■ 2024年11月15日 馬籠宿~妻籠宿
岐阜県中津川市にある馬籠宿と長野県南木曽町にある妻籠宿を訪れました。宿泊したホテル近くのバス停からバスでJR中津川駅経由木曽路口バス停へ移動し、木曽路口~馬籠宿~妻籠宿~JR南木曽駅まで歩き、JR南木曽駅から中津川駅まで電車で戻り、中津川駅からホテル近くのバス停までバスでもどりました。木曽路口バス停で下車したのは私たちを含め2組、馬籠宿からは多数のインバウンドの方々が妻籠宿まで歩いていました。
▼ ルートマップ
木曽路口~馬籠宿~妻籠宿~JR南木曽駅に至る16Km
▼ スタート地点の北恵那バスの木曽路口バス停
▼ 一般道から中山道へ「落合宿の高札場跡」の石碑が目印
▼ 落合宿高札場・・・高札場または御判形場とは江戸幕府や藩が法度類を民衆に周知させるために設置されたもの。板札に墨書きされた基本法や禁制・法度などが掲示された。本高札場は正徳元年(1711)に建てられた基本的なもので「親子兄弟札」・切支丹禁止令」・「火付札」・「毒薬札」・「駄賃札」・「落合宿より駄賃札」を令和4年(2022)に復元掲示したもの(説明板より抜粋)。
▼ 道標を左手に進む・・・左:??解読不能、右:飯田
▼ ここから十曲峠
▼ 馬頭観音菩薩(イボ観音)・・・西向き観音またはイボ観音ともよばれ、イボができると石を借りてさすり、治ったら石を二つにして返す習慣がある(説明板より抜粋)。
▼ 山中薬師医王寺・・・奈良時代聖武天皇の御代諸国に疫病が流行したので勅命を受けた行基が各地を巡り薬師如来を刻んで安置し病気の治療法を伝授したと伝えられ、この医王寺もその一つであるといい、三河の鳳来寺、可児郡御嵩の蟹薬師(願興寺)と並んで三大薬師の一つ(説明板より抜粋)
▼ 落合の石畳・・・中山道落合宿と馬籠宿の間にある十曲峠を歩きやすくするために、石を敷きならべたもの。石畳がいつ頃に敷かれたものかは不明だが、「中山道宿村大概帳」には「馬籠境(新茶屋)から中津川まで34町6間(約3.7Km)、道幅2間から3間、尾州より普請」とあり、尾張徳川家がこの石畳を含む区間の中山道の維持管理を行っていたことがわかる。石畳の一部は往時のものが現存している(説明板より抜粋)。
▼ 一里塚古跡
▼ 新茶屋の一里塚・・・江戸の頃宿場と宿場の間にある茶屋を「立場茶屋」といった。かつての茶屋はここから岐阜県側に数百メートルほど入った所にあったが、江戸の終わりごろに現在地に移ったためここを新茶屋と呼ぶようになった(説明板より抜粋)。
▼ 「是より北木曽路」の碑・・・ここは長野県と岐阜県の境、木曽路の入口にあたる。昭和15年、当時68才だった島崎藤村が地元の要請によって揮毫したもの。この碑は藤村記念館の落成十周年を記念して昭和32年(1957)に藤村記念館の実行母体である「ふるさと友の会」によって建立された(説明板より抜粋)。
▼ 信濃・美濃国境の碑
▼ 正岡子規句碑がある信州サンセットポイント百選の場所
▼ 諏訪神社
▼ 馬籠城跡・・・戦国動乱の時代、馬籠は武田信玄の領地となるが、武田氏滅亡後、織田信長の時代を経て豊臣秀吉傘下の木曽義昌の治めるところとなる。天正12年(1584)、豊臣秀吉・徳川家康両軍は小牧山に対峙。秀吉は徳川軍の攻めあがるのを防ぐため、木曽義昌に木曽路防衛を命じ。義昌は兵300を送って山村良勝に妻籠以上を固めさせた。馬籠城は島崎重道(島崎藤村の祖)が警備した。天正12年、徳川家康は飯田の菅沼定利・高遠の保科正直・諏訪の諏訪頼忠らに木曽攻略を命じ妻籠城を攻め、その一部は馬籠に攻め入り、馬籠を守っていた島崎重道はあまりの大軍襲来に恐れ、夜陰に紛れて木曽川沿いに妻籠城に逃れたため、馬籠の集落は戦火から免れた。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで天下を制した家康は木曽を直轄領としていたが、元和元年(1615)尾州徳川義直の領地となり以後戦禍のないまま馬籠城は姿を消した(説明板より抜粋)。
■ 馬籠宿・・・中山道六十九宿のうち木曽路には十一の宿場が置かれていた。馬籠は板橋を一番とすると四十三番目の宿場。街道が山の尾根に沿った急斜面を通っているので、その両側に石を積んで屋敷を造る「坂のある宿場」が特徴。明治25年(1892)の木曽川沿いに国道が開設され、さらに明治45年(1912)には国鉄中央線が全線開通することにより宿場としても使命を終えた。明治28年(1895)と大正4年(1915)の二度の大火で江戸時代の遺構のほとんどを焼失(説明板より抜粋)。
