広島・資本論を読む会ブログ

読む会だより24年3月用(3/17開催予定)

「読む会」だより(24年3月用)文責IZ

(2月の議論など)

2月の読む会は18日に開催されました。(1月の議論)の部分では、参加者から共同的に物事を行なうとどうしても一面化されたものになるのではないかと言ったのは、共同化か個別化かという二者択一ではなくて、それらは並立してあるが、標準化という流れは事実としてあるという意味だと発言がありました。
第6節の説明については、P3の3段落目「しかしながらブルジョア経済学者は、価値と使用価値とを同一視するために……」と触れた点について、少し前にも価値とは抽象的人間労働のことかと質問が出たが、労働価値説をもっとシンプルに説明してほしいという意見が出ました。
チューターは、価値とは労働のもつ社会的なあるいは共同的な性格(同質性・平等性)のことだが、この労働の性格は、商品交換によって社会的生活を営む社会にあっては、人々の労働自身がもつ性格としてではなくて、彼らが生産した商品(生産物)の性格である価値として現れる。このために資本論の冒頭では少し回りくどい形で価値が語られている。どのように語られているかは、少し長くなるので次回のたよりへの宿題にしてほしいと述べました。
また参加者より、10年以上前に参加していた時は管理通貨制度の問題を取り上げていたが、この度参加してからはもっぱら資本論の記述だけを問題にしているようだが、そういう学習会になったのか、という質問が出ました。この点については主催者としてお詫びします。半年ほど前になかなか参加者が増えないので、以前参加していた方々などにショートメールで参加を呼び掛けたのですが、今の「読む会」の位置づけをはっきり伝えていませんでした。「読む会」は、もっぱら資本論を手引きに今の社会の基本的な在り方を考えていこうというスタンスです。国家資本主義など、何度か話題になった現在の問題もテーマにしたいのですが、それは「読む会」とは切り離して考えていきたいと思います。
関連して、配布した読む会の案内チラシに「中学生でもわかる! を目標に」とあるが、これは実際上無理ではないか、むしろ社会経験が必要ではないか等々の意見が出されました。次回作成時からは「働く者ならだれでもわかる! を目標に」といったものに変更させてもらいます。
第6節の説明で時間切れとなったので、第7節と第8節の説明は次回回しとなりました。

<資本論第1章での価値の説明について>
第2版以降での、資本論での価値の説明は以下のようなものです(初版とは表現を含め大きな手直しがあり、晩年の『ワーグナー評注』でも当然ながらこちらが参照されています)。
「使用価値としては、諸商品は、何よりもまず、色々に違った質であるが、交換価値としては、諸商品はただ色々に違った量でしかありえないのであり、したがって一分子の使用価値も含んではいないのである。
そこで商品体の使用価値を問題にしないことにすれば、商品体に残るものは、ただ労働生産物という属性だけである。しかし、この労働生産物も、我々の気が付かないうちに既に変えられている。労働生産物の使用価値を捨象する<とりあえずその一面を無視する>ならば、それを使用価値にしている物体的な諸成分や諸形態をも捨象することになる。それは、もはや机や家や糸やその他の有用物ではない。労働生産物の有用性と一緒に、労働生産物に表わされている労働の有用性は消え去り、したがってまたこれらの労働の色々な具体的形態も消え去り、これらの労働はもはや互いに区別されることなく、全てことごとく同じ人間労働に、抽象的人間労働に、還元されているのである。
そこで今度はこれらの労働生産物に残っているものを考察してみよう。それらに残っているものは、同じ幻のような対象性の他には何もなく、無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、ただの凝固物の他には何もない。これらの物が表わしているのは、ただ、その生産に人間労働力が支出されており、人間労働が積み上げられているということだけである。このようなそれらに共通な社会的実体<社会的な労働>の結晶として、これらの物は価値──商品価値なのである。
諸商品の交換関係そのもののなかでは、商品の交換価値は、その使用価値には全くかかわりのないものとして我々の前に現われた。そこで、実際に労働生産物の使用価値を捨象してみれば、ちょうど今規定された通りの労働生産物の価値が得られる。だから、商品の交換関係または交換価値のうちに現われる共通物は、商品の価値なのである。……
だから、ある使用価値または財貨が価値をもつのは、ただ抽象的人間労働がそれに対象化または物質化されているからでしかない。……」(全集版、P51~)
商品が交換価値をもつという“現象”の背後にある人々の社会関係は、商品を生産する労働はすべて社会的な労働であり、抽象的・一般的人間労働としてはすべての労働が同質であるという内容・質をもちます。この社会関係こそが生産物に価値性格をもたらし(すなわち生産物を商品とし)、それが商品の交換価値として現れるのです。しかしだからこそ、この社会関係の理解抜きには価値を本当に把握することはできませんし、しかもこの引用の後で詳しく述べられるように、この商品交換で成り立つ社会にあっては人と生産物との関係がまるで鏡のなかの世界のように反転して見えるのです。労働の社会的性格(抽象的労働としての同質性、平等性)こそが生産物に価値をもたらし、生産物を商品とする内容であり“社会的実体”であることは、言葉ほどには難しいことではないのですが、人々の労働自身ではなくてその生産物が価値をもつという外観がこのことを見えにくくしているのです。具体的労働が生産物の使用価値を生み出すということは自然的な事柄であって誰にでも分かりやすいのですが、その同じ労働がなぜ商品交換のなかでは生産物の価値をもたらすのかということは特殊歴史的な事柄であって、商品交換の社会のなかに閉じこもっていては理解することはできません。社会的な労働が人々によって意識的に組織され、諸個人の労働の同等性が担保される社会であれば生産物が価値をもつ必要がない、ということは第4節で述べられていることから明らかでしょう。


