イエス様の死は「生きながらの別れ」であったと私は思います。それは生き別れです。ですから、私たちの先祖、信仰の先祖たちは何一つ誇るべきものを持っていないのです。イエスを殺したことは選民としての本分ではありません。イエス様が歩むべき道はそのような道ではありませんでした。それは生き別れの道ではなかったのです。
この地上には、イエスの生涯を奪った死の恨みが残っています。だからこそ、神はイエスの死を通して、今なお人間を心情的な理念を通じて導いてこられているのです。ユダヤ民族が世界で勝利することができたのは、一時の心情的な結びつきがあったからです。このようなユダヤ民族が、天的な目標を見据えて進む人々を動かし、心情的な統一を成し遂げていたならば、そこから地上に一つの宇宙観的な内容を備え、人間の心情に深い感動を与えるような主義が生まれたでしょう。そして、ユダヤ民族を通じて一つの世界が必ず成し遂げられたであろうと私は考えます。
しかし、イエスを中心として成し遂げられるはずだったその故郷の国はどこに行ったのでしょうか?どこに行ったのですか?その民族が住むべきカナンの地はどこに行ったのですか?その故郷はどこに行ったのですか?アブラハムが祝福を受け、神の前に祭祀を行ったその地、その神殿はどこに行ったのですか?神が直接統治することができたアダム、選ばれたノアとその家族はどこに行ったのでしょうか?私たちが住むべき、天の安息所となるべき故郷の世界はありません、ないのです。だからこそ聖書では、私たちは孤児のようであり、未亡人のようであると記されています。
金サッカのような人は、放浪者として三千里の山河をさまよいながらも立派でした。立派だったのです。だからこそ、皆さんも人生の旅路においてその姿がどれほど哀れであったとしても、宇宙を歌える感情を持ち、天と共に、万物と共に、その流れる心情が天情と調和する人格者にならなければならないのです。もし私がそのような人に出会っていたならば、たとえ物乞いの缶を持って歩くことになったとしても、精一杯その人をお迎えしたでしょう。
私たち人間は、悲しみの歴史を繰り返し、自らを縛り、傷つけ、自己崩壊を繰り返してきました。それはノアの時代にも、アブラハム、モーセ、そしてイエスの時代にも同じでした。それでは、今日の歴史の終末時代において、人間の運命を解決し、人間が自らの使命を果たし、生命の道を切り開いていかなければならないというこの時に、神は人類をどのような方向に追いやろうとしておられるのでしょうか?イエスの時代には、故郷の国を取り戻すために人類を追いやりましたが、これからは神が望まれる故郷の世界を築くために人類を追いやっておられることを私たちは知るべきです。
31
探し求めるべき故郷の世界、その世界を建て、治めるために万王の王が来られると言われています。その方こそ、私たちが待ち望む主です。人生の旅路で倒れることがあっても、故郷の国を探し求めるために引き寄せられ、命を失う者がいるなら、その国が建てられるとき、その者は忠臣であり功臣として名を残し、天によって称えられることは間違いありません。だからこそ、かつてパウロもすべての社会的な権威を捨て、一人で悲惨な死の道を歩むことができたのです。彼はその一時が来ることを確信していたからこそ、それができたのです。イエス様もその一時が来ることを確信していたからこそ、その道を進むことができました。そして神もまた、その一時が来ることを確信しておられるからこそ、今日までこのような摂理を続けておられるのです。この道を歩むべき人生だと知る皆さんは、自信を持ってこの道を進むべきです。自信がありますか?自信がありますか?
私たちが目指すべき場所は、ノアが探し求めた故郷の家庭であり、アブラハムが探し求めた故郷の地であり、モーセが探し求めた故郷の民族であり、イエス様が探し求めた故郷の国です。神とイエス様が成し遂げようとしているのも故郷の世界であるのに、皆さんはその世界と感情的に共鳴し、縁を結んでいますか?そうでなければ、皆さんには人類歴史の脱落者としての烙印を押される日が来るでしょう。
私たちは故郷の世界が恋しいのです。ノアの方舟も恋しいのです。今日、世界の二大陣営は岩礁にぶつかる瞬間に差し掛かっており、生死を分ける決断を迫られる厳しい局面に直面しています。善悪の出発が一つの起点を通じて始まったことを私たちは原理を通じて学んでいます。善悪が神を基に始まったのであれば、その解決もまた神を基にしなければならないというのが鉄則です。失われたものを探し求めるには、失われた場所に行って探さなければならないのと同じです。
本然の園は理想の園です。それは、互いに与え合い、通じ合う世界であり、兄弟の感情が万宇宙のどこにでも通じることのできる世界でした。今日のように、民族的な感情や国家の主権的な違いを持ち出して議論するような理想や主義の世界ではありません。民族の差別や国家の主権といったあらゆる違いを超えて議論できる世界であり、経済的な状況や文化といった条件の違いを基に議論するのではなく、心情を基に議論する世界でした。