▼ 車屋坂(坂道の左側に枡形がある)・・・馬籠宿の南端は直角に二度折り曲げてありこの部分の山手側は切り土となっている。これは城郭の枡形を模したもので、これを「枡形」といい、本来宿場が軍事的な目的をもって造られたことを示している。明治38年(1905)の道路改修により当時の原型を焼失したが、昭和60年代に復元された(説明板より抜粋)。
■ 清水家史料館・・・島崎藤村の作品「嵐」にでてくる「森さん」の家。ここには藤村の書簡、掛け軸、写真などをはじめ江戸時代に宿場として栄えたころよりの文書・書画や久谷・伊万里・唐津などの陶磁器、輪島の漆器類をはじめ宿場「馬籠」の生活文化史ともいえる数々の遺品が展示されている(説明板より抜粋)。
▼ 藤村思策の間
▼ 馬籠宿
▼ 藤村記念館・・・島崎藤村住宅(馬籠宿本陣跡)
▼ 馬籠宿
▼ 馬籠宿高札場
▼ 展望広場・・・正面に見える恵那山
▼ 中山道
▼ 梨子ノ木坂
▼ 十返舎一九狂歌碑
▼ 馬籠峠一里塚跡
▼ 馬籠峠の集落
▼ 熊野神社
▼ 馬籠峠・・・岐阜県と長野県の県境
▼ 一石栃・・・立場茶屋は宿場と宿場の中間にあって、旅人に休息と利便を与えた。一石栃は妻籠宿と馬籠宿の中間に位置し、往時は七軒ほどの家があって栄えていたが。今では牧野家住宅一軒だけになっている。牧野家住宅は江戸時代後期の建物(説明板より抜粋)。
▼ 改番所跡
▼ 中山道
▼ 男滝・女滝・・・木曽に街道が開かれて以来、旅人に名所として親しまれ憩いの場であった。滝及び滝壺は洪水や蛇抜けなどで高さや深さが減じているが、なお往時の姿をとどめている。この滝には滝壺に金の鶏が舞い込んだという倉科様伝説が伝わっている。また、吉川英治著「宮本武蔵」の舞台にも取り上げられている(説明板より抜粋)。
▼ 男滝
▼ 女滝
▼ 中山道
▼ 倉科祖霊社・・・松本城主小笠原貞慶の重臣倉科七郎左衛門朝執の霊が祀られている(説明板より抜粋)。
▼ 牛頭観音・・・石の多い急な坂道を重い荷物を運ぶため黒牛が使用された。その黒牛の供養塔で中山道に祀られた唯一の石仏(多くは馬の供養塔)(説明板より抜粋)。
▼ 庚申塚・・・庚申の日は六十日ごとに巡り年に六回ある。この日の夜に人々が集まり徹夜で念仏を唱えたり世間話をして朝に解散する風習がある。これは人の体内に「三戸の虫」という霊虫が住み、人々が寝静まると体内から出て天界に昇り、天帝にその人の愚行を告げ口し。起こった天帝がその人を早死にさせると言い伝えられており信仰されていたので、庚申の日は夜通し起きて、虫が体内から出ないようにした、これを「庚申待」という(説明板より抜粋)。
▼ 中山道
▼ 妻籠宿入口
■ 妻籠宿
▼ 上嵯峨屋・・・昭和44年の解体復元によって江戸時代中期(18世紀中期)の建物と推定される。建造当時の形式をよくとどめ庶民の旅籠(木賃宿)としての雰囲気をうかがうことができる(説明板より抜粋)。
▼ 延命地蔵
▼ 枡形跡・・・江戸時代のはじめに制定された宿場は、一種の城塞の役割も持たされて整備され、宿場の出入り口には必ず枡形が設けられた。宿場の枡形は街道を二度直角に曲げ、外敵が進入しにくいようにしたもの(説明板より抜粋)。
▼ 妻籠宿
▼ 妻籠宿を抜けてJR南木曽駅へ
▼ 熊谷家住宅・・・19世紀初頭に建てられた長屋の一部、昭和48年に解体復元された(説明板より抜粋)。
▼ 鯉ヶ岩
▼ 妻籠城址・・・いつ誰によって築かれたかは明らかではないが、室町中期には築城されていたと推察される。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの折、ここも戦場となり木曽義昌の家臣山村甚兵衛良勝が籠って徳川家康配下の菅沼、保科らの軍勢を退けている。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの時も軍勢が入ってここを固めたが、元和2年(1616)には廃城となった(説明板より抜粋)。
▼ JR南木曽駅へ
▼ 上久保の一里塚・・・江戸から数えて七十八里目の塚(説明板より抜粋)。
▼ かぶと観音・・・平安末期の源氏の武将木曽義仲が以仁王や源義政の平家打倒の呼びかけに応じ、治承4年(1180)に挙兵して北陸道を京都に向かう際、木曽谷の南の押さえとして妻籠城を築き、その鬼門に当たる神戸に祠を建て、義仲の兜の八幡座の観音像を祀ったのがおこりと伝えられている(説明板より抜粋)。
▼ JR南木曽駅・・・ここから電車で中津川駅に戻り、バスで宿泊ホテルに戻った
【参考】
1、 馬籠観光協会