(説明)13章「大工業と機械」の7回目、第9、10節

第9節工場立法(保健・教育条項)イギリスにおけるその一般化

第9節では、大工業の下で労働者が勝ち取った工場立法のうちの保健・教育条項の意義が、とりわけ「全面的に発達した人間を生み出すための唯一の方法」である「生産的労働を学業および体育と結びつけ」る(全集版、P630)ことの意義が語られます。

機械制大工業がもたらした工場立法は、それがもたらした社会的生産を担う労働者階級の疲弊に対する社会の反作用でしたが、この工場立法は「新たな社会への形成要素」(同、P654)をもたらすものでもありました。以下、マルクスの語るところを見てゆきましょう。
・「工場立法、この、社会がその生産過程の自然発生的な姿に加えた最初の意識的な計画的な反作用、それは、すでに見たように、綿糸や自動機や電信と同様に、大工業の一つの必然的な産物である。我々は、イギリスでのその一般化に移る前に、イギリスの工場法のなかの<中心となっている>労働日の時間数には関係のないいくつかの条項にも簡単に触れておかねばならない。」(同、P626)

続けて、まず保健条項について次のように語られます。資本主義的な生産すなわち使用価値そのものの取得ではなくて剰余価値の取得を目的とする生産が、労働力の搾取に他ならない限り、「労働者の肺結核やその他の肺病が資本の一つの生活条件である」ということは、現代においても相も変らぬ真実です。
・「保健条項はその用語法が資本家のためにその回避を容易にしていることは別としても、まったく貧弱なもので、実際には、壁を白くすることやその他いくつかの清潔維持法や換気や危険な機械に対する保護などに関する規定に限られている。……
資本主義的生産様式にたいしては最も簡単な清潔保険設備でさえも国家の側から強制法によって押しつけられなければならないということ、これほどよくこの生産様式を特徴づけうるものがあろうか?……
それと同時に、工場法のこの部分は、資本主義的生産様式はその本質上ある一定の点を越えてはどんな合理的改良をも許さないものだということを、的確に示している。@
繰り返し述べたように、イギリスの医師たちは、一様に、継続的な作業の場合には一人当たり500立方フィートの空間がどうにか不足のない最小限だと言っている。そこで! 工場法がそのあらゆる強制手段によって比較的小さい作業場の工場への転化を間接に推進し、したがって間接に小資本家の所有権を侵害して大資本家に独占を保証するものだとすれば、作業場でどの労働者にも必要な空間を法律で強制するということは、数千の資本家を一挙に直接に収奪するものであろう! それは、資本主義的生産様式の根源を、すなわち資本の大小を問わず労働力の「自由な」購入と消費とによる資本の自己増殖を、脅かすものであろう。それゆえ、この500立方フィートの空気ということになると、工場立法も息切れがしてくるのである。保険関係当局も、もろもろの産業調査委員会も、工場監督官たちも、500立方フィートの必要を、そしてそれを資本に強要することの不可能を、幾たびとなく繰り返す。こうして、彼らは、実際には、労働者の肺結核やその他の肺病が資本の一つの生活条件であることを宣言しているのである。」(全集版、P626~628)

