人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集7(1,2)

2024年11月30日 16時42分14秒 | 学習


イエス様の死は「生きながらの別れ」であったと私は思います。それは生き別れです。ですから、私たちの先祖、信仰の先祖たちは何一つ誇るべきものを持っていないのです。イエスを殺したことは選民としての本分ではありません。イエス様が歩むべき道はそのような道ではありませんでした。それは生き別れの道ではなかったのです。


この地上には、イエスの生涯を奪った死の恨みが残っています。だからこそ、神はイエスの死を通して、今なお人間を心情的な理念を通じて導いてこられているのです。ユダヤ民族が世界で勝利することができたのは、一時の心情的な結びつきがあったからです。このようなユダヤ民族が、天的な目標を見据えて進む人々を動かし、心情的な統一を成し遂げていたならば、そこから地上に一つの宇宙観的な内容を備え、人間の心情に深い感動を与えるような主義が生まれたでしょう。そして、ユダヤ民族を通じて一つの世界が必ず成し遂げられたであろうと私は考えます。


しかし、イエスを中心として成し遂げられるはずだったその故郷の国はどこに行ったのでしょうか?どこに行ったのですか?その民族が住むべきカナンの地はどこに行ったのですか?その故郷はどこに行ったのですか?アブラハムが祝福を受け、神の前に祭祀を行ったその地、その神殿はどこに行ったのですか?神が直接統治することができたアダム、選ばれたノアとその家族はどこに行ったのでしょうか?私たちが住むべき、天の安息所となるべき故郷の世界はありません、ないのです。だからこそ聖書では、私たちは孤児のようであり、未亡人のようであると記されています。


金サッカのような人は、放浪者として三千里の山河をさまよいながらも立派でした。立派だったのです。だからこそ、皆さんも人生の旅路においてその姿がどれほど哀れであったとしても、宇宙を歌える感情を持ち、天と共に、万物と共に、その流れる心情が天情と調和する人格者にならなければならないのです。もし私がそのような人に出会っていたならば、たとえ物乞いの缶を持って歩くことになったとしても、精一杯その人をお迎えしたでしょう。


私たち人間は、悲しみの歴史を繰り返し、自らを縛り、傷つけ、自己崩壊を繰り返してきました。それはノアの時代にも、アブラハム、モーセ、そしてイエスの時代にも同じでした。それでは、今日の歴史の終末時代において、人間の運命を解決し、人間が自らの使命を果たし、生命の道を切り開いていかなければならないというこの時に、神は人類をどのような方向に追いやろうとしておられるのでしょうか?イエスの時代には、故郷の国を取り戻すために人類を追いやりましたが、これからは神が望まれる故郷の世界を築くために人類を追いやっておられることを私たちは知るべきです。


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探し求めるべき故郷の世界、その世界を建て、治めるために万王の王が来られると言われています。その方こそ、私たちが待ち望む主です。人生の旅路で倒れることがあっても、故郷の国を探し求めるために引き寄せられ、命を失う者がいるなら、その国が建てられるとき、その者は忠臣であり功臣として名を残し、天によって称えられることは間違いありません。だからこそ、かつてパウロもすべての社会的な権威を捨て、一人で悲惨な死の道を歩むことができたのです。彼はその一時が来ることを確信していたからこそ、それができたのです。イエス様もその一時が来ることを確信していたからこそ、その道を進むことができました。そして神もまた、その一時が来ることを確信しておられるからこそ、今日までこのような摂理を続けておられるのです。この道を歩むべき人生だと知る皆さんは、自信を持ってこの道を進むべきです。自信がありますか?自信がありますか?


私たちが目指すべき場所は、ノアが探し求めた故郷の家庭であり、アブラハムが探し求めた故郷の地であり、モーセが探し求めた故郷の民族であり、イエス様が探し求めた故郷の国です。神とイエス様が成し遂げようとしているのも故郷の世界であるのに、皆さんはその世界と感情的に共鳴し、縁を結んでいますか?そうでなければ、皆さんには人類歴史の脱落者としての烙印を押される日が来るでしょう。


私たちは故郷の世界が恋しいのです。ノアの方舟も恋しいのです。今日、世界の二大陣営は岩礁にぶつかる瞬間に差し掛かっており、生死を分ける決断を迫られる厳しい局面に直面しています。善悪の出発が一つの起点を通じて始まったことを私たちは原理を通じて学んでいます。善悪が神を基に始まったのであれば、その解決もまた神を基にしなければならないというのが鉄則です。失われたものを探し求めるには、失われた場所に行って探さなければならないのと同じです。


本然の園は理想の園です。それは、互いに与え合い、通じ合う世界であり、兄弟の感情が万宇宙のどこにでも通じることのできる世界でした。今日のように、民族的な感情や国家の主権的な違いを持ち出して議論するような理想や主義の世界ではありません。民族の差別や国家の主権といったあらゆる違いを超えて議論できる世界であり、経済的な状況や文化といった条件の違いを基に議論するのではなく、心情を基に議論する世界でした。


例えば、ある家庭に兄と弟がいて、その兄が大統領で弟が労働者であったとしましょう。その時、兄が弟に向かって「お前は労働者だから家に戻って労働でもしていろ」と言うことはできないはずです。本当の兄であるならば、弟が自分と同じ立場でないことを悔しく思い、彼を高めてあげたいという心情が湧き上がるはずです。それが真の兄の心情でしょう。


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神はそのような家庭的な理念、本然の家を恋しく思っておられるため、全人類もまたそのような故郷の家を恋しく思っているのだということを知らなければなりません。


これが私たちが必ず到達しなければならない運命的な歴史の解明点であり、人間的な解明点であり、摂理的な解明点であるならば、その視点と基準が自分とどれほど異なっているのかを問い直すべきです。その違いが大きければ大きいほど、私たちは大いに嘆き悲しまなければなりません。そのため、こう祈るべきです。


「神様、哀れな私をお許しください。私は何も知りませんでした。歴史の流れを知りませんでした。歴史が目指す摂理の方向と目的を知りませんでした。人生の歩みがどれほど混乱しているかを知りませんでした。歴代の預言者や先祖たちの苦しみや歴史的な内的心情を知りませんでした。そして、私たちが信じるイエス様が歩まれた道も知りませんでした。神様が進まれた道も知りませんでした。知らなかった罪をどうかお許しください!」と。そして、「知っていても赦されるべきではないのに、知らなかった私はなおさらお許しください!」と訴えるべきです。


人間は無条件でそうすべきです、無条件で。それゆえ宗教では「高慢は敵だ」と教えています。「高慢になるな。自分を出すな。自分自身が敵なのだ」と言っています。それは、私たちが彼らに負い目のある存在だからです。このような心情で静かに目を上げて自分を見つめ直すと、恐ろしい現実を感じることでしょう。そのような歴史的な心情を持ち、天と共に何かを感じ取るとき、恐怖が込み上げてきます。歴史的な悲哀、悲運の幕が張られているのを見ると、身体が震えるほどの衝撃を受けるのです。


そのような山場を乗り越えてこられた父なる神。そのような山場に直面して命を落としながらも、その国、その世界を恋い慕い、その世界の自由を求め、幸福を求め、平和を求めて戦い続けてきた預言者や先祖たちがいます。それが私の考えです。今日の私、今日の私たち、今日の統一教会が反対を受けることは当然だと思います。


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それでもなお、この道を切り開かなければならないという確固たる信念のもとで、「迫害なら来るがいい」と言える度胸を持たなければなりません。イエス様もイスカリオテのユダの一団の前に毅然とした姿で現れ、その堂々たる態度に彼らは頭を垂れました。イエス様は「来るなら来てみろ」という姿勢を見せられたのです。どれほど困難なことがあっても、心情を通じてすべてを超えることができます。そうではありませんか?


たとえ悪党が親子の愛を妨げようとしても、それを妨げることはできません。愛は何らかの意識的な啓示によって感じるものではなく、自動的で自然な感情として感じるものです。そのような感情が感じられる場があるならば、そこには悪魔がどれほど侵入しようとしても侵入できません。もし邪魔をすれば、悪魔自身が大変なことになるのです。悪魔が消え去るのです。人生の旅路でそのような感情を感じる人が天国に行くということです。


私たちは故郷を求めてもがき続ける人生の旅路を歩んでいます。イエス様はこうおっしゃいました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通してでなければ、父のもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)。しかし、ここにもう一つ付け加えられるべき言葉があります。それは『わたしは愛である』という言葉です。この言葉をイエス様はおっしゃらなかったのです。


ですから、ここに「神よ、私は愛であり、真理であり、道であり、命である。私を通さなければ神に出会うことはできない」と言える確信を持つ人、天の心情を通じることのできる人が現れるならば、その人を指して「お前はこの地で天を裏切った者だ」と裁きの座に引き出すことはできないでしょう。神はそのような息子娘が地上に多く現れることを待ち望んでおられます。それが、私たちがイエス様を高く見る理由でもあるのです。


私たち統一教会の信徒たちは、人生の旅路の中で荒れ狂う波に翻弄されながらも、天を探し求めてここまでたどり着きました。私たちには、自分の身体を委ねる場所、自分の心を委ねる場所、自分の心情を委ねる場所が必要です。本然のエデンの園においてアダムが万物の主人公であったならば、万物は彼に対してどう思ったでしょうか?すべての万物はアダムに向かって『どうか私たちの主人になってください』と言う存在であるべきだったのです。


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神はどのようなお方なのでしょうか?なぜ私たち人間が『神様、神様!』と呼ぶのでしょうか?それは、神がすべてのものから『私たちの主人になってください』と求められる立場にいらっしゃるからです。そうでなければ、理想的な主観を得ることができるでしょうか?


今日の人類は『私のすべてをあなたに捧げますので、神様、どうか私たちの主人になってください』と言える存在でなければなりません。そのように言える歴史、そのように言える摂理、そのように言える人格を確立した者であるべきです。そして、もし皆さんがそのような方と地上で出会ったならば、『私の身体を、私の心を、私の心情をどうかあなたが導いてください。私の主人になってください』と訴えるべきです。その時、万物もまたその方を待ち望んでいた主人として迎えたいと思う心が芽生えるでしょう。皆さんはそのような存在にならなければなりません。


今日の私たち統一教会の信徒たちが、真理を通してそのような身体となり、そのような心となり、そのような心情となれば、たとえ世間がどれほど反対しようとも、この真理が世界を支配する日が来るのです。そして、その日が来れば、この真理は世界を支配するだけでなく、それを超える影響力を持つことでしょう。


今、皆さんが「ここにいたい」「ここに住みたい」「ここに行きたい」と思う場所があるならば、それが本然の居場所であるはずです。その場所にいる家族や仲間たちは兄弟姉妹です。会わなければ会いたくなり、傷を負っていればその傷を抱きしめて涙を流すことのできる心が湧き上がらなければなりません。皆さんはそうなるべきです。仲間の誰かが傷ついたなら、その胸を抱えて涙を流すことのできる人間でなければなりません。


私たちの故郷の家とはどのような場所でしょうか?それは、お父様が私を抱きしめて涙を流してくれる場所です。主も共に涙を流してくださる場所です。心情の縁を一片も欠けることなく、同伴者として、友人として、あるいは新郎として接してくださる天の存在、それがありがたく、畏れ多いお言葉です。


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不甲斐ない自分を抱きしめて涙を流してくださる主、そのようにしてくださる父、それを思うとただ畏れ多いばかりです。その愛によって、人生の旅路で受けたすべての傷を忘れることができるでしょう。このように考えると、どうしようもなく圧倒的な父の愛を賛美する感情が先立ちます。それがなければ、天国に行くことはできません。そうではありませんか?


皆さん、学期の初めに初めて故郷を離れた学生たちは、学期の終わりになると故郷が恋しくなるでしょう。その心が純粋で本然の心情であるならば、どれほどの苦労をしても故郷に帰り、母や兄弟姉妹の手を握りながら涙を流し、自分のこれまでの苦労話を夜通し語り合える、そんな場所や村、山河を懐かしむはずです。


復帰の恨みを解消できていない私たちが人生の旅路を歩む中で、「ああ、主よ!お父様!」と叫ぶ瞬間に、天地万物が喜びの中で「その通りです!ハレルヤ!」と歓声を上げるような瞬間があったでしょうか。皆さんにはそのような瞬間が必要です。それがなければ、天は悲しみと哀れみの立場に置かれざるを得ないということを、皆さんは知るべきです。


皆さん、幸せな人とは、抱きしめて涙を流してくれる人がたくさんいる人です。子どもが素晴らしいというのは何故でしょうか?それは、親が困難に直面し、涙を流すときに一緒に泣いてくれるからです。そうではありませんか?また、親が喜ぶときに一緒に喜んでくれるからです。そのため、悲しみも喜びも共に分かち合える人がいる人は幸せなのです。


皆さん、友人を誇りに思ってはいけません。自分のために死ぬときに涙を流し、悲しみを共にするのは難しいことです。それができるのは親です。そして天もそのような存在です。


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私たちが進むべき道の理念を担う指導者や教団的な責任者がいるならば、その人は羊たちのために涙を流し、号泣し、哀れみの心を持つことができなければなりません。羊たちが自分のすべての事情をその指導者の前で打ち明け、その指導者によって喜びや悲しみ、怒りや楽しさの感情が豊かになるとき、その人々は真の牧者に出会った幸せな人々であると言えるのです。そのような天がいるからこそ、私たちは天を慕うのです。


ですから、今日の私たちは人生の旅路の中で疲れ果てた身体であっても、勝利の内容を持って現れるとき、歴史上のすべての聖人、賢人、そして天が歓喜して迎えてくれる日が来るということを知り、その日を栄光のうちに迎えるべきです。そして、その日を感謝し、その日に自分のすべての過ちを忘れることができ、待ち望んだ願いをすべて成就することを願いながら進むべきです。そのように進む人こそが、今日、道の道を歩む人々であることを皆さんはしっかりと認識すべきです。




<祈り>
お父様、招かれた道が容易いものだと思い進み始めましたが、それが困難な道であることを知りました。喜びの道だと思っていましたが、進むにつれて涙の峠がいくつもあることを知りました。


お父様、私たちに悲しみがあるならば、あなたを抱きしめて悲しみを分かち合いたいのです。人間を抱きしめて悲しみを分かち合うならば、失望することが多いことを知りました。そして、人を信じて進むと傷つくことを知りました。


変わることのない方は父なる神様であられました。お父様を抱きしめて泣いた時間がどれほど幸福な時間だったのでしょうか。そのためにイエス様もお父様を抱きしめて涙を流すための道を求められたのでしょう。


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今日ここに集まった統一の家族は、教派や形式が問題ではありません。お父様を抱きしめて涙を流すことのできる人々であり、人生の旅路が悲しく孤独であるからこそ、人類の前にイエスを立てて先にこの道を切り開かせた父の心情を理解し、父のために涙を流すことのできる真の息子、娘になりたいと願っています。


私たちが悲しいと嘆く前に、お父様が苛酷な鞭を受け、激しい迫害を受け、すべての不条理を耐え忍んでおられることを知るならば、どうして私たちが父の前で自分を弁明できるでしょうか?父の前では自分中心で悲しむ条件はないということを知ったのです。ですから、今日ここにいるあなたの息子娘たちをどうか憐れんでください。


故郷を目指す旅路がどれほど哀れで、悲運で、不幸なものであるかを知りました。お父様、私たちが自分を抱きしめて泣く前に、お父様が先に泣かれたことを知りました。私たちが打たれる前に、お父様が先に打たれたことを知りました。私たちが苦しむ前に、お父様が先に苦しまれたことを知りました。私たちが痛む前に、お父様が先に痛まれたことを知りました。そして、私たちが倒れる前に、お父様が先に倒れられたことを知りました。


これを知り、お父様に向かって言葉もなく進み続けるしかない自分自身を発見しながら、天の前で頭を垂れて「お父様」と呼ぶことのできる息子娘たちを、天はどれほど待ち望まれたことでしょうか。今日のこの言葉を通して、私たちの心にそのような感情が湧き上がることを許してください。そして、この国に対して、世界に対して、天に対して、そのような感情が湧き上がることを許してください。


そのような感情が湧き上がってこそ、個人から全世界的な理念圏に至るまで、自信を持った信仰を持っていると言えるのです。また、自らの理念を立てるための最高の心情を持つ天の立場に立つことができると知っています。そのような環境の道を切り開いていけるように、私たちの心を奮い立たせてくださいと、切にお願い申し上げます。


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今日のこの御言葉を通じて、これまでの人生の旅路で悲しみに暮れていた自分を省み、真の幸せに浸って生きることができるようにしてください。そして、自分の一身が天と結ばれている縁を高く評価し、謙虚に頭を垂れながら父の栄光を高めることのできる子女となることを許してくださいと、切にお願い申し上げます。


すべてをお委ねいたしますので、この者たちの命とその全生活、また彼らが持つすべての理念に至るまで、父の心情に背くことがないように、導き、統治してくださいと切に願い、主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。





先生の「言葉選集」7巻 - 2. 父と私(1959年7月12日)
1959年7月12日(日)、前本部
ヨハネの福音書 14:1-19


<祈祷>
お父様! 30年以上の生涯、イスラエルの選ばれた民であることを誇りに思うユダヤの民を相手にしなければなかったイエスの心は、その民に平和と自由を実現させようという心情が消え去っていたことを、私たちはかすかにでも思い出にはいられません。


4千年の間、一人息子のために努力された父は、イスラエルの民とともにの苦悩の歴史を歩まれてきました。そして流れられた血と汗の跡は、イスラエル民族の歴史に深く刻まれています。



そのように苦労な苦労をなさり、血と汗が流れなかったのに、その当時のイスラエルの民が天と関係を結ぶことができなかったという事実は、無限に近づいて、心を痛いことこの上ありません。


今日の私たちは、過去の歴史の中で地上に来られたイエス様の存在を知り、信じています。しかし、その当時、イスラエルの民に追われ、迫害されていた悲惨なイエス様、ある村から追い出せば別の村へ、この町から追い出せばまた別の町になってしまったイエス様とその心情を知り、信じる者は誰もおりません。表されたイエス様の姿を正しく知る者は、歴史上においても見出すことができないのでございます。


メシアを待って待っていたイスラエルの民は、メシアを迎えるというを迎え、数千年間耐え忍び、戦い続けてきました。そして、メシアがいつ来てもかかと切に待っていました。その希望のしるしが現れたとき、彼らは自分の事情や置かれた環境に執着するあまり、天の心情を理解することができず、深い眠りに落ちてしまったことを、私たちは思わずにはいられません。


このような悲しみを嘆くべき歴史があったことを振り返りながら、今日、私たちには、父なる神の心に深く刻み込まれた覚悟を晴らす責任があるとするならば、来られたイエス様を認めるなかったイスラエルの罪過を、私達が知って背負い、我慢して出来るよう協助してください。


イエス様は、悲しみに満ちた30年以上の生涯を送られました。 特に、その中でご自身の全てを尊重された3年間の公生涯がありましたが、その期間において、誰がイエス様また、誰がイエス様の置かれた苦しい状況を真に知っておきましたでしょうか。 残念ながら、誰一人としておりませんでした。


師が死の道を歩むことを案じ、切なる心情で天にすがりつつ祈りを求めるべきであった弟子たちが、実に『イエス様とは一体誰なのか』と問い返すような状況になりました。そのような状況の中で、3年間の御業が無駄に終わったと感じられたはい様の心情は、争いの悲しみと悲しみに満ちていたことでございます。 もし対立があるとすれば、これ以上の悲しみが他にもあるのでお願いします。 また、心が裂けるような痛みがあると「もしそうだとしたら、これ以上の痛みがどこにあったでしょうか。


奇跡を行われたイエス様を崇拝し、仰ぎ見て敬うことのできるクリスチャンはお控えください。しかし、迫害され、踏みつけられ、押しのけられたイエス様のその足跡に寄り添い、その道をたどりながら生きようとするクリスチャンはほとんどありません。


お父様、哀れみ深いイエス様の心情を抱き、その心に寄り添って立ち上がることのできる息子娘達がこの全世界の中から多く現れよう私達は血の涙を流しながら願わずにはいられません。


生きていて、歴史の中で全てを操り導いておられるお父様、私たちに静かに進むべき道を示してくださることを心より感謝申し上げます。


お父様、どうか私たちが過去のイエス様をただ懐かしむ者に留まることなく、この時代に生きるイエス様を証し、その使命を担いながら歩む者となることができますように。御心に誓うために努力し、決意しながらも真実にその道を追い求めていけるよう、私たちに力をお与えください。

今、私たちが、かつて父なる神様のもとへ向かわなければならなかったイエス様の深い心情を理解し、その心情の前に謙虚にひれ伏すことができるようお考えください。喜び、切に望まれたことが仮にあるなら、それを実現できる者となれるよう私たちに寛容を与えてください。


2千年前、全人類の生命問題を解決するために深く苦しみましたイエス様の心情に接し、その心情と一つになれる息子や娘となれるよう、お父様、心からの願い切に求めます。


死の世界の中で孤独な心情を抱え、もがきに立ち会いながら集まったあなたの息子娘達、今座っているその場で深く悔しい思いをしてもできるようお許しください。生命の力を与えてください、過去のすべての誤りを否定し、天と新しい縁を結ぶことができるこの時にお与えくださいますよう、お父様へ心からの願いを求めます。


お父様、人間に直接語りかけたいと願われるその御心は、今後切実で深いものでお願いします。 、私たちの心の扉を開き、身体のすべての感覚を新たに、お父様の世界にあるすべての真実を体験させてください。そして、あなたの深い心情を慕い求めることができるようにしてくださいください。


どうか、私たちが善なる御旨に浸りながら心から父なる神様を呼び求め、御言葉によって新たに在り、再創造されるという恵みと喜びの時間をお与えください。切に願います。


お父様! この一時が無駄にならないよう、どうかお導きください。喜怒哀楽を感じる時には共にその心情を感じられるように、またお父様の前で敬虔になる時も同じようにその思いを共有できるようにしてください。


集まった人々は多くとも、この者たちが一つとなり、一つの祭壇、一つの生ける供え物となることができますよう、心から切に願います。


この日も、全人類を代表して尊敬される数多くの祭壇に祝福をお与えください。 そして、困難な状況の中で、心から切実にあなたの隠れた息子娘がいれば、それは深い心に寄り添い、相談相手になってください


さらに、彼らと恵みの縁を結んでください、彼らが命の解決点まで先に進むことができるようにお導びきください。


残された時間も主管して下さいます様にお願いいたします。すべてをお父様に委ねますので、この時間が悪魔に奪われる時間とならないようお守りください。


主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン


<御言葉>
今日、皆さんと考えようとする御言葉のタイトルは「父と私」です。これをもっと大きく言えば「父と私たち」「神と人間」になります。 「父と私」このようなタイトルを持ってしばらくお話しします。


世の中に悲しいことがある時には、子どもが愛する親を失った以上に悲しいことはないでしょう。また、親が愛する子を失った以上、悲しいことはないでしょう。


キリスト教では、人間は堕落したと言っています。それは、現社会を見たり、追及して解明してみるとき、視認しなくてはならない事実です。これは、あらゆる罪の原因となって今日のような結果の社会を築いたと推測することができます。ある曲折が原因となって持って今日の結果的な社会になり、その結果的な歴史路程の上に私が立っていて、その結果的な私自体で悩んでいるという事実を私たちは否定できないでしょう。


悲しみの中で一番大きな悲しみは何でしょうか? 失ってはいけない親を失うことになってしまう悲しみ、失われた親を探す悲しみ、これ以上大きな悲しみがないと思います。親や子どものいない悲しみ、それ以上大きな悲しみは無いと考えることができます。


人類は堕落しましたが、ここには人間と天が介在しています。またそこには、いかなる理念とも一致しない私が介在しているという事はありえません。人間が堕落したことを認めるならばと、堕落と言う事は相対的な関係を確立しなければ不可能であるという事実を否定できないでしょう。わたしが良いと感じなければ良いからです。こういうのが一つから全体まで関係を結んでいるのです。


私たちにとって、いかなる事情によってかもたらされた出来事は多いかもしれませんが、心情に絡まっている問題はただ一つのことです。それは人類が両親を失ったことです。両親を失い、神様が子供を失うことで壊れた縁を再び見つけなければなりません。失われた縁を再び結び、失われた喜びを再び探しだし、失われた幸福を再び見つけなければならないことが、まず最初に私たちが解決しなければならない重要な問題でしょう。


それでは、罪悪歴史であることを知っている私たち、罪の世界に住んでいることを認める私たち、自分の心と体の戦いで悩んでいる私たち、このすべては何で解決されるのか? 解決できずにいます。いかなる理念や観念的な信仰でも解決することはできません。その心情の世界は前後がなく、上下がなく、始まりで終わりであり、終わりで始まりと言えるところです。


人間の悲しみは何ですか?堕落によってエデンで真の主人を失ったのは悲しみです。その縁を失ったのが悲しみです。


私たちを創造した創造者はどんな人ですか? 私たちの心の主人であることはもちろん、私たちの理念や私たちの感情世界の主体格、主人格に立つことができる方であり、さらには私たちの心情の主人であり主体となる方です。私たちには、これらの神が絶対に必要です。私たちの意識や認定によって観念的に必要ではなく、絶対に必要です。そんな主人を失ったのが悲しみです。


絹の主人だけでなく一歩進んで神様はどんな格位におられるのかと言うと、人間の父親としておられます。天地を造られた神様が人間を創造して、主人としてのみおられるのではなく、父親としておられます。「私はあなたがたの父親です」これが父親の生活の中心であり、理念の中心であり、神様が人間を創造された目的であったことを私たちは知らなければなりません。


キリスト教徒は神を父と呼んでいます。父の前に息子娘の姿で立たなければならない人間が堕落し、貧しいお世話になっています。人間を息子娘と呼ぼうとするその父はどんな境遇であり、息子として立つべき人間の姿はどのような形をしているのか。父と呼べる息子と呼べる環境と境遇になっていません。息子が父を呼んでも「来るか、息子。」できず、父が息子を呼んでも「はい、父」と答えることができない曲折の巻内に落ちているこれが堕落です。


この寒い名詞を蹴るために下ってきたのが歴史路程であるのです。神様がいらっしゃるなら、その恥ずかしい名詞を踏んで、これを取り除くために戦って出てくるのが彼の仕事でしょう。


このように考えると、父と呼ぶのは簡単ですが、実体的な父として存在するのは難しく、認識的にはその父親を敬うことができますが、実体的に私のためにおられる父を祀るのは難しいのです。


これは魚人軟膏利尿? 堕落した軟膏です。堕落したため、このような立場に落ちたということです。こういう環境で苦しんでいる私たちですが、このような場でそれでも死なずに生きると戦っている私であることを認めるようになったとき、私とその父親との間隔がどうしても不透明でわからないと感じられます。


私たちは、この世界を造ることができるどんなリーダーがこの地上に現れるのかを楽しみにしなければなりません。この通りを埋め、平らな道を敷くことができる世界的なリーダーが現れるのを楽しみにしておかなければなりません。そのリーダーは私の肉的リーダーだけではなく、私の心情のリーダーだけではなく、私の心身のリーダーであるべきです。彼は時代によって変わる指導者ではなく、革命的な内容だけを内包した指導者ではなく、永遠絶対的な指導者でなければなりません。


皆さんがそのような指導者を考えることもできませんでした。占いの前に自分がどのような立場に立ったのか評価してみなければなりません。


堕落した人間にも感謝の気持ちがあります。このような縁を再び結ぶことができる一人が出てきたならば、これは神様の歴史的な恨を解くことができる方でしょう。


人類を滅ぼそうとするのが天の意ではなく、彼らに生きる道を求めてくれる様に責任を負って貰い、天が摂理の意を立ててくる。この気持ちが出なければならないということです。歴史を数えてみると、これは否定できない事実です。


堕落の世界で苦しむ私たちは、罪ある事自体を悔い改め、これに憤慨しなければならず、堕落当時の事を悔い改めなければなりません。それでは、私たちが目指すべきものは何ですか? 失われた本来の親です。失われた本来の主人、失われた本然の父親を探さなければならないという心情を感じられた人には復帰の道が開かれるでしょう。


そんな者達が、そんな群れが、そんな動きがこの地上にいる子供を求めて迷う神様はそのような群れを通って働かれ、被造万物との縁を結ぶためにご苦労される神様はそのような者達を掴んで投入されることを知らなければなりません。


数千年の歴史の道を経て来る中で、「誰がそうだ」とする事実を万民から聞くことができなかった時には、万民を恨むべきであり、歴史の道の中で聖賢たちがようそのまた、意志を持って立ち上がった聖人の言葉の中にそのような内容を見つけることができなかったとしても、神が存在しなくても否定してもよいと言う事です。


人間を救うために摂理される神様は、私たちの人間の中に住み、私たちの人間が神様の中にあることを楽しみにしておられるということです。それでイエス様は弟子に対して「わたしは神様の一人子であり、あなたたちは私の兄弟」と言われました。また「私が行うのは私の思い通りに行うのではなく、父の思い通りに行うことだ。私が望む国は私の国ではなく、父の国です。私が探している人は私の人ではなく、父の人です。私が住みたい場所は私の家ではなく、父の家です。私が誇ることができる国は私の国ではなく、父の国だ」。それから「天は父です。地は母である」と言われ、人類に対して「私は新郎であり、あなたたちは花嫁」と言われました。


続く


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御言葉選集7(1)

2024年11月30日 16時40分21秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 7 - 1. 故郷を探し求める人生の道
1959年7月5日(日)、旧本部教会


ルカの福音書 15:11-32


1


<祈祷 (Ⅰ)>
死の影の中でもがいていた私たちが、父なる神を慕う心でこの日に再び集いました。どうか私たちの心が父なる神の心に留まることができますようにお許しください。そして、私たちの心と体が父なる神のものとして動けるようにしてください。


父なる神は、無限の労苦をいとわず、時代ごと、世紀ごとにわたり、私たちの祖先たちと共に歩んでくださいました。どれほどのご苦労をされ、祖先たちの道を切り開いてくださったことでしょうか。それにもかかわらず、私たちの祖先たちは天の労苦の功績をないがしろにし、父なる神の心に心配を抱かせる恥ずべき姿をしていたことを、どうかお許しください。


祖先たちが犯した罪が永遠の恨みとして残っていることを私たちは知っています。そして、その悲しむべき堕落の行いによって、6千年もの間、数多くの人類を苦難の中に陥れたことも知っています。私たちは、父なる神の御心を裏切り、嘆き悲しませた歴史的な祖先たちの堕落した心を、再び受け継いでしまうのではないかと恐れています。私たちは、堕落から生じた恨みの峠を越え、祖先たちが残した恨みを踏み越えて進まなければならない時に生きています。どうか今、私たちの心が父なる神の御心に捕らえられることをお許しください。そして、私たちの体が父なる神の体に代わることのできる、栄光のひとときをお与えくださるよう、心から切に願い求めます。


誰が父なる神の御心に一つになり、涙を流して訴えることができましょうか?誰が父なる神の事情を代わりに背負い、戦うことができましょうか?この地上には多くの人々が住み、多様な人類の姿が見られます。しかし、父なる神が胸に抱える事情と御心について相談し合う相手となれる場所も地域も人もなく、そのために嘆きと悲しみの歴史を繰り返してこられた父なる神のことを知る者はほとんどいません。私たちは、このような哀れで無念な父なる神の内なる御心を知っているゆえに、今日、心を開き、事情を打ち明け、すべてを父なる神のものとして接ぎ木する時間を持たせてくださいますようお願い申し上げます。


父なる神よ、私たちのすべてを赦すことのないこの時間を与えてくださり、ただ父なる神と一つに接ぎ木された場所で喜びを享受できる姿となることを、この時間、誠心誠意をもって父なる神の前に訴え求めざるを得ません。


2


この日、愚かで至らない私たちが天を慕い、ひざまずきました。私たちの哀れな事情を知っておられる我が父なる神よ、悲惨な環境の中で共に戦い、支えてくださった父なる神よ、今日、私たちは心を一つにして父なる神の御前にひれ伏しました。どうか私たちを受け入れてください。私たちは父なる神のものとならなければならず、父なる神の御前で導かれなければならないことを知り、心を尽くし、想いを尽くして父なる神をお迎えするために、長年の苦労の道も厭わず歩んでまいりました。そして、困難で苦しい峠道も耐えて越えてきました。


このような道を耐え忍んできたのは、父なる神との縁の歴史を残すためでした。今日ここに集った私たちは、父なる神が探し求める者を無視せず、敵をも排除せず、求める者を友の立場に立たせるために御苦労されたことを知っています。父なる神よ、今日私たちは心を尽くして求めたいと願います。誠意を尽くして探し求めたいと願います。すべてを捧げて父なる神との絆を結びたいと願います。どうか私たちを憐れんでください。求める心を満たし、探し求める願いを叶え、叩く扉の事情を聞き届けてくださいますよう切に願います。


今、足りない私たちが父なる神の御前で待ち望むことがあるとすれば、それは父なる神の御心と共に喜びを分かち合うひとときを持つことです。それこそが私たちの唯一の願いであり、私たちのすべての財産であり、私たちの全生命であることを知っています。父なる神よ、この時間、集まったあなたの息子娘たちを憐れみ、どうかお守りください。


父なる神よ、私たちが進むべき生命の道をお示しくださり、導いてください。今日まで困難の中で私たちを耐えさせてくださり、迫害の中でも耐える力を与えてくださり、倒れそうになる場面でも恨みを残さないように歴史を通じて私たちを支えてくださった父なる神であることを知っています。今日、再び自分の誠意と心情を父なる神に捧げるために集まったあなたの息子娘たちがたくさんおります。どうか彼らの心に直接働きかけてください。そして、彼らの心情の上に再び父なる神が御臨在し、彼らの生命に天の生命が接ぎ木されることをお許しください。


