つらつらきもの

着物屋の日々の営業の中で、感じたことをつらつらと。

女ひとり

2020-07-05 18:42:34 | 日記

先日京都へ行く機会があった。いつも通り私のお気に入りルートで、美山から周山街道を通り京都へ入った。途中、中川の北山杉の森を通り過ぎ栂尾(とがのお)高山寺あたりに近づくと、私の頭にはいつもの通りデュークエイセスの”女ひとり”の歌が聞こえてきた ♬…。

そこで、この歌の中の”恋に疲れた女”とは一体どんな女なのか、呉服屋的見地から妄想を膨らませてみた。

栂尾高山寺では、”大島紬”に”綴れの帯”と歌われているが、奄美の茶泥の大島紬に、緑系の西陣の綴れの帯を合わせ、オレンジ色の帯揚をアクセントに、朱赤の帯〆をきりりと締めた”女が一人”、晩秋の鮮やかな紅葉の中、石畳を歩く姿が浮かんでくる。

大原三千院では、”結城”に”塩瀬の素描の帯”ーーーここでは季節は春、濃紺の結城紬に、桜の枝の素描きの塩瀬帯を合わせた”女が一人”三千院で佇む姿。

さらに、嵐山大覚寺では、”塩沢絣”に”名古屋帯” ーーー 季節は初夏、単衣の本塩沢の着物にちりめんの藍染の名古屋帯を合わせた”女が一人”、大覚寺を訪れる姿が浮かんでくる。

しかしよくよく考えてみると、これらの着物、”大島”、”結城”、”塩沢”は昔は普段着だったとはいえ、現代では大変高価な着物ばかり。帯にしても同じ。

この歌の”女”のイメージは、もちろん恋に疲れた女もいろいろあるだろうが、おそらく20代か30代の独身女性と言ったところだろう。仮に20代の独身のOLとするなら、よほど着物に思い入れのある人でない限り、おそらくこのような高価な着物は買わないだろう。ならば、この歌の中の女性は”まぼろし”なのだろうか?
いやいや、一般的なOLであっても、オークションやフリーマーケットならば、いい品物を安く買うことも可能だろう。さらに着物が好きで、京都で着物が着たいという願望があり、かつ恋に疲れた女性であるならばこの歌の”女”になる条件は揃うことになる...

とまあこんなたわいもない妄想をしていると、初めはこの歌の女性像に迫ろうと思ったもののほんの入り口にも近づけないまま、車は京都の町中に入っていた。

              

ウイルス対策?忍者手ぬぐい!

2020-06-25 15:30:02 | 日記

先日、”忍者手ぬぐい”という新商品を制作した。忍者が海外の人々に大変人気があることを知り、忍者に関して調べていると、忍者が”蘇芳”というマメ科の植物で染めた手ぬぐいを携帯していたことが分かった。そこで、忍者のファンのために、当時忍者が携帯していたと言われる蘇芳染の手ぬぐいを再現してみることにした。
まず、生地に染むらが生じないようにする加工をする。着物を染める場合なら、”地入れ”という作業にあたるだろう。次に蘇芳を煮出し染料を作る。その染料で生地を染め、色どめをし、洗う。それぞれの作業に適当な温度管理をしながら染めていく作業は、大変手間のかかる作業だ。一度染めても薄くしか染まらないので、4回ほど一連の作業を繰り返し、やっと満足のいく濃さに染め上げることができる。丸二日間かかりっきりの作業だ。
忍者は、この手ぬぐいを、ほおかむり、はちまき、塀をのぼる際の縄の替わりなどざまな用途に使用したと言われている。また、蘇芳で染められたこの手ぬぐいは、殺菌作用を持っていたので、水をろ過殺菌したり、軽い傷には包帯としても使用したそうだ。
ところで、最近庭木のモッコクの葉っぱ同士がくっついてどんどん枯れていく状態にある。よく見ると葉っぱの中に黒い虫が入っている。そこで、殺虫剤を散布しなければと思っていた矢先、忍者手ぬぐいを染めた蘇芳の染料の残りをこのまま捨てるのももったいないので、モッコクの葉っぱにかけてみようと思いついた。殺菌作用があるならば、少しは効くかもしれないという思いで、殺虫剤代わりにかけてみたのだ。数日たって見てみると、葉っぱが随分前よりも生き生きしているように見えた。多分気のせいだとは思うが、ひょっとして効くのではというという淡い期待もある。そういえば忍者の頬かむりは、顔を隠すためだけではなく、ウイルスや細菌の感染を防ぐため、言わばマスクの代わりとして使用されていたのだろうか?だとすれば、恐るべし忍者!
一度機会があれば、実際にこの手ぬぐいの殺菌作用についてしかるべき調査会社で科学的に調べてみたいと思っている。

