「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

【短歌連作評】 水を照らされて ― 東直子「皿の上の水を照らす」を読んで カニエ・ナハ

2018-07-06 16:56:08 | 短歌相互評


東直子「皿の上の水を照らす」
http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2018-06-02-19273.html



校庭のトーテムポールと理科室のプレパラートが(声)おくりあう

という一首が連作中にあるけれど、東直子さんのこの連作は声にならない(声)にみちみちていて、私たちの「声」にしてしまうとこぼれておちてしまう、という気がする。トーテムポールとプレパラートの交わす、見えない、聴こえない、秘密の会話を見るともなく目にし、聴くともなく耳をすます、そんなふうに注意ぶかく、それでいてどこか散漫に、そこに置かれた歌たちに、ただふれるしかない、という気がする。歌にいざなわれて思いだすことどもならある。それらを思いだすままに記すにとどめることにする。ところで先日まで私は二週間ほどフィンランドへ行っていた。詩祭へ参加するため。川と川との間のカフェで、地元の詩人、レアリーサ・キヴィカリさんとふたりで朗読をした。テーマは「Blue/By the water/Prayer」。青、水辺、祈り。レアリーサさんは、水に関する自作詩を集めて「Water has a memory」と題された。水は記憶をもっている。白夜のフィンランドは深夜0時になってもまだ仄明るい。うすぼんやりとした月が、あたまの上の水を照らしている。





平泳ぎで海を越えていったこと小さな河童になっていたこと

器の中の水が揺れないやうに、/器を持ち運ぶことは大切なのだ。/さうでさへあるならば/モーションは大きい程いい。」という中原中也の詩のフレーズをあたまで口ずさみながらゴーグルを忘れた市営プールでえんえん平泳ぎだけをしていた。先日、空港でこんな話をしていた。ときどき、飛行機の荷物の中に隠れて自分たちを密輸しようとするひとたちがいて、しかしはるか上空の気温は想像を絶して低く、ときに彼らは凍った状態で発見される。あたまの水まで氷ってしまっている。





廃線の線路の上に幻の駅の名前をつらねて走る

わたしの廃線にはいつもいっぴきの蝶々が飛んでいて、その羽根に目をこらすと模様のなかにわたしには読めない文字で駅名がしめされている。





キーストーン百一年目の夏に入る女人禁制書斎公開

この歌がなにを歌っているのか私にはわからない。古い友人にすもう、と呼ばれていた子がいて、すもうは相撲部屋のおかみさんになるのが夢なのだった。相撲番組にかかわるアルバイトさえしていたとおもう。あるとき、夏、墨田川の花火大会のあとだったけれど、帰りに蔵前あたりの花火屋さんで手持ち花火を買って、近くの公園に寄った。さいご、先に落ちたほうがなにか秘密を打ち明けるのだといって、線香花火に火をつける。線香花火の仄かな火に照らされて、すもうの蚊に喰われたくるぶしが淡く明滅している。





ねじりつつはずす電球まろやかにホオジロハクセキレイの信念

切れた電球がチチチッと鳴く鳥たちのたましいはたぶんあんなかたちとひかりをしている(いた)のだとおもう。小説家の庄野潤三さんの晩年の作品に『せきれい』がある。庭に来る鳥や散歩道で見つけた花や毎日の食事のことなど、晩年のご自身の日常を日録風に描いた、本人がいうところの〈晩年シリーズ〉の一冊で、計十一冊になった。『せきれい』はその中の一冊で、この「せきれい」は夫人が家で練習するピアノの曲から採られた。このシリーズ中に、ほか鳥にまつわるタイトルに『鳥の水浴び』と『メジロの来る庭』がある。『庭のつるばら』と『庭の小さなばら』もあり、それぞれ別の本であるが、中身はほとんど同じである。「トウフ屋にはトウフしかつくれない」と云った、映画監督の小津安二郎のことをおもいだす。





続編をもたぬ物語として一対の指そろえて祈る

もちろん、優れた続編というものも少なくなくあり、たとえば映画『仁義なき戦い』シリーズでは、私は2番目と3番目がもっとも好きだ。あれらの映画のなかでは、いくつもの指が切断され、ラストシーンでは廃墟となった産業奨励館が映し出された。





