は自分を超え、環境を超え、国を超え、世界を超えて、創造主の最大の善と結びついて初めて実現するのです。実績が残る道のりでのみ、この「善」という言葉が成立するのです。


私たちはこの善の方向を見つけ、その目的地を知り、そこへ向かって進まなければならないことを知ると同時に、善そのものとなり、善なる生活の実績を残さなければなりません。これまでの歴史の道のりで、この事実を知ってすべてを引き受けて生き抜いた人は一人もいなかったと言っても過言ではありません。このような人々を抱えて、神様は今日まで苦労してこられました。どんなに苦労されても、その苦労に報いることを知らない人間、自分の命が救われても感謝を知らない人間を6千年もの間引き連れてこられたのです。


このような歴史的な悲しみの道のりが、今日の皆さんで終わらないならば、皆さんの子孫にまで延長されてしまうでしょう。この悲しみの道が皆さんの生活の中で、皆さんの命の上に流れているという事実を感じ取れない人になってしまったとしたら、国を愛し、天を愛すると言うことは空しい言葉にすぎないと私たちは思わずにはいられません。


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私たちの一日の生活も、善を基にした心から始めるべきです。善なる心が私たちの生活を支配しなければならないのです。私たちは生涯の目標を成し遂げるにあたり、善の理念圏内で誇るべき実績を立てなければなりません。そうでない者は、歴史の道のりと天の善を探し求める復帰の道のりにおいて、何の貢献も、何の実績も残していない者と言わざるを得ません。


では、人類の堕落はなぜ生じたのでしょうか? 自分の生涯を自分のものだと誤解したからです。人類の祖であるアダムとエバは、自分たちですべてが成り立つと思っていました。自分たちを基にすべてが始まり、すべての目的が自分たちで成し遂げられると思っていたからこそ、堕落したのです。このことを私たちは理解しなければなりません。


したがって、私たちは先祖たちが犯した罪状を暴露し、自分を基に何事も解決しようとする心を捨てなければなりません。その代わりに、民族と世界、そして天と地をかけて問題を解決しようとする真の心を持ち、善なる世界を目指す者となるべきです。そのような集団が存在するならば、天は彼らを見つけ出されるでしょう。良心が指し示す目的を達成しようと摂理される天は、そのような集団を探しておられることを、私たちは心に留めなければなりません。


このようなことを明らかに理解した後に、自分自身を再認識し、そこから自分の価値観、生活観、人生観、歴史観、宇宙観を持ち、「天を愛します」と言わなければ、そこから愛の因縁が結ばれることはありません。また、その観点から国を愛して初めて、皆さんが本当に国を愛したと言える立場に立つことができるのです。


私たちは、この道が歴史的な人物も進まなければならない道であり、時代を代表する人物も進まなければならない道であることを知り、この方向から自分を再分析して進まなければならないと考えます。


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今日の人類は堕落によって善なる良心の働きを感じつつも、善が目指す目的地を知りません。善を志向させる良心の働きを受けつつも、良心の呵責を感じない善なる生活を送ることができていません。


皆さんはこの矛盾した立場にいる自分を明らかにしなければなりません。自分を新しい目標と新しい理念の前に映し出してみなければなりません。そして、これまで抱えていたどんな認識や、どんな主義主張、どんな観念も捨てて、新しい善の目標に向かって進まなければならないのです。終わりの時代に直面しているこの時代の人類は、その善の目標に向かって進まなければならない危機に直面しているということを私たちは知っておかなければなりません。


では、堕落した人間はどこまで落ちたのでしょうか?神様の創造理念とは正反対の立場にまで落ちました。本来、人間はこの世を自分たちの世界と見なし、楽しむことができるはずでした。全人類は一つの種族として生きるべきであり、創造主である神様を自分たちの神様としてお迎えして生きるべきだったのです。


しかし、今日この地上に住む人々は自分たちの世界を成し遂げたでしょうか?成し遂げていません。全人類を一つの種族と見なしている人がいるでしょうか?国家があるでしょうか?ありません。また、神様を自分たちの神様としてお迎えしている集団がいるでしょうか?いません。


このため、私たちは善の基準を探し立てた後、自分の力とすべてを注いで、自分たちの世界、自分たちの種族、自分たちの神様を探し求めなければなりません。これが堕落した人間が探し求めなければならない歴史的な使命であることを私たちは知らなければなりません。


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私たちの神様は姿を消し、私たちの種族である人類も四方に散ってしまい、私たちが支配すべきこの地も無残に分断されてしまいました。もし創造主がいらっしゃるとすれば、その創造主の理念とは何でしょうか?それは、この地を私たちの地にしようとすることであり、この人類を一つの種族、一つの兄弟としようとすることであり、私たちを神様と一つにしようとすることです。そうして創造主がこの人類の神様として、世界の神様として現れようとしておられることを私たちは知らなければなりません。


では、「私は天を愛します」と言う愛天者がいたとしたら、その人はどのような人でしょうか? その人は私たちの世界を探し求める者であり、全人類を一つの種族にしようと探し求める者であり、創造主である神様を私たち人類の神様として、世界の神様としてお迎えして生きようとする者です。このような者こそが、天を愛する者と言えるでしょう。


今日の人間たちはこのような基準を失ってしまったため、善が働く心の作用を感じつつも、善の実績を求めようとしても見つけることができない生活を送っていることを私たちはよく知っています。


善の働きは、創造理念、人間が成し遂げなければならない天的な理念と世界的な理念を中心にして、私たちの心の中で絶えず起こっています。しかし、それを無視し、断ち切り、踏みにじって生きてきた私たちだということを、この時間に再び骨身にしみて感じ取らなければなりません。このような者にならない限り、堕落した人間として、神様を愛するという立場に入ろうとしても到底入ることができないという事実を皆さんは知っておかなければなりません。


では、私たちが今、全力を尽くして成し遂げなければならないことは何でしょうか?どんな犠牲も覚悟して成し遂げなければならないことは何でしょうか?それは、神様が望まれる世界、人類が望む世界を成し遂げることです。神様は一つの親から生まれた血族、つまり神様を中心とした一つの種族を探しておられます。神様を中心とした一つの家族のような世界を探しておられるのです。このことを知り、この基準に合わせて生活することのできる者となるべきです。そうでない者は、神様が探しておられる理念的な世界、理念的な人類、理念的な天国は成し遂げられないでしょうし、たとえ成し遂げられたとしても、それは私たちとは何の関係もないということを私たちは悟らなければなりません。


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神様は人間を創造され、祝福して「すべてを支配せよ」と仰いました。「地に満ちて繁栄せよ」と仰いました。人間がこの言葉を完全に成し遂げれば、神様はその完成した人間を直接支配しようとされました。これが創造の基準でした。しかし、人間はこの基準を今まで成し遂げることができませんでした。そのため、私たちは地を支配できなかった者であり、真の愛の世界で繁栄できなかった者であり、真の神様の愛を受けることができなかった者です。これが私たちの悲しみです。この因縁の中にあるために、私たちはサタンの試みの犠牲となっているのです。


このような人類を天は再び立ち上がらせ、地を支配させなければならず、善の功績を積み、悪によって乱れた堕落した人類のすべてを清算し、この人々を再び和解させ、天の血族にしなければなりません。その後に、神様はこれらの人々を支配するために動いておられます。これが人間が志していく歴史的な目的であり、人類が心の中で憧れている希望の基準です。


私たちは本来そのような場所で生きるべき存在でした。したがって、私たちのすべての要素、身体と心が望むその場所に向かって進んでいることに、無限の感謝を感じ取ることができる者でなければなりません。


しかし、天を失い、本然の兄弟を失い、堕ちるところまで堕ち、どうしようもなく堕ちた人間たちは、逆さにそれらを探し求めています。本来であれば、神様の愛を受けて兄弟と愛の因縁を結び、夫婦同士で愛の因縁を結び、その後に親を迎えるべきでしたが、神様と愛の因縁を結ぶことができず、堕落した人間となってしまいました。そのため、真の親、真の夫婦、真の兄弟だと大声を出す者がいても、神様の愛を中心に真の関係を結んだ者は一人もいません。


私たちはこのような種族であるため、人間が支配するどんな物も、神様の物だと主張する理由がなくなってしまいました。神様の物として造られたこの世界が、人間の物にもならず、悔しいことにサタンの物になってしまったというのはどういうことでしょうか?神様の物であるべきであり、人類の物であるべきこの地が、神様や人類のどちらの物にもならず、突如としてサタンの所有物になってしまったのです。このことを見つめる天の悲しみを感じ取れる者、そして人類の悲しみを感じ取れる者が現れなければ、この世界をサタンの所有から解放する運動を行うことはできません。


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神様はこの運動を展開するために、長い歴史の道のりを経て、人間に良心の働きを起こされました。神様が支配されるべき人間を失ったため、時代ごとに中心人物たちを送られました。人類のすべての問題を引き受け、人類が果たすべき使命と時を伝えるために、中心人物たちを送られましたが、その方々こそ、歴史の道のりで現れては去っていった預言者たちでした。


堕落によって、私たち人間は神様の創造期間の6日をすべて失ってしまいました。そして、安息日という一日を通してのみ神様に向かうことができるようになりました。このようになったため、本来はいつでも神様に向かうべき人間を失ってしまった神様は、そのような機会を探し求めながら、無限の苦労をいとわず、人間を探し求めておられるのです。しかし、人間は神様がどれほどの苦労をされてきたかを知ることさえもできていません。


では、時期を見計らって現れて去っていった預言者たち、時代的な使命を引き受けて現れて去っていった天的な人々は、この地に何を提示したのでしょうか?彼らは地上のいかなる存在価値も認めず、天を信じるように主張しました。人間が生きているこの地が永遠の地ではないと主張しました。また、地上での命が永遠の命ではないと主張しました。地上で享受している幸福は、永遠の幸福とは何の関係もないということを、歴史の道のりで彼らは説いていきました。


神様は6千年の摂理の道のりで、一つの時代、一つの世代を代表して労苦の実体として預言者を送られましたが、その預言者たちを捕らえて殺すために、血を流しながら戦いを続けてきた罪の祖先を持つ私たち、天倫の意志を裏切った歴史的な裏切り者の祖先を持つ私たち、神様が送られた人々だけでなく、神様ご自身をも裏切った祖先を持つ私たち、今、このような私たちが今日どのような立場にいるのかを再び考えなければならない時が来ています。


天はこのような人々を立て、堕落した人間と因縁を結ぶために、無限の労苦の道のりを歩んできました。このような労苦が積み重なり、天の悲しみとして、地の悲しみとして、すべての人々の悲しみとして残されているにもかかわらず、この悲しみを認識することなく、自分個人のことを考えて悲しむ者や、自分の家族のことで悲しむ者は多いですが、天と地のことで悲しむ者は一人もいません。


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終わりの時が近づいていると口々に言われるこの時に、皆さんは天の悲しみと苦しみを抱いて悲しむ者がいないことを知っておられる天の心情を感じ取ったことがありますか?神様は6千年もの間、ため息をつき、後悔しながらも、人類を引き連れて戦い続けてこられましたが、人間は未だに天の前に嘆きの条件として残っています。しかし、今日、皆さんは心の扉を開き、天と地と万物すべてに宿っている天の悲しみを感じ取ったことがあるでしょうか?その悲しみは、いかなる民族の悲しみよりも、いかなる国家の悲しみよりも大きなものです。これまで人間が経験してきたどんな悲しみにも比べられない悲しみであるということを、私たちは知らなければなりません。


私たちが天を愛する愛天者の集団に参加すべき人間であるならば、この運命の道を歩まなければならない堕落した人間の子孫であるならば、私たちの心の中から善を志向する心が爆発し、天と万物すべてに染み込んでいる天の悲しみを感じ、その悲しみを解き放って差し上げる責任を果たす集団となるべきです。このような集団が現れなければ、大きな摂理の意志を成し遂げることはできないということを私たちは知らなければなりません。


しかし、人間はこれまで自分自身を中心に戦い続けてきました。自分の家庭を中心に、自分の国、自分の土地、自分の民族を基にして戦い続けてきたのです。しかし、天はそうではありません。神様は私たちの世界、私たちの人類のために、そして私たちの神様となるために苦労してこられました。しかし、地に住む人類は、自分自身を中心にした家庭、自分自身を中心にした国家、自分自身を中心にして支配する土地を探し求めてきました。これが今までの歴史の道のりでした。


人間は堕落によって、天的な心情、良心、身体、万物すべてを失ってしまいました。しかし、人間はこの恐ろしい事実を知らないまま、ただ自分を中心にした物質、自分を中心にした身体、自分を中心にした心、自分を中心にした情を追い求めてきました。このような人間を抱えて、自分を超える方向へ導いてくださる神様の摂理がなければ、人類は滅んでしまったでしょう。人類は滅んでいたはずです。


このような人類を目覚めさせようと、私たちの心を通して毎日の生活を命じておられる天に対して、私たちは無限の感謝を持たなければなりません。今日まで自分を中心に生きてきた堕落した人間たち、堕ちるところまで堕ちてしまいました。それでも自分を中心にして地を求めようとしています。しかし、堕落した人間たちは本然の立場に向かって進まなければならない復帰の運命にあることを知らなければなりません。


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今日、皆さんが持っている身体は宇宙的な価値を成し遂げるための身体であり、皆さんが所有しているすべては宇宙と因縁を結ぶための捧げ物です。しかし、人間はこれを今まで知りませんでした。皆さんにいかなる情的な心情があったとしても、その心情は宇宙的な天的心情と因縁を結ぶことができる心情です。しかし、これを忘れた人間たち、つまり天と反対の立場にある人間たちと天は因縁を結ぶために、今まで苦労してこられたという事実を皆さんは知っておかなければなりません。


これまでの歴史の道のりでよく見られたすべての事実は、自己個人を中心にして戦ってきたことです。自分の一つの民族を中心にして、自分の一つの国土を中心にして戦ってきました。一つの主権の下で、自分の国土と自分の民族と自分の主権のために戦うことに留まっていました。利己主義を中心にして今日まで、つまり第一次世界大戦の前後まで戦ってきました。しかし、このような戦いで止まるならば、人類は滅亡へと向かってしまうでしょう。


今まで数多くの民族や国家が栄え、滅びましたが、その民族やその国家のために忠臣となった人々は多くいました。民族や国家を愛した人々はたくさんいました。その時代に、その民族やその国土やその主権を抱えて愛した人々はたくさんいました。しかし、その愛国者たちは今どこに行ったのでしょうか?歴史上に名を轟かせたその愛国者たちは、すべて消え去ってしまいました。歴史上の主権国家には多くの忠臣がいましたが、今日、そのような忠臣の節操心は見つけることができないほど消えてしまったのです。


私たちが知っておくべきことは、これまでの歴史的な事実を見てみると、多くの人々が土地を奪うために戦い、国境を打破する戦いを行ってきましたが、そのような方法では、本来の理想世界を建設することはできないということです。


このようにして土地を奪い、拡大する帝国主義時代を過ぎた後、私たち人間は何を探し求めるべきでしょうか?世界的な帝国主義時代を過ぎた後は、人を探し求めなければなりません。そのような時が来るのです。そのような人を探し求める際に求められるのは、主義と主張です。しかし、どのような主義主張を中心にして土地を奪おうとしても、その主義は主義として存続することはできません。皆さんは第一次世界大戦を転機として、新しい主義と理念を探し求めていく歴史的な事実を否定できないでしょう。土地を求めて戦う時代が過ぎた後は、人を求めて戦う時代が来ます。その時が理念を持って戦う時代なのです。


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その時代を過ぎ、その次には何の時代が来るのでしょうか?本来の人間が失ったものを取り戻す時代が来るのです。万物を支配すべき責任が人間にあるため、世界を自分たちのものにするために、私たちの本心が動いているのです。もし主権を動かす権限があるとすれば、その主権を世界的な標準にまで高めたいとするのが人間の本性です。そのため、本性はどの方向を指し示して私たちの心を支配しているのです。


その次には「神様の息子娘として世界に満ちよ」と言われました。神様の息子娘として世界に満ちるべきであるため、今日、世界各国は主義と思想を中心にして民族性を打ち破らなければなりません。民族性を打ち破らなければならないのです。人間は気づいていませんが、天はこの戦いを仕掛けています。


そして、土地を支配し、兄弟を回復した後は何をしなければならないのでしょうか? 天を愛さなければなりません。これが人間が必ず行くべき運命の道であるため、これから新しい宗教が現れるとすれば、それはこの時代の宗教を克服できる愛天的な宗教でなければならないのです。


土地を求めてさまよう人々の前にそれを見つけさせるために、民族を動員して国境を打破し、領土を拡大してきました。そして、人類を建てなければならない天的な摂理の時代に生きる人類の前には、民族と民族の壁を打破する主義と思想を建ててきましたが、その次には何が出てこなければならないのでしょうか?それは、天を愛することができる主義と思想、宗教と宗派の壁を打ち破ることができる一つの主義が必ず出てこなければならないのです。そうして初めて復帰の歴史の終結を見ることができます。


ですから、過去のようにどの土地に欲望を持ち、自分の民族だけを愛する心で侵略的な政策を立てる主権国家は滅びてしまうということです。しかし、他国を侵略しても、これから来る時代の新しい理念に近い指導理念を立てて侵略するならば、その指導理念の効力が消滅するまで、その国家は滅びずに続くでしょう。歴史はこのように進んできました。


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このようにして今日まで多くの民族が集結してきました。しかし、どの民族が天的な理念に近い理念を持って国家の形を取って動いているのでしょうか?天的な理念に近いときは主権を行使することができますが、そうでないならば、その主権は第三者に渡ります。また、天的な理念にもっと近づける理念を持っている第三者にその主権が渡りながら発展してきたのが歴史の発展の実態なのです。


今日は皆さんもご存じの通り、三・一節です。私たちの民族は日本の支配下で36年間、無限の苦痛を経験しました。日本の支配下で苦しんでいた私たちの民族の希望は何だったのでしょうか? それは、日本が滅びることでした。私たちの民族はそのような日が必ず来ることを願いながら、忍耐強く生き抜いてきました。外的な環境が拡大するにつれて、内的な強い意志が積み上がり、その流れが今日の三・一節に爆発したのです。第一次世界大戦直後にウィルソン大統領によって提唱された民族自決主義の影響で三・一運動が起こったことを、皆さんはよくご存じでしょう。


アメリカという国が民主主義陣営の主導権を握り、民主主義陣営全体を動かす一つの代表的な国家として今まで進んできましたが、これも天的な復帰摂理の道のりにおいて、その指し示す方向が天に近いほど残るでしょう。もし、その間に溝ができる日が来るならば、アメリカも衰退の道を歩むことになるでしょう。


私たちは日本の支配下で36年間、多くの愛国者を見ました。また、この国、この強土に多くの愛国者たちが血を流していきました。血を流しながらも、彼らの心にはこの民族が今は圧政に苦しんでいますが、この環境の中で滅びるのではなく、必ず独立国家にならなければならないという希望を抱いて戦ったため、今日の大韓民国という主権国家を回復させることができました。


その愛国者たちが圧政の下であらゆる条件に対抗して戦い続けたのはもちろん、民族を愛し、国土を愛する心があったからです。また、彼らには勝利の日を待ち望む心と、その勝利の日が必ず来ると信じる強い心があったため、そのような圧政の下でも屈せずに戦うことができたのです。このことを私たちは知らなければなりません。


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このように、一つの国を見つけるにもこれほどです。ましてや、天的な理念を探すには、さらに変わらない信念と変わらない同志愛を持って聖地を求め、天に代わって行動しなければなりません。このような集団が世の中にいなければ、この世界は天と因縁を結ぶことができません。歴史の流れに伴い、天が摂理される意志を受け入れてきた多くの宗教者たちがいましたが、その中でも、歴史を経てサタンとの血闘で悲惨な犠牲の捧げ物となったキリスト教徒たちこそが、その集団であることを私たちは知っておかなければなりません。


旧約4千年の歴史からイエス以後の新約2千年のキリスト教の歴史を見ても、他の人々がその理念について夢見ることさえなく、異邦人たちは全く考えもしなかったにもかかわらず、天の教えに従って死んでいった人々が数え切れないほどいました。さらに、天の理念を探し求める道においても、多くの人々が犠牲になりました。


このように、歴史の道のりで天の理念を探すために、多くの人々が犠牲になってきました。では、天の意志を探し、その意志を成し遂げるために犠牲となってきた集団と、これに対して国家のために戦い、犠牲となってきた集団は、どのような結末にたどり着くのでしょうか?これがこの時代の私たちにとって疑問の問題です。これからは世界政府主義の時代が来ると言われています。一つの政府形態、一つの理念の世界に向かって歴史は流れており、この二つは今日、互いに近づいています。しかし、この二つは互いに和合しようとする兆しを見せていないという状況です。私たちはこれをどうすべきでしょうか?


