第七節【皇室の危機 第二章最終回】
【目次】
下記参照
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【引用画像 詳細】(書籍に記載された内容ですが、一部補足した部分があります)
[0] $$:$$ オープニング
[1] $$:$$ 東久邇成子夫人と5名のお子さまたち
>次女優子さまがご誕生されて間もないときのスナップ写真ですが、お子様たちが皆、照宮さまに似ていて微笑ましいですね。
[2] $$:$$ 東久邇宮盛厚王殿下と照宮成子親王殿下の御結婚
>昭和16(1941)年5月5日に御婚約が内定し、御結婚は昭和18年10月13日、時節柄、御結婚後、*東久邇宮稔彦夫妻との昼食の時の服装は簡素で、盛厚王殿下は軍服、成子内親王殿下はローブモンタントで臨まれていました。
[3] $$:$$ 東久邇信彦氏 銀行支店長時代
>2019年3月20日、参議院財政金融委員会で大塚耕平議員が、東久邇家の家系について質問したとき、野村善史宮内庁審議官は「東久邇家の子孫については承知していない」と答弁したその日の早朝に、逝去されており、宮内庁が今上天皇(令和天皇)の「従兄弟」の存在を隠そうとしたことに対して、偶然とは思えない点の采配を感じるのです。東久邇信彦氏は、日本アマチュア野球協会名誉会長を務められておりました。逝去される1週間前には明仁天皇(平成天皇)は、信彦氏のお見舞いに駆けつけられていたことを報道され明らかですが、甥と叔父として親しくされていらっしゃったのです。小林よしのり氏は、東久邇信彦氏を含めた旧宮家の方々を「どこの馬の骨」と揶揄していましたが、国民が東久邇家の情報を知ったことで、小林氏の妄言に付き合う者は誰もいなくなるでしょう。
[4] $$:$$ 御参拝の内親王殿下
>「照宮、順宮内親王殿下には春雨煙る3月22日九段の靖国神社にお成り遊ばされ、玉串を奠ぜられて護国の英霊にお成り御拝礼遊ばされ、ついで国防館に成らせ給ひ種々御興味深く御巡覧遊ばされた。御写真は御参拝の両内親王殿下」。当時、両内親王殿下は天皇皇后両陛下から離れ*呉竹寮に住まわれ、土曜日に両陛下が呉竹寮を訪ねられ、内親王殿下は日曜日に御所に伺う生活をされていらっしゃいました。これが皇族としての自然な躾だったのですが、美智子皇太子妃が「ナルちゃん憲法」なる育児を実践され、現在に至っていますが、呉竹寮での自立した生活と「ナルちゃん憲法」のどちらが、皇族としての自覚が見に着くかは論を俟たないでしょう。現在、靖国神社に参拝されていらっしゃる皇族は、*三笠宮彬子女王と*瑶子女王が例祭に参拝されております。
[5] $$:$$ 皇后陛下護国の英霊に御拝
>「卑しくも皇后陛下には梅雨けふる6月26日午前靖国神社に行啓あらせられ、今春の臨時大祭に新たに合祀された1万389柱の新祭を始め、護国の英霊に御拝あらせられた」とあり、さぞ英霊も悦ばれたことでしょう。
[6] $$:$$ 東久邇宮成子妃
>この写真の1年前に綴られた成子内親王の「作文」と、佳子内親王の大学卒業に際してのメッセージはあまりにも落差があり、「ナルちゃん憲法」の弊害を危惧されていたことが、半世紀を過ぎて表出したようです。
[7] $$:$$ *Captionなし
>上皇上皇后が住まわれていた吹上御所は地下1階地上2階建て鉄筋コンクリート造り62室です。何故か吹上御所は空撮された写真ばかりで地上から写されたものはほとんど公にされておりませんでした。
[8] $$:$$ 菊栄親睦会