一膳の箸、一箱におさまりて深夜しずかなテーブルの水

お箸にはつかったひとのたましいが宿るのだという。箸箱の中の箸の仮死。それにしても月が善い夜である。テーブルの水とからだの水の区別がつかない。





エナメルのような夜の道をゆく翼を持たず尾鰭を持たず

ときどき、夜に川沿いを散歩する。私の夜の川沿いの散歩道に、一か所だけ、スカイツリーと東京タワーが同時に見える場所(というか、箇所)がある。見ているうちに、ふと、ふたつの塔は川でつながっているような気がしてくる。ときどき、ランナーたちが目の前を往来し、鳥たちがふたつの塔を往来している。





おしなべて黙る待合室で観る無音のままのショップチャンネル

無音の待合室をおもいだすとき夢の中でいる水の中をおもいだす。いままで買ったものでほんとうは不要であったものはいくらでもある気がするいっぽうで、なにひとつ無駄な買い物はしなかったという気もする。「この小石が無意味なら、ほかのすべても無意味だ」というようなフェリーニの映画の中のせりふを朧におもいだすと、ショップチャンネルの案内人がいつのまにか観音さまのお顔に入れ替わっている。





白い含み笑いを向けるおかあさん私もう五四歳だよ

このところときおり、いまの自分の年齢のときの母がどんなであったかを思いだしている。母が、自分がその年齢になると自分がおもっていたよりも自分は幼くかんじると語っていた、その声とともに。いまの自分よりも年下の、そのときの母のことを思いだしている。





ヤクルトでおうちを作りかけていた夕焼けせまる畳の部屋に

一本のヤクルトの中に含まれているという何億という乳酸菌の、その何億という数字をかんがえるとめまいがする。畳の目を数えるように乳酸菌の数を実際に数えたひとがいるのだろうか。乳酸菌が生きている、とか聞くと、じぶんのからだがすこしおうちになったような気がする。たぶん、おうちなんだ。





磨り硝子の窓がカタカタ音たてて眼鏡の子供同士の誓い

子どものころのことをおもいだすときまっさきに思い出すことのひとつは学校の窓硝子を不注意で割ってしまったことで、とても重大な罪を犯してしまったような気がしたものだった。しかし、つい先日も誤って家の硝子戸を割ってしまい、修理に七万円もかかったのだった。小学生のころ目がわるくなっていったころ、遠くを見ると視力が回復するとおそわって、そのころ窓際の席だったのだが、授業中、ずっと窓の外のできるだけ遠くを眺めていた。基地の近くの街だったので、ときおり飛行機がものすごい音を立てて近くの空を横切って、そのたびに硝子窓がこまかく振動した。できるかぎり空のいちばん奥を見つめていたのだが、それでも私の目はどんどん見えなくなっていった。





うれしそうに消え失せていく白線の思い出せないポニーテイルの

二年ほど前に私は『馬引く男』という詩集を出したのだけど、そのころ私は馬に憑りつかれていたのだった。二十篇ほどの収録作のうち、半分くらいは「馬」というタイトルの詩だったとおもう。そのころに貼った、いまもこの文章を打っているしごと机で、パソコンのモニターから視線をあげると、いくつかの馬にまつわる写真や絵が目にとびこんできて、そのなかの一つに眠っている馬の写真がある。Charlotte Dumasというアーティストの展覧会のポストカードで、眠っている馬の写真たちと、いままさに眠りに入ろうとしている馬たちをとらえた映像作品による展覧会だった。これらの馬は、軍用馬で、いまも、死んだ兵士たちを墓へ運ぶ役目をしているのだという。頭から眠りに入りはじめた馬の、尻尾がまだ、こちらがわにとどまって、たゆたっている。





甘い言葉をそそがれているさびしさをつまさきごしにふと伝えたい

深夜に電話がかかってきたが「ごめんいまげんこうかいてる」と短く返信すると「さびしいからねる」と返ってくる。そのひとのつまさきを思い出している。ペディキュアの塗りのこしがセザンヌの絵画みたい。