ここで、皆さんは歴史の道のりで天のために無惨に血を流してきた集団、天の理念を握りしめて戦い続けてきたその集団を忘れてはなりません。ですから、土地を奪い、主義を立て、人間を包摂する時代は必ず過ぎ去ります。


宗教はすでに天が指し示す方向に向かって動いていますが、人間の希望はその位置まで届かず、中途半端で止まってしまうため、歴史上に数多くの忠臣がいましたが、彼らが今日の歴史が輝くこの時、世界が動いているこの時に誇るべきものは何でしょうか?私たち韓国の士大夫(サユクシン)のような方々は、世界的な観点で誇るべきものを持っているでしょうか?彼らは民族的な観点でしか誇ることができない方々です。


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この観点から、2千年前のイエス様と私たちを比較してみると、イエス様はどのような方でしょうか?イエス様は国家を統治し、世界を統治し、人類を統治できる理念と資格を持ち、神様を父としてお迎えし、神の独り子だと主張された方です。それ以上に何をする必要があるでしょうか?まさにメシアとしての資格があったのです。


今日の私たちは、ある領主の息子娘になりたい、世の中のある主人の息子娘になりたいと願っていますが、イエス様は創造主を据えて自分がその独り子であるとおっしゃいました。それこそがまさにメシアの資格を持つ方であるということです。


そのような姿で現れたイエス様は、どんな困難にもため息をつくことはありませんでした。それこそが彼が人類に残した最大の貢献でした。イエス様はそのような信念を持ち、どんな困難な嵐が襲いかかってきても、その場で忠臣の節操を立てたため、今日、すべての人々のメシアとして讃えられることができるのです。


このような節操心を持ち、一つの理念を成し遂げるために生涯を捧げて進んだイエス様は、その道を阻む親も「行くべき道を行きなさい」、民族も「行くべき道を行きなさい」、種族も「行くべき道を行きなさい」、教団も「行くべき道を行きなさい」とおっしゃいました。すべてを捨てて握りしめたのは世界と人類でした。彼は世界と人類を抱えて亡くなられたのです。親、兄弟、教団、民族が行くべき道を行っても、その前で消え去るべきではないと考えたのは、この世界と人類でした。それがイエス様の中心となる考えでした。


ですから、イエス様はこの世界に必要な方であり、この人類に必要な方です。そして、イエス様は天を握りしめ、天のために生き、亡くなられた方です。ですから、イエス様は神様にも必要な方です。このように天と地に必要な方であるため、メシアでないはずがありません。今日の私たちはこのことを知らなければなりません。


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これまでの歴史をすべて整理すると、次には何を持って世界的な因縁を結ぶのでしょうか?これが今日、志を持つ青年男女たちが解決しなければならない重大な問題です。また、何を握りしめ、何を捨てるべきかというのが、終わりの審判を見据えている多くの人類が最終的に選択しなければならない問題なのです。


イエス様は当時の時代状況から見ると、民族の反逆者でした。教団の反逆者であり、種族の反逆者であり、さらに言えば伝統の破壊者でした。しかし、本当の意味では彼は破壊者ではなく、建設者であり、反逆者ではなく、愛国者であり愛天者だったのです。この事実を人々は今日になってようやく理解しました。私たちが真の愛国者を語るならば、それはどのような人物でしょうか?真の愛国者、真の民族主義者であるならば、イエス様のように世界を一つの民族として見なければなりません。


ゴルゴダの道、十字架の道を堂々と歩んでいかれたその姿が、私たちが崇拝すべき方の姿であるということをもう一度考えなければなりません。イエス様が不当にもこのような苦難の道を歩まれましたが、その不当さを理解してくれる集団はどこにいるのでしょうか?去っていかれた方の殉教の場が地上に残っており、その悲しみが天に宿っている限り、成し遂げなければならない天の意志が残っている限り、そのすべての悲しみを解き放つ歴史的な終末の時は必ず来ます。その時を指して私たちは「審判の日」、「終わりの日」、「終末」と呼ぶのです。


今、終末の時代が胸の奥深くに感じられるこの時に、皆さんはどこへ行くべきか、何を取るべきか?これは皆さんが自問自答して解決しなければならない問題です。イエス様の断固たる行動を模倣して進む集団が、果たしてこの民族の中にいるでしょうか?この世界の中にいるでしょうか?私たちは目を転じ、他の観点からそのような集団を見つけることができる知恵深い人間でなければなりません。


皆さん!イエス様が亡くなられたその時代と、私たちが生きているこの時代は何が違うでしょうか?何も違いはありません。違うものはありません。このような時代に生きている今日の私たちが、その時代に排斥されたイエス様を迎えることができるでしょうか?これは考えなければならない問題です。


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今日、私たちが世界を探し求めているこの時に、平等を叫ぶ共産主義はどうでしょうか?労働者や農民を救おう。共に食べ、共に生きようと叫んでいます。歴史の流れをもう一度観察してみましょう。これから世界を動かすことができる民族はどのような民族でしょうか?世界を動かすことができる主義はどのような主義でしょうか?世界を動かすことができる宗教はどのような宗教でしょうか?それは、先に述べたように、善の理念に従ってすべてをそこに委ねて行動する民族主義的宗教でしょう。


これはどういう意味でしょうか?善とは自分を中心にしたものではないということです。自分の家庭を基にして生きてきて滅びなかった家庭があったでしょうか?自分の一国家を基にして世界を求めようとした民族の中で生き残った民族はどこにいるでしょうか?このような主義を基にしてこの世界を支配し、永遠不変の理念を求めたと言ってもよさそうですが、見てみてください。天を除けばすべてが終わりです。


本来の人間は神様をお迎えし、天倫を中心にして生きるようにできていました。そのような人間の生活で天倫の条件を代わりにしたものが何かといえば、それは人間が持っている良心の基準です。この良心の基準の前に理念があり、理念の基準の前に天情があります。このようにして、内的環境の中で天倫を探し求めていくことが復帰です。


私たちの世界を探し、私たちの民族を探し、私たちの種族を探し、私たちの国を探して、私たちの主を迎えることのできるその日こそが、天が望まれる終末の日です。その日は、天の意志を持って地に来られたイエス・キリストが定めた終末の日であり、私たちが探し求めるべき希望の日です。天が望まれる日であり、イエスが望まれる日であり、私たちもまた望む日なのです。その日にはすべてが解決されるでしょう。


皆さん、再臨主は去ったときのまま来られるのが復帰の原則です。何かを失ったならば、失われた場所に行かなければそれを見つけることはできません。故障が起きたならば、その逆の方向に向かって、故障が起きた順番をたどらなければ、故障が起きなかった場所に戻ることはできません。これが因果法則を外れることのできない鉄則であるため、再臨主も去られたときのまま来られるということを知らなければなりません。失われたものは失われた場所で見つかるということを知っておくべきです。


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今日のこの時代は、エデンの園でアダムとエバに許されたものを取り戻さなければならない時代なのです。今日この地に住んでいる人間はすべて、堕落したアダムとエバの子孫です。皆さんもまた堕落した親の子孫なのです。真の親の子孫になれませんでした。ですから、再び真の親の子孫とならなければならないのです。この言葉はどういう意味でしょうか?それは、皆さんは神様と真の親を直接にお迎えできる神様の愛の領域内で、真の親が両手を挙げて授けてくださる祝福を受けて夫婦となり、繁殖していく真の親の血族となるべきだということです。しかし、今日まで私たち人間は真の親の子供としてこの地を正しく支配したことがないため、真の親の息子娘となることができません。この理があるではないでしょうか?


では、天は4千年もの間苦労されて人間の前にどのような主義を立て、どのような主人公を立てられたのでしょうか?「この世界は私のものであり、全人類は私の種族であり、神は私の父である」という主義を叫ばれたイエス様を立てられました。そうして初めて人間と因縁を結ばれたのです。しかし、イエスがその意志を地上で成し遂げることができず、十字架にかけられて亡くなられました。去られたその主は、再び戻ってこられなければならない運命にあるのです。これは、民族的な審判の終わりの日が、世界的な審判の終わりの日に延長された結果を生みました。


今日、この世にイエス様が去られたまま戻ってこられるならば、すべてを捨てて亡くなられたことで成し遂げられなかったイエス様の目的が成し遂げられなければならず、イエスを基にして世界理念が整えられた園で、イエスを基にした種族の動きが現れなければなりません。


だからこそ、統一の形態を整えて進む運動が起こらなければならないのです。単なるキリスト教の統一だけではありません。すべての宗教が一つの形を成さなければなりません。キリスト教徒たちは「あなたたちは儒教を信じ、仏教を信じているから地獄に行く」と言っています。しかし、そうはなっていません。行ってみるとそうではありません。そうなっているのなら、私があの国に行って話し合ってみますが、絶対にそうではありません。イエス様を一人としてさまざまな方向に引っ張り上げようとしているので、一つの方向に早く集めなければならないため、横に向かうことはできません。縦に「お前が一番だ」と言って追い出しているのです。このように見ると、今日の人類はすべて天の意志の中にある集団です。


イエス様は4千年の間、民族と血縁を捨てて築き上げたユダヤ教団、4千年を経て選ばれて立てられたイスラエルの民を一瞬で放棄されました。しかし、それでも彼らは神様と因縁のない民族ではありませんでした。絶対的な因縁がある民族でした。どの立場にあっても「神様は私たちの神様だ」と言える民族でした。このようなイスラエルの民をイエス様が放棄されると、天も放棄し、地も放棄し、人類も放棄しました。そのため、ユダヤ人たちは世界で最も悲惨な集団となりました。世界をさまよい、多くの民族に迫害されました。


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天を望んでいる今日の私たちも悲惨な生活を多く経験してきました。このことは今まで人々に知られていませんが、私たちのある日が来れば、世界歴史の道のりの中で私たちが無視できない位置に立つことになるでしょう。イエス様を裏切らなかったならば、栄光に満ちた世界理念を獲得することができた民族が、苦難と逆境の中で世界の理念を探し求めているため、祝福された民族も祝福されなかった民族も同じようになってしまいました。


イエス様は天が4千年もの間、力を尽くして築き上げた民族を捨てて、握りしめたのは世界と人類です。イエス様はユダヤ教を中心とした宗派的な観念に囚われなかったということです。ユダヤ人が信じなくても構わないという覚悟で新しい理念を持って進まれたイエス様でした。このことを思い返すと、今日のキリスト教徒たちにとっては、目覚めるべき一面があります。


このような内容を全体的に整理してみると、民主主義の形態を経て主義と思想を備え、理念的な宗教の統一形態を整えて進む鉄則があるということがわかります。この時代に民主主義陣営に残る者となるためにはどうすべきでしょうか?


民主主義陣営に残る者となるためには、イエス様のようにならなければなりません。イエス様のように全世界のために、全人類のために、天のためにすべてを捨てることができるならば、その国は残るでしょう。自分の下着まで奪われながらも「おお、天よ!」と叫んだイエス様、天情に染み込んで天だけを握りしめて自分のすべてを捧げたイエス様の後を追うならば、残る者の集団となるでしょう。どの民族がそのような理念を持って進んでくるならば、その民族の前にすべての民族が征服されざるを得ないでしょう。


この観点から見ると、朝鮮半島で生まれた不幸な集団である私たちは、今何を悟り、何を覚悟すべきでしょうか?「南北に分かれたこの国に住む私たちは、すべてを捨てました。親兄弟も捨て、家族も捨て、種族も捨て、物質もすべて捨てましたが、そのことは気にしていません。願わくば、天よ!世界の中で私たちがいるこの場所が、イエス様が叫ばれたゲッセマネの丘のサンサンボンであることを許してください。この地が世界のゲッセマネの丘であることを許してください。そして、世界のゴルゴダの頂であることを許してください」と祈る心が燃え上がらなければなりません。このような青年男女がこの国に多く現れるならば、この国は絶対に滅びません。


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今日、「歴史を捨てても、この時代を捨てても、どんな主義やどんな種族を捨てても、天の心情だけは、天が愛されるものだけは捨てることはできません」と言える集団がいるならば、その集団は世界を支配するでしょう。このような集団が真の天の集団です。


イエス様が再び来られるときは、去られたときのまま来られると仰いました。去られた足跡、ゲッセマネの丘でのその悲しい心情はどこに行ったのでしょうか?ゴルゴダで十字架を背負い、血と汗を流しながら歩まれたその痛ましい心情はどこに行ったのでしょうか?イエス様そのものは問題ではありません。今、私たちが探さなければならないのはイエス様の心情です。


心情を通して許し、心情を通して一つになり、心情を通して和合する、真の人類愛に染み込んだ集団が希望の園で生きることができ、心情を通して世界を見つめる主人公となって初めて、この世界の万物さえも和解するのです。その時にようやく、神様を「私の父」と呼ぶことができ、6千年もの間蓄積されてきた億千の怨恨の峰があっても、それを乗り越えて天を握ることができるのです。このような集団こそがゲッセマネの丘で主張されたイエス様の実体の結実であり、ゴルゴダで十字架にかけられたイエス様の実体の結実です。


したがって、このような存在が現れてこそ、全人類が善の園で一つの種族として神様をお迎えし、一つに和合して生きることができます。その世界は、受け取ろうとする人々が住む場所ではなく、与えようとする人々が与えるために努力して生きる場所です。これまで歴史の道のりで受け取るために苦しんできたのが、まさにサタンです。自分を中心にした善と統一を主張せず、他者を中心にした善と統一を主張する集団が住む場所こそ、統一教会が主張する地上天国です。


神様はイスラエルの民に選民思想を植えつけられましたが、その選民思想を持って誇りながら生きることができる人が、まさに天民思想を持った人です。したがって、神様が今まで探してこられた人は、選民を失った天の悲しみを知り、天国を建設するために天民思想に徹底して従う人です。天民思想に徹底して従うその心情がある場所が、億千の人々が帰依する地点です。ですから、その場所に入る者は滅びることがありません。また、その場所を中心にして進めば、すべての問題は解決されないものはありません。その心情に染み込んで他者のために与えようとし、与えるために努力する集団が住む世界が、いわゆる初めに主張した意志の世界です。そして、今まで歴史の過程を経てこられた神様の意志が成し遂げられた世界であり、今まで苦労されてこられた歴史の道のりの希望の園であることを皆さんは知っておくべきです。


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この地に真の国があるならば、その国は何の国でしょうか?その国を「地上天国」と呼びます。その国でなければ、神様が本来のアダムとエバに「あなたがたは完成したときに万物を支配せよ」と祝福されたその意志を成し遂げることはできません。そして、人間は初めてこの地の真の主人として現れることができるということです。また、その時にようやく人類は互いに真の兄弟となることができます。その時に初めて私たちは神様の真の息子娘となるのです。天のお父様に対しては真の孝子孝女であり、主人に対しては忠臣であり、この宇宙万物に対しては真の主人となるのです。そのようになれば、神様が私たちに全権を委ねられますが、外的な全権だけでなく、内的なすべての心情の中心までを移してくださいます。神様がすべてを任せられても安心できる息子娘になるのです。このような息子娘は、歴史の道のりにおいていかなる忠臣、烈女、孝子孝女よりも偉大な存在です。そのような人々を世界的に誇れる日がこれから訪れなければなりません。


今日の共産主義者たちは、自分たちが掲げる理念を中心にして人格者や功労者を追いかけるモデルを立てていますが、民主主義はそうではありません。私たちはそれを超えて、歴史の道のりで天に向かって全体の理念を立てた功労者たちを崇拝し、彼らの人格を尊敬しなければなりません。さらに、彼らの足跡を守り、そのような主義を持って地上で天が追求する理念の世界に向かって進む者、またそのような集団にならなければなりません。


そのような理念圏内で、この世界を一つの国として、この世界の人類を一つの民族と見なし、希望の主人公をお迎えして生きることのできる一つの日、天と地を代わりにしてすべての被造物と和合し、礼拝できるその日を望んで進まなければなりません。その時が来るまで、すべてを与えつつ犠牲を覚悟して戦っていく者こそ、天が望む愛国者であり、天が望む愛天者であると言えるのです。




<祈祷>


お父様、歴史の道のりを振り返ってみると、人類はゴルゴダの道のりを歩んできたことを知っています。そして、今日私たちが見つめる山川も骸骨の地であり、私たちが住んでいる都も骸骨の地であり、私たちが動いているこの地も荒地となっています。ここに立っている私たちは皆、捨てられた民族となったのです。父よ、では、今私たちが唯一所有することができるものは何でしょうか? イエス様が右の頬を打たれたら左の頬まで差し出し、上着を求められたら下着までも差し出しなさいと仰いましたが、この言葉は歴史の道のりのどの時代、どの場所で実現するのでしょうか?どの民族を通して、どの主義を叫ぶ者たちを通して、どの教団を通して、その言葉が成し遂げられるのでしょうか?

お父様! この民族は4千年の悠久の歴史の道のりで、打たれながらも弁解することもできず、絶望せざるを得ないことを何度も経験しながら、希望の日を待ち望んで忍耐強く進んできた民族です。

     23

しかし、この終わりの時に天的な隠れた因縁があって、この民族が世界的なゴルゴダの山頂に置かれていることを知らずにいます。お父様!お父様! ゲッセマネの丘で祈られたイエス様の泣き叫ぶ声と同じ祈りが、この国の隅々で響き渡るようにしてください。カルバリの山で敵を許してくださいと叫ばれたイエス様の聖なる姿を慕う真の集団はどこにいるのでしょうか?探し求めることができる集団とならせてください。

選ばれたイスラエルの民は、ゲッセマネの丘のイエス様に見向きもしませんでした。天の心情に悲しく、地の怨みを晴らすことができないために悲しんでいたイエス様の心情、「地よ、砕けよ。天よ、裂けよ。体よ、引き裂かれよ!」と叫ばれたイエス様のその心情を誰も理解しませんでした。

イエス様の心情が悲しみに満ちていたにもかかわらず、その三人の弟子たちはイエス様を理解せず、深い眠りについていました。彼らは自分自身のことだけを心配しながら生きていました。その事実を今日、私たちが心に留められるように許してください。

お父様! この不幸な者たちを呼び寄せたのもあなたでした。あなたが許してくださったから、この場に来ました。この場に留まらせてくださるのもあなたであり、導いてくださるのもあなたです。ゲッセマネの丘で、お父様に向かって「世界を捨てることはできず、人類を捨てることもできない。父を捨てることはできない」と、全身全霊で泣き叫び、すべてを捨てて清算して進まれたイエス様の心情的な覚悟を持つ息子娘、つまり天情の因縁を結んだ息子娘たちがここに多く現れるように許してください。父よ!願い求めます。

この日を迎えてみると、限りない悲しみを感じます。この日がこの民族の悲しい日であり、この民族の無念の日であることを私たちは知っています。私たちが動いているこの日、天の意志に染み込んだ心で永遠の新しい理念を提示することのできる衝撃が私たちに与えられる日としてください。父よ、切に願い求めます。

     24

今、言葉を伝えました。私たちが天を愛する愛天者となり、天の国、築かれるべき本来の国を愛する愛国者となることができるように許してください。お父様、切に願い求めます。

数多くの人類がこのような理念を持って死んでいき、命を捧げてこの道を探し求めてきたことを今日、私たちは知り、さらに知ることができました。お父様が指し示される方向も知り、感じ取ることができました。私たちが全身全霊を捧げ、愛天者として、愛国者としての天的な因縁を持つことで、天的に築かれた6千年の歴史の伝統を踏みにじる者とならないようにしてください。裏切り者、反逆者とならないように許してください。切に願い求めます。

今日の言葉を聞いて、ここにいるこの命たちが何かを感じ取りましたか? もし感じ取ったならば、この言葉が時代の終末において、それぞれの心情に解決の基点を築き、カルバリの山を乗り越えなければならない、復活しなければならない重大な事実を告げている言葉であることを悟らせてください。

新しい理念の世界、新しい主義のために自分のすべてを捨てて進んでいったキリストの姿のように、私たちもまた自分のすべてを捨てて、あなたの悲しい心情を慰めて差し上げることのできる、終わりの日に残される集団となれるように許してください。そして、この終わりの日の迫害の道のりで消えていく集団とならないように許してください。お父様、切に願い求めます。すべてをあなたの御意志どおりに成し遂げてください。主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。

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コメント

御言葉選集5(12)

2024年09月07日 17時26分49秒 | 日記
「文鮮明先生御言葉選集 5 - 12. 希望の理想天国」(1959年2月22日)

1959年2月22日、元本部教会

マタイによる福音書 3:1-17





<祈り(Ⅰ)>

本来の真の人間を失ったお父様が、長い年月にわたって復帰摂理を進めてこられたことに、どれほどのご苦労をされたのかを、私たちは知っています。本来のアダムとエバを慕いながら、歴史の道において血と涙に満ちた難関を乗り越えてこられたことを、私たちが心と体で感じることをお許しください。


この使命を引き継いで摂理の意志を果たしてきた私たちの先祖たちも、行く先々で悲しい十字架の道を歩んできたことを、私たちは知っています。


これからも残されたこの十字架の道を、今の終末の時代に生きる私たちが最後まで歩まなければならない歴史的な責任と摂理的な責任が残っていることを、私たちは知っています。どうか、あなたの力とあなたの励ましで私たちを再び奮い立たせてください。そして、この残された十字架の関門をすべて乗り越え、願っていた本来の楽園の中で、お父様の栄光を讃える喜びの姿になることができるようにしてください。


私たち自身の中に属するすべてのものは永遠ではないことを知っていますので、今日、残された使命を果たすために摂理の歴史の前に立ちはだかる十字架の関門を乗り越える決意を、私たちが天からの覚悟を持って実行できるようにしてください。


    1


この使命を果たすためには、私たちは武器を手にして戦場に出て行くように、厳しい覚悟を持って立ち向かわなければならない時が来ました。お父様、どうか今日も明日も、いついかなる時も、私たちのすべての力を振り絞って戦いに出られるようにお許しください。そして、その戦いの道を阻む悪魔に立ち向かう力を私たちにお与えください。


その戦場で勝利の姿を現し、お父様の栄光の園でお父様と共に暮らせるようにしてください。そして、お父様が願っていた全体の意志を成し遂げ、お父様の愛を讃えることができる、あなたの息子娘にしてください。そして、悪魔の世界やすべての万物の前に誇りとすることのできる、お父様が探しておられた息子娘になることをお許しください。


そうして、お父様の前に見いだされた息子娘として、お父様と永遠に共に住み、お父様の事業とお父様の思想とお父様の願いを果たした者として、喜びと栄光の歌でお父様を慰めることができる、真の子供たちにしてください。