着物を運び続けた車に別れ、愛車ロス。

2019-05-12 23:08:13 | 日記


つい先日23年乗り続けた車を手放した。それ以来、”愛車ロス”が続いている。

思えば、随分出張で全国を走り回った。

車は”セドリック・ワゴン”、走行距離は45万キロ。”ベンコラ”と呼ばれ、ベンチシートとコラムシフトのもので、レトロなスタイルはサーファーにも人気ががあるようで、見知らぬ若者が車を売ってもらえないかと突然訪ねてきたこともあった。

かつては、沢山の荷物を積んで遠くまで出かけることが当たり前だったので、大きなラゲッジスペースがあるのはとてもありがたかった。シートを倒すと、着物のボテ(着物が入る段ボール)32反入りのものが、満載で13ケースは積むことができた。

金額的にも高額な商品を積んでいるので、宿泊先の駐車場は、基本的に守衛さんのいるところか立体駐車場に駐車した。やむなく露天の駐車場に止めなければならないときは、車が気がかりで夜中何度も目覚めたもの。

このように長年大切な商品を運んできた車だけれど、ここ数年は遠くへ出張することも、荷物をたくさん積むことも激減したため、別のコンパクトカーで出かけることが増えた。そのため、もう何年も、月2回リサイクルごみのステーションへごみを運ぶだけの車になり下がってしまった。さらに、冬場に何か月も乗らず、バッテリーがあがってしまうこともあった。

ということで、あまり乗らない車を維持して行くのは、合理的でないのでとうとう手放すことにしたのだ。

車屋さんが我が愛車を運転し交差点を曲がり去る一瞬の映像が、まだ私の脳裏に焼き付いている。

ここだけの話しだけれど、娘を嫁にやった時以上に寂しい。もちろん他の父親と同じように、娘を嫁に出してしばらくは、娘の姓が替り他の人のものになったことを思うと、やりきれないむなしさと寂しさを覚えた。しかし、娘の場合には、大学生になると同時に親元を離れているし、何よりも生涯の伴侶を得たことは目でたいことだ。しかし、愛車と別れたことには、その寂しさを打ち消すだけの何のプラスの要素もないのだ。

いつの間にか、私もいい歳となった。車だけに限らず、断捨離ではないが、そろそろ今まで大切にしてきたものに別れる覚悟を持たねばならないということか。



温もりの学生時代から暴れ馬の時代へ

2018-11-01 22:54:48 | 日記


先日ある大学の応援団から、”羽織紐の別誂え品”の注文があった。

この品物の詳細について、学生さんと電話やメールでやり取りをしていると、私自身、京都の某大学体育会で、プレイング・マネージャーをしていたこともあり、自分の学生時代のことが思い出された。

年齢のせいか、このところ学生時代のことがよく思い出される。

古くから京都は学生のまちと言われるが、あの時代の京都は、今とは違い、学生に対して随分優しいまちだったような気がする。

ある時、卒業生に贈る「ペナント」の額縁を買いに寺町の額縁屋さんに行った。レジで額縁代を支払おうとした時、店の奥で店主と思しき人が学生服姿の私を見つけ、「学生さんやから、安くしといたげ。」とレジの人に言ってくれた。また、よく行く食堂で、閉店間近には、帰り際に「下宿のみんなで食べ。」と、巻きずしを持たせてくれることも珍しくなかった。

下宿生なら親元から離れ仕送りでぎりぎりの生活をしているだろうから、少しでも助けてやろうという思いやりだったのだろう。事実、切り詰めた生活をしていても今のようにアルバイトをする学生も多くなかったので、そのような好意は皆ありがたく感じていた。

ひどい風邪をひき寝込んでいると、下宿のおばさんは、お粥を作って持ってきてくれた。下宿している学生たちを家族同然に心配してくれる親心が身に染みた。また区の運動会には、町内を代表してリレーの選手で出たこともあった。この町内の人が同じ地域の住人として自分たち学生を受け容れてくれていることが嬉しかった。

