明治10(1877)年8月中旬ごろ、西南戦争のお話。
はいはい、続いてます。
政府軍に囲まれた薩軍は絶体絶命。
とりあえず8月16日に軍を解散して、そっからどうする?と。
すったもんだの挙句、長井村(薩軍本営があった)から可愛嶽を攀じ登って三田井(高千穂)に抜けよう、それから考えよう、と。
いやー簡単に言うけどね!(笑)
『薩南血涙史』によると「断崖絶壁樵夫と雖も未だ至らざる処」らしいです。
書籍に載っている写真を見ても、遠くからのショットだったり、岩はごろごろしているようなものは見かけるのですが、実際の所よく分からない…
ググると、現在ではファミリー登山とかで利用する山のようで、割と写真もUPされている。
しかし明治10年の事ですし(134年前)、登山道なんかもなかったと思われます。
それに幾つかの登山レポを見ていると、断崖絶壁という言葉がちらほら…多分そういう所を登って行ったのかと思われます。
登攀した場所が違っていたのではないかと思うんですが、どうなんだろう。
んんんー…
というか九州で宮崎だけはまだ行った事がないんだ、私。行っていたらこんな感じでした、と書けるのですが。
なんつーか、宮崎はもの凄く行き辛い。
交通の手段(と交通費)がね。 (そこか)
いや本当は一度行っておきたいんです。
本陣が置かれていた辺りには薩軍に関する資料館もありますし、都城は財部彪(都城出身)の関連で。
まあ、豊後竹田(※広瀬武夫の出身地である…)でさえ行き辛いと感じる私ですので。はははh orz
明日三内丸山遺跡見に行く(※青森)とか原敬記念館に行く(※岩手)とかいきなり言いだして周囲を驚かせるんですが、交通の便がわるいとちょっとためらう。
軍を解散して人数が激減した薩軍。
それが前軍、中軍、後軍の3隊に分かれて行軍します。8月17日の夜のこと。
前軍 指揮官 辺見十郎太、河野主一郎
中軍 指揮官 桐野利秋、村田新八 (西郷隆盛もここ)
後軍 指揮官 中島健彦、貴島清
辺見と河野はこういう時は滅茶苦茶頼りになりますな…。
ばりばり体育会系。でも目端が利くというか、実戦に投入された時には機を見るに敏なんだと思います。
要するにカンがいい。
そして、一番大変なのがやはりこの前軍でした。
そして道がないので斧や鎌を振るって後続部隊のために木を払い草を払い、道を切り開きながら前に進んでいく。
これが随分大変だった。
私語、煙草、発砲厳禁。そして後続が分かるように枝には白い布を括りつけながら暗夜の中を、断崖を這うようにして登攀する。
西郷隆盛が、
「まるで夜這いみたいだ」
と言って周囲を笑わせたのはこの時の話。
他にも幾らか出来事があるのですがそれをすっ飛ばして(…)、可愛嶽の頂上に着いたのが払暁になります。
が ん ば っ た 。
『血涙史』によると、はぐれて捕まったり腹を切ったり、この突囲を知らずにいて参加できなかったり、そういう人が続出。
脱落せずに残ったのが大体5~600名程。
頂上から見下ろせば、眼下に政府軍が布陣しているのが見えた。
一部平地になっているところがあり、そこに政府軍の第1旅団(野津鎮雄)と第2旅団(三好重臣)が駐留していたんです。
よし、襲うか(笑顔)
8月18日午前4時半、イギリス式ラッパと1発の銃声を合図に、薩軍4~500人が一斉に政府軍に切り込んだ。
実はこの8月18日の朝というのは、ALL-OUT ATTACK! 政府軍の総攻撃の日だったんです。
もー今日で戦は終わる。今日終わったらお家帰れる。
数万で1000に満たない人数を囲んでいるのだから、大したことにはならないという楽観は、少なからずあったと思います。
しかもこの2個旅団が置かれていたのは、流石にこちらには逃げて来ないだろうと思われていた可愛嶽ですから…
要するに油断しまくっていたかと。
いやー歩哨が立っていたとしても、流石に時間が時間ですし、薩軍も相当息を殺していたようですから、本当に気がついていなかったのではなかろうか。
政府軍と言えばこの思いがけぬ急襲に恐慌状態に陥った。
薩軍が2隊に分かれ1隊が2個旅団の分断して逃げ道を防ぐ傍ら、もう1隊が本営を襲った。
袋のねずみにして襲うつもりが、袋のねずみにされて自分達が襲われてしまった…orz
人数を見ると、この2個旅団、(数の通りなら)12700人程いるんです。わーお!
ここにいた人数は、実際にはもっと少なかったんではないだろうかと思いますが、周章狼狽為す所を知らず、という感じであったらしい。
野津少将と三好少将について言えば、護衛兵も少なく、どうする事もできずにすぐに逃げた。
あのね、部下戦ってるんですよ。指揮官がいなくなったのも知らないで。
死傷者、行方不明者が150名近く出ています。
これは…後々、この両者は酷く恥ずかしい思いをしたのではないでしょうかね…
食糧や銃、弾薬、大砲等も奪われていますし、敵前逃亡の軍法会議ものではなかろーか。
まだ続くよ!
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やっと帰れる~
故郷と戦わなくてすむ~
ところで、西南戦争の後に、薩摩に帰らなかった人って、何人かいますが、西郷どん弟、大山元帥(多分)以外にいますか?
野津兄弟と言えば戊辰戦争の口火を切ったりしてますのにね。さ、薩摩隼人…orz
それだけ思いの外の急襲だったのかと。
調べた事がないので分かりませんが、この戦争に参加したそこそこの階級の人は、殆ど帰れなかったのではないでしょうか?
強硬→恐慌
でございます。すいません。
史実かどうかを調べたことはありませんが、ドラマなどでは、西郷従道が、結構ひどい目に遭ってますね。
開戦前に、西郷隆盛に会いにいったら、薩摩の人に罵声を浴びたり、大山巌に『おいたちは、もう薩摩には帰れん』と呟いたりとか。
鹿児島の人に聞くと、未だに大久保は汚いとかいうご年配の方がいるのがびっくりでした。
あーそれは日テレのやつですね。
まあ、あれはドラマですので。ただ気軽に帰れるような気分では無かった事は確かでしょう。
鹿児島での大久保の扱いは…
でも今では随分マシになってるみたいですし、旅行者でも以前と比べるとマシ?と思う位にはなってます。