残された戦いの道と残された十字架の道を通して、お父様の栄光を讃えることのできる私たちにしてください。お父様、どうかそうしてください。


この日は聖なる日です。すべての人々が一つになり、お父様の全体の意志を支えることができ、すべての人々が動き、お父様の勝利の国を建設することができる時が早く訪れるように願います。


    2


私たち三千万の民族を祝福してください。そして、この日に集まったあなたの息子娘たちにも特別な恩寵の手を差し伸べてください。


この民族を愛の心で抱きしめてください。そして、あなたが望む意志、残された恨みの全体の意志を責任をもって戦い、勝利し、成就してみせる栄光の姿が現れるその時まで、あなたが急き立てて導いてください。そして、そのような息子娘になることを許してください。


未熟で不完全な私たちがこの日にお父様の前に集いました。どうか不相応なものすべてを取り除いて、お父様の栄光の懐に抱かれることのできる本来のものだけを、この時間に現させてください。この時間に、本来の栄光だけがそれぞれの心に結びつき、天が願っていた姿としてお父様の前に捧げられることができる、この一つの集まりにしてください。そして、ただお父様のものとしてのみ受け入れられるようにしてください。


広がっている多くのあなたの息子娘たちにも、常に共にいてください。歴史に働いてくださることを願いながら、主の名前で祈ります。アーメン。




<祈り(Ⅱ)>


お父様、私たちを集めてくださいました。この時間、私たちだけを残さないでください。多くの試練の中で、私たちをここまで導いてくださったことを感謝します。お父様が私たちのためにこの道へと導いてくださったことを、私たちはよく理解しています。天の悲しみと地の悲しみが私たちを条件として覆わざるを得ない歴史的な責任が私たちにあることも知っています。


    3


翻訳の範囲が長大であるため、引き続き翻訳を進めますが、ここまででの確認や変更点があればお知らせください。


お許しくださった言葉と、お許しくださった恩寵と、お許しくださった命によって、今日この場所でお父様を前に「お父様」と呼べる栄光の恩寵を持つことができたことを、恐縮に存じます。


今日、私たちに託された責任がどれほど重要であるかをよく知っています。愛するお父様、この時間、私たちを見捨てないでください。もう一度お父様の懐に抱きしめてくださり、私たちの心にお父様の心情を移してくださいますように。お父様が私たちに委ねようとされた全体の意志を私たちに託し、お父様が安心して任せられる私たちにしてくださいと、切に願い求めます。


これから、私たちの心と体が私たち自身のものでなくなり、この時間だけはお父様のために動く心と体とならせてください。お父様が直接指導する一つの祭壇となり、お父様以外の何ものも許されないこの時間をお許しください。


数えきれない悪魔たちが、私たちの動きを妨げようと必死になっています。この時、私たちは心も体もすべてを傾け、それを阻むことのできる天の力と能力を待ち望んでいます。お父様、力を与えてください。恩寵を授けてください。復活の権限を持って、死の権威に立ち向かう天の軍隊となることができるように、お許しください。


    4


お父様、この訓練期間を通して訓練を受けたあなたの息子娘たちは、切実な心情と新たな覚悟と決意を持って、この三千里(韓国の領土)の隅々に散らばっております。お父様、彼らが進む道を開いてください。戦いに挑む時に力をお与えください。信仰によって天の権威を確立できるようにしてください。そして、天の実権を行使するに不足のない者としてください。


鉄の杖のような言葉と命の盾で、敵を打ち負かす力を彼らに授けてください。そして、天の勝利の栄光を彼らに与えてください。


6千年もの間、耐え忍んでこられたお父様の心情を解放できる時が来たことを私たちは知っています。そして、すでに私たちにその時を予告してくださったので、この働きが無駄に終わらないようにしてください。動くすべての上に命の動きがあり、現れるすべての場所に天の全権的な働きが現れるようにしてください。彼らに命の姿を整えさせ、敵が口を閉じ、屈服するその日を迎えることができるようにお許しください。


この日は約束された日です。祝福してください。この日は許された日です。お父様の意志を現してください。隠されていたお父様の愛の心情を、私たちの心に移してくださり、私たちがその愛を讃え歌うことができるようにしてください。私たちが、お父様の栄光を顕すことができるようにしてください。お父様の前で、真に礼拝を捧げることができるこの時間をお許しください。


私たちが、眠っている三千万の民族を目覚めさせることができるようにしてください。そして、この地上にいる多くの人々をも目覚めさせることができるようにしてください。彼らがいる場所がどこであれ、お父様が心配していることを私たちは知っています。彼らが倒れないように、お父様が支えておられることも知っています。私たちも、この民族を支え、戦うことができるようにしてください。そして、人類をも支え、戦うことができるようにしてください。


    5


彼らは私たちのために存在しているのではなく、私たちが彼らのために存在していることを知っています。お父様も彼らのために今も戦っておられることを知っています。私たち自身も、自分のために生きるのではなく、お父様のために生きなければならないということを悟り、この民族を支えようとされるお父様の意志と、すべての人々に対する緊迫した責任感を感じる私たちでいられるように導いてください。このような使命感と責任感を持って、一瞬たりとも惜しんでお父様の意志のために戦っていける天の軍隊となることを許してください。


この日、全人類を代表して集まる多くのあなたの祭壇を祝福してください。命の恩寵に満ち、天に孤独な祭壇を築き、訴えている隠れた息子娘たちが多いことを知っています。彼らに特別な恩恵をお与えください。


終末の時に、天の意志を知らせてください。そして、お父様の栄光の時が来ることを彼らに告げてください。天の恩寵を中心に集まる日が早く訪れることを許してください。そうして、全人類が一つの祭壇を築き、お父様の栄光を讃え、礼拝を捧げる日が地上に訪れることを許してください。


摂理の意志の前に、栄光の一日が早く訪れることを許し、その日を待ち望み、戦っていく私たちの前に、勝利の喜びの日が早く訪れることを許してください。天の栄光が地に広がり、勝利の歌声が響き渡る喜びの園が早く実現することを許してください。


今日、この時間以後のすべての時間を、直接お導きください。この時間、私たちがここに集まったことをどうか喜んで受け止めてください。そして、私たちのすべての考えや感情を取り除き、天の心情に共鳴することができるようにしてください。私たち自身がただあなたに捕らわれることを願い求め、すべての言葉を主の名によってお祈り申し上げます。アーメン。


    6




<祈り(Ⅲ)>


お父様!今日ここに集まった私たちを、ヨルダン川の岸に集まっていた哀れな群衆のようにしてください。天からの新しい知らせを聞こうと、洗礼者ヨハネの前に集まっていた群衆のようにしてください。


切なる心情でメシアの到来を待ち望んでいたイスラエル民族の足跡を振り返り、歴史的なすべての悲しみを越えて、天の愛を中心に洗礼者ヨハネを中心に動いていた群衆の姿、イエスを従った群衆の姿、心と心が通じ合い、新しい希望に喜んでいた群衆の姿になることを、切に願い求めます。


選民の権利を誇り、選ばれた民族であることを誇り、祝福の中で生きていたイスラエルはどこへ行ってしまったのか、と嘆かれるお父様の悲しい涙がこの地に残っていることを、私たちは知っています。


お父様が4千年の歴史的な悲しみを耐え忍びながらも、選ばれたイスラエル民族を導いてこられたのは、ただ一人のメシアを送るためでした。しかし、彼らはメシアを見ていながら、悪魔の懐に飛び込んでしまいました。それを見たお父様の悲しみは、その時だけの悲しみではなく、億千年の歴史にわたる悲しみとして残っていることを、私たちは知ることができました。


当時、選ばれたイスラエル民族は、この事実を知りませんでした。それを思い出す時、今日の私たちは身を低くし、心を落ち着けて、歴史的な罪を暴露し、その罪に代わって悔い改める責任があることを、私たちは悲しまずにはいられません。


    7


お父様、どうか手を伸ばしてください。お父様、愛の心情を示してください。お父様、疲れた足取りをもう一度進めて、私たちを見つけてください。切に願い求めます。


イエス様は、天の悲しい心情を持って、倒れていく民族を見つけ出されました。そして、彼らを憐れみ、自分の命を惜しまずに彼らを救い出してくださいました。しかし、自ら選ばれた民族だと称するイスラエルの人々は、天が送ったメシアと準備された洗礼者ヨハネを、自分たちの思い通りに扱い、歴史的な悲しみの陰に隠してしまったのです。私たちは今日、その事実を知っています。


今日ここに集まったあなたの息子娘たちが、その時のイスラエルの人々が私たちよりも劣っていたから天を裏切ったのではなく、天を愛する心が私たちよりも劣っていたから天を忘れたのではないことを知ることをお許しください。新しい時代に対する希望が足りず、新しいメシアの理念を持って来られた主の姿が大きいと思い込んでいたのに、実際に現れたメシアはあまりにも小さく、哀れでみすぼらしかったために、彼らが拒絶したという事実を知ることをお許しください。


今、私たち自身がどのような立場にいるのかを振り返ることをお許しください。今日、私たちは歴史的なイスラエル民族を非難し、その時代の状況を批判することが好きですが、当時の状況と今日の状況に大きな違いがないことを理解させてください。


もし私たちがその時代にいたなら、私たちも同じような群衆であったでしょう。私たちもその時代にいたなら、彼らと同じ立場にいたことでしょう。私たちが歴史的な罪の跡を持ち、悪魔の魔手が私たちの体を狙っているということを、この時間、知ることをお許しください。


    8


私たちは知らないうちに、命の権限を失い、苦しむことが多々あります。今日、このすべての矛盾した環境を打破し、環境に縛られたすべての状況を抑え込み、悪魔が喜ぶことができる足場を作るのではなく、お父様の悲しみを和らげることができる、心情の捧げものとなることをお許しください。


私たちが誰を見るためにここに来たのでしょうか?誰を探し求めてこの場に来たのでしょうか?ただ、私たちが求め、探し求めているのは、お父様の心情です。歴史的な教師を求めて集まる群衆ではなく、預言者を通じて現れるお父様の心情を求めて集まる群衆になることをお許しください。


お父様、私たちの心には、この世で汚された罪の苦い根が残っています。そして、私たちの体は悪魔の侵害を受けて傷ついています。哀れみの心で現れてください。そして、この哀れな私たちを、せめてこの一時間だけでも、お父様の懐に抱いてください。お父様の永遠の命に浸り、自分のすべての認識を超えて、お父様の存在に融和し、本来の性質を持った姿でお父様と対面できる、この時間にしてください。


残された天国の理念を私たちに見つけ出してください。残された新しい国の喜ばしい知らせが、私たちを見つけることを許してください。解放の鐘の音が響き、自由と解放の恩寵の前に、私たちが喜んで踊れる日が早く来ることをお許しください。そして、この人類の前に、新しい喜びの楽園が展開されることを許しください。


今、この時間をお導きください。お父様が望む通りに、お許しくださった言葉を現してください。悪魔の暗い影を取り除き、真の命を得た喜びを紹介できる、天の縁が結ばれるこの一時間にしてください。死んだ体が再創造の復活の恩寵を受けて、お父様を認識できる時間にしてください。再創造の言葉と再創造の命の動きがここに現れることを、切に願い求めます。そして、すべての言葉を主の名においてお祈り申し上げます。アーメン。


    9






<御言葉>




我々人間は堕落したその日から今日に至るまで、失った理想の国を憧れ、希望を抱きながら無限の苦難を乗り越えて戦ってきたことをよく知っています。私たちが生きている周囲は本来、幸せであるべきなのに、私たちは心の中で描き、望んでいるすべての幸せの条件と結びつけることができず、不幸の中でもがいていることもまた、よく知っています。こうした立場に立たされているのは、人間が神様が創造された理想の天国を失ったからだということを、私たちは改めて思い返さなければなりません。


神様は6日間ですべての万物を創造されました。その中でアダムとエバは、万物の主人公として創造されました。このアダムとエバは、神様の創造の理想の園で、神様に代わってすべての被造物を司ると同時に、神様の栄光を享受し、天と地の前で和合できる栄光の中心、勝利の中心、喜びの焦点となるべき存在でした。しかし、彼らは自らの位置を失い、与えられた責任を果たすことができませんでした。その結果、その日からこの地は悲しみと苦しみと死の地に変わったという事実を私たちは知っています。


もし誰かがこの事実を否定し、そうではないと主張するならば、その人は自分の心を否定し、歴史的事実を否定し、私たちが生きている現実の生活を否定する者だと言えるでしょう。


だからこそ、今日の人間は誰もが不安と恐怖、死の困難な環境の中で生きているということを心に刻まなければならない時が来たのです。


私たちはこれに気付き、新しい覚醒をし、現実の矛盾を取り除きながら、新しい心情に満ち、新しい理念と希望を持たなければなりません。そして、もし創造主がいるならば、その創造主が望む理念を抱き、今日も明日も、いや生涯を通じて、その理念と共に戦う覚悟を持たなければ、この矛盾した環境を打破し、天との縁を結ぶことができるのだということを理解しなければなりません。


    10


行かざるを得ない道であり、避けることができない苦難の環境ですが、このすべてを否定し、すべてを捨て去って突き進む希望を持たなければなりません。このすべてを忘れて駆け抜けることができる新しい理想の園、それこそが私たちが目指す目的であり、歴史の中で、あるいは歴史の終わりに見つけ出すべき目的なのです。このことを私たちは知らなければなりません。


これは神様が望んでおられることであり、人類が望んでいることであり、この国と今日の私たちが望んでいることです。このような立場から、今日のあなたたちは、その責任を担わなければならないということを感じなければならないのです。したがって、今日あなたたちにお話しする題は「希望の理想天国」です。「希望の理想天国」。


人間が堕落したことで、神様の希望は挫折し、人間の希望も断たれてしまいました。神様が希望された対象である人間は、本来、宇宙を代表する主人公であり、あるいは天宙的な理念の個体として、理想的な個体として、全体を代わって神様を動かし、また地上を支配する存在であるべきでした。しかし、そのような人間にならなかったため、神様の希望は残され、人間の希望もまた残されたままとなってしまいました。


このことを考えると、神様が人間のために創造された楽園、そして人間と共に幸福を享受するための創造理念は、私たち自身によって決定されるものであることを再認識し、その責任を担い、戦う覚悟を持たなければなりません。そして、神様の歴史的な恨みを晴らすために努力する必要があります。


もし悲しいことがあるとすれば、それ以上に悲しいことはなく、もし悔しいことがあるとすれば、それ以上に悔しいことはないほどの心の痛みが、皆さん自身の中から爆発する瞬間こそが、新しい理念と希望を見つけるための転換点となることを理解しなければなりません。


    11


そのため、神様は堕落した人間の心に新たな衝撃を与えようとして、今日まで戦ってこられたことを私たちは忘れてはなりません。神様の使命を代わりに引き継いだ多くの預言者たちも、死の領域に眠る人類を目覚めさせ、新しい理念の世界があり、新しい希望の楽園があることを知らせるために戦い、命を落としてきたことを私たちはよく知っています。


さらに、歴史を通して私たちの先祖たちが天の使命を受け、時代ごとに警告してきた神様の言葉に感動し、その言葉を信じてその時代を切り開いてきた群れや民族がなかったことを知るべきです。これが歴史的な過ちであり、我々はその過ちに対して罪を認識できていない状況にあるのです。


ヤコブには自分の意思に反して21年間の荒野生活がありました。その期間に彼は繰り返し困難に直面しましたが、それに打ち勝つ心の基準を彼は持っていました。それは、神様に対する不動の心情と、神様から与えられた衝撃による心情が彼の生活と人生を支配していたからです。したがって、環境のすべての苦難を克服し、復帰の道を堂々と進んだのです。


また、民族的な責任を負って生まれたモーセの心は、ファラオの宮殿の豪華な生活に支配されることはありませんでした。モーセは40年間ミディアンの荒野で羊飼いとしての貧しい生活を送りましたが、その環境は彼の心に宿った神様からの衝撃を消し去ることはできませんでした。モーセには、民族を超え、人類を超え、世界を超えて、神様と結びつきたいという湧き上がる心情的な衝撃があったために、ミディアンの荒野の40年を無事に乗り越えることができたのです。


こうした私たちの先祖たちが一心に待ち望んだものは、新しい国、つまり神様がいらっしゃる場所でした。それを見つけ、実現するために戦い続けてきたことを私たちは知っています。


    12


モーセが60万人のイスラエル人を率いて荒野をさまよった40年間、その環境は非常に厳しいものでした。しかし、彼がそのすべての困難を忘れ、60万人の民をカナンの地へ導くことができたのは、神様との約束を果たし、カナンの地に入るという切なる希望の心情が、反対する人々の心情よりも強かったからです。


モーセにとって、目指すカナンはただの地ではなく、神様の約束を果たす場所であり、イスラエルの民が真に自由となり、神様の祝福を受けるべき理想の地でした。そのため、モーセはあらゆる困難を超えてその使命を果たし、カナンに向かうことを決して諦めませんでした。


さらに、4千年の歴史を経て、神様が人類に希望する中心存在として、また理想の天国理念を紹介し、それを成し遂げるために来られたイエス様は、その時代の環境に満足せず、当時の宗教的な形式や習慣にも囚われることはありませんでした。


イエス様が新しい忠誠の心情を持ち、新しい教えをもって現れたとき、彼は歴史的な人物や団体、国家すべてから反発を受けたという事実を、私たちは歴史を通して理解しなければなりません。それが、イエス様が天国の理念を探し求める道を阻んだ大きな障害だったのです。


イエス様は、今日よりも明日、明日よりも来年、来年よりも次の世代、さらには次の世紀へと、人類をより良い理念に引き上げ、最高の理想のレベルにまで導きたいと願っておられる創造主、神様がおられることを、歴史を通じて私たちは知ることができます。


    13


私たちは今、世界が終わりに近づいていると言われる時代に生きています。全世界の人々が生きるか死ぬかの岐路に立たされ、自己の存在意義を誇ることもできない状況です。したがって、2千年前にイエス様が紹介してくださった理念を再び思い出し、それぞれが新しい心の衝撃を受け、現実に根付いた古い体制の上に立っている自分たちが新しい心の爆発を起こさなければ、この時代は歴史の悲しみの谷から抜け出すことができないということを理解しなければなりません。


歴史的な終末にある私たちは、聖書を通して学ぶべき教えをすべて学んできました。多くの学者が2千年にわたり、心血を注いで聖書を研究しましたが、それはそれで終わりを迎えました。彼らが完全だと信じたすべての動きは、発展したかのように見え、人々の前に理想的な理念を提示したかのように見えましたが、それは人類が真に求めている天国の理念ではなく、心の楽園を開拓するための新しい動きではなかったという事実を、現実を見て理解することができます。


私たちは今、このような壁を打ち破り、切り開く存在にならなければなりません。


では、現在の人類が直面している最大の問題は何でしょうか? それは、もし創造主が存在するならば、その創造主が成し遂げたいと思われる天国の理念があるはずですが、その理念をどのように人類に紹介するかという問題です。しかし、これまでの理念ではそれが実現できなかったため、新しい理念が必要であると感じ、その新しい理念を心から渇望しない者がただ新しいものを望むならば、彼は歴史的な犯罪者と見なされるべきでしょう。


新しい理念が現れることを待ち望み、すべての人類が幸せになることを願うのであれば、皆さんはすべての恨みの山を乗り越え、現実のすべてを振り払い、戦っていく覚悟を持つかどうかが問われるのです。


    14


私は皆さんに尋ねたいのです。まだ解消できない歴史的な頑固さを打破し、新しい衝撃を引き起こし、新しい理念に燃えることができる人を作り出す理念はどこにあるのでしょうか?また、もし天が存在するならば、そうした理念を私たちに心から紹介してくれるでしょうか? 皆さんはこうしたことを考えたことがありますか?もし考えたことがないならば、この理念の園、すなわち理想の世界を憧れ、求めて苦しんできた我々の先祖の前で顔向けできない罪人であることを自覚しなければなりません。


天に向かう心情に染まり、新しい創造理念の世界、人間が目指すべき希望の世界を心で感じ、その衝撃によって行動することができたイエス様は、「悔い改めなさい、天国が近づいている」とおっしゃいました。


しかし、イエス様がこの衝撃に基づいて行動されたときの環境はどのようなものだったでしょうか? イエス様が一歩踏み出すたびに、万民が一致団結してイエス様を歓迎すべきだったのに、誰も歓迎することはありませんでした。当時だけでなく、今日まで歴史上の多くの人々や、霊界にいる多くの霊人たちも、イエス様が叫ばれた言葉やその歴史的な行跡、またイエス様の責任が何であったかを知りませんでした。こうして、イエス様を歓迎した者はいなかったのです。


しかし、新しい理念を携えて来られたイエス様は、その理念を実現するためには、理念の目的が成就する日まで、全ての反対条件を打ち破って前進しなければならないことを心に深く感じておられました。理念に基づく衝撃が強ければ強いほど、環境からのあらゆる悪条件を打ち破ることができる強い信念を持っていたため、イエス様はどんな環境に直面しても、それを克服することができたのです。


今日、私たちは心の中で何かを渇望しています。私たちの体は何かを求めて苦しんでいます。私たちはまた、恐怖と不安の中でうめいています。こうした時にある私たちは、このすべての恐怖と不安の条件から解放されるその日を憧れなければならないということを理解しなければなりません。


    15


今日、こうした環境に置かれているのは私たちだけではありません。2千年前に来られたイエス・キリスト様も同じ環境に置かれていたのです。この事実を思い出し、イエス様がどのようにその環境を乗り越えられたのかを考えてみましょう。