>昭和22年10月、GHQに11宮家が皇籍を剥奪されたとき、天皇陛下の意向で創設されたのが「菊栄親睦会」だったのです。昭和天皇は、皇籍剥奪に反対しても「泣く子も黙るGHQ」と怖れられていたマッカーサーGHQ総司令官に逆らうことなど、だれもできない絶対権力者だったのであり、マッカーサー憲法も皇籍剥奪もGHQの意のままに進めていました。現在、我が国は、主権回復してから60年以上経っているにもかかわらず、反日国会議員や反日マスコミは、いまだにGHQの意向に沿って、「旧宮家」の皇籍復帰をヒステリックに反対しています。
[9] $$:$$ 菊栄親睦会(其の二)
>旧宮家と現皇族は、分け隔てなく懇親なさっているのが一目瞭然ですが、小林よしのり氏は、これらの写真を見てもまだ「どこの馬の骨だ!」(「SAPIO」2010年6月9日号61頁)と揶揄するのでしょうか。皇室の伝統は、遺伝子だけでなく日常生活の中で躾けられている旧宮家の方々の中には、明治天皇のお孫さんの東久邇宮盛厚王殿下と昭和天皇の長女の照宮成子内親王殿下の間には、3名の男系男子が誕生されており、当然、その三方は今上天皇(令和天皇)の従兄弟になりますが、天皇の血はどちらが濃く受け継がれているのか、簡単な算数で理解できるでしょう。その三方の男子のお子さまが5名いらっしゃいますが、その5名の方たちは愛子内親王と悠仁親王の又従弟に当たります。そして、その5名の下の世代に4名の男子がすでに誕生されております。この東久邇家の男系男子は、昭和天皇も期待されていたように完璧な「防壁の『藩屏』」として、だれも反対できない素晴らしい血統なのです。
[10] $$:$$ 菊栄親睦会(其の三)
>2006年、悠仁親王が誕生され「皇室典範に関する有識者会議」の報告書を完全になきものにするため、私(筆者)は、愛国国会議員と秘密裏に「男系男子」を安定的に維持できる対策を考えていました。「養子を認める」とか「現王女と旧宮家の男性との結婚」など、ありとあらゆる方策を話し合っていましたが、そのときには東久邇家に愛子内親王と又従弟の男子が5名もいらっしゃることを把握しておりませんでした。実際、「皇室安泰家系図」をご覧いただけたら一目瞭然ですが、東久邇家が皇族のままであったなら、誰も「男系男子」の皇位が断絶することなど心配する必要がなかったのであり、そうであるなら東久邇家から2家族くらい皇籍復帰していただければ議論をする余地などなくなります。
[11] $$:$$ 菊栄親睦会(其の四)
>小林よしのり氏は、「旧宮家系の子孫男子も復帰できる者がいるならさっさと紹介して記者会見しろ!」(「SAPIO」2010年6月9日号)と息巻いています。このような下品で口汚い物言いに反応する良識ある日本人は誰もいらっしゃらないのであり、我が国は法治国家ですので、万が一のため、まず法律を整備し「2600年以上の伝統的行為の安定継承を維持するため、皇室会議において、旧宮家の男系男子の中から推薦することを可とする」との一文を特措法で法案化することを先に行う必要があります。小林よしのり氏のような下品な文言が飛び交うような状況で、国民が望む「やんごとなき人物」が自ら手を挙げるわけもなく、まず最優先でやることは「法律を整備」することなのです。
[12] $$:$$ 香淳皇后陛下の古稀を祝う会
>この会もご覧の通り菊栄親睦会の参加者をほとんど同じで、違うのは「会」の名称くらいです。過去に現役の皇后さまが「古稀」を迎えられた例はなく香淳皇后陛下が初めてだったとのことです。私(筆者)がホテルマンとして仕事をしていたとき、高松宮さまや三笠宮さまなどのプライベートのサービスを担当したり、旧宮家の方たちと現皇族の方たちの宴席のサービスも担当したこともありますが、皆さま方は同じように上品な方たちで、すぐに皇籍復帰なされても自然な方たちでした。口汚い物言いの小林よしのり氏は、現皇族の方や旧宮家の方と直接会話を交わされたことはないようですが、皇位継承問題を語る必要はありません。
[13] $$:$$ 香淳皇后陛下の古稀を祝う会(其の二)