今、心に深く刻まれた恨みを抱きながら、敵に立ち向かって戦わなければならない最後の使命を果たす時が来ました。父なる神よ、どうかあなたの力を現してください。生命の権威を持って私たちの前に現れてください。


3


私たちが死を覚悟して父なる神の恨みを解き放とうとするならば、愛の原則を備えて進むことができるようお許しください。そして、生命の主の御前に立ち、敵に立ち向かい戦う勇士となることができるようにしてください。そのようにして、復帰されたエデンの園において、この地上の多くの生命が私たちを見て生きる希望を見出せる生命の基準を備えた子女となれるようお許しくださることを、心から切に願い求めます。


今日まで信じてきた自分自身の信仰を悔い改める心、自らの行動を振り返り悔い改める心、自分が抱いていた希望を反省し後悔する心、自分自身の内なる心情を笑い飛ばすことができる心をお与えください。そして、自分自身のすべてを否定し、父なる神のものとしてすべてを結びつけ、父なる神を呼び求める栄光の場へと私たちを導いてください。父なる神よ、心から切に願い求めます。


父なる神よ、三千里半島を憐れんでください。この地は歴史を通じて多くの民族の前で蹂躙された地であり、敵たちに踏みにじられた地でありました。この地の三千万の民族が血に染まった歴史の恨みを抱いていることを私たちは知っています。父なる神よ、この民族の心情の上にあなたの心情が重なり、この民族の事情の上にあなたの事情が重なり、この民族が望む希望があなたの希望と結びつくように導いてください。私たちが苦しい過去を恨むところに留まらず、目の前に迫る天の時を迎えるために心配し、訴えることができる息子娘となれるようお許しください。愛する父なる神よ、心から切に願い求めます。


父なる神よ、天的な歴史が残されており、多くの民族に代わってこの民族を探しに来られた父なる神の足跡が、嘆きと悲しみによって引き返される日が訪れないようにしてください。この地が悲しみの恨みを残さず、この民族がそのような悲しみを抱えないようお許しください。父なる神よ、心から切に願い求めます。


眠りについている27億の人類は、父なる神がそれぞれの心に灯をともして幸福をもたらす時を準備しておられることを知りません。この人類を目覚めさせなければならない使命が私たちにあり、人類の複雑な事情を解決し、新しい理想天国を建設しなければならない使命、福祉を築く使命が私たちにあることを知っています。今日のこの至らない、不完全で不足した私たちがひざまずき、恐れ多く申し訳ない心を抱いています。この時間、訴える心情を通じて、天上から驚くべき恩恵をお与えください。父なる神が現れてくださり、そうでない心情をすべて取り除いてくださり、私たちのすべてが父なる神のものとして結びつけられ、父なる神が私たちを『あなたの後継者だ』と認めてくださる時間となりますよう、心から切に願います。


4


父なる神よ、ソウルに残っている家族たちと地方から集まった家族たちが、あなたの御前に新しい祭壇を築こうとして集まりました。どうか、あなたの幼い息子娘たちを憐れんでください。語りかけ、慰めたい言葉は多くあれど、語ることができない事情をお知りください。悲しい時も天の御心のために、孤独な時もただこのひとつの目的のために、迫害される時もこのひとつの目的のために、落胆する時もこのひとつの目的のために、追われ、追い詰められる切ない心情を父なる神の御前に訴えるしかない事情を抱えた息子娘たちがここに集っています。


今日、心を開いて父なる神と語り合い、すべての事情を父なる神の御前に打ち明け、解決することができるようにしてください。困難だった事情をすべて父なる神の御前において、父なる神が喜ばれる姿となり、『たとえ自分が死んでもこの道のために純粋な生ける供え物となります』と再び誓えるこの時間となるようにしてください。父なる神よ、心から切に願い求めます。


言葉だけで天の御心が成し遂げられるのではなく、誠意だけでも成し遂げられないことを知っています。御心に深く触れ、天のために歌うことのできるその心を懐かしく思います。すべてを忘れ、天のために夢中で走り回るその姿を懐かしく思います。そのような懐かしい心情を抱き、父なる神の栄光を歌えるひとときと場所があるならば、恐れ多い心情で頭を垂れたいと思います。どうか、私たちのこの切なる願いと切なる心情をご存じくださり、この時間、私たちのもとを訪れてくださるよう、父なる神よ、心から切に願い求めます。


どのような道であれ、実際に通ったことのない者はその道を知ることができず、体験していない者の言葉には命がないことを知っています。この民族が悲惨な境遇に追いやられていることも、父なる神の哀れみ深い御心を知らせるためであることを私たちは知っています。孤独な場におられ、悲しみの中にいらざるを得ない父なる神の御事情を知っており、私たちを迫害の場に置かざるを得ない父なる神の無念さと嘆きの御心を知っています。


今日、私たちの心が父なる神のものとなるよう、どうか私たちの心に訪れてください。私たちの心情に父なる神をお迎えし、共に涙を流すことのできる存在となりたいと願い、この場に来ました。過去を悔いるのは父なる神を知ったからであり、過去の出来事が無念に感じられるのも父なる神を知ったからです。そして、私たちが悲しむのも天を知ったからに他なりません。父なる神はどのような状況であっても私たちを受け入れなければならず、私たちは復帰の恨みを残した歴史を恨むべき立場にあります。このような自分自身を悟り、今日も明日も懸命に走り続け、天だけを頼りに進むことができるよう導いてください。父なる神よ、このような私たちの事情を誰よりもよく知っておられることを信じています。この日、すべてを忘れ、自らの心を束ねて父なる神の御前に捧げる、生ける捧げ物となることができるようにしてください。


5


この日、地方に散らばり、ひれ伏して訴えるあなたの息子娘たちの心に、新しい生命の贈り物をお与えください。そして、彼らを荒れ果てた地のような場所へ送り、生命の灯をともすことができるようお許しください。光と栄光の灯として現れる礼拝のひとときとして受け入れてくださることを、父なる神よ、心から切に願い求めます。


事情はそれぞれ異なっていても、父なる神の働きによって同じ心情を持つことができるようにしてください。心情が異なっていても、父なる神の働きによって同じ心情に結びつけてください。父なる神よ、このひとときを導いてくださり、父なる神のもの以外のすべてを取り除いてください。そして、三位一体が喜ぶひとときとして整え、あなたにお捧げすることができるようお許しください。すべての言葉を主の御名によってお祈りいたします。アーメン。




<祈祷 (Ⅱ)>


父なる神よ、私たちが祈りを捧げる前に、私たちの心情をご存じであることを信じています。このひとときが、父なる神が直接臨在される時間であることを知っています。天が私たちのすべてを注視している時間であることを、私たちが感じることができるようお許しください。


労苦に満ちた歴史の道を歩まれた父なる神よ、どうか今日、私たちの目の前に現れてくださり、新しい御言葉で私たちを飾り整えてください。新たな心情で私たちに向き合ってくださいますようお願い申し上げます。不忠なすべてを一掃し、幼子のような心で私たちのすべてをこのひととき、父なる神の御前にお捧げしたいと願います。世の中に染まった一切の意識や主義、観念を父なる神の御前に差し出し、幼子のような心、柔和で謙遜な心を持つことができるようお導きください。父なる神の御手によって再び形作られることを受け入れる謙虚な心を整え、御前にお捧げしますので、どうかお受け取りください。三位一体の神がこの場を導いてくださいますように。


悪魔的な要素を持ち、天に逆らう要素として残るものを、どうか一切お許しにならないでください。勝利の盾を備え、悪魔が侵略する場とならないようにしてください。


6


天の軍勢と天使たちに囲まれる中、喜びの心情でこのひとときを礼拝するこの場が、すべての生命を勝利へと導く祝福の祭壇となるようにしてください。心からお願い申し上げます。


すべてをお任せいたします。私たちの持つすべての主義と心情を父なる神の御前にさらけ出せるようにしてください。そして、私たちのすべてが父なる神のものに変えられるひとときとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。アーメン。






<祈祷 (Ⅲ)>


この時間、頭を垂れるあなたの息子娘たちを憐れんでください。この場で誰が指導者となり、誰が天の御言葉を代行できるでしょうか?この者たちは、父なる神以外の誰も現れることを望んでいません。どうか、父なる神ご自身が直接現れてください。心情を通じて天を体験させてくださり、感じずにはいられない父なる神の御事情を理解することができるようお許しください。また、父なる神の御前で悔い改めずにはいられない心情を持つことができるよう、どうかお働きください。


人間同士が集まる場では、解決しようとしてむしろ絡み合ってしまうことが多いですが、天を中心に集まる場では、心のしこりが解けることを知っています。罪深い子孫のせいで絡み合ったすべてが、根本から解かれる蕩減の歴史、悔い改めの歴史、感動の歴史によって、私たち自身を振り返り、過去を悔い、新しい日を憧れる深い心情を引き起こしてください。そして、その心をしっかりとつかみ、もう一度自らを悔い改める再創造の歴史が起こることを、この時間どうかお許しください。心から願い求めます。


これから御言葉をお伝えしようとしています。この時間、集まったすべての者たちの上に、父なる神の愛と守りの御手を広げてください。語る者の心も聞く者の心も、心情の帰一する一点で動くことを求めます。今日、私たちは身体だけの幸福を望んでいるのではなく、ただ心だけに執着して生きることも望んでいません。ただ、心情をかけて永遠に生きることのできる楽園を望んでいます。日常生活の中でも、心情的な縁のひとつの条件が各自の心の深くから沸き上がり、心情の奥深くに根差す縁が結ばれることをお許しください。父なる神よ、切に願い求めます。


7


父なる神よ、これまであなたの愛する息子娘たちにお与えくださった御言葉は多くあります。この御言葉を中心として心を一つにし、責任と使命を果たすことこそが私たちが進むべき道です。どうか父なる神よ、私たちと共にいてくださり、その歩みの道が遮られることのないよう守り導いてください。この御言葉を通して、父なる神の内なる心情にふさわしい結実を得ることができるようお助けください。さもなくば、与えられた御言葉によって天の御前に後悔を残す息子娘となるのではないかと恐れる者となることを許してください。父なる神よ、切に願い求めます。


この日は聖なる日です。すべての人々の上に祝福の恩恵をお与えください。御心を代わりに担い、心情を抱いて天の御前に訴え、隠れた祭壇を築き祈る息子娘たちが多くいることを知っています。どうか彼らにも祝福をお与えください。また、天の孤独な心情を抱き苦しむ者、蕩減的な解怨の日を待ち望む霊界の多くの霊人たちも、私たちと関わりがあります。父なる神よ、彼らのためにも私たちを通じて良い結果をもたらしてください。


三位一体の神が私たちを取り囲み、見守り、待ち望むその心情の基準に私たちが不足しているならば、その責任を満たさないまま父なる神を呼ぶことのないように導いてください。私たちの責任が満たされた場で「父なる神よ」と喜びを持って呼ぶことのできる者として、この時間私たちを立ててください。そのような恩恵を持たないならば、幼子のように柔和で謙遜な心を持ち、父なる神の憐れみと慈悲の心情を引き寄せる息子娘となれるよう、この時間導いてください。心からお願い申し上げます。


この日、地方に散らばる家族たちにも祝福をお与えください。多くの命が天の時を憂い、訴えています。どうか彼らの前にも生命の恩恵を許してくださいと、切に願い求めるこの時、すべての祈りを主の御名によってお捧げします。アーメン。






<御言葉>


皆さんと一緒に考えてみたい御言葉の題目は、「故郷を探し求める人生の道」です。「故郷を探し求める人生の道」という題目でお話しいたします。今日の御言葉は、そのような内容になります。


8


現在、この世界の人類は平和を切望しています。それだけでなく、自由を享受する個人となり、自由な社会、自由な国家、自由な世界で生きることを、誰もが望んでいます。


私の心に平和がなく、私の心に自由がなければ、真の幸福は存在し得ません。真実の人生の道を歩みたいと願う人がいるならば、その人は真の平和の中で真の自由を謳歌し、真の幸福を享受したいと望むことでしょう。


では、皆さん自身と真の人生の道を歩もうとするこのような理念的な条件を比較してみると、どのような立場にいるでしょうか?これが対立しているのか、それとも一致しているのかをはっきりさせるべき時が、終わりの日ではないかと考えます。


今日、優れた人もそうでない人も皆口をそろえて、この世界は平和な世界ではないと言っています。自由を叫んでいますが、心の底から自由を感じて生きられる環境ではないことを認めています。そのため、私たち人間は理念的に望む幸福な自我にはなっていないという事実を否定することはできません。


このような自分、このような私たち、このような社会、このような世界、そしてこのように歩んできた歴史の道、このように歩んでいる現実について、私たちはあまりにもよく知っています。


9


これを認めるならば、私たち自身は、自分が喜びを見出せる故郷の世界で生きているわけではなく、自分が幸福を謳歌できる故郷の園で生活しているわけでもありません。また、自分が考える通りに動き、主導できる本来の世界で生きているわけではないということに、誰も反論できないでしょう。


それでもなお幸福を願い、平和と自由を望まなければならない私たちの心の動きが、自分自身を急き立て、環境を急き立てているという事実を、皆さんは日常生活の中でよく感じていることでしょう。


このように内面的にも外面的にも、私たち人類が望む故郷の世界はまだ実現しておらず、人類がその世界で生きることもできていないため、今日の私たち人類は故郷を求めて彷徨い、苦しんでいるのです。このような状況にある人類であることを、私たちは明確に知らなければなりません。そのため、優れた人であっても故郷を求めて苦しみ、そうでない人もまた同じように苦しんでいるのです。


人間の姿をしているすべての存在は、誰であれ故郷への道を求めてさまよう歴史的な思想の潮流から抜け出すことができていないという事実を、この時間、皆さんは感じるべきです。


そこで今回は『故郷を探し求める人生の道』という題目でお話を進めたいと思います。


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これまでこの地上には、聖賢や賢哲たちが現れ、人々に人生の進むべき道を教えてきました。「このように進みなさい」あるいは「このような主義の中で生きなさい」と方向性を示してくれたのです。その中には、哲学が目指す方向性もあれば、ある権力者が掲げた理念による道もあり、また社会的な倫理観を通じて示される道もあります。さらに外的な世界を引き込んで、そこに永遠の理念を結びつけようとする宗教的な方向性も存在します。大きく見ればそのような道があり、小さく見れば「個人を中心に進むべき道」「家庭ではこうすべき道」「対人関係における在り方」といった方向性もあります。


しかし、これらすべては、全体的で天宙的な理念が目指す幸福の時を準備するために動く位置にあるべきです。そのような位置に立つことができなければ、それらすべては天倫を明らかにし、天の御心を完全に立てるその日には、必ず天倫に違反する立場となるのです。


では、宗教が進む道、倫理を中心とした道、あるいは哲学が目指す真理の道において、どのようにして幸福の世界を紹介し、平和と自由を見つけるべきでしょうか?


人間の心情は、誰もが同じです。数千年前に抱かれていた心情も、億千万年後に現れる心情も変わりません。心情の世界には進化がありません。


同じ基盤で動く心情を引き出し、幸福の園を築くことができる世界、幸福を感じられる社会的基準、幸福感を味わえる宗教的意識、そのようなものがこの地上に存在しないのでしょうか?もし存在しないと断定するならば、神はどこにいらっしゃるのでしょうか?そのような場合、その神は人類と共に存在することができないという結論に至るでしょう。


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しかし、人類を抱えながら摂理を進め、倫理と道徳を立てて善を目指すように導く天倫があるならば、天は必ず私たちと関係し、結びついたすべてを明らかにしてくださるだけでなく、さらに男性も女性も誰であれ、これを心情的に肯定できる日が来るはずです。そのような場において調和し共鳴しながら、この幸福が私たちの幸福であり、この平和が私たちの平和であり、この自由が私たちの自由であると、声高に語れる時が訪れるべきなのです。それがなければ、神も、どれほど偉大な思想家であっても、私たちとは何の関係もないという事実を知らなければなりません。


私たちが人間を分析する際、内面と外面の両方から分析することができます。同様に、社会の実情を見極める際にも、表に現れる社会の組織と、表に出ていない計画された組織があるということです。このように、すべてのものが内と外の両面から展開されているのです。


人間も同様です。人は外的な事情を持ちながら生きると同時に、内的な事情も抱えて生きています。そのため、お互いに内外の事情が通じ合い、同じ立場で心と心が通じ合い、幸福を歌える環境が必要です。そして、その環境を求めて彷徨うことが、私たちの人生の道のりであると言わざるを得ません。


これまでの歴史の過程で、多くの聖賢や賢哲たちが現れては去っていきましたが、自分の人生の道を歌いながら勝利的なスローガンを掲げ、「万民よ、このように進め」と訴えた人は一人もいませんでした。また、「私を頼りにし、私の心情と共に、私の愛と共に、このように生きなさい」と言った人もいなかったのです。


イエス様も愛について語られましたが、愛を中心とした幸福観、愛を中心とした平和観、愛を中心とした自由理念については解き明かすことができませんでした。「私についてきなさい、私を信じなさい、私を見つめて進みなさい」とおっしゃいましたが、ご自身の心情を明かし、「私の心情と共に天の情を中心として歌いながら生きよう」とはおっしゃいませんでした。


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そのため、時代を超えて多くの先覚者たちが歴史上に現れましたが、心情を中心に幸福を享受できる内容を紹介することはできませんでした。また、天の心情と通じる自由と平和の世界観を中心として、世界を和合させる喜びの内容を提示することもできなかったのです。


それでは、人類が切望する場所とはどこでしょうか?先ほど申し上げた通りです。それは「故郷の世界」、すなわち一度そこに行けば永遠に戻りたいと思わない世界、何度見ても飽きることのない世界、一度感じた感触が永遠に消えない世界、笑いがあれば永遠に笑い続けられる世界。その世界で主人を見つけたなら、その主人を決して手放したくないと思える世界です。そのような場所が存在しなければなりません。


そのような場所こそ、心情を持つ人間一人一人が住むべき場所であり、そのような故郷が人類歴史の終末期において紹介されるべき場所です。それがなければ、今日のこの世界はどれだけ収拾しようとしても収拾がつかないということです。すべてを説明できるような理念や主義を、論理的観点から打ち立てる必要がある時代が近づいているという事実を、皆さんは理解しなければなりません。そのため、私たちは永遠に生きられる故郷の世界、故郷の地、故郷の兄弟、故郷の家族、故郷の親戚、そして故郷の園を懐かしく思うのです。


では、今日、皆さんの中で『私はそのような故郷を見つけた』と断言できる人がいるでしょうか?いません。だからこそ、私たちは必然的にその故郷を探し求めなければならない運命にある存在なのです。


イエス様もこの地に救い主として来られ、『私についてきなさい』とその道を示されましたが、『私と共に暮らそう』と言える故郷の園を築き、それを実現してから去られたわけではありません。神もまた、人類を導いてこられましたが、今日のこの場で『私と共に暮らそう』とおっしゃるのではなく、『私たちが切望する故郷の園に行き、共に住もう』と言われ、そのような摂理を進めておられるのです。


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神がそのようにされたように、また神の子であるイエス様がそのようにされたように、この地上に生きる今日の私たち一人ひとりも、同じ運命に置かれているのです。


故郷を望みながらもがき歩んでいる皆さん、その日を迎え、喜びを感じたことがあるでしょうか?その日を迎えて『私は幸せだ』と歌った人がいるでしょうか?そのような人は今まで一人もいませんでした。神はそのような日を楽しむことができたでしょうか?神もまたそうではありません。では、その日を迎えさせてくれるような主義があるでしょうか?それもありません。天もそのような日を楽しむことができなかったのです。それが天地の現実なのです。


ゆえに、天地の運命を逃れることができない良心を持つ人間は、共通の目標と理念の下で方向を見つけていく過程の心情を体験することになっています。そのため、皆さんも進めば進むほど幸福への想いは切実になりますが、幸福そのものは皆さんから遠く離れ、さらに遠ざかっていくことを知らなければなりません。皆さんが自由や平和、幸福を心から切望し、それを目指して懸命に進んできたとしても、実際にはそれは掴もうとしても掴めない遠いところで、ぼんやりとしたものとして皆さんの心の世界に映っているだけなのです。


ここで私たちは、どうしても進まなければならない過程の現実を乗り越え、幸福の故郷を歌える存在となる必要があります。そしてその後に、万物と共に調和し、共に歌い、共に幸福を分かち合えるその日を迎えなければなりません。それが歴史の目的であり、どのような宗教があってもその宗教の目的です。また、創造主が存在するならば、その創造主も同じ目標の下で人間を導いているのです。そのような摂理の範囲から外れることのできない人間である以上、どのような個人であっても同じ方向に進まざるを得ないのです。


優れた人もそうでない人も、皆が同じ人生の道を歩んでいるこの状況の中で、皆さん、自分が優れていると誇らないでください。その環境が良いと自慢しないでください。その持っている力が強大であると誇らないでください。それらを持ってしても人生の道を解決することはできませんし、故郷の世界を解決することもできません。なぜなら、今日の人類が目指している方向性は、人間によって作られたものであるため、それでは解決されることがないからです。このことを知る必要があります。


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天がこのような立場で摂理を進めてこられたとしても、道理や真理の面で私たちに方向を示してはきましたが、心情を中心として私たちの進むべき方向を教えてはくれませんでした。心情の面で、実生活の中で実感できる幸福、日々の生活の中で肌で感じられる平和と自由を示してはくれなかったのです。そのため、神の摂理は人間にとってこれらを遥かな希望の一点として見上げさせるものとなっていたのです。


このような運命から逃れることができない私たちの立場において、優れた人もそうでない人も、悲しい時も嬉しい時も、一日の生活の中で自由があるかもしれません。あるいは一年の生活の中で感情の自由があるかもしれません。そして、生涯において生活の感情的な自由があるかもしれません。しかし、自分を中心として流れている歴史的な心情、生活、理念、価値観においては、皆同じです。天はそのように見ているでしょうし、そのように見なければならないのです。


だからこそ、この人を見ても哀れに思い、あの人を見ても哀れに感じるのです。この哀れな人類を前にし、その哀れな自分自身の姿を教えることができる人が必要な時代が来ました。「自分自身の哀れさを嘆け、自分の哀れな姿を見て涙を流せ。天と地を抱えて泣け。自分が歩む道の終着点はどうなるのか?移り変わる環境の結果がどのような内容を持ち、目的地に到達するのか?」このような問題を解き明かし、「自分自身のことを憂いなさい」と言える指導者が現れるべき時が来たのです。


これまでの歴史時代において、革命的な新しい文化を創造していく過程で、時代を越え、世紀を越えて、新しい理念、新しい目標、新しい幸福、新しい自由、「新しい」とされるさまざまなものを持ち込んできた多くの人々は、時代の壁を越え、哀れな自我を解き明かすために努力してきました。しかし、彼らはその時代に影響を与えた使命者であり、特定の時期や時代に必要とされた使命者に過ぎませんでした。


今日の時代は、新しい世界的な主義の時代です。ですから、今こそ世界の人類を取りまとめ、世界人類の模範となるべき存在が必要です。そして、「あなたたちは行くべき場所を知らず、立ち止まっていることを悲しみなさい」と訴える存在が現れる必要があるのです。


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イエス様は2000年前にこの地に来られ、ご自身が神の子であると語られました。しかし、その時、選ばれた民として誇っていたユダヤ人たちは、4000年という長い歴史の中で数多くの預言者の恩恵を受けてきたにもかかわらず、待ち望んでいたメシアが現れたことに気づくことができませんでした。そして、イエス様を十字架に送った後になって初めて、彼がメシアであったことに気づき、悲嘆に暮れる立場に追いやられたのです。


それでは、イエス様を救い主と呼びますが、彼は当時の人類の前でどのような救い主であるべきだったのでしょうか?「あなたたちの悲しみを私が引き受けよう」と自信を持って言える救い主であるべきでした。そのためにイエス様はこうおっしゃいました。「すべて疲れた人、重荷を負った人は、私のところに来なさい。私はあなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)これは感謝に値する、素晴らしい御言葉です。その一言は、人類にとって偉大な先覚者の言葉でした。


悲しい心情を抱え、焦燥感を持ちながら自分自身を解き明かそうと努力している若者たちが、この一言を聞いたならば、手を高く挙げてその前に進み出るでしょう。そして、「2000年前に来られて御言葉を残してくださったイエス様、ありがとうございます。イエス様を通して御言葉を授けてくださった神様、ありがとうございます」と感謝するでしょう。また、この精神と思想の流れから生まれた御言葉に対しても感謝を抱くことでしょう。


今、私たちには、この世界を担い、この民族を担い、そして心情の問題を引き受け、その重荷を解き放つことのできる一人の主人が必要なのです。このような背景があるために、イエス様は再び来ると約束して去られたのです。


イエス様がこの地に来られて成し遂げられなかったことは何でしょうか?それは、人類のすべての十字架の重荷を引き受けるために来られたにもかかわらず、人類の心情的な重荷を引き受けることはできなかったということです。そのため、今日、全世界の人類は心情的な重荷をイエス様のもとに再び委ねることを願いながら、『主よ、どうか早くおいでください』とイエス様を待ち望んでいるのです。


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だからこそ、歴史的に悲惨な環境に置かれている自分自身、私たちが生きているこの世界、そして流れゆく歴史に対し、「あなたたちの悲しみを知りなさい、あなたたちの哀れな姿を知りなさい、あなたたちの切なさを知りなさい。そして、こうしなさい」と語りかける何かが必要な時が来たということを知るべきです。


私たちは未知の人生の道を歩んでいるため、どこへ向かっているのか、どうなるのか分からないという恐怖が内在する世界の中で生きています。では、私たちが進む道の目的地はどこでしょうか?その道がどのようなものなのか、説明することができないまま、私たちは人生の道のりを歩んでいます。無鉄砲に引きずられるように進んでいるのです。しかし、その道中で岩にぶつかるのか、それとも崖から落ちるのかを知りながら進むべきです。皆さんがそのような状況に直面したら、どのような気持ちになるでしょうか?心がかき乱されるでしょう。


皆さんの中には、40年、あるいは70年、80年の人生を歩んできた人がいるかもしれません。「私は幸福を見つけ、幸福だ」と自慢する人がいるかもしれません。しかし、このような人生の道を突破した人は一人もいないでしょう。だからこそ、私たちは皆、哀れな存在なのです。


それゆえ、私たちは自分のこの哀れな状況をつなげ、世界と通じることのできる哀れな状況を抱えた方を探さなければなりません。また、自分に何か孤独があるなら、その孤独が世界と結びつき、何とも言えない息苦しさやもどかしさが心の中に深く刻まれているなら、その切ない心情が世界と通じる場を探し出さなければなりません。そして、それらすべてを解き明かし、私の不幸、私の哀れさ、私の孤独、私の恨みを引き受けてくださる方を見つけなければなりません。さらに進んで、私が待ち望んでいる理想の世界を紹介してくださる方、幸福と平和と自由の世界で永遠に感じたかった心情を満たしてくださる方、その心情が永遠性と結びつき、存在するすべてのものと共に堂々と幸福を生み出すきっかけを与える主体となる方に出会えたなら、その人は人生において成功者と言えるでしょう。


悲しい世の中でそのような一時を感じ、体験させてくれる方こそ、イエス様であり、神でなければなりません。私はそれを信じ、知っています。そして、今日の皆さんも、自分が「知っている」と思って歩んでいるその足跡を見直し、避けて通れない時期を乗り越える秘訣を教えてくれる方を見つけなければなりません。


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そのためには、自分が置かれている状況を通過し、自分の抱えている希望の基準を超えて事情を理解し、心情を整理できるだけでなく、その内容的な問題を解決してくださる神であって初めて、安心して信頼することができるのです。


また、そのような心情の理念を備えて歩むことで、苦しい人生の旅路で悲しみに直面しても、その心情の世界から生まれる感情を抑えることができるのです。どれだけ打ちのめされても、さらに強くなり、天を裏切ることのない何かがあるならば、それは心情の絆から生まれる何かであり、それがある限り、地獄の最深部に追いやられても征服されることはないでしょう。そのような場所が必ず存在しなければならないのです。神が人間に対して摂理を進められる方向は、そのただ一つの場所、すなわち本然の園を目指しているのです。


このように、歴史を支配する神の摂理は、数多くの曲折を経てその基準を定めてきました。そして、それに従うべき人間もまた、多くの苦難を経て初めてその基準の前に立つことができるのです。それは、存在するすべてのものが目指すべき一点として、存在世界の中で位置づけられているということを私たちは知るべきです。この道を歩まなければならない私たちは、哀れな存在です。


「故郷」と聞いて、皆さんは何を思い浮かべますか?故郷には必ず愛する親がいて、愛する村があり、愛する家があり、愛する兄弟姉妹がいます。私たちが故郷を離れて遠く異国に行くとき、その故郷の範囲は広がり、祖国、つまり国そのものが故郷となります。また、宇宙や天宙という観点から見るならば、この世界全体が私たちの故郷になります。このように、視野が広がれば広がるほど、故郷の範囲も比例して大きくなっていくということを、皆さんはさまざまな生活の中で感じていることでしょう。


それでは、私たちが望む「本郷」とはどのような場所でしょうか?皆さんが「ここが私の故郷だ」と言うような場所ではありません。本郷、心の本郷とは、心が喜びを見出し、心情の安息所となる場所、心情世界の巣となる場所です。このことを知るべきです。


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私たちは神が人間を探し求める過程を「救いの摂理」と呼んでいます。天が私を見つけ出し、人類を見つけ出すというのなら、私は神にこう言うでしょう。「状況的な条件ではなく、心情的な条件によって私を見つけ出してください」と。それはなぜでしょうか?状況というものは千差万別であるのに対し、心情には唯一の条件しかないからです。このことが、真の信仰観を求める人々の姿勢ではないかと思っています。


イエス様はおっしゃいました。「天国はどこにあるのか?あなたの心の中にある」と。では、自分の本当の本郷はどこにあるのか?それは生活の中ではなく、心の中にあります。天国は心と縁を結ぶことのできる歴史的な背景があるため、私たちは心を通してその本郷を懐かしむのです。心に感じる感情と共に、断ち切ろうとしても断ち切れない縁が絡み合っているため、その本郷が懐かしくなるのです。だからこそ、私たちの人生の旅路において、本然の心と縁を結ぶことのできる本郷の生活を送らなければなりませんし、本郷の園を感じなければならないのです。


では、そのような場所、今日私たちが住んでいるところではない、歴史が望んできた真の幸福の園とはどのような場所でしょうか?また、真の平和と真の自由を紹介できるその本郷には、誰がいるのでしょうか?考えてみてください。その本郷には誰がいるのでしょうか?そこには、偉大で尊厳に満ちた神がおられるでしょう。また、私たちが待ち望んできた主がおられるでしょう。そして、聖霊がそこにおられるでしょう。また、歴代の摂理史の中で現れて去っていった多くの功臣たちもそこにいるはずです。そうではありませんか?さらに、世界中の誰とも比べることのできない忠臣たち、そして孝子や孝女、節婦たちがそこにいるでしょう。しかし、皆さんが心の縁を広げ、理念的な感覚を持たないならば、その世界と縁を結ぶことはできないのです。


だからこそ、堕落した人生の道を歩む哀れな人間たちに対して、多くの聖賢たちは三綱五倫などの倫理を教え、モーセは十戒を示しました。また、多くの道を歩む者たちも、その一端を切り開くために努力してきたことは間違いありません。しかし、人類が故郷への道を進む上で、心の畑(心田)を開発する使命を持たない指導者、そのような宗教、そのような倫理、そのような理念は、この宇宙から退場させられるでしょう。退場しないと言っても、神が退けるでしょう。


皆さんは故郷を懐かしみ、その故郷を探し求めています。私たち人間が具体的な存在として、遥か彼方の故郷を目指して進んでいるとするならば、皆さんはその旅路のどこかの地点にいるでしょう。地獄の最底辺から天国の最果てまで、その道のりとは何か?それは故郷を探し求める道のりです。この道が故郷を探し求める旅路であることを知るべきです。


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もし皆さんの中に、70歳、80歳になり老いを感じている人がいるならば、自分自身を振り返って、「私は故郷の園からどれほどの距離にいるのか?」ということが心配の中の心配であり、憂慮の中の憂慮であるはずです。それでは故郷とはどのような場所でしょうか?それは、その場所を訪れた人を喜びの腕を広げて迎え入れてくれる場所です。その場所が懐かしいのです。


故郷を探し求める旅路では、不当な事情や痛ましい出来事、あるいは耐えがたい立場に立つこともあるでしょう。しかし、故郷を求めて進む者である以上、そのような事情は必然的にあると理解している人ならば、その道を引き返すことはないでしょう。そして、先祖たちが築いてきた歴史的な功績を無視することもできないでしょう。また、私たちの人生の道を切り開くために努力している指導者たちの功労も無視することはできないでしょう。


私たちは進むべきです。年を重ね、体力が衰える前に進むべきです。私たちは人生の旅路を切り開かなければならない存在です。ここで問われるべきは、「変わらない毅然とした姿勢を持ち、心情と心の中心を備えているか」ということです。この問いこそが、今日の皆さん自身が立ち向かい、答えなければならない中心ではないでしょうか。イエス様もこれを指摘して、『天国はあなたの心の中にある』とおっしゃいました。


本郷、それは懐かしい両親がいて、懐かしい兄弟がいて、懐かしい山河がある場所です。私たちが本郷を懐かしく思い、そこを目指して進むならば、喜ばない存在物は一つもない場所です。その場所を目指して歩む自分自身を振り返ると、「今日の私の生活は何と哀れなのだろう」「今日の私の人生の道は何と惨めなのだろう」と感じることでしょう。しかし、本郷を目指して進む道中である以上、無念さがあり、悔しさがあり、涙を流しながら生死を分ける決断をしなければならない瞬間があるとしても、本郷を想うその心を忘れて倒れてはいけません。これが私たちの人生の道であることを忘れてはならないのです。


すべての聖賢たちは、本郷を目指す道中で心と理念の世界をさまよいました。彼らはその世界を見つけるために、まず人間的な事情をすべて捨て、人間社会で情によって結ばれていたすべての環境さえも断ち切り、もがき続けました。私たちの先祖たちを挙げるまでもなく、天を代わって歩んだ預言者や聖賢たち、さらにはこの問題を解決し本郷を探し当てることを目標として来られたメシアであるイエス様も、この道を歩むために苦しみ抜きました。


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イエス様は、反対されて押しのけられていたわけではありません。反対や迫害が恐ろしくて静かな山河を訪れ祈りに逃げたのでもありません。ローマの圧政が怖くて、十字架の道が恐ろしくて、自らが歩むべき人生の道を引き返そうとされたのではありませんでした。イエス様は、必ず行かなければならない人生の旅路において、どのような状況においても進み続け、どれほど哀れな立場に置かれても進まなければならないと覚悟された方でした。


イエス様は、このように本郷の心情を感じ、本郷の事情を理解された方でした。そして、本郷が歓迎する主人公としての役割を果たさなければならないメシアだったのです。ですから、イエス様は本郷が懐かしくなればなるほど、その心の世界で本郷の世界が近づいていると感じれば感じるほど、悲惨な心情を耐え忍んで歩み続けられたのです。もし敵や悪魔がいるとするならば、この道を進む過程で最終的な決戦があることを私たちは知らなければなりません。


だからこそ、故郷への道を目指さなければならない世界的な新しい理念世界に直面している民主陣営の前には、望まない敵の槍や剣が立ちはだかることでしょう。しかし、それがどれほど妨げとなったとしても、民主陣営は天と地の運命の方向に従い、勇敢に進まなければなりません。


したがって、今や民主陣営は世界的な決断を下さなければなりません。一つの国家も決断を下さなければならず、民族や社会の機関だけでなく、一個人もまた決断を下すべきです。そして、故郷への道を進むにあたり、自信を持てる姿を備えなければなりません。天もそのような人を求め、またそのような家庭、社会、国家、そして世界を求めてきたことは間違いありません。


私たちが待ち望む再臨の日が来るとしましょう。理想が実現するその日が来るとしましょう。その日はどのような日でしょうか?傷つき、追いやられ、疲れ果てた足を引きずりながら、天の情を求めて故郷への道をもがきながら歩むその姿を見て、天はどのように対応するでしょうか?