例えば、ある家庭に兄と弟がいて、その兄が大統領で弟が労働者であったとしましょう。その時、兄が弟に向かって「お前は労働者だから家に戻って労働でもしていろ」と言うことはできないはずです。本当の兄であるならば、弟が自分と同じ立場でないことを悔しく思い、彼を高めてあげたいという心情が湧き上がるはずです。それが真の兄の心情でしょう。
32
神はそのような家庭的な理念、本然の家を恋しく思っておられるため、全人類もまたそのような故郷の家を恋しく思っているのだということを知らなければなりません。
これが私たちが必ず到達しなければならない運命的な歴史の解明点であり、人間的な解明点であり、摂理的な解明点であるならば、その視点と基準が自分とどれほど異なっているのかを問い直すべきです。その違いが大きければ大きいほど、私たちは大いに嘆き悲しまなければなりません。そのため、こう祈るべきです。
「神様、哀れな私をお許しください。私は何も知りませんでした。歴史の流れを知りませんでした。歴史が目指す摂理の方向と目的を知りませんでした。人生の歩みがどれほど混乱しているかを知りませんでした。歴代の預言者や先祖たちの苦しみや歴史的な内的心情を知りませんでした。そして、私たちが信じるイエス様が歩まれた道も知りませんでした。神様が進まれた道も知りませんでした。知らなかった罪をどうかお許しください!」と。そして、「知っていても赦されるべきではないのに、知らなかった私はなおさらお許しください!」と訴えるべきです。
人間は無条件でそうすべきです、無条件で。それゆえ宗教では「高慢は敵だ」と教えています。「高慢になるな。自分を出すな。自分自身が敵なのだ」と言っています。それは、私たちが彼らに負い目のある存在だからです。このような心情で静かに目を上げて自分を見つめ直すと、恐ろしい現実を感じることでしょう。そのような歴史的な心情を持ち、天と共に何かを感じ取るとき、恐怖が込み上げてきます。歴史的な悲哀、悲運の幕が張られているのを見ると、身体が震えるほどの衝撃を受けるのです。
そのような山場を乗り越えてこられた父なる神。そのような山場に直面して命を落としながらも、その国、その世界を恋い慕い、その世界の自由を求め、幸福を求め、平和を求めて戦い続けてきた預言者や先祖たちがいます。それが私の考えです。今日の私、今日の私たち、今日の統一教会が反対を受けることは当然だと思います。
33
それでもなお、この道を切り開かなければならないという確固たる信念のもとで、「迫害なら来るがいい」と言える度胸を持たなければなりません。イエス様もイスカリオテのユダの一団の前に毅然とした姿で現れ、その堂々たる態度に彼らは頭を垂れました。イエス様は「来るなら来てみろ」という姿勢を見せられたのです。どれほど困難なことがあっても、心情を通じてすべてを超えることができます。そうではありませんか?
たとえ悪党が親子の愛を妨げようとしても、それを妨げることはできません。愛は何らかの意識的な啓示によって感じるものではなく、自動的で自然な感情として感じるものです。そのような感情が感じられる場があるならば、そこには悪魔がどれほど侵入しようとしても侵入できません。もし邪魔をすれば、悪魔自身が大変なことになるのです。悪魔が消え去るのです。人生の旅路でそのような感情を感じる人が天国に行くということです。
私たちは故郷を求めてもがき続ける人生の旅路を歩んでいます。イエス様はこうおっしゃいました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通してでなければ、父のもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)。しかし、ここにもう一つ付け加えられるべき言葉があります。それは『わたしは愛である』という言葉です。この言葉をイエス様はおっしゃらなかったのです。
ですから、ここに「神よ、私は愛であり、真理であり、道であり、命である。私を通さなければ神に出会うことはできない」と言える確信を持つ人、天の心情を通じることのできる人が現れるならば、その人を指して「お前はこの地で天を裏切った者だ」と裁きの座に引き出すことはできないでしょう。神はそのような息子娘が地上に多く現れることを待ち望んでおられます。それが、私たちがイエス様を高く見る理由でもあるのです。
私たち統一教会の信徒たちは、人生の旅路の中で荒れ狂う波に翻弄されながらも、天を探し求めてここまでたどり着きました。私たちには、自分の身体を委ねる場所、自分の心を委ねる場所、自分の心情を委ねる場所が必要です。本然のエデンの園においてアダムが万物の主人公であったならば、万物は彼に対してどう思ったでしょうか?すべての万物はアダムに向かって『どうか私たちの主人になってください』と言う存在であるべきだったのです。
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神はどのようなお方なのでしょうか?なぜ私たち人間が『神様、神様!』と呼ぶのでしょうか?それは、神がすべてのものから『私たちの主人になってください』と求められる立場にいらっしゃるからです。そうでなければ、理想的な主観を得ることができるでしょうか?