続いて語られる教育条項に対する見解は、歴史に対するブルジョア経済学者たちのいわゆる形而上学的な<観念的に固定された>見解に対置された、マルクスの弁証法的唯物論の真骨頂の一つと思われますので、少し長く引用しましょう。
・「工場法の教育条項は全体としては貧弱に見えるとはいえ、それは初等教育を労働の強制条件として宣言した。その成果は、教育および体育を筋肉労働と結びつけることの、したがってまた筋肉労働を教育および体育と結びつけることの、可能性をはじめて実証した。工場監督官たちはやがて学校教師の証人尋問から、工場児童は正規の昼間生徒の半分しか授業を受けていないのに、それと同じかまたはしばしばそれよりも多くを学んでいるということを発見した。……
……工場制度からは、われわれがロバート・オーエンにおいて詳細にその跡を追うことができるように、未来の教育の萌芽が出てきたのである。この教育は、一定の年齢から上のすべての子供のために生産的労働を学業および体育と結びつけようとするもので、それは単に社会的生産を増大するための一方法であるだけではなく、全面的に発達した人間を生み出すための唯一の方法でもあるのである。
すでに見たように、大工業は、一人の人間の全身を一生涯一つの細部作業に縛りつけるマニュファクチュア的分業を技術的に廃棄するのであるが、それと同時に、大工業の資本主義的形態はそのような分業をさらにいっそう奇怪なかたちで再生産するのであって、この再生産は、本来の工場では労働者を一つの部分機械の自己意識ある付属物にしてしまうことによって行なわれ、そのほかではどこでも、一部は機械や機械労働のまばらな使用によって、また一部は婦人労働や児童労働や不熟練労働を分業の新しい基礎として取り入れることによって、行なわれるのである。@
マニュファクチュア的分業<属人的労働>と大工業の本質<労働の均一化や単純化>との矛盾は、暴力的にその力を現わす。この矛盾は、なかんずく、現代の工場やマニュファクチュアで働かされる子供たちの一大部分が、非常に幼少の時から最も簡単な作業に固く縛りつけられ、何年も搾取されていながら、後年彼らを同じマニュファクチュアや工場で役に立つものにするだけの作業さえも習得できない、という恐ろしい事実に現われる。……
作業場のなかでのマニュファクチュア的分業について言えることは、社会のなかでの分業についても言える。@
手工業やマニュファクチュアが社会的生産の一般的な基礎になっているあいだは、一つの専門的な生産部門への生産者の包摂、彼の仕事の元来の多様性の分裂は、一つの必然的な発展契機である。この基礎の上では、それぞれの特殊生産部門は自分に適した技術的姿態を経験的に発見し、だんだんそれを完成してゆき、一定の成熟度に達すれば急速にそれを結晶させる。時折の変化を呼び起こすものは、商業によって新しい労働材料が供給されることのほかには、労働用具がしだいに変化することである。ひとたび経験的に適当な形態が得られれば労働用具もまた骨化することは、それがしばしば千年にもわたって世代から世代へと伝えられていくことが示しているとおりである。この点で特徴的なのは、18世紀になってもいろいろな職業が「秘技<岩波文庫版では“秘伝”>」と呼ばれて、その秘密の世界<岩波文庫版では“奥義”>には、経験的職業的に精通したものでなければ入れなかったということである。@
人間にたいして彼ら自身の社会的生産過程をおおい隠し、いろいろな自然発生的に分化した生産部門を互いに他にたいして謎にし、またそれぞれの部門の精通者にたいしてさえも謎にしていたヴェールは、大工業によって引き裂かれた。@
大工業の原理、すなわち、それぞれの生産過程を、それ自体として、さしあたり人間の手のことは少しも顧慮しないで、その構成要素に分解するという原理は、技術学<工学>というまったく近代的な科学をつくりだした。@
社会的生産過程の種々雑多な外観上は無関係な骨化した諸姿態は、自然科学の意識的に計画的な、それぞれ所期の有用効果に応じて体系的に特殊化された応用に分解された。また、技術学は、使用される用具はどんなに多様でも人体の生産的行動はすべて必ずそれによって行なわれるという少数の大きな基本的な運動形態を発見したのであるが、それは、ちょうど、機械がどんなに複雑でも、機械学がそれにだまされて簡単な機械的な力の不断の反復を見誤ったりしないのと同じことである。@