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皆さん、考えたことがありますか?私はこんなことを考えました。「哀れなお父様が笑顔になれるその一瞬を見たい。私が慕い、しがみつきたかったその心情を理解し、私を抱きしめて共に涙を流してくれるお父様に会いたい」と。その時、その心はどのようなものになるでしょうか?


人生の道を歩む中で、他の誰よりも悲惨な環境で傷を受け、不当な扱いを受け、無念さを感じながら、それでも自分のためではなく、父のために、故郷を求めてその道を歩み続ける人がいるならば、天はその人を抱きしめて共に慟哭するでしょう。


私たちは故郷を求めて彷徨っています。進まなければならない運命の道のり、避けて通ることのできない過程にとどまっている存在です。どれだけ自分が賢く、優れていると豪語する人がいたとしても、『万民よ!全宇宙よ!私の言葉に従え』と堂々と言える人がいないことを私たちは知っています。


では、今日、この人生の旅路で故郷を目指す足をどこに向けるべきでしょうか?そこは、真実の愛の父母がいて、真実の愛の情を分かち合える巣のある場所です。その場所が、私たちが留まるべき場所であり、私たちが安息を得るべき場所です。また、その場所が、幸福と希望に満ちた平和の世界であり、自由の園となるでしょう。皆さんがその場所を慕う心が強くなればなるほど、この地に対する怒りや憤りの心が大きくなるでしょう。そして、『地上において清らかに生きよう』という決意が強まるはずです。過去の歴史的な偉人たちは、皆そのように生きた人々でした。


今日でも、世間では失った親を探すために千里の道を遠いとは思わずに駆けつけ、愛する人に会うために万里の道を厭わずに探し求める人がいます。そのような人々に比べて、もし皆さんが故郷の園を探す思いに欠けているならば、反省しなければなりません。皆さんの人生の中で、ある時、ある一瞬、ある一期間でも、故郷の道を探して彷徨ったことがありますか?もしそのような思いに無責任であるならば、そうではいけません。


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その道に責任を持ち、その道に責任ある生活の一部を刻むことができてこそ、故郷の歴史を再創造し、故郷の摂理の意図を立てていく天倫の前に、面目を立てることができるのではないでしょうか?そのように歩んだ先祖たちは歴史的な人物となり、そのように歩んだ道主たちは宗教を形成することができたのです。ですから、今日の私たちも故郷の父母を慕い、故郷の山河を懐かしみ、故郷の家庭を恋い慕い、故郷の世界を懐かしく思わなければなりません。そのような時が訪れたのです。


今日の共産主義者たちは唯物史観を中心として世界的な故郷を夢見ていますが、それでは解決できないということです。


皆さん、外的な事情が通じる世界ではなく、内的な心情が通じる世界で出会った人は、その人が黒人であれ白人であれ黄色人種であれ、永遠に手放したくないと思うものです。そのような世界の人に出会い、そのような場所の人を見つけたなら、食べることや着ることを超越して、その感情の中で生きることができるでしょう。


どのような理想主義があるとしても、その主義を通じて、またどのような思想があるとしても、その思想を通じて、どの程度まで感情に深く影響を与え、人を動かす力を持つかによって、その主義や思想が評価され、判断されるのです。


キリスト教の偉大な点は、イエス様を信じた後に心情をさらけ出し、涙を流して通じ合える感情が湧き上がるところにあります。この感情が歴史の過程においてキリスト教の形態を変革してきたのです。キリスト教が変革の段階に入るためには、心情を通じる人が必要であり、また、その人が変わらない心情の中で動くことのできる感情、すなわちキリスト教主義が必要だったのです。


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どのような思想家でも、ある思想に感化され、自分の生活感情を支配し、瞬間を超え、時間を超え、永遠を基準として動くことができる感情を見つけたならば、彼は幸福な人と言えるでしょう。それは天地の歴史観において合格者であり、天倫を動かす天情観においても合格者であると言えます。


ですから、世界的な理想世界を求めて歩む人がいるとすれば、その人は地上の心の世界に安住することはできないのです。歴史を越えて進む旅路において、その人は安らかな生活を送ることができません。偉人たちの人生を見てみてください。すべて同じです。


このように考えると、霊界におられるイエス様もまた哀れな方です。霊界におられながらも地上を抱えて『お父様、地上の人間たちをお許しください』と祈られる哀れな方です。なぜイエス様が神に栄光をお返しする存在ではなく、祈り続ける存在であるのか。それは、地上で歩むべき人生の道をすべて歩み切ることができず、再び来られる運命に置かれているからです。だからこそ、天国ではなく楽園にとどまっておられるのです。


イエス様は神の御心を中心としてご自身だけの心情の中でその喜びを感じることはできましたが、人類と共にその喜びを分かち合うことができなかったことが、イエス様の深い恨みなのです。


では、再臨のその日は何が異なるのでしょうか?それは、神の御心を中心として、人類が自らの心情と共に天に対して喜びを感じる時間を持つことができる点が異なるのです。このことを求めて歩んでおられるのがイエス様の事情であることを、皆さんは知るべきです。


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では、今日の皆さんは、自分の心の世界の中でそのような面を探し求めたことがありますか?『私はたくさん学び、知識が豊富だ。この程度であれば、どこへ行っても困ることはなく、教師として尊敬され、威厳を示すことができる』と自負する人がいるかもしれませんが、大きな声で誇らないでください。


また、『私は学がなく、無知でみじめな存在だ』と言う人がいるかもしれませんが、人生の旅路においては皆同じです。優れていようと、そうでなかろうと、差はありません。


なぜでしょうか?人間が心情を基盤にして動くという点では、皆同じだからです。大統領が子どもを愛する心と、一介の労働者が子どもを愛する心は何ら変わりありません。むしろ、立場の低い人々の方が子どもや配偶者を愛する心が強いことを知るべきです。彼らは自分に対して不足していると感じる心がより強いのです。自分が親としての務めを果たせていないから申し訳ない、夫としての責任を果たせていないから申し訳ない、という心を持っています。しかし、自信満々の人々は、『私はやるべきことをすべてやっている』と言います。


心情的に見たとき、どちらがより高い心情と言えるでしょうか?むしろ立場の低い人々の方が、より高い心情に立つ可能性があるのです。ですから、人生の旅路において誇るべきではありません。


そうした点で、皆さんはその縁と共に、本来の心情と共に、何かを感じ取り、『ありがとうございます』と感謝しなければなりません。イエス様もそのように歩むようおっしゃいました。また、いつも祈りなさいともおっしゃいました。なぜ、常に祈りなさいとおっしゃったのでしょうか?それは、道を外れてしまうかもしれないからです。昼も夜も確信を持って正しい道を歩める人には祈りは必要ありません。祈りは必要ないのです。


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イエス様がゲッセマネの園で祈り、オリーブ山を訪れて孤独な心情を天に訴えたのは、何のためだったのでしょうか?それは、イエス様がこの地に来られた目的である心情を中心に、人類と共に喜びを分かち合うことができたならば、ゲッセマネの園を訪れ、天に訴える必要はなかったでしょう。しかし、それが実現しなかったのです。どうしてそのようなことが起こったのでしょうか?


故郷を求めて歩む人生の旅路において、自分自身に確信を持っている人がいますか?もし確信を持ち、心情に浸りながら進むことができる人がいるなら、その人は前に出てみてください。それこそが審判であり、もし神がいらっしゃるならば、審判の日にそのような人を召喚するのではないかと思います。


人生の道を歩む中で、自分に確信を持ち、心情に浸って進んでいった人は、歴史がその人を支持します。イエス様もまた、自分に確信を持ち、神の御心に浸りながら生き、最終的には十字架を背負っていかれました。民族的にも、その民族の運命と進むべき方向を理解し、自分がその責任を果たすために命を賭けて進んだ人々は、忠臣や烈士と呼ばれました。歴史の流れがそのような人々の動きによって進んでいることを否定することはできないのと同様に、天情を求めて進む道もまた同じです。


このような故郷を懐かしく思う心を、誰が止めることができるでしょうか?心から湧き上がるその懐かしさを、誰が抑えることができるでしょうか?どれほど知識を持ち、多くのものを備え、自信に満ち溢れている人であっても、心から心へと新しい何かを目指すこの心を拒むことはできません。


そのような感情を持たない人には、理想的な感情を内包することはできません。そのような感情を切に待ち望み、その感情に浸りながら語る人だけが、今日のどのような主義や思想であっても導くことができるのであり、そうでない人はそうすることはできません。


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では、人類の前に立つ指導者とはどのような人でしょうか?その人は人生の旅路において、自分自身に確信を持つべきです。その確信は、人間の前でだけではなく、神の前で、そして被造物のすべての前でも、自らを立て、神の心情に浸りながら進むことのできる人でしょう。


そのような心情に浸る人がいるならば、誰もがその人のもとに行き、寄りかかって安らぎたいと願うでしょう。そのような内容を備えた人格者がいるならば、誰もがその人を崇拝したいと思うでしょう。それは、本然の心情の発露として、そのような道を進むことが運命であると感知し、その道が必ず進むべき旅路であることを知っているためです。心は常にその方向を目指し、動かずにはいられません。そのため、皆さん、落胆しないでください。そして、誇ることもしないでください。


同じ人生の道を歩む中で、悲惨な姿を見せている哀れな事情を理解し、私たちの同胞がその道で倒れるのを見て涙を流す人は、天に近い人です。兄弟たちが人生の旅路で挫折するのを見て、『お前はいつ来るのか』と心を痛める人がいるならば、その人は心情の指導者でしょう。今日の信徒たちはそのような指導者を、羊たちはそのような牧者を求めています。


そのため、イエス様は人間を見て涙を流されました。『私のもとに来なさい』と涙を流しながらおっしゃいました。また、エルサレムを見て嘆かれました。「エルサレムよ、エルサレムよ、預言者たちを殺し、お前に遣わされた者たちを石で打つ者よ。雌鶏がひよこを翼の下に集めるように、私はお前たちの子らを集めようとしたが、お前たちはそれを望まなかった」(ルカ13:34)と、ご自身の悲しい心情を訴えられました。


今日、この民族を抱きしめたいと願う青年男女はいますか?この民族が進むべき道を切り開き、ある目的地に近づけようとする使命感を抱き、それに対する責任を感じている人はいますか?そのような人がいるならば、その人は、この民族が苦しんでいる現実を見つめ、イエス様が天に向かって訴えながら流された涙が、この民族を支え、今日まで歴史的な縁をつなげてきたという事実を知るべきです。そして、その人もまた、イエス様のように、この民族のために天に向かって訴えなければならないでしょう。


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今日、歴史的な潮流もまた、未来の民族の展望も同様です。人類が天理的な時代を待ち望んでいることを否定できないのであれば、その過程で私たち自身もまたもがき苦しむ存在であることを知るべきです。したがって、自分が歩む人生の旅路において、自分自身に確信を持つ必要があります。それがなければなりません。


その確信を持ち、希望の故郷を懐かしむ心情に深く浸りながら走り続ける人がいるならば、その人はこう言うでしょう。「山よ、遮れ。海よ、立ちはだかれ。敵よ、現れよ。私の進む道を誰が阻むことができるのか?」と。迫害の風が吹いても、それは一時的なものです。試練の矢が飛んできても、それも一時的なものです。死の恐怖が襲ってきても、それも一時的なものと理解し、その一時を乗り越えるために走る人、さらなる大きな一時を見つけるために自分の小さな人生の一時を忘れて駆け抜けることができる人、それこそが人生の旅路における成功者です。その通りではありませんか?


先ほど述べたように、皆さんが歩むその姿を見て、神が涙を流されることが必要です。そして、イエス様が十字架にかけられて亡くなられた時、なぜ神が顔を背けられたのかを知るべきです。それは喜んで顔を背けられたのではありません。死の道を進みながらも故郷の御心を思い、故郷の父母を気遣い、孝行を果たせないことを恐れるイエスの心情、それに対する天の深い痛みが、骨の髄にまで染み渡る瞬間だったからこそ、神は顔を背けられたのです。そうではありませんか?


そのようなイエス、その心情の究極点が天地を貫く基準に立ったため、死の境界を乗り越えて復活されたのです。皆さんも、そのような心情が動かなければ、死の世界を振り払い、勝利の歓喜を歌うことはできず、勝利の王者となることはできないということを知るべきです。


今日、そのような方をお迎えしようと考えるならば、私たちはもがき続けなければなりません。そのような感情、そのような心情に結びつき、それに浸ることのできる一貫した生活内容を持っていないならば、私たちはもがき続けるべきなのです。歴史の旅路を歩んできた多くの先祖たちももがきました。歴史を導いてきた神もまたもがき続けてこられました。それなのに、私たちがどうして動かずにいられるでしょうか。


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その道を切り開くために、イエス様はこうおっしゃいました。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。叩きなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)もし安楽な場所で、すべてが整う天の摂理であるならば、このような言葉は不要ではないでしょうか。


苦しい人生の道を歩んでいく中で、自分では正しい目標に向かって進んでいると思っていても、実際には逆の方向へ進んでいたということです。これが天の悲しみなのです。親が望む方向はこのようなものなのに、子が放蕩者となり、反対方向へ進んで苦しむ姿を目の当たりにする親の心情を知らなければなりません。そのような子どもの姿を見つめる親がいるならば、その親は慟哭することでしょう。


今日、歴史の流れの中で、人間を中心に進んでいく方向、人間たちが進むべき方向は、天が目指している方向ではなく、その反対の方向です。そのため、天はこのような人間たちを引き戻すために、彼らの進む道を阻むことを何度もしてこられました。見てください。神はノアを立てて家庭的な基準を確立し、家庭の正しい理念を探そうとされました。そして、神は人類を滅ぼす覚悟であっても、誤ったすべてのものを阻止し、天が目指す方向にノアの家庭を導こうとされました。しかし、ハムの失敗によってその家庭を完全に取り戻すことはできませんでした。


アブラハムはどうだったでしょうか?故郷を探し求めるために選ばれたノアも哀れな存在でしたが、祖国の地、カルデアのウルを離れ、祝福の地であるカナンを目指して彷徨ったアブラハムもまた哀れでした。そうではありませんか?アブラハムだけではなく、ヤコブもモーセも同じです。しかし、本然の民族を回復するためにモーセをエジプトから荒涼たる荒野へと追いやった神の心情はどうだったでしょうか?


モーセの生活以上に、より深い痛み、より大きな無念、そして嘆きに満ちてイスラエル民族をエジプトから追い出した神の心情を誰も知りませんでした。一体誰がそのような神の心情を理解していたでしょうか?さらに、民族を導いていたモーセが神の心情に浸り変わらずに進んでいたならば、岩を二度打つことはなかったでしょう。しかし、モーセが天の心情を通じることができなかったために、彼自身が民族の道を阻む要因となったという無念の事実を私たちは知っています。


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本然の家庭を見つけるために神が追い出されたノアも、祝福の地を確立するために追い出されたアブラハムも同様です。


では、故郷の地を恋しがったヤコブはどうだったでしょうか?エジプトで死が近づいたとき、彼は自分の骨を故郷の地に埋めてほしいと遺言しました。それほどまでに故郷の地が恋しかったのです。死んだ後も、敵の地にその体が腐り流れ出ることすらも許したくなかったのです。このような選民としての誇り、選民としての感情を深く感じていたのがヤコブだったということを知るべきです。


再びモーセに目を向けてください。本然の民族を探し求めるためにモーセを追い出された神は、彼を通してどれほどその民族を導き共に生きたかったことでしょう。しかし、モーセはその願いを成し遂げることができませんでした。


全人類に故郷の家庭を取り戻し、山河を取り戻し、その地に民族を築き、国家を建て、世界を回復させようとする神の御心が、選ばれた人々によって果たされず、失敗したとしても、その御心はより大きな範囲で条件的な縁を結びながら進んでいくということです。その結果、本然の民族を探し求めようとする神の御心は延長されても、天はこれを収拾し、本然の国家を建てるためにメシアを送られました。しかし、そのメシアはどうなったのでしょうか?


イエス様は、民族を中心として神が主導される国家の形態を整え、天の主権をこの地上に確立したいとどれほど切実に願われたことでしょう。しかし、民族の責任者として来られたイエス様をイスラエル民族はどのように扱ったでしょうか?彼を中心に一つの本然の国家を建設し、悪魔に向かって行進する天軍となり、神の精兵となるべきであったイスラエル民族はどうだったのでしょうか?

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兵庫県知事再選

2024年11月24日 18時40分21秒 | 日記
【兵庫県の知事選挙】

斎藤知事、再選おめでとうございます。

知事批判から始まったこの出来事は、左翼から叩かれている旧統一教会と斎藤知事が何やら被っているイメージが強いなあ。

今回のこの知事選挙は斎藤知事を批判している側はもろ左翼と言ったイメージですね。福田さんの語って来られた様に左翼弁護士会の全国弁連は旧統一教会を潰す為に組織されたと言ってもおかしくない訳で、共産党、過激派、左翼政治家、左翼法律家達、事実を伝えてこなかったマスコミがグルになって旧統一教会を潰そうとしている姿とまるで被ってます。

それにしても4300件と言う、暴力的拉致監禁事件の黒幕は誰なのかを明確に世の中に知らせたくないのでしょう。
亡くなった方もおられるのに、マスコミには世の中に伝わったら不味いかのように扱われている。

世の中にこの事実を知っている方はどれだけいるのでしょうね。

マスコミは伝えない事が多すぎる。だからSNSがクローズアップされざるを得ないでしょう。

斎藤知事は事実を知った方に押されて再選しました。

これは象徴的だなあ。

今後は家庭連合が汚名を晴らし、誤解を解く事が為される様になっていくのでしょうね。
それが道理ですから。
('24.11.24)

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御言葉選集6(11)

2024年11月23日 15時00分15秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 6 - 11. 慕わしいエデン(1959年6月28日)
1959年6月28日(日)、元本部教会。
創世記 2:1-25

1
<祈り(Ⅰ)>
本然の姿を見ることができる本然の人が天地間に存在しないということが、父なる神の嘆きであったことを、私たちがこの時間に感じられるよう許してください。父の本性を受けた人間たちであるにもかかわらず、父なる神が彼らと共に喜びを分かち合う一日を自ら持つことができなかった父の悲しみを、この時間に私たちが考えられるよう許してください。さらにその悲しみを私たち自身が直接体感することができる時間となるよう、父なる神に心からお願い申し上げます。


偉大な理念を抱き、喜びの園を夢見ておられた父なる神の御前に、悲しみの嘆きを与えてしまった人類の祖先の過ちをお赦しください。そして、その希望を再び取り戻すために、苦労と困難の歴史の路程を歩ませることになった、これまでの私たちの先祖たちの誤りを、再びお赦しくださるよう心からお願い申し上げます。


あなたが千秋の恨みを払いのけ、勝利をもってその理念を成し遂げられることを私たちは知っており、また信じております。その働きのために、私たちは自分のすべてを捧げ、忠誠を尽くしたいと願っております。どうか、父なる神よ、その心と思いを導いてくださり、勝利の基準を成すことのできる息子娘の姿となるようお導きくださることを、切に願い、求めます。


私たちが一週間の間に過ごす中で、父なる神の御旨と御心、そして御理念に対して切なる思いを抱くことができなかった生活がありましたら、どうかお赦しください。父の御心と通じたいと切に願っておりましたが、それが一致し得ない基準にある私たちを、どうかお赦しいただけるよう、父なる神に心からお願い申し上げます。


歴史の路程を歩まれながら先祖たちのために嘆き悲しまれた父なる神の御心を知る私たちが、この終わりの日を迎えるこの時において、先祖たちの過ちや人類全体の過ちを私たちが責任を持ち、父なる神のその御心を慰めることのできる最後の真実な息子娘となることをお許しください、愛する父なる神よ、心からお願い申し上げます。不忠実で不完全な者たちではありますが、この朝、父の御前に礼拝を捧げるためひざまずき、伏して祈りを捧げますので、どうか顧みてください。


2


もし私たちの心に、父なる神の御前に正しくない主義や主張、観念、あるいは認識を抱き、お父様を計り知るような心があるなら、そのすべての心を取り除いてくださり、それらを許さないでください。父の御心とともに喜び、父の御心とともに体感することのできる感化の心と憐れみの御心を、この礼拝の一時間、私たち全員の心と体に表してくださるよう切に願い求めます。そして、天におられる無数の聖徒と天軍天使が私たちとともに喜び、その歓喜の栄光を父なる神の御前にお返しするこの時間としてください。


本然の園で悲しみを体感された父なる神が、私たちを通して解怨され、私たちを通して慰めを受けられるこの礼拝の時間となることを願います。足りないながらも私たちの誠の心を父の御前に束ねて捧げたいと思いますので、初めから終わりまで悪魔が入り込むことのない時間となるよう導いてください。勝利の盾をもって、父なる神よ、私たちを導いてくださり、燃える炎のような目で私たちを顧みてください。


私たちの心性から正しくないすべての根性を取り除いてくださり、その場に本然の心情を呼び覚ましてくださり、父なる神とともに活動することのできる喜びの礼拝の時間となるよう導いてくださることを、切にお願い申し上げます。すべてを主の御名によってお祈りいたします。アーメン。




<祈り(Ⅱ)>


シオンの園を失った人間たちが再びシオンの地を取り戻さなければならないという苦難の歴史が残されていることを、私たちは骨身にしみて感じております。本然の心情を持つ真実な人々が生きる地となっておらず、本然の心情の痕跡を地上に築くこともできません。どうか、彼らを支えながら本然の世界を夢見て戦っておられる父なる神の悲しい御心を、この時間に慰めることのできる息子娘となれるよう許してください。


父なる神よ!私たちは、父の悲しい歴史の路程を思い起こすとき、恐れを禁じ得ません。また、苦労される父の御姿を目の当たりにするとき、恐縮の念を抑えることができません。この私たちが自らの身と心を捧げ物として差し出し、父の労苦を少しでも和らげ、終わらせることのできる息子娘としてお立てください。どうかお願い申し上げます。


3


あなたは喜びを感じ、喜びの場で解放の歌を歌う勝利の日が早く来ることを待ち望んでおられましたが、その解放の目的を成し遂げるのは、あなた自身ではなく、死の権勢に苦しむ不孝な私たち人間でなければならないという事実を、私たちは理解しております。


このように重要な立場に置かれていながらも、自らの価値を知らず、死の路程で苦しんでいる人類をどうかお赦しください。そして今、私たちに本然の心情を回復するための新たな旗印を掲げ、父なる神の栄光の御心を賛美する切なる心を起こさせてください。本然の性相と本然の形状を備え、真の息子娘の姿を備えて、父の解放を歌うことができるようにしてください。


これが私たちの永遠の願いであることを、父なる神はご存じであられると信じております。お父様、勝利の日が来ることを知っている私たちが、悲惨な境遇で呻いているこの民族に代わり、頭を垂れてあなたの御前に祈ります。どうか勝利の基準の場に私たちを導き、あなたが託されたい大きな御旨の前に、捧げ物となることのできる私たちとなるよう、導いてくださることを切に願い求めます。


今、私たちは父なる神の御前に集いました。この時間に私たちの心を開かせてくださり、私たちの体のすべての事情を解き放たせ、真実な心情から湧き出る切なる思いを持って、お父様を慰めることができるよう許してください。そして、お父様に向き合い、謙虚に頭を垂れる心情の動きがこの時間に表れるようにしてください。私たちが過去を悔い改め、現実を振り返り、父の聖なる恩恵を慕う切なる心を起こさせてくださり、その心を父なる神ご自身が導いてくださるようお願いいたします。今、新たな感覚と新たな触感を起こし、新しい方向を取らなければならない自分であることを悟る一時間となることを許してください。お父様、心からお願い申し上げます。


お父様、私たちの不足している誠を束ね、この一時間に生ける祭壇を整えることを許してください。私たち一人ひとりが勝利の捧げ物とならなければならないということを私たちは知っています。どうか、父の御前に正しくないすべてのものを取り除いてください。そして、お父様、御力の御手を広げて新しい再創造の権能をもって働いてください。父以外のすべてを取り除くことのできる本然の再創造の性相を備えてくださり、形状を整えてくださることを、父なる神に心からお願い申し上げます。


4


今、父なる神よ、眠っている三千万の民を目覚めさせてください。そして、苦難の中をさまよっている27億の人類を、父の御手の中にお納めくださり、彼らを一つの場所に導いてください。父の本郷の園、お父様が理想とされる善の園へと彼らをお連れくださるようお願い申し上げます。どのような迫害や困難を乗り越えてでも、この人類を早くお父様が望まれる園へと導いてくださることを切にお願い申し上げます。


そのためには、父なる神よ、人間が実践しなければならない責任があることを私たちは知っています。どうか、お父様、愛する息子娘たちに命じてください。残された罪の地と、残された民を探さなければならない責任があるのならば、彼らを奮い立たせ、命令してください。勝利の園を建設する天の精兵として、働き手として、お父様が望まれる場所へと命じて送り出せる時間を、この一時間に定めてくださるよう、切にお願い申し上げます。


父なる神よ、この日も孤独なあなたの息子娘たちが集まり、訴えるその場所ごとに、あなた自らが栄光と愛の御手を差し伸べられたことを、彼らが感じられるようにしてください。そして、心を尽くし、一つの祭壇に一つの心情を集め、一つの形として捧げることのできる時間としてください。多くの民族を代表して集まっている多くの教団にも祝福を与えてください。勝利の日が成し遂げられ、父の喜びが回復された喜びの地となることを、心から願い求めます。今、私たちのすべてをお委ねいたします。


今、父の御旨に反するいかなるものがあれば、それが悪魔が入り込む条件となるのではないかと心配せざるを得ません。お父様、悪魔が入り込むすべての条件を取り除いてください。御力の恩寵によって、このすべてを抱きしめ、父自らが命じ、そして抱きしめてくださることを、切に願い求めます。


最初の時間から最後の時間まで、すべてを父の御ものだけで導いてくださることを心からお願い申し上げ、主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


5


<祈り(Ⅲ)>


父なる神よ、真実な心を持つ人がいるならば、本然のその世界を恋しく思わない人はいないでしょう。また、真実な体を持って生きる人がいるならば、本然のその世界の生活を懐かしく思わない人はいないことを、私たちは知っています。


堕落する前に、直接父なる神に向き合うことができた本然のアダムとエバの姿、天が生まれ、地が生まれ、万物が生まれた後に、最初に人間として創造されたアダムとエバの姿、その姿がどれほど父なる神を喜ばせたことでしょうか。父なる神に向き合う栄光の場にあった私たちの先祖たちのその姿が、どれほど尊いものであったことでしょうか。


今、私たちが心を込めて本然の世界を慕い求めることのできるこの時間をお許しください。父の御心に直接響く善の心情をひどく恋しく思い、父の御手をつかむことのできる本郷の善の姿をひどく懐かしく思います。本然のその先祖を恋しく思うことのできる私たちとなることをお許しくださるよう、心から願い、求めます。


心情の世界には歴史的な距離もなく、時間や空間の限界もないということを、私たちは地上で生きながら知っています。それなのに、無限の愛の心情によって生まれた本然の祖先のその姿、本然の私自身の姿を、死の権勢の中で眠り、方向を失い、さまよっている私たちが恋しく思えるように許してください。そのような私自身の姿を恋しく思い、止めどなく涙を流し、私を創造された父なる神を求めてさまよう姿を許し、焦燥感に駆られるような姿であっても、その世界の雰囲気、その世界の環境、その世界の万物、その世界の万象と調和できる美そのものが、今この瞬間、私たちの体と心に体感されることをお許しくださるよう、心から願い求めます。


地上に生きるすべての人々は、それぞれが自分が優れていると言い張りながらも、お父様が望まれた本然のその姿を備えていないままで、自分を表そうと必死になり、自分を高めようと苦闘しています。そのような人類を前にした父なる神の悲しみは、天に届き、地に届き、一つの主を失った万物さえも嘆きの中にとどまっていると、言葉は伝えています。そして私たちもまた、その事実を知っています。父なる神よ、今日、私たち自身がこの嘆きの中から抜け出し、お父様を解怨させるべきであるということを知らずに生きる者とならないようにしてください。


6


父なる神よ、私たちはあなたを呼び求めるとき、堕落の歴史の路程で苦労されていたお父様を呼び求めることは喜んで行ってきました。しかし、堕落の悲しみを感じることなく、善の園で喜ぶことのできる本然の父なる神を思い描くことはできませんでした。そして、そのお父様を探し求めてさまようこともありませんでした。真の救い主を信じることにおいても、私たち人間は十字架にかけられたイエスを真の救い主と信じましたが、十字架の苦難を受けることなく、苦痛や迫害を受けることなく、栄光の主として顕現するイエスを中心として信じることはできませんでした。この私たちの過ちをお赦しください。


父なる神よ、今日、私たちに本然のその存在とともに、本然のその理念、本然のその善を中心として生きる調和の世界を恋しく思う心があふれ出ることを許してください。本然の心情をもってお父様を呼び求めることのできる喜びの場を許してください。私の父なる神よ、心から願い求めます。


罪が地を染めたその日から、6000年の歴史が巡り巡ってきましたが、悲しみが止む日もなく、今に至るまで歴史の嘆きが重なり続けているという事実が、私たちの祖先の過ちによるものであることを私たちは知っています。歴史的な悲しみを脱し、悲しみから解放されなければならないこの哀れな私たちの身の上を、父なる神よ、どうか知っていただき、私たちを慰めてください。


お父様、力のない手を支えなければならないあなたの事情が残されており、弱い者たちを急き立て、強い勝利の軍隊と勝利の将兵を作らなければならないあなたの悲しい事情が残されていることを私たちは知っています。どうか今日、私たちを戒めてください。善の御言葉で、真実な心情で私たちを諭し、それでも聞き入れないなら、むちを取ってでも私たちを打ち、お父様が使うことのできる働き手として、また使い走りとしてでも役立てる姿へと私たちを立たせてくださるよう、心から願い求めます。


エジプトでさまよっていた60万のイスラエルの民を導きたいと願ったモーセの心情を、私たちが理解できるようにしてください。モーセが切なる心情をもって民に接していたという事実を、私たちが知ることを許してください。今日、世界に散らばる「第二イスラエル」の祝福を受け継がなければならない世界のキリスト教徒たちが、まだ残されているカナンの福地を目指していることを知らせなければならない責任が私たちにあることを理解しています。この使命を果たさなければならない責任が今日の私たちにあると知っております。父なる神よ、残された恨み、残された憤り、残された痛みが私たちの身と心に深く刻まれることを許してください。


7


たとえ、この体と心が百回死に、千回倒れることがあったとしても、父なる神の敵に報いるという天の節操を持つあなたの息子娘となることを許してくださるよう、心から願い求めます。