今日の人類は『私のすべてをあなたに捧げますので、神様、どうか私たちの主人になってください』と言える存在でなければなりません。そのように言える歴史、そのように言える摂理、そのように言える人格を確立した者であるべきです。そして、もし皆さんがそのような方と地上で出会ったならば、『私の身体を、私の心を、私の心情をどうかあなたが導いてください。私の主人になってください』と訴えるべきです。その時、万物もまたその方を待ち望んでいた主人として迎えたいと思う心が芽生えるでしょう。皆さんはそのような存在にならなければなりません。
今日の私たち統一教会の信徒たちが、真理を通してそのような身体となり、そのような心となり、そのような心情となれば、たとえ世間がどれほど反対しようとも、この真理が世界を支配する日が来るのです。そして、その日が来れば、この真理は世界を支配するだけでなく、それを超える影響力を持つことでしょう。
今、皆さんが「ここにいたい」「ここに住みたい」「ここに行きたい」と思う場所があるならば、それが本然の居場所であるはずです。その場所にいる家族や仲間たちは兄弟姉妹です。会わなければ会いたくなり、傷を負っていればその傷を抱きしめて涙を流すことのできる心が湧き上がらなければなりません。皆さんはそうなるべきです。仲間の誰かが傷ついたなら、その胸を抱えて涙を流すことのできる人間でなければなりません。
私たちの故郷の家とはどのような場所でしょうか?それは、お父様が私を抱きしめて涙を流してくれる場所です。主も共に涙を流してくださる場所です。心情の縁を一片も欠けることなく、同伴者として、友人として、あるいは新郎として接してくださる天の存在、それがありがたく、畏れ多いお言葉です。
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不甲斐ない自分を抱きしめて涙を流してくださる主、そのようにしてくださる父、それを思うとただ畏れ多いばかりです。その愛によって、人生の旅路で受けたすべての傷を忘れることができるでしょう。このように考えると、どうしようもなく圧倒的な父の愛を賛美する感情が先立ちます。それがなければ、天国に行くことはできません。そうではありませんか?
皆さん、学期の初めに初めて故郷を離れた学生たちは、学期の終わりになると故郷が恋しくなるでしょう。その心が純粋で本然の心情であるならば、どれほどの苦労をしても故郷に帰り、母や兄弟姉妹の手を握りながら涙を流し、自分のこれまでの苦労話を夜通し語り合える、そんな場所や村、山河を懐かしむはずです。
復帰の恨みを解消できていない私たちが人生の旅路を歩む中で、「ああ、主よ!お父様!」と叫ぶ瞬間に、天地万物が喜びの中で「その通りです!ハレルヤ!」と歓声を上げるような瞬間があったでしょうか。皆さんにはそのような瞬間が必要です。それがなければ、天は悲しみと哀れみの立場に置かれざるを得ないということを、皆さんは知るべきです。
皆さん、幸せな人とは、抱きしめて涙を流してくれる人がたくさんいる人です。子どもが素晴らしいというのは何故でしょうか?それは、親が困難に直面し、涙を流すときに一緒に泣いてくれるからです。そうではありませんか?また、親が喜ぶときに一緒に喜んでくれるからです。そのため、悲しみも喜びも共に分かち合える人がいる人は幸せなのです。
皆さん、友人を誇りに思ってはいけません。自分のために死ぬときに涙を流し、悲しみを共にするのは難しいことです。それができるのは親です。そして天もそのような存在です。
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私たちが進むべき道の理念を担う指導者や教団的な責任者がいるならば、その人は羊たちのために涙を流し、号泣し、哀れみの心を持つことができなければなりません。羊たちが自分のすべての事情をその指導者の前で打ち明け、その指導者によって喜びや悲しみ、怒りや楽しさの感情が豊かになるとき、その人々は真の牧者に出会った幸せな人々であると言えるのです。そのような天がいるからこそ、私たちは天を慕うのです。
ですから、今日の私たちは人生の旅路の中で疲れ果てた身体であっても、勝利の内容を持って現れるとき、歴史上のすべての聖人、賢人、そして天が歓喜して迎えてくれる日が来るということを知り、その日を栄光のうちに迎えるべきです。そして、その日を感謝し、その日に自分のすべての過ちを忘れることができ、待ち望んだ願いをすべて成就することを願いながら進むべきです。そのように進む人こそが、今日、道の道を歩む人々であることを皆さんはしっかりと認識すべきです。
<祈り>
お父様、招かれた道が容易いものだと思い進み始めましたが、それが困難な道であることを知りました。喜びの道だと思っていましたが、進むにつれて涙の峠がいくつもあることを知りました。
お父様、私たちに悲しみがあるならば、あなたを抱きしめて悲しみを分かち合いたいのです。人間を抱きしめて悲しみを分かち合うならば、失望することが多いことを知りました。そして、人を信じて進むと傷つくことを知りました。
変わることのない方は父なる神様であられました。お父様を抱きしめて泣いた時間がどれほど幸福な時間だったのでしょうか。そのためにイエス様もお父様を抱きしめて涙を流すための道を求められたのでしょう。
37
今日ここに集まった統一の家族は、教派や形式が問題ではありません。お父様を抱きしめて涙を流すことのできる人々であり、人生の旅路が悲しく孤独であるからこそ、人類の前にイエスを立てて先にこの道を切り開かせた父の心情を理解し、父のために涙を流すことのできる真の息子、娘になりたいと願っています。