近代工業は、一つの生産過程の現在の形態をけっして最終的なものとは見ないし、またそのようなものとしては取り扱わない。それだからこそ、近代工業の技術的基礎は革命的なのであるが、以前のすべての生産様式の技術的基礎は本質的に保守的だったのである。機械や化学的行程やその他の方法によって、近代工業は、生産の技術的基礎とともに労働者の機能や労働過程の社会的結合をも絶えず変革する。したがってまた、それは社会のなかでの分業をも絶えず変革し、大量の資本と労働者の大群とを一つの生産部門から他の生産部門へと絶えまなく投げ出し投げ入れる。したがって、<生産の技術的基礎とともに労働者の機能や労働過程の社会的結合をも絶えず変革するという>大工業の本質は、労働の転換、機能の流動、労働者の全面的可動性を必然にする。他面では、大工業は、その資本主義的形態<利用形態>において、古い分業をその骨化した分枝をつけたままで再生産する。@
われわれはすでに<第8章「労働日」以降の諸章>、どのようにこの絶対的矛盾が労働者の生活状態のいっさいの静穏と固定性と確実性をなくしてしまうか、そして彼の手から労働手段とともに絶えず生活手段をもたたき落とそうとし、彼の部分機能とともに彼自身をも余計なものにしようとするか、を見た。また、どのようにこの矛盾が労働者階級の不断の犠牲と労働力の無際限な乱費と社会的無政府の荒廃とのなかで暴れ回るか、を見た。これは消極面である。@
しかし、いまや労働の転換が、ただ圧倒的な自然法則としてのみ、また、至る所で障害にぶつかる自然法則の盲目的な破壊作用を伴ってのみ、実現されるとすれば、大工業は、いろいろな労働の転換、したがってまた労働者のできるだけの多面性を一般的な社会的生産法則として承認し、この法則の正常な実現に諸関係を適合させることを、大工業の破局そのものを通じて、生死の問題にする。大工業は、変転する資本の搾取欲求のために予備として保有され自由に利用されるみじめな労働者人口<労働予備軍>という奇怪事の代わりに、変転する労働要求のための人間の絶対的な利用可能性をもってくることを、すなわち、一つの社会的細部機能の担い手でしかない部分個人の代わりに、いろいろな社会的機能を自分のいろいろな活動様式として代わる代わる行なうような全体的に発達した個人をもってくることを、一つの生死の問題にする。@
大工業を基礎として自然発生的に発達してこの変革過程の一つの要因となるものは、工学および農学の学校であり、もう一つの要因は「職業学校」であって、この学校では労働者の子供が技術学やいろいろな生産用具の実際の取り扱いについてある程度の教育を受ける。@
工場立法は、資本からやっともぎ取った最初の譲歩として、ただ初等教育を工場労働と結びつけるだけだとしても、少しも疑う余地のないことは、労働者階級による不可避的な政権獲得は<初等教育のみならず>理論的および実際的な技術教育のためにも労働者学校のなかにその席を取ってやるであろうということである。また同様に疑う余地のないことは、資本主義的生産形態とそれに対応する労働者の経済的関係<労働力の搾取による資本の価値増殖>はこのような変革の酵素<生産的労働と結び付いた教育による全体的に発達した個人の形成>と古い分業の廃棄というその<変革の酵素の>目的とに真正面から矛盾するということである。とはいえ、一つの歴史的な生産形態の諸矛盾の発展は、その解体と新形成とへの唯一の歴史的な道である。@
「靴屋は靴以外のことには手を出すな」!この、手工業的な知恵の頂点は、時計師ウォットが蒸気機関を、理髪師アークライトが縦糸織機を、宝石細工職人フルトンが汽船を発明した瞬間から、ばかげきった文句になったのである。」(同、P629~635)
生産的労働と結び付いた教育、これこそが全体的に発達した個人を生み出すための「唯一の道」であることは、いじめや不登校をはじめとする現代の“教育工場”の悲惨な現状を見れば明らかでしょう。しかし生産的労働と結び付くこと、これはたんに青少年の教育にのみ必要なことではありません。それは社会の全成員が諸個人として全体的に発達するための条件でもあって、この条件の下で労働時間を徹底的に短縮すれば、介護等々の真に“人間的な”活動を社会の共同事業として行なうことが可能になるのです。
ここでは、マルクスが「全体的に発達した諸個人」とは、「いろいろな社会的機能を自分の色々な活動様式として代わる代わる行うような」人間のことだと指摘していることに注意願います。