この地上に来られたイエス様は、神様が万物を創造されたこと、そしてその創造された万物が真の主人によって管理され、理想の天国が築かれるべきだったことを知っていました。しかし、人間の堕落によって、創造主が理想とされた天国は地上の地獄に変わり、言葉にできない恐怖と不安の世界、戦争の世界に変わってしまったという事実もご存知でした。だからこそ、イエス様はその理念と理想の天国を手に入れるためではなく、この地上の地獄の責任を背負い、人々を救うために公生涯をスタートされたのです。


理想の天国を目指して進んでいくイエス様は、言葉にできない孤独と逆境、悲しみに直面しました。それでも、イエス様はそれが進むべき道だと理解していたため、その道がどれほど困難であろうとも、理想の楽園が実現するまで、創造主と共に天国の楽園に入るまで進み続ける決意を持っていました。このことを感じなければなりません。私たちもまた同じです。私たちもその理想の楽園を目指して進んでいかなければなりません。


今、皆さんがこうした衝撃を受けたならば、その衝撃と共に、「お父様、私は行きたいです!希望の理想天国を目指して私は行きたいです!」という強い決意を持つべきです。


希望の理想天国を目指して進む道は、平坦な道ではなく、悲しみの道です。天国へと進む道は天国から出発するのではなく、罪の世界から出発するのです。罪の世界である地獄から出発し、その地獄を打ち破らなければ、天国と繋がることができないのです。


    16


私たちは進むべき運命に置かれています。希望の理想天国を目指して進む運命に置かれているのです。イエス様が進んだ道を考えてみましょう。イエス様はどのような道を歩まれましたか? 平坦な道を進まれたわけではありません。イエス様は多くの人々から歓迎される道を進まれたわけではありません。イエス様は万民の救い主であり、万物の主人公であったにもかかわらず、一度も主人公として振る舞われることはなく、自らを誇り、大衆に自分を従わせようとすることもありませんでした。


摂理の道を進むべきイエス様は、先頭を切って進むべきであったのに、民族の最後尾に立ち、「あなたたちは安らかな道を進みなさい。私は最も困難な道を進もう」と言われ、民族の苦難、世界の苦難をすべて背負い、人類が嫌がる苦難の十字架を背負って人類のために進まれました。イエス様はご自分が進むべき道が歴史的に悲しい道であり、悪条件に満ちた道であったとしても、その道を進まなければならなかったため、30年の準備期間と3年の公生涯期間を通じて、厳しい決意を持って歩まれました。その決意が厳しければ厳しいほど、イエス様は苦しむ人類の友となり、悪魔に苦しめられている人々を救おうとし、歴史的にも時代的にも最も低い位置で悪魔と戦われました。


イエス様は、「人類に悲しみがあるならば、それは私が、人類に困難があるならば、それは私が、人類に死があるならば、それは私が責任を取る」と決意して歩まれました。イエス様の歩みは個人の歩みでしたが、その使命は歴史的なものであり、時代的なものであり、未来に向けたものでした。


創造以来の神様の心情と人類の心情、そして被造物に対する心情があるならば、それらすべてを理解し、その恨みを解消する責任を負ったイエス様はどこに向かって歩まれたのでしょうか?イエス様は豪華な宮殿を目指したわけではなく、栄光の中で権力を享受する高官の家を目指したわけでもありませんでした。時代的にすべての条件が整わない中で、神の意志に立たされたことを知っていたイエス様は、その逆の道を選ばれたのです。


神様が4千年間信じ続けてきたイスラエルと、その国を代表するユダヤ教団が進むべき道が天国へと繋がる希望の道が塞がれていることを知り、その希望の道を開こうと先頭に立とうとされましたが、彼らが信じなかったために、イエス様は民族の後ろを歩むしかありませんでした。


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希望の天国を目指して進むべきイエス様は、個人を超え、家庭を超え、民族と国家を超えて、世界を神のもとに導き、理想の天国を実現するべきお方でしたが、民族の先頭に立ちながら追放されました。ユダヤ教団からも追放され、家族からも、弟子たちからも、さらには強盗にまで追放されました。その時のイエス様の心情はどれほど辛かったことでしょうか。


お父様の理念で進むべきイエス様が、世界の人類に幸福の楽園を紹介するべきイエス様が、反対の道を進まなければならない時、イエス様の姿と心情はどれほど深いものであったか、私たちは理解しなければなりません。


イエス様は進むべき道をまっすぐに進めないのであれば、回り道をしてでも進まなければなりませんでした。4千年の歴史が経過しているので、その4千年の歴史を逆戻りしてでも進むしかありませんでした。これがイエス様の使命であり、責任であったため、イエス様は何度も神様に祈られました。「お父様の意志が成し遂げられることを妨げる障害があるなら、それを捨て去り、数千年かかってでも回り道をして進みます。ただ、希望の楽園を目指して進みます。お父様よ、私はここにおりますので、どうか絶望しないでください」と。


しかし、神様が4千年の間準備された民族、教団、家族、さらに洗礼者ヨハネまでもが、皆イエス様の進む道を妨げ、裏切りました。このような状況の中で、イエス様を見つめられた神様は、イエス様の前で顔向けできないほどの申し訳なさを感じられました。


神様が4千年間準備してきたすべての環境条件が一瞬にして崩れ去ったとき、イエス様はむしろ悲しんでおられる神様を慰める立場に立たなければなりませんでした。本来なら、神様が悲しんでおられるように、イエス様も悲しむはずでしたが、イエス様は自らの悲しみを抑え、神様を慰めるという立場に立たざるを得なかったのです。その結果、イエス様は民族から敵対視され、教団からは異端者とみなされ、家族からも裏切りを受け、強盗からも嘲笑を受けました。


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最終的に、イエス様は十字架を背負い、ゴルゴダの丘で釘付けにされて亡くなりながらも、自分を殺そうとしている敵のために口を開いて、「お父様、彼らの罪をお許しください」と祝福を祈り、彼らのために祈り続けました。


天国の理想の楽園を目指して進むと神様に誓われたイエス様は、その道が栄光や幸福、喜びで終わらず、悲しみと悔しさ、死で終わるとしても、その道を進まなければならなかったのです。お父様が探し求めているその理想の楽園を目指して進むことこそがイエス様の使命でした。イエス様がその理想の楽園を探し求められたのは、人類を代表してのことであり、歴史を代表してのことであり、万物を代表してのことでした。そのため、イエス様に従う私たちもまた、進まなければならない運命に置かれているのです。生きて進めなくても、死んでからでも進む運命にあるのです。


イエス様は人類の苦しみを背負い、人類の最も低い立場から出発し、最終的にはゴルゴダの丘までたどり着きました。そこは、イエス様がご自身のすべてを犠牲にする場でした。ああ、神様の御子、天国の王子様、天の皇太子の姿はどこにあったのでしょうか?人類のメシア、救い主としての姿はどこに行ったのでしょうか?その場は、イエス様がご自身のどんな価値も主張できない、悔しさと屈辱の極限の場所でした。しかし、イエス様はそのような死の峠を越えて天を仰ぎ、天国の理想の楽園を目指して進むことができたのです。それは、イエス様の理想が死の力よりも強く、歴史的ないかなる力よりも強かったからです。したがって、死の力を打ち破り、復活が起こり、反対していた人々も悔い改め、今日のキリスト教が勝利の土台を築くことができたのです。


このようにして進まれたイエス様の後を追う今日の私たちは、たとえ死んでも、たとえ生きても、その道を進まなければなりません。このようにして進みたいという思いが、皆さんの中に深く染み渡っているかどうかが問題です。


皆さんが「どんな衝撃を受けても、その理想を目指して進みたい。食べても、飢えても、鞭打たれても、冷遇されても、迫害されても進みたい」と言えるような、死の力よりも大きな思いがなければ、歴史的な終末に現れる大審判で、死の権威を乗り越えることはできません。「どうであれ進みます。お父様よ、あなたが存在していることを知りました。あなたの理想世界がどのようなものであるかを知りました。誰も進まなくても私だけは進みます」という心を持たなければならないのです。


    19


しかし、進む道は平坦ではありません。人間の祖先が最初から平坦で幸福で喜びに満ちた出発をすることができず、悲しみと苦しみ、逆境と恐怖、不安の中から出発したため、その贖罪を担わなければならない最終段階にある私たちも、同じように悲しい道を進まなければならないのです。このような時、天的な理想を紹介してくれるメシアが現れなければ、人類は不安と恐怖と死の権威から逃れる道はありません。生きる道がないのです。


だからこそ、キリスト教は本来、犠牲の教団です。十字架の教団です。血を流す教団です。奉仕する教団です。まず死ぬために進んでいく教団です。天が導いてきたキリスト教は、このような歴史の過程を通じてその伝統を輝かせてきました。しかし、今日の時代のキリスト教にこの精神がないならば、その教団は天罰を受けるべきであると言っても過言ではありません。これを断言することができます。


世界の運命を開拓するべきキリスト教は、世界的な悲しみを抱え、涙を流しておられるイエス様の代わりに、ゴルゴダの丘で血を流して亡くなられたその瞬間に、「彼らの罪を許してください」と祈られたイエス様の心情に染まり、天と地の恨みを解き放ち、新しい理想と希望、そして新しい理想の楽園を紹介できる牧者、羊となるべきです。このような人物でなければならないことを皆さんは知るべきです。


さらに、皆さんは、反対と迫害の果てにゴルゴダの丘で十字架にかけられたイエス様が復活することを知らなかったイスラエルの民の中で、彼らを代表してイエスの死を目の前にして、死を覚悟して天の前に進み出たペテロ、ヤコブ、ヨハネのように、死を覚悟して天の前に立つことのできる牧者、そのような羊の群れがあるならば、彼らこそが新しい時代と新しい天的理想を繋ぐ存在であるということを知らなければなりません。


今日、私たちは肝に銘じなければなりません。私たちの周囲にあるすべてのものを新たな感情で見直さなければなりません。現れる指導者がどのような者であっても、再評価する必要があります。ユダヤ教の祭司たちはどういった者たちだったでしょうか?彼らは天的な新しい知らせを踏みにじった者たちです。私たちは今日、何が私たちを支配しており、何が私たちの国を精神的に主導しているのかを再分析しなければなりません。


    20


今日、この時代的なすべての罪悪の基盤を打ち破り、新しい希望の中へと導いてくれる新しい理念に燃え立たせてくれる衝撃を、皆さんが教団を通じて受けられないならば、その教団はイスラエルが受けたのと同じような裁きを免れることはできないのです。


私たちは、進んでいかなければなりません。既存の教会や他の宗教の信者の信仰理念を乗り越え、さらにイエス様の十字架をも乗り越えなければならないのです。さらに言えば、十字架だけでなく、イエス様の復活の心情をも乗り越え、神様の心情までも超え、神様を慰めることのできる息子娘にならなければなりません。そういった立場に私たちは進んでいかなければならないのです。


行きたいその場所、お父様がいらっしゃるその場所、主がいらっしゃるその場所、人類の真の兄弟姉妹がいるその場所を目指して、私たちの足取りがどこに留まることができるでしょうか? 地上のどんなものが私たちを引き止めようとも、理想の道、私たちが進むべき道を妨げているすべての条件を踏み越えて、彼らさえも導いていかなければならない道が、皆さんの前にはあるのです。


私たちは、このような責任を担いながらも進まなければなりません。神様はすでに6千年の間、私たちを探して来られたのです。私たちは進む運命に置かれており、神様は私たちを見つける運命に置かれているのです。


神様は、私たちを探し求めるために言葉にできないほどの苦労をされてきましたが、皆さんはその天の苦労を考えたことがありますか?堕落したその日から、神様はアダムの後を追いかけられなかったことは一度もなく、アダムの子孫たちの後を追い続けられなかった時は一度もありませんでした。その神様が、今日も皆さんが知らないうちに休むことなく、皆さんを探し続けておられます。皆さんはその天を見つけようとしたことがありますか?そこには、6千年にわたる悲しみと数千数万の死の山が立ち塞がっていたという事実を知らなければなりません。私たちを探しに来られた神様の歩みがこうであるならば、神様を探しに行く私たちも同じような道を歩まなければならないという思いを持つべきです。


    21


イエス様はご自分のために何らかの理想を探し求めて来られたのではありません。イエス様は万民の中心として、万民に幸福と希望の楽園を紹介するために来られました。ですから、イエス様は万民のために苦労され、万民のために苦しみを受け、万民のために悲しみの道を歩まれました。そのため、被造物すべて、天と地のいかなる存在も、イエス様の悲しみと無関係ではなかったのですが、イエス様は進むべき道がありませんでした。しかし、イエス様はそこで絶望することなく、新しい希望を残されました。こうしてメシアとしての基準を完了し、新しい希望の楽園を開拓する主人となったのです。このことを私たちは知らなければなりません。


今日まで私たちは、このようなイエス様を知りませんでした。しかし、知ってみると、イエス様は悔しく、悲しい思いで去られたお方だということが分かります。今やイエス様がどれほど悔しい思いであったかを知った以上、そのイエス様を再び見つけ出し、出会わなければなりません。そして、イエス様に会いたいという切なる思いが強くなければなりません。4千年間、神様のために苦労されたイエス様が、神様の手を取って戦い続けたのと同じように、皆さんもイエス様以降の2千年の歴史、いや6千年の全歴史を代わって、神様に出会いたいという強い願いと、その方へ進みたいという熱い心を持つべきです。皆さんが悲しい時に慰めてくださった神様とイエス様、困難な時に助けてくださった神様とイエス様、そして悔しさと悲しみを代わってくださった神様とイエス様に出会うことができます。しかし、その出会いには困難が伴います。


イエス様は亡くなる時に、人間に対して多くのお願いをされました。「私が天に行って、あなたがたのために居場所を用意する」とおっしゃいました。また、再び会うその日を約束されました。私たちには進むべき道が残されていると同時に、再び会うべき日が残されているのです。したがって、ただ進むという決意だけでは十分ではありません。会わなければならないのです。


再び会うその日は、歴史の終わりであり、キリスト教的に言えば、再臨の日です。したがって、皆さんはその再臨の日を待ち望みたいという思いと進みたいという思いを持ち、苦難や迫害、悲しみの死の谷にある地獄の門を突き破って進んでいかなければならないのです。悪魔が訴えることができるすべての条件が取り除かれ、神様の理念に従って動く場所、それが天国です。苦しみの条件が完全に取り除かれ、喜びのうちに出発できる場所、それが天国です。ですから、地上で進むべき苦しみの道を全うせずに残してしまうと、その残した分だけ霊界で苦しみを受けることになるのです。


私たち人間は、進むべき道をすべて進んだ後にしか、会うことのできる立場にはなりません。イエス様が先に進まれた歴史的な道を再び歩んだ後にしか、再び会うことのできる立場にはならないのです。


    22


神様は、イエス様が天に昇られた後、2千年の間、再び会うための準備を進めておられます。イエス様は、終わりの日に天の新婦と出会うために、霊界で2千年の間、神様の前で私たちのために祈り、準備をされているのです。イエス様には、新郎としての責任分野があり、地上に残された人間たちには、新婦としての責任分野があります。そのため、新郎であるイエス様は、霊界で2千年の間、その責任を果たすために努力されているということを、私たちは聖書を通じて知っています。


では、地上に残された新婦たちはどのようにして新郎に会うことができるのでしょうか? それはまず、責任を果たさなければなりません。イエス様も地上に現れる責任を果たし、再び現れます。ですから、私たちも責任を全うしなければならないのです。そうすれば、その報酬として天の贈り物を受けることができるでしょう。ですから、新婦の立場にある全世界のキリスト教信者たちに与えられている新婦としての責任を果たさなければならないのです。


イエス様は、「地の果てまで行って私の証人になりなさい」(使徒行伝1:8)とおっしゃいました。また、「自分の命を救おうとする者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを見つけるであろう」(マタイ16:25)とおっしゃいました。


私たちは、責任を果たす道において、与えるために戦う者となるべきです。そうすることで、責任を全うするために食べることもできず、心の安らぎを一日も持つことのできなかった新郎イエス様と同じように、歴史の道を通じて地上のために戦った多くの者たちの心の前に恥じることなく立つことができるのです。このようにして、各自が責任を果たした後に初めて、イエス様に会う資格を得ることができるのだということを理解しなければなりません。


今日まで堕落した人間として、神様に会う責任を全うした者は一人もいないため、天国に入った者は一人もいません。イエス様も楽園にいらっしゃいます。楽園は天国に入るための待合室なのです。


    23


では、人類の希望とは何でしょうか? それは、堕落の恨みを解消し、復帰の道を通じて神様の深い恨みの条件を贖い、「私は人間としての責任を全うしました」と言える姿になることです。その姿こそ、イエス様が2千年の間、準備して見つけようとしている姿なのです。


そのようなイエス様に会いたいという心情に満ち、今日の生活の中でイエス様が感じられた歴史的な悔しさを私たちが清算しなければなりません。イエス様が悔しさを抱いて進まれたすべての逆境の道を、私たちは喜びのうちに勝利して進むべきなのです。


今日のキリスト教信者たちは、ゴルゴダに向かうイエス様の道を妨げず、勝利の道を開拓して、イエス様の願いを果たす責任を果たした立場から、イエス様を迎えなければならないのです。私たちは、見たいという思い、進みたいという思いを抱くことが求められています。しかし、私たちは自分の中にそのような思いがどこにあるのか、進みたいという強い願いがどこにあるのかを問い直す必要があります。


本当の意味で、会いたい、進みたいという願いに満ちている私たちはいないかもしれません。真に会いたいという思いに満ち、自分自身が引き裂かれ、命を落とすような場面にあったとしても、その会いたいという思いでそれを超えていけるような、切実な心情を持った者たちが地上に現れなければならないのです。そうでなければ、2千年の間、会いたいと探し求めて来られたイエス様にお会いするに足る面目が立たないということを理解しなければなりません。


「私たちは会いたいのです。天よ!イエス様の願いとは何だったのでしょうか? 彼の願いは、この地上と天国が理想の天国となることでした。その天国を建設するためには、天国に住むべき民が必要であり、天国を作り上げるための地が必要であり、そのための天国の主権が必要であり、その主権を動かす統治者が必要であるということを私は知っています。どうか、この地上に生きる万民が天国の民となりますように。それが私たちの望みです」と心から言えるようにならなければなりません。


    24


この地上がいくら広いとしても、神様が「これは私のものだ」と言える一片の土地すら存在しません。イエス様が「私のものだ」と言える土地もありません。永遠に悪魔が侵すことのできないと断言できる一片の土地も持っていなかったのがイエス様でした。


イエス様の理念こそ、神様の理念であり、地上に建設されるべき理想天国の理念なのです。その理念を会いたくて、神様の民になりたくて、苦しみながら探し求めてきた者たちがいるべきだからこそ、イエス様は「探しなさい」とおっしゃいました。「求めなさい」とおっしゃいました。「門を叩きなさい」ともおっしゃいました。


私たちがこの地上に残されている恨みの道を開拓していくためには、イエス様が心で憧れていた理想世界を見たいという思いが強くなければ、その理念の実体を手に入れることはできないのだということを理解しなければなりません。


第一イスラエルが滅びた後、全世界のキリスト教徒は第二イスラエルとして、イエス様が憧れた国とその民とその土地と主権と統治者が現れることを待ち望み、今まで尽力してきました。しかし、その現実が理想と一致しないため、悲しみがあるならば、これ以上の悲しみはないでしょう。


愛国者とはどのような人を指しますか? それは、民の不幸を見て、自分の痛み以上の痛みを感じる人であり、その土地が侵略されるのを見て、自分の体が引き裂かれる以上の痛みを感じる人であり、その主権者や統治者が不当で不幸な立場にいるのを見て、自分が不当で不幸を受けている以上の悔しさや痛みを感じる人が、真の愛国者です。


    25


しかし、私たちが天国の王子を迎える新婦だという誇らしい言葉は、いったいどういうことでしょうか? 私たちはその言葉に値する存在ではなく、不忠であり、不完全であり、罪に満ちた存在です。だからこそ、恥じる心を持ち、天国の民が踏みにじられ、この国土が悪魔に踏みにじられるのを見るとき、命を失うことになっても、それを回復するために戦わなければなりません。私たちには、善の主権を回復するべき天的な使命があるのです。


今日のキリスト教徒たちは、良心と理念を持って地上の悪を打ち破るべき時が来ていることを知らなければなりません。イエス様が望んでおられる姿と、その望みの一日がどのようなものかを理解しなければなりません。イエス様が生涯の間に待ち望まれた理想の地、その民、その主権、その統治者に出会いたいという切なる心情を持ち、十字架の苦難をも許しの心で乗り越えられた方の願いを成就するために、「私の命が尽きる前に、その国を見たい。その国の民に会いたい」と願う人がいるならば、その国は決して滅びません。このような心で「天国の地を作りたい。善の主権を回復したい。その主の前に忠誠を尽くしたい」と思わなければなりません。


皆さん、時代が切迫するほど、私たちの運命は歴史の重要な時点に差し掛かっているということを骨身に感じなければなりません。その時が今、訪れています。皆さんは、誰のために存在しているのでしょうか? 皆さんは、自分のために存在しているように見えるかもしれませんが、自分のためではありません。家族のために存在しているように見えるかもしれませんが、家族のためでもありません。国や世界のために存在しているように見えるかもしれませんが、それらのためでもないと断言したいのです。私たちが生きているこの家族、社会、国家、世界が、このままでは天国の理念の世界にはなり得ないのです。


私たちは、会いたいという強い願いに満ち、自分に与えられた責任を果たして初めて、希望している方にお会いすることができるということを理解しなければなりません。そして、出会った後には、その方をどう迎え入れるべきかを考えなければなりません。マグダラのマリアが復活されたイエス様にしがみつこうとしたとき、イエス様はそれを拒否されました。それは、マグダラのマリアが進むべき道をすべて進んでおらず、準備すべき供物をすべて整えていなかったからです。責任を果たさず、供物を整えていない者は、イエス様の前に現れることはできないという事実を、イエス様はそこで私たちに教えてくださったのです。したがって、私たちは進むべき道をすべて歩み、戦うべき戦いをすべて戦い、勝利した姿で供物を準備しなければなりません。


