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スカッtoうお〜きんぐ

ホンダコレクション⑥ 歩み〈再生編〉



1964年10月1日 新幹線開通。

10月10日 東京オリンピック開幕。

終戦から約20年。
日本は、『高度経済成長期』を迎え、
経済的発展を遂げた。

新しく生まれた『中流階級』の人々。
彼らが求めたものは、
新•三種の神器(3C)と呼ばれた。
COLOR TV(カラーテレビ)
COOLER   (クーラー)
そして
CAR(車)だ。


1961年夏、
東京 霞ヶ関、通産省。
『ふざけるな』
本田の怒号が部屋中に響いた。

官僚たちは、
オートバイの巨人を睨み返す。
『今のまま、国内で潰し合っていては、
 ヨーロッパやアメリカの
 巨大企業に対抗出来ません。』

国内では、
トヨタ(コロナ)と
日産(ブルーバード)が、
激しくハケンを争っていた。

通産省は、
来たる輸入規制解除に向けて、
自動車メーカーを統合しようと考えていた。

『だからと言って、
 新規参入を認めないとは、
 どうかしてるだろ!』
『これ以上増えてもらっては、
 困るのです。』
『お前たちに、俺の会社を
 指図する権利はない!』

ホンダは、2輪の成功を受けて、
秘密裏に、自動車開発をしていた。
そこへ政府から横槍が入ったのだ。
もし、
政府の法律が成立したら、
ホンダは、自動車業界に参入出来なくなる。
永久に…

時間との戦いとなった。


1962年10月
全日本自動車ショー
ホンダ初の4輪、『S360』発表↓






本田は、スピードにこだわる、
『小型スポーツカー』。
藤沢は、大衆用乗用車を求める、
『通勤用2シーター』
として、紹介された。
車のコンセプトが、はっきりせず、
市販される事はなかった…

1964年
トヨタ(コロナ)が、
日産(ブルーバード)の売り上げに
追いつく。
翌65年には、トップになった。
政府は、両者の合併を諦めた。

ホンダは、後継車『S500』を発売。
だが、
売り上げは、壊滅的だった…
(偶然、500台だったらしい)








発展型S800(エスハチ)
海外で人気。
モナコ公国のグレース王妃が
愛車にしたほど。




1967年
ホンダは、5年間追い求めた
ヒット商品を生んだ。
N360↓

Nは、『乗り物』のN。
量産型の軽自動車。
競合車より、室内が広く、
パワフル。
値段も安い。
愛称、『Nコロ』。




だが、この頃、
国内売り上げのトップは、
『トヨタカローラ』
毎月、3万台も生産していた。

『次は、小型乗用車で、
 空冷エンジンだ。
 これで、トヨタに不意打ちを
 食らわせるんだ。』
本田は、意気込んだ。

『水冷』と『空冷』の違い
エンジンは、熱くなり過ぎると
熱ダレやオーバーヒートを起こす。

エンジンを人に例えたら、
『水冷』は、
プールに入って、熱を冷ます。
『空冷』は、
部屋の窓を開けて、
扇風機にあたって、熱を冷ます。

プールの方が、熱は下がるが、
施設がないとダメ。
簡単なのは、『空冷』。
しかし、風の当たっている所と、
当たらない所にムラが出る…

『水冷は、水でエンジンを冷やす。
 その水は、風で冷やす。
 なら、
 直接、エンジンを風で冷やした方が、
 効果的ではないか。』

確かに、理屈は通っている。


ホンダは、
1964年(国内だと、S500を売り出した頃)
世界最高峰のレース『F1』にも
参戦していた。

↑RA271 ホンダのF1初参戦マシン
 (RA270の発展型)