またマルクスは男女両性の非常にさまざまな年齢層の諸個人による結合労働の将来の可能性について、こう語ります。
・「……とはいえ、親の権力の乱用が資本による未熟な労働力の直接間接の搾取をつくりだしたのではなく、むしろ逆に、資本主義的搾取様式が親の権力を、それに対応する経済的基礎を廃棄することによって、一つの乱用にしてきたのである。資本主義体制のなかでの古い家族制度の崩壊がどんなに恐ろしくいとわしく見えようとも、大工業は、家事の領域のかなたにある社会的に組織された生産過程で婦人や男女の少年や子供に決定的な役割を割り当てることによって、家族や両性関係のより高い形態のための新しい経済的基礎をつくりだすのである。言うまでもなく、キリスト教的ゲルマン的家族形態を絶対的と考えることは、ちょうど古代ローマ的、または古代ギリシア的、または東洋的形態を、しかも相ともに一つの歴史的な発展系列を形成しているこれらの形態の一つを、絶対的と考えることと同様に、愚かなことである。また、同様に明らかなことであるが、男女両性の非常にさまざまな年齢層の諸個人から結合労働人員が構成されているということは、この構成の自然発生的な野蛮な資本主義的形態にあってこそ、すなわちそこでは生産過程のために労働者があるのであって労働者のために生産過程があるのではないという形態にあってこそ、退廃や奴隷状態の害毒の源泉であるとはいえ、それに相応する諸関係のもとでは逆に人間的発展の源泉に一変するに違いないのである。」(同、P637~638)