ここで言う供物とは、何の供物でしょうか? それは、皆さん自身が供物となるべきなのです。神様は、皆さんが供物としてどれほど整えられたかに応じて、皆さんを迎え入れてくださるでしょう。また、その程度に応じて、神様は皆さんに出会ってくださるでしょう。


    26


すべての道を進み、お父様に出会った後、私たちは何をすべきでしょうか?お父様の愛を受けるべきです。そして、最終的な新郎新婦の婚宴に参加し、喜びの再会を果たした後、何をすべきでしょうか? お父様の愛を受けることこそが、人類の究極の願いです。そして最終的に残されているのは、愛を受けることなのです。


この愛を受けるために、「私は死の道も、どんな困難な道も、苦難の道も乗り越えてきました。悪魔でさえも愛し、死にゆく一人の命を抱きしめ、その命の代わりに自ら供物となろうと戦いました。お父様が地上の人間たちに向けて与えたかった愛を、私は代わりに与え、愛を求める人間たちに私のすべての心情を注ぎました。お父様、私を愛してください!」と言える皆さんのその一言に、天が心から応じてくださるその瞬間を迎えなければなりません。


皆さんが信じているイエス様は、30余年の間、涙の道を歩まれました。悲しみと死の峠を越えられました。そして、復活されて神様に向かい、「お父様、私は参りました。4千年にわたるお父様の心情を私は理解しました。そして、その心情を紹介するために私は供物となり、この場に参りました。お父様!」と言われたとき、神様はその「お父様!」という声に、自らの威厳を忘れてイエス様を抱きしめ、号泣し、喜びの涙を流されたのです。その瞬間こそ、失われた子供を見つけた瞬間であり、天と地が一つとなる瞬間でした。キリスト教徒は、この瞬間に神様が自らの威厳を忘れてイエス様を抱きしめ、号泣しながら喜びの涙を流されたということを知らないのです。


皆さんもまた、最終的にお父様の前に立ち、「行けと言われた道を進み、会おうと言われたその言葉を信じてお父様に会いに参りました。お父様、どうか私をお父様の愛の御手の中に抱きしめてください」と言えるようになるべきです。そして、愛の中に抱かれて、お父様が手を掲げて「永遠の愛の中で生きよ!」と祝福してくださる、その祝福を受ける必要があるのです。そうしてこそ、私たちの願いである理想の楽園、すなわち天国の建設が完了するのです。


天国の建設は、個々人がそのように完成されるところから始まるのだということを、皆さんは理解しなければなりません。イエス様もこの理念のために戦われましたし、私たちの先祖たちもこの理念を探し求めてきました。そして、今日、道を歩む多くの人々もまた、この目的に向かって進んでいます。


    27


では、皆さんが解決すべき心情は何でしょうか? 進みたいという思い、会いたいという思いも必要でしょうが、それらはすべて過ぎ去っていくものです。堕落した世界の人間たちが贖わなければならないものなのです。私たちには、それ以上に、神様の愛を受けたいという心情がなければなりません。そして、永遠の昔から神様が蓄えてこられたその愛を受けた一つの永遠の愛の実体として現れなければなりません。


そうして、神様が「私の愛する息子娘を見つけた」と万物の前に立てて誇り、全世界の民の前に、そして悪魔の前にまで誇ることができるとき、「そうです。あなたが探し求めていた愛の実です。あなたが理念として築き上げたかった愛の楽園の主人公です」と言われるような者にならなければならないのです。


死ぬことなく、霊と肉を合わせて神様の真の愛を受け、「あなたはお父様が探し求めておられた存在です。天と地に天国理念を建設し、その天国を支配できる第二の天的な神様の後継者です」と、すべての被造物と悪しき悪魔も証言し、頭を垂れるような存在とならなければ、天国の主人公となることも、天国の息子娘になることもできないのだということを、皆さんは理解しなければなりません。








<祈り>


この日も、天が私たちを急かす心情を感じる時、私たち人間の身体がどれほど弱いかを感じざるを得ません。今日も、天の深い心情が私たちに繋がり流れているという恐るべき事実を感じる時、私は畏れ多く感じます。お父様、私たちを支えてくださり、あなたの願いとあなたの心情、そしてあなたのご事情を解決してほしいという畏れ多いご命令に、私たちの身体と心が捧げ物となり、残された十字架の道を歩むことができるようにしてください。最後まで疲れることなく、心に刻まれた衝撃の心情をもって死の峠を越え、疲れた身体を支える力を与えられ、天との繋がりが途切れないようにしてください。


そして、憧れ、再会したい理想の楽園に会うことができるように許してください。そのためには、私たちには責任があります。その責任を果たし、残された成果を条件として備え、喜びの捧げ物として捧げられるようにしてください。天が愛したいと思い、また天から愛を受けることができる、あなたの真の息子娘として、永遠の愛の縁と愛の命、そして愛の栄光の中で生きることができるようにしてください。お父様が愛さずにはいられない、また愛されずにはいられない私たちになるように、導いてください。


    28


そうして、その国の民として、その国の息子娘として、その国の指導者として立つことができ、億千万の悪魔の前に誇りに思い、なお余裕があるようにしてください。そして、すべての被造世界が喜びと解放の賛美を捧げることができる喜びの日が早く訪れるように許してくださいと、心から願い求めます。


この事が、何か霊的な世界で行われるのではなく、現実のこの地上に生きる私たちの身体と心を通じて、実体を通じて決定されなければ、天の創造的な理念は完結できないということを知っています。責任を果たさなければならない全体的な使命の領域において、私たちが心で感じ、行動で実践し、希望の日が来るまで、どのような戦いの道であっても開拓することをためらわない、天の息子娘として許してくださいと、心から願い求めます。


残された十字架の恨みを解消し、喜びと希望の一時、永遠に楽しめる愛の一時を迎えるために、困難な道を開拓できる私たちとなるように許してください。そして、今日もそのような場で生きることができるように許してくださることを、心からお願いし、主の御名によって祈りました。アーメン。


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御言葉選集5(11)

2024年09月07日 16時17分40秒 | 日記
文鮮明先生御言葉選集5 - 11「再び目を開けて天を仰ぎ見よう」(1959年2月15日)

1959年2月15日(日)、前本部教会

聖書拝読:マタイによる福音書 26:36-46


<祈り (Ⅰ)>
お父様、暗闇の権力と闇、そして深い眠りから目覚めなければならない人類が、目覚めることを知らずにおります。どのような障壁が私たちの道を塞いでいても、新しい光明の旗に向かって走ることができるように、どうかお父様の憐れみの御手を私たちにお示しください。


お父様、幼い私たちのために尽くしてこられたお父様の歴史的なご労苦を、私たちは知っております。そして、闇の性質が心の中に潜んでいる自分たち自身を前にして、悲しまなければならない存在であることも承知しております。お父様が地を見つめて悲しまれたように、今日、私たちも自分自身を見つめて悲しまなければならないのです。


さらに、私たちは自分自身を超えて、万物が抱える悲しみの借りを清算し、悲しみのお父様の心を慰める責任があることを知っておりますが、その責任を果たせないまま今日ここにいることをお許しください。


私たちは、悲しみの歴史を悲しみで受け継ぎ、悲しみの実体を作り出してしまいました。お父様は喜びの歴史と喜びの実体を築こうとされましたが、私たちは不平と嘆きの結果を作り出してしまいました。これが、どうしてお父様の悲しみでなく、どうしてお父様の心情の苦悩でないことでありましょうか?


今日、このような惨めな姿を、どうかお父様、さらに哀れんでくださり、お父様のものとしてお取りください。そして、お父様の理念に基づいて、私たちを再び形作る実体としてお取りください。お父様が願う通り、私たちが天の本性の美を備えることができるように、この時間、本来の創造の法則に従って、私たちの心と体を再び作り直してください。私の愛するお父様、切に願い求めます。


    1


悲しみの障壁を打ち破り、新しい朝の光明を見つめ、ハレルヤの勝利の賛歌を歌い、万物の主人を見つけた喜びを歌い、万物を創造されたお父様をお迎えできる喜びをお許しください。そして、すべての創造物に対して本来の郷愁を感じ、本来の誇りを持つことをお許しください。


私たちは、人類が堕落して以来、万物までが悲しみ、嘆いてきたことを知っております。そして、真の息子娘の手によって、本来の創造物としての立場に戻れることを望んでいることを知っております。お父様を慰め、万物を再び本来の立場に復帰させる使命が私たちにあることを考えるとき、今日の私たちの至らなさをお父様の前に申し上げ、再びお父様のご苦労を仰がなければならない状況にあることをお許しください。


このようにしてでも、お父様の願いと、創造された万物の願いを成し遂げ、6千年の嘆きを終わらせ、怨みを解消しなければならない責任が私たち一人ひとりにあることを知っております。ですから、憐れみ深いお父様、愛のお父様、どうか私たちの心が、お父様の心から遠ざかることなく動き続けることをお許しください。お父様のご姿から遠く離れて動いている私たちにならないようにお許しください。


お父様が私たちをお造りになった以上、私たちはお父様と心も体も通じ合い、創造の縁にあることを知っております。塵にも満たない、取るに足らない存在である私たちを、どうかお父様の力の範囲に導き、本性を備えた者として再び立ててくださることを切に願い求めます。


どうかお父様の前に誇れる一人の息子、一人の娘として、暗い世に光明となり、暗い地上に新しい天の喜びを伝える者となることをお許しください。そして、東方の光に代わって現れる羊の群れとなることをお許しください。


    2


お父様、あなたが小さな者を起こして大きな者を恥じ入らせるとおっしゃったことを知っております。また、少数を起こして偉大な国を築くと仰せられたことも存じております。哀れな者を立てて、祝福された民族の前に誇りとするおつもりであることを知っております。ですから、今日、哀れで頼りない私たちを、この日に再び誇り高き実体として立ててください。


お父様がなさりたいと願うことを、私たちを通してなさると知っております。信じる心と従順な心をもって、お父様の御命令に従い、導きに従って進んでいく羊の群れとなることを、切に願い求めます。


そして、本来の園に残された悲しみを取り除き、万人の心身に染みついた罪の根性を完全に取り払い、その根を抜き去ることにより、天の栄光の土台として私たちを立ててください。そして、この使命を果たすことができる強い者として、私たちを抱きしめてくださることを切に願い求めます。


今日ここに集まった子供たちの心と体を、お父様、どうかお導きください。彼らの心の中に自己中心の主張がありますか? 彼らが自分の考えに固執し、天から与えられた道を忘れることがないようにしてください。お父様の愛を感じ、その情を体感し、本来の存在と一体となり、繋がり合うこのひと時となることを、切に願い求めます。


暗闇の勢力を操る悪魔は、この時も私たちを狙いながら見つめていることでしょう。お父様、どうか、暗闇の権力に囚われる者が一人も出ないようにしてください。切に願い求めます。


    3


この一時間、私たちを完全に導いてください。この家族たちとこの民族と全人類の前に、速やかに解放の日が訪れるようにしてください。私たちがこの全ての使命と責任を担うことができるように、どうか力を与えてください。主の御名によってお祈り致します。アーメン。




<祈り (Ⅱ)>


お父様、この地上で悲しみが起こるたびに、天も悲しまれ、私たちの祖先も悲しまれ、万物も悲しまれました。そして今日、私たちも悲しんでおります。この悲しみが取り除かれる解放の日を待ちながらも、道を知ることができず、何かを探し求めてもそれに気づかず、さまよい、苦しみながら6千年という長い年月を過ごしてきた事実を、お父様、あなたはご存知です。今、お父様がご臨在されるならば、私たちは抱きしめて、限りなく涙を流し、心の底から泣きたい思いでおります。


今や、私たちはすべてを知り、本来のご両親を探し求めております。悲しみの涙に代わり、喜びの涙を流し、私たち自身の存在を忘れ、天地に向かって声をあげて泣くことのできる日が一日でも早く訪れることを、この時、心と体で願い求めております。


今、私たちはどこに行くべきかを知り、私たちがどこに属しているのかも理解し、私たち自身が本来何であるかを知っています。失われた子供としての価値を理解しましたが、堕落によってもたらされた悲しみと罪悪の叫びはあまりにも大きく、今日、私たちが聞こうとするお父様の御言葉を妨げています。この力を打ち破ることができない無力な私たち自身を、悲しまずにはいられません。


お父様、今、復帰の峠に向かって走っている私たち、傷ついた足を引きずりながら、アダムとエバが願ったその頂点を目指して進んでおります。どうか、最後の力を振り絞って、この峠を越えられるように、鞭を振るって私たちを駆り立ててください。私たちがその峠を越えることができるように、お父様の衝撃を私たちの体と心にお示しくださることを、切に願い求めます。


    4


今日、この時間、お父様、私たちと共にいてください。もし、お父様が今語りたいことがあるならば、それは、お父様が喜ばれたということではなく、むしろお父様が限りなく悲しまれ、無限の困難を抱え、無限の苦しみを受けておられたという事実です。これを私たちが心で悟り、体感し、お父様の本来の心情を代わりに担うことができるようにしてください。


人間を失った天の心情がどれほどであったか、その心情と事情を理解し、また天の事情を知る方の心を通じて溢れ出る御言葉に、私たちが共感できるこの一時間をお許しください。


今や、語る者の心も、受け取る者の心も、二つに分かれることがなく、一つとなってお父様の御心が私たち全体に現れることをお許しください。悪魔がこの時間に入り込むことがないようにお導きください。主の御名によってお祈り致します。アーメン。






<御言葉>


この時間、皆さんと共に考えたい題目は「再び目を開けて天を見つめよう」です。「再び目を開けて天を見つめよう」という題目で、少しの間、お話しいたします。


私たちが生きているこの地は、神の創造の理念が実現した新しい朝を見ることができず、悪魔の権勢のもとで長い眠りに落ちてしまったことを、私たちは知っています。私たちの歴史はそのようであり、私たちが持っている心もそのようであり、私たちが望む心情、私たちが求めようとするすべてがそのようであるということです。すなわち、悪魔の権勢の中で深い眠りに落ち、目覚めることを知らないということです。この事実を私たちはよく知っています。


    5


神がアダムとエバを創造され、手を上げて祝福された時の彼らは、目覚めており、永遠の理念の世界で神と共に楽しめる存在でした。神はその目的のためにアダムとエバを創造されたのです。しかし、アダムとエバは自分たちが神とどのような関係にあり、どのような理念のもとで万物を対峙すべきかを正確に理解しませんでした。そして、完成を目指して進んでいく未完成の段階で、堕落という悲しい過ちを犯したのです。このことを私たちは知っています。


神はアダムとエバに「善悪の知識の木から取って食べると、必ず死ぬ」と言われました(創世記2:17)。また「万物の主人となり、全宇宙の支配者になれ」とも言われました。ここで、もし御言葉を語る神の心情と、その御言葉を聞くアダムとエバの心情が完全に一体となっていれば、堕落は決して起こらなかったでしょう。


しかし、神が御言葉を語られる時と、アダムとエバがその御言葉を聞く時の間には、心情的な距離があったのです。アダムとエバは、成長の過程を経て、御言葉の目的を成し遂げることで神の心情を理解できる立場にありました。彼らが万物や天使を見るたびに、またある存在物に向き合うたびに、神が彼らに命じた御言葉がどのようなものであり、神の心情がどのようなものであるかを、心を落ち着けて再び思い起こしながら接していたならば、堕落は起こらなかったでしょう。自分たちの立場を理解し、目覚めた心情で天を思い、天の心情を思い起こしていたならば、神の御言葉と、隣からささやく天使長の言葉を区別することができたはずです。


アダムとエバは、常に目覚めて神の御言葉と共にあるべきでした。彼らがその立場に立てなかった時、天使の誘惑が現れたのです。


天は私が眠っている時や目覚めていない時でも、常に目を覚まして私を見守っておられました。私が自分の価値に気づいていなかった時でも、天は私の価値を知り、私を見守っておられました。また、私が自分に課せられた責任や使命、守るべきことを知らない時でも、天はその全ての価値を知り、私を見守っておられました。


    6


さらに、神は永遠に切り離すことのできない親子の関係の理念の中で、心の底に染み込んだ愛を中心に、永遠に共に生きるべき全体的な価値を持ってアダムとエバを見つめておられました。しかし、アダムとエバはそのような神の心情を理解することなく、堕落してしまったのです。彼らは自分たちがどのような存在であり、何をすべきか、何を守るべきか、そして何を愛すべきかを理解しないまま堕落してしまったのです。


もし、神に悲しみがあるとすれば、それはアダムとエバをお造りになり、時間をかけて瞬間瞬間、彼らを見守り、支えてこられた神の心を彼らが理解しなかったということです。神が彼らの成長をどれほど待ち望んでいたかという天の心情を、彼らは理解しなかったのです。このようにして、人間の祖先が天と縦の関係を結ぶことができなかったために、その後の子孫たちは天を知らず、自分たちの存在する場所を忘れてしまいました。そして、彼らは自分が誰のものであり、どのような存在であるかも知らずに生きているのです。


彼らは、自分たちを守り、責任を持ち、全てを知って見守ってくださる神を知らないため、自分が何をすべきであり、何を目指すべきか、何を守るべきかも知らないのです。また、神が愛の心情をもって人間と一つになりたいと願い、見守っておられることを知らなかったため、人間は愛の道を探し求めながらも、その目的を知らないまま6千年を経過してきました。


天が知っていることと、人間が知っていることが相反していたため、堕落の原因となりました。だからこそ、私たちは自分自身を振り返り、私という存在を再確認しなければなりません。私が私を振り返り、私を回復しなければなりません。人間にこの義務があるために、数多くの哲学者や宗教家たちがこれを解決するために戦ってきましたが、まだ解決されていません。この事実は私たちがよく知っています。つまり、私という存在は誰のものであるのか、ということです。


必然的な縁を持つ人間であれば、その縁には主体があるはずです。私たちを存在させたその主体、つまり私たちの主はどのような方でしょうか?そして、私たちはその主体の前にどれほどの価値を持つ存在なのでしょうか?私たちはこれを明らかにし、その主と私の関係を再構築しなければなりません。


    7


では、私の心の主、私の体の主、私の心情の主、そして私の命の主がいるならば、その主はどのような方でしょうか?「ああ、その方こそが私の全てを代わる方であり、その方こそが理念を代わる方であり、その方こそが私の命を代わる方であり、その方は私にとってなくてはならない存在です」と言える方です。その方を知るその日から、歴史の中で変わりゆく時代を経て来られたとしても、変わらない主として私たちを支えてくださる神を知ることができるでしょう。そして、その時からすべての問題が解決されるのです。


次に、私たちはその一人の主から生まれた者たちです。創造主である神が私たちを一つ一つ作り、私たちの前に何を任せ、何を支配させるためにご苦労されているかを知ることができるでしょう。


神は人間に万物を支配するように祝福されました。では、どうして神は人間を造られ、万物を支配せよと祝福されたのでしょうか?神ご自身が直接万物を支配するのではなく、人間を立てて、私たちを立てて万物を支配せよと祝福された理由はどこにあるのでしょうか?それは、神が天地万物を創造された時の心情を人間に悟らせるためでした。ですから、私たちに万物を支配せよと祝福されたのです。神が万物を造られた事情と心情を、私たち人間に体感させるために、万物を支配せよという祝福を与えられたのです。


アダムとエバは、自分たちの主が神であることを知っており、神の御言葉に従って守るべきものを守り、万物に対する自分たちの意識が高まるにつれて、神が万物を創造された際に感じた美しさや愛の感情、万物を見て喜ばれた神の心情を体感し、万物を愛し、万物の前で神に代わる存在として喜ぶべきでした。しかし彼らは、神の創造の心情を体感する立場から離れ、思いもよらない悪魔の誘惑、すなわち天使長の誘惑により、感じてはならない感情を感じ、許されていない領域に足を踏み入れ、堕落してしまったのです。このことを私たちは知らなければなりません。


このようにして、私たちは堕落したアダムとエバの子孫として、今日、被造世界を見ても、天地万物を創造された神の喜びの心情を体感する手段を失った、失墜した人類となってしまったのです。だからこそ、私たちは自分自身を回復し、神を主と仰ぐ立場に立ち、エデンの園で万物を支配せよと祝福された神の心情を体感し、その心情をもって歩んでいく者になるべきです。このような人にならなければ、アダムとエバが犯した堕落の怨みを解く方法はありません。


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皆さんは日常生活の中で、神がどのような心情で万物を創造されたのかを心で感じ、体感したことがありますか?もしあるならば、万物を抱きしめて愛する感情が湧き上がるでしょうし、深い情が湧き出てくることでしょう。また、神の御言葉が耳に響くことを感じるでしょう。万物に対する態度において、神が創造された当時の神の心情を体感し、喜びの心情で万物に接するべきだったアダムとエバが、再び目を開けて天を見つめるべきであったにもかかわらず、神の心情を体感できなかったのです。


それもそのはず、アダムとエバは当時、知識がまだ十分に発達していなかったため、神の心情を深く感じることができなかったのです。そのような立場にあったとしても、「食べてはならない」という神の御言葉を彼らの生活の標語にし、感覚のすべての標語にし、人生の標語にし、そして自分たちの命の標語として守り続けていたならば、横から入ってくるどんな誘惑も問題にはならなかったでしょう。


アダムとエバは、神が彼らをして万物を支配させた創造の目的がどこにあるのかを理解していませんでした。神が命じられた「これを守れ」という御言葉を守り、その後に来るであろうこと、つまり御言葉の山を越えた後に与えられるであろうものを憧れる心がなかったのです。自分たちの命に対する意識と生活感情を忘れず、「食べてはならない」とされた御言葉を守り、その後に何が来るのか、越えた後に与えられるものに対する憧れの心が彼らの生活を支配し、導いていたならば、アダムとエバは善悪の知識の木の実を食べなかったでしょう。


憧れの心がなかったために、アダムとエバは、横から入ってくる天使長の言葉が神の御言葉よりも貴重だと思ってしまいました。そこから人類の悲しみは始まりました。深い眠りの始まりは、まさにその瞬間だったのです。


その時、アダムとエバがもう一度目を開けて「食べてはならない」と仰せられた神の御言葉をもう一度思い出し、万物を支配せよと祝福されたその後に、自分たちに与えられるはずのものが、天使長の誘惑よりもはるかに大きいことを感じていたならば、堕落はなかったでしょう。これがすべての人類の悲劇の根本原因となったのです。したがって、今日、私たちは自分自身を探し求める活動をしなければなりません。そして、自分に与えられた責任を取り戻すために努力しなければなりません。その後、私は何になるべきかということを考えなければならないのです。


    9


アダムが成長し、万物を支配する心情を身につけていたなら、その次に何が成し遂げられたでしょうか?アダムの愛、エバの愛、万物の愛、そして神の愛が一つに結びつき、決して切ることができない、決して離すことができない全体的な縁が完成していたでしょう。


しかし、このすべてを失ったため、今日、私たちは嘆き悲しんでいます。罪深いこの地を恨みながら生きています。人生の真の価値と目的を知らずに、悪魔に囚われて人生の旅路を歩み、死の価値すら理解できない暗闇の中で苦しんでいます。


このような環境を打ち破り、再び目を開けて神を再認識できるような心の変革が、私たち自身の中で起こらなければ、切実な心情が私たちの中で湧き上がらなければ、新たな存在意識が私たちの中で生まれなければ、私たちは自分の価値を誇りたいと思っても、誇ることはできません。なぜなら、その価値は天と何の関係もないからです。どんなに自分の命の権限を誇ろうとしても、それもまた天とのつながりを持つことはできません。すべては無駄に終わるのです。


ですから、今日の私たちは、天使長の言葉を再び分析し、神を見つめられなかったアダムとエバの立場を繰り返さないようにしなければなりません。そして、今日の私自身を見つめ、第2の私として再び目を開け、私を見つめる神がおられることを悟らなければなりません。そうした瞬間から、本当の自分の姿が芽生え始めるのです。


私たちはまだ新たに目を覚ましていないため、堕落によって生じた悲しみ、堕落によって受け継がれた絶望と悲劇の深みに囚われ、そこから抜け出せない宇宙が生まれてしまいました。これ以上の悲しみはなく、これ以上の怒りもありません。にもかかわらず、この悲しみと怒りを解き放つべき立場にあるのに、今日の人類はその悲しみと怒りがどこから生じたのかさえ知らず、さまよっています。このような人々も哀れですが、その姿を見つめる神は、どれほど哀れなのでしょうか?