私たちが悲しいと嘆く前に、お父様が苛酷な鞭を受け、激しい迫害を受け、すべての不条理を耐え忍んでおられることを知るならば、どうして私たちが父の前で自分を弁明できるでしょうか?父の前では自分中心で悲しむ条件はないということを知ったのです。ですから、今日ここにいるあなたの息子娘たちをどうか憐れんでください。
故郷を目指す旅路がどれほど哀れで、悲運で、不幸なものであるかを知りました。お父様、私たちが自分を抱きしめて泣く前に、お父様が先に泣かれたことを知りました。私たちが打たれる前に、お父様が先に打たれたことを知りました。私たちが苦しむ前に、お父様が先に苦しまれたことを知りました。私たちが痛む前に、お父様が先に痛まれたことを知りました。そして、私たちが倒れる前に、お父様が先に倒れられたことを知りました。
これを知り、お父様に向かって言葉もなく進み続けるしかない自分自身を発見しながら、天の前で頭を垂れて「お父様」と呼ぶことのできる息子娘たちを、天はどれほど待ち望まれたことでしょうか。今日のこの言葉を通して、私たちの心にそのような感情が湧き上がることを許してください。そして、この国に対して、世界に対して、天に対して、そのような感情が湧き上がることを許してください。
そのような感情が湧き上がってこそ、個人から全世界的な理念圏に至るまで、自信を持った信仰を持っていると言えるのです。また、自らの理念を立てるための最高の心情を持つ天の立場に立つことができると知っています。そのような環境の道を切り開いていけるように、私たちの心を奮い立たせてくださいと、切にお願い申し上げます。
38
今日のこの御言葉を通じて、これまでの人生の旅路で悲しみに暮れていた自分を省み、真の幸せに浸って生きることができるようにしてください。そして、自分の一身が天と結ばれている縁を高く評価し、謙虚に頭を垂れながら父の栄光を高めることのできる子女となることを許してくださいと、切にお願い申し上げます。
すべてをお委ねいたしますので、この者たちの命とその全生活、また彼らが持つすべての理念に至るまで、父の心情に背くことがないように、導き、統治してくださいと切に願い、主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。
先生の「言葉選集」7巻 - 2. 父と私(1959年7月12日)
1959年7月12日(日)、前本部
ヨハネの福音書 14:1-19
<祈祷>
お父様! 30年以上の生涯、イスラエルの選ばれた民であることを誇りに思うユダヤの民を相手にしなければなかったイエスの心は、その民に平和と自由を実現させようという心情が消え去っていたことを、私たちはかすかにでも思い出にはいられません。
4千年の間、一人息子のために努力された父は、イスラエルの民とともにの苦悩の歴史を歩まれてきました。そして流れられた血と汗の跡は、イスラエル民族の歴史に深く刻まれています。
そのように苦労な苦労をなさり、血と汗が流れなかったのに、その当時のイスラエルの民が天と関係を結ぶことができなかったという事実は、無限に近づいて、心を痛いことこの上ありません。
今日の私たちは、過去の歴史の中で地上に来られたイエス様の存在を知り、信じています。しかし、その当時、イスラエルの民に追われ、迫害されていた悲惨なイエス様、ある村から追い出せば別の村へ、この町から追い出せばまた別の町になってしまったイエス様とその心情を知り、信じる者は誰もおりません。表されたイエス様の姿を正しく知る者は、歴史上においても見出すことができないのでございます。
メシアを待って待っていたイスラエルの民は、メシアを迎えるというを迎え、数千年間耐え忍び、戦い続けてきました。そして、メシアがいつ来てもかかと切に待っていました。その希望のしるしが現れたとき、彼らは自分の事情や置かれた環境に執着するあまり、天の心情を理解することができず、深い眠りに落ちてしまったことを、私たちは思わずにはいられません。
このような悲しみを嘆くべき歴史があったことを振り返りながら、今日、私たちには、父なる神の心に深く刻み込まれた覚悟を晴らす責任があるとするならば、来られたイエス様を認めるなかったイスラエルの罪過を、私達が知って背負い、我慢して出来るよう協助してください。
イエス様は、悲しみに満ちた30年以上の生涯を送られました。 特に、その中でご自身の全てを尊重された3年間の公生涯がありましたが、その期間において、誰がイエス様また、誰がイエス様の置かれた苦しい状況を真に知っておきましたでしょうか。 残念ながら、誰一人としておりませんでした。
師が死の道を歩むことを案じ、切なる心情で天にすがりつつ祈りを求めるべきであった弟子たちが、実に『イエス様とは一体誰なのか』と問い返すような状況になりました。そのような状況の中で、3年間の御業が無駄に終わったと感じられたはい様の心情は、争いの悲しみと悲しみに満ちていたことでございます。 もし対立があるとすれば、これ以上の悲しみが他にもあるのでお願いします。 また、心が裂けるような痛みがあると「もしそうだとしたら、これ以上の痛みがどこにあったでしょうか。
奇跡を行われたイエス様を崇拝し、仰ぎ見て敬うことのできるクリスチャンはお控えください。しかし、迫害され、踏みつけられ、押しのけられたイエス様のその足跡に寄り添い、その道をたどりながら生きようとするクリスチャンはほとんどありません。
お父様、哀れみ深いイエス様の心情を抱き、その心に寄り添って立ち上がることのできる息子娘達がこの全世界の中から多く現れよう私達は血の涙を流しながら願わずにはいられません。
生きていて、歴史の中で全てを操り導いておられるお父様、私たちに静かに進むべき道を示してくださることを心より感謝申し上げます。