お父様、召命を受けて進み出てみると、十字架の路程がまだ残されていることを知りました。この困難な道を自ら進もうとする孤独なあなたの息子娘たちです。どうか、彼らの心の友となってくださることを願い求めます。


父なる神が永遠に永遠に私たちの中心であられるとき、私たちの体と心もお父様を見習い、不変の中心存在としてお父様に代わることができるという事実を知っています。どうか今、私たちの体と心を、父のものとして再び取り戻してくださるよう願い求めます。


私たちにはすでに覚悟した決意があります。この決意とともに戦い、この決意とともに生き、この決意とともに倒れることのできる、あなたの息子娘となることを許してください。父なる神よ、心から願い求めます。


今日、この時間、孤独な家族たちに向かって御言葉を伝えようとしていますが、何を話せばよいでしょうか。どうか、父の御指示を心に感じたそのままに伝えることができるよう導いてください。そして、それを受け入れることのできる天の捧げ物となるよう許してください。父なる神よ、心から願い求めます。


8


今、私たちの体と心を父なる神のものとして認めてくださり、お父様が取り戻され、お父様がご覧になる際に反するいかなる罪悪の憂いが残っているならば、それをお父様が三位一体の栄光をもって取り除いてくださり、悪魔が入り込む時間とならないように導いてくださることを、切にお願い申し上げます。


私たちが子どもの心に立ち戻り、知っていたすべての主義や主張を取り除くことができるようにしてください。そして、私たちが感じ、体感してきたすべてを取り除いてください。子どもの心情に戻り、慕う心、敬愛の心情に浸り、父の御言葉に導かれることのできるこの一時間となるように導いてくださることを切にお願い申し上げます。このすべてを主の御名によってお祈りいたします。アーメン。




<御言葉>


この時間、皆さんにお伝えしたい御言葉の題目は「恋しいエデン」です。「恋しいエデン」という題目でお話を進めたいと思います。


堕落のなかった本然の園、すなわちエデンの園を思い浮かべるとき、誰もが連想するものは何でしょうか。それは、神です。神が連想されるとともに、神が6日間の創造を終え、祝福されたアダムとエバが思い起こされます。また、神を中心として、罪のない本然の私たちの祖先がいたということが思い出される一方で、罪悪の侵害を受けなかった万物も連想されます。


万物が存在するのは人間のためであり、人間が存在するのは神のためである、ということを考えてみると、人間は天を中心とする存在にはなれず、万物も人間を中心として調和するものにはなれなかったというこの事実は、エデンを思い浮かべる私たち人間にとって、非常に大きな悲しみであり、嘆きであり、また恨みとして、今日の私たちの心と体を捕らえています。この事実は、誰も否定できないでしょう。


9


本然の世界、本然の園で生きていた私たちの祖先と、その祖先を抱え、善だけを中心に動いておられた神について深く考えるとき、私たちは、その神と現在の私たちがあまりにも遠い距離に置かれていることを認めざるを得ません。そして、その神と共に、どのような最高の善ともつながろうとする切なる心情があればあるほど、自分自身がその最高の善、すなわち神から遠く隔たっているという苦悩を感じざるを得ないのです。


このような苦悩を解決しようとする真実な人がいるならば、その人は神を中心として生きていたアダムとエバ、そして彼らと共に調和していた万物、善だけを中心にし、善だけを賛美することのできた本然の世界を壊してしまった堕落の痕跡に対して、深い怒りと強烈な敵意を抱かざるを得ないでしょう。


善を目指し、真実な本然の世界を夢見る一方で、それが自分とつながり、時間を超えて永遠に天的な心情と結びつかなければならないという使命があるために、私たちの心は知らず知らずのうちに、その天的な心情と結びつく道を求めて動いていることは間違いありません。しかし、その動く心をつなぎとめることのできる外的な環境がないことが嘆きであり、そのための内的な事情を備えていないことが私たち人間の嘆きであるのです。


このように見ると、自分自身が堕落したアダムとエバを責めないわけにはいかず、また、現在のこの現実の環境を嘆かざるを得ない状況で生きていることを否定できないでしょう。このような環境にただ流されて、自分の心と体が幸福を感じることができるでしょうか。それは到底不可能です。私たちは、そのような不可能な環境を打ち破り、乗り越えなければならない何か、何かは分からなくとも避けては通れない運命的な難関の道を進まなければならないのです。


私たちはこれまで、方向もよくわからないまま、何かを探し求めてさまよってきたという事実を、もう一度思い起こさなければなりません。今、時が来ました。そして、私が真実な良心を磨き、良心の主体である天と永遠の縁を結び、永遠の幸福の基準を築こうとする切なる思いが湧き上がれば湧き上がるほど、今日のこの地に対して怒りの心を持たずにはいられなくなり、私たちが生きているこの世界に対しても敵意を抱かざるを得なくなるでしょう。そして、この敵意を抑えることのできない現実があるため、これ以上の苦しみはなく、この問題を解決する以上の大きな課題はないということを、私たちは再び感じなければなりません。


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もし天が存在するならば、このような苦しみの中にある私たちを愛してくださるでしょう。そして、このように哀れな状況に置かれている私たち人間を探し出してくださるでしょう。このようにして縁を大切にして探してくださる関係があってこそ、私たちは天が存在することを認めることができるのです。


このような哀れな立場に置かれている人間を前にして、神は人間が堕落したその日から今日に至るまで、悲しい心を抑えながら堕落した人類の足跡をたどり続け、労苦を重ねてこられたのです。この事実を、私たちは再び深く感じなければならないのです。


今日の私たちは、自分自身を誇る前に、堕落した種族であることを認めなければなりません。自分の何かを示そうとする前に、堕落の性質に染まった罪悪の歴史を明らかにし、罪悪の本性を告白しなければなりません。しかし、このような立場にあるにもかかわらず、その責任を避けようと、あちらへ逃れ、こちらへ逃れる人が多く見受けられます。このような状況を見ると、天は必ず歴史的に積み重ねられてきた罪を清算しなければならず、血統的に繋がってきた罪悪の恨みを解消しなければならないのです。


この罪悪の恨みを解くことが天の願いであり、私たちの願いでもあります。そのすべてを明らかにする日がなければ、解怨の日も解放の日も訪れることはありません。解怨と解放の一日がなければ、神が摂理される御旨が成し遂げられる日も訪れることはありません。そして、その成就の日がなければ、人間に対して摂理を進めてこられた神の栄光の日もなく、摂理を支えながら従ってきた人間もまた、栄光の日を迎えることはできないのです。このことを私たちは知らなければなりません。


ですから、今、私たちは心で、体で、あるいは霊性をもって、自然のすべての神聖さを感じ取れるようにならなければなりません。また、人間の本性が天の心情の触感を感じ取れるようにならなければなりません。本質、本性、本質的な気質を通して、体に染み入り感じ取れる天心や天情を感じ取れるようにならなければならないのです。もしそのような人がいるならば、その人はこの地上で誰よりも幸せな人であると言えるでしょう。


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堕落前の人類の祖先は、神の心情と通じる心を持ち、神が創造されたすべての万物を整え、万物を天の御前に栄光の条件として、喜びの象徴的な対象として、美の対象として、刺激を与える外的な対象として立てるべきでした。そして、その万物から受ける刺激を通じて内的な刺激を引き起こし、天性の心情に応えて栄光の実体であることを誇らなければなりませんでした。しかし、それができなかったことが何よりも大きな悲しみとなったことを知らなければなりません。


では、天の心情と共に生きることのできるエデン、善と調和できるそのエデン、天の理念と共に生活できるそのエデン、見て、聞いて、感じるすべてが善の象徴であり、善を刺激しないものが何一つないそのエデンにおいて、皆さん自身が天の心情と調和し、自らが善の場に立ち、父なる神を「父」と呼ぶことのできる栄光のひとときを持つことができるなら、それは皆さんにとって最大の幸福となるでしょう。


また、天がそのような人間と縁を結ぶことができるなら、それ以上の縁を望むことはないでしょう。このことを私たちは知るべきです。


神の創造過程を振り返ってみると、神は真実なご自身の姿を代わるものとして具現する本然のアダムとエバ、真実な善の父母であり、私たち人類の祖先であるアダムとエバを創るために、五日間をかけてすべての万物を創造されました。この主人公たちを創造された後、神がどのような心情で彼らを見つめられたのでしょうか。皆さん、このことをもう一度思い起こしながら、父なる神を心で呼び求めることのできる時間となることを願います。


私たちは日々、私たちの目に刺激を与える森羅万象を目にしています。しかし、皆さんはその日々を、同じ心情や同じ感情で森羅万象に向き合っているかもしれません。しかし、もし人間が堕落していなかったならば、それは善を中心とした本然の自然であったでしょう。そして、そうであったならば、私たちの祖先はこの自然を見て何を感じたのか、また私たちを創造された神はどのように感じられたのかを、もう一度深く考えなければならないのです。


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野に生えているたった一つの小さな草にさえ、神の御手が及んでいないものはないということを、私たちは考えなければなりません。生い茂る一本の木を見るときにも、そこには神の無限の内的な心情が通っているという事実を、もう一度思い起こすべきです。


それはただ草木だけに限らず、野を駆け回るどのような動物や昆虫、また鳥類に至るまで、これらが無意識に作られたものではなく、徹底的に神の内的な心情を通して創造され、神の実体の御手を経て作られたものであるということを、私たちは再び感じなければなりません。


もし神がご自身の創造された万物を愛しているとするならば、私たちは何を考えなければならないでしょうか。神が万物を創られたとき、「すべて良かった」と言われましたが、その中でも最も愛されたものは何だったのでしょうか。もしそれが草であるならば、草の中でも神が最も愛された草は何だったのかを考えるべきです。そのようなことを時間を惜しまずに深く考えることができる場に留まることができるなら、私たちは人間を創造される前に万物を通じて現れた神の恩寵に触れることができるのです。


そして、たった一つの草を手に取っても喜びを感じ、その草が一日の希望の対象であることを知り、喜びの心情を持つべきです。その草が神の御手を経て作られたものであることを体感するべきです。そのような人がいるならば、その人は堕落した人間でありながらも、天地を創造された当初の神の創造の心情の世界に立つ神の友の立場に入ることができるでしょう。そうではありませんか?


皆さんは、もし神が草をお好きであれば、草の中でもどの草を最も好まれるのだろうか、花であれば、花の中でもどの花を愛されるのだろうか、木であれば、木々の中でもどの木を特に愛されるのだろうか、と思いを巡らせるべきです。鳥はもちろん、飛ぶ昆虫から始まり、下等動物から高等動物に至るまで、すべてが神の心情を通して創造された存在ですが、その中でも特にどれを神が最も愛されるのだろうか、と考えるべきなのです。


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天の心情を慕い、天の理念を待ち望み、天の復帰の園を願う真実な心を持つ人々の中には、神を高め、栄光の場で喜びを得ようと努力する人は多いかもしれません。しかし、小さな草木や昆虫から、すべての被造物に及ぶまでに広がる神の内的な心情の縁を思い起こして喜べる人は少ないのです。もし誰かが、自分の全ての精力を注ぎ込んで一匹の昆虫を創造したとしたら、その人が注ぎ込んだ以上の精力をもってその昆虫を愛そうとし、心と思いを込めてその昆虫を愛してくれる人が現れるなら、その昆虫を創造した者にとって、これ以上の満足はないでしょう。


では、2千年前のイエス様は、神の御前に民を取り戻して捧げる前に、何を探し求めて苦闘されたのでしょうか。イエス様の心情は何を探し求めてさまよっておられたのでしょうか。私はこう思います。イエス様は民を抱き、彼らが天の嘆きの中に留まっていることに心を痛めておられました。そして、彼らのために夜を徹して涙を流し祈られた方であったことは間違いありません。


もしイエス様が、人類の祖先の堕落によって本然の心情的な縁を侵された万物が嘆きの中にあることを見て涙を流し、夜を徹して悲しまれる方でなかったならば、彼は全宇宙を統治し、全宇宙を救う救い主とはなり得なかったと断言したいと思います。


人間から万物の要素を取り除いてしまえば、その命を維持することはできません。だからこそ、自分自身が尊い存在である限り、その本質を構成する要素を供給してくれる万物に対して、人間は喜びの媒介者であるべきです。このような心情を持って進む人であれば、どこへ行っても自然の正道を備えることができ、どのような環境にあっても正道の場、万物と通じる場に立ち、神の御前に栄光をお返しすることができるのだということを、皆さんは知るべきです。


自然を見つめられたイエス様は、多くの草の中で神が特にこの草を非常に愛されるだろう、花々の中でもこの一つの花を最も愛されるだろう、また、ある木や山河を見て、神はこれらを特に愛されるだろう、とお考えになったに違いありません。今日、皆さんはそのようなイエス様の愛の心情を、もう一度思い起こしていただきたいと思います。


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それでは皆さんは、これまでの人生の路程において、どれほど責任ある感情を持って、神が心を込めて創造されたこの万物に接してきたでしょうか。また、この山河に対してどのように向き合ってきたでしょうか。一握りの土を手に取り、その土を形作られた神の心情がどのようなものであったかを考えたことがあるでしょうか。もしそのようなことを考えたことがないのであれば、皆さんは創造の理想を掲げられた神の心情を無視する罪人になってしまうでしょう。


今日、私たちは、この万物世界、被造物の世界の原理や法則、公理や公式を解明しようとする分野が科学であることを知っています。また、自然の中に深く秘められた情緒的な領域を表現するのが文学です。自然に現れている、あるいは隠されている美を何らかの形で具現し表現するのが芸術です。そして、自然の根本的な理を解明しようとする分野が哲学です。そしてこれらの領域の上に位置するものが宗教です。


では、真の宗教と宗教家が解明すべきこととは何でしょうか。それは、自然の中に深く流れている静かな内面的な内容を明らかにすることです。この責任を担うべきなのが宗教であると考えられます。


人類の文化は自然を離れては考えることができません。自然を離れた人類文化は語ることすらできないのです。人間がどれほどその威勢を誇り、権力を享受したとしても、自然を無視するならば、そのすべてが成り立たないということです。


このように、私たちの生活を価値あるものとしてくれるのが自然であり、私たちの人生において必須のものが自然なのです。ですから、自然の万象に流れている心情を感じ取ることができない人は、真実な幸福を享受することができず、天と縁を結び、栄光の場に進むこともできないのです。このことを、皆さんは理解しなければなりません。


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今後、皆さんは一本の草を見るときでさえ、神の視点で見ることができなければなりません。花を見るときにも、神の心情を代弁する立場、神の心情と通じる立場で見ることができなければなりません。昆虫や鳥、あるいはどのような動物を見るときにも、神の心情とつながる内的な感情を体得することが求められるのです。


そのような人がいるならば、たとえその人が公式や定義、すなわち科学的な論理でそれを解明することができなくても、文学的にその情緒を表現することができなくても、また芸術的にその美を表現することができなくても、さらには感情的にその愛を体感する力がなくても、その人は偉大な科学者であり、偉大な文学者であり、偉大な芸術家であり、偉大な哲学者であり、偉大な宗教家であることに間違いありません。


今日、世界的な人物とされる人々や偉大な学者とされる人々が数多く存在し、それぞれの立場で宇宙を探求しています。しかし、これまでの論理を超え、最終的な問い、すなわちこの宇宙とつながりを持つ何らかの存在についての究極的な答えを持っていない限り、その人を本当の意味で世界的な人物とは呼べません。


これまでの科学的な論理や公式、法則を用いて宇宙を観察し、感じる段階を超え、それらを超越した心情的な感応を体験できない人には、それ以上の発展はありません。これは文学や芸術、哲学、そして宗教にも同様に当てはまります。


真に世界的な偉大な学者がいるとすれば、その学者の心情の奥底には自然の心情と調和できる感性が備わっているはずです。その感性が、自分の研究分野を超えて頻繁に接触する感覚をもたらし、それによって思いがけない示唆や幻想、あるいは夢の中での啓示のような現象が現れるのです。そしてこれらの現象は、自らの専門分野に深く没頭した状態でのみ起こるものです。


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情に豊かな人ほど大きな事業を成し遂げたというのは、歴史を振り返っても否定できません。また、そのような感情と調和し、一本の草を見ても「神様!」と呼び求めることのできる宗教家がいるならば、その人こそまさに偉大な宗教家であると言えるでしょう。


今日の仏教では仏像を安置し、その前で福を祈るという行為が行われていますが、主体と対象の外面的な違いが天地ほどに大きいとしても、心情の世界においては差がないということです。その場で感じられる感情や通じるすべてのものを、天と同じように信じ、受け入れるならば、天はその心を見捨てず、それを成し遂げてくださいます。ここから「願いの成就」という言葉が生まれるのです。


このように考えるとき、私たちがこれまで生きてきた過去の生活や、今現在生きている現実の生活は、あまりにも無感覚的であり、あまりにも無情緒的であり、あまりにも堕落した宇宙観を持っていることが分かります。この事実を嘆き悲しむべきです。もし、これを嘆き悲しむことのできる人がいるならば、その人は新しい時代の人物として召命を受け、新しい時代の使命を担うことでしょう。このことは間違いのない事実であると断言できます。


私たちは、今日の自分の周囲の環境を見て顔をしかめ、嘆くのではなく、また社会の矛盾を見て落胆するのではなく、たった一本の草を見つめ、その喜びの中に自らの悲しみを忘れることのできる人間であるべきです。もしそのような人がいるならば、その人は新しい時代に残される人物です。理想的で心情的な世界を目指す人であるならば、その人は必ずや神と何らかの縁を結ぼうとする人であるに違いありません。


統一教会の皆さん、一本の草が育つのを見て、どうしようもないような心情を感じてみてください。そこには無限の生命があり、神がいらっしゃいます。一つの山頂を見つめるとき、昨日感じた感情と今日感じる感情が異なることに気づくでしょう。春夏秋冬、四季の移ろいによって自分の心情に湧き起こる感情の違いを歌にできるなら、それはなんと高尚なことでしょうか。それこそが、自然とともに調和して生きる人の姿です。堕落していない本来の人間とは、そのような人であったに違いないと私は思います。


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流れる水辺を見つめ、広い平野を流れる小川を眺め、そびえ立つ山脈を仰ぎ、昇る太陽の朝の光を浴び、東の空から差し込む月光に触れ、こうした万象を前に、どの瞬間でも心で歌い、心から楽しむことができる人がいるならば、その人こそ、神が万物を創造されたときに夢見られ、理想とされた存在です。その万物を託そうとされた、神が立てようとされた真の本然の姿です。


景色の美しい名所を訪れることを喜ぶ人間もまた同じです。神はそのような人間を求めておられるのです。


本然のエデンの園で、神がアダムとエバとともに自然を歌い、自然への感情を表現するひとときを持たれたかといえば、それは叶いませんでした。神はきっとこう言いたかったはずです。「わが子よ、あの山を見てごらん。あの山は私がこうして創ったのだ。あの草木を見てごらん。これもまた私がこうして創ったのだ。すべてはお前たちの幸福のために創ったのだ」と。しかし、神はその言葉を実際に口にすることはできませんでした。なぜなら、アダムがまだ成熟していなかったからです。それでも神がアダムを見つめながら、そのように語りかけたかった切なる内的な心情があったことを、私たちは知るべきです。アダムが情緒的に未熟な段階にあったため、神が語りかけることができなかったその事情を、私たちは理解しなければなりません。


もし神がそのような言葉をかけられる立場にアダムがあったなら、神は彼の手を取ってこう言われたでしょう。「アダムよ、私が見たいと思っているあの園の花を一緒に見てみよう。私が眺めたいと思う山河を一緒に眺めてみよう」と。私たちの祖先がそのような生活を送っていたならば、今日の人類はこの苦難と死の支配の中でさまようことはなかったでしょう。


ですから、今日、皆さんは恋しく思わなければなりません。本然のエデンを恋しく思わなければなりません。神の無限の愛が満ちている世界、ひとたび始まればそのまま永遠に愛の感情と調和できる世界、ひとたび歌えば永遠にその歌に酔いしれることができる世界、ひとたび跳ねれば神とともに永遠に跳ね続けたいと思う心が湧き上がる世界、ひとたび動き、ひとたび責任を果たせば、それが永遠の価値の責任となると信じ、努力できる世界。このような世界を恋しく思い、涙を流すことができる人にならなければなりません。


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そのような心情を持つ人間を見つけられなかったことが、神の悲しみです。地を相手に摂理を進めておられる神は、必ずそのような人を探し立てずにはいられないのです。


私たちが歌う歌に山河や自然が含まれているのは、それらを通じて私たちの感情を高めようとしているからです。すべてそうです。もし本然の世界でアダムとエバが、神が行きたいと思う心情と同じ心情で共に行くことができていたならば、それはどれほど素晴らしいことであったでしょうか。どれほど素晴らしかったでしょうか。


今、皆さんはそのような心情を持たなければなりません。そのような豊かな心を持つ人、そのような心情を体得した人こそが、新しい時代、新しい理想天国の時代の民として参加できるのです。


では、皆さん、復帰の恨みを晴らし、歴史の悲しみを乗り越えて栄光ある神の御手を掴もうとするならば、神はどのような人を掴みたいと思われるでしょうか。神は、「この万物を私の代わりに楽しんでくれ。この万物を私の代わりに感じてくれ。この万物を私の代わりに愛してくれ」と言うことのできる、そのような人を掴みたいと望まれるのです。


皆さん!これまでの人生で、神秘的な雰囲気や恩恵の満ちた場面において、自然の中の一本の花を心から恋しく思ったことがありますか?また、祖先の誰かに会うような切なる心で花に向き合ったことがありますか?あるいは、山河を見つめたとき、心に込み上げてくる感動から、思わず天に賛美を捧げたことがありますか?もしそのような経験がないならば、私ははっきりと言いますが、皆さんには万物の主になる資格がありません。どれほど素晴らしいとされるエデンの園であっても、万物とそれを見つめる人間が心情を通じて天を動かすことができない場所であれば、それは憧れるべき場所ではないのです。


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私たちはこれまで、祈りの中で人間のためだけに祈ってきました。しかし、私はそうではありません。人間のために祈るだけでなく、天のためにも祈るべきだと考えています。イエスのためにも祈らなければならないのです。イエス様がこの地上に来られ、私たちのために夜を徹して祈られたその恩に応えなければなりません。そして、今日まで労苦を重ねてこられた神のためにも祈り、さらに進んで、全人類のために祈るべきです。


そのような感情を持ち、そのような生活を送る人が、神に最も近い人と言えるでしょう。私はそのような体験を通じて、そのことを実感しました。


皆さんも、道を歩いていて疲れたときや、休むときに、そのような感情を抱くことがあれば、天は必ず共にいてくださるでしょう。そうなれば、一本の古びたケヤキの木の根を握りしめながら、そこから天の心情を歌うことができるでしょうし、大きな陰を作る岩に寄り添いながら、その場所を安息の憩いの場として天の情緒を歌うこともできるはずです。


今日、統一教会の私たちは、神がご自身で創造された善なる万物の中にも、最も愛されるものがあることを知っています。同じように、花であればその中で特に愛される花、木であればその中で最も愛される木があるはずです。このような感情を持つことができないなら、その人は心情世界では不合格者と言えるでしょう。花の中でどの花を、木の中でどの木を、草の中でどの草を最も愛するかを知り、それを表現できるべきなのです。そうしてこそ、自然を恋しく思う心が生まれるのです。


自分の命が躍動すると同時に、その命を抱き、自然を引き寄せる心情の縁を持つ人は、理想を持った人であり、決して軽々しく生きることのできない人です。


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今日、私たちが目にするこの自然はどのような自然でしょうか。また、私たちが踏みしめているこの地はどのような地でしょうか。それは悲しいことに、堕落した地であり、喜ぶべきところを悲しまなければならない地となってしまったのです。このことを、皆さんは感じなければなりません。万物を見るときに、心の中で「美しい」と感じる一方で、その万物が悲しみの中にあること、嘆きの中にあることを感じ取らなければなりません。美しい名勝地を見て「良い場所だ」と思うことがあっても、無限の悲しみを感じて神とつながることのできる人間であるべきなのが、今日の堕落した人間の立場なのです。


今、私たちは一本の草を手にして喜びを感じるのではなく、その草を見て悲しみ、涙を流せる自分になるべきです。また、一本の木を抱いて涙を流せる自分になるべきです。山河や万象を見ても深いため息をつけるような姿勢を持つべきです。それはエデンを恋しく思う心を持っているからだということを知らなければなりません。そのような心情に浸っておられる方が神であり、その心情の縁を未だに脱することのできない存在が人間であるということを理解しなければなりません。


そのような心情を持つ人であれば、自然を見てもエデンを恋しく思うことができるでしょう。「恋しいエデン」とは、自然そのものを恋しく思うことであり、また、その中で万物を統治することのできる本然の人間をも恋しく思うことであるのです。


イエス様は敵に対して祝福を祈られました。両手両足に釘を打ち、頭に茨の冠を被せる者たちに対しても祝福を祈られました。また、槍で脇腹を刺す無謀な敵に対しても祝福を祈られました。なぜそのようなことができたのでしょうか。それは、神が最大の精力を注ぎ、切なる事情を経て労苦の末に創られた存在が人間であるという事実を、イエス様が深く理解しておられたからです。わかりますか?


天の事情を背負って来られたイエス様は、ご自身が敵から反対される立場にあったとしても、天の本然の心情を辿ってみるとき、神が全精力を注いで創られた縁ある存在である人間に対して、祝福を祈らずにはいられなかったのです。


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イエス様はこの地上で30余年の生涯を送る中で、瞑想や思索を通じて神と完全な関係を結んでおられました。そのため、イエス様は本然の真の人間、本然の真の人間であられました。それは、万物が恋しく思うことのできる存在であり、神もまた恋しく思うことのできる存在だったのです。


今日、人間も自らが作るものに対して、今日仕上がらなければ明日また取り組み、完全に仕上げようとします。同じように、神もまた同じです。神は人間を創造された後、その姿を見てどれほど喜ばれたことでしょうか。その心情の世界に入り込み、それを体感した人がいるならば、踊りたくなるでしょうし、その喜びに何十年も踊り続けたいと思うことでしょう。


今日、多くの信仰者たちが語るように、単純な法則によって生まれた人間であれば、そんな人間は必要ありません。人間は法則で測ることのできない無限の柔軟性を持つ絶対的な原則によって創造された存在であり、その価値は計り知れないのです。そのような人間を見て、神はご自身のすべての属性を感じ取ることができ、全宇宙の感情が流れているのを感じることができました。このことに接するとき、神は無限の喜びを抱かれたのです。


神が見つめ、喜ばれたアダムとエバ、神が恋しく思われたアダムとエバ、さらに万物が主人となることを切に望み待ち望んでいたアダムとエバ、こうして神が恋しく思い、万物が恋しく思ったアダムとエバはどうなったでしょうか。堕落の結果、その「恋しさ」は呪いと恨みに変わり、幸福と希望は嘆きと絶望に変わり、命は死に変わり、愛は慟哭へと変わってしまいました。この事実は、何とも言い難い悲劇です。


このような悲しむべき祖先を抱えているという事実に対して、何とも言い難い嘆きを感じるべき立場にありながら、私たちの中には、この悲しむべき事実がどこから始まり、今日の私たちとどのように関係を持っているのかを知らない人が多いのです。この嘆きを振り払い、この悲しみの心情を洗い流し、人間本然の心情を見つけて歓喜し、その歓喜の声を高らかに上げる群れは、この地上に存在しないのでしょうか。天はそのような人々を探し求めています。そのような立場に立つ者がいないのか、天は求めています。


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このような心情の問題において、天が恋しく思い、万物が恋しく思う価値ある人間が、今このような堕落した状態になったのであれば、それは裁きを受けなければならないのです。私はそう考えます。そしてこう祈らなければなりません。「父なる神よ、もし私が裁きを逃れたいと願うならば、あなたを恋しく思う心情において合格する者になりたいです。エデンでアダムとエバを創造され、喜ばれたその心情、行ってみたい、会ってみたいと思われたその心情、その心情に合格することによって、裁きを逃れ、喜びの歌を歌う勝利者となりたいです」と。天はそのようになることを望んでいます。


天倫を恋しく思うことができる自分になると同時に、人間を恋しく思える自分にならなければなりません。神がご自身の心情を体感させるために一人の男性と一人の女性を創造されたということが、どれほどありがたい恩恵であるかを、皆さんは深く考えなければなりません。


地上に男性と女性が存在するならば、彼らは神の全体的な性格と性相を代わって立てられた存在です。したがって、一人の女性を愛することができる男性でなければならず、一人の男性を愛することができる女性でなければなりません。神の心情を通じて、アダムが望んだ心情の基準、エバが望んだ心情の基準を持ち、自由を享受し、天を抱擁することのできる夫婦が地上にいるならば、神はその夫婦に全宇宙を委ね、安息したいと願われるのです。しかし、今日の人間はそのような神の御心を知りません。


人間はこのような心情の法度を踏みにじったため、今日、心情の世界において無限の「恋しさ」に苦しむようになったのです。芸術や学問、あるいは地上のどのような愛の対象を通じても、この恋しさを埋めようとしますが、埋める道がなく、苦悩するしかないのが堕落した人類の現実です。これが歴史的な悲哀であり、悲劇なのです。


もしこのような恋しさが皆さんの心に込み上げてくるならば、本然の園を恋しく思った万物とともに、その本然の園を恋しく思うことができ、本然の心情を通じて神の心を引き寄せていた本然の人間の姿を備え、天を恋しく思うことができる人になるべきです。そのような人になるならば、神は両手を広げて「そうだ、わが息子よ、わが娘よ」と言いながら抱きしめずにはいられないということを、皆さんは知るべきです。


23


もし皆さんが、自分の価値を高めて天の御前に進みたいと願うならば、主の御言葉を聞き、恋しく思っていた本然の園に住むことのできる本然の人間の価値を体得し、天を恋しく思う心情に応えられるようになり、天を恋しく思う心を持つべきです。そのような人が現れるならば、天はどれほど喜ばれるでしょうか。


「恋しさ」というものは、愛を抜きにして成り立つことはありません。その愛は、人間的な愛ではなく、永遠の安息と永遠の命の源である神の愛でなければなりません。だからこそ、キリスト教は他の宗教と異なり、愛の宗教としてその使命を全うしようとしているのです。宗教の目的は、心情世界の法度を活用して、生活における感情や宇宙万象のすべての理を司る権限を持つような人格者を育成することにあるのです。


神は、人間がまるで木や石のような存在であるにもかかわらず、6000年間、人類を恋しく思う心情の基準を保ちながら摂理を進めてこられました。歴史はさまざまな形で展開してきましたが、神は「アルファでありオメガ」であられる立場から、一貫してその恋しさを失われることはありませんでした。それに対して、人間が神のそのような心情と異なる心情を持つのであれば、その人間は敗北者であり、歴史の路程から脱落する者となるでしょう。


天が「わたしはアルファでありオメガであり、初めであり終わりであり、始まりであり終わりである」とおっしゃったのは、私たちにとってどれほどありがたいお言葉でしょうか。それだけでなく、さらに神は堕落した人間に対しても、恋しさと共に悲しみの感情を重ねて持ち続け、私たちを恋しく思い続けておられるのです。このことを私たちは知るべきです。


取るに足らないこの一つの体を抱え、本然の心情に傷を負わせた堕落した人間を抱きながら、それでも神はその恋しさを捨てられませんでした。このように、堕落した人間に対する悲しみを胸に抱き、悲しみの感情の中で恋しさを持ち続けておられる神を感じる人がいるならば、その人は間違いなく天国に行けるでしょう。


24


私はこのように祈ったことがあります。「お父様!私が自分の手を握りしめ、その手を恋しく思い、涙を流すことのできる人間になれたらいいのですが」と。神はそのようなことを望んでおられると思います。神が本当に愛をもって握ることのできる手であるならば、自分自身がその手を握りしめ、涙を流すことのできる人間になるべきなのです。


堕落せず、神を恋しく思った本然のアダムの手を握りしめ、涙を流せる人間であるべきです。さらに進んで、アダムを抱き、エバを抱き、涙を流すことのできる人間になるべきです。そのような人間になれば、堕落の歴史を踏み越え、乗り越えることができるでしょう。


私たちは、本然の人間を恋しく思い、その価値を誇るべき歴史的な責任があります。そして、その誇るべき価値を神の御前に高く掲げる責任があります。そのため、知らず知らずのうちに自分の価値を高めようとし、知らず知らずのうちに自分自身を恋しさの対象として立てようとするのは、人間の自然な感情です。それは、人間がもともとそのような理念を持って生まれたからです。


しかし、自分の価値を立てようとする中で少しでも誤れば、堕落した世界の価値を受け入れることになりかねません。また、自分自身を恋しさの対象として立てようとする中で誤れば、堕落の基盤となってしまう危険があるのです。


そのため、堕落した人類は全体が否定され、否定されなければならないのです。すべてを捨て去るべきだということです。なぜなら、アダムとエバがすべてを持つことができなかった位置で堕落したからです。アダムとエバはその理念を持っておらず、心情的な問題に関して何も持っていなかったのです。自ら万物を支配できる堂々たる権威を持つ立場に立つことができなかった、それが堕落ということです。アダムは万物を支配できる立場に立ったことがありましたか? いいえ、立っていませんでした。


25


このように、本然の人間を恋しく思い、彼を求めて進むべき歴史的な条件に縛られているため、人間はすべてを捨て、涙から出発しなければならない存在であることを私たちは理解しなければなりません。そのため、涙を引き起こす宗教がどこにあるのかを探してみると、キリスト教で「悔い改めなさい、天国は近づいた」と言われているのを聞くことができます。イエス様がこの地上に現れ、「悔い改めなさい、天国は近づいた」と言われたのは、まさに「嘆きなさい」という言葉でした。自分自身を見て嘆き、家族を見て嘆き、愛するすべての人々、民族、国、そして自分が生きているこの地を見て嘆きなさいということです。ここには、恋しさの縁を新たに結ぶための神の御旨が込められているという事実を私たちは理解しなければなりません。


私たちは、万物を恋しく思うことができ、人を恋しく思うことができる存在でなければなりません。皆さん、人を心から恋しく思ったことがありますか?純粋な天の心情とつながり、無限に与えても忘れてしまい、それを喜べるような心情を体感したことがありますか?そのような心情を引き起こすために、天は「宗教」という名を掲げ、「救主」という名を掲げ、「新郎新婦」という標語を掲げて摂理を進めてこられたのです。私たちは、その方のためにすべてを捧げる覚悟を持たなければなりません。


神は、心情と恋しさが結びついた心で捧げられる万物を受け取る日を切望しておられます。心情と恋しさに満たされて捧げられる家庭を受け取りたいと願っておられるのです。そして、その恋しさに満たされ、この国、この民族、この世界が神に捧げられることを望んでおられるのです。


皆さんは今、天に向かって恋しさに満ちた心で「たった一銭にすぎないこのお金ですが、どうかお受け取りください」と言えるようにならなければなりません。そのようなとき、その一銭は宇宙を代表する価値を持つのです。どれほど貧しい家庭であっても、「不足していますが、この家庭をお受け取りください」と言えるとき、その家庭は天国の継承を受けることができるでしょう。荒野をさまよっていたイスラエルの民のように哀れな民であったとしても、その民が天に向かって恋しさの心情で「この民をお受け取りください」と祈るならば、天はその民に地上天国を主導する権限を与えようとされるのです。


国家も同様であり、世界も同様です。今日、この地上で人類に提示されるべきどのような理想主義や理念であっても、それが天を恋しく思わせ、心情的に天を慕わせるものでなければ、人間の根本的な問題を解決することはできず、天倫の根本的な問題を解決することもできません。


26


心情的な問題を探し求め、天を恋しく思い、本然の園を恋しく思うひとときを持つことができなかったことが堕落であり、そのような関係を自らの存在を賭けて築き上げることが復帰の使命なのです。


そのような使命を果たそうという心情に満ち、父なる神の心を慰めることのできる一つの姿として、その心情的で恋しく思う理想の園の理念の中で動きながら、万物を探し求め、人間を探し求めて働かれる天に向かって「お父様」と呼ぶことのできる人がいるならば、その人を天が知らないはずがありません。そのような心情を持ち、本然の園を探し求めた人がいるならば、その人を神が知らないはずがなく、人類全体が知らないはずもなく、被造物すべてが知らないはずもないのです。そのような人こそ、本然の真の人間であることを私たちは知るべきです。


だからこそ、「恋しいエデン」、そこに生い茂る万物、そこに住む人間、そしてそこに訪れられる神が、個別に事情を通じるのではなく、一人の人を中心として、上には天、下には万物が調和し、応えることのできる一つの喜びの住まいを築かなければなりません。その場所にいる人は、神が愛することのできる人であり、人類が仕えることのできる人であり、万物が尊敬することのできる真の主人であるに違いないということを、私たちは知るべきです。


このことが成し遂げられなければ、復帰摂理、すなわち神が掲げられた全体の御旨が完結し、勝利の栄光を見ることはできません。また、私たちも堕落の悲しみを解消し、願いを成就することはできません。それが成し遂げられなければ、勝利の一日を備えた世界をこの地上に建設することはできないという事実を、私たちは明確に理解しなければなりません。


<祈り>
行けども行けども果てのない復帰の道程であり、悲しみが残されたまま巡り続けなければならない私たち人間であることを、私たちは知っています。しかし、苦労された父なる神の心情世界を通じてみるとき、巡り続けた悲しみの歴史が今日の私たちと関係を結び、今日の戦いの関係が未来の縁を構築する基盤となり得るのです。そして、無限の希望、無限の幸福、無限の恋しさの園を築き上げるという心情の縁を、私たちは理解しなければなりません。


27

お父様、アダムを伴い、あちらこちらを巡りながら誇らしげに自慢したかったその山河は、いったいどこにあるのでしょうか? アダムと共に誇りたかった咲き誇る花はどこにあり、成長する樹木はどこにあり、青々とした草原はどこにあり、流れる小川はどこにあるのでしょうか?