最後に工場立法一般化の結果、すなわちその社会への反作用についてこう述べられます。
・「労働者階級の肉体的精神的保護手段として工場立法の一般化が不可避になってきたとすれば、それはまた他方では、すでに示唆したように、矮小規模の分散的な労働過程から大きな社会的規模の結合された労働過程への転化を、したがって資本の集積と工場制度の単独支配とを、一般化し促進する。@
工場立法の一般化は、資本の支配をなお部分的に覆い隠している古風な形態や過渡形態をことごとく破壊して、その代わりに資本の直接のむき出しの支配をもってくる。したがってまた、それはこの支配にたいする直接の闘争をも一般化する。@
それは、個々の作業場では均等性、合則性、秩序、節約を強要するが、他方では、労働日の制限と規制とが技術に加える非常な刺激によって、全体としての資本主義的生産の無政府と破局、労働の強度、機械と労働者との競争を増大させる。@
それは、小経営や家内労働の諸部面を破壊するとともに、「過剰人口」の最後の逃げ場を、したがってまた社会的機構全体の従来の安全弁をも破壊する。@
それ<工場立法の一般化>は、生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる。」(同、P653~654)


第10節大工業と農業

第10節では、大工業が農業に引き起こす影響が簡単に述べられます。末尾で結論として、「それゆえ、資本主義的生産は、ただ、同時にいっさいの富の源泉を、土地をも労働者をも破壊することによってのみ、社会的生産過程の技術と結合とを発展させるのである」と述べられていますが、ここでは斎藤氏の言うように環境破壊を克服することが第一だと述べられているのではありません。そうではなくて前節と同じように、生産力の発展がもたらす社会的な矛盾は、その生産力にふさわしい姿に社会関係の変革が行われざるをえないことの、つまり労働者による階級廃絶の闘いを呼び起こさざるを得ないことの、現われなのだと述べられているのです。

・「大工業が農業とその生産当事者たちの社会的諸関係とに引き起こす革命は、もっと後でなければ述べられないことである。ここでは、いくつかの予想される結果を簡単に示唆しておくだけで十分である。……
農業の部面では、大工業は、古い社会の堡塁である「農民」を滅ぼして賃金労働をそれに替えるかぎりで、最も革命的に作用する。@
こうして、農村の社会的変革要求と社会的諸対立は都市のそれと同等にされる。旧習になずみきった不合理きわまる経営に代わって、科学の意識的な技術的応用が現われる。農業や製造工業の幼稚未発達な姿にからみついてそれらを結合していた原始的な家族紐帯を引き裂くことは、資本主義的生産様式によって完成される。@
しかし、同時にまた、この生産様式は、一つの新しい、より高い総合のための、すなわち農業と工業との対立的に作り上げられた姿を基礎として両者を結合するための、物質的諸前提をもつくりだす。@
資本主義的生産は、それによって大中心地に集積される都市人口がますます優勢になるにつれて、一方では社会の歴史的動力を集積するが、他方では人間と土地とのあいだの物質代謝を攪乱する。すなわち、人間が食料や衣料の形で消費する土壌成分が土地に帰ることを、つまり土地の豊饒性の持続の永久的自然条件を、撹乱する。したがってまた同時に、それは都市労働者の肉体的健康をも農村労働者の精神生活をも破壊する。しかし、同時にそれは、かの物質的代謝の単に自然発生的に生じた状態を破壊することによって、再びそれを、社会的生産の規制的法則として、また人間の十分な発展に適合する形態で、体系的に確立することを強制する。@
農業でも、製造工業の場合と同様に、生産過程の資本主義的変革は同時に生産者たちの殉難史として現われ、労働手段は労働者の抑圧手段、搾取手段、貧困化手段として現れ、労働過程の社会的な結合は労働者の個人的な活気や自由や独立の組織的圧迫として現れる。農村労働者が比較的広い土地の上に分散しているということは同時に彼らの抵抗力を弱くするが、他方、集中は都市労働者の抵抗力を強くする。都市工業の場合と同様に、現代の農業では労働の生産力の上昇と流動化の増進とは、労働力そのものの荒廃と病弱化とによってあがなわれる。そして、資本主義的農業のどんな進歩も、ただ労働者から略奪するための技術の進歩であるだけでなく、同時に土地から略奪するための技術の進歩でもあり、一定期間の土地の豊度を高めるためのどんな進歩も、同時にこの豊度の不断の源泉を破壊することの進歩である。ある国が、たとえば北アメリカ合衆国のように、その発展の背景としての大工業から出発するならば、その度合いに応じてそれだけこの破壊過程も急速になる。@
それゆえ、資本主義的生産は、ただ、同時にいっさいの富の源泉を、土地<自然>をも労働者をも破壊することによってのみ、社会的生産過程の技術と結合とを発展させるのである。」(同、P655~657)(太字部分が「ゼロからの資本論」での引用部分です。)

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