先日京都へ行く機会があった。いつも通り私のお気に入りルートで、美山から周山街道を通り京都へ入った。途中、中川の北山杉の森を通り過ぎ栂尾(とがのお)高山寺あたりに近づくと、私の頭にはいつもの通りデュークエイセスの”女ひとり”の歌が聞こえてきた ♬…。
そこで、この歌の中の”恋に疲れた女”とは一体どんな女なのか、呉服屋的見地から妄想を膨らませてみた。
栂尾高山寺では、”大島紬”に”綴れの帯”と歌われているが、奄美の茶泥の大島紬に、緑系の西陣の綴れの帯を合わせ、オレンジ色の帯揚をアクセントに、朱赤の帯〆をきりりと締めた”女が一人”、晩秋の鮮やかな紅葉の中、石畳を歩く姿が浮かんでくる。
大原三千院では、”結城”に”塩瀬の素描の帯”ーーーここでは季節は春、濃紺の結城紬に、桜の枝の素描きの塩瀬帯を合わせた”女が一人”三千院で佇む姿。
さらに、嵐山大覚寺では、”塩沢絣”に”名古屋帯” ーーー 季節は初夏、単衣の本塩沢の着物にちりめんの藍染の名古屋帯を合わせた”女が一人”、大覚寺を訪れる姿が浮かんでくる。
しかしよくよく考えてみると、これらの着物、”大島”、”結城”、”塩沢”は昔は普段着だったとはいえ、現代では大変高価な着物ばかり。帯にしても同じ。
この歌の”女”のイメージは、もちろん恋に疲れた女もいろいろあるだろうが、おそらく20代か30代の独身女性と言ったところだろう。仮に20代の独身のOLとするなら、よほど着物に思い入れのある人でない限り、おそらくこのような高価な着物は買わないだろう。ならば、この歌の中の女性は”まぼろし”なのだろうか?
いやいや、一般的なOLであっても、オークションやフリーマーケットならば、いい品物を安く買うことも可能だろう。さらに着物が好きで、京都で着物が着たいという願望があり、かつ恋に疲れた女性であるならばこの歌の”女”になる条件は揃うことになる...
とまあこんなたわいもない妄想をしていると、初めはこの歌の女性像に迫ろうと思ったもののほんの入り口にも近づけないまま、車は京都の町中に入っていた。