お父様、どうか私たちが過去のイエス様をただ懐かしむ者に留まることなく、この時代に生きるイエス様を証し、その使命を担いながら歩む者となることができますように。御心に誓うために努力し、決意しながらも真実にその道を追い求めていけるよう、私たちに力をお与えください。
今、私たちが、かつて父なる神様のもとへ向かわなければならなかったイエス様の深い心情を理解し、その心情の前に謙虚にひれ伏すことができるようお考えください。喜び、切に望まれたことが仮にあるなら、それを実現できる者となれるよう私たちに寛容を与えてください。
2千年前、全人類の生命問題を解決するために深く苦しみましたイエス様の心情に接し、その心情と一つになれる息子や娘となれるよう、お父様、心からの願い切に求めます。
死の世界の中で孤独な心情を抱え、もがきに立ち会いながら集まったあなたの息子娘達、今座っているその場で深く悔しい思いをしてもできるようお許しください。生命の力を与えてください、過去のすべての誤りを否定し、天と新しい縁を結ぶことができるこの時にお与えくださいますよう、お父様へ心からの願いを求めます。
お父様、人間に直接語りかけたいと願われるその御心は、今後切実で深いものでお願いします。 、私たちの心の扉を開き、身体のすべての感覚を新たに、お父様の世界にあるすべての真実を体験させてください。そして、あなたの深い心情を慕い求めることができるようにしてくださいください。
どうか、私たちが善なる御旨に浸りながら心から父なる神様を呼び求め、御言葉によって新たに在り、再創造されるという恵みと喜びの時間をお与えください。切に願います。
お父様! この一時が無駄にならないよう、どうかお導きください。喜怒哀楽を感じる時には共にその心情を感じられるように、またお父様の前で敬虔になる時も同じようにその思いを共有できるようにしてください。
集まった人々は多くとも、この者たちが一つとなり、一つの祭壇、一つの生ける供え物となることができますよう、心から切に願います。
この日も、全人類を代表して尊敬される数多くの祭壇に祝福をお与えください。 そして、困難な状況の中で、心から切実にあなたの隠れた息子娘がいれば、それは深い心に寄り添い、相談相手になってください
さらに、彼らと恵みの縁を結んでください、彼らが命の解決点まで先に進むことができるようにお導びきください。
残された時間も主管して下さいます様にお願いいたします。すべてをお父様に委ねますので、この時間が悪魔に奪われる時間とならないようお守りください。
主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン
1959年7月12日(日)、前本部
ヨハネの福音書 14:1-19
<祈祷>
お父様! 30年以上の生涯、イスラエルの選ばれた民であることを誇りに思うユダヤの民を相手にしなければなかったイエスの心は、その民に平和と自由を実現させようという心情が消え去っていたことを、私たちはかすかにでも思い出にはいられません。
4千年の間、一人息子のために努力された父は、イスラエルの民とともにの苦悩の歴史を歩まれてきました。そして流れられた血と汗の跡は、イスラエル民族の歴史に深く刻まれています。
そのように苦労な苦労をなさり、血と汗が流れなかったのに、その当時のイスラエルの民が天と関係を結ぶことができなかったという事実は、無限に近づいて、心を痛いことこの上ありません。
今日の私たちは、過去の歴史の中で地上に来られたイエス様の存在を知り、信じています。しかし、その当時、イスラエルの民に追われ、迫害されていた悲惨なイエス様、ある村から追い出せば別の村へ、この町から追い出せばまた別の町になってしまったイエス様とその心情を知り、信じる者は誰もおりません。表されたイエス様の姿を正しく知る者は、歴史上においても見出すことができないのでございます。
メシアを待って待っていたイスラエルの民は、メシアを迎えるというを迎え、数千年間耐え忍び、戦い続けてきました。そして、メシアがいつ来てもかかと切に待っていました。その希望のしるしが現れたとき、彼らは自分の事情や置かれた環境に執着するあまり、天の心情を理解することができず、深い眠りに落ちてしまったことを、私たちは思わずにはいられません。
このような悲しみを嘆くべき歴史があったことを振り返りながら、今日、私たちには、父なる神の心に深く刻み込まれた覚悟を晴らす責任があるとするならば、来られたイエス様を認めるなかったイスラエルの罪過を、私達が知って背負い、我慢して出来るよう協助してください。
イエス様は、悲しみに満ちた30年以上の生涯を送られました。 特に、その中でご自身の全てを尊重された3年間の公生涯がありましたが、その期間において、誰がイエス様また、誰がイエス様の置かれた苦しい状況を真に知っておきましたでしょうか。 残念ながら、誰一人としておりませんでした。
師が死の道を歩むことを案じ、切なる心情で天にすがりつつ祈りを求めるべきであった弟子たちが、実に『イエス様とは一体誰なのか』と問い返すような状況になりました。そのような状況の中で、3年間の御業が無駄に終わったと感じられたはい様の心情は、争いの悲しみと悲しみに満ちていたことでございます。 もし対立があるとすれば、これ以上の悲しみが他にもあるのでお願いします。 また、心が裂けるような痛みがあると「もしそうだとしたら、これ以上の痛みがどこにあったでしょうか。
奇跡を行われたイエス様を崇拝し、仰ぎ見て敬うことのできるクリスチャンはお控えください。しかし、迫害され、踏みつけられ、押しのけられたイエス様のその足跡に寄り添い、その道をたどりながら生きようとするクリスチャンはほとんどありません。
お父様、哀れみ深いイエス様の心情を抱き、その心に寄り添って立ち上がることのできる息子娘達がこの全世界の中から多く現れよう私達は血の涙を流しながら願わずにはいられません。