そのような心情を通じる境地において、父と同行できたはずのアダムは堕落して父のそばを離れてしまいました。しかし、今、私たち自身が恋しく思っていたお父様をそばにお迎えし、万象と共に、全人類と共に、全宇宙と共に楽しむことのできる喜びの姿へと導いてください。父なる神よ、心から願い、切に求めます。

残された十字架の恨みも、恋しさを通じなければ縁を結ぶことができず、残された栄光の場も、恋しさに満ち、理想の園を慕う心がなければ縁を結ぶことができないことを私たちは知りました。この恋しさの心情を持って、本然の人間として本然の園で万物に向き合うことのできる子女、堕落の縁を結ばず、父の祝福を受ける勝利の子女となれるよう導いてください。そして、真の人類の祖先となれるようにしてください。切にお願い申し上げます。

お父様、この日のすべてを委ねます。捧げた言葉を通して、この人々の心情の中に新たな喜びを体感する心情が芽生えるように許してください。

すべてを主の御名においてお祈りいたします。アーメン。


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御言葉選集6(10)

2024年11月15日 15時31分54秒 | 学習
33


歴史を解決し、時代と未来を解決し、天倫を完成させることができるのは、現在の既成の世界の形態ではありません。それに反対される新しい形態であり、私たちの良心を超えて心情を貫く内容を持つものです。人倫や道徳を超越し、天倫を貫くことができる内容を持つ新しい形態でなければならないのです。


既成の観点や既成の論法を守ろうとするのではなく、既成の論法を新しい論法と融合させ、調和させることのできる論理的な内容を備えた主義でなければなりません。もし良心を持つ何千万人がいたとしても、その人々に対してそのような言葉を伝え、そのような理念を紹介するならば、彼らの良心の方向を180度変えることができ、良心革命を引き起こすことができるのです。


良心革命を引き起こすだけでなく、その良心が向きを変えた後には、その良心を貫き、天の心情が私たちの心と永遠に切り離されることのない情的な縁を結ぶことのできる一つの主義、一つの理念が現れるならば、それが最後の時代の到来を意味します。


そのような主義や理念は、人々の内面に深く浸透し、既存の価値観や倫理を超越して、全く新しい方向性を提示します。それは、天倫と直結し、全人類を統合するための鍵となるでしょう。そのような理念が現れることが、終末の時代における新しい希望の出発点となるのです。


イエスは、無知な人間にこれを教えるために、「私は新郎であり、あなた方は新婦である」と宣言されました。この「新郎と新婦」という関係は、今日の世間で言う男女の情的な理念を超越した、もっと深い心情を通じる関係を意味しています。


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良心の方向と情的な動きが天を目指して動くその場から、歴史は新しい門をくぐり抜け、新しい世界へと進むのです。そのような次元まで解放されなければ、天の働きは完結しないということを私たちは理解しなければなりません。


人類の歴史の過程で、情的な問題は革命的に解決されたことはありませんでした。しかし、イエスは2000年前に「母や子、誰であれ私よりも愛する者はふさわしくない」と主張されました。これは驚くべき言葉です。


では、「より愛せよ」と言われたその内容とは何だったのでしょうか? その内容は、イエスが十字架にかけられたために完全には明らかにされませんでした。そのため、私たちがその内容を見つけようとする時が「私たちの希望の時」であり、「再臨の時」であると理解しなければなりません。


イエスは言葉を残されましたが、その言葉の心情を貫く内容や主義思想はまだ現れていません。その内容が現れる日、それが再臨の時であり、その時には世界は真の平和の世界となるでしょう。その時こそ、イエスが語られた言葉が完全に具現化され、人類の希望が成就される時です。それを待ち望むことが、私たちの使命であり、新しい時代を迎える準備なのです。


私たちの心の中心は良心です。しかし、神は良心を持つ人間であっても、その良心を完全に主観することはできません。あなたがどれほど良心を持つ善良な人であっても、神が「こちらへ行け」「あちらへ行け」と自由に指示することはできないのです。しかし、神と情的な縁を結んだのであれば、神はどのようにも主観することができるのです。


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人間の堕落とは、良心を失ったことではありません。神との情的な関係を結べなかったことが堕落の原因です。したがって、良心を超えて神と情的な縁を結ばなければなりません。そのとき初めて、天の恨みが解消され、復帰摂理が終結するのです。このような基準が人類の前に現れることで、神を代弁する人類となることができるでしょう。そして、そのような主義と思想、そのような宗教的理念を実践することで、神はこの地上のすべての万物の領域に自由自在に働くことができるようになるのです。


そのため、この時代において、分派的な宗教は排除されなければなりません。統一教会以前にも「宗教」という名のもとに無数の教派がありましたが、私たちはそのような教派の仮面を取り払い、形骸化した教会をなくすべきです。神は家庭的な教会、個人的な教会を望んでおられます。


さらに、神は万物の領域までも善の聖殿、至聖所として自由に働くことができるようになることを望んでおられます。神はそのような「エデンの園」を待ち望んでおられるのです。それは、人類が神と直接的な情的関係を結び、すべての創造物が神の摂理に基づいて調和する完全な状態を実現することを意味します。この理想を成し遂げることが、神の究極の願いであり、人類の使命です。


そもそも、人間が持つ心情と神の心情が結びつく縁を失ったことが堕落の原因であり、その縁を再び結ぼうとするのが天の復帰摂理であり、人類の希望の基準です。そのため、その摂理と希望の代表として来られたイエスは、「私は新郎であり、あなた方は新婦である」とおっしゃいました。


では、その境地を超えていくためにはどうすればよいのでしょうか? あなた方には、新郎新婦以上の感情、衝撃、そして天を中心として深く感情移入し、憧れ、慕う心情が必要です。それがなければ、あなたはその境地を超えることはできません。


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こうして天が解放された人類に対して再び提示しようとしているものは何でしょうか? これまでの歴史は「人間の愛」という二文字で埋められてきました。しかし、天の復帰摂理は、この「人間の愛」を打ち破り、「神の愛」という二文字で埋め直そうとしているのです。


神の愛を体験したことのある人がいますか? もし、あなたが神秘的な境地に入り、神の愛を体験したことがあるなら、その愛の感情が存在するすべての感情を総合したものであることを感じたことでしょう。人間の愛の感情は、存在世界全体の意識を総合したものではありませんが、神の愛を感じる瞬間には、存在世界全体の感情を感じることができます。これが、神の愛の持つ価値です。


神の愛は、単なる個人的な感情を超越し、宇宙全体、存在するすべてを包含する普遍的な心情をもたらします。その愛を体験することは、天との完全なる一致を意味し、復帰摂理の完成を象徴します。それが人類の最終的な目的であり、神が人間に求める究極の境地なのです。


神の愛の境地とは、個体が全体を、全体が個体を通じることができる境地です。霊界はこのような愛を基盤とする超自然的な認識の世界であり、時間と空間の支配を受けません。たとえば、太陽の光を中心に万物がその光を慕い、方向を向けるように、人間の本性が求める神の情的な基盤を備えて現れる者がいれば、全人類がその前に頭を垂れるでしょう。そのような時が必ず訪れるはずです。


その条件を提示するために来られたのがイエスでした。しかし、イエスが十字架で命を落とされたために、その情的な縁の基準を地上に残すことができませんでした。これが神の嘆きであり、6千年間の神の恨みであり、イエスの2千年間の恨みなのです。この恨みを解消し成就させる一日を待ち望んで進んできたのが、6千年の摂理の歴史であることを理解しなければなりません。


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そのような時代の流れの中で、神が解放の歴史を統合しようとされる御旨があるならば、堕落した私たちはこう祈るべきです。「神よ!あなたの愛はどこにありますか?あなたが愛される教派、あなたが好まれる僕、あなたが愛される息子娘はどこにいますか?」と。もしそのような人が存在するならば、その人はこの時代に迫害を受ける存在でしょう。


天はアルファでありオメガです。その形が小さいか大きいかの違いはあっても、初めと終わりが同じ形で現れるでしょう。この原則に基づいて、神の御旨が成し遂げられ、天と地が一つになる時が訪れるのです。その時が来るまで、私たちは神の愛を体現する存在を見つけ、その愛に応える努力を続ける必要があります。


神がエデンの園でアダムとエバを失われたときに感じられた悲しみを理解できる、真の人間の姿が現れなければなりません。そのような人こそ、神の代理者です。歴史を通じて、全人類に対し、またイスラエルの選民に対し、悲しまれた神の心情を掴み、それを代わりに涙して慰めることができる人、そんな感情を感じられる心情の所有者にならなければなりません。


死の領域の中でどこに向かうべきかも分からずさまよっている人類を見て、その時代を代表して神のような心情を感じ、居ても立ってもいられず、神に切に祈り続ける者、真の羊の群れが踏みにじられるのを見て、自分の名誉や立場を気にせず、その苦しみを抱える者たちは、どの時代にも歓迎されませんでした。


神の歴史がそのようなものである以上、解放と統合が進む終末の時代においても、神の心情と通じたいと切に願う心情がいくら強くても、一度に心情が通じることはありません。人間が心情を失うまでにどのような過程を経たのでしょうか?


38


それは、まず神の言葉を失い、神の言葉を守らなかったことから始まりました。その結果、神が与えられた肉体を失い、肉体を失った後に神の愛も失われました。そのため、復帰の過程を経なければならないのです。


復帰の過程は、まず神の言葉を取り戻し、その言葉を実践し、神が与えられた肉体を神の愛と一致させることを目指します。この過程を通じて、神との心情的な縁が回復され、人類は再び神のもとで真の幸福を見出すことができます。そのような人間が現れることで、神の歴史の目的が成就されるのです。


今日の私たちには、体と心、本性と本心、そして良心の奥深くに潜む心情にまで達し、永遠に永遠に動き続けるようにする言葉が必要です。良心を土台として、その良心の中に隠れている心情を呼び覚まし、天の愛を慕うことができる、このような内的能力を備えた言葉が必要だということです。その言葉を聞けば、これまでのどんな主義、どんな思想、どんな観念的な認識でも一度に崩れ去り、新たな心情が湧き上がり、天の仕事をしたいと思えるような、そうした言葉が出てこなければなりません。今日、宗教があり、キリスト教が存在しますが、キリスト教が果たすべき役割もそれです。そしてイエスが再び来られても、それが果たすべき役割です。


私たちが永遠の神の言葉に永遠に結びつくようにする言葉が必要だということです。したがって、私たちはその言葉と調和した実体とならなければなりません。悪魔の世界と縁を結ぶのではなく、永遠の神の世界と縁を結ばなければ、その生活や心情問題において神が喜ばれる一つの人格を持つことができません。そうしてこそ、神が愛されるのではないでしょうか。良くないものを神が愛されると思いますか?


イエスが「新郎新婦」と語られたその言葉は、外面的な言葉であり、一通の手紙のようなものです。これまでの宗教は良心宗教でしたが、心情宗教ではありませんでした。心情的な目標を掲げてはいたものの、心情的な内容を備えてはいなかったのです。したがって、その言葉は良心的な形態であり、約束の手紙のようなものでした。ですから、その手紙の内容を通じて心情の言葉を見つけなければなりません。


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私たちが求めるべきなのは、その言葉によって永遠に心酔し、心情を抱くことができる言葉です。その言葉を慕い、その言葉と共に楽しみ、その言葉と共に愛し、その言葉と共に生きることができる内容を持つ言葉を探さなければなりません。その次に私たちは、父の言葉の実体となるべきです。万物宇宙を代表し、天が否定できない存在、イエスが「新婦」として認めざるを得ない実体を作らなければなりません。それによって初めて天的な人となることができます。


もし、あなたが信じている聖書の言葉について、「よく分からない」「イエスが誰か分からない」「言葉としては知っているが、心情的には分からない」「観念的にイエスを知っていても、体感的には知らない」と言うようではいけません。それでは、イエスとの間に何の関係も築くことができません。


今日、この時を「探すべき時」と言います。「求めるべき時」「扉を叩くべき時」とも言います。多くの人が高いレンガ造りの建物や広い門を行き来しながら数十年にわたり探してきましたが、それを見つけることはできませんでした。ですから、反対の方向から探さなければなりません。天は私たちを背後から押し出し、前方で向き合う形で現れるのです。そのため、天は善良な人々を引き寄せ、悪しき世の中へ送り出します。迫害を受ける人々の中に、天の新しい歴史が内在していたことを知るべきです。


しかし、それが必ずしも「統一教会の人々」だとは限りません。初めて来た人々は「ええ、統一教会なんて…」と言うかもしれませんが、それは各自で考えてください。


これからの世界の終末時代には、共産主義にも民主主義にも反対するような、新しい理念を持つ主義や思想が現れなければなりません。必ず現れる必要があります。そして共産主義と民主主義が協力して、「その主義を排除しよう」と動き出すでしょう。また、長老派、メソジスト、聖潔派などの40以上の教派や宗派がすべて統合して、「その一つの団体を排除しよう、その一つの動きを排除しよう」とするでしょう。


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このような主義や思想が歴史の終末時代に現れることで、新しい歴史が始まるのです。その主義や思想こそが、これまでの価値観や体系を打ち破り、次の新しい時代を切り開く鍵となります。この動きが始まるとき、天の意図が現れることでしょう。


そのような一つの主義や思想が現れると、そこに行きたくなり、そこにいたくなり、そこに住みたいという感情があなたの心に湧き上がるでしょう。そのように見たいという感情、動きたい、生きたいという感情が湧き上がり、さらに語ること、生活することにおいてそのような感情が誘発されるならば、それが現れるその場所が人類歴史の最終点であり、最終的な主義となるでしょう。それは心情の内容を紹介することのできる最終的で歴史的なものでしょう。


絡み合っていたすべてを解放し、それを再び規合して一つの心情と一つの理念、一つの生命体に結びつけた一つの人格者、その理念に基づく一つの世界観、その心情を歌うことのできる、そして万物宇宙を和動させることのできる一つの主義や思想が現れなければなりません。


そうして初めて、解放してこられた神の全体の御旨がようやく解かれるのです。そのとき天が安息でき、天が安息することで万民が安息し、歴史も安定点を掴んで新しい時代へと出発することができるということを、皆さんははっきりと知るべきです。




<祈祷>


天の歴史の路程は、解くための路程であることを知りました。私たちの体と私たちの心には、食欲、情欲、貪欲があることを知り、また睡眠欲もあることを知っています。そのようなものを持つ人間を中心にして、天が歴史の路程で摂理されるためにどれほど多く苦しんでこられたかを考えると、許されない罪人であることを知るに至り、どうかお赦しくださいませ。


41


天が解きほぐそうとされる歴史の路程において、見えない多くの悪魔たちが逆に絡め取るための歴史を進めていることを私たちは知りました。「解く歴史」と言われましたが、反対の世界では絡め取って新たな場所へ行かせまいとする歴史の一面もあることを、今日のこの言葉を聞いた者たちが理解できるようにしてくださいませ。


絡め取る悲しみの歴史と解く喜びの歴史が交差する環境に置かれている私たち、体は絡め取られることを望み、心は解き放たれることを望む嘆きの領域にいる私たち。この心を引き上げ、体を打って、体が心に服従する喜びのひとときを迎えなければならない悲しい歴史の終点を見つめている私たち。このような境地にある自分たちであることを忘れないようにしてくださいませ。


また、このような天運の圏内にある自分たちであることを忘れないようにしてくださいませ。このような復帰摂理の解怨の過程に足を踏み入れている自分たちであることを忘れないようにしてくださいませ。


愛のお父様! 本当に長い間、労苦してこられました。一つの思想を中心に人々を束ねるためにどれほどご苦労されましたでしょうか。また、一つの理念を予告し、民族を動かすためにどれほどご尽力されましたでしょうか。さらに、それを外面的に築きながら、内面的には歴史の背後でこれを生命的な善の基準と結びつけるために宗教を立て、その宗教を動かす過程でどれほど多くの犠牲者を出されましたか。内外で犠牲を払いながらご尽力された父の前に、今日、このように開放的な世界を目の当たりにする私たちの心は、聞き、知り、悟り、見るにつけ、恐れ多く、申し訳なく思います。


お父様! 本然の実体の一存在が、このように恨みの歴史を切り拓いてこられたという事実を知る私たちは、罪深い者たちであり、父の労苦に対して借りのある者たちであり、お父様に赦されたいと願って出てきた者たちですが、何とも申し訳なく、恥ずかしい気持ちでいっぱいです。そのような環境を知らずに、かえって天に背くことを繰り返してきました。天が解き放とうとされる中で、私たちは何百万回も縛り付ける行いを続け、今日も明日もその運命に陥っています。どうか私たちをお赦しください。


42


今日ここに集まったあなたの息子娘たち、この者たちの心が何に結びつくことを望んでおられますか? この者たちの体が何に縛られることを望んでおられますか?今日、お父様が知らない人々の中には、理念に縛られたいと願う者たちもいます。また、主義や思想、あるいは人倫や道徳に自らの良心と体が縛られることを望む者たちもいます。しかし、本性を通じて考えると、彼らは永遠に父の前に立つことのできない悲しい環境に置かれていることが解ります。


このような道を前に進む人類の中には、自分でも気づかぬうちに忍び寄る焦燥感、不安、悲しみの心情を体感する者が多くいますが、それを阻む者はいません。お父様、歴史と共に、時と共に、主義と共に喜ぶことができず、生の原則を知らず、生の方向を知らず、生の道程を知らず、生の目的を知らずに彷徨う人類を、一体誰が責任を持ってくださるのでしょうか?


お父様、真の青年男女をお呼びくださり、三千万の民衆の前に立たせてくださいませ。私たちは追い立てられ、打たれる中で、その縁が尊いものであることを知りました。お父様が異なる道へと私たちを追いやられた摂理の御手には、歴史の血と涙の痕跡があることを知りました。したがって、私たちは歴史的な悲しみの場を通過しなければならず、歴史的な迫害の過程、歴史的な死の峠を越えなければならないことを知っています。


イエスが、「十字架を背負って私に従わない者は私にふさわしくない」と語られたその言葉を成し遂げねばならず、「私のために命を捨てる者は生きるであろう、生きようとする者は死ぬであろう」と語られたその言葉が実現する時が来たことを知っています。


お父様! 今日私たちは、他の誰も歩まない道を歩んでいます。打たれ、打たれる中で立ちはだかる数々の壁を押し倒し、父の前に伏して祈っています。悲しみの心情を抱え、悲しみの事情を受け止める天情との縁を持ったのであれば、その縁を通じて互いを尊重し、互いを思いやる心が育まれ、この世にはない一つの天的な縁となるようにしてください。そして私たちは、その縁が地上において初めて現れる縁でなければならないことを知っています。どうかそのように導いてくださいませ。


43


私たちは、私たち同士で解きほぐさなければなりません。もし絡まりがあるならば、それを解くことが歴史の路程の原則であるがゆえに、イエスは敵に対して恨みの心情を表すべき場で、敵に対してそれを解こうとされたことで、敵の世界を解く解怨の園を築く資格者となられたことを私たちは知っています。


天もこのことを喜ばれ、イエスを復活の座に立たせられたことを知っています。民族が私たちを排斥し、敵の立場に立つことがあったとしても、その民族を敵視するような私たちであってはなりません。世界が私たちを反対するとしても、それを敵視するのではなく、彼らの前に開かれた天の心情を残すために、敵の心情を乗り越えることのできる天的な心情の所有者とならせてください。そして、天的な生命の指導者となり、生命の主権者となるようにしてください。お父様、切に願い、求めます。


今日ここに集ったあなたの息子娘の体と心に、歴史的な悲しみを感じる代わりに、歴史の解怨の基準を見出すことのできる心情を持つようにしてください。この者たちが、栄光の恩恵、栄光の生命、栄光の理念、栄光の愛を歌うことができ、宇宙全体の価値を歌うことができ、理念の世界で天を代表して自分自身の個性を尊重することができるようにしてください。


そのような私たちの栄光の価値、絶対的な価値を万物万象の前に、悪魔の前に示し、誇ることのできるあなたの息子娘としてください。これを切にお願いし、すべての言葉を主の御名においてお祈りいたします。アーメン。



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御言葉選集6(10)

2024年11月15日 15時26分37秒 | 学習
文鮮明先生御言選集6 - 10. 解放、さらに解放すべき神様の御旨 (1959年6月14日)
1959年6月14日(日)、旧本部教会にて
マタイによる福音書 10:34-39、18:15-20




<祈祷(Ⅰ)>
本然の園を築き、本然の真の子女を抱き、本然の心情を通して楽しむべき御父様の理念が、この地上に現れなかったという事実を私たちは知っております。私たち人間は、死に捕らわれたその日から今日に至るまで、本然の心情をもって天を賛美することがなかったことをどうかお許しくださいませ。


本然の一個体としてお父様を呼ぶことができる栄光の位置に立つことができなかった哀れな私たちをお許しくださいませ。そして、本然の心情を備え、「私のお父様」と切なる心情を込めて呼び求めることができなかったことを、どうか憐れみをもってお許しいただけますよう、切に願い申し上げます。


本然の園を失った人間は、死の世界に落ち、暗闇と戦い、敵の手中に捕らえられ、嘆きと絶望の中にありましたが、本然の心の痕跡が残る良心を通して本然の故郷を慕っております。歴史的な戦いを経ながらも、一瞬一瞬に感じられる天の感触を通して天の生命の一筋を求めてきた私たちを助けてくださったお父様、感謝申し上げます。


極めて幼く未熟な私たちが、この一つの路程に苦しみ疲れていることをお父様ご存知であるがゆえに、この時間、再び憐れみの御手を差し伸べてくださいませ。再創造の力をお与えくださり、本然の心情を回復できるようお導きくださいませ。本然の姿としてお父様に近づくことができるように支えていただけますよう、私のお父様、切に願い申し上げます。


私たちは、この地上のすべてを断ち切ってでも、天が望まれる本然の世界に向かって進まなければなりません。どうか今、私たちに本郷を慕う切なる心を深く刻んでお与えください。そして、たとえ私たちの身体が疲れ果て、足が疲弊したとしても、本郷を目指して走り続けることができる位置へと、お父様、私たちを追い立ててくださいますよう、切に願い申し上げます。


1


私たちの身体と心が一つとなり、天の心情を慕うことを許してください。そしてお父様が最後に私たち人間と共に喜びを分かち合える幸福の園を、私たちが築くことができるようにお導きください。この時代において、何億万もの人々が阻もうとすることがあったとしても、愛の心を持ってそれを乗り越えて進むことができる私たちであるように、どうかお許しくださいませ、お父様、切に願い申し上げます。


堕落した私たちではありますが、どうしても復帰の路程を歩んで本然の自分自身を取り戻さなければならず、本然の故郷を探し、本然のお父様をお迎えし、本然の世界を築かなければならないことを、私たちは知っております。


今日、この邪悪で堕落した私たちは、父の愛の心情を知りませんでした。本然の故郷を知りませんでした。本然の人格と本然の存在そのものを知りませんでした。お父様!どうかもう一度、御言葉を通して、人格を通して、愛の心情を通して、本然の存在そのものとなるために必要なすべての要素を備え、お父様をお迎えして生きるのに不足のない者として、私たち自身を栄光の姿として立ててくださいますよう、切に願い申し上げます。


これらを阻止するために、多くの敵である悪魔たちは歴史の路程において、先祖から今日の私たちに至るまで、時と機会を問わず侵略してきたことを私たちは知っています。今やこれを拒絶し、これを制止する責任が私たちにあることを理解し、その責任を果たそうとしています。どうか、私たちが父の心情で武装し、父の御言葉で武装し、敵の前に堂々と立つことのできる天の真の息子娘となれるようお導きくださいませ。


今や私たちは、本郷を探し求めなければなりません。私たちの家庭、私たちの社会、この国土に住む三千万の民、地球上に広がる多くの人類、霊界にいる多くの霊人たちもまた、失われた本郷を探し求めてさまよっていることを知っています。お父様、どうか私たちが、父の心情と通じる本郷を築く責任者となれるようにしてください。私たちが敵の世界から真の息子娘を見出し、彼らを集め、本然の園を建設することのできる天の働き手、天の精鋭兵士となれるようにしてくださいますよう、お父様、切に願い申し上げます。


2


お父様、一週間の間に傷ついた心をそのまま抱えたまま、こうして父の御前に参りました。どうか憐れんでくださいますようお願い申し上げます。不義なるすべてのものを取り除いてくださり、父の心情と通じる要素だけが、父の本性に調和する本質的な要素だけが現れるようにしてください。それによって、お父様が喜ばれる最大の栄光を現し、捜し求めお捧げすべき本然の存在そのものを見出し、お父様が楽しめる時間とさせてくださいますよう、切に願い申し上げます。


足りない私たちが父の御前に集まり、礼拝を捧げるこの時間をどうか聖別してください。何億もの悪魔が入り込む時間とならないようにしてください。天にいる数え切れない聖徒、天軍天使がお父様を囲み、お父様を親しくお迎えし、心情と心情が通じ合う縁が結ばれる時間としてください。どうかこの時間を許してくださいませ。


この時間以降のすべての時間も、お父様が親しく主管し、運行してくださいますよう、心より願い申し上げます。このすべての祈りを主の御名によってお捧げいたします。




<祈祷(Ⅱ)>


この地を摂理されるお父様!蕩減復帰しなければならない悲しい歴史上の罪を、どうかお許しください。数多くの人類があなたを賛美しましたが、あなたの御旨を成し遂げることができないまま、悲しい歴史が流れ、6000年が経過しました。それがすべて誰のせいなのかを考えると、恐縮の念に堪えません。この私たちの心情をご覧になり、どうか親しく訪れてくださいますよう、切に願い申し上げます。


今、絡み合った心と体を抱えて、父の御前に跪いております。私たちの主人はあなたでなければなりません。私たちのすべての事情を理解し、通じてくださるのもあなたでなければならないと知っています。愛のお父様、どうかこの時間、あなたが親しく主管してくださり、導いてくださいますよう、切にお願い申し上げます。


3


人間たちがお父様を求めて歴史の路程で彷徨ったとしても、いまだお父様をお迎えして生きている者たちは地上に存在しません。この地のどの一隅が父のものであり、どの家庭が父のものと言えるのか、一つとしてこの地上に見出して立てることができていない父のその悲しい心情を、かすかにでも察することができます。


あなたに悲しみがあるとすれば、それはこの地の主であるあなたが主としての位置に立てず、この地を責任をもって治めるべきあなたがその責任を全うできない立場にあることを、私たちは知っています。


地上の人々を責任をもって導くべき立場にありながら、それを果たせない摂理を進めてこられたお父様。私たちの心情を通して直接主管し、直接命じるべき立場にあるのに、それができないお父様。私たちの生活を通して私たち全体を主管すべき父であるにもかかわらず、私たちの内面の生活や事情を完全には主管できないお父様。私たちを見て、善の結実だと賛美すべき父であるにもかかわらず、そのような一日、一時、一人を見出すことができなかったお父様。このような悲しい立場にある父の心情を、私たちはこれまで知りませんでした。


今、たとえ私たちがこの地上のすべてを失うことがあったとしても、どうか父の悲しい心情を深く理解することができる息子娘となることをお許しください。父の事情や困難を親子としての立場から感じることができるようにしてください。お父様が涙を流されるとき、共に涙を流し、困難に直面されるとき、共にその困難を担うことができるあなたの息子娘となることをお許しください。切にお願い申し上げます。


そのような人を立てるために、そのような人を見つけるために、父は長い間ご苦労されましたが、人類を代表できる主人公に出会うことができず、天を代弁する天の法度を体現する主人公にも出会うことができなかったことを、私たちは知っています。


4


そのような中で、父は長い歴史の過程を経てイスラエル民族を形成され、お父様を代弁し、父の心情を握り動かすことのできる実体メシアを地上に送られました。しかし、イスラエル民族がメシアを迎えることができず、メシアと共に歩むことができなかったため、世界はさまよう客となったという事実も、私たちは知っています。


今日、終末の時代において再び来られる主の再臨の日を待ち望む私たちです。天を代弁し、天が探しておられるその一人とは、天が悲しまれる時に共に悲しむ者であり、天の事情を握り天と共に戦う者であり、天の喜びを代弁して天と共に歌う者であるということを、私たちは知っています。この地に数多くの人類が生きているにもかかわらず、歴史と共に、時代と共に、未来を代弁するその一つの存在を見出すことができなかったことを、どうか今この時、お許しくださいませ。


その唯一の存在を迎える希望の日を待ち望み、今日まで膝を屈め、父の御前で祈りを捧げてきました。どうか切なる愛の心情を持って来られる尊い実体を、お父様、許された園において、許された時に、この天地間で迎えることができる喜びの日が速やかに訪れるようにしてください。切に願い申し上げます。


お父様!私たちの心が不足していることを知りました。私たちの体が俗世に属していることを知りました。そして私たちの欲望が悪魔と共に動いていることを知りました。


このような内的な要素を持つ私たちですが、天に代わって許されたその時、その時代、その一瞬に来られる唯一の主人公を待ち望むことすらできない惨めな姿です。どうか憐れみ深いあなたの前で、自分自身の惨めさを嘆くことができるようにしてください。そして惨めな家庭、惨めな社会、惨めな人類、そして惨めな天地を前にして嘆き悲しむことができるようにしてください。切にお願い申し上げます。


