■ 2021年11月21日 那須疏水の郷ルートをめぐる街歩き
私の住む地域のコミュニティ主催のイベント「街を歩こう!」に参加してきました。今回は、那須塩原市西公民館を発着する田園空間博物館サテライトフットパス中の「那須疏水の郷ルート」を歩きました。那須野ヶ原の開拓の歴史と地域に密着した寺社をめぐり地域の文化施設の学習と紅葉を味わうことができました。
▼ ルートマップ
▼ 那須塩原市西公民館
▼ 鍛冶屋堀・・・那須疏水第四分水で大田原市鍛冶屋まで流れている
▼ サテライト毎にスタッフの方が説明してくれます
▼ 雲照寺の石仏・・・西国三十三所霊場を模した三十三体の観音様が並んでいる
▼ 小丸山にある「やすらぎ正知観音」
▼ 雲照寺楼門
▼ 雲照寺の大松
▼ 雲照寺本堂・・・明治20年(1887)に本堂が完成。
▼ 敷地内にある稲荷神社
▼ 雲照寺参道・・・那須開墾社第二農場まで続きます
▼ 烏ヶ森公園の紅葉・・・烏ヶ森公園は那須塩原市西那須野地区のほぼ中心部にある小高い丘陵地帯に広がる公園で、明治12年(1879)印南丈作、矢板武両名は、この丘の上で時の内務卿伊藤博文と勧農局長松方正義に水路開削の必要性を訴え、明治18年(1885)に那須疏水の起工式が行われた。
▼ 烏ヶ森神社・・・平安時代の902年に烏ヶ森稲荷神社として建立、鎌倉時代の1193年将軍源頼朝が那須の巻狩りの際豊猟を祈願したと伝えられている。明治22年(1888)、印南丈作と矢板武が開墾の氏神として社殿を再建し、神社を中心に松と桜を奉納植樹した。
▼ 烏ヶ森神社境内にある印南丈作の頒徳碑・・・那須野が原開拓の恩人印南丈作の業績をたたえる領徳碑で、業績や経歴が漢文で刻まれており、那須開墾社の関係者や有志によって立てられた(説明文より抜粋)。
▼ 烏ヶ森神社境内からの眺望・・・那須塩原市西那須野地区
▼ 烏ヶ森公園の紅葉
▼ 那須開墾社第二農場跡・・・那須開墾社は、明治13年(1880)に印南丈作、矢板武らが中心となり株主67名によって創設された約3400haに及ぶ那須野が原最大の農場。
▼ 那須開墾社第二農場跡・・・那須疏水通水後開墾の中心となったこの地に事務所が移され第二農場と呼ばれた。那須開墾社は明治27年(1894)年に成業式をあげ解散し、矢板農場として引き継がれ、かつては茅葺の事務所建物があった所。
▼ 那須開墾社第二農場跡の紅葉
▼ 那須開墾社第二農場跡にある「国蝶 オオムラサキの保全活動」案内板・・・オオムラサキは幼虫がエノキの葉を食べ、冬になると地上に下りて落ち葉の間に隠れ越冬し、春になると再びエノキに上り葉を食べて育ち、蛹になり羽化して成虫となります(案内板より抜粋)。
▼ ロープで囲まれたオオムラサキの幼虫の越冬場
▼ 那須開墾社事務所堀・・・那須開墾社第二農場事務所前にあった堀で、那須疏水から通水し「ドジョウ堀」とも呼ばれている。
▼ そすいの郷直売センター・・・地元の農家の方々が作った地場産の新鮮、安価な農作物を消費者に届けることを目的に「ふるさとにしなす産直会」が経営している直売所
▼ 那須疏水水車・・・那須疏水から水を引き精米・製粉・製麺用に使用していた水車をモデルに作られた下掛け式水車
▼ 水車小屋の内部・・・水車の動力で石臼を回しそばの製粉をしていて、そのそば粉で打ったそばは隣にある「そすい庵」で提供されている
▼ 光尊寺・・・浄土真宗本願寺21世宗主大家光尊によって開創。光尊は時の農務省大輔品川弥二郎の勧めにより那須野が原の視察を行い、明治20年(1887)7月に那須開墾社を訪れた際に、印南丈作、矢板武、品川弥二郎らの寺院建立の申し出にこたえたもの。
▼ 光尊上人の歌碑
▼ 光尊寺の大銀杏・・・樹齢約100年、他kさ18m、目通り3.3mの大銀杏
▼ 光尊寺の鐘楼とイチョウの木
▼ 共有地取得記念碑・・・明治29年(1896)三区地区に入植した53名は、共有地を求める運動を起こしここに30アールの共有地を持つことができたことを記念する碑で昭和45年に建立。
【碑文】 明治20年代入所者に自作農は稀であった。木下勝太郎ほか52名は連名で共有地を求め、その一角に「八坂・蚕影」二本の神を祀った。信仰と親和と人々のよりどころが出来た喜びに奮い立ち、多くの苦難に耐えた共有地乍ら地主になった我らの祖父や曾祖父に初めて選挙権を得たという開拓史の夜明けである。昭和の農地改革を経て公地となり公民館もここに建設された。いま社殿の御造営を機とし、その発祥を飾る氏名を刻して、永く恩を忍び謝したい。この30アールにはの始祖の輝かしい功業が象徴されている
▼ 三区公民館地内にある八坂・蚕影二社の鳥居と社殿
【参考】
・印南丈作(1831-1888)(印南丈作頒徳碑説明分より抜粋)・・・天保2年(1831)日光で生まれ、佐久山宿(大田原市)の印南家の養子となる。戸長(明治初期の町村の長)、県の勧業付属、産馬共同会社社長などを歴任。明治13年(1880)同志と共に那須開墾社を設立、翌年社長となる。明治18年(1885)矢板武と共に苦労して那須疏水の開通を実現するなど、那須野ヶ原の開拓に尽力。明治21年(1888)57歳で永眠。
・矢板武(1849-1922)(矢板武記念館パンフより抜粋)・・・幕末から明治にかけて矢板の礎を築いた郷土の偉人。その業績は政治、経済、産業、教育と多方面にわたる。特に印南丈作と共に行った那須野が原開拓は、武の一番の業績として上げられている。【略歴】1849年矢板村坂巻家に生まれ、1871年坂巻から矢板に改姓。1879年初代県議会議員、保晃会幹事、1880年那須開墾社を組織、1882年日本鉄道株式会社理事、1885年那須疏水起工式・通水式、1886年矢板駅開設、1891年下野銀行設立、1894年矢板信用組合創立、矢板農場発足、1898年矢板銀行設立、1911年下野新聞社取締役会長、1922年永眠