生きていて、歴史の中で全てを操り導いておられるお父様、私たちに静かに進むべき道を示してくださることを心より感謝申し上げます。
お父様、どうか私たちが過去のイエス様をただ懐かしむ者に留まることなく、この時代に生きるイエス様を証し、その使命を担いながら歩む者となることができますように。御心に誓うために努力し、決意しながらも真実にその道を追い求めていけるよう、私たちに力をお与えください。
今、私たちが、かつて父なる神様のもとへ向かわなければならなかったイエス様の深い心情を理解し、その心情の前に謙虚にひれ伏すことができるようお考えください。喜び、切に望まれたことが仮にあるなら、それを実現できる者となれるよう私たちに寛容を与えてください。
2千年前、全人類の生命問題を解決するために深く苦しみましたイエス様の心情に接し、その心情と一つになれる息子や娘となれるよう、お父様、心からの願い切に求めます。
死の世界の中で孤独な心情を抱え、もがきに立ち会いながら集まったあなたの息子娘達、今座っているその場で深く悔しい思いをしてもできるようお許しください。生命の力を与えてください、過去のすべての誤りを否定し、天と新しい縁を結ぶことができるこの時にお与えくださいますよう、お父様へ心からの願いを求めます。
お父様、人間に直接語りかけたいと願われるその御心は、今後切実で深いものでお願いします。 、私たちの心の扉を開き、身体のすべての感覚を新たに、お父様の世界にあるすべての真実を体験させてください。そして、あなたの深い心情を慕い求めることができるようにしてくださいください。
どうか、私たちが善なる御旨に浸りながら心から父なる神様を呼び求め、御言葉によって新たに在り、再創造されるという恵みと喜びの時間をお与えください。切に願います。
お父様! この一時が無駄にならないよう、どうかお導きください。喜怒哀楽を感じる時には共にその心情を感じられるように、またお父様の前で敬虔になる時も同じようにその思いを共有できるようにしてください。
集まった人々は多くとも、この者たちが一つとなり、一つの祭壇、一つの生ける供え物となることができますよう、心から切に願います。
この日も、全人類を代表して尊敬される数多くの祭壇に祝福をお与えください。 そして、困難な状況の中で、心から切実にあなたの隠れた息子娘がいれば、それは深い心に寄り添い、相談相手になってください
さらに、彼らと恵みの縁を結んでください、彼らが命の解決点まで先に進むことができるようにお導びきください。
残された時間も主管して下さいます様にお願いいたします。すべてをお父様に委ねますので、この時間が悪魔に奪われる時間とならないようお守りください。
主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン
<御言葉>
今日、皆さんと考えようとする御言葉のタイトルは「父と私」です。これをもっと大きく言えば「父と私たち」「神と人間」になります。 「父と私」このようなタイトルを持ってしばらくお話しします。
世の中に悲しいことがある時には、子どもが愛する親を失った以上に悲しいことはないでしょう。また、親が愛する子を失った以上、悲しいことはないでしょう。
キリスト教では、人間は堕落したと言っています。それは、現社会を見たり、追及して解明してみるとき、視認しなくてはならない事実です。これは、あらゆる罪の原因となって今日のような結果の社会を築いたと推測することができます。ある曲折が原因となって持って今日の結果的な社会になり、その結果的な歴史路程の上に私が立っていて、その結果的な私自体で悩んでいるという事実を私たちは否定できないでしょう。
悲しみの中で一番大きな悲しみは何でしょうか? 失ってはいけない親を失うことになってしまう悲しみ、失われた親を探す悲しみ、これ以上大きな悲しみがないと思います。親や子どものいない悲しみ、それ以上大きな悲しみは無いと考えることができます。
人類は堕落しましたが、ここには人間と天が介在しています。またそこには、いかなる理念とも一致しない私が介在しているという事はありえません。人間が堕落したことを認めるならばと、堕落と言う事は相対的な関係を確立しなければ不可能であるという事実を否定できないでしょう。わたしが良いと感じなければ良いからです。こういうのが一つから全体まで関係を結んでいるのです。
私たちにとって、いかなる事情によってかもたらされた出来事は多いかもしれませんが、心情に絡まっている問題はただ一つのことです。それは人類が両親を失ったことです。両親を失い、神様が子供を失うことで壊れた縁を再び見つけなければなりません。失われた縁を再び結び、失われた喜びを再び探しだし、失われた幸福を再び見つけなければならないことが、まず最初に私たちが解決しなければならない重要な問題でしょう。
それでは、罪悪歴史であることを知っている私たち、罪の世界に住んでいることを認める私たち、自分の心と体の戦いで悩んでいる私たち、このすべては何で解決されるのか? 解決できずにいます。いかなる理念や観念的な信仰でも解決することはできません。その心情の世界は前後がなく、上下がなく、始まりで終わりであり、終わりで始まりと言えるところです。
人間の悲しみは何ですか?堕落によってエデンで真の主人を失ったのは悲しみです。その縁を失ったのが悲しみです。
私たちを創造した創造者はどんな人ですか? 私たちの心の主人であることはもちろん、私たちの理念や私たちの感情世界の主体格、主人格に立つことができる方であり、さらには私たちの心情の主人であり主体となる方です。私たちには、これらの神が絶対に必要です。私たちの意識や認定によって観念的に必要ではなく、絶対に必要です。そんな主人を失ったのが悲しみです。