歩きながらこぼれはじめることばたち路地にはみだす緑にふれて

東京の東に住んでいるが、家々の庭先の植物が繁茂してほとんどジャングルの態である。東東京にはもちろん自然は少ないが、家々の庭先の植物によって、都内でも緑の割合が比較的多いのだという。おかげさまで、あの家の庭先にはジャスミン、あの家にはアガパンサス、あの家にはノウゼンカズラといったあんばいに、季節に合わせた花の散歩を楽しませてもらっている。ところで、アガパンサスという花を見るたびにマイルス・デイヴィスをおもいだす、というジャズ・ファンは私だけではないはずだ。後期マイルスの大阪でのライブを収めた傑作ライブ盤「アガルタ」と「パンゲア」があり、この二枚を合わせて通称「アガパン」と呼ばれているのである。横尾忠則によるジャケットも素晴らしい。ちなみにノウゼンカズラは英語ではトランペット・フラワーというのだという。





おだやかな静脈の色とけている花にしずかな真実たくす

赤い花かもしれないし青い花かもしれない。聖母の服が赤と青なのは動脈と静脈をあらわしているのだとどこかで読んだ記憶があるのだが、ほんとうだろうか。静脈を思い浮かべるとき反射的に夕暮れを思い浮かべるのは、中原中也が生前出版したただ一冊の詩集『山羊の歌』の巻頭に置かれた「春の日の夕暮」の末尾、「これから春の日の夕暮は/無言ながら 前進します/自らの 静脈管の中へです」のため。先日、中也と大岡昇平についての文章を書いた。中也記念館で今やっている「大岡昇平と中原中也」の関連企画で、9月に「大岡昇平の戦争と中原中也」という題で話す。大岡は戦争中、フィリピンの前線にて、夕暮、ふと中也の詩を口ずさんだのだという。『山羊の歌』に入っている「夕照」という詩である。「かかる折りしも我ありぬ/少児に踏まれし/貝の肉」という三連目が骨のようにひっかかる。貝の肉は花のようなものかもしれない。





新しい指紋をもらい生きていくアンドロイドのように、紫陽花

世阿弥の『風姿花伝』を以前からかたわらに置いていて、いま、白洲正子さんの『世阿弥』の中でそれをあらためて読んでいる。「秘すれば花」という言葉は、ずっと昔に、いわさきちひろさんの本の中で知った。彼女はこの言葉を座右の銘にしていた。自分の絵について、「消しゴム芸術」ということも言っている。紫陽花の、花のように見え、われわれがおうおうにして花と呼んでいるものはじっさいはガクなのだという。花とおもわせておいて花ではない、ほんとうの花はべつのところにある。





根の浅いうちに抜かれた草たちがひとしく乾く五月、夕暮れ

「びんぼう草のほんとの名前、知ってる?」とミドリがいった。「ハルジオンとヒメジョオンっていうんだよ。」「そんな素敵な名前があるのに、びんぼう草なんて呼ばれてて、ちょっとかわいそうだよね。うちのおかあさんなんてね、ハルジオンとヒメジョオンのこと、雑草のごとく咲いてる花って呼んでるの。」五月に生まれたミドリのことを、五月になり、ハルジオンとヒメジョオンを見るたびに思いだす。ミドリというのはあだ名で、彼女が大好きな『赤毛のアン』から採って、私がつけたのだった。大学のベンチで、夕暮れ、お喋りをしていた。私は「アン・ブックス」の中では二番目の『アンの青春』が好きだ。いま、本棚を探すと、いちばん隅に、そのころ読んでいた、付箋だらけの『アンの青春』(村岡花子訳)があり、そのころの、二十歳ころの私が、どんなところに付箋をつけているか見てみる。こんなところに目がとまる。

不意にアンは指さしながら叫んだ。「ごらんなさい。あの詩が見えて?」
「どこに?」とジェーンとダイアナは、樺の木にルーン文字(訳注 古代の文字)が書いてあるかのように、目をみはった。
「あそこよ……小川の底の……あの古い緑色の苔がはえている丸太よ。あの上を水が、まるで、櫛でとかしたような、なめらかなさざなみ音で流れているわ。それから、水たまりのずっと下の方に日光が一筋、ななめにさしているわ。ああ、こんな美しい詩って見たことがないわ」
「あたしならむしろ、絵と言うわ」とジェーンは、「詩とは、行や節のことを言うのよ」
「あら、そうじゃないわ」アンは山桜の花冠をかぶった頭をつよくふった。「行や節は詩の外側の衣装にすぎないのよ。ちょうど、あんたのひだべりや、飾りひだが、あんたではないと同じように、行や節自体が詩ではないのよ。ほんとうの詩はそういうものの中にある魂のことよ――そしてあの美しい一編は、文字に書きあらわしてない詩の魂なのよ。魂を見ることはそう、しじゅうは望めないわ――詩の魂だって、そうよ」