RA270
RACING AUTOMOBILE
270→最高速270㎞/hを出す意思表示

1960年型イギリス製F1マシン
クーパーT53クライマックスを
参考にして作られた試作車。






RA272
翌1965年には、
メキシコGPにて、初優勝を果たす。





RA273




RA300




RA301
事実上、第一期最後のF1マシン
ウイングが特徴的。



後継車『RA302』の悲劇
空冷マシンの最新作として、
何度かテストしたものの、
オーバーヒート、油漏れがひどく、
とてもレースでは使えない。
ホンダのF1チームは、
RA301をそのまま使うと、判断した。

ところが、
F1チームの意向を無視して、
本田は、
フランスGPに
スポット参戦のシュレッサーを
勝手にRA302に乗せてしまった。

決勝、SベンドでRA302は、
コントロールを失い、クラッシュ。
炎上…
シュレッサーは、帰らぬ人となった。

事故の原因が、
マシンなのか、
ドライバーのミスなのか、
結局分からなかった。

ところが、
本田は、空冷マシンを
全くあきらめない。
再び、マシンの設計に取り掛かった…

ここで、F1チームと本田の間に
亀裂が走った。
1968年を最後に
チームは、完全撤退をした。

監督の中村貞夫は、
撤退後、日本に戻らなかった。
本田が社長を辞任するまで…

後に3代目社長になる
久米是志(くめただし)も
出社拒否をした。
それでも、
本田は、あきらめない…

国内の空冷エンジン開発も
大苦戦していた。



1969年発売
ホンダ初の乗用車『1300』

空冷エンジンの為、
エンジン音がバタバタうるさい。
熱がこもる。
直線は速いが、うまく曲がらない。
(『直線番長』と呼ばれる。)
など、大不評だった…

《本田が、空冷エンジンに固執する事は、
 HONDAにとっては、マイナスだ…》

藤沢は、専務に伝えた。
『私は、
 副社長を退くつもりだ。
 その事を、本田さんに伝えて欲しい。』

藤沢の意向を聞いた
本田は、即答したと言う。
『二人一緒だよ。』

本田の暴走を止めたのは、
藤沢だった…



1972年、
アメリカ🇺🇸
第一次オイルショックが起こる頃。
世界で最も厳しい排ガス規制法、
『マスキー法』。

アメリカのビッグ3、トヨタも
基準をクリア出来ない。
しかし、
唯一クリアした会社があった。
新生HONDAだ。

空冷の失敗が、あったからこそ、
革新的な進歩があったと言われている。

CVCCエンジン。
車の名は、『シビック』


『ホンダイズム』の旗のもと、
『シビック』
『アコード』『プレリュード』…
新生HONDAの反撃が、ついに始まった。
                 (了)





いやー、申し訳ありません。
前後編くらいで考えていたのですが、
こんなボリュームになってしまって。

興味のない方には、
苦痛以外、何ものでもないですよね😫

ただ、ボクの今後の
ラインアップを考えると、
頭が痛くなります😔

なので、
『つまらない』と思われた方は、
遠慮なく、
途中で退出してください。

一つだけ、お願いがあります。
出来れば、ノーリアクションで
退出してください。

今回、ダメ出しされて、
かなり凹んでしまったので…
どうかよろしくお願い致します。


次回、F1カーなど気になったものだけ
紹介して終わりにしたいと
思います。(^-^;スミマセン…

ここまで読んで頂き、本当に感謝です。
ありがとうございました。

それでは、また。

 

































コメント一覧

sk_oyazi
ぴあ野さん
コメントありがとうございます。
とても励みになります。
本文にも書きましたが、
今後のラインアップで、
ちょっとというものは、
スルーしてください。
女性向きではないんですよね(^-^;
話しは、変わりますが、
藤沢さんって、
戦国時代なら、絶対軍師ですよね。
半兵衛さんクラスだと思いました。
魅力的な人です。
mkdiechi
おはようございます、ぴあ野です。
そんなことないですよ!
そうだったの!?と興味深く拝読していますよ!

免許をとって初めての愛車は、知人のお古ボロボロのアコード、
就職して念願の新車はシティ。(ホンダ、ホンダ、ホンダ♫)
結婚してシビック。
夫はFXGTから乗換でブ~ブ~だったけれど。
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