絹の主人だけでなく一歩進んで神様はどんな格位におられるのかと言うと、人間の父親としておられます。天地を造られた神様が人間を創造して、主人としてのみおられるのではなく、父親としておられます。「私はあなたがたの父親です」これが父親の生活の中心であり、理念の中心であり、神様が人間を創造された目的であったことを私たちは知らなければなりません。
キリスト教徒は神を父と呼んでいます。父の前に息子娘の姿で立たなければならない人間が堕落し、貧しいお世話になっています。人間を息子娘と呼ぼうとするその父はどんな境遇であり、息子として立つべき人間の姿はどのような形をしているのか。父と呼べる息子と呼べる環境と境遇になっていません。息子が父を呼んでも「来るか、息子。」できず、父が息子を呼んでも「はい、父」と答えることができない曲折の巻内に落ちているこれが堕落です。
この寒い名詞を蹴るために下ってきたのが歴史路程であるのです。神様がいらっしゃるなら、その恥ずかしい名詞を踏んで、これを取り除くために戦って出てくるのが彼の仕事でしょう。
このように考えると、父と呼ぶのは簡単ですが、実体的な父として存在するのは難しく、認識的にはその父親を敬うことができますが、実体的に私のためにおられる父を祀るのは難しいのです。
これは魚人軟膏利尿? 堕落した軟膏です。堕落したため、このような立場に落ちたということです。こういう環境で苦しんでいる私たちですが、このような場でそれでも死なずに生きると戦っている私であることを認めるようになったとき、私とその父親との間隔がどうしても不透明でわからないと感じられます。
私たちは、この世界を造ることができるどんなリーダーがこの地上に現れるのかを楽しみにしなければなりません。この通りを埋め、平らな道を敷くことができる世界的なリーダーが現れるのを楽しみにしておかなければなりません。そのリーダーは私の肉的リーダーだけではなく、私の心情のリーダーだけではなく、私の心身のリーダーであるべきです。彼は時代によって変わる指導者ではなく、革命的な内容だけを内包した指導者ではなく、永遠絶対的な指導者でなければなりません。
皆さんがそのような指導者を考えることもできませんでした。占いの前に自分がどのような立場に立ったのか評価してみなければなりません。
堕落した人間にも感謝の気持ちがあります。このような縁を再び結ぶことができる一人が出てきたならば、これは神様の歴史的な恨を解くことができる方でしょう。
今日、皆さんと考えようとする御言葉のタイトルは「父と私」です。これをもっと大きく言えば「父と私たち」「神と人間」になります。 「父と私」このようなタイトルを持ってしばらくお話しします。
世の中に悲しいことがある時には、子どもが愛する親を失った以上に悲しいことはないでしょう。また、親が愛する子を失った以上、悲しいことはないでしょう。
キリスト教では、人間は堕落したと言っています。それは、現社会を見たり、追及して解明してみるとき、視認しなくてはならない事実です。これは、あらゆる罪の原因となって今日のような結果の社会を築いたと推測することができます。ある曲折が原因となって持って今日の結果的な社会になり、その結果的な歴史路程の上に私が立っていて、その結果的な私自体で悩んでいるという事実を私たちは否定できないでしょう。
悲しみの中で一番大きな悲しみは何でしょうか? 失ってはいけない親を失うことになってしまう悲しみ、失われた親を探す悲しみ、これ以上大きな悲しみがないと思います。親や子どものいない悲しみ、それ以上大きな悲しみは無いと考えることができます。
人類は堕落しましたが、ここには人間と天が介在しています。またそこには、いかなる理念とも一致しない私が介在しているという事はありえません。人間が堕落したことを認めるならばと、堕落と言う事は相対的な関係を確立しなければ不可能であるという事実を否定できないでしょう。わたしが良いと感じなければ良いからです。こういうのが一つから全体まで関係を結んでいるのです。
私たちにとって、いかなる事情によってかもたらされた出来事は多いかもしれませんが、心情に絡まっている問題はただ一つのことです。それは人類が両親を失ったことです。両親を失い、神様が子供を失うことで壊れた縁を再び見つけなければなりません。失われた縁を再び結び、失われた喜びを再び探しだし、失われた幸福を再び見つけなければならないことが、まず最初に私たちが解決しなければならない重要な問題でしょう。
それでは、罪悪歴史であることを知っている私たち、罪の世界に住んでいることを認める私たち、自分の心と体の戦いで悩んでいる私たち、このすべては何で解決されるのか? 解決できずにいます。いかなる理念や観念的な信仰でも解決することはできません。その心情の世界は前後がなく、上下がなく、始まりで終わりであり、終わりで始まりと言えるところです。
人間の悲しみは何ですか?堕落によってエデンで真の主人を失ったのは悲しみです。その縁を失ったのが悲しみです。
私たちを創造した創造者はどんな人ですか? 私たちの心の主人であることはもちろん、私たちの理念や私たちの感情世界の主体格、主人格に立つことができる方であり、さらには私たちの心情の主人であり主体となる方です。私たちには、これらの神が絶対に必要です。私たちの意識や認定によって観念的に必要ではなく、絶対に必要です。そんな主人を失ったのが悲しみです。
絹の主人だけでなく一歩進んで神様はどんな格位におられるのかと言うと、人間の父親としておられます。天地を造られた神様が人間を創造して、主人としてのみおられるのではなく、父親としておられます。「私はあなたがたの父親です」これが父親の生活の中心であり、理念の中心であり、神様が人間を創造された目的であったことを私たちは知らなければなりません。