5


悲しい心情を抱き、天と地の前で贖罪しなければならない時が来ました。お父様!どうか私たちの心の扉を開いてください。私たちの心情は、父の心情に向き合うこともできず、向き合う術を知らない状態です。このような私たちの体と心を、父の御姿と父の心情に調和する実体として再び形作っていただけますよう、切に願い申し上げます。


このまま私たちを放置すれば、私たちは死の世界で悪魔の餌にしかなり得ません。6000年もの間、摂理してこられたお父様!どうかこの終末において私たちを見捨てないでください。私たちを通して勝利の標を立て、勝利の園を建設し、敵の前で誇りとされたいという父の御旨が残されていることを私たちは知っています。どのような苦労の場であっても共にし、栄光の姿となれるようお導きください。たとえどんな困難に直面し、砕けることがあったとしても、父の御旨に対する一途な心情を天に、地上に残すことができる天の忠臣となれるよう、どうか導いてくださいますよう切に願い申し上げます。


お父様!この日、私たちがここに集まりました。どうか憐れみをお与えください。今、私たちが父の心情を悟ることができるようにしてください。そして、父の御旨の前にふさわしくないものがあるならば、それらすべてを取り除いてくださいませ。父の心情が私たちの心情となり、父の実体の動きに私たちの体が動かざるを得ず、私たちが父の御前で悔い改めざるを得ず、自分の事情を打ち明けざるを得ないように、どうか直接的な力強い御手を差し伸べてくださいますよう、心より願い申し上げます。


天が容認することのできない、これまで持ち続けてきたすべての世俗的な観念や自己主張を取り除いてください。そしてそれらすべてを父のものとして調和させることのできる本質的な感性の基準を高め、良心の基準を高めてくださいませ。私たちの心情を結びつけて父の心情と通じさせ、天的な事情と通じることのできるこの一時をお許しください。


お父様! 私たち人間がどれだけ善良であったとしても、父の御前で顔を上げ、「お父様」と呼ぶことのできない罪深い存在であることを悟らせてください。また、自らを弁明する内的条件をどれだけ整えていたとしても、天の御前で弁明の条件を提示することのできない堕落の子孫であることを、深く理解することができるようにしてくださいませ。切にお願い申し上げます。


6


天におられる数多の聖徒たちを送り、私たちの周りを聖別してくださいませ。私たちの心情を砕き、父の力強い御手によって再び形作ってください。それによって、私たちが再創造の御言葉とともに再創造の性品を受け入れ、死の実体であった私たちが命の実体へと変わり、栄光と歓喜の中でお父様を呼ぶことのできる喜びの時間を迎えられるようにしてください。お父様、切にお願い申し上げます。


お父様、今日という日は聖なる日です。すべての人々があなたを高らかに賛美すべき日であるにもかかわらず、この民族はあなたを知らず、人類の大半があなたに反対する立場にあります。そのような人類を抱え、悲しまれる父の心情の曲折を私たちが知るべき時が来ました。孤独な父の心情を理解することができず、孤独な父の姿を代弁することができなかった歴史的な罪を感じ、この時間、父の御前でひたすら涙を流すことのできる息子娘となるようにしてください。


その心情の痛みを感じ、たとえ私たちの身が消え去ることがあっても、父の心情を歌い、その心情を慰めることができる息子娘となるようお導きください。切にお願い申し上げます。


今日ここに集まったあなたの息子娘たちは、皆哀れな者たちです。彼らには地上に友もおらず、弁護してくれる者もおらず、共に働く者もおりません。孤独な峠、孤独な道、孤独な茨の道を歩みながら、打たれ、打たれ、また打たれながら、この道を探し求めてきました。このような形であっても進まなければならないと感じ、倒れ、命を落とすことがあってもこの道を守るべきだという御旨を知ったからこそ、今日父の御前に集まりました。どうか憐れみをお与えくださいませ。


命の枯渇を感じ、お父様に代わる天的な理念を待ち望んでいる息子娘たち。彼らの命を担うことができるのは父だけです。彼らの事情を慰めることができるのも父だけです。どうか彼らの心情、事情、環境を主管してください。彼らの上にお父様が運行される聖なる時間を与えてください。聖なる心で礼拝を捧げるこの時間を守ってください。切にお願い申し上げます。


7


終末の時代、この緊迫した時期に差し掛かった私たちは、今、私たちが留まっている場所、その位置がどのようなものであるかを第三者の目で批判すべき時に来ています。私はどこに留まり、どの方向に向かい、どの目的地を目指して歩んでいるのか、自らを振り返り、批判できるようにしてください。もし天の望みと私たちの望みに違いがあるならば、それを埋めるために努力しなければならないことを、私たちは知っています。どうかそのための力を与えてください。切に願い申し上げます。


お父様、今この時、私たちの心と体を通わせ、一つとなれるようにしてください。お父様が動かれるなら私たちも動き、お父様が留まられるなら私たちも留まることができるようにしてください。お父様、どうか摂理の基点を築いてくださり、私たちが天の心情を代弁する一つの姿を備え、天の栄光を歌い上げ、天上の数多の聖徒たちをも動かすことができるようにしてください。切にお願い申し上げます。


お父様、この日、多くの祭壇を祝福してください。彼らが御前で心を開き、胸を広げ、自らの過去のすべてをさらけ出して、お父様によって新しい血縁的な兄弟の縁を結ぶことができるようにしてください。父の摂理が成し遂げられる復帰の日が、速やかにこの地上に現れるようにしてください。心より願い申し上げます。


お父様、この時も、地方に散らばり膝を屈めて御前で訴えている孤独な家族がいることを知っています。どうか彼らにも同じ恵みをもって歴史してください。心が張り裂けるような事情を抱えて御前で訴えるその場その場において、お父様が親しく愛の御手を差し伸べ、命の動きを起こしてください。切に願い申し上げます。


この時、復活の栄光を歌うことのできる支配の領域へと導いてください。愛の心情で私たちを抱きしめてください。子どものような心情でお父様を慕い、渇望する心情に満たされ、体と心が一つとなってお父様に捧げられる私たちとなれるよう、どうか祝福してください。これらすべてを主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。


8


<祈祷(Ⅲ)>


お父様、私のお父様! 私たちの心が父のものであると感じられるようにしてください。私たちの体がお父様によって作られた、欠けも汚れもない本然のアダムとエバのような姿であると心で感じられるこの時間をお与えください。


心と体が一つに調和し、栄光の結実体としてお父様に捧げられるべき自分たちであるという責任感を、この時間、自ら感じながら、「私のお父様」と呼ぶことができるよう、天の恵みをこの時間お与えください。
切にお願い申し上げます。


人間にとって最も大きな悲しみは、父の愛と縁を結ぶことができなかったことであり、父の心情に通じる本然の良心を失ったことであり、その心情と良心が調和し、体と心が一つとなる位置に立つことができないことであると、私たちはよく理解しております。


堕落のゆえに、父の心情に通じる感覚が私たちから離れ、父の心情を体感して万物を愛することができる心を失いました。どうかお父様、その心情を回復できるようお導きください。私たちの体と心を一つにし、私たちのものを父のものとしてください。私たちのすべてを父の御前に差し出し、誇らしい姿で愛の翼を広げ、万物を抱くことのできる広い寛容の心を持てるよう、どうかこの時、私たちに歴史してください。切にお願い申し上げます。


私のお父様! このような心情に通じる御言葉が、今この時、切実に必要であることを知っています。私たちが失ったのは御言葉であり、その次に実体であり、そして心情であると理解しております。お父様、どうか御言葉を通じて、私たちが失った本然の心情を蘇らせてください。本然の御言葉に頭を垂れる心、本然の御言葉に耳を傾ける体となり、父の栄光の御胸に抱かれる恵みを、この時間お与えくださいますよう切に願い申し上げます。


9


事を始められたのはあなたであり、それを成し遂げられるのもまたあなたであることを知っています。善によって始まったのならば、善によって終わりを結ばなければならないでしょう。お父様、あなたは「私はアルファでありオメガである。最初であり最後である。始まりであり終わりである」とおっしゃいました。しかし、最初に本然の心情を失った人間は、終わりにおいても天の心情に通じることができません。今や終末の時代には、本然の心情を掴み、その心情を繋げなければなりませんが、堕落による恨みの淵で喘いでいる私たちを、どうかお許しください。切にお願い申し上げます。


この時、私たちの心が私たちのものでなく、あなたのものであることを悟らせてください。また、私たちの体が私たちのものでなく、あなたのものであることを知ることができますように。そして私たちの心情、感情、これらすべてが私たちに属するのではなく、あなたに属して動いているという事実を、実体的に、また確証を持って体感できるようにしてください。


お父様、これから御言葉を伝えようとしております。伝える者の心と聞く者の心が隔たりなく結ばれるようにしてください。もし自分勝手な考えを立て、計ろうとするならば、天の恵みを妨げる恐れがあることを私たちは知っています。どうか応じることも、調和することも、すべてあなたのために成り立つようにしてください。この時、私たちが子どものような心情に戻り、聞こえるままに、感じるままに受け入れ、すべてを父の御手の中で始め、そして終わらせることができるようお許しください。切にお願い申し上げます。


お父様! あなたが許された御言葉を通して、イエス様がその当時語られた心情に通じ、彼の事情に通じ、また彼の理念と希望の実体となることができますようにしてください。そして、イエス様を迎え、彼の事情と心情に調和し、お父様をお迎えできる喜びの条件を見出し立てることができるこの時間となるよう、切にお願い申し上げます。許されたこの一時間を、父の栄光の恵みで満たしてください。主の御名によってお祈りいたします。アーメン。




<御言葉>


私たちは自分自身を見つめるとき、自分一人では存在していないことを感じざるを得ません。私たち自身が、何らかの事情や縁によって結ばれている社会や家庭があることを否定することはできません。また、良心を中心に考えるとき、大きく崇高な善を目指す何らかの縁の中でお互いが絡み合っているという事実を否定することはできません。


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したがって、私たちが自分自身を完全に説明し、完全に安定した位置に立つことを望むならば、これまでの環境的なあらゆる縁を整理し、新たな価値と絶対的な関係を結ぶ必要があります。また、心の理念の世界と絶対的な縁を結ぶことができなければなりません。このことを、私たちが今日この地上で生きている間に決定づけ、それを天のものとして、または人類のものとして、完全に自分自身のものとして掲げることができなければなりません。それが人間の最大の希望であり、最大の使命であると言えるでしょう。


もし神に嘆きがあるとすれば、それは神自身がそのような位置に立たれていないのではなく、神が直接創造された人間が天的な価値と調和できず、万物の存在価値と調和する存在となることができなかったことです。安定した位置で絶対的な縁を歌い上げる存在となれなかったことこそが、神の嘆きであり、人類歴史の嘆きであり、今日の私たちの心の世界に嘆きの条件として残されているという事実を否定することはできません。


私たちの心は、自分でも知らず知らずのうちに、このような絶対的な縁とその幸福を歌い上げたいと望み、自由と平和の理念を歌いながら生きたいと願っています。それが心と体の全体の願いであるにもかかわらず、心でそのような世界を成した人もおらず、体でそのような環境の中で生きた人もいません。この事実は歴史が証明しており、皆さんの生活が証明しており、皆さんの人生そのものが証明しているのです。


このように自分自身を振り返り、第三者の立場から冷静に批判してみるとき、私たちは決して幸福な者ではありません。もし私たちが不幸であるならば、それは天に代わって不幸な者であり、人類に代わって不幸な者であり、社会に代わって不幸な者であることを認めざるを得ません。


このような自分自身、そして私たちを解決し、補う方法がないとするならば、私たちは絶対的な価値を歌うことができる安定した位置に留まることはできません。そして、このような人間は、宗教的な表現を借りれば、堕落した世の中、汚れた罪の領域に生きる者と言えるでしょう。


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もし天が存在するならば、天はこのような人間を自由の実体として解放し、解放の園へ、そして理念の世界へ導こうとされるでしょう。万物を代弁し、自らの価値を尊重し、宇宙の実存世界と共に動くことができる調和の主体となると同時に、天上の創造主が私たちの動きに調和して現れることができる、そのような絶対的な姿となることが、人類が望む最終的な希望と言えるでしょう。


もし天の摂理の御旨があるとすれば、そのような存在を探し出し立てることが、摂理の最高目的であるはずです。また、もし歴史の流れがあるとすれば、その流れの目的は、このような一人一人が互いに通じ合うことができる世界を建設することにあるでしょう。


今日の自分を見つめるとき、自分が何らかの縁の世界に関与していることに気づかざるを得ません。今日の自分が存在するのは、自分自身から始まったのではなく、過去の縁を通じて存在しており、時代的な縁を通じて存在しているのです。また、未来の縁も持たなければならない運命にあることを私たちは知っています。


それでは、過去の縁の曲折、時代的な縁の曲折、未来の縁の曲折、さらに天上と自分が結ばれているこの縁の曲折をどのように解明するべきでしょうか?もし哲学者がいるならば、この問題を解明するために苦心しなければならないでしょう。もし宗教家がいるならば、この問題を解明するために尽力しなければならないでしょう。また、良心と情的な人格を備えた人がいるならば、この理念を歌い、この主義と思想を掲げて主張することによって、過去の歴史、現代、そして未来において新しい希望と新しい理念を抱き、その価値を代弁して現れる資格を持つと言えるでしょう。


しかし、人類の歴史が始まって以来、万物の霊長である人類のどの生涯においても、このような価値的な実体として万宇宙と共に歌い、万宇宙の幸福を讃美し、それを人間の前に提示した人はいません。


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それでは、天の目的、天の希望、あるいは創造の理念が、そのような一つの存在を探し出して立てることを基準としているとすれば、なぜ天はそのような理念の条件、私たちが心情で求め、縁を結びたいと願う体験的な感情を人間世界に表すことができなかったのでしょうか。また、なぜ歴史上の偉人たちは、そのような事情を私たちに紹介できなかったのでしょうか?それは、人類の歴史が私たちが望む本質と本性が調和した善の世界を促進する足場にはならなかったからであると理解すべきです。


今日、私たちが生きているこの社会も、善の理念の実体を立て、その価値を讃え、その価値を育むことができる条件を備え、またその価値のある場所に私たちが留まることができる社会ではないということを、私たちは知るべきです。しかし、この歴史や社会は、私たちの理念の世界と一致する立場ではなく、むしろ相反し、対立する立場であるということも理解しています。


したがって、この相反し、対立している状況を解消するための何らかの行動や主義、または一つの主張が出現しなければなりません。現状のままでは、すべての人間が本心で、本然の心情で求める理念の世界に到達することはできません。そのためには、ある一つの主義や理念がその方向を示しながら現れる必要があります。しかし、その理念は、相反し、対立するすべての状況を覆すことのできる歴史的な条件と時代的な環境の条件を備えなければならないのです。


しかし、歴史の中には、大衆が関心を持たない一つの分野を切り開き、その時代において大衆の支持を受けることなく、独自の道を歩んできたものがあります。それが何かといえば、「宗教」というものです。宗教です。歴史の流れに逆らい、その歴史的な路程において相反し、対立する道を歩みながらも、歴史の背後で全体的な善の理念を引き出してきた歴史的、社会的、条件的な基盤、それが宗教というものなのです。


天は歴史と共に、私たち人間と直接的な関係を結びながら進んでこられましたが、その歴史の路程において、縁を結ぶための基盤や条件的な環境を整えてこなかったとするならば、その天は今日の歴史的な私たちと何の関係もないものとなります。この基盤を成し遂げていなかったとするならば、天は今日の私たちの良心とも関係がないということになります。


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そのため、歴史的な縁を経て進み、環境的な基盤を築き上げてきた宗教は、その時代の社会と相反する立場であらゆる主張を行ってきました。それ自体も現実と調和することができず、時代の流れに反する立場から主張を行ってきたのです。しかし、この宗教がいつまでも社会と調和しないままである限り、歴史的な終末や摂理的な終末において現れるはずの幸福の園、すなわち、天が動き、人類が動き、万物が動く幸福で自由な平和の園は建設されることはなく、そのような理念も成立することはありません。なぜなら、天が崩れると私たちの良心の絶対的な善の基準も崩れてしまうからです。


したがって、その絶対的な善も、歴史的な縁の過程を経て初めて歴史的な人間と関係を結ぶことができるため、天はそのような摂理を進めてこられたのです。


6千年という長い年月を経る中で、天は何をしてこられたのでしょうか? 歴史上の人類に対して、天は新しい善の理念を打ち立て、それを基盤として宗教の形態を整え、絡み合った歴史上のすべての条件、歴史上のすべての縁を開放するために、善の理念を提唱してこられたのです。


天は、個人の歴史性と絡み合っているものや、民族が築いた伝統に固執しているものを開放する運動を進めてこられました。言い換えれば、「解く」歴史を進めてこられたのです。


歴史の始まりは善ではなく、悪でした。悪が先に出発したのです。今日の共産主義者たちは弁証法の論理を用い、その核心である「正反合」の論理によって歴史を解明しようとしています。しかし、それは正しくありません。「反正合」の論理を適用すべきなのです。つまり、ある正が存在し、それに矛盾する反が現れ、その対立と闘争の過程を経て新しいものを生み出すという論理は誤りです。むしろ、間違ったものが現れたので、それに対応する真の形態が出てきて、それと調和しながら新しい何かを生み出すという論理を適用すべきなのです。


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歴史の始まりは善ではなく悪でした。そのため、悪に対抗する新しい何かが現れ、その悪を統合して新しいものへと昇華させていく過程が歴史の発展過程であると言えます。


いずれにしても、天の目的が成し遂げられるときには、最大の善がその位置を占め、最大の解決点が現れるでしょう。その日は歴史の終末であり、宗教の終末であり、その時代の人類が抱いていた希望の終末であり、天的摂理の終末と言えるでしょう。


だからこそ、天は個人を掴み、個人を解放するために働いてこられました。また、異なる民族、異なる環境に住む人々、間違った習慣や古い伝統に浸っている人々を解放するために、多くの苦労をされてきました。このようにして、歴史的な私たちの先祖から今日の私たちに至るまでを導いておられる天が存在することに、私たちは感謝しなければなりません。


人類の歴史は縛られた歴史であるため、天はこれまで縛られた人類の歴史を解く摂理を進めてこられました。絡み合い、縛られている歴史、それが神の善の理念と調和する縁の歴史とはならず、むしろそれに相反する堕落の内容を中心として縁が結ばれているため、天はこれを解放する歴史を進めておられるのです。


誤った歴史を解放するという目的があるため、天は個人を掴んで個人を解放し、家庭に対しては家庭を解放し、民族に対しては民族、国家に対しては国家、世界に対しては世界を解放できるその一日を探し求めて来られるのが神の摂理です。これを私たちは心に留めておかなければなりません。


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それゆえ、今日皆さんにお伝えしたい題目は、「解き放ち、さらに解き放たねばならない神の御旨」です。神は、縛られ、塞がれたすべての縁の歴史を否定する立場に立ちながら、歴史的な終末の時代を見据え、この世界が神の摂理によって解放されるその日まで闘いを続けて摂理を進めておられることを、私たちは理解しなければなりません。


「解き放ち、さらに解き放つ神の御旨」、この神の御旨が歴史を解放することだとするならば、歴史を振り返ると、過去のすべての主権形態は解放運動によって徐々に崩壊してきたことがわかります。そして現代においては、民主主義の形態に至るまで解放運動が展開されています。言い換えれば、神は中世には農奴を解放し、その後封建社会を解放し、君主国家を崩壊させ、今日の民主主義という形態を築いてこられたのです。


その中で、神は全体が国家を代弁し、全体が世界を代弁し、全体が理念を代弁するという方向を目指して解放運動を進めておられます。同時に、個体が全体を代弁し、全体が個体を代弁できる基準を目指し、全体が個体を無視することなく、個体が全体にしっかりと向き合うことができる、そのような基準を目指して解放運動を進めておられるのです。


しかし、その方向性は歴史的な方向と一致するのではなく、むしろ相反する方向へと流れています。そのため、歴史的な終末時代である今日、二大潮流が対立しています。一方は共産主義であり、もう一方は民主主義です。共産主義と民主主義が対峙しているのです。


歴史的な実証から見ると、民主陣営は神の摂理の御旨を支持する基盤の上で動く陣営です。では共産陣営とは何か?それは外的な、すなわち物理的な基盤の上で動いており、心の基盤を持つ人間世界では受け入れがたく、私たちとは反対の立場にある陣営であることを否定できません。こうして双方が世界的な解放運動を掲げて展開しています。世界的な基準において、双方が解放運動を掲げているのです。やがてこの二つの陣営がぶつかるとき、何が正しいのか、何が誤っているのか、正(正)か否(否)か、または反(反)かが判断されるでしょう。


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人の価値を論じるとき、外見が良いからといってその人を立派な人と評価することはできません。その人の価値を評価するときには何を基準とするか?それは、その人が持つ思想と良心の基準です。


また、その人の思想と良心の基準に、心情の問題がどの程度まで関わっているかによって、その人の人格を論じることができます。個人の人格もそうですが、主義や思想も同様です。もし単に外面的な形だけで理念を立てたとしても、人間はそれに満足することはありません。人間は外面的なことだけで満足する存在では絶対にないのです。私たちが幸福を感じるときも、内面的な幸福の基準を確立してから初めて外面的な幸福を感じることができるのです。これが人間の本質です。


したがって、物質を基盤とし、今日の現実社会を土台にした主義や思想は、最高の善を目指して動く人間に対し、そのすべてを伝え切ることも、結びつけることもできないのです。


それゆえ、今こそ神を認め、神の働きに従って良心を動かし、この良心を基盤として主義や思想を提唱すべき時です。平和と幸福、愛を掲げ、無条件で奉仕し、無条件で犠牲となる本質的な要素を持つこのような主義や思想を持たなければ、また良心を通じて善を自動的に感じ取り、自動的に体感しなければ、人間世界で幸福の条件や幸福の理念、幸福の主義を確立することはできないということを、私たちはよく理解しています。


歴史は流れ、民族主義思想は過ぎ去り、今は世界主義思想が全体を代表できる時代です。この世界は、ある機関や代表者が支配する世界であってはならず、民主主義の形態、平等な立場で、すべての人々が「この世界は私のものだ」「主権も私のものだ」「理念も私のものだ」と言える世界でなければなりません。天は、このような境地に到達するように歴史を解放し、導いてこられています。このように摂理が進められているのです。


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神の摂理を振り返ってみると、天は時代の流れに反する立場で、内面的な面から摂理を進めてこられました。それぞれ異なる民族を対象としながらも、全体を動かすことができる善の方向を確立し、民族を団結させてきたのです。また、民族と民族を結びつけるために、新しい中間的な宗教の形態を整え、これを通じて民族を統合してきました。


今日、もしこの天的な摂理の御旨を代表し、天の摂理の前に立つことができる宗教があるとすれば、それは長い人類歴史の伝統的な基準とともに、歴史的なすべての基準、時代的な環境、そして将来の希望的な理念に応えられる内容を備えていなければなりません。


この観点から各宗教を見てみると、キリスト教が他のどの宗教よりも指導的な位置にあると言えます。長い伝統を持ちながら、神の摂理の御旨を代弁してきたこのキリスト教の歴史は、人類歴史の動きの中で変革や革命の過程を経ながらも、途切れることなく続き、今日の時代にも対応でき、未来の希望の基盤ともなり得る内容を備えてきたのです。


このことを考えるとき、私たちは神の愛がどのようなものかを理解することができます。なぜなら、神は歴史が発展し進歩するにつれて、人間が掲げる主義や思想、あるいは民族的な伝統をも変革する必要があったため、摂理の御旨に従うすべての宗教者たちに対して、世俗と縁を結ばないようにされてきたからです。一見、彼らは孤独で惨めな立場に置かれているように見えますが、歴史を知り、変革を進めてこられた神の立場から見れば、それこそがむしろ愛であり、守り導く手段だったのです。


旧約時代においては、神は律法を通して人々を天に導かれました。そして、新約時代においては、人格を基盤とした信仰を通して人々を天に導いてこられました。イエスの到来によって旧約時代が終わったように、再臨主が来られると新約時代も終わりを迎えます。つまり、宗教も最終的には開放的な歴史観を包含できる形へと変わっていくのです。


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今日、世界的な宗教、例えばキリスト教をはじめ、仏教、儒教、イスラム教がありますが、これらをどのように新しい段階へと進ませるのかが、今後の神の摂理計画において重要な課題となるでしょう。


が解放の歴史、解放の摂理を提示しているとするならば、教祖を中心とした時代、教祖を崇拝する時代は過ぎ去らなければなりません。封建社会において君主を崇める体制を打破するために闘争の歴史が展開されたのと同様に、終末の時代には、信者が崇拝する教祖と平等な価値を議論できる宗教が必要です。天はすべての宗派を超えられる人格者を探し求めるでしょう。それがなければ、歴史的な終末時代において解放摂理の御旨を完了することはできません。


現在、キリスト教徒は、他宗教を異端として扱っています。過去にもそうでした。しかし、過去のその形態をそのまま維持したままでは、新しい時代を迎えてそれを解放しようとすると、非常に大きな努力を要します。


過去のすべてをそのまま融合させることはできませんが、最終的にはそれらを一つに清算し解放しなければなりません。そして、歴史も理念の時代、主義や思想も理念の時代、私たちの心も理念の時代、そして天も理念の時代に入ることができる、そのような解放の歴史を提示できる主人公こそが神に属する者となります。また、そのような主人公が動かす宗教こそが、世界の人類が敬愛し崇拝することのできる宗教となるでしょう。


それゆえ、今日のキリスト教信者たちは、もし天の摂理がこのような解放運動を進めていることを理解しているなら、自分たちの信仰観念を解放することが何よりも急務の課題です。同時に、社会全般の条件が天に認められる縁の条件になっていない以上、そのすべての条件を解放する責任があります。そうではありませんか?これまで宗教と政治は分離してきましたが、これからは宗教と政治が結びつく時代が訪れるでしょう。


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カトリックの中心であるバチカン王国も、近い将来、政治的な形態を持つようになり、理念や思想を掲げる体制と対立する時が来るでしょう。見守っていてください。


このようにして進められる解放、その解放の方向は、一方は右に、一方は左に、すなわち左右の方向に歴史が分かれてきました。しかし、これが無限に分裂し破壊されていくわけではありません。一つの目標に向かって、「あなたも必要であり、私も必要である」という立場へと導かれるべきなのです。つまり、左右に分かれた目的は破壊のためではなく、完全に一つに統合するためであったことを、私たちは理解しなければなりません。


今日の思想でも同様であり、宗教の理念においても同じことが言えます。理念の分裂は最終的には統合のための過程であり、その方向性が天の摂理によって進められているのです。今日、世界宗教と自称するキリスト教、そして自分たちにはそのような価値観があると自負するクリスチャンたちが、自らの心と教派をどの程度まで解放し、柔軟性を持つことができるかが問題です。やがて天が時代の終末の最前線に立ち、すべての宗教や教派、信者たちに対して提唱する時が訪れるでしょう。そのような時代は必ずやってきます。


今日のキリスト教を見てみると、キリスト教もまた過去のカトリックの儀式を中心に行われていたように、ある種の形式や観念に縛られています。しかし、そのような儀式や形式に縛られていては、天の御前に立つことはできません。形式や儀式を超越し、それらを主観できる人格者は天の御前に立つことができますが、形式や儀式に囚われた者は天の御前に立つことはできないのです。


そのため、ルターは、すべての形式や観念を打破し、聖書に基づく信仰を通じて神の御前に立ち返ろうと主張したのです。これは、形式主義からの脱却を目指した改革であり、神との直接的な関係を重視する信仰を再確立しようとした動きでした。


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それゆえ、御言葉に依存して生きている人々、御言葉に支配されている人々、御言葉に縛られ、御言葉によって動く人々は、神の息子娘にはなれません。御言葉を支配し、御言葉を語ることのできる人、それがイエスであり、その代わりに立つことのできる人こそが天の息子娘となる資格を持つのです。天はそのような人を求めておられます。


ここで、今日私たちが、新教や旧教を問わず、待ち望むべきものは何でしょうか?それは、聖書の御言葉だけではなく、御言葉の中心である実体です。つまり、イエスというお一人が必要なのです。そのお一人を待ち望むべきです。御言葉は過ぎ去っても構いませんが、過ぎ去るべきでないものは御言葉の主体です。


それゆえ、今日のキリスト教の最終目標とは何でしょうか? それは聖書の完成ではありません。また、御言葉の完成でもありません。御言葉を通過し、御言葉を超越してそれを左右することのできる一つの実体が必要です。その実体こそが再臨主であり、キリスト教の希望の標本となる存在です。そしてその実体は、単にキリスト教だけでなく、仏教や儒教、すべての宗派にとっての希望の標本でもあります。


その一つの実体を待ち望む視点は宗派ごとに異なっていたとしても、彼らが証しし、紹介した内容は一つでした。それは、どの宗派であれ、必ず再び現れるべきその一つの実体に対する人格基準を明確に示していることからも理解できます。


今日のキリスト教の歴史、つまり6000年の歴史を振り返ると、旧約時代の律法主義の時代があり、新約時代の信仰の時代がありました。そしてこれからは、新しい御旨を成す「成約時代」が来なければなりません。歴史はこのように縦的な流れで進んできました。もはや特定の制度や主権が全体を動かす時代は過ぎ去り、個人が主権や組織を左右できる時代に変わらなければならないのです。


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キリスト教も同じです。今日の韓国のキリスト教を見てみると、教職者のための信徒、教職者を支えるための団体のように見えます。しかし、本来のキリスト教はそうではありませんでした。それは信徒たちのための、羊の群れのための牧者であり指導者であるべきでした。


したがって、牧師の時代は過ぎ去ります。そのまま放置してはいけないのです。天はそのように摂理を進めておられます。つまり、牧師の時代を解き放ち、清算されるのです。そして牧師の時代が過ぎ去ると、長老の時代がやってきます。「何々長老」という時代が生まれました。その後、執事の時代に移行します。「何々執事」という時代が生まれました。


では、執事の時代が過ぎ去るとどのような時代に移行するのでしょうか? それは「平信徒の時代」です。全ての信徒が主体となり、組織や主権が個々人によって動かされる時代へと進んでいくのです。これが天の摂理が向かう方向です。


すべての人間にとって、歴史的な終末も平等に訪れるものであり、摂理的な終末も平等に訪れるものです。その時代を代表する教団も、平等な基準で動いていきます。イエスも「私のため」、牧師も「私のため」、信徒も「私のため」という基準のもとで、絶対的な価値を重視し、全体的な価値に対比できる存在を探し求めるのが、天の摂理の歴史なのです。


韓国の教会界はどうなるのでしょうか? そうなります。見守ってください。これから韓国の教会、そして世界の教会に向けて叫ばなければならないのは何でしょうか?それは、教権者たちの権威は下がり、平等な形態を備えるべきであるということです。そして、世界の宗教は統合されなければなりません。こうして「世界連合」や「キリスト教連合」といった動きが生まれるのです。


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いま、私たち平信徒が責任を果たすべき時が来ました。そうではありませんか?歴史を振り返ってみても、そうではありませんか?旧約時代は神が直接摂理された時代であり、新約時代はアダムとエバに代わってイエスと聖霊が摂理された時代でした。そして今日、この終末の時代は、私たちが摂理を果たさなければならない時代です。


神の摂理を私たちの手で成し遂げなければなりません。しかし、ある教権者の支配の下に生きる命は必要ありません。私たちは、自分の価値を世界的な価値と平等に対比し、共に楽しむことができる命の価値を持つべきです。それが、今日の終末の時代における使命なのです。


それゆえ、私たち青年男女は、今日の現実の教会、教派主義に対して、まず反旗を掲げるべきです。そして平信徒の団結を呼びかけなければなりません。平信徒は団結し、不正なすべての教職者を追放する運動を展開する必要があります。


時代の潮流は、これを要求しているということを理解しなければなりません。昔は、一部の主権者や帝王、君主が神の代わりのように振る舞っていました。しかし、彼らが神そのものだというのでしょうか?彼らだけが神の役割を担うべきだというのでしょうか?違います。そうではありません。


すべての人が神の血統を受け継いだ息子娘である以上、誰もが天の息子娘なのです。


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それゆえ、民主主義という形態が生まれました。天は、あなたにも、私にも、天の息子娘となる権利を授け、解放の歴史を進めてこられました。すべてを解放し、開かれた時代を築いてこられたのです。


こうして今日に至るまで、解放を進めてきたこの歴史をどのように収束させるかが問題となっています。歴史も摂理も宗教も解放され、平等の形態を持ちながら動いており、世界の潮流もこのように動いています。この動きの中で、この世界をどのように調整し収束させるべきなのでしょうか?これが今日、政治家の悩みであり、歴史家の悩みであり、宗教家の悩みでもあるのです。では、どう収束させるべきでしょうか?