    10


終末においては、すべてを再確認し、再認識しなければならないのが堕落した人間の運命です。すべてを再認識し、再び目を開ける日、新しい自分を発見する喜びの日、新しい自分の価値を中心に、万宇宙とつながりを持つその瞬間、全体の価値を統合し、神との切り離せない愛の縁を結ぶその瞬間こそ、人類が知らずに探し求めてきた歴史的な目的であり、人生の目的なのです。


私たちは再び目を開ける必要があります。再び目を開けて、天を見つめなければなりません。再び目を開けて天を見つめるとき、皆さんは恐れと畏敬の念を感じるでしょう。そして、深い眠りの中で、死の世界でさまよい、人生の価値を見失ったまま、死を目前にして嘆いてきた人類を、天は一日たりとも、一瞬たりとも忘れず、彼らを見守り、反逆する人類を何千万回も再認識してきたのです。そして、神が人類を愛される心情を感じることができるでしょう。このようにして、皆さんが本当に天が存在することを悟る瞬間、悲しみと感謝の念に満ち、泣き崩れざるを得なくなるでしょう。


天は、今日に至るまで、私たちの命を支え、何度も何度も私たちを見つめ直してこられました。天は私たちの人生の道筋と理念的な条件をつかみ、私たちが求めているすべての条件を守り、私たちが気づかないときにもその条件を通して私たちを見つめてこられました。皆さんは、こうした神の悲しみを知っていますか? 私たちの惨めさと悲しみとは比べ物にならない天の惨めさを感じたことがありますか? もしその経験がなければ、今日の6千年の歴史の終わりに立って、このすべてを解決することはできません。できないのです。この壁をすべて打ち砕き、本来のアダムの位置に戻り、神の心情を体感できるその一瞬が訪れる前には、人類の根本的な問題は解決できません。それが人類の運命なのです。


それでは、私たちは再び目を開けて、私たちが信じている神を再び見つめなければなりません。イエス様を再び見つめることを学ばなければなりません。聖霊と神の復帰摂理の使命を果たすために来られた無数の先祖たちを再び見つめることを学ばなければなりません。歴史を再び見つめると同時に、この時代を再び見つめ、これから来る時代を思い、将来どうなるかを考えながら、再び見つめることを学ばなければなりません。再び目を開けて天を見つめながら、「天よ!」と叫びたい心がなければ、皆さんの希望は途絶えてしまいます。


今日、人々の歩む道がすべて行き止まりに見えるのはなぜでしょうか?宗教を立てて導いてきた聖職者ですら、根本的な問題を解決できずに行き詰まっています。哲学や科学ですらすべてが行き止まりです。その理由は何でしょうか?それは、再び目を開けていないからです。


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今まで私たちが持っていたもので解決できないのであれば、それを捨てて再び天を見つめることを学ばなければなりません。天を見つめたいという心と、天を見上げて泣きたいという心を持つ人、そのような心で悲しみ、天を見つめたいという心を持って死んでいく人々の心こそが、人類の歴史を終わらせる礎となるでしょう。


滅びゆく国家の運命を案じて立ち上がる者がいたとしても、民族のためにまず叫ぶのではいけません。まずは溢れる思いを持って、天のために叫ばなければならないのです。その後で、民族のために叫ばなければなりません。その時、民族は救われるでしょう。これは歴史が証明していることです。


何かわからないものを探し求めても見つからず、もがき苦しんでも解決策が見つからない未知の世界を追い払い、本来の心に立ち返り、何もない空(くう)の状態から再び目を開けるその日、その瞬間こそが新しい歴史を創造する瞬間となり、新しい人生が始まる瞬間となり、新しい自分を発見する再創造の瞬間となるでしょう。


祈りながら天を探し求めたイエス様であったことを私たちは知るべきです。ですから、30年間の準備期間にあったイエス様は、兄弟が喜んでいるからといって喜びの表情を浮かべることはできませんでした。親戚や隣人が楽しんでいるからといって、共に楽しむこともできませんでした。このようにして、天が願う方向と、全世界の人類が向かう方向があまりにも大きく違っていたことを見て、その差が大きければ大きいほど、イエス様はさらに固い決意をしたのです。


言いたいことがたくさんあっても口を閉ざしていたイエス様の30年間の準備期間の悲しみを、皆さんは知っておくべきです。この30年間の準備期間を経た後、イエス様は一人の開拓者として家族を振り切って出発しました。死の峠が迫っても私は行く、疲れた道であっても私は行く、滅びることがあっても私は行くという心を抱き、自らの環境を清算できました。


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アダムが横から入ってくる言葉をすべて受け入れて滅びたように、私たちも流れてくる思想をすべて受け入れてしまうと、死を迎えるかもしれません。ですから、これを再評価し、受け入れなければなりません。そして皆さんが自分の心と命と情的な理念を通じてこれを評価できる主の立場に立つならば、どのような思想が皆さんを束縛するでしょうか?どのような思想も皆さんを束縛することはできないのです。この根本的な問題が解決されたならば、皆さんの心の世界には平和が訪れ、皆さんの生活環境にも幸福が訪れるでしょう。自由と平等を享受できるでしょう。


今日、理想を叫んでいる主義がいくら多くあっても、心の解放、情的な解放、理念的な解放を与えてくれる主義はありませんでした。この事実を私たちはよく知っています。再び目を開けて、眠っていた自分自身を哀れみ、目覚めた解放の日を待ち望み、今日の環境を振り切って立ち上がり、目を開けて天を見つめると、そこに主がいらっしゃることを人類は今まで知らなかったのです。


では、歴史の道を歩み、神の御旨を探し求めてきた人たちはどのような人たちだったのでしょうか?彼らは時代を振り切り、「おお、天よ!」と叫び、地を蹴って天に向かって突き進む心を持った人たちでした。そして彼らはその時代に受け入れられず、時代の落伍者のような立場に立って、哀れな人生の道を歩みました。彼らは人間社会で哀れであるなら、極めて哀れな人たちでした。他の人たちが拠り所として生きている世界で、何の拠り所も持たず、自分の心情を吐露して語り合える友も、自分と共に命を懸けて戦ってくれる同志も持たずに、彼らはみな消え去っていきました。


そして、堕落から4千年が経った時に現れた一人の青年、すなわち万民を救うために、まず時代を否定し、環境を否定し、それまでの教団を否定して立ち上がった青年イエス様は、何を主張したのでしょうか?イエス様は人間が知らなかった神の御旨を主張しました。


神の御旨を胸に抱いたイエス様は、この世のあらゆるものが人生の全体的な理念の材料にはなり得ないことを知っていました。だからこそ、イエス様は世が裏切ってもそれを振り切り、新しい目で新しい自分を見つめ、新しい家庭、社会、国家、世界を見つめ、新しい主義を堂々と見据えることができたのです。そして、その価値が現世のどんな価値よりも高く、尊く、大きいことを知っていたため、イスラエルが裏切り、ユダヤ教団が裏切っても、彼は揺るがなかったのです。社会や家庭、どんな著名な学者が裏切ろうとも、どんな祭司や律法学者が反対しようとも、どんな波風や困難が四方から押し寄せようとも、イエス様は微動だにしなかったのです。彼はただ再び目を開けて「おお、天よ!」と叫びました。これがイエス様の生活信条だったのです。


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自分を否定する環境を見て無限の悲しみを感じたイエス様は、自分を見つめる神が悲しんでいることを知り、身をもだえするほど罪の意識を感じたのです。イエスにとって、自分自身が死の犠牲となることは、神がこれまで人類のために悲しみ、戦ってこられた切実な心情に比べれば、塵にも劣るものだと感じました。だからこそ、彼は自分を否定し、神の心情を優先し、頭を垂れることができたのです。ここから、人類の新たな覚醒が促され、第2の自我が出発し始めたのです。イエスによって、人類は復活の春を迎えることができました。4千年間、悲しみと深い眠りの中にあった人類が、イエス様を信じたならば、新しい春を迎え、復活することができたのです。


イエス様が来られてから2千年、人類のために立ち上がった者たちの中で、自らの命に執着しなかった者がどれほどいたでしょうか?また、自らの心に感じる悲しみを知らない者がどれほどいたでしょうか?しかし、彼らは自分自身の命への執着や自らの悲しみよりも、主の悲しみ、主の命が引き裂かれているという事実を感じたのです。私たちの先祖たちは、自らのすべてを否定し、天に向かって突き進む心を抱いていた人々でした。


そのような先祖たちの血と汗と涙に染まってきた天の摂理の道は、今どこに向かっているのでしょうか?これまで人類の歴史の歩みを共にしてきたのですが、歴史の終わりにはどこへ行くのでしょうか?ここで終わるのか、それとも新しい道を見つけて再び進むのでしょうか?このように考えた時、この摂理の終わりの時代に、全体を代わる血の犠牲、涙の犠牲、汗の犠牲となり「天よ!私をお受けください」と言える一人の姿が現れるならば、その人はこの終末時代の涙の救世主であり、血と汗の救世主であり、命の救世主となるでしょう。


そのような方がいて、その摂理を責任持って果たすならば、その方は天の条件を伴って地上に現れ、天の心情を代わって地上に現れるでしょう。皆さんがそのような先知者に出会った時、その方の天的な心情や人格は知らなくても、現実を否定し、再び見つめる心を持たなければならないのです。


自分が生きている場所で再び目を開けて見つめ、自分たちが知らない第2の価値、第2の人格の基準を見分けることができなければなりません。そうできなければ、皆さんはイエス様がこの地に再び来られても、その方を見分けることができないでしょう。


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見てください。60万のイスラエルの民の前に立ったモーセは、王宮で育ち、ミディアンの荒野で羊を飼っていた牧者でした。その姿をただ見つめれば、何の価値もなく、世間の人々と何ら変わらないものでした。しかし、モーセが天の心情と天の人格を備えて現れる時、イスラエルの民は再び目を開けて彼を見つめなければなりませんでした。しかし、それができなかったため、彼らはモーセに従って荒野をさまよい、そこで命を落としたのです。イエス様の時代も同じであり、今日の歴史の終末の時代も同様です。


罪の歴史は皆さん自身から清算しなければなりません。皆さんが歴史にとってマイナスとなる立場にいるなら、それは地獄です。プラスとなる立場にいるなら、それは天国です。また、皆さんと時代を比較した時、時代が皆さんより大きければ、それは地獄です。皆さんが時代より大きければ、それは天国です。そうなるのです。


今日に至るまで、天の運命に従ってきた人間たちは、天の運命を変えられる日を取り戻さなければなりません。神はその一日を待ち望んで、6千年という長い年月を歴史として歩んでこられました。天の運命に従い歩んできた歴史の悲しみを振り払い、その運命を支配できる勇者を探し求めてこられたのが、神の6千年にわたる復帰摂理の道だったのです。


ですから、これを回復し、取り戻さなければならない運命を背負っている私たちは、第2の私の目を持ち、第2の私の命の感触を感じながら、第2の私の理念を探し、第2の私の人格を備え、その価値を誇るべきです。そうして、天と地の運命を代わる者として、皆さんを立て、祝福することのできる存在が現れなければ、6千年の摂理は完結できません。また、その方によって神が栄光を受けるための条件が成立するのです。


ゲッセマネの園で、三人の弟子を伴って祈っていたイエス様の姿を思い出してみてください。彼は天地の心情を通じて、自分の心情を通じて、神の心情を動かそうとする決意に満ちた姿でした。そうして祈っていたのが、ゲッセマネの園だったのです。人類の心情を動かし、天と地、天情と地情を統合しなければならないイエス様が、地上の人々から拒絶され、地から追放される立場に立たされたため、天情との縁を結んで乗り越えなければなりませんでした。その場所がゲッセマネの園だったのです。その場には人間を代表する三人の弟子が共にいましたが、イエス様が感じていた心情とペテロをはじめとする弟子たちが感じていた心情は全く異なっていました。


    15


イエス様は天情を求め、死を前にして再び天を見上げ、その視線は死の峠を越えて復活の栄光を見据えていました。しかし、自己中心にものを見ていた弟子たちは、天情に触れたイエス様の心情を理解していなかったのです。このようなことは、一度や二度ではありませんでした。実に恥ずべき行いでした。これが、天を裏切った先祖たちの行動でした。


私たちの真の親であり、私たちの主人であり、私たちの夫であり、私たちの理念の主体であり、命の主体であり、私たちのすべてを代わる天の実体であるイエス様を、このように裏切ったのが、私たちの先祖たちでした。このような先祖の子孫であることを骨の髄まで感じ、皆さんの心の中に歴史的な人物を恨む深い怒りの心があるでしょうか?


弟子たちが目を開けて天を見つめることができなかった時、イエス様は祈りながら何度も弟子たちを見つめたことでしょう。「試みに陥るな」と警告するイエス様の焦燥感と切実な心情は、計り知れないものでした。そのような心情を抱いたイエス様は、神の御名を呼び、神の心情を感じながら、自分自身を忘れて愛する弟子たちを何度も何度も思い、見つめたことでしょう。しかし、三人の弟子は、そんなイエス様の心情を知っているのか知らないのか、居眠りをしていたのです。これは単に三人の弟子たちだけの姿ではなく、人類全体の内面を暴露した一面であることを、皆さんは知っておかなければなりません。


今日、皆さんは、ゲッセマネの園での決意と、涙と血の叫びが耳に響いていても、それに気づかないままです。「再び目を開けて見つめなさい」と叫ばれても、それを聞き取ることができません。眠っている人類を目覚めさせるために体を揺さぶり、頭を叩かれても、気づかないままです。このように哀れな人類を見つけ出し、息子娘として祝福の日を与えるために努力される神の悲しみを知る者は、この地上にいません。


ですから、皆さんは善の理念を持って生き、本来の息子娘として、天の胸に打ち込まれた釘痕を癒し、歴史的な悲しみを清算し、喜びの代わりの存在として、万物と全宇宙を代わる和合の仲介者として「あなたは私の誇りであり、私の愛であり、私の幸福の基準である」と言っていただける人になるべきです。


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神はこのような心情で、皆さんを見つめておられますが、今日、皆さんが目を開けてその神を見つめる時、復活の基準がそこに確立されているでしょうか?神が万物を創造され、アダムとエバに万物を支配せよと仰せられたのは、第2の創造の心情を感じさせるためでした。皆さんはそのような心情を感じるべきであり、万物を見るたびに、神が万物を創造された御業とその労苦、そして創造物を見て喜ばれた神の心情を感じるべきです。


皆さんは、天との心情の合一、万物との心情の合一を探し求め、天の主の実体として立ち、天に全てを捧げられる存在でなければなりません。そうした瞬間こそが、天が望み、私たち人間が望んでいた終着点であり、天と私たち人間が出会う終結点です。しかし、その業を成し遂げるのは、神ではなく、皆さん自身が行動しなければならないのです。


最終的に残るものは何でしょうか?それは、天地の情を通じて、神の愛の圏内で新しい本来の心情を備えた資格者になることです。ここで、神が許可できる新しい人間として現れることができ、また、完全なアダムとエバの本来の姿を持って、神が両手を上げて祝福し、喜んでくださる、新たに見出された姿になるのです。こうして、新しい天地に築かれる新しい家庭の主人、新しい天地の新しい親、新しい子供たちの親となるべきです。そのような家庭が、皆さんを中心として成されなければなりません。


神は、私たち人間を何千万回も見つめながら歴史を歩んでこられました。その歴史の最終的な終着点はどこにあるのでしょうか?神と人間が永遠に共に生きられる、神が人間を実の息子娘として立て、人間が神の愛を中心にして「あなたがいなくても私は生きていけない、私がいなくてもあなたは生きていけない、兄弟がいなくても私たちは生きていけない、万物がいなくても私たちは生きていけない」という一つの家庭です。神は、このような家庭を待ち望んでこられたのです。このことを皆さんは理解しなければなりません。


今日、私たちは自分のものではありません。私たちのものではないのです。私たちが生きているこの社会も私たちのものではありません。私たちが住んでいるこの国家も私たちのものではなく、私たちが生きているこの世界も私たちのものではありません。私たちが信じている天も、私たちだけのものではないのです。今や、皆さんは再び目を開けて第2の自分を、第2の自分のものを見つけ、天に向かって立ち上がることができなければなりません。終末における聖徒たちの姿は、このようなものであるべきです。


    17


今、私たちは自分自身を否定し、新たに認められなければならない運命にあります。しかし、私たちが生きているこの地上と、その生活は、私たちに天的な報いをもたらしてはいません。ですから、たとえこの世が去り、友が去り、親が去り、妻子が去り、地上のすべてが去ったとしても、再び目を開けて天を見つめるこの切なる心は消えないと言わなければなりません。


再び目を開けて、神が変わらない存在であるように、私も変わらないと言える姿を。そして、天の縁と祝福の縁を掴んで、たとえ死ぬことがあってもその事情を地上に残していこうというその心を。私の心が引き裂かれ、悪魔の犠牲になっても、神の愛を所有したいというその心を。堕落の条件を取り除けるその心が残っていることを願い、もがく私になっていますか? 天が求めていた私になっていますか? 天の前に示すことのできる私になっていますか? 天と地の前に誇ることのできる私になっていますか?「天よ、降りてきてください。人類よ、集まりなさい。万物よ、踊りなさい」と言える私になっているでしょうか。


私を条件にして、天の怨みを解き、地上の怨みを解き、万物の怨みを解き、全宇宙に染み込んだすべての悲しみを解消し、天を代わって歌い、地を代わって歌い、全宇宙を代わって歌うことができる皆さんにならなければなりません。そして、悪魔に命じることができるように、「誠実な忠義の心だけが私たちに残るようにしてください」と言えるようになる必要があります。「その心を持つ者だけが歴史の主人になるべきです。その心を持つ者だけが人類の歴史を動かすべきです。その心だけが私たちの子孫の希望のしるしになるようにしてください」と言えるようになり、そうした心を伝える使命が皆さんにあることを理解しなければなりません。


だからこそ、イエスもこの理念のために戦い、私たちの先祖たちもこの理念のために戦いました。そして、神もこの理念のために地を見つめ、暗闇の中にいる人間を目覚めさせようとされてきたことを、皆さんは理解する必要があります。


歴史的な不運の壁を打ち破り、天の心情を通じて眠っている人々の心情を目覚めさせ、引き上げる者は誰でしょうか? 眠っている自分自身を目覚めさせ、引き上げる者は誰でしょうか? 爆発する天の愛の心情を紹介する者は誰でしょうか? それは、取るに足らないように見える皆さんです。だからこそ、たとえ追いやられ、追い詰められ、惨めにされても、皆さんがその一点と関係を持つ立場に立つ先頭にいるのではないかと考えるべきです。