>繰り返しますが皇位継承問題は、まず「法律の整備」を最優先にして、静謐な環境で話し合われれば、すんなり解決できるのであり、品性下劣なマスコミがおもしろおかしく囃し立てる筋合いのものではありません。1にも2にもまず「法律を整備」して、「防壁の『藩屏』」に相応しいお方を皇室会議で推薦できれば、それで終わります。まして今上天皇より「天皇の血を濃く受け継がれていらっしゃる男系男子」のお方がいらっしゃるのであり、その方たちに5名の男系男子がいらっしゃり、その下の世代にもすでに4名の男系男子が誕生されており、これらの重要な情報を封印していた宮内庁の罪は万死に値します。
[14] $$:$$ 香淳皇后陛下の古稀を祝う会(其の三)
>我々国民は、昭和天皇に改めて深甚の感謝を捧げなくてはいけないと思っております。それは戦争の時代、敗戦後の危機的状況を東久邇稔彦王殿下に首相を務めていただき乗り越えられ、GHQに皇籍剥奪された宮家を実質的に繋ぎとめる「菊栄親睦会」を創設されたことで、皇籍剥奪を実質的に骨抜きにして、戦前と同じように現皇族と旧皇族がなんら分け隔てなく存在できるようにされた「菊栄親睦会」は、崩御されても日本を護ってくださっていたのだと確信しております。皇統に危機が訪れたときには、「菊栄親睦会」から皇位を繋げるようにされた昭和天皇の「遺言」として、「皇統の繁栄」を望まれたのが「菊栄親睦会」だったのです。
[15] $$:$$ 昭和天皇皇后両陛下の御家族
>この写真は照宮成子内親王殿下 (左端)16歳の誕生日の翌日の写真ですが、奇しくもこの翌日が、日米開戦の日ですので緊迫したときの貴重な1枚です。照宮さまの隣が明仁上皇 (平成天皇)陛下。
[16] $$:$$ 昭和天皇皇后両陛下と照宮成子内親王、孝宮和子内親王
>皇室のしきたりでは、学齢期の天皇のお子さまは呉竹寮で生活することになり、親子が対面できるのは週2回だけでした。親子が水いらずを楽しめたのは夏の休暇のときだけだったのです。この写真は、葉山御用邸での1枚。左から昭和天皇、照宮成子内親王、孝宮和子内親王、香淳皇后。
[17] $$:$$ ご旅行先の久邇宮良子女王殿下:信州野尻湖琵琶島にて
>この写真は御成婚直前の1枚です。
[18] $$:$$ シリーズ『皇室の危機』エンドロール
【参考書籍】
・水間政憲, ひと目でわかる 皇室の危機 天皇家を救う秘中の秘, ビジネス社, 東京, 2019
[1]同上, p35, 昭和30年頃の1枚
[2]同上, p41, 昭和18 (1943)年10月13日
[3]同上, p72
[4]同上, p92, アサヒグラフ, 昭和19 (1944)年4月5日号
[5]同上, p93, アサヒグラフ, 昭和19 (1944)年7月5日号
[6]同上, p96, 昭和18年新婚時代
[7]同上, p97
[8]同上, p107, 昭和47年5月28日 宮内庁講堂
[9]同上, p108, 昭和47年5月28日 宮内庁講堂
[10]同上, p109, 昭和47年5月28日 宮内庁講堂
[11]同上, p110, 昭和47年5月28日 宮内庁講堂
[12]同上, p111, 昭和48年3月9日 宮殿「連翠」
[13]同上, p112, 昭和48年3月9日 宮殿「連翠」
[14]同上, p113, 昭和48年3月9日 宮殿「連翠」
[15]同上, p122, 昭和16 (1941)年12月7日撮影
[16]同上, p123
[17]同上, p124, アサヒグラフ, 大正13 (1924)年1月23日号
【BGM提供】
・動画内に記載
【説明文 ルビ補足】
[2] 東久邇稔彦=ひがしくにのみやなるひこ
[4] 呉竹寮=くれたけりょう、三笠宮琳子=みかさのみやあきこ、瑶子=ようこ