神は罪の歴史から人間を解放するために、6千年もの間苦労されてきました。多くの預言者や先祖たちを犠牲にし、さらには愛する独り子であるイエスまでも犠牲にしながら、忍耐強くその摂理を進めてこられました。しかし、こうして解放されてきたこの世界を、再び秩序ある新しい形態に変える天的な使命が残されていることを、今日のクリスチャンたちは知りません。そして、今日の人類も、どの宗教も、どの宗派もそれを理解していません。


社会と宗教がこのように動いている中で、終末においてどうなるのでしょうか? 私たちが改めなければならないものは、改めなければなりません。この課題に取り組むことが、今の時代における私たちの使命なのです。


イエスは言われました。「私が世に平和をもたらすために来たと思うな。平和ではなく剣をもたらすために来たのだ」(マタイ10:34)。これは驚くべき宣言でした。イスラエルの民は、メシアを平和の王であり、すべての人の罪を贖う救い主と考えていました。しかし、イエスはこのような驚くべき宣言をなさったのです。民族的にも、社会的にも、国家的にも、また家庭的・個人的にも、存在するすべてに影響を与える重大な宣言でした。


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さらに、イエスは続けて言われました。「私が来たのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をその姑と不和にするためだ。そして人の敵はその家族の者となる」(マタイ10:35-36)。このような言葉があり得るでしょうか?


さらに進んで、こうも言われました。「父や母を私以上に愛する者は、私にふさわしくない。息子や娘を私以上に愛する者も、私にふさわしくない。また、自分の十字架を背負って私について来ない者も、私にふさわしくない」(マタイ10:37-38)。そして、「自分の命を得ようとする者はそれを失い、私のために自分の命を失う者はそれを得る」(マタイ10:39)と。


これらの言葉は、時代の観点から見ると矛盾の中の矛盾とも言えるものでした。この言葉は、当時の価値観や常識に正面から挑むものであり、イエスがもたらそうとした摂理の方向性を示しています。これは、地上の平和や調和を超えた、神との完全な一致と新しい秩序を目指した言葉だったのです。


イエス以後、2千年の歴史が経過しましたが、もしイエスの時代を摂理の総合の時代、摂理の統合の時代と理解するならば、その時代に提唱された御言葉は、終末の時代において解放されなければなりません。また、聖書66巻の解かれなかったすべての御言葉も、終末の時代に解放されなければなりません。絡み合ったこの世界が解放され、絡み合ったいかなる主権も、いかなる社会も、いかなる家庭も、いかなる個人も、終末の時代にはすべて解放される必要があります。それでは、この中で自分自身はどうなるのかを考えてみるべきです。


イエスは、「誰よりも私を愛しなさい」と言われました。これは、革命的な言葉の中でも最も革命的な言葉でした。この言葉には、自分の両親への思いも含まれておらず、愛する息子や娘への思いも、愛する夫婦への思いも含まれていませんでした。


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天は、この世界が堕落した世界であることを認めておられます。では、この歴史はどこから始まったのでしょうか?それは、アダムとエバが悪魔を中心に血縁関係を結んだところから始まりました。天使長との不義の愛を基盤として、歴史が始まったのです。このような基盤を通じて繁殖された私たち、悪を中心に悪の種を繁殖してきた国家や民族を、天は決して容認することはできません。ここに天の苦悩があるのです。


この現実を前にして、私たちは自分がどのようにして天の御旨に応えるべきかを深く考えなければなりません。それが、今日私たちが直面している課題です。


私たちは、ノアの洪水の裁きで、ノアの家族8人だけを残して世界全体が滅ぼされたことを知っています。なぜ神は、120年間の歳月をかけて箱舟を建造したノアの家族8人だけを残し、当時の全人類と繁殖していたすべてを水で裁かれたのでしょうか?それは、悪魔の血統を受けたその時代の人類と万物を裁き、神の心情と繋がることができる、神を中心として心と体を調和させ、血縁的な縁を結ぶことができる血族と万物が必要だったからです。悪魔と縁を結んだ血族ではなく、神の愛と縁を結ぶことができる血族が必要だったのです。このため、神はノアの家族8人を残し、当時の全世界の人類を滅ぼされたのです。


イエスが万民の救い主として来られたとき、どのような救い主として来られたのでしょうか? それは、特定の主義や思想を掲げるための救い主ではありません。また、社会の環境を開拓して幸福な環境を作るために来られた救い主でもありません。


では、どのような救い主だったのでしょうか? それは、万民の命を神の命へと移し変えることのできる救い主でした。神の理念を人々に与えることができる救い主でした。そして、神の命と神の理念を備えさせ、神の愛を享受できる立場へと万民を導くことのできる救い主でした。


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イエスはこのような内容を持って来られましたが、その生涯、その心情、その愛の心情を人間の中で理解できた者は一人もいませんでした。イエスの使命と目的は、地上で天の命、天の理念、天の愛を実現することであり、それを通じて全人類を神のもとに導くことだったのです。しかし、人々はそれを理解できず、イエスの心情を受け入れることができませんでした。


このような背景の中で、イエスは嘆かれました。「もし私が地上のことを話しても信じないならば、天のことを話せばどうして信じることができようか」(ヨハネ3:12)。また、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもない」(マタイ8:20)とも言われました。この言葉は、何を基盤として語られたのでしょうか?それは、当時のいかなる主義や思想、制度、または家庭的な基盤や人情的な基盤を基にしたものではありませんでした。


イエスは、新しい理念を基盤とする制度を思い描き、その新しい制度の中で命の実体が喜びを享受できる時を夢見ていました。さらに、その実体たちが神と共に永遠の愛を歌うことのできる時を切に願う心情から語られた言葉だったのです。


このように見るとき、イエスには本当に「枕するところ」がありませんでした。イエスは極めて孤独な存在であり、哀れな存在でした。なぜなら、彼は世の中と正反対の、180度逆方向の内面的な心情と世界観を持って来られたからです。


彼が立っていた場所も、敵の土地であり、彼が生きていた生活環境も敵の環境でした。彼が従っていた主権も敵の主権であり、彼が愛を探し求めた場所も敵の世界でした。したがって、イエスがどこに動いても平和はあり得ませんでした。彼が出会うすべてが敵であり、彼が向き合うものすべてが敵でした。


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それゆえ、イエスの生涯は闘争の連続であり、彼が歩んだ道は苦難の道そのものでした。このような中で、彼の心情と摂理の目的は決して理解されることなく、受け入れられることもありませんでした。それが、彼の孤独と苦しみの根源でした。


そのような状況の中で、天の生命的な基盤を築き、神に代わって解放運動を進める責任を担ったのがイエスでした。また、天の永遠の理念的な基盤を築き、その理念を中心に革命を起こす使命を持ったのがイエスでした。今日、私たちが知っている「十字架で血を流し、死によって万民を救った弱きイエス」ではありませんでした。イエスは、億千万の人々の心と良心を貫き、イエスが右に行けば彼らも右に、イエスが左に行けば彼らも左に向かうような運動を起こそうとされました。彼の関心はそこにあったのです。


天は解放運動を進めるとおっしゃいました。時代も解放され、歴史も解放され、この世界のすべての主義や思想も解放され、宗教も解放されます。これらすべてを解放した上で、何をもってこれを統合するのでしょうか?それは、人間社会には存在しなかった「一つの心情」によって統合されるのです。


そのため、今日の人類が堕落の縁によって生まれた人種であるため、間違った関係の世界を打破する歴史が展開されています。この歴史は、解放と同時に、天の愛と心情を中心として人類を一つに結びつける新しい基準を築く運動であり、イエスが示そうとした方向性を完成させるための歩みなのです。


そのため、終末の時代には、イエスが過去に宣言されたように、「私の親、私の子が、つまり父子の関係が敵となるべきだ」となるのです。また、「あなたの夫婦、あなたの家庭そのものが敵である」と言われました。今日、家族を単位とした社会の形態を見てみてください。父子関係の義理が崩れていっています。そうではありませんか?親が子を殺し、子が親を殺し、夫婦の義理も崩れ、家庭内の義理も壊れています。


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人々が提唱していた倫理や道徳も崩れ去り、宗教の教理さえも破壊されています。このようにして、何が正しいのか、何が間違っているのか分からない時代に突入しました。すべてが揺れ動き、混乱しています。


このような中で、希望を見出せず嘆き、悲しむ立場にある時、「お父様、どうかこのような時代を迎えさせてください」と祈る人々が、三千万の民族の中から現れなければなりません。「どうかそのような時代を実現させてください」と祈る、天の息子娘たちが現れる必要があります。


今日、私たちは、イエスが宣言された言葉が、外的な形ではありますが、自動的に実現している様子を目の当たりにしています。では、なぜイエスはこのような言葉を語られたのでしょうか?それは、結局のところ、過ぎ去らなければならない歴史であり、清算されなければならない情的な基盤であったからです。


そのため、イエスは「私は神の息子である」とおっしゃり、天の心情を抱いて来られた神の息子であると宣言されました。そして、天の心情に代わって、信徒たちを兄弟姉妹と呼ばれました。すべてを明確に語られたのです。この宣言の中に、天が地上で成し遂げようとする新しい秩序と心情が含まれているのです。


では、終末のこの時代に、全世界の人類は何を感じるべきでしょうか? 神は解放運動を進められ、歴史も、宗教も、私たちの家庭基盤も解放されました。それでは、これらを統合する一つの基準とは何でしょうか?それを見つけ出す必要があります。


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神は人間に対して、万物を主管するよう祝福を与えられました。神が創造されたすべてのものは、人間の主管権の下で動くようにと約束されたのです。そのため、今日の世界は、人間が主管できる世界の形態へと向かっています。これは外面的に実現されつつあることです。


私たちは「神の御旨を復帰する」と言いますが、復帰は神からではなく、個人から始めなければなりません。その次に家庭の復帰へと進み、兄弟を復帰し、さらに親を復帰していく必要があります。


復帰の順序は、個人が神との関係を回復し、それを基盤にして家庭、兄弟、親と広がる形で進められます。この順序を通じて、神の御旨が地上に実現されるのです。全人類がこの方向性を認識し、自分自身から始めて家庭、社会、世界へと神の主管のもとに復帰していくことが求められています。


今や私たちは、イエスに代わることができ、イエスが提唱された御言葉を通じて、私たちの情的な心情を貫くことのできる存在を切望すべき時代に来ています。この存在が問題の核心です。どれだけ多くの人が集まっていようとも、神が最も愛する存在が複数いることはありません。情的な世界は一人の存在が主観するものであり、二人が主観することはできないのです。


今日のキリスト教や社会の歴史を総合的に見たとき、歴史的に代表できる民族、時代的に代表できる民族、宗教的に代表できる民族が必要です。その中で、主義や思想を代表する一人の存在が必要です。この一人が問題なのです。天はこれを広げて統合しようとしており、そのためには一つの中心を立てなければなりません。


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4千年の歴史を広げ、それを再び統合するために来られたのがイエスであったように、6千年の歴史を広げ、それを再び統合するために来られる方が再臨主です。そして、その再臨主はどのような主義や思想を持って来られるのでしょうか?それは、「心情主義思想」です。


歴史を振り返ると、思想主義の時代以前には真理主義の時代がありました。哲学的な基盤や知識的な基準を持って社会を導いてきた時代です。そして、それを経て今日の思想主義の時代に至っています。しかし、今日においても哲学的な基盤に基づいて動いているものの、それも思想圏内で互いに批判を受けています。


最終的には、再臨主が心情を中心とした思想を提示し、すべての歴史、思想、そして心情を統合する基盤を築かれるでしょう。この新しい基準が、人類を導き、神の御旨を地上に成し遂げる鍵となるのです。


思想主義の時代が過ぎ去った後、人類が最終的に求める時代は「情的主義の時代」です。それは単なる人間的な感情(人情)ではなく、天の心情を通じることのできる「情的主義の時代」です。この時代について私たちは深く考える必要があります。どれほど優れたものがあったとしても、必ずこのような時代が訪れなければ歴史は解決されることはありません。


このような世界的な終末時代が訪れるとするならば、宗教理念を持つ世界的な宗教の中で、キリスト教がこれを最も深く洞察してきました。では、キリスト教の情的な基盤とは何でしょうか?それは、イエスが「私は新郎であり、あなた方は新婦である」と語られた新郎新婦の横的関係、そして「神は父であり、私は子である」と語られた父子関係に基づく理念です。また、「すべての人類は兄弟である」と宣言し、全世界の人類を兄弟として結びつけた理念です。


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これらは単なる観念主義ではなく、良心を超越した情的主義です。この時代は天の心情を通じる「天宙主義の時代」となるのです。


「天宙主義の時代」では、神と人間、そして人間同士が天の心情を通じて真に結びつき、横的な新郎新婦の関係、縦的な父子関係、そして全人類の兄弟関係が実現されます。この新しい時代は、人類の最終的な希望であり、歴史を完成させる鍵となるのです。


天は、一つの完全なものを見出すため、完全な「一つ」が現れるために、偽りのものを打ち壊されます。腐敗していくように見えながらも新たな革命の旗が掲げられるように、世界が分裂しているかのように見えながらも内面的には統合に向かっています。このような原則があることを私たちは理解しなければなりません。


このような世界は必ず訪れます。その世界は全体として来ると同時に、個体としても訪れます。問題は全体ではなく、個体にあります。そのため、個体を尊重する観念、自分自身に対する観念が重要です。では、あなたは今どこにいますか?天はあなたに対して、「どのような主義、どのような宗教、どのような歴史的な潮流、どのような位置にいるのか?」と問いかけるでしょう。


この問いに対して、あなたが「お父様!」と答えられるためには、かつてイスラエルの選民に向かってイエスが主張されたように、「私は平和をもたらすためではなく、分裂をもたらすために来た」と言える存在でなければなりません。また、「人間を愛するよりも天を愛せよ」と堂々と述べることができる、責任感を持った毅然とした姿の人物でなければなりません。


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そのような責任を完遂することができる人物、天の御旨に応えることのできる人物になることが求められます。それは、全体の変革や統合の中で、自分自身が個体としての使命を果たし、天と直結する存在となることを意味します。あなたの位置を問い直し、天の問いかけに真に応える準備ができた人が、その役割を果たすことができるのです。


だからこそ、すべてを解放しなければなりません。歴史を解放し、宗教を解放し、心情の世界を解放しなければなりません。そして、これまでの主義や思想、理念に代わる新しい理念、これまでの生活環境で得ていた命の力に代わる新しい命の力を持たなければなりません。その命の力と理念と共に喜びを享受できる新しい心情を持つ必要があります。


イエスは、当時の悪魔の世界に来られたために、その時代に歓迎される存在ではありませんでした。イエスには、その時代に友人や協力者はいませんでした。孤独に迫害を受け、最後には一人で十字架を背負われました。天を代表して来られた方でしたが、悪魔の世界という敵の地に来られたため、その世界にとってイエスは敵そのものでした。敵を歓迎することなどあり得ません。それを歓迎するなら、それは偽りです。


今日、民主社会においても、その社会に反対する代表者が現れると注目を集めます。同様に、共産社会でもその社会に反対する主義を掲げる者が現れると、関心が集まります。キリスト教社会でも、その思想に反対する主義を持つ者が現れると注目されます。さらに、心情世界において新しい主義を掲げる者が現れると、すべての人間が関心を持たざるを得ません。このような時代が訪れていることを、私たちは認識しなければなりません。


この時代には、新しい命、新しい理念、新しい心情を持ち、人々の注意を引きつける中心が現れる必要があります。その中心がすべての対立を超え、解放を成し遂げ、統合する新しい時代の基盤を築くのです。この歴史的転換点において、私たちもまたその変化にどう向き合うべきかを深く考えなければなりません。


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御言葉選集6(9)

2024年11月03日 17時38分42秒 | 学習
文鮮明先生 御言葉選集 6 - 9
新しい自分と、その自分が生きることのできる天国
1959年6月7日(日)、旧本部教会


ヨハネによる福音書 3:1-15




1
<祈り(Ⅰ)>


困難な人生の道を歩む私たちが、心に沈んでいることを知らないであり、考えが残っていることも知らないであることを信じます。神様になる、そしてこの地と全ての人々に向かって歌う心を大切にしていなかったことを知っています。


父なる神さま! あなたが私たちに与えてくださった賜物が圧倒的に素晴らしいものであり、偉大である私たちが感じていますが、その賜物を受けながらもあなたに栄光をお返しすることができなかった私たちを、お父様、どうかお許しください。


父なる神様、あなたは悲しみに満ちた世の中にあって、その悲しみを覚悟する道を先に私たちに示してくださったのに、その予告された御心に十分に受け止めることができなかった私たちを、どうぞお許しください。


私たちは、残された人生を父なる神様の喜びと栄光のために捧げ、すべてを神様の心に忠実になって生きていきたいと願っております。悪魔の権勢があまりにも強く、私たちの周囲を取り囲んでおります。 これらの束縛から抜け出すことが非常に難しいことを、父なる神様もご存じであると信じます。この時、私たちのもとに顕現してお導き下さい。


これまで、解放された場であなたの栄光を讃え、あなたの先に喜びを捧げることができなかった私たちを、どうかお許しください。力と希望をお与えください。 私たちの勝利の姿で復活の栄光を賛美することができるよう、再創造の御業を起こしてくださいますよう、父なる神様、心から切にお願いいたします。


2


死の権勢が私たちを押し流しているため、私たち生命の覚悟を持ち、生死をかけた闘いを経てこれを押し進めていくための、自発的な力と自動的な能力が必要です父なる神様、今この時、その力を切にあなたの息子や娘がここにおります。に、一日一日の生活を切り拓いていく天の鋭精たちとならせてくださいますよう、愛する父なる神様、心から願い求めます。


これまでの歩みが前進したとしても、父なる神様、どうかお許しください。 もし未来にあなたの御心があれば、その御心と理想、そして希望を見据え、今日も明日も開拓者としての責任を果たせるようお考えくださいますよう、愛する父なる神様、切にお願いします。


父なる神様、今は自主的に聖別し、自主を省いてあなたの前にあってはいけない時です。父なる神様、終わりの日には、自らあなたの心情を通じ、自らサタンの勢力を取り除き、自らの勝利の姿であなたに栄光を讃えることができる者が必要とされます。


父なる神様、この道を歩むために、あなたの心情を察する御言葉も聞き、あなたの恵みを証する行為も見てきました。祭壇を向こう、天の精鋭とならなかったことで、あなたの嘆きを言うのではないかと恐れております。


お父様に対して忠誠を尽くしたと自負する者があり、お父様に対して自ら正しいと主張する者が果たしているでしょうか。私たちはただ不足しているものばかりであり、不忠な部分ばかりがある者たちでございます。善を志向されるお父様の御心を知り、善の意志を立てようとされる方をお探しであることを承知しつつも、思い通りに行動できない不忠の身でございましたことをお許しくださいませ。このような事情が交錯するお父様の御心を知ることにより、私たちのすべてを差し出し、お父様がお受けになることができるものとして再度整頓させてください。お父様の御心をひたすら抱きしめ、お父様にすがり、お父様の行かれる所に私たちも共についていくことができ、お父様が動かれるままに私たちも共に動き、お父様が行動されるままに私たちも行動できるようにしてくださいと、お父様、心から切望し願っております。


3


ただひたすらあなたの情に抱きつき、あなたにしっかりと捕らえられて、あなたが行ける場所にはどこでも私がいられるように、あなたが動けるたびに私たちも一緒に、あなたが行動されるたびに私たちも一緒に行動できるようにしてください。父なる神様、心から切に願います。


父なる神様、今は自主的に聖別し、あなたの御前に立っつべき時です。父なる神様、終わりの日には、自らあなたの心を理解できる者、自ら悪魔の勢力を抑える事ができる者、そして自ら勝利の姿を備え、あなたに栄光をお返しすることができる者が必要とされます。そのような姿を成し、そのような存在を立てるために、あなたは私たちをお呼びくださいましたが、今日の私たちはあなたですの御前に顔に向けられない姿であることを、お許しください。


父なる神様、この道を歩むにあたって、あなたの心情を理解するための御言葉も聞き、あなたの恵みを証明することも目にしてまいりました。天の御前に忠実な祭壇を築くことができず、天の精鋭になれないため、あなたが怒られるのではにもどうか恐れております。


父なる神様、あなたに対して忠誠を尽くして言う者や、自主的に正しいと胸を張り張って言う者が、私たちの中にいると信じています。私たちには至らない点ばかりで、善を追求されるあなたの心情を理解し、善の御心を中心として見る者をお探しであることを知りながらも、その御心通りに行動できない私たちを、どうぞお許し下さい。


このような状況の中で交じり合ってあなたの心情を考えて、私たちを差し出して、あなたが見つめられるように再び整えられることができますように。捉えられ、あなたが行ける場所へどこへでも私たちも共に行き、あなたが動くたびに私たちも共に動けるようにしてください。神様、心から願い求めます。


4


どうか、この三千万の民族を再創造してください。この人々の生命を再び、父なる神様の希望の園へと導いてください。この民族を導くために適当たち私とならせてください。この御心を申し上げますために、まず私たちを神様の御前にお招きいただきましたので、この皆様に天の心を伝える責任を果たせるようにお許しください。 そして、天の御言葉を伝えることのできること息子娘とならせてくださいますよう、父なる神様、心から願い求めております。


父なる神様、今日ここに集まったあなたの息子娘達、それぞれの心情は違うかも知れませんが、その心の中心は同じであると信じています。あなたの心情を供えたいと願っていますから、この思いを元にお導きください。父なる神様、どうか動かれて、私たちに復活の栄光をお示しください。そして、私たちを解放の恵みの領域に移してくださいますよう、愛するお父様、切に願っております。


この時、あなたと私たちの間に隙がないかと、数え切れない悪魔が見つめていることを私知っています。私たちの体、あなたの事情と私たちの事情、あなたの願いと私たちの願いを合わせて、お父様が優しく私たちに取り組んでこのひとときとなりますよう、心から願いを求めます。


どうか私たちが押し寄せる悪魔のあらゆる力を避け、父なる神様の御前に勝利の栄誉を捧げることを約束するこの時とならせてください。そして、最終的な決断を下して頂きます様に、愛するお父様、心から願っております。


父なる神様、この時間をお決めしましたので、どうかあなたの御心のままに導いてください。そして、私たちの前に親しく御言葉を伝えて頂き、その御言葉をお授けください。


5


これからのすべての時間を聖なる三位一体の神が優しく主宰してくださいり、数千万の聖徒が共に守って悪魔が一切入っていないことのできない時とならせてください。た体、聖別された心情とともに、生ける供え物として父なる神様の御前に寵愛され、「神のものである」と認められるこのひとときとならせてくださるこの礼拝の時間となりますよう、心から願っております。


出席できなかった兄弟姉妹がいた同様に、どうか父なる神様、同じ恵みによって彼らをお守りください、祝福が恵みによって守られるよう、心からお願い申し上げます。すべての祈りを主の御名によってお捧げいたします。アーメン


どうか今、私たちの心がどこに残っているのかを見つめられるようお許しください。 体は一つの場所に集まっておりますが、心は様々な方向に動いていることを承知しております。の塊が自由に動ける父なる神様の御手に従っていたアダムのように、私たちの心もまた、父なる神様が主管されます様に願います。


今、私たちの体は一つの祭壇の形を成していますが、その心の本来の姿と本質が、父なる神様の心情を近く至聖所としているように、このひととき、尊き父を恋い慕い、畏敬の思いを持てる様にお許しください。


穏やかな父なる神様の御姿に接して、自分でも知らぬ間に切なる思いが心に染み渡るような感覚がなければいけないと感じています。深いところで私たちと語り合うことを喜び、静かに現れて私たちの使命を傷つけようとされる父なる神様の御働きを、私たちは心から望まずにはいられません。


6


私たちは、静かにおられる父なる神様をお迎えし、父なる神様と密かな事情を通せることができる姿になれなかったとき、悲しくて孤独な方は父なる神様であり、困難な立場にいらっしゃったのはお父様であった事をしっております。


そのような立場に優しい父なる神様を私の優しい父としてお迎えし、一体となる関係を結び、永遠の命と永遠の愛を中心として一時的に分かれることのない縁で結ばれていると思われてもいいと思うそれでも、もし私たちの心にこのような思いが湧き出ない時には、どうして私たちはあなたの息子と娘と呼ばれることができますか?もしそのような私たちであるならば、許されようとしている天国の理想も私たちには関係がなく、歴史を通して労をとっていた父なる神様の慰めの基盤も私たちには無縁であることを、この時に悟らせてください。


慈悲深い父なる神様、愛の父なる神様、哀れな者達をそのまま放置すれば、死の影の中で永遠に抜け出せない姿になってしまいます。 、何を持っているというので、父なる神様の前で自分を弁明できるでしょうか?何もありません。あると言うのは至らなさばかりであり、感じているのは畏敬の心のみであり、お父様の御前にお許しを願うばかりで御座います


摂理の時は終わりを急がせており、死の波が私たちの周囲を押し寄せて、私たち一人一人を容赦なく飲み込んでいます。覚悟の父なる神様が、私たちのために憂θされるその心情がこの地に残されており、労苦の跡が残っていることを知っています。神様の心が言い表せないほど焦っておられることを理解します。どうか、お父様、この時、私たちを見つめて、導いてくださいますよう、心から切願っております。


私たちが孤独な心情を抱えているなら、この時すべてを把握して頂き、その心情を包んで変えて頂ける様にして下さい。悲しみと苦しさを抱えているなら、お父様の喜びを持って命の心情に変えて頂き、困難な状況をから再び力を求めなければならない事をお許しください。お父様、心から切に願い求めます。


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お父様、ここに集まった者の心情を共に一致させて頂ける様にお許しください。そして、お父様の天的な理想を目指し、その摂理の理想を仰ぎ求めてここに集まりましたので、お父様、どうか私たちを覚えて下さり、訪ねてくださいますよう、心からお願い致します。


誰がお父様の御前で自信を持つことができるでしょうか? お父様が「自信を持ちなさい」と語って下さったので私たちもまた自信を持ちたいと願いました。 「これが正しい」と言われたので、私たちもそれが正しいと感じたいと願いました。


父なる神様、三千万のこの民族をご覧下さい。どこへ進むべきかも知らず、苦しみ中、生と死の岐路で叫び声を上げています。悪魔の手がこの人々の命に向かっています。その勢力はますます増しており、お父様、私たちはこれを悲しむことしかできておりません。この人々の道を切り開き、彼らを縛る死の縄を断ち切り、勝利の基盤を高めなければいけないことを私たちは知っています。お父様、もし私たちに力が足りないのであれば、その力をお与えください。また、決断と勇気の心が足りないのであれば、その決断と勇気をかつてヨシュアとカレブに「強くて、勇敢であれ」とお告げになったように、今この時、同じ励ましの言葉をお許しください、私たちを励ましてくださいますよう、お父様、心からお願い致します。


どうか私たちがこの三千万の民族をお父様の祭壇の前に考え、お父様の命と結びつけることができるようにお許しください。それが断たれないように、すべてを犠牲にしてでも戦い抜いて、お父様の息子娘となれるよう導いてくださいますよう、お父様、心から切実に願っております。


今日もまた、遠く地方に広がっているあなたの息子娘達、悲しい心情を抱きながらお父様の前で思い出していることと思います。私たちを励まし、慰めてくださいますよう、心から切にお願い申し上げます。


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悲しい状況に置かれても、人にその思いを理解する環境がなく、孤独な立場にあってもその心情を分かち合う家族を持たないあなたの息子娘たちを、どうかどうか考えてください。心情に結ばれた世界では、時間や空間の距離を超えて動くことができることを知っています。どうかお一人様に恵みの御手を差し伸べて、皆様の心を感動させて、またお父様の心情にしっかりと取り組んでくださいますよう、お父様、心から切にお願い申しあげます。


今、許されたこの時間に御言葉を持って下さるお父様、共にいてください。良い言葉も祝福の言葉も必要ありません。悟ることであり、苦痛の血統から抜け出さずにおり、裁きの座に立つことを恐れる心を持つことである事を悟らせて下さい。心よりお願い申し上げます。


どうか、伝える人の心も、受け取る人の心も二つにならず、一つの心情が繋がり合って、お父様の静かな心情に通じるように導いてください。神様の前にひざまずいて、自分でも知らぬうちに礼拝したような心情で溶け込む一時となるように導いてくださいますよう、お父様、心から切にお願いします。


今までに無い時間となるようお導きください。主の御名によってお祈りいたします。アーメン






<御言葉>
「皆さんに伝えたいテーマは『新しい自分と、その自分が生きることのできる天国』です。この『新しい自分と、その自分が生きることのできる天国』というテーマについて、少しお話したいと思います。


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地上には多くの人が住んでいますが、その心に天国を持っていると認められる人は誰もいないでしょう。また、人間が憧れ、探し求めてきた理想世界とは何かと言えば、それがすぐそこにあった天国です。


「今日のこの世界には、良い生活を送り、恵まれた場所にいたいと望む人は多いですが、『よく生きた』とか『祝福を受けた』と言う人は非常に少ないのが現状です。今の状況を考えると、地上で生きている私たちの生活が天国生活ではなく、その逆の生活であるこの境界線に立つ私は、天国に向かって進むべき立場にあります。そのような場所を目指して生きていかなければ自分の立場である私たちである自分自身のことも否定できません。ただし、私の心はより良い理想を求め、私たちの身体もよいものを求めます。


「しかし、今日に続くまで、歴史上これが最高に素晴らしいものであり、ここが人間の本心に近い場所だと自信を持って示せるような場所や、それなりの生活様式や生活を営む社会組織は、まだ人類の歴史の中に現れていません。


私たちの心が理想の世界を超えているにもかかわらず、望まない生活環境から逃れられず、今日も困難と共に生きています。そしておそらく明日も同じでしょう。私たちの人生の歩みの中でも、理想の世界を憧れながらも、その環境の中で嘆きや不満を抱いて生きている状況にあることを、誰も否定することはできないでしょう。


このような困難な環境に置かれた自分自身を勇気づけ、乗り越えて、さらにまた乗り越えていくことで、私たちが望む希望の園、理想の園、幸福の世界をいつかは実現し、いつか私たちが本当に願うものを中心にして生きられるのでしょうか? これこそが、今日の私たちが全面的に深く考えなくてはならない問題の中の問題であり、人類が再び、解決しなくても良い、最も難しい課題であることを私たちは理解すべきです。


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だから、私たちはこのような問題をただ見ているだけで省略することはできません。 また、これは実現が難しい問題だとしても、私たちはそれを断ち切って生きることができない運命にあることを、自分の人生を通してよく理解しています。


私たちはこの地上に生まれました。しかし、この地上に一つの人生を持って生まれてきたのが先生たのか悪かったのか、私たちは深く考えたことがありません。人々の中には、現実の中でこうして生きていることが真実の人生なのか、今日はないのかを考えずに生きている人が多い。 「いく、一応死を迎えなければいけない立場にあることを理解しています。私たちには、死という峠を越えなければ運命に置かれていることをよく知っています。


そもそもは、自分の死が真実の死であるのか、自分が真実の場所で死ぬのか、現状ない場所で死ぬのかみたいな問題が、皆さん自身と直接関係しており、皆さんの人生真剣に取り組んでいます」ことを忘れてはなりません。私たちが一度始めたことには必ず終わりを迎えなければいけない、ありがたい関係の中に置かれていることを意識する必要があります。


自分が親の血肉を受けてこの地上に生まれたことを誇りに思う人も多いかもしれないが、真の親の心情を持っている者であれば、生まれた子どもを見て嘆いているおそらくその子が生まれた瞬間、幸福の巣にいるようであっても、その人生が幸せであると断言できない以上、産んだ親自身も喜びの心情を味わう前に、悲しみの心情を味わうのが一番なのです。


その子の誕生が幸福の楽園から来たものでないと認めない、その子が生きる生活もまた同様であり、そしてまた死の峠も同じようなものでしょう。このような状況の中『あなたは真の人生を切望したことがあるのか? あなたは真の人生の価値を讃えながら最後に嬉しい死を勝利のうちに乗り越えていける自信があるのか?」と問われたとき、誰も『いいえ』と答えるでしょう。


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そのため、このような個々の人間、すべての人間が堕落の範囲内にあり、嘆くべき運命にあることを否定できません。覚悟して、私たちは正常な心の世界にいるのではなく、異常な世界、異常な環境に置かれています。そのため、人生全体、とりあえずその日から死ぬその時まで、誰もが『幸福』という言葉を本当に求めることができないのです。


人間が求める幸福や理想、希望といったものは、実際には今日の私たちと関係を持っていないことを冷静に考えないといけません。自分が自ら楽しんでるだけで、喜ばせる存在にまだいないからです。


私が自分の内に希望の実体を持っていれば、その希望を実現したことで喜びを感じることができるでしょう。また、もし私が理想の実体になっていたら、あらゆるものに『私についてこい』と堂々と、自信を持って立つ立場に立つことができたはずです。ですが私はそのような立場に立つことができていないのです。


本来であれば真の理想を持つべき人間が、そのことを見据えず、幸福な環境で生きるべき人間が幸福の理想楽園を無理してしまいました。 本来、人間は自由と平和を歌い、さらに創造主の前で、自分の心に染み込むような全ての幸福の要素を持って栄光を讃える存在であるべきであるにもかかわらず、そのような存在になることができませんでした。


これ以上に哀れで悲しいことはないと、まず理解しなければなりません。


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そのために、イエス様は4千年の歴史のすべての重荷を背負い、4千年の歴史の中で生きた先人たちのすべての責任を担い、また4千年の歴史の中で人々が思ってきたすべての理想と希望を背負い、幸福な天国の理想を持って来られたのでした。これは中心の中の中心であり、私たちの生活全体の中心であり、希望や理想、さらには生死における中心にまでなれたはずです。そしてイエス様はこの地上に『幸福』という名詞を残しました。


天は、この嘆きの領域に残っている人間たち、不幸な死の領域に残っている人間たちを、新たな希望を持ち、新たな天国の理想の中で幸福を感じられる存在に回復させる」そのために、そして自分の意志をもう一度立て直すために、4千年という長い年月をかけて摂理を行ってきたのです。