    18


このような責任を持ち、天と地、万物の前に呼び出された私たちは、その使命と責任を果たし、天と地の怨みを解き、天と地の第2の希望の存在として、神がすべての怨みを忘れて、再び喜びの心で見つめることができる姿となり、人類が喜びの中で見つめることのできる私となり、万物が喜びと調和の中で見つめることのできる存在となるべきです。


そこが理念の楽園であり、そこが本来の天国です。そして、そのような場所で、一つの理念を中心にして一体となる場所が地上天国です。このことを伝えるために、天は何千万回も私たちを探し、目覚めさせ、立ち上がらせてこられました。しかし、私たちはそれを忘れてしまいました。この悲しみを心に刻み、それを責任として、第2の自分を探し求めてもがくことのできる皆さんにならなければなりません。






<祈祷>


天を仰ぎ見なければなりません。私たちの目は暗くなり過ぎてしまいましたが、昼も夜も絶えず、何が現れるのかを見つめなければなりません。アダム以降の歴史に刻まれたすべてを見つめなければなりません。


これらの事柄が私たちをして命の中心と理念の基準を見つけられなくさせています。それを克服し、再び天を見つめることができる心を、そして情を超越し天情に染み渡る心を持てるようにお許しください。地を恨み、天を恨み、万物を恨み、もがく自分自身を自覚し、第2の自分を探し求める飢えた足取りとなることをお許しください。そして、焦燥感を持ち、問題を解決しなければ落ち着けない心を持つことを切に願い、求めます。


私たちは、失われた本来の楽園、失われたお父様の理念を探し、万物を支配し守る者です。そして、万物と共に愛の縁を結び、それを束ねてお父様の前にお返しする者です。お父様が天地を創造された心情を通して、お父様の愛の花を咲かせ、それを束ねてお捧げするという全体的な責任を負っていることを知っています。


    19


しかし、私たちはまだ一歩も踏み出せず、深い眠りの中にいる世界中の人類を目覚めさせ、新しい光明の朝を迎え、天を仰ぎ見て再び目を開くことができる群れとなることを、愛するお父様、切に願い求めます。


新たに目を開けて天を見つめ、世界の歴史の前に新たな意志を起こすことのできる第2の群れとなることをお許しください。そして、新しい理念と新しい心情で絡み合い、新しい種族を動かす者となることをお許しください。お父様、切に願い求めます。


そのような民族、そのような国家があれば、世界は彼らを通じて天と縁を結ぶことができると信じています。今日、私たちの韓民族が哀れな境遇にあるからといって、失望しないようにこの民族を守ってください。


現実のすべてを拒絶し、再び目を開けて見つめなければならない歴史的な不運の峠が残っていることを理解しています。


捨てなければならない要素を最も多く持つのはこの韓民族です。今日、私たちの宗教や政治を誇ることはできません。持っているものの中で持ち越せるものは何もなく、捨てざるを得ない環境に置かれています。この環境を再び握りしめるために、もがく者にならないようにお許しください。そして、天に向かって再び目を開けることをお許しください。人類が見ることのできない新たな場所を探し求める群れとなるために、この民族の道を最初に塞がれたことを理解しています。どうか失望せず、疲れも忘れ、今日も明日も粘り強く進むことができるように導いてください。


    20


再び目を開けて天を見つめる群れが現れれば、この地は生き返り、その動きによって世界も生き返ると信じています。これを担う群れとなることをお許しください。


ゲッセマネの園で祈られていたイエス様の心情は、一文無しの人の心情でした。親を失った心情であり、兄弟を失った心情であり、国家や世界を失った心情でした。今日、私たちもそのような心情を持ち、すべてを失った心の中で、天を所有できるようにお許しください。縁は地上で結ばれなければならないため、イエス様は死から復活されました。縁の条件を地上に立てる責任がイエスにあったことを、私たちは理解しています。


今日、私たちもその心を中心に、地上のすべてを捨て、天の基準だけを持って倒れることがあったとしても、イエス様が望んだ希望、天が望んだ希望、人類が望んだ希望が、私たちによって必ず地上で成し遂げられるその日を目指して、今日も明日も、一年も十年も、残りの人生も惜しまず捧げて走り続ける息子娘となることをお許しください。切にお願いし、主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


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御言葉選集5(10)

2024年09月01日 19時00分41秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 5 - 10. 誇りたかった神様を知ろう (1959年2月8日)

1959年2月8日(日)、前本部教会にて

聖書拝読:創世記 1:24-31


<祈り>

お父様、お父様が本来の楽園を失い悲しまれたその心情を、今この瞬間、私たちが理解できるように許してください。アダムとエバの悲しみが私たちの悲しみであることを、これまで私たちは知りませんでした。また、私たちの悲しみよりも、お父様の悲しみがどれほど大きかったかを、私たちは体も心も感じることができませんでした。お父様が私たちの知らぬ間に涙を流し、無限の悲しみと無限の苦しみの中におられたことを、今この瞬間、体と心に感じさせてくださいと、切に願い求めます。

アダムとエバの堕落によるお父様の悲しみも大きかったですが、復帰摂理の使命を担い、地上に降り立ったイエス・キリストがすべての使命を全うできずに十字架で亡くなったことも、お父様にとって言葉にできないほどの大きな悲しみであり、孤独であり、苦しみであったことを、今この瞬間、私たちが理解し、そのすべての悲しみを体と心で感じさせてください。

私たちの先祖が、お父様を裏切ったために、やむを得ず怒りと悲しみに満ちた歴史の道を歩んできたことを思い、今日の私自身が、お父様の前でさらに悲しみを加える哀れな立場に立たないようにお許しください。アダムとエバの悲しみを感じ取り、イエス・キリストの悲しみを理解できるような姿勢を私たちにお許しください、お父様、切に願い求めます。

今、私たちの体と心が、単なる私たち自身の体と心に留まらず、私たちの心が、お父様の心を代わり、私たちの体が、お父様の形を代わることができるように許してください。私たちが、悲しみの心情を持つお父様を証し、呼び求めることができるこの時間をお許しください。

威厳を立てることのできない私たちではありますが、お父様によって立てられ、見つけ出されたお父様の内なる心情を知ることのできる群れとなるようにしてください。愚かな姿ではありますが、体と心を合わせてお父様に祈り求めますので、この時間、憐れみの手を伸ばし、愛の光を注いでください。お父様の勝利の軍勢として立ててくださり、悪魔と戦って進んでいけるお父様の息子娘となれるよう、愛するお父様、切に願い求めます。

     1

イエス様が去った後の2千年の歴史の中で、私たちの先祖が天倫の道理を全うしなかったため、多くの預言者たちが血を流した事実を私たちは知っています。そのような事実に対して憤りを持ち、彼らの過ちと罪を背負い、悔い改めることのできる子供たちとなれるよう、切に願い求めます。すべてをお許しください。

先祖たちが犯した歴史的な罪状を私たちは知りました。今、私たちを立て、お父様が求めておられる生命の基準を見つけ出し、立てることができるように許してください。そして、本来のアダムとエバに代わる実体として立つことができるお父様の息子娘となれるよう、切に願い求めます。

今、私たちの周りには無数の悪魔が徘徊し、狙っていることを知っています。私たちの行く道を導いてください。そして、無数の悪魔を打ち負かすための内的な準備と外的な準備を整えるこの時間を許してください。愛するお父様、切に願い求めます。

お父様、この時間を通じて勝利の基準を立て、お父様の栄光を現してください。もし眠っている息子娘がいるならば、その者たちを目覚めさせてください。お父様がその者たちを親しくお世話してくださることを切に願い求めます。そして、無数の悪魔が入り込むことのないこの時間となるように許してください。愛するお父様、切に願い求めます。

この時間、私たちが、お父様の心情を似ることができるように導いてください。そして、お父様の憤りの心情を体験できるように許してください。お父様の切なる心情に私たちが共感し、ただお父様の忠告と助言を仰ぐことができるこの時間を許してください。愛するお父様、切に願い求めます。

     2

この時間、民族を代表して集まっている数多くの祭壇の上に祝福を下してください。地方で切なる心情を持ってお父様の前に訴えている孤独な子供たちがいることを知っています。お父様、その者たちを祝福し、一律の恩賜で導いてください。内的な使命を全うすることができるように、復活の歴史を彼らに加えてくださることを切に願い求めます。

この一時間をお父様の前にすべて委ねますので、最初から最後まで導いてくださることを切にお願い申し上げます。すべての言葉を主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


<説教>

今日の本文の言葉は、私たちが非常によく知っている言葉です。創造の最初の日から六日目まで、神様は創造された万物を見て「良し」と言われました。すなわち、善であるとおっしゃいました。この「善である」という言葉の中には、無限に誇りたい神様の内なる心情が含まれていたことを、私たちはもう一度思い出さなければなりません。

神様は六日間で創造された万物を見て、誇りたく思われました。すべての被造物を見つめた時、無限の喜びを感じておられたのです。その喜びをもって「善である」と繰り返しおっしゃられましたが、この言葉は誰に向けたものでしょうか?この言葉は、天使長に向けたものではありません。万物に向けておっしゃられた言葉です。神様が万物に対してそのように切なる心を持っておっしゃったということを、私たちは理解しなければなりません。

しかし、創造されたすべての被造物がエデンの園で「善である」と賛美されたにもかかわらず、その被造物は善の価値を失ってしまいました。神様が誇ろうとされたその意図が、万物の中で実体的に現れることができなかったのです。この悲しい事実を考えるとき、「善である」とおっしゃったその言葉が、悲しみの言葉となったことを私たちは再び思い出さなければなりません。「善である」とおっしゃったその言葉が、悲しみの言葉となったのです。真に神様の心情と事情を理解する真の人がいたならば、神様は御自身の大いなる労苦の手を経て創造された万物を見て、さらに大きな喜びを感じられたことでしょう。

しかし、「善である」とおっしゃったその言葉の価値基準を理解し、その言葉に応えてくれる捧げ物がなかったのです。このことを思い起こすと、被造物を愛されたお父様の心情には、悲しみが隠されていたに違いありません。本来、神様は「善」として創られたその被造物よりも、その被造物を創造されたお父様御自身をもっと誇りたかったのです。このことを私たちは理解しなければなりません。

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そのため、今日私が皆さんにお伝えしたいテーマは「誇りたかったお父様を知ろう」というものです。「誇りたかったお父様を知ろう」というテーマで、しばらくお話しさせていただきます。

お父様はアダムとエバを創造され、彼らが成長し、万物を支配し、善の理念圏内で言葉の価値を実現することを望まれました。また、アダムとエバを通して万物の前に誇ることができる日が訪れることを待ち望んで、アダムとエバを見つめておられたのです。この事実を私たちはもう一度思い出さなければなりません。

お父様がアダムとエバを見つめられるとき、彼らが完成の段階に到達し、万物を支配し、お父様の代わりに存在するその日を心の中で渇望し、待ち望んでおられました。お父様はアダムとエバを立て、長い時間をかけて万物を創造された事実を誇ることができる歴史的な一瞬を持ちたかったのです。また、アダムとエバを立て、彼らが「あなたの内なる性格と外なる形を似た実体として、あなたの心が私の心であり、あなたが喜べば私も喜び、あなたが応えれば私も応える、二つではなく一つの姿である」と言えるその日を待ち望んでおられました。このような天の心情を、今日私たちは探り、理解しなければなりません。しかし、このお父様の心情を人間の祖先が理解しなかったために、堕落したのです。この事実を私たちはよく知っています。

創造以来、お父様は人間の祖先を通して誇ることができる人、誇ることができる家庭が現れるその日を心の中で待ち望んでおられましたが、堕落によってその誇りの条件がすべて失われてしまいました。誇りの条件が悲しみの条件に変わってしまったのです。この事実を考えるとき、私たち堕落した人間には、すべての精力を注ぎ込んで、本来の父の内なる心情に刻まれている誇りを探り出し、それを引き出してお父様の前に誇ることができるその一日を見つけるために探し求める歴史的な責任が残されているということを、私たちは考えなければなりません。

被造物を創造されながら、一度も誇ることができなかったそのお父様、誇りが悲しみに変わり、誇りが涙に変わった天のその事情を、私たちは知らなかったのです。

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ですから今は、お父様が誇りたいと思われる本性を探さなければならないときです。元来の生命を探さなければならないときです。したがって、皆さんは今、お父様と対面することのできる本性の愛の心情を持つ存在として、お父様が誇りたかった本来の姿を備える必要があります。

お父様は悪魔を恥じさせることができる一つの実体の姿、誇ることができる一つの姿を6000年もの間待ち望み、探し求めてこられましたが、そのような人を見つけることができず、今日この時間まで来ています。この悲しい事実を私たちは知るべきです。

人間は誇りたいと願うものです。自分を誇りたくなるのが人間の心です。また、自分を中心にして、親や兄弟、子供、つまり家庭全体を誇りたくなる心があります。さらに進んで、民族を掲げて誇りたくなり、国家を掲げて誇りたくなり、さらに世界や天地を掲げて誇りたくなるのです。堕落した人間ではありますが、誇りたいという本心が皆さんの生活を支配し、これまでの歴史を支配してきたことを、私たちは知るべきです。では、今日誇りたいこの心を正しくないものとする原因はどこにあるのでしょうか?それは、人間が堕落したからです。

私たちは日常生活の中で自分自身を誇りたくなります。隣人に対してだけでなく、全世界の人々に対しても自分を誇りたくなります。自分自身を誇りたいという心は悪い心ではなく、本性の心です。それは天国に行ける創造本来の心なのです。

私たち一人ひとりが自分を誇り、家庭を超えて社会を超えて国家を超えて、世界にまで自分の名前を広めたいと思うのは、地上に生きる私たちの心情です。では、こうして誇りたいという心情が私たちの心を動かし、心を激しく揺さぶる原因は何でしょうか?それは、本性として誇りたかった心が私たちにあるからです。このような心があるのは、お父様と人間が一体的な理想を成し遂げたならば、私たちの誇りがお父様の誇りとなり、お父様の誇りが私たちの誇りとなる本来の関係があったからです。

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ですから、たとえ私たち人間が堕落してしまったとしても、そのような方向に向かって進んでおり、今日私たちはその万物の中心価値を見つけるために苦しんでいます。しかし、堕落した人間であるために、私たちの心に働きかけるすべての誇りの法則は順理的な法則ではなく、逆理的になっていることを、私たちは知らなければなりません。本来の心情に従って順理の法を求めて進むべき人間であったはずが、堕落したためにそれを失い、逆の道を歩まざるを得ないため、本来の心情が指向する方向と現実の環境とが対立していることを、私たちは知るべきです。

ですから、お父様を探し求める私たち、道の道を探し求める私たちは、今、誰を掲げて誇るべきでしょうか?自分を掲げて誇る前に、一つの中心を掲げてまずその者を誇るべきです。国を誇りたければ、自分を中心にして誇るのではなく、忠臣を立ててその国を誇るべきです。民族を誇るときも、一つの中心を立ててその民族を誇るべきです。家庭も同じです。

そのため、堕落した人間は自分を捨てて、自分を超えて、団体では団体の中心、道では道の中心、国家では国家の中心、世界では世界の中心、さらに天地においては天地の中心であるお父様を掲げて誇るという道を歩まなければなりません。それができなければ、お父様の前に誇りの存在として立つことはできないということを、私たちは知るべきです。

自分を中心にして自分が喜ぶために誇る人は、天理原則に反する条件を立てる者です。したがって、皆さんは自分自身の誇りの条件を超えて、相対的な存在を誇ることができなければなりません。相手の善を誇り、相手の特性を誇ることができればできるほど、その分だけ天に近づくことができるのです。

すべての人間は自分を超えて家庭を誇りたくなり、教会や国家、世界を誇りたくなる心が湧き上がっていますが、これまでの歴史の道のりで、また今日この地上で、真に頭を垂れて誇りたいと思える世界や国家、教会、家庭を見つけたことはありません。永遠に誇ることができる世界や国家、教会、家庭をまだ見つけていないのが人間です。

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私たち人間がたとえ不信の立場に立っていても、いずれにせよ、お父様の前に誇りの縁を結ばなければなりません。自分を超えて家庭を誇り、社会や国家、世界を誇らなければならない立場にある私たちです。ですから、私たちの心は常にその方向へと導かれているのです。

今、私たちは誇りたかった天の心情を思い起こさなければなりません。私を見つけるために、お父様が6千年間続けてきた労苦の歴史、血戦を繰り広げてきた悲惨な歴史の道を経て、今日私を見つけ出してくださったお父様を考えるとき、お父様は歴史のどの時点においても、人間を立てて誇ることができる条件を持っていませんでした。この天の事情を知るとき、今日の私たちは、お父様の前に自分を立てて誇ることができるものもなく、どんな条件を持って現れることもできません。

本来、善の楽園では、私たち個々をお父様が誇ることができました。私たち個々を立てて万物の前に誇ることができましたし、万物を立てて天使の世界の前に誇ることができました。誇りたかった本来の心が私たちから出発し、家庭、社会、国家、世界を通じて、私自身の誇りが天の誇りと縁を結ばなければなりませんでした。しかし、それができなかった立場にある堕落した子孫たちは、逆にその誇りの条件を立てるために自分を打つ歩みをしなければならない悲しい立場に置かれていることを知らなければなりません。

さらに、お父様の誇りの条件であったアダムとエバ、悪魔でさえも「あなたが誇ることのできる真の息子娘です。まさにあなたの愛を受けるにふさわしいです」と言って崇拝すべき本来のアダムとエバにはなれず、6千年という長い年月の間、悪魔の犠牲となってきました。このような人々を見つめるお父様の悲しみが、言葉に表せないほど大きかったことを、私たちは知るべきです。

今、私たちはこのような悲しみの中にあるお父様に、誇ることのできる条件を立てるべきです。一つが二つになり、二つが十になり、十が千になり、万を成し、民族や国家、世界を成して、お父様が目指される誇りの方向を探し求めていかなければならないのです。その方向を探し求めなければならない堕落した子孫であり、今日この地上に生きる人間です。

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したがって、皆さんは今、お父様が誇ることのできる本来の世界に向かい、お父様が誇ることのできる主権に向かい、お父様が誇ることのできる本来の人間に向かい、お父様が誇ることのできる本来の生命と本来の性質と本来の愛を求めて進まなければならない時が来たのです。

パウロは持っていた地位や学識があっても、自分を誇りませんでした。彼は自分の民族を立てて誇ることのできる背景があり、自分の教派を立てて誇ることができ、自分の国家を選ばれたイスラエルとして誇ることができましたが、彼の心に誇りたかったのは、お父様が掲げられた誇りの条件だけであったことを、皆さんは知るべきです。お父様が誇りたかったその誇りの条件を握りしめて戦い抜いたパウロの生涯を、皆さんは知るべきです。それだけでなく、ノアの時代から今日まで、お父様の前に立てられた無数の先祖たちは無限の苦しみを味わいました。

では、お父様はどのような条件の下で私たちに向き合われるのでしょうか? 悪魔世界で最も嫌がる条件を立てて私たちに向き合われるのです。このことを私たちは知るべきです。お父様は私たち人間が信じず堕落したので、信じることのできない環境で信じるように強調し、食べれば死ぬ危険な状況で食べないように強調された方でした。

したがって、私たちの先祖たちは、お父様の言葉を信じて実行することが難しい環境の中でも、その言葉通りに実行してきました。ノアは逆境の中で120年間、同じように信じ続けました。襲い来るすべての迫害や侮辱を断固として排除しました。お父様の心情に通じようとする心が切実でした。自分が誇りたいと思うどんな条件よりも、社会のどんな誇りの条件よりも、お父様が誇りたいと思われるその条件が大きく、尊いことを知り、従ってきました。

そのような道を歩んできたノアだったので、たとえ万人を水で裁いても、天を裏切り不信するその群れが抗議できるような条件は成立しませんでした。そのようなノアは、お父様が誇ることのできる人物でした。天的な誇りの価値と実体的な価値を立てたのがノアの審判です。ノアの息子娘たちは、ノアが中心として慕っていた、すなわちお父様が立てようとしている誇りの心情を通らなければなりませんでしたが、その中心を離れて自分を中心に考えました。そこから天倫は逆転していきました。

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アブラハムも同じです。カルデアのウルからすべてを捨てて出発することは、簡単なことではありませんでした。アブラハムは悪魔世界で誰よりも幸福で楽しく生きることができる人でした。彼の妻は非常に美しく、彼の生活は豊かでした。

お父様は悪魔世界で誰よりも豊かな生活の条件を備え、誰よりも楽しく生きていたアブラハムを呼び、その反対の立場である逆境の中に追い込まれました。自分の民族が歩んでいない道、家族や民族の誰もが歩まなかった逆境の場所へと追いやる、すなわちカルデアのウルを離れよという命令をされたことを、皆さんは知らなければなりません。

アブラハムは、自分を超えて民族と子孫を理想的な理念の世界へ導いていくお父様が存在することを誰よりも深く感じていた人でした。アブラハムは、自分が現実に生きている生活が、民族が生きるべき誇りの基準ではないことを知っていました。このような心情を持った彼にお父様の命令があったとき、彼は自分のすべてを捨てました。それは簡単なことではありません。楽しく生きていた家庭とすべての財産を捨て、ハランの荒野に向かって進んだアブラハムの事情は悲惨でした。しかし、今日たとえ哀れな放浪者の姿であっても、今日たとえ誇ることのできない立場や環境に置かれていても、いつかは誇る日が来ると信じて進んでいくアブラハムの歩みは堂々としていたのです。

どんな逆境や困難が襲いかかってきても、それを百回千回乗り越えていく覚悟を持ち、お父様が目指す誇りの楽園を求めていく心は、その時代の誰よりも大きかったことを、皆さんは知らなければなりません。

このようなアブラハムの心情と、誇ることのできる一つの相対的な存在を探し求めていたお父様の心情が見えない理念圏の中で何らかの合一点を結んだからこそ、お父様はアブラハムにお父様御自身が理想する絶対的な理念の楽園を掲げ、誇りの祝福を授けてくださったという事実を、私たちは知らなければなりません。