思い返せばこのようなエピソードはまだまだいくつもあるが、当時の京都のまちには学生を大切にはぐくんでくれる伝統がまだ息づいていた。

今、昔はよかったと懐古主義に浸っているわけではないが、良し悪しは別として、最近、時代は明らかに変わったと感じる。色々なことにおいて人々の考え方が変わり、大義が無ければ他人と関わることを嫌う。世の中の変化も恐ろしく速い。

かつて"青春時代"(死語?)をそのようなゆるやかで温もりのある時代に育った自分にとって、現代はさしずめ”暴れ馬”のような時代と映る。

しかし、いい歳になった今、そんな暴れ馬に、何とか振り落とされまいと一生懸命しがみついているのも楽ではない。


世につれ変わる着物の色。

2018-07-16 16:30:37 | 日記

先日、集荷に来た運送屋さんの若い女性に、「着物に流行ってあるんですか?」と訊ねられた。私は時々訪れる顔馴染みの彼女が、今日に限っていきなり着物の質問をしてきたことが意外だったが、ひと呼吸して「色かなあ」と答えた。

そこでこちらから、「君は着物が好きなの?」と問い返すと、「好きなんですが、子供がまだ小さいので、着物を着たくても着れないんです。」と言う。確かにこうして昼間働き、家では小さい子供たちの世話に忙しい毎日では、着物を着たくても着れないというのはよく分かる。いつか好きな着物を楽しんで着られる日が早く訪れることを望みたい。

着物の色というと、ちょうどこの日の午前中、私は古い年代物の夏物の在庫品を処分すべく、品定めをしていた。その中に麻の名古屋帯で朱赤のものがあった。今ではとてもこのような鮮やかな色目の帯を締める人はないだろうが、昔はこんな色の帯が当たり前に締められていたんだなあと思うと、色の流行というか、時代によって好まれる色は確かに変わるものなんだなあ思っていた。

そんな日の夜またまた着物の色について思うことがあった。

あるテレビ局で、着物好きのドイツ人女性との対談番組があり、その中で、このドイツ人女性の好きな着物を紹介していたが、それらの着物の色はとてもカラフルなものだった。

その時司会者の女性が、このドイツ人女性は外国人でしっかりした顔立ちだからこそ、このような個性的で大胆な色・柄の着物が着こなせるのではないかと言った。

彼女が紹介したお気に入りの着物は、おそらく一度も袖に手を通されたことのないものらしいが、”古着”だという。ということは、日本人が着るためにかつて作られた着物のはず。私自身、何十年か前に当たり前によく見かけた色柄の着物だった。決して平坦な顔立ちの多い日本人の中にあって、一部の濃い顔立ちの日本人のために作られた特別な着物ではないのだ。

それではなぜ、この司会者が感じたように、このような色の着物は、外国の人なら着られるが、現代の日本人には着られないというのだろうか?

私はその原因を考えるに、”流行”だからと一言で済まされない気がする。その時代時代の日本人の言わば”元気度”と大いに関係があるように思えてならない。

戦後、日本人の生活は貧しかったが、敗戦の中から立ち上がろうと人々は働きに働いた。やがて迎える高度経済成長の時代においても、エネルギーに溢れていた。元気だったからこそ、着るものの色や柄に負けることがなかった。

一方、現代の日本人は物質的には豊かになったが、精神的に相当疲れているのではないだろうか。例えば疲れている時に、大きな声でしゃべりかけられたりすると鬱陶しく感じるように、疲れている時に、力のある色、エネルギーのある色柄の衣服を着るのは余計に疲れる。だから、あまり主張しない色柄のものを着るようになったのではないだろうか。最近、この傾向は着るものだけにとどまらない気がする。クルマ、インテリア、家電はもちろん、webページまでも、白やグレー系統が圧倒的に多くなったと感じる。

もしも、そのようなことが原因としてあるのなら、そんな精神の疲れた”元気度”の下がった時代にあっても、外国人ではなく日本人で、あざやかで大胆な色柄の着物を着れる人、強くて元気な女性が出てきてくれることを望みたい。子育てに忙しい運送屋さんの彼女が、鮮やかな色の大胆な柄の着物を楽しんで着ている姿を見たいものだと思う。