では、この摂理を成就させるためには、まずどのような作戦を立てて進めばよいのでよろしくお願いします。 それは、一人の人を立て、その人を聖別し、特別な立場に立つという方法を現在、地上にいる人間はそのままでは天とつながることができないため、天は長い歴史の中で人間とつながりを持つために、選ばれた民を選んであげられたのですそして、その選民の中からさらに選ばれた者を立てられたという摂理の歴史の歩みを、私たちはよく理解しているのです。


ノアを選んだこともそのためであり、アブラハムを選んだこともそのためであり、モーセを選んだこともまた同じ理由でした。


神はイエス様お一人を立て、4千年の歴史を終結させ、このイエス様歴史上のすべての真剣を晴らし、解消しようとしました。それが神の御心だったのです。しかし歴史的な摂理に従って選ばれたイスラエルの民も、イエス様に反意を持つ状況に置かれました。イスラエルの民だけでなく、その時代に生きていたすべての人類もまた、イエス様に従えないという立場にあったのです。 これまでのどの被造物も同じ状況にあったのです。


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天が存在しないのであれば別ですが、仮に天が存在するのであれば、実体である人間が望む理想の中心や幸福な環境を実現するためには、必ず行う原則的な基準を定める、その基準から始めることが摂理の絶対的な法則であると言えるでしょう。


公式を通さなければ問題を解けないのと同様に、歴史的な懸案を乗り越え、人類の心に紹介できる一つの原則的な基準が立てられなければ、天のどのような幸福があってもいい」同様に、天のような理想や命があっても、それは人間と関係を結ぶことができません。そのため、天の心情を代わりに伝え、天の幸福を代わりに実現し、天国全体を代わりに担えるようにするために、神はイスラエルの民にそのような心情を忘れて理想的、理想的な継承が可能な摂理を進められたのです。 、そのイスラエルが天と実体的に不安く幸福の園、善の園を築くために、神は4000年の摂理の歴史を経てイエス様を送られたということを、私たちは理解しています。


では、イエス様とはどのようなお方でお願いします。4000年の歴史の歩みでは、誰も神の喜びを紹介することができませんでしたが、イエス様の到来によって神の初めての喜びが紹介され、神が許された幸福の園が築かれる可能性があったのです。私たちは、イエス様がそのように歴史的な新しい存在であったことを理解しなければなりません。イエス様の姿こそ、先祖たちが待っているだ一つの実体であり、先祖たちは戦いながら求めようとした希望の存在であったことを、当時のイスラエルの民は理解しませんでした。


また、イエス様ご自身は、先祖たちの希望を再び蘇らせて存在してあり、さらに神の心に深く刻まれていた地上の希望を代わりに考えて存在しました。そして、神が本気で思ってやまなかった天国の理想を人間世界に実現するために送られた神の代理人としての存在であり、人間にとっては幸福の園を築くための私たちの代理人でもあったのです。そのために、イエス様は地上に来られたもの、新しい世界の主人公とはならぬ、新しい世界の民を持つこともできず、新しい世界の生活を開く切り捨てることもできず、新しい世界の社会や新しい世界の国家を築かず去られたということを、私たちは理解する必要があります。


現在、私たちが生きているこの地は堕落した世界です。堕落したこの地上のすべては、神が頂上でおられた実体にはなりえないため、神が喜ばれる形として現れることができません」のです。、私たちが暮らしている今日の生活や環境、国というものは、神の心情に直接見られることができない環境であり、社会であり、国であり、世界であるため、神はこの世界「『裁き』という名前を考えて見られるということを理解しなければなりません。


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では、神が今待っているのは何でしょうか? それは新しいものを待っているということを理解しなければなりません。イエス様がユダヤ教の前に現れて、選ばれた民として誇示していたパリサイ人たちの前に現れたとき、イエス様は彼らに向かって『あなたたちが主張し、誇示しているものだけでは十分ではない』と言いました。実体として、新しい理念と新しい宇宙観を携えて来られたため、『誰も私を通らなければならない』ということを示すために、またその立場を宣言するために出ていき戦われたのが、イエス様の3年間の公生涯であったということを、私たちはわかりませんでした。


そのようなイエス様の前に集まった多くの群衆や、イエス様についてという弟子たちに対して、イエス様は新しい群衆となり、新しい弟子となることを願われました。はイエス様と出会いながらも、彼は新しい心情、新しい理念、新しい命、新しい幸福を紹介し、それらを築くために来られたと信じて従った人は随分いたのです。地上に来られながらも、自らが新しい理念、新しい主義、新しい生活様式、新しい世界の形を十分供えていました。


このような心情を抱きながら拝見されましたイエス様の前に、ニコデモが現れました。彼はユダヤの指導者であり、選ばれた民を率いる立場にある教師でした。イエス様は彼に『もう一度生まれなければいけない』ことを強調しました。 同様に、今日の私たちもまた、再び生まれなければ運命に置かれているのです。


6千年の歴史にもしも終末があると考えるなら、その時に歴史のすべてを清算しなければ天は見てられます。 天は、この罪に満ちた世界をある時点で裁き、清算そのため、私たちは今日、終末の日を恐れながら信じる道を心得ています。すべて清算し、新しいものを掲げる必要があります。


歴史の歩みを振り返ると、過去に多くの主義や主張が歴史の進歩とともに歩みやってきました。そして、終末の瞬間ある今日、私民主主義と共産主義がどちらも優劣を競い合っている状況にあります。


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今日、天は私たち人間に対して、新たな第二の自分となることを捉えております。そのため、皆さんの良心は、今の自分ではなく、さらに新しい自分を求めてさまよっているのです。良心に従って生きている私たちは、この事実を否定できません。私たちの良心は『このままではいけない、このような生活を続けてはいけない…』と感じ、このような社会や世界の現状ではいけないと感じています。


そのため、私たちは良心の働きによって、自分の心や理想に沿って、心の中に平和をもたらし、心の中で幸福を感じられる新しい自分の姿を、知らなければなりません。


イエス様は、4千年続く命の帰還摂理の歴史を終結させるために来られましたが、何を持って来てくれたのでお願いしますか?それは新しい命を持って来られた。だけでなく、新しい理想も持って来られたのです。 そして、新しい理想を持って来たと同時に新しい命を持ってこられました。


今日、皆さんは、自分の心情を通して天から与えられる運命の流れがある時々、その流れと一体となり、共に動ける生命の躍動を感じることができるでしょうか? 存在、理想的なものすべてを動かせる中心的なの心情を感じられているでしょうか? 万象を抱き、その心情で包み込むような愛の心情を体験できているでしょうか? 私たちは、残念ながらそのような状態には達していません。


神が存在するなら、その神はどのようなお方なのでしょうか? 生命力を持つどのような存在も、今日この瞬間も動き続け、さらに今日も、永遠の未来に向けても動き続ける方です。また、生命を持つ存在であれば誰でも、神と共に永遠にいたい、神を中心に生活を共にし、生死さえも共にしたいそのような理想の範囲から外れることができない世界において、本体として存在されるのが神なのです。創造された万物と深く関わりながら、全宇宙を主管されるお方であるのです。


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今日、私たちは新しい心情を待っています。そして、新しい理念を探しています。その新しい理念はどこで上映するのでお願いしますか?それは、人と人の間で成り立つものではなく、私と神歴史の終末には必ず裁きがあるだろうが、その裁きとは何でしょうか? それは、神と人間が存在していたすべての間接的な条件を清算する「してしまうことです。この間接的な条件が清算されると、そこから人類と神が直接見つめられる新しい歴史が展開されるのです。


こんなことがなければ、神が存在しても意味がありません。もし神がこのような目的を中心に摂理を進めておられないのなら、今日のキリスト教において『裁き』という言葉」 「しかし、『裁き』という言葉があるから見て、この目的を中心に摂理を進められるお神が確かに存在していると考えられます。


私たちは堕落によってすべてを学びました。生命の本体となる主人公を学び、理想の主人公を理解し、愛の主人公を通り抜けた存在なのです。そのため、私たちの心は真の喜びを覚悟生命私たちの心は、より高い宇宙的な理想を待っています。そして私たちの状況は、さらに高次の愛を求めています。


堕落後、人間が探し求めてきた生命力、人間が追い求めてきた理想、堕落した人間の情を中心に絡み合ったその愛というものは、堕落の歴史から出発したものであり、神の理想があった楽園から始まったものではありません。


今こそ、6千年の歴史のすべてを未練なく押し流せる生命力が必要な時が来ています。私たちには、歴史に代わることができる生命力、6千年の間に積み重ねた力や生命の価値を誇ったそのすべてを、ためらわずに押し流さなければなりません。


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6千年の歴史とはどのような歴史でしょうか? それは、生命力を持った人間に回復するための歴史です。 思い切って、今日の私たち、6,000年間サタンが守り、サタンが支配してきた領域で動いていたすべてを押し流すことができる生命力を持たなければなりません。


新しい自分として現れるためには、6000年の歴史の過程で今日まで形を成してきたあらゆる主義や思想があっても、それを押し流せるような新しい理念を持たなければなりません。でなければ、私たちは新しい時代の先駆者として立ち上がることができませんし、私自身が新しい自分として生まれ変わることもできないのです。 6000年の歴史を拒むだけの生命力を持ち、これまでのあらゆる主義「や人間が追い求めてきた理念を押し流せる新たな理念を持たなければ、新しい自分になることはできないのです。


今日ではありません。今日の人間社会において、私たちの家庭が最も情で深く深く考えて歴史は進んでいきました。天もまたこれを求めてきました。でも、家庭が理想を実現するための完全な基盤になれない為に、最終的にはそのすべてが崩壊する運命にあります。


今日の人類は、20世紀の文明を超え、世界を自由に動ける立場にあるように見えますが、実際には、彼らが持つ生命力はこの世界を動かすには非常に穏やか、十分なそして、彼らが感じている状況的な心情も同様に弱まっています。 物質的には世界規模の形が整えられつつあるように見えても、内面的な生命力においては非常に脆弱であるのが20世紀の文明の時代の人々である。


理念に抱いた深い心情を持つ人がいない時代、さらには真実の人間の愛の心情を見つけることができない時代になりました。


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そのため、家庭を見回しても、夫婦や親子の間において、天の前で誇れる心情のつながりを見つけることができない時代になりました。 夫婦の関係も、兄弟姉妹の関係も、友人の関係も、義理や倫理の法則はもちろん、情の基準までもが崩壊する


さて、今この世界の終末においては、この混乱した世界を収拾できる生命力が必要であり、理念的な価値が必要な時が来たのです。そのような時が訪れました。 生命力を持った愛が全体を見据え、一つの目的のためにが団結できるような形の求められる時が来たのです。


天はすべての人々に向けて御言葉で予告しました。 終末には愛が冷めることを、すべての人が天を断み、背を向けるを、そしてその時には皆が労働苦と苦痛の道で倒れるもし永遠の生命の力があれば、どんな苦しみも問題ではなくなるでしょうが、終末には苦痛に疲れ果て、天に背き、愛の心情が分裂することになると言われていました。 そうです、それが終末の時なのです。


では、天は何を持って再び来られるのでしょうか? 天は、世界を去る天ではなく、新しい理念を持ってこられます。天は生命の力を携え、約束の理念をもって、愛の源として現れるのです。


これは、堕落した歴史の道を織り成し、私たちにはこれまで感じてきたどんな生命の実感よりも、さらに強く、永遠に享受できる生命が必要だということです。その生命が感じられる場所こそが、永遠の安息の場であり、そこは一時も離れたくない場所なのです。


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変貌山で変わらなかったエリヤとモーセ、そしてイエスの姿を見ていた三人の弟子たち、その変貌山にずっと留まりたいと憧れました。皆さんも、こここそが『自分の永遠の幸福』と祝福を享受できる場所だ』と感じ、始まりも終わりも見えないような境地で生きる心情を持ち、そのような経験をしたことがあるでしょうか?


全ての天地万物が頭を垂れることのできる生命の威力を持って現れるとき、その人は万物の霊長となるのです。


その方が思い、見つめた理念の世界は、すべての被造物が安らぎ、憩うことができる理念であり、万物だけでなく、神もそこに来て留まりたいと言う様な理念と心情が必要なのです。それでなければなりません。


また、静かな心情が湧き上がれば、すべての万象がその心情とともに調和し、神もその心情とともに楽しむことができなければなりません。そのような静かな境地があるのです。とはいえ、今日の人類歴史の終末において実現されなければ、神の摂理は破壊の摂理として終わってしまう可能性があるのです。


神がこの地上で行ってこられたすべての摂理が、全て無に戻ってしまうのです。


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神はそのような摂理を行うことができないため、これまでずっと苦労してこられたのです。 だからこそ、今日の人類の前に新しい生命の園、新しい理念の園、新しい愛の園が必ずやってくる。そのことを否定できないのです。


では、今日この終末を迎えるために私自身はどうすべきでしょうか? この問題を解決するためには、私たちのために、また全人類のために来られたメシアをしっかりと掴んで、乗り越えなければいけないということです。私たち人間はこれまでの歴史的な因縁を経てきました。


だから、私たちが6千年の歴史を押し出せる生命の威力を持とうとすれば、6千年の歴史を見つめてきた天的な内容と一致しなければならないのです。2千年前に来て去られたイエス様も、歴史的な天の心情を通して4千年の歴史を押し進められました。


4千年の歴史のすべてを清算した土台の上に新しい楽園を建設しようとされたのはイエス様だったのです。


だから、今日、私たちはそのイエス様の心情を掴んで歴史を清算するために、その心情を掴んで未来を考えなければいけないのです。


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だから、今日、皆さんは自分自身がイエス様のその心情を掴み、当時イエス様が新しい理念でどのような事が現れることを待っていたのかを考えるべきです。


イエスはニコデモに対して、『あなたは生まれ変わらなければ天国に入ることはできない』と言われました。これまで生きてきた私は、結局歴史的に否定されるべき存在です。ただ自分がうまくいった人間以上にその範囲から抜け出すことはできないのです。大事な生涯であっても、否定されるべき生活であり、否定されるべき死んだ人生であったということです。


それで、正常なように見えても正常な人生ではありません。非正常的な生涯を送り、非正常な生活をし、非正常的に死んだので、行くのは地獄だそうです。では、天国とはどのような所ですか? それは、正常に生まれて正常に生活し、正常に死んで行く所が天国です。


イエス様が地獄と天国を分け、地獄の門を閉じて天国の門を開く、天国を建設するために来られたと言えば、イエス様は否定されるような理念を持って来るされたのではないということです。 否定されるような生命を持って来たのではありません。否定されるような愛を持って来られたのではありません。皆さんはそれを知らなければなりません。


では、イエス様が地上に来られたとき、誰を探しに来られたのでしょうか? 4千年もの間、神が苦難の末に選民として立てたイスラエルの民、その民を探す為に来られ、そしてその中で選ばれた人を立てる為に来られました。


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だから、選民の宗教であるユダヤ教において、イエス様は絶対的な存在でした。イスラエルの民とユダヤ教にとって絶対に必要な絶対存在がイエス様であり、絶対にあるべきイエス様が十字架にかけられてしまったと言う認識であるということを、皆さんは知っておいてください。しかし、その社会で絶対必要な存在、肝心なのに消されてしまったのです。


イスラエル民族とユダヤ教のために、絶対にあるべき存在がイエス様であり、絶対にあるべきイエス様に全てがかかっていたと言う事です。


イエス様はなぜこの地に来られ、誰のために来られたのでしょうか? 天に感謝すべき存在として現れましたが、この地に来られたのは、神の歴史心情と通じ合える心情を持ち、歴史の道を歩むことができる人間を作るためであったということです。イエス様は摂理には従いましたが、イスラエル民族は神の心情を受け入れることはできなかったのです。


そのような理由で、イエス様はただ歴史的な心情を掴んで現れ、摂理の立場で動ける天の心情を持って現れました。 彼の心情は4千年の歴史を総合した実体の心情を持って現れたということです。ユダヤ教徒たちはそれを理解できませんでした。


神を求めていくことは、神の心情を通して現れる生命を掴むことであり、神の心情を通して現れる理念を探すことです。 心情を経ない生命はありず、心情を通さない理念はありず、心情を通さない愛はありません。


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イエス様はこの地に来られたとき、心情に関しては4千年の歴史の主人として来られました。その心情は天的な心情を代わりに担ったものであり、彼の心情全体を現わした生命力を持っていたのです。天的な心情を代わりに担ったのは、歴史的な生命の実体であり、歴史的な希望と理念です。


イエス様一人をイスラエルの民よりも、イスラエルの国よりも、ユダヤ教団よりももっと大切にしなければならなかったのです。それなのに捕えて殺してしまいました。イエス様一人を掴むことで、民族的な心情を掴むことができ、イエス様一人を持つことで摂理的な心情を掴むことができ、イエス様一人を持つことで、彼の理念と天宙全体を掴むことができたということを、その時のユダヤ教徒たちは知りませんでした。


今日、私たちはこのようなイエス様を信じています。今、私たちが信じなければいけないのは、死んだイエス様ではありません。「新しい理念と新しい生命を持ち、新しい愛の心情を備えた」実体としてのイエス様です。しかし、そのイエス様はどこに行ったのでしょうか? 亡くなられたのです。


そもそも、その方いつまた来られるのでしょうか? 地上で一時を過ごされたイエス様は、この地に来られたとき、新しい形態の理念を立てなければならなかったのです。新しい生命と心情で絡み合った新しい歴史と民族を築く責任があったとしても、それを放棄せざるを得なかったのです。


再び来るという言葉は、無限に悲しい意味を持つです。しかし、今日のキリスト教徒たちは、この言葉を栄光の言葉だと解しています。栄光の言葉として知る前に、イエス様について予想される、その後に希望として見なければいけない言葉であることを、今日のキリスト教徒たちは知らないのです。を敬うべきです。その方は新しい私を探しに来ているのです。それを彼らは知らないのです。


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今日、私たちはイエス様が来られて去ってから2千年の歴史が経過した、6千年の歴史の終末時代に生きています。では、私たちはどうすべきでしょうか? アブラハムの子孫は、アブラハムの忠誠を見習わなければなりません。モーセに従って出てきたイスラエルの60万人の大衆は、モーセの忠誠を見習わなければなりません。


イエス様が来られて去られてからの2千年のキリスト教徒は、イエス様の忠誠を見習わなければなりません。これがアルファでありオメガなのです。6千年を摂理してこられた神の切なる心を受け入れ、それを解決するために戦う聖徒にならなければなりません。


もし優れた孝子や孝女がいるなら、彼らはどのような人物ですか? 生活面で親が楽しんでいるのを見て楽しんでいる人が孝子や孝女ではないでしょう。楽しみが試されるまでの波乱万丈な過去の進行をその心で感じながら楽しめる人こそが、真の孝子、孝女であると言えます。


それが私たち人間の世界における前提であり、天の理を前にした未来の摂理の意味においても同様です。


では、イエス様はどのような方だったのでしょうか? 4千年の歴史と交換できる新しい復活の実体であったということです。 彼は歴史の中で今まで見たことのない新しい天と地に新しく来られた方であったということです。


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イエス様がサドカイ派の信者やイスラエルの民のために来られたことをもし祭司や律法学者たちが知っていたら、ユダヤ教の信者たちは彼の行うことに反対せず、 『どうぞ行ってください』と言ったでしょう。しかしこれを最後まで阻止されて、30余年の生涯を生きたイエス・キリストは、この地に来て、哀れな思いで生き、哀れな思いで去って行かれたのです。これは人類の罪であって、神の罪でもなく、イエス様の罪でもないことを私たちは知らなければなりません。


たくさんの先人、先祖たちが4千年の間待ち望まれた約束されたメシアの実体が、まさか馬小屋に寝かされていたとは、どういうことでしょうか? 皆さん、考えてみてください。どういうことですか? 今日、多くの人々がクリスマスを楽しいと祝っていますが、それは胸が痛むことです。泣いても、泣いても、泣き止むことができないほど悲しい事です。


メシアの到来を心から待ち望んで、その真心が天に届くような人が当時存在していたなら、来られたメシアをそのようには迎えなかったでしょう。彼を迎えるために「準備をした人」がいなければならなかったのに、そういう人は存在しなかったのです。


私たちはこの終末を迎えたに関して、2千年前の先祖たち、今から6千年前から4千年前にかけて行った相当数の先祖たちに対して、来られたメシアを軽んじて歴史的な罪を行った先祖だったと言う事を覚えておかなければなりません。


さらに言えば、2千年前のユダヤ教徒とパリサイ人たちにとって忘れてはいけないということです。もしイエス様が怒りを感じていたら、それはイスラエルの民に対して怒りだったはずです。ユダヤ教徒たちに対しても怒りがあったかもしれませんが、選ばれた民である彼らを捨て去ってしまうと、天の足場が断たれてしまうからです。


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イエス様は、天が4千年苦労してきた天的なその心情を考えたとき、自分が彼らを恨んで捨てていけば、イスラエルの民に対して4千年ずっと積み重ねられ続けた天の摂理が全て無に帰してしまう事でした。


これを知っていたイエス様は、自分の死に関しては民族的な壁があったが、歴史縁が切れてしまうことが恐れたため、彼らの祝福を祈らずにはいられなかったのです。それは喜んで祝福を受け入れたのではなく、ユダヤ教徒を愛して祝福を迎えたのでも、イスラエルの民を愛して祝福を抱いたのでもありません。そうではなく、全人類のために祝福を受け入れたイエスであることを知るべきです。


終末に決着している今日の私たちは、怒りを抱いて帰天されたイエス様に代わり、彼の死に対する怒りを抱くことができなければ、神の心情を知ることができないということです。


今まで人間たちはイエス様が死ぬために来られたと言われていますが、今日では死の為では無く天のために来られたイエス様であり、民のために来られたイエス様であったのに、そのイエス様を十字架に掛けたので、その日は天地が暗くならずにはいられなかったのです。これを今日私は知らなければなりません。


イエス様は人間の歴史の過程で新しい存在としてこの地に生まれましたが、生活は悲しいものでした。


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それでは、イエス様は誰のために生きられたのでお願いですか? イエス様は自身のために生きたのではありません。しかし、そのように追いやられたのは、イエス様が自分を持っていなかったからではありません。イエス様は生命と理念の力を持っており、熱烈な愛の力を持っておられながら、それらすべてを完全に表現できずに生きた方であったことを理解しなければなりませんん。


哀れな民のために生きて去られました。復活されたイエス様は、生きた実体を持って死んだ私たちを生かすために、今まで苦労してこられたのです。このイエス様以降の30年余りの生涯は誰のための生涯だったのでしょうか? イエス様自身のために生きた生涯ではなく、神と堕落した人類のための生涯だったのです。


さらに言えば、イエス様を送られた神は、今まで誰のために苦労してこられたのでしょうか? 神も今まで自分のために生きたことはありません。堕落して死んだこの民のために苦労してこられたのです。


それでは、終末とはどのような時でしょうか? イエス様がご自身のために生きることができなかったので、そのイエス様のために我々が、自ら立ち上がり、生きることができる時を人類が迎えなければなりません。これまで神様がご自身のために動くことができなかったので、その神様がご自身のために動くことができる時を立てて差し上げなければなりません。そのような時が終末です。


今日この時まで、神様は堕落した血統を受けた人間、死んだ人間たちを生かすために、ご自身のために生きることができませんでした。イエス様も2千年の歴史を経てこられましたが、ご自身のために生きることはできませんでした。神様は死んだ人間たちを抱えて再び生かすために、新しい日を回復する摂理を6千年間続けてこられました。


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それでは今日、私たちはどのような覚悟をしなければならないでしょうか?新しく誕生されたイエス・キリストを見習わなければなりません。さて皆さんは、自分の心に染み込んでくる命の力、命の感触を感じたことがありますか?これだけが全人類が求めるべき唯一の理念だと感じたことがありますか?これだけが最終的に人間を復活させることができる、あるいは新しい歴史を創設することができるものだと感じたことがありますか?もしそうであるなら、皆さんは自分だけのために生きる生活態度を捨て、イエス様が歩まれた道を再び歩まなければならないのです。


復活されたイエス様は地上を見つめ、この地に神の憂いが染み込み、神が成し遂げなければならない苦労の歴史が残っている限り、『神よ!そのすべてを私に任せて、どうか安息してください』と祈りたいというのが、まさにイエス様の心情でした。しかし、神は安息することができませんでした。イエス様が悲しまれた時、神もまた悲しまれ、イエス様が十字架にかけられて亡くなった時、神も死の痛みを感じずにはいられませんでした。


このようにして去られたイエス様を私たちが信じている限り、あなたがたが復活し、終末の審判を超えて復活された主を再び迎える栄光の場所に進むことができるとしても、あなたがたの心は栄光の世界を憧れてはなりません。


イエス様はこの地上に万王の王として来られ、天国の主権を回復し、神の前で栄光の御子として神を慰め、万民を安息させるべきお方でしたが、そのような言葉やそのような心情を持って喜びを感じたことは一度もありませんでした。イエス様はただ私たち人間のために生きて行かれました。


私たちがイエス様の心情の友になるためには、天がまだこの地を抱え、イエス様がまだこの地を抱え、聖霊がまだこの地を抱えているのだから、『天よ、三位一体よ、今度は私がこの地を抱えます』と言える心情が必要です。


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それでは、イエス様がこの地に来られてどうだったのでしょうか?生まれたときも馬小屋で生まれ、生活される間も追われて蔑まれながら生き、亡くなるときも十字架にかけられて亡くなりました。ですから、その『十字架の道』を通過されたその心情を感じることが、今日の統一信徒たちの前に置かれた課題なのです。


栄光があるなら、私が栄光を歌う前に主が父の前で歌い、父が万民の前で歌わなければなりません。その後に初めて私が栄光を歌うべきだというのです。父が万民の前で栄光を歌えるようにするためには、まずこの地が天国とならなければなりません。そのために、私たちがまず神を安息させてあげなければならず、イエス様を安息させてあげなければならないのです。神に創造主としての威信が立てられるようにして差し上げ、イエス様にも救主としての威信が立てられるようにして差し上げるべきです。ここでいう威信とは、一部の民族や限られた民の前に立てることを目的とするものではありません。天と地、天上と地上のすべての存在、そして霊界にいる数多くの霊たち、地獄にいる霊たちまでも、さらにはサタンまでもが『あなたは天の御子です』と言わなければならないのです。


今日のあなたがたは、悲しい歴史の道程がまだ終わっていないこと、審判の時がまだ来ていないことを知っています。それにもかかわらず、あなたがたが天の生命を感じ、天の理念を抱き、天の心情の衝撃を受けたならば、その生命、その感じ、その理念は誰のためのものなのでしょうか?もちろん、あなたがたに天の希望を引き継ぐためのものです。これが天の目的です。


天の憂いとイエス様の憂いがこの民族の前にある以上、私たちにはこの民族の前に残されたすべての憂いを引き受け、イエス様を解放し、神を安息させる心が必要です。そして、そのような心を中心に、あなたがたがどのような闘いの実績を持ち、イエス様の友となる基準を立てなければならないのです。それによって初めてあなたがたは実体を持って復活の段階に進むことができるということです。イエス様がそのように生きて亡くなり、復活されたように、今日の地上でもそのように生きて復活した立場を超えなければなりません。そのため、私たちは新しい自分を見つけるためにイエス様の行かれた道を追わなければならないのです。


神の歴史は新しい個人だけを探すことではありません。新しい家庭を探さなければならず、新しい民族を探し、新しい世界を探し、さらに天国を探さなければならないのです。イエス様が新しい存在としてご自身の人格的価値、天的な人格の基準をこの地に立てていくことができなかったために、地上に来られて去られる際に、新郎新婦という言葉を残されたのです。天の意図は、天的な個体を立て、家庭を探し、その家庭を基準に民族を探し、その民族を基準に国家を探し、その国家を基準に世界を探し、さらに天地を復帰して天国を建設しようというものです。


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それでは、新しい私、復活した私になるための過程を経るにはどうすればよいのでしょうか?神が私たちを見て『私はあなたのために弁明することができ、あなたの命を責任を持ち、あなたの理念を責任を持ち、あなたの愛と心情を責任を持とう』と言える基準を立てる必要があります。


どのようなものが侵入しても、神が責任を持つという基準があれば、打たれてもまた生き返ることができるのです。イエス様にはそれがあったので、この地上の多くのサタンが攻撃しても復活することができました。命の権威、理念の権威、愛の権威が神の心中と通じていたため、その心情を持って代わりに動かれたイエス様の実体は復活することができたのです。


同様に、私たちもこのような心情を持っているならば、私の命の威力を誰が侵すことができるでしょうか?私の理念の威力を誰が侵すことができるでしょうか?私の情的な威力を誰が侵すことができるでしょうか?天とともにいるならば、サタンに何万回打たれても、何万回殺されても再び生き返る権威があるのです。そのような権威を持って審判の前に立たなければならないのです。そうして初めて、新しい基準を持った新しい私として天から認められ、天国の民として認められ、天国の家庭となることができるのだということを皆さんは知るべきです。


そのため、キリスト教では『死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬ』と言っています。今日、私たちが新しい自分になるためには、歴史的なすべてが死んだものと同じだから、終末には自分自身が死ななければなりません。そのため、審判の日が来る前にサタンの世界で死んで、まず神の心情と神の理念と神の愛の力で死の権威を踏み越え、復活の栄光を感じることができて初めて新しい私になることができるのです。


さらにそのような心情を抱き、この地上にどのような暴風が吹いても、堂々と天の命と天の理念と天の心情を抱き、それを溶かし出すことのできる存在にならなければなりません。それによって初めて待ち望んだ第2の私、新しい私、新しい時代の主人公としての資格を備えた姿、新しい時代にふさわしい姿になることができるのです。


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今この地には、天の悲しみが何であるかを理解することのできる人がいませんし、神の愛の心情を通じることができる血統もありません。神の理念を備えようとする民族もいません。神の命が繋がり、何億世代にも渡って神とともに続けて残ることのできる血統がないのです。そうでしょう?


今日まで、歴史的なすべてをサタンが占有してきたために、人間は養子です、養子。血統が異なります。それゆえ、養子の立場から新たな姿を備え、直系の子供となるためには、直系の形態を備えなければならず、つまり天的な命の威力、命の感触、命の理念、命を持った愛の衝撃を受けなければならないのです。そうでなければ、新しい自分として天国の民となることはできず、新しい天国の子供を持つことのできる親にもなれないのです。これを成し遂げることが神の願いです。これが私たちの願いであり、人類の願いであり、イエス様の願いであり、神の願いですが、これまでそれを知りませんでした。


そういった観点から、皆さんもう一度考えてみてください。皆さんには、新しい命を求める心がなければならないのです。もし新しい理念と新しい愛を求めて彷徨わないなら、皆さんは新しい時代に残ることのできる者にはなれないことを心に留めておかなければなりません。






<祈り>


来る人も行く人も数え切れないほど多くいましたが、お父様を代わりに来た者、お父様を代わりに去った者は非常に少なかったことを知りました。この地を中心に愛する人々は多くいましたが、お父様を抱えて愛する者はいなかったことを知りました。


数多くの人々が心で思い憧れたのは希望の園、理念の園でしたが、お父様を抱えてこれを希望の全てだと歌う者はいませんでした。お父様、今日ここに集まったあなたの息子娘たちが、今感じた何かがあるならば、お父様に対する感情を感じさせてください。


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お父様が理念の全てであり、お父様が命の全てであり、お父様が愛の全てであることを知らせてください。そしてお父様のすべての意図を代わることができない私たちであるために、今日お父様はその威信を立てることができる環境で私たちに対することができないことが悲しみであることを知らせてください。


今、私たちがお父様の威信を立てることができる者になれるように許し、イエスの威信を立てることができる者になれるように許してくださったので、地上に悲しみがあるならばそれを私のものとして引き受ける姿にならなければなりません。地上に苦痛があるならば、それは私が引き受けなければならないものであることを知らせてください。地上の私たちは真にお父様の心を通り、イエス様の心を通らなければなりません。お父様の悲しみと困難は私が引き受ける覚悟を持たせてください。そしてすべてを押しのけ、お父様の命の恩恵を感じざるを得ない歴史的な転換期にいることを知っておりますので、今私たちが新しい心の基盤を持つことを許してください。


今、私たちが新しい理念と新しい心情を持ち、お父様と関係を結ぶ基準を持てなければ、歴史の審判とともに清算される運命を免れることができないことを、この時間に悟らせてくださることを切に願い求めます。


イエスもこのために生きてきたことを知りました。そして、30余年の生涯を自分のためではなく、民族と堕落した人間たちのために生きてこられたことを知っています。


今やイエス様ご自身のために生きることができる天国の時代が来ることを知っており、その国の民として、その時代に選ばれた者として立つためには、地上でイエス様が経験された十字架の苦難の道をすべて乗り越え、勝利した実体として復活の栄光を許されなければならない最後の課題が私たちに残されていることを知っています。


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ここに集まったあなたの息子娘たちも、この内容を知ったならば、その実体とその意志に自分を一致させ、その意志の目的を成し遂げるために実体的な供物を準備しなければならないでしょう。父よ、共にいてください。お父様が認めることのできる勝利の祭壇を作り、本来の聖殿を備える息子娘たちとなることを切に願い求めます。


お父様、この時間以降のすべてをお任せし、ご主管してください。この日に行われる全体の予定にも共にいてくださることを切に願い、この民族と家族たちにも一貫した保護の手を離さないでくださることをお願いし、主の御名によって祈ります。アーメン。


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