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こうしてアブラハムはお父様の前に信仰の祖として祝福された立場に立つことになりましたが、その後の子孫たちは、自分たちがとどまっている場所が誇るべき場所であると思い込んでいました。民族を超えて世界に向かって進むべきなのに、彼らはそれを知りませんでした。彼らはただ一箇所に留まり、自分たちの誇りを握りしめていたため、お父様が誇ることのできる理念の時代からますます遠ざかっていきました。その結果、人間は悲しい歴史の道を歩むことになったことを、皆さんは知らなければなりません。

モーセもまた同じです。華やかなファラオの宮殿で40年間、誰にも劣らない裕福な生活を送りました。しかし、羨まれることのない生活環境の中で生きていたものの、彼はお父様が民族を立てて誇ることのできる日を誰よりも待ち望んでいました。エジプトで400年間、苦しみの中で呻吟している哀れな民族でしたが、いつかはお父様が必ず彼らを祝福し、約束の地カナンに導いてくださることを信じていました。新たな希望の楽園を築き、どの民族や国家にも劣らない国、お父様が最も誇りとされる地上天国を築いてくださることを、モーセは望んでいました。

彼は自由な環境で不自由なことなく生活していましたが、それをすべて拒絶し、誇りの条件としませんでした。むしろ彼は呻吟し、苦しむイスラエル民族をお父様の前で誇りたかったのです。さらに進んで、アブラハムに祝福されたカナンの地、カナン七族に奪われたその地を慕い、誇りたかったのです。そのような心情がお父様がカナンの地にイスラエル選民を立てて誇りたかったその心情と通じたからこそ、お父様は民族の前にモーセを立ててイスラエル民族を導き出されたのです。このようなお父様の事情があったことを、私たちは知るべきです。

モーセが60万の群衆の前に現れたとき、イスラエル民族はモーセがそのような内なる心情を持って現れたことを知る者は一人もいませんでした。大多数がモーセに反対しました。しかし、お父様は多くの奇跡と奇蹟をもってモーセが神に代わり、イスラエル民族が生きるための誇りの楽園へと導く責任者であることを認識させ、そのモーセの心情を理解させてイスラエル民族を引き出しました。

それならば、イスラエル民族は誰よりもモーセを天に立てられた者と知り、最後までモーセを誇ることができるべきでした。そのような民族であるべきでした。しかし、天の権威を持ってファラオの宮殿に現れ、宮殿を討つときは、神に立てられた者であり私たちの指導者だと喜んでいましたが、荒野に出てみると、些細な環境に直面し、イスラエル民族を導くことができない存在だと不信しました。

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天が誇りの人物として立てたモーセに対して、イスラエル民族は誇りの指導者、誇りの代表者として認識し、彼の悲しみは民族の悲しみであり、彼が行く道は民族の運命を解決するための道であり、民族を導くのも民族を救うためであることを知り、日々モーセを中心として生活していた人がいたならば、60万の群衆は荒野の道で全員倒れることはなかったでしょう。

誇らなければならないモーセを恨んだその日から、従うべきモーセを裏切ったその日から、迎えるべきモーセを迎えられなかったその日から、お父様の誇りとモーセの誇りと民族の誇りは消え去りました。モーセによってこの使命を成し遂げるべきでしたが、それが成し遂げられませんでした。民族に代わって立てられたモーセを民族が裏切りました。ここからモーセはファラオの宮殿でカナンの地を憧れて生きていたとき以上の悲しみを感じたことを知らなければなりません。

モーセは希望の楽園であるカナンの地へと導くために民族を荒野に導き出しました。荒野で民族が拒絶し、不信する環境の中でも民族を導かなければならなかったモーセの悲痛な心情は、言葉では言い表せないものでした。民族全体が誇るべきでしたが、それを知らず無視する民族は、即座に滅びるべきです。もしイスラエル民族がモーセの心情を理解していたなら、不平を言うことはできなかったでしょう。

飢えに苦しむ民族を見つめるとき、モーセは飢えに苦しむどのイスラエル民族よりも壮絶で深刻な立場で天に向かい、彼らに祝福を求めて祈願しました。そのような心が天を動かしたのです。モーセが自分の立場を忘れ、自分たちのために祈っていたことをイスラエル民族は夢にも思いませんでした。

イスラエルの60万の群衆が滅びないためには、モーセが彼らよりもさらに飢えていて、彼らよりもさらに悲惨であったことを知るべきでした。また、民族を救おうとしていたモーセであったことも知るべきでした。したがって、モーセを永遠の後世の子孫の前に天の誇りの条件として立てるべき民族であったのです。しかし、それにもかかわらず、逆に後退し、反対の立場に立ったとき、モーセの心情は言葉にできないほど悲しかったのです。

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さらに、命を懸けて天を敬うモーセの意志に従って進んでいくべきであったことを民族が知らなかったとき、それによってモーセが悲しんだだけでなく、天はモーセ以上に悲しみました。モーセの悲しみよりも天の悲しみがさらに大きかったということを、皆さんは知るべきです。民族を代表する指導者、誰よりもお父様が誇ることのできるモーセでしたが、民族の不信によって悲惨な結末を迎えることになった悲しい事情を、私たちは知るべきです。

お父様はイスラエル民族がモーセに従ってくれることを望んでおられました。お父様がモーセを立てようとされるほど、従ってくれることを望んでおられましたが、その希望は消え去り、イスラエル民族は望まぬ悪魔の犠牲となりました。

お父様がモーセを通してファラオの宮殿で40年、ミディアンの荒野で40年、荒野の道で40年間一貫して望んでおられた希望は、跡形もなく消え去り、誇ることのできる民族と土地は失われてしまいました。それでもモーセは不甲斐ないイスラエル民族を異邦の国々の前に誇りたかったのです。しかし、このようにお父様が立てられた立派なモーセを、イスラエル民族は誇ることができませんでした。

では、将来、終わりの日に世界を動かすことのできる天の権威を持つことができる国家とは、どのような国家であり、その民はどのような民であるでしょうか? お父様が掲げられた者を天以上に誇ることのできる民と国家であることを、皆さんは知るべきです。それが当然ではありませんか?

イエス様を一度考えてみましょう。イエス様はお父様が4千年もの間労苦されて作り上げた結晶であり、愛と心情の化身でした。また、彼の言葉と事情と希望と心情は、お父様の全体の属性を代弁していました。お父様の希望を代弁し、誇ることのできる一つの存在として立てられたのがイエス様であったことを、私たちは知らなければなりません。

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お父様が4千年という長い年月を耐え忍んだ末に、イエス様を御自身の代理人として、誇ることのできる中心存在としてお送りになったのですが、そのようなイエスも、この地上に来て自分を誇ったことは一度もありませんでした。お父様が喜ばれる場所で、イエス様は一度も誇ったことがなく、お父様が喜ばれるほどイエス様を掲げて誇ってくれた者もいませんでした。

イエス様はお父様の代理として来られたため、自分自身を誇り、家庭や教団や民族や世界の前に誇りたいという心が切実であったのです。それが当然ではありませんか? 彼は4千年もの間待ち望まれていた誇りの結晶として来られたので、自分を家庭や社会や国家や世界の前に誇りたいという心が切実であったことを、皆さんは知らなければなりません。

そのようなイエス様が数万の群衆の前に自分を掲げて誇る基盤がありませんでした。お父様もイエス様を立てられたとき、天地のすべての被造物の前に誇り、悪魔の前にまで誇るために立てられました。それにもかかわらず、誰一人として彼を誇らず、一つの家庭も、一つの教団も、一つの民族も、世界も彼を誇りませんでした。

このように天を裏切った民族の子孫である私たちは、天の前に威信と体面を立てることのできない者です。歴史的な罪過を犯した私たち人間は、自分を掲げて誇ることのできる位置に立てず、そのような環境を持つこともできませんでした。それゆえ、これまで誇ることのできる一人の人間や、一つの教団や、一つの民族に出会えなかったことがお父様の無限の悲しみであることを、皆さんは知るべきです。

イエス様はお父様が彼を4千年の歴史を代弁して立てられたとき、「畏れ多いことです」と涙を流さざるを得ませんでした。しかし、イエス様の心に刻まれていたのは、その立てられた使命が成し遂げられなかったことでした。彼は自分を弁明するよりも、「私を立てて苦労されたお父様の願いがこんなことになるとは!」と嘆息し、天の前で頭を垂れたイエス様でした。したがって、皆さんは今、このような心情を持っていたイエス様を誇らなければならない時が来たということを知るべきです。

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今日のキリスト教徒たちは、イエス様が個人と家庭と民族と世界の前に立てて誇りたかったその一日を成し遂げ、彼を迎えなければならないことが自分たちの使命であることを知るべきです。これはお父様がこれまで望まれている願いです。今、お父様がエデンの園を創造され、人類を立てて誇りたかったその本来の心情を、皆さんが理解するべき時が来ました。

お父様の御子であることを誇らなければならなかったイエス様、栄光の姿で誇らなければならなかったイエス様が十字架を背負わなければならなかった惨めな姿となったこの悔しい事実を、私たちは知るべきです。そして、十字架の刑具を背負いゴルゴタに向かって歩んでいたイエス様の心、民族に対して、天地に対して、悪魔に対して抱かれたその怨念の心情を解き放ちたいという心が、皆さんの胸に満ちていなければなりません。そのような心が必要です。天の使命に対する切なる心情が染み渡るべきです。

心情の結晶として来られ、人類の希望の結晶として来られ、人間に天と切り離せない父子の縁を結ばせるために来られた真の父を怨念の場所に追いやったのは私たちの先祖であり、悪魔が行った行為であったので、今日私たちはその先祖たちの罪を清算し、悪魔を裁きたいという燃え上がる心が必要です。今も私たちの血には悪性の血が流れています。それゆえ、私たちは「天よ、力をお与えください。天よ、私をお許しください!」と叫ぶ心を持たなければならないのです。

誇りの楽園が悲しみのゴルゴタに変わるとは、これがどういうことですか? 今日、信者たちは十字架を誇ることはできますが、天のために十字架を背負ってはいません。イエス様を追い求めながらも、イエス様を誇ることができず、天に対して切なる心情を持ち、生ける祭壇を求めてさまよっていたイエス様の心情については誇りませんでした。イエス様が天と地で探し求めた一人の人間と一つの家庭と一つの民族を握りしめて、天の使命を成し遂げようとした心情は知られていません。

ですから、すべてを捨ててでも私たちが最後に行うべきことは、歴史的に犯されたすべての罪を清算し、天の心情を体験し、天がそのように探し求めていた一人の人間として現れることです。

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それによって、そのような家庭と民族が現れ、その後にはそのような選民が現れ、そのような天民が現れなければなりません。人間の事情がどれほど悔しく、どんな複雑な事情があっても、それが問題にはならないのです。そのような使命を成し遂げる心が皆さんから湧き上がらなければなりません。パウロはそのような心情を持った人でした。

イスラエル民族のために来られたイエス様は哀れな方でした。ダマスコ途上でイエスに出会ったパウロは、その日からイエス様の前に顔を上げることができない、すなわち顔向けできない自分であることを悟り、イエス様のために生きようとしました。彼はイエス様のために一生を捧げようという心情にとらわれて「死ぬとも生きるとも、あなたの栄光を現すことができるよう導いてください」と祈りながら、イエスに対して変わることのできない心情を持っていたため、キリスト教の新たな基盤がここから築かれることになったことを、皆さんは知らなければなりません。

今、私たちはイエス様を誇らなければなりません。彼の心情を誇らなければなりません。イエス様の事情と願いを誇り、さらに進んでイエス様が探し求めていた花嫁を誇らなければなりません。イエス様が探し求めていた花嫁を誇ると同時に、イエス様が探し求めていた家庭、民族、国家、世界を誇り、その後にようやくお父様が私たちを掲げて誇ることができることを知るべきです。このようなことを考えるとき、私たちが誇りたいと思っている私たちの前に立ちはだかっているものは何でしょうか?

私を阻み、私を裂き、私を迫害する十字架が立ちはだかっています。しかし、それを誇りながら進むことがキリスト教信者が進む道です。これは無限に悲しいことです。

実体のイエス様を誇るべきなのに、ゴルゴタの十字架を背負ったイエス様を誇らなければならない条件が人間の前に残されたため、その十字架を誇らなければ、皆さん自身が誇りの条件を立てることができません。天のために無限に苦しんだというこの一つの誇りの条件を立てなければ、お父様の心情やイエス様の心情を持つ、すべての被造物に対して誇りの条件を備えた天の息子娘たちにはなれないことを知るべきです。

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心ではそのような世界を知っており、感情の感覚ではそのような事実を知っているとしても、実際に皆さんが活動する生活圏内で誇りの条件を備えなければなりません。イエス様が十字架の上で「すべてが成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と言ったのと同じその基準を持って進まなければ、お父様が私たちを信じてくださることも、イエス様が私たちを信じてくださることもなく、お父様が私たちを立てて誇ってくださることも、イエス様が私たちを立てて誇ってくださることもないことを、皆さんは知らなければなりません。

イエス様が去った後の2千年の歴史が経過しましたが、これまでイエス様を誇りたいという心に燃えている人に出会ったことがありますか? そのような教団や指導者になれなかったなら、それは堕落した雇われの羊飼いです。自分の体が裂かれ、脇腹に槍が刺さり、額に茨の冠が被せられ、手足に釘が打たれて死ぬとしても、天の前に誇りの条件を立てるために十字架の丘を甘んじて越えて行かれたイエス様の姿を、皆さんは誇らなければなりません。

イエス様は栄光の姿を誇ることのできる条件を備えていましたが、それを表すことはありませんでした。その代わりに哀れな一人の罪人の姿で生きられました。そして、死の道においてもお父様の前に誇らなければならないという心情を持って進まれたイエス様の生涯を見つめ、今日私たちもそのような心を持ってその丘を越えていかなければならないのです。

マグダラのマリアが復活したイエス様を抱きしめようとしたとき、拒絶されました。復活した姿は歓迎されるものではありません。復活する前、生きているイエス様の悲しみを慰め、天と地の前に、悪魔の前に「すべてが成し遂げられた」という誇りの基準を立てるべきだったのです。このような歴史的な悲運のゴルゴタが残されたため、これまでのキリスト教徒たちはその丘を上がり下りし、上がり下りしているという繰り返しを続けています。上がっては下り、また上がっては下りするということを繰り返しているのです。

これまでゴルゴタを越え、主が永遠に私の花婿だと天と地に向かって叫んだ人は現れていません。「おお、主よ、私をお父様のもとへ導いてください」と祈る信仰者はたくさんいました。これまでのすべての人々は、イエス様を誇らなければならないその内的な事情を知らず、イエス様が来いとおっしゃるのでただ従っているだけです。イエス様の心情世界、その内的な事情を知らなかったのです。

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お父様が誇りたいと思われたものがイエスにおいて結実するべきでした。しかし、その実を結ぶことができなかったために、イエス様は花嫁を立て、その実を結ぼうと2000年の間待ち続けてきたのです。このことを知り、皆さん自身はイエス様の花嫁になる資格を備えるべきです。そうして、お父様が誇りたかった存在、イエス様が誇りたかった存在、さらに進んで皆さんが自分自身を誇ることのできる存在となってこそ、子羊の婚宴に参加することができるのです。このことを皆さんは確かに知るべきです。

親は当然、子供を誇ろうとします。自分を中心にしている前後左右上下のすべてを誇ろうとします。したがって、皆さんも自分の周りに属するすべてを誇ることができる人となってこそ、全体の主人であるお父様とイエス様の前に誇りの条件として立つことができるのです。

終わりの日にいる私たちは、自分自身を冷静に批判しなければなりません。私は誰を通じて誇っているのでしょうか? お父様は誰を通じて誇ろうとしておられ、イエス様は誰を通じて誇ろうとしておられ、私は誰を通じて誇ろうとしているのでしょうか?お父様を掲げて私を誇りたいと思い、イエス様を掲げて私を誇りたいと思い、すべての被造物を掲げて私を誇りたいと思っている私たちです。ですから、私たちは「お父様が誇りたかった本来の姿、お父様の心情を代弁した誇り高い姿がここにありますので、この体を掲げて悪魔の前に誇ってください」と祈ることができなければなりません。

お父様の誇りの心と生命の権限と本来の性質を備え、お父様が信じることのできる私となれば、お父様と私の間のすべてをすべての被造物の前に誇ることができ、万人の前に誇ることができ、三位一体の前にも誇ることができるのです。さらに進んで、悪魔でさえも「そうです。お父様の子供に違いありません」と告白せざるを得ないそのような位置に立たなければなりません。それによって初めて、悪魔が崇拝する基準を成し遂げることができるのです。

自分を誇りたければ、そのような基準を備えなければなりません。そのような基準が備えられていないならば、お父様が「良し」と言われたその基準に達することはできません。それは皆さんの責任です。皆さんは自分が誇りたくなるそのような基準を天に掲げることができなければなりません。そのような皆さんに対して、お父様が今、誇りたかったものを探し出してその位置に立て、世界の誇りとして天地万物の前に掲げようとされるのです。

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お父様が6千年間耐え忍んでこられたこの日を迎え、私たちも自分を掲げて誇りたいという心情が湧き上がるような息子娘がどこにいますか?私たちは自分を誇りたいのです。そのような心情の動機を持った皆さんであれば、自分を誇りたいと願うその誇りの対象の中心に自分を置いて、その中心的な誇りの基準を立てるために努力しなければなりません。

そうして、皆さん一人ひとりが掲げている誇りの基準が一つに結ばれて、世界的な誇りとして成長し、私たちが立つべき位置がいかに大きいかを見て、そのすべてを天に返して差し上げることができる立場に立たなければなりません。皆さんがそのような心情を持った者であるならば、お父様は歴史的な日を迎えて、皆さんの立場を立てて誇りたかったすべてを天に捧げようとしておられるのです。

そのような立場に立った皆さん自身は、今日私を掲げて誇りたいお父様の心を体験し、私たちを掲げて誇りたいイエス様の心を体験し、世界を掲げて誇りたいお父様の心を体験して「お父様、栄光を受けてください!」と祈らなければなりません。

皆さんがそのような祈りを捧げ、誇ることができれば、天は皆さんを中心として誇りたいと願われるのです。それゆえ、皆さんが誇ることのできる実体、誇ることのできる家庭、誇ることのできる民族を持たなければならないのです。

そのような信仰者の群れが現れるならば、天は地を抱えて誇り、皆さんを立てて誇り、栄光の基準を持って「このような息子娘が天の息子娘だ!」と告白するその日が来るのです。そのような基準に達することのできる皆さんでなければなりません。

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皆さんは誇りの立場に立たなければなりません。どのようにして立つべきでしょうか? 自分自身を天の前に掲げ、天のために掲げ、世界の前に掲げなければなりません。どのようにすれば、私たちを掲げて誇りたいというお父様の心を実体で体験できるでしょうか?どのようにすれば、私たちを掲げて誇りたいというイエス様の心を実体で体験できるでしょうか?どのようにすれば、天と地が共に皆さんを掲げて誇り、万人の前に誇ることができる立場に立つことができるでしょうか?

お父様が誇ることのできる一つの中心、イエス様が誇ることのできる一つの中心を見つけなければなりません。それを見つけて立つのが皆さんの使命です。

皆さんは今、どのようにしてお父様を掲げ、イエス様を掲げ、悪魔世界の前に誇ることができるでしょうか?皆さんは、そうして天を掲げて誇り、地を掲げて誇り、悪魔世界を誇ることのできる立場に立たなければならないのです。その立場に立ったその日から、栄光の基準が皆さんを包み、天と地のすべてが皆さんを中心に祝福されます。それによって、皆さんを掲げて誇るために、悪魔が敬服することができるそのような位置に立つことができるのです。

ですから、皆さんは自分の願いを誇るべきではなく、自分の生涯を誇るべきではなく、天の願いを誇り、天の心情を誇る立場に立たなければなりません。それが皆さんの今の使命です。そのような誇りを掲げた群れが現れるならば、お父様の恵みがその群れに臨み、栄光の賛美がその群れに響き、神の権威がその群れに与えられるのです。

そのような立場に立たなければならない皆さんは、歴史を総結集して、この日、誇りの道を進む決意を持って出発しなければなりません。ですから、皆さんは今日、自分の過去のすべてを掃除し、誇りたいという天の心情を掲げて誇りの位置を立てなければなりません。それによって、皆さんが天に誇るべき存在となり、皆さんの家庭、民族、国家、世界が天の栄光の基準に立つことができるのです。このことを、今日この時間、心に深く刻まなければなりません。

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<祈り>

お父様、今、私たちはあなたを迎えて誇りたいという心を持たなければならない時です。私たちを立てて誇りたいというお父様の心情を体験し、そのような立場で私たちを掲げて誇りたいというイエス様の心情を体験しなければならない時です。天を掲げて誇り、地を掲げて誇り、悪魔世界を掲げて誇り、皆さんを掲げて誇ることができる立場に立たなければなりません。お父様が私たちを掲げて誇り、天と地が共に私たちを掲げて誇り、万人の前に誇ることができる立場に立つことができるようにしてください。

イエス様が去った後の2千年の歴史の中で、私たちの先祖たちが天倫の道理を全うしなかったため、多くの預言者たちが血を流した事実を私たちは知っています。そのような事実に対して憤りを持ち、彼らの過ちと罪を背負い、悔い改めることのできる子供たちとなれるよう、切に願い求めます。すべてをお許しください。

この一時間をお父様の前にすべて委ねますので、最初から最後まで導いてくださることを切にお願い申し上げます。すべての言葉を主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


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