キリスト教徒は神を父と呼んでいます。父の前に息子娘の姿で立たなければならない人間が堕落し、貧しいお世話になっています。人間を息子娘と呼ぼうとするその父はどんな境遇であり、息子として立つべき人間の姿はどのような形をしているのか。父と呼べる息子と呼べる環境と境遇になっていません。息子が父を呼んでも「来るか、息子。」できず、父が息子を呼んでも「はい、父」と答えることができない曲折の巻内に落ちているこれが堕落です。
この寒い名詞を蹴るために下ってきたのが歴史路程であるのです。神様がいらっしゃるなら、その恥ずかしい名詞を踏んで、これを取り除くために戦って出てくるのが彼の仕事でしょう。
このように考えると、父と呼ぶのは簡単ですが、実体的な父として存在するのは難しく、認識的にはその父親を敬うことができますが、実体的に私のためにおられる父を祀るのは難しいのです。
これは魚人軟膏利尿? 堕落した軟膏です。堕落したため、このような立場に落ちたということです。こういう環境で苦しんでいる私たちですが、このような場でそれでも死なずに生きると戦っている私であることを認めるようになったとき、私とその父親との間隔がどうしても不透明でわからないと感じられます。
私たちは、この世界を造ることができるどんなリーダーがこの地上に現れるのかを楽しみにしなければなりません。この通りを埋め、平らな道を敷くことができる世界的なリーダーが現れるのを楽しみにしておかなければなりません。そのリーダーは私の肉的リーダーだけではなく、私の心情のリーダーだけではなく、私の心身のリーダーであるべきです。彼は時代によって変わる指導者ではなく、革命的な内容だけを内包した指導者ではなく、永遠絶対的な指導者でなければなりません。
皆さんがそのような指導者を考えることもできませんでした。占いの前に自分がどのような立場に立ったのか評価してみなければなりません。
堕落した人間にも感謝の気持ちがあります。このような縁を再び結ぶことができる一人が出てきたならば、これは神様の歴史的な恨を解くことができる方でしょう。
人類を滅ぼそうとするのが天の意ではなく、彼らに生きる道を求めてくれる様に責任を負って貰い、天が摂理の意を立ててくる。この気持ちが出なければならないということです。歴史を数えてみると、これは否定できない事実です。
堕落の世界で苦しむ私たちは、罪ある事自体を悔い改め、これに憤慨しなければならず、堕落当時の事を悔い改めなければなりません。それでは、私たちが目指すべきものは何ですか? 失われた本来の親です。失われた本来の主人、失われた本然の父親を探さなければならないという心情を感じられた人には復帰の道が開かれるでしょう。
そんな者達が、そんな群れが、そんな動きがこの地上にいる子供を求めて迷う神様はそのような群れを通って働かれ、被造万物との縁を結ぶためにご苦労される神様はそのような者達を掴んで投入されることを知らなければなりません。
数千年の歴史の道を経て来る中で、「誰がそうだ」とする事実を万民から聞くことができなかった時には、万民を恨むべきであり、歴史の道の中で聖賢たちがようそのまた、意志を持って立ち上がった聖人の言葉の中にそのような内容を見つけることができなかったとしても、神が存在しなくても否定してもよいと言う事です。
人間を救うために摂理される神様は、私たちの人間の中に住み、私たちの人間が神様の中にあることを楽しみにしておられるということです。それでイエス様は弟子に対して「わたしは神様の一人子であり、あなたたちは私の兄弟」と言われました。また「私が行うのは私の思い通りに行うのではなく、父の思い通りに行うことだ。私が望む国は私の国ではなく、父の国です。私が探している人は私の人ではなく、父の人です。私が住みたい場所は私の家ではなく、父の家です。私が誇ることができる国は私の国ではなく、父の国だ」。それから「天は父です。地は母である」と言われ、人類に対して「私は新郎であり、あなたたちは花嫁」と言われました。
堕落の世界で苦しむ私たちは、罪ある事自体を悔い改め、これに憤慨しなければならず、堕落当時の事を悔い改めなければなりません。それでは、私たちが目指すべきものは何ですか? 失われた本来の親です。失われた本来の主人、失われた本然の父親を探さなければならないという心情を感じられた人には復帰の道が開かれるでしょう。
そんな者達が、そんな群れが、そんな動きがこの地上にいる子供を求めて迷う神様はそのような群れを通って働かれ、被造万物との縁を結ぶためにご苦労される神様はそのような者達を掴んで投入されることを知らなければなりません。
数千年の歴史の道を経て来る中で、「誰がそうだ」とする事実を万民から聞くことができなかった時には、万民を恨むべきであり、歴史の道の中で聖賢たちがようそのまた、意志を持って立ち上がった聖人の言葉の中にそのような内容を見つけることができなかったとしても、神が存在しなくても否定してもよいと言う事です。
人間を救うために摂理される神様は、私たちの人間の中に住み、私たちの人間が神様の中にあることを楽しみにしておられるということです。それでイエス様は弟子に対して「わたしは神様の一人子であり、あなたたちは私の兄弟」と言われました。また「私が行うのは私の思い通りに行うのではなく、父の思い通りに行うことだ。私が望む国は私の国ではなく、父の国です。私が探している人は私の人ではなく、父の人です。私が住みたい場所は私の家ではなく、父の家です。私が誇ることができる国は私の国ではなく、父の国だ」。それから「天は父です。地は母である」と言われ、人類に対して「私は新郎であり、あなたたちは花嫁」と言われました。
続く
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