また、べつの付箋のつけられた、こんなところにも目がとまる。

「大丈夫、来年の春、また植えればいいわ」アンは悟ったところを見せた。「それがこの世のありがたさよ……春はあとからあとから、いつでもくるのよ」





夕暮れのプラットホーム透明な鞄のようにベンチに座る

私の育ったまちの駅はちいさな駅で、急行がとまらないので、各停を待っている間、何本もの電車を見送った。かたわらを川が流れていて、その向こうに山脈が見える。夕方には山の向こうに日が沈む。先日、十年ぶりくらいに、この駅を訪れた。私は駅のことをよく覚えていたが、駅は私のことをすっかり忘れていた。





むき出しの老婆の瞳わたしたちの仕方のなかった時もやしつつ

フィンランドに行く前に、フィンランドの映画を観た。カウリスマキのはだいたい観ていたので、カウリスマキじゃないやつ。「4月の涙」という。フィンランドは百年前にロシアから独立したとき、内戦が起った。この映画の主人公は負けた軍のほうの女性兵士だった。この内戦では女性や子供も多く戦ったという。フィンランドのひとたちはいまでもこの内戦についてあまり語りたがらない。たった百年前のことなのだ。フィンランドは男女平等がとても進んでいる国で、二〇〇三年には大統領と首相がともに女性になった。そのとき閣僚のおよそ半数が女性だったという。ところで、私がフィンランドに行っている間に、何人かの女性に、日本の映画で、お菓子をつくる映画を観たが(そして、素晴らしかったが)、知ってるか、と聞かれた。どうやらそれは河瀬直美監督の『あん』で、最近向こうのテレビで放映されたらしい。私はまだ見ていないのだけど、録画しておいたDVDを見付けてあって、この原稿を書き終えたら見たいとおもっている。樹木希林さんが主演している。樹木さんがおばあさん役で出ている映画が多すぎて、どの樹木さんがどのおばあさんだったか、あるいはどの映画がどの樹木さんだったか、わからなくなってくる。ある夕食の席で、女性映画監督といっしょの席になった。聞くと、フィンランドでも女性監督はまだまだ少ないという。小津が好きだというので、私が毎年十二月に訪れる小津のお墓の話をした。同じ寺に女優の田中絹代のお墓もある。田中絹代は日本で最初期の女性映画監督でもあった。いま、調べてみると日本最初の女性監督は坂根田鶴子というのだという。田中絹代の初監督作品より十七年も前に撮っている。日本最初の写真家なら知っている。島隆という。幕末に生まれて、明治時代に桐生で写真店を営みながら写真を撮った。私は彼女にあてて「島」という詩を書いた。世界最初の女性写真家はジュリア・マーガレット・カメロン。私は彼女にあてて「亀」という詩を書いた。私は彼女たち、写真家たちの瞳についての詩を書きたかったのだが、うまくいったかどうかはわからない。ちなみに世界最初の女性映画監督はアリス・ギィというのだという。私はまだ彼女の映画を見たことがない。


 *


それにしても、私は日本へ帰ってきてからすっかり夜型の人間になってしまった。失われたぶんの夜をとりもどそうとしているのかもしれない。しかし、じきに東の空が明るんでくる。じきに私はすこし眠るとおもう。水をたたえた、あたまの皿をかたわらに置いて横たわる。



短歌時評133回 名古屋でシンポジウム「ニューウェーブの30年」をわたしは聞いた 柳本 々々

2018-07-06 16:09:04 | 短歌時評




2018年6月2日土曜日、名古屋。このシンポジウムは、加藤治郎さんの「ニューウェーブなんて存在するのか?」という問いかけではじまった。少なくともわたしのノートはそこからはじまっているのだが、たぶん今回のシンポジウムのひとつのキーワードは、〈ニューウェーブを前提にしない〉ということだったとおもう(以下は、わたしが当日ききながらノートに記したことでばちっと精確ではない箇所もあるかもしれない)。


ニューウェーブはこれなんだよ、これだったんだよ、と荻原裕幸さん、加藤治郎さん、西田政史さん、穂村弘さんの四人が後付けしていくのではなく、〈ニューウェーブってじつはぱっとつけられた名前があとでどんどん後付けされていったものだったんじゃないか〉ということを当時の実感とともに語ること。こういったニューウェーブに対する不信と実感が当日の語り口になっていたのではないかとおもう。


たとえば荻原さんはこんな発言をしていた。〈ニューウェーブは文学運動のために行ったわけではない。ニューウェーブはかたちのわからないもの、ずっと正体のない指標のようなもの〉だったと。


続いて西田さんのこんな発言があった。〈ニューウェーブは運動ではなく社会現象〉。


こうした、〈正体のない〉や〈現象〉ということばが、ニューウェーブのなにかを語ろうとしていたのが当日の雰囲気である。わたしたちは今もうそれが〈あったかのようなもの〉として語るけれど、当事者たちは、それを今なお〈あったもの〉として正面から語るのを避けようとするのがニューウェーブのニューウェーブ的ななにかを物語っている。


穂村さんはこんな発言をしていた。ニューウェーブという言葉は、さいしょはただ単に一般的なことば、単に「新しい動き」として新聞記事用にニューウェーブと言っただけであり、それがのちに前衛短歌として誤読されたのではないかと。もやもやっとしたものが偶然かたちになったのではないかと。


この、偶然、というものも当日キーワードになっていた。加藤治郎さんはそれを受けて、ニューウェーブ勘違い説、誤認説といっていた。つまり、ニューウェーブは偶発的にできたものなんだと。だから、ニューウェーブは事後的な事件なんだと。


当日、わたしがきいて、はっきり学んだふたつの事柄は、まず、ニューウェーブとは、前提や所与のものではなく、当時、ふたしかな《あいまい》なものだったということ、そしてそのふたしかなあいまいなものが《偶然》かたちになったということである。


あいまいと偶然。これが当時者たちが語ったニューウェーブだったのではないかとおもう。


わたしが当日はっきりと学んだのはこのふたつだった。だからこれからもしニューウェーブを語ろうとするなら、まずニューウェーブを所与のものとしないこと、どんなふうにそれが後から後付けされていったのかのプロセスに目を向けてみること、また、どの時点で偶発的にそれがかたちとして定まる瞬間がそのつどあらわれたのかそれに目を向けてみること。そのふたつが大事になってくるのではないだろうか。


わたしが話をきいていておもしろかったのは、ニューウェーブを語る際の外との葛藤・折衝である。ニューウェーブを語ろうとすると、かならず、〈短歌の外〉の話がでてくる。当日、ワープロなどの当時のメディア環境の話や高橋源一郎さんや吉本隆明さんの名前もあがったが、ニューウェーブは〈短歌の外〉とかかわりをもってしまう。ところが〈短歌の外〉とかかわりをもちながら、〈短歌の中に巣くう亡霊〉を同時に呼び起こす。これがニューウェーブが(ライトヴァースにない)いまだに語られようとする〈何か〉なのではないかとおもう。それは外とつながる短歌の出口であると同時に短歌を短歌としてどこまでもつなぎとめようとする桎梏である。


つまり、ニューウェーブを語ろうとすると、あなたの短歌の位置が問われてしまうのだ。加藤治郎さんは、ニューウェーブは、いろんな意識がじぶんの中にあることの発見だったと語ったが、それはニューウェーブを語ろうとするものにもあらわれるのだ。今も。


なお、ニューウェーブのジェンダー性も大事な問題で、当日、前で話されていた四人はいずれも男性であった(これは現代川柳のイベントでもよく起こることだが、時々、ふっと、はっとすることがある。こうしたイベントのジェンダー性というのは常に意識はしていてもいいとおもう)。ニューウェーブとジェンダーをめぐる問題はこれからの課題になっていくようにおもわれる。わたしも興味があってよくかんがえている。


最後にひとつだけ。まったく関係ないようであるようなきもするのだが、わたしは、穂村弘さんが、話のなかで、「よくねるまえにかんがえています」と発言されたのが、きになって、「穂村弘:よくねるまえにかんがえています」とノートに記した。帰りの新幹線で、「よくねるまえに」わたしがかんがえていることはなんだろうとかんがえた。文学についてだろうか、死についてだろうか、言えなかった「はい」についてだろうか。どんどん暗くなって、夜になっていく。墓の群がみえた。ごおっという音がした。静岡あたりだろうか。わたしはねむんないでそれをかんがえていた。